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2025.09.01
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カテゴリ: 森 信三


○森先生は、教室に入られ、鼻紙が落ちているのを見かけると、黙ってひょいと拾われてごみ箱に捨てられた。そしてそのことについて何もおっしゃらなかったと生徒が書きとめている。また、森先生は紙くず拾いの名人だったという。この講義は普段の実践を語られたものだ。

「すべて物事には、基礎とか土台とかいうものが必要です。土台のしっかりしていない家は、平生何ともないように見えても、いざ地震となって一揺りくると、すぐに傾くのです。われわれ人間も、どうしても真実を積まねばならぬわけですが、事を積むにはまずその土台から築いてかからねばなりません。では人間を鍛えていく土台は、一体どういうものかというと、私はそれは「下座行」ではないかと思うのです。すなわち下座行を積んだ人でなければ、人間のほんとうの確かさの保証はできないと思うのです。いかに才知才能に優れていようと、どれほど人物の立派な人であっても、下座を行じた経験を持たないと、どこか保証しきれない危なっかしさの付きまとうのを、免れないように思うのです。
ではここで 「下座行」というのは、自分を人よりも一段と低い位置に身を置くことです。 しかもそれが 「行」と言われる以上、その地位に安んじて、わが身の修養に励むことを言うのです。 それによって、自分の傲慢心が打ち砕かれるわけです。すなわち、 身はその人の実力以下の地位にありながら、これに対して不平不満の色を人に示さず、まじめにその仕事に精励する態度を言うわけです。これを「下座を行ずる」といいます。 もちろん人によっては、自ら進んで下座の行を行ずる人もあって、たとえば一灯園などへ入って修行するがごときは、これに当たるわけです。しかし一般的には社会がその人を、その真価の通りに遇しない場合にも、何ら不平不満の色を示さないばかりか、それをもって、返って自分を磨き、自分を鍛えるための最適の場所と心得て、これを生かしていくという、いわば受動的消極的な場合が多いでしょう。たとえば世間にしばしばあるように、自分よりつまらない人間につかえて、何ら不安の色をみせないということなども、一種の下座行と言ってよいわけです。人間というものは、かような立場に身を置いてみて、初めて真に人間的鍛錬を受けることができるのです。
現在の諸君は真の下座行は、ちょっとできない境遇にあるでしょう。大方の諸君は恵まれすぎているのです。
しかし、 正式の下座行にはならなくても、常にこの点に心を用いて、たとえば下級生のすべき仕事の一つ二つを、人知れず継続するというようなことなどは、一つの工夫ではないかと思うのです。 とうぜん下級生のすべき仕事を、上級生たる諸君がしてみて、始めてそこに深い味わいが出てくるのです。あるいは 便所などで、人の粗相のあった場合など、人知れずこれを浄めておく とか、また教室の机の中の 鼻紙を、人知れず捨てるなどということを、自分の下座行としてやろうという決心をしますと、あの鼻汁でじくじくぬれているような鼻紙でも、かえってそこにしみじみとした身にしみるものがあるのです。
このように 人間というものは、平生、事のない場合においても、下座行として何か一つ二つは、持続的に心がけてすることがなければ、自分を真に鍛えていくことはできにくいものです。 たとえば掃除当番の場合などでも、友人たちが皆いい加減にして帰ってしまった後を、ただ一人居残って、その後始末をするというようなところに、人は初めて真に自己を鍛えることができるのです。それが他から課されたものではなく、自ら進んでこれをやる時、そこには言い知れぬ力が内に湧いてくるものです。そこでこうした心がけというものは、だれ一人見るものはなくても、それが 五年、十年と続けていくと、やがてその人の中にまごうことなき人間的な光が身につき出すのです。
世間の人々の多くは、世の中というものは当てにならないものだと申します。しかし 私は、世の中ほど正直なものはないと考えているのです。ほんとうの真実というものは、いつかは輝きだすものだと思うのです。 ただそれがいつ現れ出すか、三年、五年にして現れるか、それとも十年、二十年たって初めて輝き出すか、それとも生前において輝くか、ないしは死後に至って初めて輝くかの相違があるだけです。人間も自分の肉体が白骨と化し去った後、せめて多少でも生前の真実の余光の輝きだすことを念じるくらいでなければ、現在眼前の一言一行についても、真に自己を磨こうという気持ちにはなりにくいものかと思うのです。」


○坂村真民さんに「手のひらと足の裏」という詩がある。

 利他行に あけくれるひとの 手のひらの
 うつくしさよ きよさよ あたたかさよ
 下座行に あけくれるひとの 足の裏の
 こうごうしさよ ひかりよ ありがたさよ





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最終更新日  2025.09.01 06:03:07
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