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「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 77~79ページ
藤三郎の事業は、一昨(明治19)年から順風に帆をあげたような進展をして、毎年1万円に達する利益を上げるに至った。しかし、近く東京に工場を移転して、精製糖業に従事しようという希望を持っていたから、いたずらに事業に固定させないで、その時期の一日も早く来るようにと、全員それを目がけて働いていた。また、気づかわれた彼の健康も、昨年からの冷水摩擦や冷水浴で見違えるように回復してきた。この夏ごろには、東京移転のあらゆる条件は整ってきたので、彼は勢いこんで、その準備を始めていた。
明治9年(1876年)に15歳で嫁いで来てから13年間、藤三郎が氷砂糖製法発明の生みの悩みの時代を、養父母と夫との間に立って苦労のありったけを尽くしたあげくに、ようやく前途に光明もハッキリと見えて、さァ、これからというときに、寒椿の花が春風に吹かれてホロリと散るように、嘉一郎、次郎、みつの幼い三人の子を地上に残したまま急逝したのであるから、「おかんさんは、苦労をしに生まれて来たようなものだった。」と、お通夜の席で身内の女達が泣いたというが、全くそうに違いなかった。
藤三郎も、いまさらにともに過した十余年の辛苦を顧み、あとに残された三人の幼児の前途を思えば、涙を新たにせずにはいられなかった。しかし、いつまでも涙に浸っている訳にはいかない。事業は今、飛躍の一頂点に達して、一刻のすきもなく彼の活動を待っている。よしっ、精製糖の事業を完成して、わが国の産業の発達に貢献することで、養父にも妻にも、菩提を弔う手向けとしよう!彼は、そう覚悟をきめて、葬式を済ますなり、また東京移転の計画に没頭した。
この明治21年(1888年)という年は、藤三郎にとっては、吉凶並び来たった年であった。4月に養父を失い、9月に妻の急逝にあった反面に、5月には冷水浴を始めて健康の基礎を確立し、10月には多年待望の東京移転の第一歩を踏み出したのである。あらゆる意味で、この年は、彼の郷里生活の大清算期であった。
亡き妻の忌明(きめい;49日)の法要を10月24日に済ますとすぐに、藤三郎は東京で精製糖事業を開始するために、吉川の弟の安間熊重夫妻を伴って上京した。3人の幼児は養母に、氷砂糖工場は吉川をはじめ工場員に託して、土もよく乾かない二つの墳墓と、思い出の多い故郷の山河をあとにして、悲しみの涙にぬれた心を、前途に燃えている大きな希望の火で乾かしながら、彼は元気に出発したのであった。
東京へ着くとすぐに、先年、数ヶ所を候補地として選んでおいた中から、再びよく調査考究した結果、工場移転地を南葛飾郡砂村(現江東区北砂町)と決定した。ここは小名木川の南岸であって、この小名木川は、隅田川と中川とに貫流しているので、今のように鉄道やトラックの便の全くなかった時代には、原料や製品の運搬に、この舟運が非常に役立った。それであるから、その後20年程の間に、この小名木川の両岸には大小の工場が建ち連らなって、全くの工場地帯となったのであるが、この時代は、まだ文字通り狐狸のすみかであった。ことに不思議なことは、この地は、村人から「阿波様の下屋敷」と呼ばれて、江戸時代には蜂須賀侯の下屋敷のあった所で、八代将軍吉宗が享保12年(1727年)に琉球から取り寄せた甘蔗の苗を、浜や吹上のお庭で試作させたあとに、江戸近在では西の大師河原村と、東ではこの砂村新田へ初めて本式に栽培させたという、砂糖には深い因縁のある所であった。
藤三郎は、ここの土地数千坪の買収を終って、12月1日に地所内にある百姓家へ安間夫妻とともに引き移るとすぐに、その報告や今後の打合せなどのために、郷里へ帰った。森町では養母のやすが、老いの身で3人の幼児を養育するのに、一方ならない難儀をしていた。それを見かねて福川が、その縁続きである同町中町の質屋、比奈地久三郎の二女こと(慶応2年(1866年)8月13日生)を後妻に迎えるように勧めた。藤三郎も、その必要を認めたので、この恩人の言葉にありがたく従った。喪中のこととて式は内輪だけであげて、彼は、また、単独で上京した。
ことは極めて小柄で、身長は四尺六寸(1.4メートル)くらいであった。森町では祭礼をなかなか盛んにやって、その時は、町中を若い衆が勢いよく引き出す山車の上で、童女が手踊りをやった。幼い頃のことも、若い衆におぶって連れて行かれては、そこで踊らされた。色白で目鼻立ちのパッチリとした小柄のことが、高い山車の上で踊る姿は、まるで生きた人形のようだとはやされた。そして、質屋の箱入り娘に成長して、町の教員と結婚した。だが、間もなく夫が病没したので、生家へ帰っていた。それで、ことも再婚だった。
ことは22歳で鈴木家の人となると、その日から嘉一郎(9歳)、次郎(5歳)、みつ(1歳)の三児の母とならなければならなかった。嘉一郎はきわめておとなしい子であったが、次郎はその反対に極端な腕白小僧で、しかも「泣き次郎さ」といわれた位の泣き虫であった。また、みつは癇の強い子で、どうしても負うか抱いて寝かしつけなければ眠らなかった。冬の寒い晩に、家人の眠りを妨げないために、ことは、泣きむつかるみつを負ぶって1時間も2時間も外を歩いたものだった。
補註 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 その… 2025.11.18
補註 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 その… 2025.11.17
補註 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 その… 2025.11.16