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昨晩からの雨も上がりかみさんと千種公園ユリ園に訪れる。 雨雲レーダーでは雨は降らないはずなのに途中から霧雨となりやむなく傘をさす。西には青空が見えているのだが・・・ まぁドピーカンより霧雨の中のユリもしっとりしていいものだ。公園北側 かみさんはユリを見る目的で公園を訪れたのは初めて、「正直一面咲いているかと・・・」確かにそうかも知れない、以前はこの入口や道路際にも植えられた頃もあったが多少減った感じはする。 とはいっても身近に10,000球とも言われるユリが見られるのは千種公園くらい。平日ですがユリを見に訪れ、写真を取られる方は多く見えました。園内南側からの眺め雨後の怪しい空模様の下鮮やかな色合いのユリが咲き誇っています。毎年楽しませてくれるユリ、今は黄色や赤系の花が勢いのある蕾を沢山つけ咲きだしています。雨の滴が花弁に残るしっとりした雰囲気、ほのかに甘い香りを漂わせています。身近にユリを楽しむことが出来る名所である事は間違いない。 この土日見頃を迎えるのでは?園内に残る戦争遺構。 名古屋空襲の痕跡がコンクリートの壁を突き抜けた幾つもの穴となり残されている。過去の事のように思うが、現実に今も繰り返されている。 ユリ園脇に置かれた思いにふける少女像の姿、何を思うのだろうさて、かみさんの最大のお楽しみ近くの小さなレストランのランチに行くか。2022/5/31千種公園ゆり園所在地 / 名古屋市千種区若水1丁目1アクセス / 市営地下鉄東山線「今池」下車、北へ徒歩15分程訪問日 / 2022/05/31
2022.05.31
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広島県尾道市東土堂町「千光寺」 艮神社社頭脇の千光寺ロープウェイ麓駅から大宝山の山頂駅まで3分の空中散歩。途中艮神社を上から眺めながら山頂駅を目指す、山頂から千光寺までは徒歩で参道を下っていく。ゴンドラから眼下の尾道の町と約200㍍対岸の向島、それを隔てる尾道水道が一望できる。 手前の森は艮神社の楠の杜。ゴンドラからは尾道水道に切れ落ちる急峻な山肌に建てられた舞台造りの千光寺本堂が良く見渡せる。 狭い参道が続く千光寺、本堂の全景が一番よく見渡せるのがゴンドラからの眺めかもしれません。玉の岩 これもゴンドラからの眺め。解説によれば千光寺に多くある巨岩の中では三番目の大きさを誇る岩。 宝珠岩又は烏帽子岩とも呼ばれると云う。昔、「岩上宝玉あり、遥かに海上を照らす故にこの名あり、尾道を古来玉の浦と云い、山を大宝山、寺を千光寺と云う、亦是によると云う」 月明りで照らされた宝玉は光り輝き、尾道水道を行き交う舟の山たて(道標)、灯台になったという事だろうか。玉の岩の頂には宝玉が取り付けられていた痕跡が今も残るという。 現在この頂きに付いている丸い宝玉は夜になれば内部照明で明るく輝くようだ。山頂駅を降りるとこのスロープに出られる、ここから眺める尾道の街並みと遥か先に続く尾道水道の眺めは絶景。 陽も傾きだしオレンジ色の陽差しとスロープの影のコントラストが印象に残る。千光寺へはここから文学の小道を下っていく事になります。 千光寺に続く山肌には多くの岩が点在し、それらに名の知れた文豪たちの名句が刻まれ、解説も置かれている。最初はそれを詠んで行くのだが数の多さに途中で折れてしまった。千光寺に続く(下る)参道には千光寺に導く看板が整備され迷う事はないと思います、ただしアスファルト等で整備されていないので履物は考えた方がいいかもしれない。 写真は千光寺に向かう途中の注連柱、奥には左から金丸明神、勝七大明神、勝義大明神、祐七大明神。更に下ると千光寺裏門の石標が現れ境内に至ります、参道は舗装路に変わり一段と狭くなります。 鏡岩。 裏参道から境内に入りすぐ右手の山肌に聳える巨岩。その最上部は岩肌を丸く平滑に削り取り鏡に見立て神が宿る崇敬対象として崇められている。上鏡岩の下にある守り本尊。下守り本尊の祀られている裏参道。 右手は客殿、太子堂、鐘楼の伽藍が連なるが、何れも断崖の上の僅かな平坦地に寄り添うように建てられ、建物の全景は捉えにくい。上太子堂。堂から右に進むと鐘楼があるが撮り忘れたようです。下太子堂前の壁のような巨岩が玉の岩、その下にお願い地蔵が祀られていた。 千光寺で感心したのは線香や蝋燭など購入時に電子決済(paypay)が利用できるが、境内は無数の地蔵が安置されているので大量の小銭が必要。上太子堂から少し進むと右手の岩肌に護摩堂が聳えている。・宝永七年(1710年)の建立とされる。・本尊の不動明王、東脇壇の地蔵菩薩は運慶作と伝わる。・300年ほど前までは当山城主杉原民部太夫元恒の守り本尊毘沙門天を安置する三重塔があったが落石により崩壊、護摩堂はその跡地に建てられたもの。本堂を筆頭に伽藍全体はいつ落石が起きてもおかしくない、そんな立地に建てられている。 それらの巨岩が何百年も安定していること自体が不思議なものを感じる。下護摩堂から玉の岩と太子堂。 玉の岩には「昔、この岩の上に宝珠あり、夜毎に異光を放ちて、遥かに海上を照らせし」と伝わる玉の岩伝説が残る。寺名の千光寺や山の名の大宝山はそこからきていると云い、風光明媚なこの地を玉の浦と呼ぶのも玉の岩伝説によるものらしい。上護摩堂から本堂全景。 後方にくさり山の巨岩群が迫っている。巨岩の下の僅かな空間に入母屋瓦葺の本堂が建てられ、外陣は舞台造りで岩壁に浮いた錯覚を覚える。下本堂側面、参道は外陣を通り抜け先に続く。千光寺略縁起。・大宝山権現院千光寺は標高140㍍、尾道港を一望する大宝山の中腹にあり、(大同元年・806年)弘法大師の開基で中興は多田満仲公と伝えられています。・本堂は貞享三年(1686年)の建立とされこの地方には珍しい舞台造り。・堂内に置かれた須弥壇は応永から永享(1394~1440年)頃の作で、和様に唐様を取り入れた様式で、ここに安置する本尊は聖徳太子作の千手観世音菩薩を祀る。・俗に火伏の観音とも云われ、多田満仲公の守り本尊。・西脇壇の阿弥陀如来も聖徳太子の作、脇侍の不動明王、毘沙門天は覚鑁作とされる。本堂外陣の山号額と外陣格子天井に描かれた天井絵。 近年山紫陽花など一部補修されたようで鮮やかさは歴然としている。額後方の壁をよく見ればそこにはこちらを睨む龍の姿がある。天井絵は内陣にも描かれているが流石にそこまでは許してもらえなかった。本堂外陣を過ぎると石の明神鳥居と目の前に三重岩と呼ばれる巨岩が現れる。 以前はここから先のくさり山は修験の場で参拝者は立ち入れなかったそうだ、現在は一般の立ち入りも許され参拝が出来る。巨岩が幾重にも積み重なり一つの岩山を築いている。 大正時代ここに石鎚蔵王権現が祀られ、大正15年に石鎚山に登る女鎖と男鎖が取り付けられたそうです。それも戦時中の供出でなくなり、後に女鎖のみ復元取り付けられ一般客の登攀が許されています。 男鎖は復元されていませんが、岩の下に祀られた石鎚大権現の社後方に男鎖跡として鎖場の後が残っています。右側巨岩をよく見ると熊野権現の神使とされる烏天狗が刻まれている。 岩の下の社は熊野大権現、石鎚大権現を祀る社がある。社の横を通り抜けた先の男鎖跡。 鎖場からくさり山にかけては手摺も整備され最低限の安全対策は施されていますが、ここは修業の場であり奉納料100円に保険料は含まれていません、一つ間違えば後悔する事になりそうです。上鎖場から見下ろす本堂と尾道市街。下瓦葺の入母屋の本堂を下で支える舞台造り。 外陣から下を見下ろすと体は自然に持っていかれる感覚になる。本堂の下に建つ三十三観音堂。・寛保3年(1743年)の建立。・西国観音霊場各札所の本尊三十三躰の観音菩薩を安置。ここから麓に向けどんどん下っていきます。途中で見かけた摩崖仏と解説。・山と一体化した千光寺の石造物を代表するもの。・一つの岩に阿弥陀三尊像が彫り込まれた摩崖仏で室町時代のもの。一番奥に千光寺阿弥陀三尊像。 写真から表情は伝わりにくいけれど肉眼では素朴な表情や輪郭が伝わってくる。平安の時代を生きた先人の思いは今も形となって残っている。(尾道市重要文化財)上毘沙門堂。・現在の建物は宝暦4年(1774年)に再建されたもの。・本尊は毘沙門天。・本尊の毘沙門天、脇侍の𠮷祥天、善膩師童子ともに仏師鞍作止利の作で、当山城主の杉原氏の守り本尊。・中国観音霊場十三番札所、備後西国観音霊場七番札所。下参道を下り注連柱付近から千光寺伽藍の眺め。注連柱から左方向に進み、目の前の多宝塔方向に向かう。上天寧寺三重塔 もともとは五重塔として1388年(嘉慶2)に建立されたと云い、1692年(元禄5)塔の上層部の劣化が進み三重塔に改築されたもの。一見すると下層と上層のバランスに違和感を感じるのはその為のようだ。(重要文化財) 塔と尾道の街並みを一望できる光景は尾道を代表する光景とも云われ、直下から見上げる姿よりこの光景が美しい。下直下から相輪、宝珠を見上げる。 水煙の装飾はシンプルなもので、落ち着いた佇まいの塔外観にマッチしているかもしれない。塔の手前で小道は二手に別れ左の猫の細道方向に下りて行きます。上福石猫神社。 白い陶器製の福猫があり、願をかけながら三回撫でると福がやってくるらしい。下猫の細道 一帯には多くの猫が住んでいるようで、猫の顔写真が貼られたマップを頼りにお気に入りの猫を訪ねるもの。住民や観光客からも可愛がられているため警戒心はなく、容易に触る事が出来る。 デフォルメされたマップですが千光寺から艮神社までのルートを黄色で示しておきます。この道を更に下ると艮神社の脇を通りロープウエイの麓駅に戻る事ができます。 山頂駅から麓駅まで参拝、観光込みで50分程で降りてきました。千光寺、巨岩ひしめく岩山に同化するように建てられた伽藍、赤い舞台造りの本堂や玉の岩など尾道の顔と云っても過言ではない歴史を持つ寺院でした。大宝山権現院千光寺山号 / 大宝山院号 / 権現院寺号 / 千光寺開基 / 806年(大同元年)本尊 / 千手観世音菩薩所在地 / 広島県尾道市東土堂町15-1参拝日 / 2022/04/19公共交通機関アクセス / JR山陽本線「尾道」降車👉千光寺ロープウェイまで徒歩20分程関連記事 / 「艮(うしとら)神社」、全国一ノ宮巡り 愛媛・広島
2022.05.31
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5月28日 買い物帰りに地下鉄名城線自由ヶ丘で降車、茶屋ヶ坂公園の紫陽花の咲き具合を見に寄り道。公園西側から見た紫陽花園はまだ〃葉の緑ばかり 一部に咲き始めた株も見られますが一面花で染まるにはまだ〃早いようです紫陽花は探せば写真に残せますが、今は園内に僅かに植えられたユリが綺麗に咲いていたので紫陽花より 千種公園のユリが綺麗に咲く頃かも知れません千種公園のユリが終わると茶屋ヶ坂公園の紫陽花は見頃を迎える関連記事 / 0605千種公園のユリ (いい感じです)と茶屋ヶ坂公園の紫陽花
2022.05.29
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岐阜県瑞浪市土岐町「耳ノ木神社」 一日市場八幡神社から下街道を10分程西に向け進む。途中の松阪町西交差点の津島社、御嶽神社の鳥居を過ぎ間もなくすると右手に常夜灯が見えてくる。「耳ノ木神社」社頭全景。 街道筋の民家の間に山の斜面に石段が続きその最上段に覆屋が建つ。常夜灯の寄進は明治の頃、四十とあるがその下がよく分からなかったが1900年代初期に寄進されたもの。境内右の石碑。 耳ノ木神社建立に伴い寄進された方々の名が刻まれている、表には寄進年度は見当たらなかった。碑の表面は時の経過により苔むし趣のある姿をしている。 後方に「一日市場区 耳ノ木神社」の看板が立てられている。社標も鳥居もない社頭、神社名を知る術は唯一「土岐地区まちづくり推進協議会」の地道な活動によるこの看板のみ。覆屋に続く石段。 訪れた当日は石段中央に朽ちた木が置かれていた、丸太鳥居の名残かも知れない。石段の右にも寄進者の名が刻まれた碑が立てられている。覆屋右の斜面に石の祠が祀られています。 「山神社」とある。祭神は大山津見神かと思われますが、いつ頃祀られたものかなどの詳細は不明。岐阜県神社庁で耳ノ木神社の由緒として以下のように記されていた。「常盤姫の哀話に因むお社耳ノ木神社という珍しい名前の神社ですが、それには次のような言い伝えがあります。 今から約700年程前、明智の豪族の娘、常盤姫がこの地を領していた土岐頼兼の妻となりました。或る時、姫の衣擦れの音をおならの音と聞き違えた家臣達から嘲笑を受け、それを苦にして川に身を投げてしまいました。 その時、杉の若木を切って杖にしていたのを川岸に突きさして置いたのですが、それが根づいたのを見て、人々は姫の潔白を知ったのです。そして自分たちの耳の誤りを深く恥じ、そこに耳木神社を建てたというのです。 祭神は高御産巣日之神(タカミムスビ)という古事記の最初に出てくる神。天文9年(1540)奉上葺耳木大明神の棟札があることからも古い由緒をもつ神社と云える」 高御産巣日之神は天地創世・天地開闢(かいびゃく)神話のなかで、天地のはじめに高天原に出現した造化三神で、天之御中主神(アメノミナカヌシ)の次に現れた第二の神で五穀豊穣、無病息災・延命長寿にご利益があるとされる神とされる。覆屋の中に祀られる檜皮葺きの流造の社は大きなものではないが、高欄や脇障子がつき、木鼻に獅子と象、向拝に龍の透かし彫り、脇障子に彫など施され手間をかけたもの。 訪れた時は雑草が茂り、奥に踏み込む気になれなかったが、往古の先人達や多くの寄進者の思いから祀られた神社、本殿や覆屋を見る限り今もその思いは受け継がれている。耳ノ木神社創建 / 天文9年(1540)の棟札が残る祭神 / 高御産巣日之神境内社 / 山神所在地 / 岐阜県瑞浪市土岐町476-1訪問日 / 2022/04/30徒歩アクセス / JR中央線「瑞浪」駅下車西に10分程、 一日市場八幡神社から西に津島神社👉御嶽神社経由徒歩約10分関連記事 / 一日市場(ひといちば)八幡神社
2022.05.28
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解体を一時中断していた江南市の久昌寺。継続的に維持管理する財政面のビジョンが描けず歴史的価値のあるとされる部材の単体保存で着地したようです。一時中断していた解体は25日から再開され、部材は江南市民俗資料館で保管・展示されるようです。やはりここまでの様です。中日新聞Web(5月26日 05時05分) / 江南・久昌寺、本格的な調査せず解体 古材のみ保管、展示へ関連記事 / 久昌寺 解体一時中断
2022.05.27
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5月24日~25日 長野県飯田市の元善光寺の御開帳を見にキャンプしがてら出かけてきました。今回は拠点とした妙琴公園キャンプ場について掲載します。まずは場所・長野県飯田市鼎切石5247-1車アクセス・中央自動車道「飯田」ICから県道15号線で駒ケ根飯田方向に北進、切石体育館前交差点を左折「さわやかロード」で10~15分とアクセスがいい。ロケーション・キャンプ場入口手前に中央新幹線の南アルプストンネル松川工区の入口がある。・笠松山東山麗にあたり清流松川の右岸沿いの小高い場所に作られた一面芝生の公園。・天竜川支流の松川のせせらぎが心地よく、樹々が生い茂っていない分明るく、空が広がり夜間は星空が広がる。写真は「さわやかロード」を松川沿いに北上したキャンプ場入口付近の光景。左が南アルプストンネル松川工区、手前に見える橋を越え看板の左を直進した道路脇がキャンプ場入口と駐車場。橋の左側にも駐車場がある。予約利用方法・小人数であれば予約(連絡)不要。飯田市管理課(電話0265-22-4511)・料金無料、通年営業。・サイトはエリア分けされていないので気に入った場所に設営。・キャンプサイトでの直火、花火厳禁、焚火台等で発生した炭は持ち帰り厳守。・ゴミ箱はないのでこれも持ち帰り厳守。・一切のショップはないので焚火台で使用する薪や炭は持参。入口の案内板。周辺にRVパークなどの施設もある。看板後方がキャンプ場で、オートキャンプ場ではないので道路沿いの駐車場から装備を運ぶ必要がある。上直進した道路沿いの駐車場と右がキャンプ場。下場内は赤松が残され、奥にトイレ、炊事棟、休憩スペースがあり、洗い場が一カ所用意されている。傾斜地を造成した広場で松川に向かって緩やかな勾配があり、松川沿いはフェンスで囲われているので子供たちが走り回るのに支障はないだろう。施設全景。管理棟はなく無料でありながら施設が充実していて、良識ある利用者の振舞いが問われる。左がトイレ、中央が休憩スペース、右が炊事棟。炊事場、場内の洗い場は水道水、各施設の御願いは守ろう。トイレ多目的トイレ、ベビーシートもあり無料とは思えない程綺麗に管理され、異臭もしなかった。夜間照明はセンサーで必要時に点灯する。休憩スペーステーブルと椅子が用意されているが、調理や食事は禁止であくまでも休憩スペース。夜間照明は虫以外にも寄ってくるものがいたようで、以来電源が切られている。炊事棟。ステンレス製のシンクと焚き台がある。流しに残飯もなく下手なキャンプ場より綺麗に保たれていた。場内に一カ所ある洗い場。シンクには残飯もなく、自分で出した残飯は回収してサイトに持ち帰っている。こちらも水道水で「スイカ冷やすな」の注意書きがあった。松川の流れはよく冷えていた、共有施設で水道使ってスイカ冷やすかぁ、そりゃあ書かれる。設営地、ペグは簡単に入るが一部に石が入っており苦労するかもしれない。松川沿いの道路際に近い場所に設営。子供達は相手にしてくれないので、昔の物を補修し使って来たが素材自体の目開きで雨が防げない、大きすぎるなど課題が多かった。軽で行く事を前提に二人で使える小型のテントとメッシュタープを今年新たに買い揃えた。かまぼこタイプの一体テントには魅かれたが結局は設営が楽な従来仕様を選んだ。一人で行く事があればテントと上にタープがあれば事足りる。今回はそのデビューとなる。これ以外の主な装備にテーブル×2、椅子×2、インナーマット、シュラフ、エアベッド、焚火台、クーラー、薪など軽に積み込んでもまだ〃余裕が出来た。 道が悪くなければパートタイム四駆の軽で十分徘徊できそうだ。ましてここ妙琴公園キャンプ場は悪路もない。キャンプ場周辺。上松川沿いの公道、キャンプ場と公道はこのフェンスで区切られている。下キャンプ場と松川に架かる妙琴橋。上橋から先に進むと手打ちそば「のんび荘」、ここを右に進むとRVパーク、左の人道を進むと松川に架かるつり橋妙琴橋があり、キャンプ場に戻る事が出来る。下手打ちそば・和食・宿の「のんび荘」、こちらで初日の昼食に蕎麦を食べる予定でいたが月・火曜日が定休日で縁がなかった。駐車場の松川堤に古びた六地蔵が祀られている。つり橋を渡り松川上流の眺め。リニアの工事が進んでいますが土砂等も流れこんではいない、高速の工事なんか入ると川や周辺の林道の様相が一変するが、ここではさほど荒れた様子はなく松川の流れは澄んでいた。松川は渓流釣りでも知られる川、有料証を買えば気難しい魚と知恵比べも出来る。サイトに戻るとかみさんが作った花冠が飾られていた。子供のころ作った記憶があるが、作れと云われると思い出せない。サイトではTVは入らない、ラジオも何とか入る、携帯も取り敢えずアンテナは立つ。ここは自分のなりの楽しみ方を実践するか、静かさに包まれ何もしない事を楽しむ所でもある。自分なりの楽しみ方・・・地元の酒を飲んで寝る。地元スーパーで菊水酒造の濁りと生貯蔵酒を買い求めたが、どちらも癖もなく飲みやすく美味しい物だった。云い方変えると危ないお酒かも知れない。双方とも家飲み用に大きい瓶を買って帰ってきた。陽も沈むとキャンプ場は真っ暗。場内に街灯は全くないのでランタンと焚火の明りが頼り、携帯照明は必需品。ゆっくり晩御飯を摂りながら静かに夜は更けていく。当然気温も下がりシャツ一枚では肌寒い。今夜はカセットコンロで鍋と雑炊、簡単で暖かいのが嬉しい。明日は9時に元善光寺の御開帳を見に行く。翌朝の松川と妙琴橋。既に釣り人の姿がある、川幅は広く、瀬の多い流れで遡り易そうです。ただ、川の両面は護岸が作られ、堰堤が多く川へ降りる場所は少ないかもしれない。降りてしまえば釣果に関わらず楽しめそうな川です。ただ、上流に松川ダムがあり水位には注意が必要。次回はフライを持って訪れたい、遊漁料は一日券1,000円(コンビニで買える)、現場徴収だと1,500円のようです。ゴミのない綺麗な川でした。無料のキャンプ場に綺麗な川、また訪れる機会もありそうだ。さて、テントを撤収し忘れ物チェック、炭はアルミ箔で一纏めにすれば持ち帰りも苦にならない。有料で?の付くキャンプ場は数々あれど、利用者のマナーによっては無料でもなんとか維持できる有難い存在です。ありがとうと言いたいくらいだ。ひとつだけ、ハサミムシは多かった。ここから元善光寺までは20分もあれば辿り着く、妙琴公園キャンプ場は伊那谷徘徊の拠点に絶好のキャンプ場でした。妙琴公園キャンプ場所在地 / 長野県飯田市鼎切石5247-1連絡先(大勢で利用の場合) / 飯田市管理課(電話0265-22-4511)車アクセス / 中央自動車道「飯田」ICから県道15号線で駒ケ根飯田方向に北進、「さわやかロード」で10~15分。今回新たに購入した焚火台。ステンレス製で溶接もしっかりされ、底のプレートと焚火台はがっちり固定でき安定感がある。収納時の厚みも気にならず長く付き合えるツールの一つになりそうだ。waku fimac 焚き火台 ソロ アウトドア キャンプ コンパクト 軽量 焚火台 ファイアスタンド 折りたたみ 初心者 用品 道具 おすすめ ランキング 一式 セット 人気 鉄板 コンロ価格:6,980円(2022/05/26 20:28時点 )
2022.05.27
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広島県尾道市長江「艮(うしとら)神社」海岸近くまで山が迫る尾道、大宝山山頂と麓を結ぶ千光寺山ロープウェイはこの辺りを歩くと何処にいても視界に入ってくる。良(ウシトラ)神社に訪れる目標はロープウェイの麓駅を目指せばいい。尾道市役所駐車場から西方向に進み、住吉神社から北方向の山陽本線を越えると駅は近い。艮(うしとら)神社社頭。右の看板が示す様に千光寺山ロープウェイ麓駅の西隣りに社頭を構えている。社頭左に良神社社標と注連縄の架けられた1841年(天保11)に寄進された鳥居がある。そのすぐ背後の石の鳥居は笠木の曲線が強く、笠木中央に唐破風の屋根が付き、その下に「良宮」と記された額が付く。鳥居の左の柱には1660年(萬治3)と刻まれていた。艮神社は尾道一の古社とされ、創建は806年(大同元年)と伝えられ、火災で焼け落ち1475年(文明7)に平盛祐が再建したと伝わる。木製の破風の下に掛けられた額も木製。派手さはないがシックで重厚感のある味のあるもの。鳥居から石畳の参道が神門に続く。参道右の艮神社由緒。・祭神 伊邪那岐命、天照大御神、素戔男命、吉備津彦命・例祭 10月初旬・本殿 三間社神明造、銅板葺(間口三間、奥行二間)・天然記念物 大楠4本由緒・大同元年(806)の創建とされ、火災により文明7(1475)平盛祐が再建。・文禄4年(1595)本殿葺替、慶長16年(1611)再興、寛文6年(1666)に本殿・拝殿造立、元禄2年(1689)葺替、宝永2年(1705)本殿・幣殿造立など度々の造営があった事が棟札より知れる。参道中ほどにも注連縄鳥居があり、その先は神門に続く。四つ足で切妻銅板葺で屋根の平側前後に唐破風が付けられている、棟には5本の鰹木と外削ぎの置き千木が付く。神門左に境内社の稲荷社。詳細は不明。参道を挟み稲荷社と向かい合う様に祀られる境内社。瓦葺の流造で小さいながら大棟には鯱が乗る立派な社、社名札は見当たらず詳細は分からない。神門の全景、建立年代など詳細は不明。神門から境内の眺め。境内はほぼ天然記念物の4本の大楠に包まれていると云ってもいい。社殿上空を千光寺山ロープウェイが大宝山山頂まで架けられている。ロープウェイは神社の上空を通過し大宝山山頂まで所要時間3分。あっという間です。15分間隔で運行され、片道500円、往復700円の料金。お勧めは行きはロープウェイ、帰りは30分程かけて下山する事をお勧めします。頂上から尾道の眺望を楽しみ、中腹から麓にかけて千光寺参拝や猫の細道を見て廻れば普通に麓の良神社に到着します。境内は山の傾斜をそのまま生かし何段かに分かれて社地が作られています。正面の石段左に手水舎、右に境内社の明神鳥居がある。手水舎と手水鉢。ここでは龍ではなく蓑を被った亀が清水を注いでいる。亀とは言ったものの、玄武か神亀かもしれない、頭部に耳があり大きな鼻を持つ。石段右の境内社。鳥居には「塞神社」とあり、社前には小さいが精悍な目つきの狛犬が守護していた。詳細は不明。天然記念物の大楠が拝殿上空を覆う様に枝を広げている。鮮やかなこの緑色も僅かな期間だけのものかも知れない。祭神は伊邪那岐命、天照大御神、素戔男命、吉備津彦命本殿は神明造創建は806年(大同元年)と伝えられ、火災で焼け落ち1475年(文明7)に平盛祐が再建。その後も1595年(文禄4)本殿・拝殿葺き替え、1611年(慶長16)再興、1666年(寛文6)に本殿・拝殿造立、1689年(元禄2)に葺き替え、1705年(宝永2)に本殿・幣殿造立など棟札が残存する。古社を象徴する巨大な楠。この他にも天然記念物の大楠が緑の天幕となり社地全体を覆っている。推定樹齢1000年とも云われる巨木で、上空を行き交うゴンドラに届くような勢いがある。拝殿全景。切妻妻入り拝殿で向拝が付く、丸に亀甲四方花菱が神紋の様だ。拝殿前には一対の狛犬が守護している。その前に石段脇に目を転じる、そこには見るも無残な姿の狛犬が一対。これを狛犬としてすぐ気付く人は多くはないかもしれない。寄進年度も識別不能でかなりの年代を感じさせる、拝殿域を今も現役で守護する姿に哀愁を感じる。境内右に境内社が纏められている、少なくとも6社はありそうだった。写真はその右半分の眺め、右の鳥居の先には遥拝石が建てられていた。訪れた当日は拝殿に続く参道以外はロープが張られ立ち入り制限されていた。上の写真の左側の境内社。左の石段の先にも鳥居があり社が祀られているようだが見通しが効かず詳細は分からなかった。拝殿左側の境内社、右側以上に複数の社が入り組んで祀られている。右の鳥居の後ろには注連縄が張られた大きな岩がある、趣から磐座?と思いたくなる堂々とした佇まい。左の鳥居には唯一「金山彦神社」と記されているが、この一画だけでも4社は祀られている様子。こちらも立ち入りが制限され参拝して回る事は出来なかった。拝殿前を守護する狛犬。目鼻立ちのフォルムが強調されたもので肉付きがいい。髪はロン毛で阿形の方はカールまで施し身だしなみに気を使っているようだ。1800年(寛政12)当時のトレンドだったのか。上向拝の外削ぎ千木と拝殿の内削ぎ千木の眺め。下拝所から本殿方向の眺め。由緒には伊邪那岐命、天照大御神、素戔男命、吉備津彦命の四柱の神を祀るとある。境内社を参拝できなかった分ここは賽銭をはずんでおこう(五重縁)ひょっとしていい事もあるやもしれない。さて社殿の全景・・・となるところ、これがなかなか一望できる場所が見当たらない。諦めて千光寺を参拝し下山途中の猫の細道から社殿を見渡す事が出来た、以下はそこからの眺め。本殿。神明造で5本の鰹木と内削ぎの千木が付く、屋根は銅板葺。拝殿と境内社。上瓦葺の流造の社は恵美須神社、猿田彦神社、豊玉彦神社の相殿。磐座の左の鳥居の社になる。下銅板葺で外削ぎの千木が付く流造の社、朱の鳥居を構える事から稲荷社と思われます。金山彦神社(境内から撮影)。これら境内社の詳細は不明。すっきりしないので大日本名所図録 広島県之部に目を通してみたがスッキリしなかった。上神門から千光寺山ロープウェイ麓駅。下ロープウェイから緑の天幕と神門を上から眺める。それにしても良く神社の上に架けたものだ。大宝山の麓に楠の巨木に包まれ鎮座する艮神社、鬼門封じとしてその名が付くとすると、その反対側は尾道という事だろうか。艮(うしとら)神社創建 / 大同元年(806)祭神 / 伊邪那岐命、天照大御神、素戔男命、吉備津彦命境内社 / 恵美須神社、猿田彦神社、豊玉彦神社、金山彦神社、不明社多数参拝日 / 2022/04/19所在地 / 広島県尾道市長江1-3-5関連記事 / 全国一ノ宮巡り 愛媛・広島、住吉神社 広島県尾道市土堂
2022.05.26
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豊田市御作町小子「八柱神社」八柱神社を訪れたのは4/4、穏やかに流れる犬伏川の堤沿いの桜並木は桜の花が見頃を迎えていた。県道486号線を南下、犬伏川に架かる落合橋を越えすぐ左に写真の八柱神社の社標が立っている。ここから左折し御作公民館方向に車を進めると八柱神社が鎮座する。八柱神社全景。 西側は田畑が広がり、田畑の外れに大きな巨樹が聳える森がある。樹々に包み込まれる様に八柱神社が鎮座します。 右側には先ほど越えたはずの犬伏川が間近を流れている、対岸の小高い山〃は河岸まで迫っている。社頭全景。 常夜灯の先に明神鳥居、杉の巨木が並木となり拝殿に繋がっている。社頭左に手水舎、近年建替られたようで新しく立派なもの、ここも龍はお休みだ。石の明神鳥居に掛けられた「八柱宮」の額。 離れて見た境内の印象は暗いイメージでいた、杜の樹々が一定の間隔を持っていることもあり外光が入る明るい境内。社頭右の由緒書き。「九等級 八柱神社 旧指定村社 鎮座地 豊田市御作町小子191番地祭神 天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、熊野樟日命、湍津彦根命、市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命 由緒 社伝に、安元三年(1177)九月一八日、山内摂津守正信がこの地に来住し鎮守の神として勧請した。爾来住民の崇敬厚く、明治六年村社に列し大正四年九月二十三日指定社となる。 境内社 神明社、八幡社、八剣社、洲原社、秋葉社、稲荷社、御鍬社、金刀比羅社、津島社が祀られ、それらは一六五四年から一八三六年にかけて創建された。 昭和四十七年七月一三日、奥三河地方大水害により社殿を流失。住民総意のもと昭和五十一年二月七日工事着工、同年十月一八日新社殿が竣工した」水害とは昭和47年7月豪雨を指しているのだろう。「同年7/10~13日かけて全国的に豪雨に見舞われ、西三河山間部、特に小原村、藤岡村では総降雨量が400㎜近くに達し、それに伴い沢や渓流に流出した土砂や流木により多くの犠牲者と家屋に被害を与えた」猿投神社の奥宮に向かう尾根道を歩くと花崗岩が風化したまさ土と呼ばれる土壌を目にするはずです。 この辺りも同様でいざ強烈な雨が降ると不安定になりやすい性質があるといいます。八柱神社の鎮座地は社地北側と南側に犬伏川の流れがあり、境内の奥で犬伏川は大きく右に蛇行する先端に位置し、記録的な豪雨の際は水も集まりやすくなる。 由緒に移転や補修の記録はないが、安元三年の創建から延々と鎮座、崇敬され続けた神社も聞き慣れた「経験のない豪雨」には為す術もなかったようです。古くから鎮座する寺社周辺は安全と信じて来たが、やたら耳にする「経験のない」言葉や事象からそうした事も妄想でしかないのかもしれない。 被災後神社は立派に建替えられ碑が残された、この地を担う次の世代への継承(警鐘)として有意義な事だ。 参道中程から見る社殿。 杜を形作る樹々の高さには目を見張るばかりだ、社殿が小さい訳でもなく山間に佇む神社としてはむしろ規模は大きい。拝殿付近に建てられた由緒書き。 社頭のものと同じ内容のものだ。社殿全景。 拝殿、幣殿、覆殿が繋がり本殿脇の左右に境内社が祀られている。御作の欅。拝殿手前に聳える樹高27.7㍍、樹齢約400年とされる欅。新芽が芽吹く前で枝の一本〃がうねる様に伸びる姿に自然の力強さが伝わってくる。今頃は新緑に包まれている事だろう。境内にはこの欅以外にも樹齢200年以上樹高35㍍を越える杉などが杜を形成している。拝殿全景。切妻平入の銅板葺の二重屋根で大棟から切妻の向拝が続く鉄筋コンクリート造りのもの。 水害で社殿を流失した過去を踏まえての選択なのだろう。杜はその水害を耐え抜いたという事だろう。拝殿前の狛犬。1959年(昭和34)に寄進されたもので目つきが鋭いもの。向拝から杜を見上げる、真っすぐに空に伸び続ける杉の巨木(御作の杉)。拝殿額「八柱神社」左三つ巴が神紋のようだ。拝殿から渡廊を介し入母屋平入の幣殿、覆殿に繋がる。大きな本殿を覆うだけに覆屋は社殿の中で一番高く立派なものだ。 右に境内社三社祀られている、右側の小さな社は三社相殿で社名札はあったが読み取れなかった。ここだけで5社が祀られている。本殿、三間社流造。本殿左の境内社。ここに6社祀られ、右の大きな社二つは右から八幡神社、八剣神社。八剣神社から左の社、御鍬社、金刀比羅社、左二つは退色も進み読めなかった。棒の手碑 見当流「御作の棒の手は、はじめ江戸後期の享和2年垣平作衛門が加茂郡尾形氏より検藤流を学び、この地に門下百余名を指南して盛事を開いたが幕末の世情変転の中に断絶した。 明治13年山内新平ほか数名は棒の手再興を志し見当流三河宗家 八草の粕谷菊平に師事して免許目録を授かりこれを広め今に伝えた。見当流は尾張の本田遊撫を流祖とし勇壮闊達な演技を伝承するもの、鎮守八柱神社に奉納のほか川通合属に加わり永く猿投神社に奉納を続けた。」御作神社の南側の城ヶ根山の頂は鎌倉時代に建てられたものと云われる御作城址があるが、御作神社との繋がりは分からなかった。八柱神社創建 / 安元三年(1177)祭神 / 天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、熊野樟日命、湍津彦根命、市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命境内社 / 神明社、八幡社、八剣社、洲原社、秋葉社、稲荷社、御鍬社、金刀比羅社、津島社所在地 / 豊田市御作町小子訪問日 / 2022/04/04車アクセス / 猿投グリーンロード「枝下」ICから15分程関連記事 / 香嵐渓へリベンジ 、 香嵐渓 「飯盛山 香積寺」、藤ノ木「神明社」豊田市近岡町
2022.05.23
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5月9日から解体が始まった嫩桂山久昌寺。ここ数日既に姿を消したと思っていた嫩桂山久昌寺の解体について記事が取り上げられていた。 文化財として見直す余地のある一部の躯体が見つかり一時解体が中断されたとある。それによると濃尾地震で倒壊、再建された柱に創建当時の製材手法の痕跡を留めたものが見つかったと云う。 一日で建物の原形が粗方消えてしまう今時の解体工事、その姿はとっくに無くなっていたものと思っていた。傍らで見守られながらの解体だったようだ。 解体後の跡地を市が買い取り、現在の公園を拡張整備する予定ですが、今後更に文化財としての価値が高まるような発見があれば保存の方向に流れを変える可能性もある。弱小の寺社はどこも同じ道を歩み姿を消そうとしている。 こうしたものに歴史的価値があり後世に残す舵取りをしたとして、どうやって運用し維持していくか悩ましいところだろう。久昌寺跡地も市が買い取って公園として整備する計画だという。 仮に保存とした場合、財政に負担を掛けず継続的に維持するためのビジョンを考えるのであれば、広く問いかけて欲しいものです。解体続行となったとしてもオークションに掛けられるものがある、産業廃棄物処分場に送る前にサイトで公開するのもありだと思う。 捨てる神あればなんとやら、一度久昌寺を訪ねて見ようと思う。関連記事 / 嫩桂山久昌寺、「神明社」江南市田代町郷中、「龍神社」江南市小折町八竜、生駒家の氏神として祀られた「南山神明社」、江南市 生駒屋敷跡・小折城跡
2022.05.22
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本人は罪を償い賠償する方向で決着が着いた話。 マスコミも寄ってたかって次から次に過去を掘り下げ、煽るような報道はこれ以上不用。組織のトップとして巨額の血税を配布するミッションを達成できなかった管理監督、説明責任を果たして欲しい。 少なくとも賭博依存症の一人の若者の人生を変えるきっかけを作った事は事実、ある意味で被害者かもしれない。彼の返済を信じると云うコメントも聞かれる、ならば町のトップとして損失を立て替え、彼を雇用し彼の返済を綿々と受け続ければいい。 民間であればそれなりのペナルティーを受ける立場にあり、まずは失ったものを速やかにリカバリーする方策を聞きたいもの、トップは飾りではない。損失に対するトップの処遇と速やかな返済ビジョンに言及してもらいたい。 ただでさえ、コロナ対策で表面化していない無駄な予算執行に対し納税者になんら説明も果さない御国の対応。使われず廃棄対象となった「ワクチンの総数は公表しない」、納税者に説明責任はないという事か。 全くの「死に金」、誰も責任も果さない説明もしない。どこかでコロナ対策に投じた巨額の血税の収支を公表してもらいたいしマスコミは掘り下げるべきだ。 緊張感を持っていない御飾だけの議員には月給100万ですら払い過ぎ、成果報酬にすべき(実態は難しいかもしれないが)自分の金と思えない組織の体質がこうした温床になり、見えていない振る舞いが国の価値を下げている。 円は益々信用されなくなる、食糧ですら自給率は低く、外に依存するしかない持たざる国が買い負ける。日銀も舵を切ったらどうだろう、各世帯に紙幣印刷機でもサプライズ配布して頂ければ何も問題ないし彼もまた思う存分ギャンブルを楽しめただろう。 昔のままの振舞いで次の世代にこの国を渡していいのだろうか。
2022.05.22
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5/10~12二泊三日で下野國一之宮「日光二荒山神社、宇都宮二荒山神社」を訪れた。一日目は日光までの移動に大半の時間を費やしたが、二日目は東照宮の前に建つ宿「日光温泉 日光千姫物語」から始まる。鳥のさえずりと川のせせらぎで目覚める、窓を開け放つと長期予報では怪しかった空模様は今日も快晴。朝の冷気が部屋中に流れ込み、新緑の山々と眼下の大谷川の澄んだ流れが飛び込んでくる。朝からボリューム満点の朝食を済ませ身支度を整える。荷物を預かってもらい、国道122号線を神橋方向に向かう。8:20神橋渡受付から日光スタート予定でいたが、8:30から開場との事。日光2社1寺の最初の目的地輪王寺は既に8:00から拝観窓口が開いているが、日光入口にあたる神橋渡受付が寺社より遅れて始まる。ここは見送り先に進む。観光バスが連なって走り去る国道を渡り「世界遺産日光の社寺」の石碑から輪王寺に続く石段を上り始める。9:00日光山輪王寺総本堂三仏堂。日光は何を見るにも拝観券が必要、ここ輪王寺もそれ。三仏堂・大猷院・宝物殿セット券が1000円、三仏堂・大猷院が900円、三仏堂・宝物殿が500円、更に単独券・・・と細かく分かれトッピングしていくと割高になる。単独拝観券で拝観するより、共通拝観券がお得。訪れた当日は宝物殿で大猷院二天門の風神、雷神が修復作業を終え公開されていたのでセット券を購入。到着した頃には三仏堂前で団体客の記念撮影が始まり、人波は途切れる事がなさそうだ。宝物殿と逍遥園を拝観しやり過ごす事にした。庭園の池の大きな鯉は人に慣れ、餌を買い求める姿を見ると途端に集まってくる。撒く必要もなく大きな口に入れてやればいい、ハイ次の人。庭園から外を眺めると団体客は動きたし三仏堂の全景が現れている、先に進もう。日光山は天平神護二年(766年)に勝道上人により開山、平安時代は空海、円仁らのも来山したという。鎌倉時代には源頼朝の寄進などで関東一の霊場として栄え、江戸時代には徳川家康の東照宮、家光の大猷院廟が建立されるなど、日光山の大本堂三仏堂はその中心となる。輪王寺の本堂は日光山随一、東日本では最大級の木造建築物とされ、平安時代に創建された、天台密教形式の堂。現在の建物は、正保2(1645)年、徳川三代将軍「家光」によって再建されたもの。三仏堂の内陣に安置される日光三所権現本地仏(千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)の三体の大仏(高さ7.5㍍)は堂の前からも金色に輝くその姿を見られ、東照三所権現本地仏(薬師如来・阿弥陀如来・釈迦如来)の懸仏2組の三尊仏が本尊として祀られている。三仏堂後方の鉄筋コンクリート造りの護摩堂と相輪橖、下は三仏堂解説。9:00日光東照宮参道。かみさんの全国一ノ宮巡りに合わせ、その際には各地の東照宮をルートに入れて欲しいと要望しているが、よもや大元の日光東照宮をこれ程早く訪れるとは思ってもいなかった。五重塔。外から絢爛豪華な姿を眺めるだけでも十分かもしれないが拝観券を買って、心柱にも目を向けて欲しい。日本人の智恵の結晶が形となって現れ、その技術は現代の東京スカイツリーにも生かされている。9:45表門。三神庫から御水舎の眺め。上神厩舎。長押上に8面に渡り猿の彫刻が施され、人の一生を風刺したものという。ここに修復を終えた鮮やかな色彩の「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿がいる。下ニノ鳥居と陽明門。ここも団体客の記念撮影スポット、人波が途切れる事はない。この時は小学生の修学旅行が多かった、コロナ禍で見送られてきた大切なイベントも動く様になってきた。日光東照宮は1617年(元和3)徳川初代将軍徳川家康を祭神として建立された神社、現在の絢爛豪華な社殿のほとんどは鎮座から20年後の1636年(寛永13)に徳川家光により建替えられたものという。上陽明門、日暮門の別名があるように細部を見ていれば日が暮れてしまう。ここから左の鐘楼奥にある本地堂の鳴竜の天井画を拝観、拍子木の音が天井に反響し恰も龍が鳴き声を上げる様を体感する。下本殿唐門。細かな装飾と胡粉で塗られた門と豪華な廻廊は天下統一を成し遂げた者のみ許されたものだろう。職人の技の集大成が東照宮といってもいいだろう。奥社拝殿。本殿から眠り猫のいる潜り門、二羽の雀がいる坂下門をくぐり、杉並木に包まれた奥社参道の石段を上り詰めた先にある。黒漆が塗られ銅や真鍮を主とした飾りが施された外観は、ここまで目にしてきた派手〃の建物とは違う落ち着いた趣が漂う(それでも十分豪華)、拝殿の奥には鋳抜門と家康を祀る宝塔がある。11:40一ノ鳥居の左に鎮座する御仮殿。本社の修理の際に祭神を一時的に移すために1616年(寛永16)に建立されたもの。普通は修理後取り壊されるものですが、頻繁に修理の手が入る東照宮では常設となる。12:15日光東照宮宝物館の東にある「西洋料理 明治の館」で昼食。明治時代、日本に滞在する外国人たちは日光の歴史・文化・自然に魅せられこの地を訪れた。日本蓄音機商会(日本コロムビアの前身)を創設したアメリカ人F.W . ホーンもそのひとりで建物は彼の別荘として建てられた有形文化財の洋館。現在は明治の館として食事を提供する。写真は虹鱒のムニエル明治の館風¥1,870、かみさんはオムレツライス¥1,870となか〃のお値段。ゆっくりと食事を済ませ、再び東照宮を横切り輪王寺大猷院の家光殿の元に向かう。ここでカメラのバッテリーは予備を含め残量がなくなる。ズームを頻繁に使用するため消費も早い、よりによって充電器もない、大失敗だ。以降は携帯に頼るしかない。13:30輪王寺大猷院。上大猷院霊廟仁王門下陽明門に劣らぬ豪華な大猷院霊廟二天門。現在ここの左右に安置されている風神・雷神はレプリカで本物は宝物殿で展示されている。上大猷院霊廟夜叉門。下大猷院霊廟唐門。各大名や後〃の将軍から寄進された多くの燈籠立ち並ぶ。大名から寄進されたもの、せざるを得なかったこれらの燈籠、中には自ら寄進したものの、それを見る事すら叶わないものもある。上大猷院霊廟拝殿。拝殿は相の間と本殿が一体となり、こちらも細かな装飾がふんだんに施された豪華なもの。下本殿右の斜面に入口に建つ皇嘉門。徳川家光の廟所入口の中国様式の門で1653年(承応2)に建てられた、その外観から龍宮門とも呼ばれるようだ。ここから先は将軍以外は立ち入れず廟の姿は見ることが出来ないがGアースで見ると、奥には鋳抜門と宝塔安置されているのが分かる。これで日光2社1寺の参拝を終え、宿に戻り荷物を受け取り日光駅に向かう、運よく宿の送迎バスが駅に向かうとの事で送ってもらう事が出来た。14:40日光駅駅前の「揚げゆばまんじゅう」は食べておきたいとの事でかみさんが買ってきた。その間おやじは駅舎周りを散策。待望のおやつを手に入れ満足顔、疲れた体に優しい塩味とやさしい甘みが体に嬉しい。さかえや所在地 / 栃木県日光市松原町10-1日光駅駅舎。1890年開業当時の駅舎で大正時代の香りが漂う、駅舎二階は一等客専用の待合室として利用された。近代化産業遺産、関東の駅百選にも選定されている。シャンデリアは当時のものが今も残る。ここでおやじはガソリン補給、冷たいビールが嬉しい。下出発を待つ500系リバティ。ここから普通電車で二駅先の下今市駅に向かう。乗り換えで立ち寄った下今市駅。ここにはSL展示館と転車台があり、跨線橋を渡れば無料で見学できる。下今市駅と鬼怒川駅の二か所にあり、この回転台の上に車両を乗せ向きを切り替える。たまたまなのか、C11型207号、大井川以来の動くSLだ。1941年(昭和16)、日立製作所笠戸工場で製造され、北海道を走り回っていたが、1974年(昭和49)電化により退役、今は日光⇔鬼怒川を運行する観光列車SL大樹として老体に鞭を打っている。マットブラックの車体は今見てもかっこいい、現役だけに動輪の軸も連棒もピカピカに輝いている。運航前の点検をしていたのだろう、火が入っていることもありピストンからは蒸気が噴出し生きものその物。サービスではないだろうが汽笛も聞くことができた。さて、ここから今夜の宿日光鬼怒川温泉に向け電車を乗り換える。16:40鬼怒川温泉到着。ふれあい橋から鬼怒川上流の眺め。今夜の宿は鬼怒川右岸を少し遡ったところにある「あさやホテル」宿まで温泉街を歩いた、どこの温泉街もそうだが、以前は慰安旅行だ、宴会だ、で団体にはもてはやされたものだが、時代とともに団体から個人へと流れも変わり、それに乗り遅れた旅館の荒廃は進む一方だ。平日とはいえ、ふれあい橋や温泉街には人影はなく寂れた印象がある。翌日利用したタクシーの運転手から「湯は良くなかったでしょう」と問われる、更に「鬼怒川温泉の湧出量は過去に比べると少なくなった」との事。17:00チェックイン完了。パイプオルガンの演奏が流れるロビーから部屋に向かう。朝夕ともバイキングだが、かみさんの話ではデザート含め豊富で美味しいものだそうだ。食事は最終時間、取り敢えず三か所あるお風呂の全てコンプリートしよう。あさやホテル所在地 / 栃木県日光市鬼怒川温泉滝813東照宮御朱印。大猷院御朱印。二日目日光2社1寺 / 参拝ルート 日光駅から鬼怒川温泉公共交通機関ルート / 日光駅👉下今市駅👉鬼怒川温泉駅
2022.05.21
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三重県いなべ市北勢町瀬木「猪毛利谷(いもりだに)神社。員弁川支流鎌田川右岸にあたり、員弁川とはすぐ下流で交わる扇状地の端に鎮座します。すぐ東には国道306号線が北に延び多賀方面に続く。鎌田川右岸の社頭右に「猪毛利谷神社」の社標があり、社標から少し入って石の神明鳥居を構える社地のすぐ左を鎌田川が流れ、堤沿いから社地を囲む様に杉を中心にした杜が取り囲んでいる。訪れた時期は境内の桜の蕾が膨らみ始めた頃、針葉樹や常緑樹の緑ばかりで味気ないがタイミングが良ければここに桜のピンクが加わり華やかな事だろう。一ノ鳥居の先にはニノ鳥居を構えるようだ。常夜灯の先のニノ鳥居は1921年(大正10)の寄進。三ノ鳥居まで構え、その先の拝殿が近づいてきた、奥に長い社地を有している。三ノ鳥居は明神鳥居で、手前の狛犬がここから先の境内を守護する。鳥居の額は石造で「猪毛利谷神社」と彫られている。鳥居前の狛犬は子と玉を持つ。やや垂れ耳で彫の深い毛並みを持ち、体格と頭の大きさの比率がいい凛々しい容姿の狛犬。子の姿も親に負けず格好がいい。参道左の手水鉢、龍は不在で蛇口が付く。以前は二脚の手水舎があったようだ。伽藍は右に神饌所?、左の注連縄が張られた建物は見落としたようで詳細は分からない。中央の拝殿は瓦葺の入母屋造りで木造のシックな佇まいの拝殿です。拝殿から石垣で一段高く積まれた本殿域方向の眺め。拝殿額は綺麗に木目の出た木製で「猪毛利谷神社」と記されている。祭神は素盞嗚尊、伊香我色男命、大山祇神を祀るようですが創建等の詳細は不明。創建には繋がらないが、調べている際に地元の方の話に辿り着いたので転載します。・鎌田川はここから500㍍程下流で員弁川と合流している。・慶安3年(1650)9月3日から9日までの長雨によって洪水が発生し、瀬木村は以後も度々水害に見舞われた。・そのため、貞享2年(1685)に鎌田川、元禄年間(1688~1704)に員弁川の川替(流路変更)工事が行われ、現在の大きな弧を描く流れとなった。・猪毛利谷神社の創祀は不明だが、明治3年瀬木村庄屋佐藤甚蔵の記録によれば、ある時、猪名部神社が川に流されて「いもり谷」に流れ着いた。・・・とあった。俄かには信じ難いが員弁川上流に鎮座する猪名部神社が過去に流されて来たのが猪毛利谷神社の始まりと取れる内容のものだ。この地は古くから川と人が鬩ぎあってきた場所の様で、付け替えにより流路は大きく変えられた様だ。上は1891年とほぼ現在の周辺の地図。流路変更は更に上流の出来事、年代も違うのでこの地図では判別できないけれど、既に鳥居が記されている事から、創建は江戸時代に遡るのは間違いなさそうです。「流れ着いて」ここに神社を新たに建て村の氏神としたとしてもあり得ない話ではないのかも。猪名部神社のHPにその記述は出てこなかったが、伊香我色男命を祀る等どこかで紐づくのかもしれない。本殿域全景。綺麗に積まれた石垣の上に作られた本殿域を玉垣が取り囲み、神明造の幣殿?と本殿が建てられている。千木は内削ぎ、鰹木は6本、広々とした本殿域に建つ神明造はシンプルな美しさがある。本殿域に年代を感じさせる狛犬がいたが撮り忘れていた。ニノ鳥居から社頭の眺め。社頭の先には鎌田橋と鎌田大橋の二つの橋が架かる。社地の左を流れる鎌田川、ここから少し下れば員弁川に合流する、春の陽ざしに輝き穏やかに流れていた。堤沿いはツルニチニチソウの紫の花が春の訪れを告げていた。猪毛利谷神社創建 / 不明祭神 / 素盞嗚尊、伊香我色男命、大山祇神境内社 / 不明所在地 / 三重県いなべ市北勢町瀬木310訪問日 / 2022/03/24車アクセス / 東名阪自動車道桑名ICから北西に40分程関連記事 / 美濃國二之宮 伊富岐神社
2022.05.20
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岐阜県瑞浪市土岐町「一日市場(ひといちば)八幡神社」県道352号線「一日市場」の三叉路交差点の左に社頭を構える神社。社頭南側からの眺め、手前から来るとドン突きになる。住宅が立ち並ぶ一画、県道沿いの小高い高台に八幡神社の杜がある。交差点から社頭の眺め。県道沿いに「史跡土岐氏一日市場館跡」と「明智光秀公像」と大きく書かれた看板は嫌でも視界に入ってる。歩道から石垣の上の境内に石段が続き、登り切った先に石の明神鳥居が立つ。石段の「美濃源氏 土岐一族発祥の地 明智光秀公ゆかりの地」と書かれ、桔梗紋の入る白い幟が誇らし気にはためいています。大河放映中は光秀所縁の地として賑わったのかもしれない、それも今は頼朝に変わり訪れる参拝者の姿はなく寂しい限り、TVの影響力は実に大きく熱しやすく冷めやすいものだ。鳥居の右に「銀幣社 八幡社」と彫られた社号標がある。「史跡土岐氏一日市場館跡」とあるように、通り沿いの石垣にその名残を感じさせる。石造明神鳥居の先に境内が広がる。ニノ鳥居まで構えるようで、境内は左右に広がりを持つ。ここは土岐一族の始祖、源光衡が本拠とした館を構えた場所とされています。通りに「史跡土岐氏一日市場館跡」とあるように、通り沿いの石垣にその名残を感じさせる。鳥居に掲げられた額は「八幡神社」鳥居から境内の眺め。正面のニノ鳥居の先が社殿。鳥居左に手水舎、手水鉢の寄進は昭和10年とある。拝殿右の境内の眺め。平和記念碑と右方向に二つの胸像、更に右手に脇参道の鳥居がある。拝殿左方向の境内の眺め。こちらにも脇参道の鳥居がある。まずは八幡神社に参拝し順次境内を見ていく事にする。ニノ鳥居(昭和10年寄進)の先に常夜灯(享保の元号)と拝殿を守護する一対の狛犬。拝殿は入母屋瓦葺の妻入りのもので向拝が付く。守護担当の面々。毛並みは丸く立体的に彫られたもので骨太な体格をしている。拝所の鈴紐は下ろされ久し振りに鈴を鳴らす。拝殿から本殿方向の眺め、この先に瑞浪市有形文化財に指定される1794年(寛政6)に寄進された狛犬が安置されているらしい。(瑞浪市HP陶製狛犬解説と画像)創建は不明で伽藍の修復履歴として1687年(貞享4)の棟札が残るとされ、そこには岩村城主第5代の丹羽庄之助氏音造営と記されていると云う。創建はそこから更に遡るが定かではない。上本殿後方から拝殿方向の眺め。現在の本殿は銅板葺の流造。下本殿域の右に社が祀られているが詳細は不明。左側に回り込みたかったが長い物が出そうでこれ以上進む度胸はなかった。長い🐍が地を這う時期になってきた、それくらい当日の陽気は良かった。美濃源氏発祥の地とされ、一日市場館跡はその拠点となった場所。平安末期に源光衡が現在の土岐に住み着きそこから土岐氏が発祥したとされる。源光衡以降美濃守護職として長くこの地を治め、戦国時代初期に斎藤道三により土岐頼芸が美濃を追われるまで務めたが、その後主流は没落するも一派は途絶することなく明治維新まで至ったと云う。明智光秀のルーツはここに移り住んだ土岐氏から始まる。境内の二つの胸像。左が「鎌倉幕府御家人 源土岐三郎光衡」、右が「明智光秀」の胸像。肖像画で知る光秀のイメージとはかけ離れ、随分とふくよかな顔立ちだ。上土岐氏と光秀の系譜。下胸像脇の解説・・・長すぎる・・・。土岐光衡はここに「一日市場館」を建て拠点とし、ここから下街道を40分程北上した土岐川右岸に光衡が築城したとされる鶴ヶ城跡(神戸城)がある。光秀生誕地は美濃各地にあり定かではない、最後の地も明智藪ではないとも云われる様に想像は膨らむが、少なくともここ一日市場に館を構えた土岐氏の血筋から光秀が誕生した事は揺らぎがないと思う。とはいえ全ては語り継がれてきたもの、この光秀の顔も肖像画の光秀も当時を見て語るものではない。境内左側の脇参道脇に石標を見付け杜に立ち入る。地肌が見える程度の落ち葉なら「足元に注意」していれば🐍に驚かされる事はない。石標には「水神」と彫られていた。集落の外には今も田畑が点在する、水を司る龍は必要な存在。裏には年号が刻まれていたが読めなかった。左側の参道入口。「村社八幡神社」と刻まれた古めかしい社号標と立派な鳥居を構えている。境内右の鳥居も見た方がいいのかぁ?とは言っても春の宴の後だけに足取りが重たい、やめだ。一日市場八幡神社創建 / 不明(1687年(貞享4)の棟札)祭神 / 誉田別命境内社 / 不明所在地 / 岐阜県瑞浪市土岐町402訪問日 / 2022/04/30公共交通機関アクセス / JR中央本線瑞浪駅⇒一日市場八幡神社・東へ徒歩10分程関連記事 / 「小左衛門 春のお披露目会」行ってきました、 益見地区「中切地蔵菩薩」
2022.05.17
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広島県尾道市土堂 住吉神社 愛媛・広島の一ノ宮を一泊二日で巡る初日、伊予の國一ノ宮大山祇神社の参拝を終え、尾道の千光寺を訪れる。尾道市役所の駐車場に車を停め、港沿いの海岸線通りを千光寺ロープウェイに向け歩く。尾道水道沿いに港が続き船着き場が延々と続く。背後の鳴滝山が海近くまで迫り、街はその裾野から港にかけて寄り添うように集中している。この地は古くから瀬戸内航路の商港として栄え、江戸時代中頃から明治30年頃の尾道は北前船の寄港地として栄えて来た町。当時の船の動力は自然、風と潮の流れに任せた航海では時合を待つ潮待ちの港は各地に点在する。目の前に見える対岸は向島、入り江でもなんでもない水道だ。ここ尾道と四国の今治の間には向島、因島、生口島、大三島、大島などが飛び石の様に点在し、広い瀬戸内海は一気に狭められ、大きな干満差とそれにより潮流は複雑に流れを変える。写真は夕方に撮影した港の光景、浮桟橋も随分と下に浮かんでいる。住吉神社はここから港沿いを少し進んだ先に鎮座する。住吉神社全景。船着き場の脇に社殿が作られ、注連鳥居のある社頭と海岸線通り側に脇参道の二か所から境内に繋がる。訪れたのは4月19日、注連鳥居には「平山霊神社」の幟がはためいていた。祭礼があったのか、常時立てられている物か定かではないが神社幟が立つ光景はいいものだ。社頭の左側の境内に外を向いて小さな社が祀られていた、その右は手水舎。スリムで大きな「金刀比羅大権現、天照皇大神宮、住吉大明神」の銘が刻まれた常夜灯は、頂に付く開いた受花と宝珠が印象に残る。海が間近なため境内に大きな樹々がなく風の通りはいい。それだけに海からも、近隣からも社殿の存在は一目で分かる。社殿全景。拝殿は妻入りの唐破風向拝を持ち、本殿は向千鳥破風が付く入母屋造りで何れも銅板葺。本殿左の境内社は尾道港の整備発展に貢献した平山角左衛門を祀る平山霊神社が鎮座する。1820年(文政3)に寄進された手水鉢。境内は主にこの年代の寄進物が多く、それらは問屋の屋号と寄進者の名が刻まれている。社頭左の流造の社は社名がなく詳細は分からないが、外削ぎの置き千木と3本の鰹木から定説に従えば男神を祀るものだろう。千木の脇から飛び出た鳥衾の形は舵の様にも見える。境内右に遥拝石。左側の「力石」北前舟が寄港する事で荷役に従事する者が集まる。機械化以前の時代、彼らはここで自らの力を自慢しプレゼンする場でもあったのかもしれない。雇用条件もこの石の重さで推し量っていた?人を評価するのは難しいもの、目標設定も決めにくいものだ、持ち上げられる石のランクで評価したとすると主観や感情が介在しない分かりやすい評価基準だ。地方によっては力石で村一番の娘をかみさんに迎えることも出来た事もあったと云う。正しい力石の解説は以下「尾道の港が北前船の寄港地として繁盛した江戸時代、浜の中仕連中がこれ等の石をもち上げて力比べをしたようです、見事持ち上げた者の名前が刻んであります」平山霊神社。こちらも社頭の社と同様の造り、後方の石碑は広島藩士で尾道町奉行として尾道を開いた平山角左衛門の功績を称えた碑文が刻まれている。土堂「住吉神社」は飛鳥時代創建の浄土寺の境内に鎮座していた。江戸時代の1741年(寛保元年)、尾道の町奉行・平山角左衛門が住吉浜を築造した際に社殿を新造して遷宮された。住吉神社は港の守護神として航海の安全や商売繁盛の神様として信仰をあつめている。祭神は墨江三前大神(筒男命、中筒男命、上筒男命三柱の神)拝殿の唐破風と天狗の鼻のように飛び出した鳥衾と緑青の深い緑が印象的。神紋は花菱紋だろうか。向拝の透かし彫り、鈴紐は下ろされていなかった。この奥に「金刀比羅宮、恵美須大神、住吉大神」と記された拝殿額がある。(手振れで見れたものじゃない)住吉神社御朱印は千光寺ロープウエイの下に鎮座する艮神社で頂ける。海岸通りから見る本殿。3本の鰹木のみで千木がない事から舟の舳先のように飛び出た鳥衾の存在が際立っている。神社後方からの眺め。木造の社殿は柿渋?の色だろうか、夕陽を浴びて社殿は赤く染まり出した。住吉神社後方に一部雁木が残る、力自慢の者たちが北前船から荷を運ぶ姿が浮かんでくる。時代は変り今は浮き桟橋にヨットが係留されていた。桟橋の柱や護岸の色の違いを見ると干満の差がよく分かる。大声を出せば対岸に届きそうな距離感ですが、それだけに水道を行き来する舟にとっては気の抜けない場所だろう。港の守護神として、航海の安全を護る住吉神社は今もその役割を担っている。住吉社創建 / 不明(1741年(寛保元年)遷座)主祭神 / 墨江三前神(筒男命、中筒男命、上筒男命の三柱)配神 / 大物主櫛甕玉命、事代主命、宇気持命、須佐之男命境内社 / 平山霊神社、不明社所在地 / 広島県尾道市土堂2-10-12参拝日 / 2022/4/19公共交通機関アクセス / JR山陽本線「尾道」駅降車 東に徒歩15分程関連記事 / 全国一ノ宮巡り 愛媛・広島、「伊予の國一ノ宮 大山祇神社」
2022.05.16
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垂井町岩手字伊吹「伊富岐神社」西に伊吹山を仰ぎ神社はその東山麓に鎮座する。東側の垂井方向には延々と田畑が広がり、南に旧中山道が関ケ原に向け西に続き旧中山道の松並木が今も残り街道の面影が残る。社頭に掲げられた解説板・古代伊富岐山麓に勢力を張っていた伊福氏の祖神を祀る。・神社付近には石器時代の遺跡や山頂古墳も多く、古代の豪族が住んでいたことも明らか。・古来より美濃の二之宮として崇敬されている。・岐阜県指定の天然記念物の杉の古木がある。伊富岐神社の参道は御覧の様に一直線に長く社叢へ続く。社号標は「式内縣社 伊富岐神社」とあり、社標の前に神橋らしき痕跡が残っている事から社号標の建つ位置が元々の参道なのかもしれない、或いは舗装路を通すにあたって神橋は半分に削られたものか?周辺には鳥居の礎石らしきものは残っているものの鳥居は何処?反対側の参道に視線を向けてもその姿はなく見えるのは養老山系の山並みのみ。鳥居はここから更に直線約1㌔ほど南に向かい、国道を越えた旧中山道沿いに立っています。どんだけ長い参道なんだろう、見えない鳥居まで戻るのはやめて先に進もう。境内全景。常夜灯の先に神橋と右にも石橋が架けられている、更に右に熊のマークが掲げられていた。社叢は杉を主にしたもので社殿の見え方からして相当な樹高がありそうだ。・・・いるよなぁこの環境、定期的に爆竹も鳴っているし。烏も不気味なくらい群れをなしているが爆竹如きでは驚かないようだ。唐破風向拝の付く拝殿が近づいてきた、神橋左に境内社が祀られているようです。神橋、というか太鼓橋だ、橋を越えた左に手水舎。右手の石橋と熊。左手の祠、中は見通せず詳細は不明。その先の境内社、常夜灯から先は石橋が架けられ趣は弁天社のようだ、詳細は不明。本殿左には巴紋が刻まれた三脚燈籠がある、この大きさのものはあまり見覚えがない。石橋から眺める手水舎、龍口からは一筋の清水が鉢に注がれていた。石造太鼓橋。側面から見ると反り加減がよく分かる、年代は見つけられなかった。その他にも尾張氏の祖神天火明命等がある。社殿域の境内は二段に造成され、一段目に拝殿、二段目は外周を透塀で囲い本殿が建つ。拝殿左の天然記念物の杉の巨木は見事なものだ。冒頭の解説から祭神は古代伊富岐山麓に勢力を張っていた伊福氏の祖神を祀る。古来より美濃國二之宮として崇敬されている、ここから車で南東に10分程で一之宮の南宮大社が鎮座する。創建時期は不明、祭神についても諸説あるようです。木曽路名所図会によれば「垂井と関ケ原の間にある野上の伊吹村にあり、祭神は鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアワセズノミコト)、鳥居額伊富岐大明神、野上、伊吹の産土神」の記録が見られる。・岐阜神社庁によると主祭神は多多美彦命。・木曽路名所図会によると鸕鶿草葺不合尊。解説にある様にこの地には古くから人が居住し、複数の古墳などが点在します。この地の豪族伊福氏の祖神となると八岐大蛇ともなる。ここでは神社庁の主祭神「多多美彦命」とする。境内右側は社務所、平時は無人のようだ。拝殿前は2対の狛犬が守護する。寄進年度を見忘れはっきり言えないが、この狛犬の方が歳は上かも知れない。社殿は1600年(慶長5)に関ケ原の合戦で焼失し、1636年(寛永13)に再建されたものという。拝殿は入母屋瓦葺で唐破風向拝を持つ落ち着いた佇まいをしている。拝殿右に伊富岐神社棟礼解説・伊富岐神社は「文徳天皇実録」、仁寿2年(853)の項に「美濃国伊富岐神」の名が見え、美濃の二之宮として古い神社である。・慶長5年(1600)の関ケ原合戦で、社殿が兵火にかかり焼失したといわれている。・伊富岐神社の棟礼には、慶長11年(1606)のものと、寛永13年(1636)のものがあり、合戦後まもなく社殿が再興されたことを物語っている。拝殿前の狛犬。肉付きの良い体格と頭部大きさの比率が良く凛々しい。伊吹神社 大杉・根元周囲約9.6㍍、目通り約6.6㍍、高さ約30㍍。・地上5㍍付近から幹は4本に分れる。・言い伝えでは関ケ原の合戦の際、社殿は兵火にかかるも、御神体は幹が分かれた所に安置してあったので安泰だった。・古来から御神木として仰がれている。樹齢は不明だがこうして仰ぎ見る4本に分かれた杉の巨木、なにかが住み着いているようだ。ひょっとして八岐大蛇くらいいるかもしれない。拝殿、素木造りで派手な飾り金具は見当たらない。向拝には桐紋や波の彫飾りが見られる。装飾は主にこの向拝に注がれているようで、鳳凰、鶴、獅子、獏など彫り込まれている。拝殿内から本殿方向の眺め。鈍く光る大きな鏡が梁に架けられている。拝殿右の手水鉢、享保元年に伊吹村から寄進されたもの、300年を経ても元号が鮮明に残る。拝殿右側から社殿を眺める。拝殿は右の幣殿に繋がり本殿へ続く。本殿域は瓦屋根の透塀が周囲を取り囲んでいる。本殿域全景。この辺りは今でも屈指の降雪地帯、全ての屋根は赤い鋼番で葺かれている。幣殿は入母屋平入で本殿方向にも棟が伸び、入母屋造の本殿向拝下まで軒先が伸びている。本殿手前の摂社は流造の鋼板葺、詳細は不明。拝殿左の本殿域、透塀の朽ち方が痛々しい。二之宮とはいえ現状はこうしたものだ、賽銭や御朱印など正攻法の在り方では維持も出来ない現実が見えてくる。左側の本殿域。こちらも右側と同仕様の社が建っているが由緒等の案内が見当たらなかった。拝殿の棟を遥かに超える大杉、枝すら写り込まない。社務所東の道筋を歩いて見た、そこには古い道標が立っていた。更に進むとフェンスに囲われた大きな田んぼに突き当る。猪熊も出れば蛍も舞う、田畑にはカラスの黒い塊がある、爆竹で飛び立つその群れはさながらヒッチコックの世界だ、自然と人の生活圏の境がここにある。一ノ宮の賑わいとはかけ離れた静かに佇む産神様の姿がここにはある。好きな神社かも知れない。美濃國二之宮 伊富岐神社創建 / 不明(852年(仁寿2)官社に列する記録あり)祭神 / 多多美彦命境内社 / 不明所在地 / 岐阜県不破郡垂井町岩手字伊吹1484-1訪問日 / 2022/03/24車アクセス / 名神高速関ケ原ICより東へ県道56号線➡国道21号線経由車で約10分関連記事 / 美濃国一宮『南宮大社』
2022.05.15
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5/10~12二泊三日で下野國一之宮の「日光二荒山神社、宇都宮二荒山神社」を巡る。今回は全てかみさん任せの電車旅、車窓の景色を眺めながら酒が飲める。名古屋駅を7:00前の新幹線で東京に向かい、東武鉄道浅草駅から日光まで移動、現地ではバスと徒歩での移動。8:50東武鉄道浅草駅 特急スペーシアに乗り込む。かみさん、これに乗りたかったらしい。金色の新幹線もどきだが、座席間隔にとても余裕があり快適だった。車内販売はないので乗車前に飲食物の購入が必要。11:00東武日光駅到着、ここからバスに乗り換える、GWを終え一時の賑わいはなく行列を覚悟していたがそれはなく嬉しい誤算。駅前の日光軌道線車輛、少し前までは日光駅と馬返までの市内を結ぶ路面電車として活躍、今は動輪が外されここで展示されていた。11:30いろは坂二日間フリーチケットを駅で買い求め、現地での移動はバスと徒歩。いろは坂、休日や日中には絶対に踏み入れてはいけない、国道でありながらひたすら渋滞のイメージしかない道。この日は全く車列はなく、渋滞のイメージは皆無、それでもここを車で通るなら夜中か早朝だろう。明智平バス停で降車、目の前の明智平ロープウエイ。男体山や中禅寺湖、華厳の滝を一望できる5分間の空中散歩を楽しみ展望台へ。明智平・・・どこまでが真実なのかねぇ。ここで団子と大きな焼き鳥を食べ昼食とする。フリーチケットを提示するとロープウェイの往復料金1000円が100円引きになります。12:30展望台からの眺望。目の前の男体山、噴いてはいないが、嘗ての活動の痕跡を見ると怖い物がある。フライフィシッグ発祥の地と言っても過言ではない中禅寺湖と落差97㍍の華厳の滝。僅かな期間しか楽しめない鮮やかな新緑に包まれた青い中禅寺湖と白く流れ落ちる滝。長期予報では期待していなかった眺望をこうして見られるのはラッキーだ。13:15ザ・リッツ・カールトン日光バス停で降車、下野國一之宮二荒山神社中宮祠に向かう。多少歩くが中禅寺湖湖畔や周囲の新緑、名残の桜を眺めながらの時間は苦にならない。二荒山神社中宮祠社頭。日光二荒山神社は男体山山頂に奥宮、ここ中禅寺湖畔に鎮座する中宮祠、東照宮の西に鎮座する本社の三社で構成されています。下野國一之宮はここ二荒山神社と宇都宮の二荒山神社の二社があり、識別化のために日光二荒山神社と宇都宮二荒山神社として区別している。湖畔沿いを伸びる国道沿いに社標と鳥居が立ち、緩やかな石段の先に神門が見える。神門。正面に伽藍が広がる。拝殿・本殿全景祭神 二荒山大神。(大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命の親子三神を祀る)奥宮登拝口拝殿右方向にあり、霊峰男体山(標高2,486㍍)の頂に鎮座する奥宮に繋がる。古くより、霊峰二荒山(ふたらさん)として神の鎮まる山として尊崇され、御神体山と仰ぐ神社で、日光の氏神様。石楠花の名残がチラホラと。ここから奥宮は山支度の装備でしか辿り着けません。中禅寺湖と脇参道。境内右側の参道を進むと湖畔沿いの国道に交わる。所在地 / 栃木県日光市中宮祠2484中宮から日光自然博物館方向へ20分程歩き華厳の滝観瀑台に向かう。上14:15二荒山神社境外末社「華厳神社」到着祭神 / 二荒山大神、水波能売命観瀑台に続く有料EVはこのエリアにあります。下華厳の滝 落差97㍍の滝、観瀑台までは有料EVで降りる。観光バスの連なる姿も戻り、復活した修学旅行生達に遭遇、子供達の騒がしさも戻ってきた。所在地 / 栃木県日光市中宮祠2479-2ここからバスで東照宮近くの西参道バス停まで約40分の移動時間。15:50良い縁坂の石畳を上り大猷院入口左と二荒山神社本社社頭到着。今日は二荒山神社本社を参拝し、家光公霊廟がある大猷院や日光東照宮は明日一日かけて参拝する。日光二荒山神社、日光東照宮、日光山輪王寺は世界遺産にも認定されています。日光二荒山神社の始まりは、767年に勝道上人が男体山の神を祭る祠を建立したことがが起源とされ、男体山の頂上の二荒山神社奥宮は782年に建てられ、本社と奥宮の中間に位置する中宮祠は784年に建立されたという。祭神は二荒山大神 大己貴命、田心姫命、味耜高彦。上常高寺 常行堂 法華堂下輪王寺 大猷院 仁王門。参拝したいところですが神社は17時にはクローズされます。明日朝でいいだろう、そもそもここ二荒山神社本社すら明日の予定でいただけに初日に参拝で来ただけでで十分だ。下野國一之宮 二荒山神社本社社頭。神門へは緩やかな石段が続く、途中に縁結びの御神木がある。上拝殿及び本殿の社殿全景。下絢爛豪華な本殿と左に化灯籠。朋友神社祭神は少彦名命を祀る、創建は不明ですが手水鉢に1753年(宝暦3)と刻まれている。遠くから見るとガマガエルのような個性的な狛犬は1832年(天保3)と刻まれている、しっかり角を持ち、おめめパッチリの印象に残る姿。創建1745年(延享2)とされる大国殿、資料館的な位置づけの建物だ。朋友神社、大国殿より奥は商魂逞しさを感じる賽銭、御朱印大量発行エリア。下栃木県文化財 宝刀 大太刀 太郎丸南北朝時代(14世紀)の作とされ神社に奉納されたもの。総長2.655㍍、刀長1.792㍍、重さ7.2㌔の太刀。この辺りで巫女さんが賽銭箱を回収して周る姿を盛んに目にする、時計を見ていたつもりはないが営業終了時間17:00が近づいて来たようだ。何か閉店間際の飲み屋に来たような気分になった、せめて参拝者が立ち去ってから回収してもいいような気がする。ニノ鳥居から楼門、東照宮五重塔方向の眺め。営業終了時間も間近、蛍の光が流れる前にホテルに向かおう。所在地 / 栃木県日光市山内230717:00今夜の宿日光千姫物語に到着。明日はここを拠点に日光東照宮を参拝します。ロビーからホールの眺め、緑が綺麗な時期だ。日光温泉 日光千姫物語所在地 / 栃木県日光市安川町6-48下野國一之宮 日光二荒山神社参拝日 / 2022/05/10今回の移動ルート
2022.05.14
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岐阜県瑞浪市土岐町4月30日、久し振りに「小左衛門 春のお披露目会」に向かった。土岐川に架かる土岐橋を渡れば中島酒造は目の前。土岐橋から上流を眺めると二つの橋が見える。左は土岐川に架かる「瑞浪大橋」、右が小里川に架かる「はらこ橋」二つの河川がここで一つになる。川が合流するように道も交わる、この辺り江戸時代は右手に三河と中山道を結ぶ三河街道と左手の下街道が交わる辻町でもある。開門までには時間もあり、一人周辺を散策する事にした。中島酒造から東の閑静な住宅街、ものの1、2分も歩くと道路の角っこに道標が立っていた。見ようによってはただの邪魔っ気な岩、街中ならすぐに行政に苦情が来そうなものかもしれない。これが「戸切辻の三河街道道標」、ここを左に折れ小里川の堤方向へ向かう。以前の「はらこ橋」は現在の場所から少し上流に架けられていたと云う。この道は当時の「はらこ橋」に続いていた。道標を左に入り少し行くと左手に古くからある細い路地がある。ゆとりを持って民家が立ち並ぶ、その一画に建つ小さな堂が目に止まる。「益見地区 中切地蔵菩薩」と案内板が掲げられている。広い区画の奥に建つ切妻瓦葺の小さな堂。街中で追いやられる様に佇む姿とはかけ離れたものがある。安置されるお地蔵さま。帽子に前掛け・・・現在も地元の方から大切にされているのが伝わってくる。おめかしされたお地蔵さま、銘文は読み取れるはずもなく、お顔だけ拝ませてもらう。相当年月を経ているようで表情は窺えないが、はっきりした鼻筋が印象的な素朴な顔立ちのお地蔵さま。瑞浪にはこうしたお地蔵さまが幾つか残るようで、地域でそれらを紹介していた。それによると「旧三河道に面し、子守り地蔵として近在の信奉が厚い。丸彫り 像高88㌢ 肩周り92㌢ 蓮台高17㌢」昔からこの地の子の安全と健やかな成長を見守るお地蔵様として、旅人からは安全を祈願し道標ともなったお地蔵さまなんだろう。この先の橋は移されてしまったが、道標もお地蔵さまも今も当時の道筋に佇んでいる。所在地 / 岐阜県瑞浪市土岐町71公共交通機関アクセス / JR中央線瑞浪駅から徒歩15分前後関連記事 / 「小左衛門 春のお披露目会」行ってきました
2022.05.12
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愛知県豊田市足助町飯盛「飯盛山(はんせいざん)香積寺」紅葉で知られる香嵐渓、山間を巴川が流れ、少し下流で足助川と合流し矢作川に注ぐ、夏ともなれば鮎釣りでも知られる。訪れたのは4月4日、この時期は新緑が芽吹きだし山々に桜が咲く清々しい時期。香積寺は巴川右岸の右手に見える飯盛山に鎮座します。山の名は仏前などに供える香飯の形に似ている事から付いたとされる。平安時代末期浦野重遠の孫・重長が三河国足助の飯盛山に移り住み足助氏を称したことに始まり、代々この飯盛山や周辺に城を構え本拠とした、急峻な地形を生かした山城は足助七屋敷の主城とされたが足助氏滅亡後、その菩提を弔うために飯盛山城跡に創建されたのが香積寺とされる。直ぐ東の真弓山には復元された足助城も近く、先に掲載した藤ノ木神明社の北側にあった成瀬城跡もその一つとされ、一帯には山城が聳えていた。飯盛山周辺のマップ、香積寺は丸で囲ったあたりになります。紅葉の時期はとんでもなく混むイメージしかないが、この時期はそうした事もなくゆったりと散策出来る。巴川右岸に続く歩道沿いに飯盛山に向け香積寺参道が続く。右手に1738年(元文3)の銘が刻まれた不許葷酒入山門の石標が立っている。飯盛山香積寺の概略杉木立ともみじの香積寺は曹洞宗の古刹。応永34年(1427)足助氏居館跡に創建された。開基は関白二条良基と成瀬三吉丸(尾張犬山城主成瀬家の祖)、開山は白峰祥瑞禅師。かっては学林として栄え、時には100名もの雲水が参禅した。もみじの開祖11世参栄禅師、画技にも卓越した25世風外禅師は有名で風外禅師の絵を多数所蔵する。総門切妻瓦葺の薬医門は江戸初期のものとされ、紅葉の時期や新緑の頃には趣が増す。香積寺の見所といってもいいだろう。総門から淡い緑が芽吹きだした巴川方向の眺め。静けさに包まれ、新緑と桜に彩られたこの時期の門もいいものです。参道が本堂方向の伽藍。寄棟の本堂と右側に鐘楼、その奥に庫裏、本堂左に手水舎と僧堂が主な伽藍。寺号の香積寺は維摩経香積仏国品を典拠として名付けられたという。概略にもあったように、香嵐渓のもみじの始まりは参栄禅師が巴川沿いの参道に植えたのが始まりで、その後大正末期から町民による植樹活動により今の姿となった。香嵐渓の始まりは昭和5年に香積寺の香と嵐気の嵐の二文字を取って「香嵐渓」と名付けられたという。飯盛山のカタクリの群生地も住民の活動による賜物だ。境内左側に朱塗りの鳥居があり、飯盛山中腹の奥の院に参道が続く。寄棟瓦葺の本堂は1722年(享保7)のものとされ大棟には鯱が乗せられている。手水舎から本堂方向。手水舎と僧堂。切妻瓦葺で1820年(文政3)の棟札が残ると云う。僧堂入口の解説。この地に現存する江戸後期の建造物では唯一のもののようだ。堂内に安置される文殊菩薩。どこぞの国で人を恫喝する険しい表情の指導者、鏡に映る自分の顔と見比べてみたらどうか、座禅でも組み現実を見つめ直したらどうか。境内右に市文化財の木造毘沙門天立像と本尊聖観世音菩薩の解説。木造毘沙門天立像。平安時代に作られたものとされ、庫裏の土間に安置されていた。本堂の棟に乗る鯱と下り藤の紋。本堂の山号額。内陣の寺号額。穏やかな表情の本尊聖観世音菩薩。 本堂左の朱の鳥居は豊栄稲荷。ここから更に左にもう一つ鳥居がある、飯盛山中腹に向かって参道が続き奥の院に繋がる。奥の院への参道入口。右の手水鉢は側面に文字が刻まれているが元号部分が欠落し判別できなかった。鳥居左に宝物庫と弘法堂。ここから登りが始まる。参道途中には歴代禅師、鈴木家五代の墓、装束塚などが急峻な斜面を均して祀られている。十六羅漢像と歴代禅師の供養塔、ここには開祖白峯禅師、もみじの開祖11世参栄禅師、数々の作品を残した25世風外禅師の供養塔がある、石灯籠は1749年(寛延2)に寄進されたもの。鈴木五代の墓。室町時代から戦国時代にわたり足助城に在城しこの地を治めた鈴木氏五代の墓。装束塚。京の戦乱を避け当地を訪れた二条関白良基、足助次郎重範は待女に娘の滝野を仕えさした。やがて二人に三吉丸(後の基久で犬山城主成瀬家の先祖となる)を授かる。戦乱は収まり良基は一人京に戻るが、滝野はこの地に残されやがて良基の死を伝え聞く。滝野は良基の残した装束をここに埋めたとされ、ここには足助次郎重範、滝野、成瀬基久、基直が眠る。豊栄稲荷奥の院。こうした参道を登る事10分程だろうか。参道の行き止まりの斜面に覆屋が建ち、中には小さな狛狐が安置された社が祀られている。上燈籠は1724年(享保9)に寄進されたもの、創建等詳細は不明。本堂は随分と下にある。下奥の宮から戻る途中の参道から眺める香積寺の伽藍。既に北斜面のカタクリ群生地を徘徊してきた足には少しつらいものがある、所に依り滑りやすい場所もあり手摺もないので甘く見ると転倒につながる。境内に戻り、手水舎の下から右に下る豊栄稲荷の参道を下りて行きます。巴川沿いの散策路に出る、そこには苔庭と25世風外禅師の碑が建っていた。香積寺宗派 / 曹洞宗山号 / 飯盛山 開山 / 1427年(応永34)、白峰禅師開基 / 二条良基ほか本尊 / 聖観世音菩薩境内社 / 豊栄稲荷所在地 / 愛知県豊田市足助町飯盛39公共交通機関アクセス / ---車アクセス / 猿投グリーンロード力石IC右左折➡国道153号線足助方面へ 30分程参拝日 / 2022/04/04関連記事 / 藤ノ木「神明社」豊田市近岡町、香嵐渓へリベンジ
2022.05.09
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名古屋市北区大杉1 首塚社2月頃の話だろうか、5月に当社が廃祀されるという情報を頂きました。5月5日、街角から姿を消す前に首塚社を訪れて来た。中産連ビルから北に続く道筋。北垂れの下り坂、下り切る少し手前に首塚社の白い幟がはためいていた。前回訪れたのが2020年、2年ぶりに訪れたが外観に大きな傷みもなく白い幟は今も綺麗なままだ。以前のままの光景だ、この光景から首塚社が消えてしまうのか。社頭から眺める拝所の中も朽ち果てた様子はなく、今もここを訪れる参拝者は絶えることがないようだ。変わらないね。覆屋の中も。本殿域も朽ちた様子はなく、供えられた榊や花も枯れ果てたものではない。多くの願いを聞いて来た重軽石も綺麗なものだ。今も首塚社を訪れる人の温もりがある。進む老眼と年相応に始まった白内障、二年ぶりに参拝させてもらいました。坂の下にあたりまえの様に白い幟のはためく首塚社が廃祀とは寂しいものだ。いや〃、拝所に目を転じるとお知らせが掲示されていた。タイトルは「再びのお知らせ」とあった。それによると大杉学区並びに廃祀を惜しむ方々の働きかけにより廃祀を免れ、大杉町内に鎮座する曹洞宗の寺院「明照山普光寺」に遷座する事に決まったようです。当初5月26日は廃社の儀が執り行われる予定でした、それが移転の儀へと嬉しい変更。普光寺ならば金色に輝く大仏様をはじめとした諸先輩方からも快く受け入れてくれるだろう。遷座先明照山普光寺 / 名古屋市北区大杉3-12-8こうした光景が失せてしまうのは寂しい限りですが、北に10分も歩けば首塚社があると思えば・・・町角からこうした光景や道端のお地蔵さんが居場所を追われ人知れず消えていき、僅かな時間で何があったかすら思い出せなくなる、寂しいものです。幸いにも首塚社は新たな場所で歴史を刻むことになる、また伺う事にしよう。首塚社創建 / 不明祭神 / 不明住所 / 名古屋市北区大杉1-15-2参拝日 / 2022/05/05公共交通機関アクセス / 名鉄瀬戸線「尼ケ坂」駅⇒地蔵院⇒首塚社へ徒歩10分 地蔵院から西へテクテクと5分程関連記事 / 首塚社
2022.05.08
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瀬戸市巡間町、大目(おおめ)神社。東海環状自動車道「せと赤津IC」の西側にあたり、猿投山から北に続く山麗に鎮座します。田畑の広がる光景を眺めながら県道22号線を北に向かう。東海環状自動車道建設により造成が進んだ一帯、やがて右手に大目神社の杜だけがポツンと取り残されように見えてくる。こんもりと盛り上がった小高い丘は社叢で包まれ、造成された周辺にあって緑の島が浮かんでいるようでもある。緑の森の南側に白い石造の明神鳥居が神社の存在を表している。社頭。趣のある鳥居右手に「式内 大目神社」の社標。参道は二手に別れ、正参道は石段を経て境内に進む正面の参道と右手は祭礼用の車の乗り入れ口で境内まで舗装路が続く。額束には「八王子」と刻まれている。大目神社は延喜式神名帳や尾張名所図会にも記される長い歴史を持つ神社で、古くから赤津集落の氏神と崇敬されて来た。創建は定かではない、往古は大目天神と呼ばれたこともあったようで、いつしか社号は失せ御守塚とか呼ばれた時期もあった。1840年(天保11)10月「尾張国神名帳」の古写本一巻が見つかり、その奥書に「奉納大目八王子宮」と記されていたという。額束に刻まれた「八王子」はその当時の名残だろう。この鳥居は瀬戸市の有形文化財に指定されている。鳥居の先で二手に別れた参道と右側に鳥居の解説が掲げられている。市指定有形文化財石造鳥居(大目神社)平安時代初期の延喜式神名帳に載る古い神社で、赤津地区の氏神として住民から敬われている。・製作年 1755年(宝暦5)・構造 明神鳥居 花崗岩製・規模 高さ387㌢・銘文 宝暦5年乙亥9月吉日江戸時代に建立され、市内では山口地区の八幡神社(1677年製)に次ぐ古いもの。この時代に建てられた鳥居は、二基のみで貴重な存在である。規模が大きく堂々とした風格である。参道の石段を上ると石灯籠と手前に古い手水鉢。正面に文字が刻まれていたが表面は砂で覆われ読み取れない。一度洗ってやれば見えてくるのでは。境内全景。入母屋瓦葺の妻入り拝殿と本殿、左にも境内社が祀られている。社殿後方の杜が僅かに盛り上がっている、お守塚と呼ばれた事からも古墳を連想させる。事実本殿後方の高まりは大目神社古墳と呼ばれる大きさ直径10㍍程の円墳があった。現在は本殿裏の斜面に丸太鳥居と石で組まれた石室に小さな石の社が祀られている。大目神社の由来はこのお守塚や鎮座地が古くは大目森と呼ばれた事に由来すると云う。大目の読みも「おおめ」以外に「おおま」や「おおもく」などとも呼ぶようだ。手水舎、自然石を削った手水鉢に氏子中と刻まれていたが寄進年度は不明。社殿全景。本殿左の覆屋。白坂八幡社、白山社、今坂神明社、山路八幡社の四社が合祀されている。覆屋左の燈籠の奥にも石の社や小社が祀られ、覆屋から右の斜面沿いに参道が伸びています。先に進むと本殿裏あたりの斜面に丸太鳥居があり、鳥居の奥は古墳の石室らしき空洞がある。そこには小さな石の社が祀られ、山口八幡社の稲荷社と似た雰囲気がある。誰を埋葬したものかは分からないが、本殿は間違いなく墳丘の一部を切り崩し整地し、その上に建てられたものだろう。参道は更に右に続き藤四郎神社に至ります。写真を掲載する所ですが、拝殿撮影後に撮影するつもりで撮り忘れていました。機会を見て撮影、掲載する事にします。伽藍側面全景。本殿左に写り込む建物は陶祖藤四郎神社。本殿は木造の銅板葺の流造で天忍穗美美命、天乃菩日命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、多岐理姫命、一寸島姫命、多岐都姫命の天照皇大神の五男三女を祀る。左の脇障子の後方に撮り忘れた石室が写り込んでいる。拝殿左右の狛犬。四方吹き抜けの拝殿正面全景、落ち着きのある佇まいだ。大目神社拝殿扁額と略記。「創建は明らかでないが奈良時代に遡り、古くは八王子社と呼ばれていたといわれ、由緒ある式内社です。又その鎮座地が古く「大目森」とも「御守塚」とも呼ばれていたことから神社の名称が大目神社となったと想われる。」祭礼・月次祭 毎月第二日曜日。・例大祭 10月吉日。・師走大祓式 12月31日午後4時。主な祈願・祈祷・家内安全、良縁、安産、工場安全、交通安全、自動車清祓、病気平癒、七五三祭(11月中)、赤丸神事(小児虫封じ)、初宮祈願など。宮司さんは月次祭のある第二日曜日以外は不在の様です。拝殿の格子天井。地元の各窯元から奉納された50枚の陶器の絵皿が千鳥に配置され天井を飾る。瀬戸焼発祥の地らしいもので、本殿右には陶祖「加藤四郎左衛門景正」を祀る藤四郎神社がある。拝殿から本殿方向、本殿域の前を守護する狛犬の面々。本殿右の境内社藤四郎神社、右の石碑は戦後記念碑。藤四郎神社前を守護する狛犬。覆殿内の陶祖 藤四郎神社本殿。左のプレートに藤四郎神社の名はあるが由緒等は記されていなかった。鎌倉時代に加藤四郎左衛門景正(春慶)がこの地で瀬戸窯を開いたとされる事から「陶祖」と称される。陶祖・藤四郎と所縁のある神社と聞くと、ここから西の深川町に鎮座する深川神社の陶彦社が思い当たる。大目神社と藤四郎の関りや大目神社に藤四郎神社が祀られた経緯等このプレートからはよく分からない。境内東側から伽藍の眺め、こうして右側を見ると古墳の雰囲気がある。瀬戸市内では二番目に古い明神鳥居から南方向の惣作町方向の眺め。先人が思いを込めて建て、今日まで彼是三世紀近くこの地の移り変わりを見続けて来た鳥居だ。鳥居の綺麗なシルエットに笠木の上に乗せられた石のシルエットは似合わないなぁ。大目神社創建 / 不明祭神 / 五男三女境内社 / 藤四郎神社、白坂八幡社、白山社、今坂神明社、山路八幡社他所在地 / 瀬戸市巡間町1訪問日 / 2022/03/31車アクセス / 万徳寺から北に5分程関連記事 / 桜咲く寺社、「山口八幡社」、太子山 万徳寺
2022.05.07
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愛媛県の最北端、瀬戸内海の内海に浮かぶ大三島に鎮座する伊予國一ノ宮。今治と広島県尾道を結ぶ「しまなみ海道」のほぼ中央にあたり、サイクリストのメッカでもある。鎮座地は大三島最高峰鷲ヶ頭山から西に続く安神山の麓にあたり、社地の東側には山が迫っている。日本総鎮守(伊予國一ノ宮) 大山祇神社ニノ鳥居から社頭の眺め。社頭の前を横切る道路は県道21号線、一ノ鳥居はここから西に徒歩10分程先に更に歩いた「みやうら海の駅」の船着き場に聳えています。社頭には大きな常夜灯に見上げるように大きな「大日本総鎮守大山祇神社」と刻まれた社号標が立つ。その先の鬱蒼とした杜に包まれた明神鳥居の前にはこれまた大きく逞しい狛犬が社頭を守護する。じつに一ノ宮らしい風格を備えたもの。鳥居から石畳の参道が続き、神橋の先に聳える総門へ続く。この右側は杜が開け絵馬殿と斎田が広がる。ニノ鳥居狛犬、写真から大きさは伝わらないだろう。横長の顔に大きな鼻、横長の目を大きな眼差しで睨みを利かせている。鳥居扁額は「日本国総鎮守 大山積大明神」、緑青の独特色合いも趣がある。神橋左に「延喜式内社 伊豫國一宮 大山祇神社」の社号標。総門も大きく見えるがまだ〃先だ。参道右側に大山祇神社の由緒と境内マップ。「当神社は瀬戸内海にあって景勝の地芸予海峡の中央に位置し国立公園大三島に、日本最古の原始社叢の楠群に覆われた境内に鎮座する。御祭神は大山積大神一座で天照大神の兄神に当たる。天孫瓊々杵尊降臨の際、大山積大神、吾田国主事勝国勝長狭命(大山積神の擬神体)は女木花開耶姫尊を瓊々杵尊の后姫とし、国を奉られたわが国建国の大神であるが、同時に和多志大神と称せられ地神・海神兼備の霊神であるので日本民族の総氏神として古来日本総鎮守と御社号を申し上げた。大三島に御鎮座されたのは、神武天皇御東征のみぎり、祭神の子孫、小千命が先駆者として伊予二名島(四国)に渡り瀬戸内海の治安を司っていたとき芸予海峡の要衝である御島(大三島)に鎮座したことに始まる。本社は社号を日本総鎮守・三島大明神・大三島宮と称し歴代朝廷の尊崇、国民一般の崇敬篤く奈良時代までに全国津々浦々に御分社が奉斎せられた。延喜式には名神大社に列し、伊予国一の宮に定められ、官制に依り国幣大社に列せられた四国唯一の大社である。 現在官制は廃せられたが、地神・海神兼備の大霊神として千古の昔に変わらぬ崇敬を寄せられ、全国に奉斎される大山祇神社・三島神社の総本社として、又数万点に及ぶ国宝類を蔵する国宝の島として四季を通じて多数の参拝がある。」広大な境内には多くの境内社や展示館が点在し、限られた時間でそれら全ての参拝はなかなか難しいかもしれない。絵馬殿。ニノ鳥居から右に進んだ県道沿いに面して建つ。自転車置場と休憩施設も兼ねているようですが、建屋内には複数の絵馬や劔などの奉納品が展示されている。この正面が斎田になります。斎田とその先の入母屋造の建物が御桟敷殿。伝統神事「御田植祭(旧暦5月5日)」と「抜穂祭(旧暦5月5日)」はこの神田に於て行われます。この時、愛媛県無形民俗文化財一人相撲が奉納される。斎田から御桟敷殿と総門の眺め。杜を構成する樹々は主に楠木のようで、普段身近な神社に聳える一本の楠木ですら大きいと感じるもの、大山祇神社の杜に育つ楠木はそんなのは普通の存在。境内の楠木には天然記念物に指定された38本(一本は境外)を始め、大小約200本の楠木が群生する、これくらいの大きさでは若い部類に入るのかも知れない、大山祇神社は樹を巡る神社でもある。御桟敷殿。斎田を向き建てられ、御田植祭・抜穂祭時に神輿が渡御する。ここまで来ると左には二層の総門は目の前。総門。二層の総檜造りで両間に随神を安置する。現在の総門は2010年に再建されたもので、1322年(元亨2)に焼失以降長きに渡り再建されなかったようです。総門前の狛犬。鳥居前の狛犬と同じ血を引くものだ。総門の額。立派な門でありながら意外に装飾は少ない。随神。門や随神はこれから趣を増していく発展途上。上総門をくぐった左に切妻瓦葺の神馬舎と馬神社が祀られている。現在は神馬はいないという事ですが、建物には1735年(享保20)に松平定喬奉納の棟札があるという。下馬神社。詳細までは調べきれなかった。境内左側に一際目立つ大きな楠がある、その右に社務所と一七神社。社務所左側の天を突く様に聳える楠の老木。既に幹は朽ちて、寄生植物に包まれているがそれでも枝を大きく張り葉を茂らせている。寄生する側、される側もそこには自然の逞しさを感じる事だろう。天然記念物 能因法師 雨乞いの楠「日本最古の楠(樹齢3000年)で後冷泉天皇の御代(900年前)伊予国守 藤原範国は能因法師を使者として祈雨の為参拝させた、其の時「天の川 苗代水にせきくだせ 天降ります 神ならば神」と詠じ幣帛に書付け祈願したところ伊予国中に三日三夜雨が降った(金葉和歌集)と伝えられる。昔から四国は水に苦しむけれど、大きな河川のない小島であれば尚更の事。受け方にもよるけれど、「神様なら少しはこの国にも水を回せ」、そこまで言われれば降らすわなぁ。雨乞の楠、これでも尚生き続けている、樹齢3000年と云えば屋久杉と同じ時期に芽吹いたものだ。荘厳な佇まいは樹齢調査した結果?なんてどうでもよくなる。宇迦神社拝殿。雨乞の楠の陰になり、ひっそりと佇むような趣がある。拝殿前の狛犬は耳を立て、これまで見て来た狛犬の顔つきとはやや違う。尾を立てたスリムな体つきは俊敏さを感じる。本殿。神橋の先に流造の本殿、趣は弁天社のようでもある。祭神は宇賀神。拝殿の前は雨乞い楠で巨樹には蛇が住むと云う、この神社の神様と関連があるのだろうか。十七神社、(諸山積、大気、千鳥、倉柱、轟、阿奈波、比目木邑、宇津、御前、小山、早瀬、速津佐、日知、御子宮、火維、若稚、宮市)、伊予の国の神々を祀る。長屋造りの平安様式を留め、内陣に木彫りの御神体が安置されていると云う。境内中央に目を移す、そこに聳える楠は天然記念物の乎知命手植えの楠。神門前に恰も蕃塀の様にそそり立つ、周囲に樹々がないこともありその存在感は群を抜く。右に手水舎と祓殿神社、葛城神社、伊予国総社。乎知命手植えの楠。樹齢2600年と伝わり古来より御神木として崇められている。この他にも伊藤博文や河野通有兜掛の楠など、一本〃威厳のある巨樹が多数あるが割愛します。上祓殿神社、葛城神社、伊予国総社拝殿と手水舎。下左が祓殿神社、葛城神社、伊予国総社の本殿右が手水舎。神門江戸時代の1661年(寛文元年)に松山藩主松平定長からの寄進された切妻・造檜皮葺の素木の門。近年建て替えられたようで傷みもない、調べて見ると2016年に新たに建て替えたと云う。左右の間に随神も安置されている。大山祇神社の創建は594年(推古天皇2)とも伝わる。大山祇神社は古来日本総鎮守として崇敬され、大正時代には四国唯一の国幣大社に列せられた。本社の祭神は天照大神の兄に当たる大山積大神。山の神、海の神であり渡航の神として崇められ、瀬戸内三島に君臨した村上水軍の守護神として崇敬され、神門に掲げられた折敷に縮み三文字の紋からもそれは窺われる。古くは三島大明神や大三島さんとして親しまれている。それ故に当社には甲冑や弁慶が奉納したとされる薙刀、劔などの武具が奉納され、全国の国宝、重文指定の八割がこの宝物館に保存展示されている。上神門から拝殿の眺め。社殿域はこの神門と廻廊、透塀で囲われ廻廊には北と南に其々門がある。下拝殿から本殿方向の眺め、この左右に黄金色の体をした狛犬が本殿を守護している。主祭神は大山積神。拝殿(重要文化財)室町時代の1427年(応永34)に再された切妻・檜皮葺の素木造で中央に唐破風向拝が付くシックな姿の拝殿。左右に朱塗りの唐破風向拝が付く拝所がある。上本社右の上津社(大雷神、姫神)下本社左の下津社(高神、姫神)と手前右に神水の井戸(水波能売神)摂社の二社と本社を大山祇神社として信仰対象になっている。本社、摂社ともに檜皮葺の流造で本社は1427年(応永34)に再建、上津社も応永年間に再建されたと云われている。上神輿庫。入母屋銅板葺の木造校倉造で中には県指定有形文化財の本社、上津社、下津社の旧神輿3基と新神輿3基の6基がおさめられている。下左から御鉾神社、八重垣神社、酒殿。御鉾神社。大山祇神社本殿の狛犬を除けば、多くの狛犬の中ではユニークな表情をした一番個性的な存在。御鉾神社から左に進むと脇参道に別の狛犬もいる。左が八重垣神社(素盞嗚尊)、酒殿神社(大山積神)、御鉾神社(御鉾大神)。これがその狛犬。寄進年度は比較的新しものですが、小ぶりでやや耳を垂らした小顔の狛犬。小ぶりながら頭上にはしっかり角を持つ。上本殿域北側に鎮座する境内社手前から石神社、稲荷神社、地神社、院内荒神社。下この辺りからだと本社、摂社の姿を良く見ることが出来る。ここから本社後方に回り込んで行く。本社後方に姫小邑神社「木花開耶姫命、火々出見命、火須勢理命」の参道。訪れた時には御覧の状況でこれより先には進めなかった。南門から神橋を渡り社地を出て東に進むと左側に3基の宝筐印塔。中央の一際大きな1基は、時宗の開祖一遍上人が大三島宮参拝の折に奉納した物。1318年(文保2)に建てられたと云われている。ここから南は宝物館、海事博物館があるが諦めて境外を東に進み御神体鷲ヶ頭山方向に向かう。南門から10分程集落を経て山に上る、目指すは唯一境外にある天然記念物「生樹(イキキ)の門」細い道には案内表示もあり、それに導かれていけば辿り着ける。上生樹(イキキ)の門、山肌に聳えるその姿は麓からでも存在が確認できる。下現在見る樹の姿は何本かが寄り添ったように見えますが元は一本の樹。大山祇神社の奥の院(元神宮寺)の参拝通路に聳える樹齢3000年と云われる楠。その根廻りは31㍍を越え、樹の中央は空洞になりそこに奥の院に続く石段が伸びる。生きた樹そのものが神門となっている。根廻りもさることながら樹高や枝ぶりにも驚く、鮮やかな新緑に萌える一つの森と云ってもいい。大山祇神社参拝時は奥の院もしくは生樹(イキキ)の門を目指してみてください。生樹の門をくぐるとすぐ目の前に入母屋瓦葺の奥の院がある。旧神宮寺で中の木造阿弥陀三尊像は大三島文化財に指定されている。さあ、ここから海の駅方向の一ノ鳥居に向かいます。ニノ鳥居から10分程で瀬戸内海の宮浦港に面する「みやうら海の駅」の船着き場に到着。岬の先端に赤い社とその手前の石積みに鶴姫像の姿が見える。海岸線の先に鎮座する赤い建物は大山祇神社摂社阿奈波神社の船着き場、台風により幾度か被害を受け荒れた状態だと聞く、見に行きたいもののまだ先もあるここまでだ。左手前の像は鶴姫の像。海の駅前の防潮壁の先に一ノ鳥居がある、鳥居には「日本総鎮守大山積大明神」と刻まれた石の額が掲げられ、右側に社号標が立つ。ここからが参道の始まりでその先のニノ鳥居へと続く。海と山に接した実に広大な規模を持つ歴史のある神社で一ノ宮の風格が漂う。大山祇神社創建(伝) / 594年(推古天皇2)祭神 / 大山積大神摂社上津社 / 大雷神、姫神下津社 / 高靇神、姫神その他境内社 / 姫小邑神社、荒神社、地神社、稲荷神社、石神社、八重垣神社、御鉾神社、一七社など所在地 / 愛媛県今治市大三島町宮浦3327訪問日 / 2022/4/19関連記事 / 全国一ノ宮巡り 愛媛・広島
2022.05.06
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滋賀県長浜市八幡東町 楽市弁才天琵琶湖北部の南北に長い長浜市の南部にあたり、長浜城を中心とし秀吉が基盤を築いた城下町が広がる。戦国時代に戦いの場となった歴史のある地域で、東には伊吹山を望み、西に琵琶湖と接した自然豊かな景色が広がる土地柄。若かりし頃は若狭の綺麗な海を求め国道8号線を北上したものだ、当時は北陸自動車道が開通する以前で、国道沿いにはドライブインが多くあった時代、当時に比べ国道沿いのドライブインは姿を消し、住宅や大型店舗が連なる住みやすい町に変わったものだ。楽市弁才天は西友を中核にした長浜楽市の駐車場に鎮座しています。用あって偶然立ち寄り店舗入り口の鳥居に目が止まり立ち寄ってみた。店舗入り口にさりげなく石の明神鳥居と右に「楽市弁才天」の社標は立っているが行き交う人は多いながら見向きもされないようだ。石畳の参道のすぐ先に流造の本殿が祀られ、左手には弁天池もある。子供達も訪れる場所柄から池はネットで覆われていた。大きな巨岩の上に祀られた社は銅板葺の流造で内削ぎの千木、鰹木が・・・二本。遠目に綺麗に維持されている様に見えたが、どうやら鰹木は本来4本で二本が取れてしまったようだ。台座後方の建立銘記。略記によれば「此の地域一帯は淨清水湿地帯のため水神を鎮め、地域の発展と長浜楽市守護の為、都久夫須麻神社の祭神である三柱の分霊を勧請した。市杵島比売命(弁才天)、浅井姫命(水神)、宇賀御霊命(商売繁盛の神)、九ノ坪池には土地神を鎮祭する。 平成元年」琵琶湖に浮かぶ竹生島に鎮座する都久夫須麻神社から勧請した企業社のようです。施設は1988年に開業、その翌年に神社が建立されている、当初からその意図はなかったのかな。上は1981年頃の鎮座地周辺。つい最近のことながら周囲一帯には田畑が広がっていたが市街地化はこれ以降急速に進み、田畑は宅地化され地表の土壌は舗装化され湿地が消えていくのが窺われる。水神を鎮めたくなるのもよく分かる。嘗ては田畑が広がっていたこの地に鎮座する楽市弁才天を駐車場から眺める。おやじの町も以前はこうした場所だった、雨が降れば泥濘になり、水溜まりはしばらく乾くことがなかった、宅地化、舗装化され地面から土壌が消えると環境は一転し、そうした事はなく快適になった。代わりに井戸は枯れ、地表に降った雨は地中に浸み込むことなく濁流となって側溝や道路を流れる。清水の湧き出た山裾は乾燥化して何かが変わってしまったようだ。出生率は今後も上がることなく人口は減っていく、自然と調和の取れた開発は相反するものだろうか。最近身近に感じる怖い光景を見ると、快適を求めるあまり一線を越えてしまった自然からの警鐘の様に思える。楽市弁才天創建 / 1989年祭神 / 市杵島比売命(弁才天)、浅井姫命(水神)、宇賀御霊命(商売繁盛の神)、土地神所在地 / 滋賀県長浜市八幡東町9-2訪問日 / 2022/03/27関連記事 / 初めてのバスツアー寺社巡り『櫟野寺・宝厳寺』
2022.05.03
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守山区川東山「三輪白龍社・秋葉大神・辰五郎大明神」ゆとり―とライン白沢渓谷駅で降車、北側の丘陵地を10分程歩いた住宅街に鎮座します。この辺りは庄内川左岸に聳える台地の北端になり、眼下の庄内川と春日井方向の眺望がいい場所。その住宅街の道路脇に「三輪白龍社・秋葉大神・辰五郎大明神」は鎮座します。左側の住宅の一画に石の明神鳥居を構えた社頭があります。上は1968年当時の周辺の地図と現在の比較。当時のこの辺りは宅地化もそれほど進んでおらず、今ほど道路も張り巡らされてはいなかった。鎮座地も地図上では道路は見て取れない。「三輪白龍社・秋葉大神・辰五郎大明神」の創建時期や由来は分からない。恐らくこの地の造成、宅地化に伴い個人が建てられたものかもしれません。歩道から社頭の全景。鳥居右脇に地蔵堂、奥に拝所と玉垣で囲った本殿の伽藍。右手の地蔵堂「延命地蔵」、銘文は見当たらなかったが比較的新しいもので、生花が供えられ崇敬されているのが窺える。鳥居の扁額「辰五郎大明神、三輪白龍、秋葉大神」境内左手に手水鉢。拝所から本殿の眺め。本殿域を小さな狛犬が守護する。社地と左の民家に塀はなく静かに参拝させて頂く。ピンと耳を立て、鬣をなびかせる姿は可愛い体ながら頼もしいものがある。玉石が敷かれた神域、御影石の台座の上に祀られた本殿、鋼板葺の流造に見える。この社に三神が合祀されているようです。三輪白龍社三輪と聞くと奈良県の大物主大神と倭迹迹日百襲姫命の龍伝説のある大神神社、中区大須の三輪神社が思い浮ぶが、こちらと関連があるか定かではない。龍や蛇は昔から家を護る屋敷神として祀られたりする、旧家などで巨樹があると龍や白蛇様として家を護る神が宿るとして崇敬される。辰五郎大明神は五穀豊穣、商売繁盛等の御利益のある稲荷かと思われます、秋葉大神は火を司る神。そして延命地蔵、この神社は町内の守護とコミュニティーの役割を持っているように見える。三輪白龍社・秋葉大神・辰五郎大明神創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / ---所在地 / 名古屋市守山区川東山公共機関アクセス / ゆとりーとライン白沢渓谷降車、北へ徒歩10分以内関連記事(近隣寺社) / 松阪町御嶽神社、龍泉寺1御嶽神社、龍泉寺等
2022.05.02
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豊田市近岡町、少し前の東加茂郡足助町の方が個人的には馴染みがあった。2005年豊田市に編入以降ここから東はさっぱりピンと来なくなった。以前は足助大橋を渡り町内を走っていた国道も、足助トンネルが出来て町中の混雑を避ける事ができるようになり、随分道も変わった。ひと昔前は香嵐渓スケートセンターやスネークセンター、香嵐渓八神の湯なんてレジャー施設もあって渋滞をやり過ごすスポットがあったが何れも姿を消してしまった。往古は塩の道として物資や人の往来もあり、ここから東の市街地は足助宿として賑わい、町屋や川沿いに建つ家並みは今も残る。藤ノ木「神明社」は巴川に架かる足助新橋と国道が交わる足助新橋北交差点の左側に鎮座します。巴川右岸で黍生山の麓にあたり、随分以前から鎮座している。これまで訪れた事はなかったが飯盛山からの帰り道参拝する事にした。社頭全景車の場合、社頭の向かいに黍生山登山者用駐車場があるので心配はいらない。交差点角に神明鳥居が立ち、その右に「村社 神明社」の社号標がある。鳥居をくぐり参道を左方向に進んだ先に狛犬と常夜灯がある。境内左隅に地蔵さんと馬頭さんを安置した御堂があります。(撮り忘れました)境内左は覆い被さるように杉木立が迫る。最初に藤ノ木「神明社」の創建や由緒に繋がる記録に巡り逢わなかった。社殿を守護する狛犬は小振りだがボリューム感のある鬣の持ち主、年齢は聞き忘れました。常夜灯の先は・・・神橋でいいのかな、細い流れの新明寺川が巴川に流れ込んでいます。その先に拝殿、ひと際高い社地に本殿を納めた覆殿が建っています。伽藍全景。城のように高く積まれた石垣の上に覆殿と左右に境内社が祀られています。社地の北側に足助七屋敷の一つ?とされる成瀬城跡もあり、この佇まいはそう思いたくなる雰囲気がある。拝殿は切妻妻入りの瓦葺で四方吹き抜けのもの。外観はプレーンな作りで神明社らしい。本殿へは急な石段を上る事になります。シャープな外観の覆殿の棟には鰹木が6本、内削ぎの千木が施されている。手前の常夜灯か古そうですがこれも寄進年を見ていない。本殿は鰹木6本、内削ぎの千木が付く神明造。祭神は天照大御神。本殿左に稲荷社、祭神は倉稲魂命。こちらは社名札が架けられ始めて訪れた者には有難い。右の社は社名札がなく分からない、不明社です。本殿域全景、この先は巴川が流れる。唯一寄進年を確認したのがこの鳥居、昭和42年(1967)と刻まれていました。藤ノ木「神明社」創建 / 不明祭神 / 天照大御神境内社 / 稲荷社、不明社所在地 / 豊田市近岡町藤ノ木33 神明社訪問日 / 2022/04/04関連記事 / 香嵐渓へリベンジ車アクセス / 猿投グリーンロード力石IC右左折➡国道153号線足助神橋北交差点左 15分程
2022.05.01
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