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2025.07.26
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カテゴリ: 鈴木藤三郎
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 藤三郎は安政2年(1855年)11月18日に遠江国森―今日の静岡県周智郡森町に生まれた。父は太田文四郎(通称平助)で、母はちえといった。二男二女があった末子で、幼名を才助とよばれた。生家の家業は、古着商であった。

日本の封建制度という大樹は、徳川幕府の鎖国政策という肥料によって久しく繁茂を続けていたが、樹齢が700年にもなって、その根もとが全く腐蝕してしまっていたところへ、こんなぐあいに開国すると同時に、発達しきった欧米の資本主義という大風が吹いて来たので、ひとたまりもなく地響きを立てて倒れてしまった。そして、その跡に、明治維新の光を浴びて新興日本資本主義の若芽が、青々と萌え出したのであった。
このようにして発生したわが国の資本主義は、明治27年(1894年)の日清戦争から産業革命期に入って、その10年後の日露戦争の大勝によって飛躍的発展を遂げた結果、大正期の第一次世界大戦(1914-1918)を頂点として、大体の完成を見た。そして、社会主義興起時代にはいったのである。
それであるから、ペリー渡来の直後である安政2年(1859年)に生まれて、世界大戦の直前である大正2年(1913年)に没するまで、産業界の開拓者として終始した藤三郎の一生は、わが国の資本主義とともに誕生して、58年の生涯を、これとともに成長し流転し、またともに逝(い)ったものであるといっても過言ではないのであろう。日本資本主義発展過程の生きたモデルとしての鈴木藤三郎―わが国の産業革命の体現者としての鈴木藤三郎!著者(鈴木五郎)が今、彼の一生を跡づけようとするに当たっても、このサーチ・ライトによって照らし出したいと念願している。この光に照らし出された彼の人生行路の姿は、単に一個人の伝記というよりも、より深い意義があろうと信ずるからである。
それはともかく、藤三郎は、このように開国の気運が大波のようにわが国に襲いかかっているさ中に、うぶ声をあげたのであった。けれども当時は、この国内の大動揺が波及するにはあまりにも草深い遠州秋葉街道の一宿場、森の小商人の小せがれに過ぎなかったから、夏は前の太田川で水を浴びたり、秋は後の庵山(あんやま)へ栗拾いに行ったりして、事もなく幼い日を過ごした。そして藤三郎が3歳4ヶ月の安政6年(1859年)3月5日に、同じ森町中町の鈴木伊三郎(妻やす)の跡継ぎとしてもらわれた。養家も、生家と同じように貧しい菓子屋であった。
藤三郎は6歳になると、寺子屋へあげられた。まだ小学校というものはなく、お寺で坊さんが、読み書きソロバンだけを教えていた。彼は、その頃から、また随分強情な子供であった。思い立ったことは、どこまでもやり遂げるというその強情さは、近所、隣でも評判なくらいだった。こんなこともあった。
ある時、藤三郎は養母からいいつけられて、紺屋(こうや)へ使いに行った。「紺屋」とは今の染物屋のことで、したがって天候に支配される場合が多く、とかく、約束の期日におくれがちなので、当てにならない約束のことを「紺屋の明後日(あさって)」と、諺にもいった位である。この時も、頼んだ物はまだできていないで、ことわざ通り「明後日(あさって)いらっしゃい」といわれた。それで翌々日、また行った。ところがまだできていず、また「明後日いらっしゃい」だった。そこで、怒った少年の藤三郎は、
「もう、そんなにたびたびお母さんに『まだできていません、まだできていません』という訳にはゆきません。できていなければ、できるまで、ここで待たしてもらいます。」
 と、入口の縁台にすわりこんで、日が暮れても、どんなになだめすかしても帰ろうとしない。これには、さすがの紺屋のおやじさんも閉口して、おかみさんを養母の処へあやまりにやって、訳を話して、養母から帰るようにという使いをよこしてもらったので、ようやく彼も帰ったという話もあるくらいである。
 藤三郎は、このように強情でも、学問することは好きでもありできも良くて、お師匠さまからも可愛がられていた。しかし、生家と同じく養家も貧しい棒飴菓子商であったから、寺子屋は11歳になったばかりの慶応2年の暮れでおろされて、翌3年(1867年)の初春から家業を手伝わされることになった。世の中は、桜田門外での井伊大老の暗殺から七卿落ち、再度の長州征伐を経て、この年の10月に徳川幕府から朝廷に大政が奉還されるに至って、封建時代の帳(とばり)の裂け目から日本資本主義の黎明の光が射し始めた。けれども、まだ一介の鼻たらし小僧にすぎない藤三郎は、朝早くから叱られ叱られ餡(あん)を煮たり飴を練ったりして、できればそれをかついで、秋葉山のほうまで山坂四十八瀬を越えて売りに行くのが日課であった。





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最終更新日  2025.07.26 23:35:37


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