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2025.11.19
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カテゴリ: 坐禅
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)

修証一如  その8

 宏智禅師の『坐禅箴』箴に「縁に対せずして照す」ということがある。これはいまから九百年も前に坐禅というものに非常に虫がついた。坐禅は悟りのためにやるのだから、悟らなければ何にもならぬというので、いろいろな概念理念をひねり、ああしてこうしてといろいろな話題を通過して、それで悟りを得たと思った人々が多く出てきた。その時に宏智禅師が「縁に対せずして照す」すなわち悠々限りなき宇宙いっぱいに照すもの、すなわち坐禅はただ坐禅するものだ、と教えられたのである。
 葛城の慈雲尊者が「天地長育して殺さず、万物与えて奪わず、四時代謝して其跡を見ず、日月下土を照覧して其功を誇らず」といっているが、それが宇宙を一眼に見た相である。時間空間という広大無辺の宇宙をひとつに見て、それを道徳にしたものが『十善法語』である。それで見たら個人の悟りなどは問題でない。「縁に対せずして照す」照らすばかりだ。お天道様は照すばかりである。何のためーではない。ただ照すばかりである。そのだ照すところにお天道様の偉大さがある。
 そこを行という。行というのは一方究尽ということである。一方究尽でただ照らすのだ。ただ坐るのだ。曹洞宗には只管打座という言葉があるが、そのただ坐るところに深い道理がある。ただ坐るところに、いわなくとも悟りはあるのだ。ただ坐るところに悟りはひっついている。それが一方究尽である。
 それを道元禅師が「不思量にして現ず」と言われた。ただ坐るところには、ボツボツ悟ろうとも何とも思わない。そこに仏法が現前する。ただ坐りさえすればそこに道がある。ただ坐るというだけではなく、人の世話をしてもただ世話する。「あれを世話すると、恩にきてくれるから世話する」とか、世話のし甲斐があるから面倒みるのではない。そんなこといわなくても、甲斐があってもなくても、ただ世話するのである。
 舎利弗が仏にご飯を献じた。すると仏は舎利弗が献じたご飯を犬に食わした。「舎利弗よ、お前はわしのご飯をくれたが、わしは犬に食わした。どちらが功徳が多いかや」といわれた。仏さんもひどいことをしたものだな、実際どうも仏さんのやることは皮肉である。皮肉で、しかもどぎつい。どっちが功徳が多いかといわれて、舎利弗はドキンとしたと思う。「そ、そ・・・それはあなたに献上したが、あなたは犬に食わされた、その方が功徳が多うございます」とブルブルしながら答えた。
『四十二章経』の中に布施の果報を説いて
「悪人百人に供養するよりは一人の善人に、千人の善人よりは一人の五戒を持する者に、五戒をもつ者万人よりは一人の須陀恒に・・・・・乃至百億辟支仏よりは一人の三世の諸仏に、千億の三世の諸仏に供養するよりは一人の無念無住無修無証の者に供養する方が功徳が多い」

 ここに一つの菓子箱がある。この菓子箱をあそこに贈ったら功徳が多かろう。あそこへ贈れば倍になって返ってくるなどと、いろいろ考え迷っているのでは功徳がない。そうして自分のところでだした菓子箱が、転々しているうちにカビが生えて。また戻ってきたという話がある。
 ひとつの菓子箱をもらうと、それを十人ぐらいで評価する。この菓子箱な幾らだと思う。これは一円五十銭ぐらいだろう。いや八十銭ぐらいだよ、なに六十銭サ、中には二円ぐらいだというやつもいる。そこで十人の答えを寄せて十で割って、それに相当するだけの物を買うて返す。作麼生(そもさん)、功徳ありやまたなしや。
 さてここである。有漏か無漏か、虚か実か、仏法か鉄砲か、思量か非思量か畢竟いかん、とギューとやってみる。これが工夫ということですな。本を得て末を愁うることなかれ、この作麼生とやり、畢竟いかんとやる、ここが只管打座ということである。
(『禅談』p.237-239)





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最終更新日  2025.11.19 11:00:05


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