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2025.04.28
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カテゴリ: 報徳の歌
「報徳の歌ー二宮尊徳道歌から学ぶー」小関栄著 Image百人一首についての道歌的解釈 (155頁)

9 終わりに

仮の身を 元の主に貸し渡し 民安かれと願ふこの身ぞ

「仮の身」とは客観的な表現をしていますが自分のことを言っています。
この世を仮の世という仏教からの言い方で、自分の人生は短く仮の世に生きている存在で、これは仮の姿と考えたのです。

「元の主」とは「父母の根元は天智の霊命にあり」と「報徳訓」にあるように、すべての根元は天にあり、その天に我が身を任せる「貸し渡す」といったのです。

 この我が身は「民が安らかになるために働くこと」を願いながら身をもって努めるといっているのです。

 この歌は尊徳が小田原侯の命令を受けて、桜町の復興に臨んだ時に自分の決意をあらわした歌です。


 民やすかれと 願ふこの身ぞ


(「解説 二宮先生道歌選」佐々井信太郎著より抜粋)
○この歌は、二宮先生が桜町の仕法に全力を注がれていた時の気分を詠まれたものであって、
「仮の身」というのは、この世を仮の世といった仏教思想から来ている。
次の「貸し渡し」と対応する意味で「借の身」すなわち天地人の三才(3つの働き)から借りた身と解釈してもよい。

二宮先生は、「父母の根元は天地の令命に在り」と報徳訓の第一句に書かれている。
また天地をもって父母の根元、すなわち元の父母といった歌

「貸し渡し」は、わが身をわが意で働かないで、元のあるじの意で働くように自他を振り替えて、さてこの身は、民の安らかになるためにのみ働かせる。
すなわち自己のためにと全力を尽くして来たのを、他のため、国民のため、社会のため、すべてを他のためにと全力をささげるというのである。

 このような心構えで生きることは、二宮先生が父母を失って何一つも無い時に、積小為大の法則を知ってから、一家を独立したその頃、大久保忠真候の命によって桜町の仕法に従事することになった。
そのとき、35歳の二宮先生は、再興した自分の一身や家の一切を桜町復興に振り替える決心をしたのであった。
 この自他振替は、その後の実践を通じて、さらに広く深くなり、全推譲の実践となった。
 そして天保の大飢饉のときには、数万の飢えた人々を餓死から救うとともに、生涯を通じて無気力、自堕落な生活から、心の田を耕す、すなわち勤労と推譲の生活へと多くの人を導いたのである。
 二宮先生が一農夫から神に祀られるようになったゆえんである。

二宮翁夜話巻之一

一〇 翁曰、 親の子における、農の田畑に於る、我道に同じ、 親の子を育(ソダツ)る無頼(ブライ)となるといへども、養育料を如何せん、農の田を作る、凶歳なれば、肥代(コヤシダイ)も仕付料も皆損なり、夫(それ)此道を行はんと欲する者は此理を弁(ワキマ)ふべし、吾始(ハジメ)て、小田原より下野(シモツケ)の物井の陣屋に至る、己が家を潰して、四千石の興復一途(いちず)に身を委(ユダ)ねたり、是則(これすなわち)此道理に基けるなり、 夫(それ)釈(シヤク)氏は、生者必滅(セウシヤヒツメツ)の理を悟り、 此理を拡充して自ら家を捨(ステ)、妻子を捨て、今日の如き道を弘めたり、只此一理を悟るのみ、夫(それ) 人、生れ出(いで)たる以上は死する事のあるは必定(ひつじょう)なり 、長生といへども、百年を越(コユ)るは稀なり、限りのしれたる事なり、 夭(ワカジニ)と云(いう)も寿(ナガイキ)と云(いう)も、 実は毛弗の論なり、譬(タトヘ)ば蝋燭に大中小あるに同じ、 大蝋といへども、火の付(つき)たる以上は四時間か五時間なるべし、 然れば 人と生れ出(いで)たるうへは、必(かならズ)死する物と覚悟する時は、一日活(イキ)れば則(すなわち)一日の儲(マフケ)、一年活(イキ)れば一年の益也、故に本来我身もなき物、我家もなき物と覚悟すれば跡は百事百般皆儲なり 、予が歌に「 かりの身を元のあるじに貸渡し民安かれと願ふ此身ぞ 」、 夫(それ)此世は、 我(われ)人(ひと)ともに僅(ハツカ)の間の仮の世なれば、 此身は、かりの身なる事明らかなり、 元のあるじとは天を云(いう)、このかりの身を我身と思はず、生涯一途(ヅ)に世のため人のためのみを思ひ、 国のため天下の爲に益ある事のみを勤め、一人たりとも一家たりとも一村たりとも、困窮を免(マヌカ)れ富有になり、土地開け道(ミチ)橋(ハシ)整ひ安穏に渡世の出来るやうにと、夫(それ)のみを日々の勤とし、朝夕願ひ祈りて、おこたらざる我(わが)此身である、といふ心にてよめる也、
是(コレ)我(ワレ)畢生(ヒツセイ)の覚悟なり、我道(ワガミチ)を行はんと思ふ者はしらずんばあるべからず

(現代語訳)
一〇 尊徳先生は言われた
「 親の子における、農の田畑における、これは我が道と同じである。
親が子を育てるに無頼であるからといって、養育料を請求することがあろうか。
農民が田を作る、凶歳となれば、肥料代も仕付料も皆損となる。
この報徳の道を行おうと欲する者はこの道理をわきまえるべきである。
私がはじめて、小田原から栃木の物井の陣屋に至ったとき、
自分の家を潰して、4千石の復興に一途に身をゆだねたのだ。
これはすなわちこの道理に基いたのである。
お釈迦さまが、生者必滅の理を悟って、この理を拡充して自ら家を捨て、妻子を捨て、今日のような道を弘めたのも、ただこの一理を悟ったのだ。
人は、生れ出た以上は必ず死ぬという事がある、長生きしたといっても、百年を越えるのは稀である、限りのしれた事である。
若死にというのも長生きというのも、 実は毛ばかりの差に過ぎない。
たとえばロウソクに大中小があるのと同じだ。
大きなロウソクといっても、火の付いた以上は4時間か5時間であろう、
そうであれば人と生れ出た以上は、必ず死ぬ物と覚悟する時は、一日生きれば一日の儲けである。
一年生きれば一年の利益である。
故に本来わが身もない物、我が家もない物と覚悟するときは、あとは百事百般皆儲けである。
私の歌に
かりの身を 元のあるじに 貸渡し 民安かれと 願ふ此身ぞ 」と詠んだ。
この世は、 我も人もともに僅かな間の仮の世であるから、この身は、仮の身である事は明らかである、
元のあるじとは天をいう。
このかりの身を我が身と思わず、生涯一途に世のため人のためのみを思って、 国のため天下のために益のある事のみを勤めて、一人だけでも一家だけでも一村だけでも、困窮を免れて富裕になり、土地が開け、道や橋を整え、安穏に渡世ができるようにと、それのみを日々の勤めとし、朝夕願い祈って、怠らないわが身である、という心にて詠んだものである。
これは我が畢生の覚悟である、
我が道を行おうと思う者は知らなくてはならない。





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最終更新日  2025.04.28 12:00:15


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