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入海神社の参拝を済ませ、9番札所明徳寺へは社頭前の師崎街道を南に向かい、東浦町中央図書館の突き当たりで左に進み、国道366号線沿いに明徳寺川を越えます。明徳寺川を越えると、国道の西側を並行して伸びる師崎街道を進みます。街道右手の住宅街の隙間から森が見え隠れする様になります。目指す9番札所明徳寺はその森の西側になります。平坦な師崎街道から森を目指し西に外れると、道は緩やかな上りとなります。「社寺・旧蹟は森を目指せ」をモットーにしていますが、この森も稲荷神社の杜でした。所在地は東浦町大字石浜字下庚申坊、この地名の庚申坊も意味ありげです。上は稲荷神社社頭全景。右手に「村社 稲荷神社」の社号標、石の神明鳥居の先の境内には正面の社殿の他、右手に神楽殿が一望できます。明徳寺へは、社地西側の路地を150メートルほど進んだ先にあります。妻には札所に向かってもらい、私は一人で稲荷神社に参拝しました。社頭の稲荷神社解説。「天文6年(1537)、この地に天王社を建立したというのが神社の最も古い記録である。江戸時代、正徳6年(1716)、境内に稲荷社を建立し、二社が並び建っていた。いつの頃からか稲荷社が主となり稲荷神社と称する。現在は、一宇の社殿に稲荷社の祭神 宇迦之御魂神と天王社の祭神 建速須佐之男神を祀る相殿である。境内奥にある忠魂碑群は、昭和4年(1966)石津住宅団地の造成に伴い移設された。周辺は縄文時代晩期の石浜貝塚があったところである。境内西の奥には、役行者像や富士・立山・白山三信仰の碑がある。また、参道脇には明治期の村の事業を記した植林之碑がある。」東浦町誌(1968)の稲荷神社の記述は以下内容。「稲荷神社 東浦町大字石浜字下庚申坊八番地祭神 宇迦之御魂神境内面積 743坪境内社 八幡社、津島社、大神宮社、天神社、山神社祭日 10月6日社宝什物 刃劍二振由緒宝永2年(1705)再建の棟札の裏に「当社建立天文六丁酉年(1537)四月大吉日 願主 鈴木新左衛門 荒木田守 為井諸人泰加」とある。境内社の津島(天王)社は正応2年(1288)三月 明徳寺川流域の北庚申坊に勧請されたものと、張州雑誌につぎのように記録されている。「天文六丁酉年四月 当村の境川上より流れ来るを荒木田某という者これを取上げ此地に新たに社を営建して鎮座す。これより彼子孫崇尊し神祠を修造して今猶怠らず。荒木田某は伊勢神宮の神主荒木田某の庶子なりしが、故ありて文明年中此に来住す。今里長 鈴木新左衛門と云者則ち荒木田某の末葉なり」荒木田氏は伊勢神宮の禰宜として奉仕した一族、そうしたこともあるのだろう境内に神宮遥拝所も置かれています。参道から社殿の眺め。この光景から稲荷らしさは感じられません。ニノ鳥居の手前は手水舎、神馬像が安置されています。手水舎と後方の石碑群。昭和に入り奉納されたニノ鳥居から拝殿方向の眺め。参道の由緒から一部抜粋。「御祭神 宇迦之御魂神御祭神伝此の神の神の御別名が非常に多い大宣都比賣神、豊受気毘賣神、倉魂神、豊受皇大神、稲魂神、御饌神、大御膳都神、和加宇加乃賣神、豊受賀能賣神などの異名あり。蒼生衣食の道を得せしむる御神徳あり。境内末社八幡社、津島社、津島地主社、五男三女社、太神宮社、天神社、山神社」当然と云えば当然だろうが稲荷神社の祭神については記されますが、牛頭天王を祀る津島(天王)社についてはここには書かれないようです。境内右の神楽殿はコンクリート造りの新しいものです。拝殿。木造社殿ですが綺麗な状態で保たれています。拝殿前の狛犬。頭部と体のバランスがいいものです。寄進年は見たのですが忘れました、大正時代だったような?拝殿額は「稲荷神社」狐の姿を見かけない境内やシックな色合いの木造社殿からも稲荷感は薄い。では参拝。米をはじめとして食料品がなんでもかんでも値上がりし、食卓が寂しくなってきた、せめて食べるものだけは困らないようにお願いしておかなければ。拝殿右側から本殿の眺め、恐らく流造だろう。右手の茶色はまずい奴か?昨年くらいから花粉症になったようで、なるべく避けたい光景です。境内右側の招魂社。長い参道の先には、狛犬が守護する社殿と忠魂碑などの石碑が纏められています。拝殿左から見る本殿域の幣殿と本殿。境内左に富士大権現・立山大権現・白山大権現の碑群と写真の鳥居があります。鳥居左の覆屋は大山祇社、大神宮社、天神社、五男三女社、津島地主社の五社が祀られています。鳥居の正面は八幡社。更に左には多賀社、稲荷神社・津島神社の合殿と大峯山の堂が祀られ、堂内には役行者の姿がありました。境内左の神宮遥拝所。拝殿前から社頭の眺め。狛犬の台座をよく見れば寄進年が写っていました、大正8年(1918)の先人が寄進したものでした。足早に稲荷神社を参拝しました、妻の待つ9番札所明徳寺に向かいます。歩いて巡拝知多四国 稲荷神社創建 / 創建不詳、津島社は正応2年(1288)祭神 / 建速須佐之男命、宇迦之御魂神境内社 / 八幡社、津島社、津島地主社、五男三女社、太神宮社、天神社、山神社、招魂社氏子域 / 東浦町石浜祭例 / 10月第4日曜日参拝日 / 2025/02/15所在地 / 愛知県知多郡東浦町大字石浜字下庚申坊8入海神社から稲荷神社 / 明徳治川を渡り1.5km・約30分ほど関連記事・第2回 歩いて巡拝知多四国 市原稲荷神社・知多四国巡礼 七番札所 彼岸山 極楽寺・知多四国巡礼 八番札所 上世山 傳宗院・歩いて巡拝知多四国 入海神社
2025.03.29
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八番札所傳宗院を後に、約5分ほど師崎街道を南下した東浦町緒川屋敷で、入海神社の前を通りかかり参拝に立ち寄ってみました。鎮座地は岡田川右岸沿いに続く平坦な師崎街道の西側の丘陵地にあたり、周囲は住宅や駐車場の多い地域。その街並みの中、一見古墳のようにも見える入海神社の小高い社地と杜は、ここが特別な場所である事を想像させる雰囲気があります。街道沿いの社頭全景。高台の境内なので鳥居から先の参道は緩やかな坂が続きます。社頭の解説。「入海(いりみ)神社祭神 弟橘比売命社格 愛知県神社庁五級社所在 愛知県知多郡東浦町大字緒川字屋敷一区46番地由緒昔日本武尊御東征の折り、当地の穂積忍山宿弥は水軍を編成し 娘弟橘比売命は御后として従軍し途中荒天に遭い全軍の安泰を祈り弟橘比売命は海に入られた。御櫛が当里の紅葉川の辺りに流れつき、これを御祭りした。これが入海神社宝亀年間の起源と伝えられている。境内社八幡社 祭神 応神天皇、神功皇后、玉依比売命津島社 祭神 建速須佐之男命山神社 祭神 大山祇命天神社 祭神 菅原道真社宮司 祭神 猿田彦命子安社 祭神 豊玉媛命龍神社 祭神 綿津見命地立社 祭神 小名彦命招魂社相殿 弁天神社、宗像三神入海貝塚当社境内に現存し、東海地方における縄文早期の標式土石や関西地方の標式土器と共に当貝塚独特な土器の出土があり、入海式一及び入海式二として縄文早期の標式のひとつとなっている。」鳥居から先の参道の眺め。参道中ほどに手水鉢がありますが、それは「夜啼き石」と呼ばれ、寛延2年に(1749)不思議な現象を起こす事から手水鉢に加工し神社に祀られたようです。東浦町誌には夜啼き石の不思議な現象について以下のように書かれていました。「夜啼き石(緒川) 現在入海神社南参道右側にあるやや大きい手洗い石で、その側面に「銘曰 此石在当里 数哦古城裏 怪異伝無取 奉神為水器 寛延二巳巳歳 仲秋吉日」とある。この石はもと村の南方の古城の裏にあって、夜になると犬がほえるような声を出すというので村人に恐れられ、引き取るものがないので神社に奉納して手洗いにした。という意味である。以来なんの怪異もない。」坂を上りきるとニノ鳥居が現れ、右手に手水舎、左手に石の蕃塀が建てられています。番塀の左は隣地の了願寺が迫り、以前は神仏習合の関係にあったのかもしれません。右手の社殿は、了願寺方向の南を向いて建てられています。境内全景。こちらの神社も広い境内を持っており、中央が拝殿、左右に境内社が祀られています。東浦町誌による入海神社の解説は以下のように書かれていました。「入海神社東浦町大字緒川字屋敷一区46番地境内面積1336坪 境内社 八幡社、津島社、天神社、山神社、秋葉社、石神社、子安社、竜神社、地立社祭日 10月10日社宝什物刀劍三振(正宗作短・長船作長・真次作短)、よろい一具(徳川家康の産衣の鎧と伝え、天和3年(1683)正月水野貞信の寄進状がある)、古柱 (往古クスの大樹一本の用材で神殿一棟が造作されていたのを、天文13年(1544(緒川城主水野信元が改築したときの古柱)神像三体。由緒由緒 宝亀3年(772)の創建と伝える。祭神については古代および伝説の項参照。境内に入海貝塚がある。境内社八幡社は緒川城主水野真守が城の鎮守として建立したもので、緒川字八幡38番地にあったが、昭和42年10月遷座合祠した。」とあった。祭神の弟橘比売命について「古代および伝説の項」では以下のように書かれています。「弟橘媛(入海神社祭神)景行天皇の皇子日本武尊が尾張氏一族をひきいて海路東国征伐に向かったとき、その后弟橘媛も同行した。まず駿河焼津の難にあったが、腰の劔で草を切りはらって賊徒を平定し、相模国から安房国へ渡ろうと走水の海まできたとき、急に暴風が起きて遭難の危機に苦しんだ。そのとき媛が「わたしが尊の身代りになって海に入り、海神の心をしずめましょう。尊は使命をはたしてください」といって、菅・皮・絹の敷物を波の上に重ねてその上におり「さねさし 相武(さがむ)の小野に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君かも」と詠んで入水し、それと同時に海はしずかになった。その七日後、媛のクシがここの海岸に流れついたので、それを拾いあげてねんごろにお祀りした。」日本武尊の東国征伐を果たすため、自ら生贄として荒れ狂う海に身を投げた弟橘比売命について書かれています。拝殿を守護する一対の狛犬は大正6年(1917)に寄進されたものです。拝殿左の境内社。右から子安社、天神社、津島神社、北山神社、南山神社。境内左の龍神社と祓い所。拝殿右の境内社。左手の建物が八幡神社、宗像三神の相殿で右手の覆屋は招魂社、入海貝塚と続きます。相殿正面全景。招魂社(手前)と八幡神社、宗像三神相殿本殿側面。入見貝塚の石標と解説。入海貝塚解説内容は以下。「指定年月日 昭和28年12月14日(1953)所在地 東浦町大字緒川字屋敷一区46番地指定区域 入海神社境内1200平方メートル指定理由衣浦湾に注ぐ境川流域の台地上にあり、貝層は主としてハイガイ等によって構成されています。出土した土器は東海地方の縄文時代早期(約7000年前)の基準となり、「入海式土器」と呼ばれています。わが国における縄文時代早期文化を知る上で価値が高い遺跡です。東浦町教育委員会 」バリケードの先の広場が貝塚。街道沿いには長い歴史を持つ神社は多く、白雉4年(653)の入海神社も例外ではない。往古のこの地が波打ち際だったころから、住民が守り続けてきた神社です。歩いて巡拝知多四国 入海神社創建 / 白雉4年(653)祭神 / 弟橘比売命境内社 / 八幡社、津島社、山神社、天神社、社宮司、子安社、龍神社、地立社、招魂社相殿 弁天神社、宗像三神氏子域 / 緒川祭例 / 10月10日参拝日 / 2025/02/15所在地 / 愛知県知多郡東浦町緒川屋敷1区48傳宗院から入海神社 / 師崎街道を南下15分ほど関連記事・第2回 歩いて巡拝知多四国 市原稲荷神社・知多四国巡礼 七番札所 彼岸山 極楽寺・知多四国巡礼 八番札所 上世山 傳宗院
2025.03.28
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七番札所極楽寺から次の八番札所傳宗(ぜんそう)院へは、師崎街道を15分ほど南下した東浦町緒川天白に鎮座します。鎮座地の緒川は古くは小川と書かれていたが、明応8年(1499)に歌人飛鳥井雅康が小川城主水野右衛門太夫を訪ねた際に「松のうへに繰るてふ糸の伊久結び玉の緒川の末かけてみむ」と詠んだことから緒川と書くようになったと云われます。小川城址は傳宗院の南、15分ほどの所にあります。室町時代の知多半島北部や刈谷は水野氏が治めていた。小川(緒川)城は文明年間(1469-1486)、水野貞守が先祖の旧地に築城したと伝えられ、その後も忠政や信元ら水野氏の居城となり、忠政の娘で、徳川家康の生母於大の方(伝通院)の誕生の地でもあります。城は慶長11年(1606)に廃城となりました。八番札所 曹洞宗 上世山 傳宗院の鐘楼門全景。傳宗院は刈屋城主の水野信近の子、水野守隆氏が開創した曹洞宗の寺院で本尊は延命地蔵菩薩。この鐘楼門は2018年に再建されたようです。目指す観音堂(弘法堂)はこの門の右手に八番札所石標が建っています、まずは本堂に参拝です。境内の手水舎に数珠を持つ龍の姿があった。寄棟瓦葺の本堂、右手が庫裏・寺務所で、境内右からも観音堂(弘法堂)に繋がっています。本堂の額は「傳宗禅院」由緒については、尾張名所図会、尾張徇行記、尾陽雑記、東浦町史に目を通しましたが東浦町史が読みやすく纏まっていますのでそちらから引用します。「上世山 伝宗院(曹洞宗)所在地 緒川字天白48番地本尊 延命地蔵菩薩(高さ二尺五寸木立像) 開山 松隠珠崖大和尚境内地 912坪寺宝什物 涅槃像一軸(絹本彩色の古画、天正六年(1578)から在寺、地獄絵図十四本(紙本彩色、正徳年中に地元の豪家 塚本源左衛門が寄進)由緒 天文元年(1533)水野守隆(刈屋城主水野信近の子)の創建である。本堂は安政5年(1858)の改築。観音堂は延宝3年(1675)の建立で、十一面観世音・薬師如来・弘法大師を安置している。新四国八番札所。」御本尊真言 「おん かかびさんまえい そわか」御詠歌 「棹さして 渡る緒川の 傳宗院 迷う我身を 乗せて腸へや」鐘楼門同様、伽藍全体は建替えられた新しいもの。鐘楼門右の新四国第八番札所の石標と観音堂の全景。堂内には弘法大師・十一面観世音・薬師如来を安置します。写真は撮れなかったが、この堂の外陣の格子天井にも絵が書かれていましたが年代は不明です。堂の右手に鳥居があり、参道が続いています。観音堂後ろに秋葉堂が建てられています。軒下の額は「秋葉三尺坊」、創建年は定かではない。東浦町史には観音堂の他に白山社と記されていましたが、見落としたのだろう、気が付かなかった。イベントの時には思うように見て回れないものです。棹さして わたるおがわの でんそういん まよふわがみを のせてたまへやこの日は、傳宗院の鐘楼門前で梵字カードが配布されており、今回もゴールドカードが当たりました。次回参加時に梵字カード台紙と引き換えられる。どれくらいの確率か分かりませんが、我家は5割の確率で当たりが出ています。籤運の無い我家、運を使い果たした感がある。台紙は一つあれば事足りるので、次回交換したらどなたかに差し上げよう。知多四国巡礼 八番札所 上世山 傳宗院宗派 / 曹洞宗開山 / 松隠珠崖大和尚開基 / 水野守隆本尊 / 延命地蔵菩薩、十一面観音菩薩札所 / 知多四国八番札所・知多百観音十一番・知多西国観音二十九番参拝日 / 2025/02/15所在地 / 愛知県知多郡東浦町緒川天白48極楽寺から傳宗院 / 師崎街道を南下15分ほど関連記事・第2回 歩いて巡拝知多四国 市原稲荷神社・知多四国巡礼 七番札所 彼岸山 極楽寺
2025.03.27
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2025/03/24守山区大永寺町に鎮座する曹洞宗の寺院寿昌山大永寺。創建は古く建久元年(1190)。毎年鐘楼門前の二本の桜と鐘楼門の写真に収めるために訪れています。先日、香積院の枝垂れ桜を見てきましたが、大永寺の枝垂れも気になり、納車されたばかりの車で訪れました。今日の大永寺の桜。左の淡いピンクの枝垂れ桜はピークを迎え、風が吹くとヒラヒラと花びらが舞い散る状況。右の白い花を付けるソメイヨシノはまだこれからです。花期が違うので、二本の桜の花が残る状態の写真は収められない。右の桜が鐘楼門に彩りを添えるのには一週間は必要か?枝垂れが美しいのもあと少しか、それまでに暖かい日が続けば二本の桜の競演が見られるかもしれない。海外に渡航するので桜を追いかけて巡り歩くことはできないだけに、この姿が今年の桜の見納めになるやも。大永寺鐘楼門から境内の眺め。建久元年(1190)山田重忠が小幡に建てた寿昌院がはじまり。大永元年(1521)、重忠の末裔岡田重頼が再興、大永寺と改めたが戦火で消失。元和三年(1617)、岡田善同が名古屋城築城の残材を用い再建、現在地に移す。本殿、庫裏、右手の鐘楼が主な伽藍。平成8年(1996)に改築、鐘楼を除き建築物が一新された。本堂左には岡田氏歴代の墓石が並んでいる。境内には樹齢500年とも云われるラカンマキと樹齢400年とも云われるイヌマキの古木が今も残る。蕾も残り少ないようです。寿昌山 大永寺宗派 / 曹洞宗創建 / 建久元年(1190)本尊 / 釈迦如来(伝恵心僧都作)所在地 / 名古屋市守山区大永寺町208公共交通機関 / 大曽根からゆとりーとラインで川宮停で下車南西に5分ほど訪問日 / 2025/03/24関連記事 / 守山区史跡散策路 13 大永寺
2025.03.24
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前回掲載した市原稲荷神社から、知多四国七番札所である彼岸山極楽寺へは、県道50号線を30分ほど西に進んだ、東浦町森岡岡田の丘陵地に鎮座しています。ここまで平坦な道でしたが、極楽寺付近は緩やかな上りになります。鎮座地はかつての尾張国村木村の一部で、戦国時代にはここから10分程北に今川方の村木砦が作られ、信長は極楽寺から西5分ほどの村木神社に本陣を置き「村木砦の戦い」の場となりました。この戦いは、織田信長が初めて鉄砲を使い今川方に勝利し、新たな戦法への転機となった場所です。石ヶ瀬川・境川・逢妻川と三つの河川が作り出した沖積平野の西端にある丘陵地に鎮座する極楽寺は、写真の大きな楠の巨木が目印です。街中の楠は、ともすれば上を押さえられ、枝も剪定され窮屈そうですが、郊外の楠は実に伸び伸びとした樹形を見せてくれます。この大楠は東浦町の天然記念物で、目通り4.2㍍、樹齢約500年以上と云われ、この町のシンボルツリー的存在。極楽寺山門。極楽寺は曹洞宗の寺で山号は彼岸山、本尊は阿弥陀如来。寄り道した事もあり、境内の人波は少し緩和されたようです。薬井門の軒先の五三桐の紋と跳ね獅子の飾り瓦。境内右の手水鉢と水かけ地蔵。本堂、薬師堂(弘法堂)の全景。東浦町誌(1968)では極楽寺について以下のように紹介されていました。「彼岸山 極楽寺(曹洞宗)所在地 森岡字岡田51番地本尊 阿弥陀如来開山 即法玄中大和尚境内地 825坪寺宝什物 善光寺如来山緒 寛正2年(1461)玉海通公和尚の開創と伝え、安政2年(1855)再建、明治6年永平寺監院 即法玄中大和尚を法地開山。禅宗で阿弥陀仏の本尊はめずらしい。新四国弘法大票第七番札所。」本堂内の様子、こちらの本尊は阿弥陀如来。まずは、本堂で参拝。一般的に曹洞宗のお寺の本尊はお釈迦さまや観音さまですが、寺号や本尊から察するに、長い歴史の中で浄土宗から曹洞宗へ改宗されたのかもしれません、他の地史を見ましたがその辺りは良く分からなかった。薬師堂。阿闍梨和尚により文化6年から文政7年にかけ、知多半島全域にわたり八十八札所が成就し、その七番札所が極楽寺。八十八の札所の中には補修が追い付かない札所もあるなか、こちらは綺麗に保たれています。堂の入口に御達者地蔵、左には抱き地蔵が安置されており、内部には弘法大師、薬師如来、秋葉大権現が祀られています。「ごくらくは いずことひとに たづねなば このむらきにも ありとおしえよ」知多四国巡礼 七番札所 彼岸山 極楽寺宗派 / 曹洞宗開創 / 永保2年(1430)開基 / 外山大助開山 / 速法玄中大和尚本尊 / 阿弥陀如来札所 / 知多四国七番札所参拝日 / 2025/02/15所在地 / 知多郡東浦町森岡岡田51市原稲荷神社から極楽寺 / 県道50号線を西に向かい岡田川左岸沿いを北上、2.2km、30分ほど関連記事・第2回 歩いて巡拝知多四国 市原稲荷神社
2025.03.22
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名古屋市昭和区川名山の香積院。ここ数年早かったり、遅かったりとなかなか見頃に行けた試しがない。家にいると花の開花状況がさっぱり掴めない、今日の陽気に誘われて偵察のため訪れました。3/21時点の枝垂れ桜。一部咲き始めていますが、鐘楼前の梅の花と香りの方が主張していました。ピンクのカーテンにはまだまだ。昨年は3/24に訪れて、早かった。何年か来ているが、近年見頃を迎える時期が読み切れなくなってきた。新聞のソメイヨシノの開花便りは蕾ばかり、これが少し咲き出すと香積院の枝垂れ桜は見頃となります。この状態からピンクのカーテンになるのはいつごろか?来週の中頃か週末とみた2024年・香績院 枝垂れ桜
2025.03.21
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知多四国巡礼。2月15日「名鉄電車 歩いて巡拝 知多四国」の二回目に参加しました。上は二回目のコースマップです。スタートは名鉄三河線刈谷市駅、そこから七番札所極楽寺、八番札所、九番札所、十番札所、十一番札、十二番札所福住寺の六寺を巡拝し、ゴールの常福寺からバスで阿久比駅を結ぶ11.5kmのコースです。今回は七番札所極楽寺に向かう途中で市原稲荷神社に立ち寄りました。スタート直後は電車一本分の参加者が一斉に歩き出します。歩道の狭い場所では思うように歩けずペースが狂いますが、ある程度人波が途切れてからコースに戻ります。刈谷市駅から県道51号線沿いに西へ向かい、司町交差点を右折し、市原稲荷神社まで1.3km、20分ほどの、刈谷市司町に鎮座します。写真は市原稲荷神社の大鳥居(一ノ鳥居)。神社はこの写真の左を進み、すぐ先で左折すると朱色のニノ鳥居が見えてきます。市原稲荷神社は、逢妻川左岸沿いに南北に長い社地を持ち、広大な杜の東側に二ノ鳥居がありますニノ鳥居と参道の眺め。鳥居をくぐると右手に境内社、市原稲荷神社社殿へ続く二つの参道があります。手前が猿田彦神社など境内社に続く参道で、三ノ鳥居を構える参道が市原稲荷神社の参道です。手前の参道から境内の眺め。参道の先には正面に山神社、猿田彦神社、内外宮社、春日社と東側に刈谷神社が纏められています。左手前の朱の鳥居の先は市原稲荷神社の手水舎へ続いています。刈谷神社社頭。鳥居左に刈谷神社の石標が建てられています。刈谷神社本殿は5本の鰹木と外削ぎの置き千木が載る流造。祭神は刈谷藩歴代藩主や日清日露戦争の戦没者を祀る。御神徳は家庭円満、地域の繁栄、世界平和。例祭日は8月23日。今の世界情勢を彼らはどう思っているのだろう、残り89秒となった終末時計のカウントダウンは止められないのだろうか…猿田彦神社、内外宮社、春日社の狛犬(寄進年未確認)。猿田彦神社、内外宮社、春日社の鳥居。鳥居の先は左から猿田彦神社、内外宮社、春日社。勧請年度は不明ですが、本殿は第61回の伊勢神宮遷宮(1993)に合わせ新築されたもの。例祭日は三社ともに11月23日。刈谷社を含め、四社の社殿其々が造りが違うので見ていて楽しい。山神社社頭全景。山神社鳥居前を守護する狛犬(寄進年未確認)。山神社鞘殿。祭神は大山祇神、木花開耶姫命。御神徳は各種産業の発展、森林育成保護。例祭日は12月6日。山神社の左に市原稲荷神社に通じる参道があり、写真はその入口を守護する狛犬。寄進年を見ていませんが凛々しい姿の狛犬です。市原稲荷神社拝殿。往古の市原はすぐ南まで海岸線が迫る地域でした。その当時、海中のいずこからともなく、ご神体が浮かんで磯に寄り移りました。当時、市原の島に住んでいた白狐が、このご神体をくわえ陸に上がりました。この地は「お茶屋」と呼ばれる地でした。 そこで村びとはお茶屋に社を建て、ご神体として祀ったのが稲荷大明神であるといいます。「市原神社鎮座記」に第36代孝徳天皇の白雉4年(653)に、現在の亀城公園(鎮座地から北に10分ほど)に神殿を創立したといいます。その後、天文2年(1533)、水野忠政が亀狭山に刈谷城を築城し、社を城内に移し武運隆昌の祈願所として水野氏五代にわたり社領五石が寄附されるなど崇敬されましたが、その後、藩は廃され幕府領となります。慶安4年(1651)、幕府領となった刈谷に稲垣重昭が入り刈谷藩を立藩し、明暦4年(1658)、新たな社殿が造営され、その後の歴代藩主から崇敬され、明治維新を迎え郷社に指定された。神社の歴史の中では永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川方に焼き払われ、永禄5年(1562)に再建された。現在の建物は平成15年(2003)に建て替えられたもののようです。入母屋瓦葺の艶やかな朱色の唐破風向拝が印象に残る社殿で、祭神は倉稲魂神、大山祇神、保食神。例祭日は5月1日。5月5日の春祭りの歴史は古く、宝永5年(1708)からはじまったとされ、神興の渡御があります。お旅行列と呼ばれるようで、神興は本町の獅子を先頭に大名行列をつくり刈谷の町を練り歩き、山車も巡行されるようです。神興は秋葉社まで巡行され、その後市原稲荷神社に戻られます。境内では狐の姿をあまり見かず稲荷らしさを感じませんが、拝殿左に無数に置かれたカラフルな願掛け狐を目にすると稲荷を実感します。御神木。拝殿左は神楽殿、社務所が建つ境内が広がります、ここも実に広々としており、祭礼時にはここも人で溢れるのだろう。拝殿前の石段を守護する狛犬(寄進年未確認)。拝殿から三ノ鳥居方向の眺め。この参道の右にも鳥居を構えた境内社が祀られています。ここには左に祓所と丹生川社(右)の二つの鳥居が建てられています。丹生川社社頭全景。丹生川社の狛犬(寄進年未確認)。丹生川社鞘殿。享保21年(1736)夏の終わり、当地は旱魃に見舞われ、時の藩主三浦志摩守義理が雨乞立願したところ、その後雨に恵まれたことから、岡象女神を祀る一社が建立されたのがはじまり。祭神は岡象女神の他に闇龗神、高龗神の一対の龍神を祀るようです。鳥居と狛犬を構える祓所。燈籠左に注連縄が張られた磐座が安置されています。神籬の榊。三ノ鳥居から拝殿方向の参道の眺め。三ノ鳥居脇の狛犬。護国神社などで見かける威厳のある姿の狛犬、狐がつきものの稲荷神社には珍しい。境内西側の市杵島社社頭全景。参道の先の神池に浮かぶ小島に社が祀られています。西を向いて鎮座する市杵島社。創建は安永3年(1774)とされ、天明3年(1783)藩主土井利徳がご神体を寄付されたと伝わるようです。祭神は市杵島姫命をお祀りし、例祭日は3月9日、御神徳は学芸上達・小授け・安産・子育て・水の神・金運にも御利益があるとされる、厳島神社の主祭神。地元では「市原の弁天さん」と呼ばれるようです。社から西の眺め、朱の神橋の先は西鳥居へ続きます。西側の社頭から市杵島社の眺め、背後には逢妻川が迫ります。逢妻川。往古は波打ち際だったこの地、今は面影もなく、対岸の逢妻川の中州と堤防一つ隔て境川が流れています。ここは境川を隔て、三河と尾張の境界の地でもあります。現在は数えきれないほどの鵜の生息地になっているようです。最初に訪れる七番札所は、ここから境川を越えて、30分程西の知多郡東浦町に鎮座します。市原稲荷神社創建 / 白雉4年(653)祭神 / 倉稲魂神、保食神、大山祇神境内社 / 刈谷神社、猿田彦神社、内外宮社、春日社、山神社、丹生川社、市杵島社氏子域 / 刈谷市、司町、大手町、銀座、寿町、城町、新栄町、司町、寺横町、東陽町、広小路祭例 / 5月1日参拝日 / 2025/02/15所在地 / 刈谷市司町8-52名鉄三河線刈谷市駅から市原稲荷神社 / 駅から県道51号線沿いに西へ1.7km、徒歩20分
2025.03.21
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2月4日、袋井市豊沢の法多山尊永寺を訪ねた際、門前に鎮座する王子神社があり立ち寄ってみました。鎮座地は明治10年頃は山名郡豊沢村で、群名・村名・社名から遠江国風土記や袋井市史で由緒を調べましたが辿り着けず、静岡県神社に登録はありましたが期待した内容のものではなかった。あれから1か月、現地の社記以上の情報に辿り着けなかったことを最初に書いておきます。豊沢地内の県道251号線沿いから少し奥に入った有料駐車場の脇に社頭を構えています。鳥居の先の参道には桜の樹が続いており、見頃を迎えると参道は桜のトンネルになるのだろう。石造神明鳥居の額は「王子神社」とあります。桜並木を抜けると石段が現れ、正面に社殿が見えてくる。王子神社社殿全景。社地北側に南向きに鎮座し境内両脇に手水鉢が置かれています。左の手水鉢、寄進年不明。右の手水鉢も寄進年は未確認。右側から見る社殿全景。切妻瓦葺の拝殿に脇殿が付いており、拝殿からは渡廊で鞘殿とつながるもので、建物の状態は良好ですので、近年補修の手が入っているのかもしれません。軒下の社記。「神社名 王子神社祭神 伊弉邪岐命、須佐之男命由緒 創立年月は不詳なれども、延享2年(1745)、文政5年(1822)の棟札あり例祭日 10月14・15日」と記されている。江戸時代中期から歴史を紡ぎながら、情報を見つけられないのは、自分の探しどころが悪いのでしょう。他の資料を見ればすんなり由緒が分かるかもしれません。鞘殿全景。祭神は伊弉邪岐命、須佐之男命とあるが、創建時代の祭神から変わっているような気がする。桜の時期に尊永寺を訪れた折には、住民が3世紀近く受け継いできた王子神社に立ち寄ってみると、この時期とは違う趣を見せてくれるのではないだろうか。三寒四温を繰り返し春の足音は聞こえてくるも、近頃の温度差は極端すぎて体が付いてきません。それは梅や桜や菜花も同じこと、春のスイッチが入らないようです。我家の小さな箱庭の野菜や樹々の様子を見ていると、以前とは違って来ているのを実感します。これを書いている数日後にはウィメンズマラソンが開催されます、今年もボランティア参加しますが、我家が参加して雨が降った事はありません。レース当日は穏やかで暖かい日になりますよ、いいタイムも出ているかもしれない。王子神社祭神 / 伊弉邪岐命、須佐之男命創建 / 不明、延享2年(1745)の棟札あり例祭 / 10月14・15日所在地 / 静岡県袋井市豊沢2679参拝日 / 2025/02/04関連記事・旧車で最後のドライブ(掛川城・さわやかのハンバーグ・法多山尊永寺厄除け団子)
2025.03.20
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史跡景清公墓所 「生目八幡宮」前回掲載した知多四国6番札所常福寺の東裏の小高い丘の上に鎮座する神社で、所在地は常福寺と同じ半月町になります。生目八幡宮の杜の全景。こんもりと盛り上がった社地は古墳のようにも見えますが、どうやらそうではないようです。森の入口の朱の鳥居から丘の頂へはこうした石段が続いています。入口のすぐ左の樹々の間に「史跡 景清公墓所・生目八幡宮」と刻まれた石標が建てられていました。常福寺は平景清が作ったとされる千手観世音菩薩や、位牌が残る寺として先回掲載しました。この生目八幡宮は景清公の墓所として史跡に指定されているようです。更に、常福寺西側に景清の名を冠した「景清神社」が鎮座し、往古には景清の屋敷があったと「尾張名所図会」にも記され、境内には芦沢井戸と呼ばれる井戸も残るようです。景清作とされる千手観世音菩薩や位牌の残る常福寺はじめ、墓所や屋敷など景清と所縁の深い土地柄でありながら、大府市の遺跡・史蹟一覧に景清公墓所や芦沢井戸の名は見られず、詳細は定かではない。根拠のない伝説はどこまでも伝説…というのが自分の考えですが、位牌や墓所もあるとなると信憑性は高まります。一方、壇ノ浦で平家は滅亡し、景清は逃げ延びながらも頼朝への復讐を図るも失敗に終わり、囚われの身となり頼朝の前に引き出され死を覚悟しますが、頼朝は景清の平家への忠誠心を称えて罪を赦し、日向国(宮崎)に流罪とした。 その後の景清は終生その地に留まり没したとも伝わり、数々の伝説が生まれます。そのひとつに、隠棲後の日向の地で、源氏の隆盛ぶりを目にし、再燃する復讐心を鎮めるため自らの両目を抉り取った伝説があるという。そうした逸話から、いつしか景清は眼病の神として崇められるようになったといい、宮崎市には景清廟や目の病に霊験あらたかで、景清とも所縁のある生目神社(生目八幡宮)があります。各地に残る伝承は尊重するとして、ここ半月の生目神社の生い立ちは良く分かりません。常福寺の鎮守社なのか、景清を慕う住民が生目八幡宮としてこの頂に建立したものか、それとも宮崎県の生目神社から勧請したものなのか定かではありません。過去の地図から見ると昭和44年(1969)頃の地図に記念碑らしき印が現れ、昭和66年(1991)の地図から鳥居が記される様になります。由緒碑があると分かりやすいのですが、創建時期や由来の疑問は、常福寺で教えを請えばスッキリするかもしれないですね。石標の先の参道には大きな一対の蛙が狛犬のように安置されている。入口は鬱蒼としていますが、頂に近づくにつれ境内は明るくなっていきます。どんな謂れがあるのか分からないがここにも蛙がいる。頂きは御覧のように樹々が伐採され、明るい境内に石碑や鹿の像が置かれています。景清公の墓所とされる丘に建つ生目八幡宮。右手の石碑には「かげ清く 照らす生目の水かがみ 末の世までも 雲らざりけり」の和歌が刻まれています。歓喜と書かれた台座の上に祀られる社が生目八幡宮本殿。この前で「かげ清く 照らす生目の水かがみ 末の世までも 雲らざりけり」と唱えることで霊験が得られるという。生目八幡宮創建 / 不明祭神 / 藤原景清(平景清・悪七兵衛景清)、応神天皇境内社 / …参拝日 / 2025/01/25所在地 / 大府市半月町3-171常福寺から生目八幡宮 / 観音堂から東参道で徒歩1分関連記事・知多四国巡礼 一番札所 清涼山 曹源寺・近崎 神明社・北嶌山賢聖院・知多四国巡礼 二番札所 法蔵山 極楽寺・知多四国巡礼 三番札所 海雲山 普門寺・藤井の里 藤井神社・知多四国巡礼 四番札所 寶龍山延命寺・江端 八幡神社・知多四国巡礼 六番札所 萬年山 常福寺
2025.03.17
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今回の第一回歩いて巡拝知多四国も、ここ六番札所萬年山常福寺でゴールを迎えます。江端八幡神社を後にして、県道57号線の半月町1丁目交差点で左に進み、国道23号線を南下、健康の森北交差点を右に進めば六番札所曹洞宗常福寺到着です。江端八幡神社から約2㌔・30分ほどの場所になります。一・二・三・四番…ときて六に飛ぶのね、地図から五番札所地蔵寺を見れば頷けます。都合のいいように順番通り並ばないのが知多四国巡礼。萬年山常福寺山門の全景。 10.5キロのコースのゴール、寄り道しながらだったので、恐らくこの距離は軽く上回っているのは間違いなく、薬井門を前にして多少足が重く感じられる。山門左の小さな社が祀られていましたが、詳細は不明です。薬井門から境内の眺め。正面に見えるのは観音堂、弘法大師の像はこちらに安置されています。参道から境内正面の眺め。左に手水舎があり、正面の観音堂、右手に鐘楼があります。澄んだ清水を湛える手水鉢、清水を注ぐ龍は今日ばかりは大忙しだ。境内左側は美しい白砂の庭園とその先の寄棟の建物が本堂で納経所はこの左になります。曹洞宗萬年山常福寺の歴史について「大府市誌」に補足を加えて見ていきます。「万年山 吉田町北向52番地に所在する。乾坤院(知多郡東浦町)の末寺。所蔵する過去帳によると、建久年間(1190~99)に、壇ノ浦の戦いで敗れた平景清が開創したとある。景清はこの地にきて、つねに観世音菩薩を念じ、自ら観音の木像を彫刻し草庵を結んで安置したといわれる。この観音堂が前身となり、満念山常福寺となった。満念とは観音菩薩の徳に報いる念願満足の意味、常に景清の冥福を祈るところから、常福寺の寺号となり、後に、萬年山と改称した。天文15年(1546)に火災にあい、慶長14年(1609)9月、浅羽八太夫が敷地を寄進、村民と協力し、観音堂と別に客殿・ 庫裡などを建立し、乾坤院三世芝岡宗伝の法孫、 養泉元育を請じて開山となした。宝永5年(1708)には、諸堂を20間余り東に移して法堂を建立したが、安政4年 (1857)11月に、二世大賢泰道が再び本堂建立を発願して以来、明治7年12月に法地再興され、同9年2月に完成しその棟札が残る。他に黄檗宗開祖の隠元隆琦の墨趾も所蔵する。寺宝 木像地蔵菩薩立像1躯 藤原時代」全国には様々な伝承が伝わります、上にもあるように平景清が当地へ逃げ延びたという記述は尾張名所図会にも「景清宅趾」として半月村の記述が残る。曹洞宗常福寺の本尊は釈迦牟尼仏。本堂右には黄金色に輝く厨子に地蔵菩薩像が安置されている。観音堂正面の眺め。こちらには弘法大師像の他、平景清の作とされる千手観世音菩薩などが安置されています。景清の没年や場所は各地に伝えられ、実際の所確定するものは乏しい中、景清の作とされる千手観世音菩薩や、景清の法名「水鑑景清大居士」の位牌も残る事から単に口伝えだけではないようです。一説には景清は建保2年(1214)この地で没したとも云われるようです。観音堂右側からの全景。入母屋瓦葺で一間向拝を持つもので、明治以降の伽藍の修復時期は定かではない。右手の参道の先が最寄り駅まで繋ぐ臨時バス乗り場となっていました。観音堂右の鐘楼。長い歴史を持つだけに、この梵鐘がいつのものか、再鋳されたものか興味があったが、食事の為に1㌔先のげんきの郷に急いでいたので見送りました。はんつきの ほうのひかりの かがやきて まよひのくもも はれてあとなし知多四国巡礼 六番札所 萬年山 常福寺宗派 / 曹洞宗創建 / 建久年間(1190~99)開創 / 平景清開山 / 養泉元育本尊 / 釈迦牟尼仏、千手観世音菩薩札所 / 知多四国六番札所参拝日 / 2025/01/25所在地 / 大府市半月町3-151江端八幡神社から常福寺 / 県道57号線を西に、大目寺西交差点北側の江端八幡神社まで1.6km・約25分関連記事・知多四国巡礼 一番札所 清涼山 曹源寺・近崎 神明社・北嶌山賢聖院・知多四国巡礼 二番札所 法蔵山 極楽寺・知多四国巡礼 三番札所 海雲山 普門寺・藤井の里 藤井神社・知多四国巡礼 四番札所 寶龍山延命寺・江端 八幡神社一㌔歩いて、げんきの郷の魚太郎でこの日の昼食とお清め。家に帰れば粗食の日々が続く、せめてこんな時ぐらい・・・帰りはここから3㌔先のJR大府駅から家路につく。
2025.03.16
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八幡神社。延命寺から県道57号線を西に向かい、この日のゴール6番札所常福寺に向かう途中、月見町地内にある大目寺西交差点北側で八幡神社を見かけ、ゴールを目指す妻には先に行ってもらい、一人立ち寄ってみました。県道57号線沿いに社頭を構える八幡神社。右手に「正八幡神社」社標、そこから境内までは緩やかな石段が続く。石段途中に建てられた明神鳥居。石段を上りきった先の境内全景。左から手水舎・社務所・社殿・境内社が主な建物になります。拝殿全景、大きな向拝を持つ入母屋造で、社殿は全体的に新しい印象を受けます。後に調べたところ、当社には寛文10年(1670)の棟札が残っており、歴史はかなり古いものです。拝殿額は「江端八幡社」拝殿から本殿方向の眺め。左巴紋が神紋のようですが、本殿の造りは分かりませんが、金色の御幣と鏡が祀られ、脇障子には彫が施されているように見えます。拝殿右側の境内社と堂。境内社は左から金毘羅宮、津島神社、大山祇社、若宮神社、秋葉神社の五社相殿。右手は左が猿田彦大神と富士山淺間神社。方形屋根の堂には一体の石像が安置されていました。遠目にしか見ていませんが、像容から役行者に見えました。境内右から社殿側面の全景。平入の拝殿と幣殿・本殿が一体となったもので、玉垣はありません。境内に由緒はなく、現地で詳細は分からず、後日調べてみました。現在の大府市誌・神社から鎮座地の月見町で調べてみたが該当がなく、月見町の地名沿革を調べてみると月見町の町名は近年の事で、以前は土前と呼ばれ、明治期の地図では江端と書かれているのが分かりました。市史を土前で見直すと八幡神社の記述が見つかりました。以下は大府市誌からの引用です。「八幡社 大府町土前五番地に所在し、仁徳天皇を祀る。創建は不詳であるが所蔵する寛文10年(1670)8月3日の棟札に「奉上背弓箭八幡宮一宇守護所」とあり、すでに屋根のふき替えが行われていることは、それ以前に祠のあったことを意味する。天文年間(1532-55)に加藤孫八という人がこの地に移住した。加藤家の所蔵する棟札によると、代々当社の神主を世襲しているところから、天文年間の創建ではないかと思われる。社伝によれば、創建当初は現在地より東へ200㍍鞍流瀬川畔の上清蔵に一社を設けていたが、たびたび洪水にあった。安政3年(1856)の大洪水を機に、北にあたる大峯山の頂に社を移したが、後年再び現在地に移したと伝えられる。この間(寛文10年-明治2年)の10枚の棟札によると、すべて宝竜山延命寺住職が遷宮導師をつとめているところから、当寺の支配下に置かれていたことがわかる。今も上清蔵の元宮の地には、人家の軒先に3.3平方ほどをブロックで囲った「八幡神社本宮」の碑が建っている。「寛文覚書」にも「一社七ヶ所内」に八幡の名がすでにみえ、弓箭八幡宮あるいは若宮八幡社と称されていたが明治11年に八幡社と改称された。現在の本殿は間口1.6㍍・奥行90㌢ の流れ造りで、向拝から虹梁、上長押、両側見付の脇障子に至るまで 無数の精彩な彫刻がほどこされ、棟札から推定して、寛政2年(1790)の建造と思われ、雨覆殿によって風雨をしのぎ、江戸中期の建築様式を今に伝えている。境内社に若宮神社(祭神 誉田別尊)・津島神社(祭神 素盞鳴尊)・大山祇社(祭神 大山祇命)・秋葉神社(祭神 迦具土神)・金比羅社(祭神 大物主神)の五社があり、境内東北隅に役行者を祀る堂がある。」これだけ分かれば他を調べる事もなさそうです。見た目の印象とは違い、現在の月見町以前の集落の発展と共に歴史を重ねてきた神社である。江端 八幡神社祭神 / 仁徳天皇創建 / 不明、寛文10年(1670)の棟札が残る境内社 / 金毘羅宮、津島神社、大山祇社、若宮神社、秋葉神社、猿田彦大神、富士山淺間神社氏子域 / 江端町、大府町、月見町、長草町祭例 / 10月第2日曜日所在地 / 大府市月見町5-248参拝日 / 2025/01/25延命寺から江端八幡神社 / 県道57号線を西に、大目寺西交差点北側の江端八幡神社まで1.6km・約25分関連記事・知多四国巡礼 一番札所 清涼山 曹源寺・近崎 神明社・北嶌山賢聖院・知多四国巡礼 二番札所 法蔵山 極楽寺・知多四国巡礼 三番札所 海雲山 普門寺・藤井の里 藤井神社・知多四国巡礼 四番札所 寶龍山延命寺
2025.03.15
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寶龍山延命寺。三番札所普門寺から四番札所延命寺へは、県道57号線を南西に約2.2㌔・約30分程、藤井神社からでも約20分ほどの大府市大東町地内に鎮座します。延命寺門前全景。右に「天台宗寶龍山延命寺」の寺標があり、その先に重厚な山門を構える。写真は、天保11年(1840)に建造された「文殊楼門」と呼ばれる三間一戸、二手先斗組の入母屋造の楼門。棟には鯱が乗せられ、両の間に仁王像を安置します。文殊楼門と呼ばれるように、楼上には文殊菩薩を安置するようです。市の文化財一覧を見ると延命寺には県・市指定の文化財15点を所蔵するようです。この山門も大府市文化財に指定されており、現在の姿は昭和61年(1986)に解体修複されたものです。この日は門前にキッチンカーや境内ではマルシェが開かれ、多くの人で賑わいをみせていました。「歩いて巡拝知多四国」参加者には参加記念の「梵字カード」が門前で配布されました。金色梵字カードが出ると次回参加時のスタート受付で専用のシートが貰えるということでした。寶龍山の山号額。山号の寶龍山は天文8年(1539)に後奈良天皇より賜ったもので、勅額と附口が市の文化財に指定されています。作者は京都七条仏所の仏師「康慶」またはその弟子の手により造られたと伝えられています。多くの文化財を所蔵し、尾張名所図会にも挿絵とともに記される延命寺ですが、創建時期については定かではないようです。1986年に出版された大府市誌では一頁を使い解説されています、内容は尾張名所図会に準じるのでこちらから紹介します。“寶龍山延命寺大府町ヲシロ56番地に所在する。密蔵院(春日井市熊野町)の末寺。当寺に所蔵する「由緒取調」などによれば、盛祐上人により鎌倉時代に開創されたようであるが、草創年次は不詳。室町初期には「藤井神社」の別当寺として栄え、七堂伽藍をはじめ山内に塔頭を擁していた。中期以後には衰退、享禄4年(1531)、比叡山より慶済が晋住し中興開山し復興。天文2年(1533)7月、後奈良天皇より「寶龍山」の勅額を賜わった。二世仙慶も比叡山より来錫し、三世真慶は緒川城主水野家より出家した人であった。天文11年(1542)には横根城主梶川五左衛門が田畑を寄進、続いて諸川城主水野宗兵衛、水野内匠からも寺領・山・屋敷など寄進があり、さらに尾張藩より寺領を受けるなど、手厚い外護が加えられた。明治維新まで、横根村・大府村・半月村・猪伏村・追分村・村木村・桶廻間村・白沢村・坂山村など9ヶ村の神社(45社) の遷宮導師を勤め、まさしく神仏習合の姿であった。しかし明治の神仏分離令により関係は廃絶された。当寺は、多くの古文書・墨跡などを所蔵し、その歴史の威容を誇っている。寺宝刺繡普賢菩薩像一幅(県指定文化財)・室町時代墨書大般若経(市指定文化財)・南北朝~室町時代木造阿弥陀如来坐像一軀・南北朝時代勅額・室町時代文殊楼門(市指定文化財)・江戸時代”とある。ここには記されていませんが延命寺伽藍は大永年中(1521-1528)に消失しているようです。境内全景…多くの巡礼者で溢れてます。現在の伽藍は文殊楼門、正面の客殿、左の本堂、庫裏、茶室などが主な伽藍になります。写真は客殿向拝の木鼻、本尊は市指定文化財の阿弥陀如来。本殿。中央に本尊の延命地蔵菩薩、左に弘法大師、右に薬師如来が安置されています。当日は参拝者、マルシェで昼食を楽しむ方も多く混雑しており向拝の前から参拝させて頂きました。平日ならゆっくり見て回れると思います。私達はげんきの郷で昼食を考えていたので、延命寺を後にしてこの日のゴール6番札所常福寺に向かいました。延命寺納経印。御詠歌は「こころして まいれそのなも えんめいじ じぞうのりえき うたがいもなし」この日、延命寺で頂いた大日如来の梵字カード、二枚のうちの一枚から金色カードが出てきました。今は二回目の参加受付で頂いた専用台紙にコレクションしています。知多四国巡礼 四番札所 寶龍山延命寺宗派 / 天台宗 創建 / 鎌倉時代開創 / 平安時代開山 / 盛祐上人中興 / 慶済法印本尊 / 阿弥陀如来、延命地蔵菩薩札所 / 知多四国4番札所、知多百観音7番札所参拝日 / 2025/01/25所在地 / 大府市大東町1-279藤井神社から延命寺 / 藤井神社から1.5km徒歩20分ほど関連記事・知多四国巡礼 一番札所 清涼山 曹源寺・近崎 神明社・北嶌山賢聖院・知多四国巡礼 二番札所 法蔵山 極楽寺・知多四国巡礼 三番札所 海雲山 普門寺・藤井の里 藤井神社過去記事・医王山 薬師寺 『密蔵院』 愛知県春日井
2025.03.12
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前回掲載した普門寺、その門前を右に向かい、次の4番札所延命寺に向かう。その道すがら、横根町地内に鎮座する藤井神社の脇を通りかかり立ち寄ってみました。今回はその藤井神社を取り上げます。その前に、「歩いて参拝知多四国」にはゴール時間が決められており、それを過ぎるとコース上のルート案内は撤去され、最寄り駅までの臨時バスもなくなってしまいます。この日は15:00までにゴール「厳守」と書かれており、食事や気になるお店に立ち寄っていると、それほど道草している余裕もありません。普門寺から400㍍ほどの横根町惣作に鎮座する藤井神社社頭全景。かみさんの仕草にも道草を許容してくれる雰囲気が失せてきたような・・・手早く写真と参拝を済ませ先に進みたい。いかにも郊外の神社らしい広い社地を持ち、長い参道には写真の一ノ鳥居と中ほどにニノ鳥居を構えています。この鳥居の手前に「郷社(七等級)藤井神社」の社号標が建てられていました。参道左の藤井神社由緒と愛知県文化財解説。大府市誌(1986)に藤井神社について約1頁にわたり詳細に記されていました。長文ですが内容は以下になります。”藤井神社横根町惣作20番地に所在する。祭神は天照皇大神、須佐之男命、大山祇命の三柱を祀り、相殿の神(後記)として二一柱が鎮座する。創建の年代は明確でないが、「社伝」によれば、建久2年(1191)源頼朝の勧請といわれる。建久元年10月3日に、鎌倉を出発した頼朝は、鳴海を経て、同月25日野間で亡父義朝の菩提を弔い、翌二年鎌倉への帰途にこの地に藤井大明神を勧請したと伝える。また、一説には、7世紀後半に創建され、頼朝がこれを再建したとも伝わる。神社の南200㍍の地点には、惣作遺跡があり、弥生式土器、古墳時代の須恵器、奈良時代須の恵器、平安瓷器、行基焼など出土した。奈良時代から平安時代のものもあり、社伝と時代は符合している。7世紀後半には、海浜の小村が形成されていたのかもしれない。明治19年、地内の字中村から「藤井宮大明神御酒瓶子」と刻まれた鎌倉時代の陶製瓶子(昭和45年県文化財に指定)が出土。お神酒を献ずる器で、すでに鎌倉時代に一社をなしていたことを証する好資料である。記録としては、「文安2年正月20日尾州智多郡横根郷於藤井大明神御宝前蒙十方檀那資助顕大般若経一部云々」と記された延命寺所蔵の「大般若経」第一巻の裏書がある。その後、53年を経た、「奉造立藤井大明神社頭一宇干時明応7年卯月日願主当所御代官冨田左京亮家次」の棟札をはじめ、37枚の棟札がある。棟札によると、藤井神社の神主として、山口長太夫を代々襲名した社家が、元禄時代から明治期まで170余年わたり管理をしており、延命寺の支配下にあった。古伝に、「往時社内に老藤樹あり脇に古井清水を湛え神徳顕著なり依って藤井大明神と云う」とある。藤井神社の社名の起りである。この泉「藤井の里」の跡地は、今は石垣でかこみ遺跡として保存されている。明治5年郷社に列せられ、現在の本殿(神明造り)は大正8年10月18日の改築である。『寛文覚書』に「一、藤井大明神 右大明神ハ大府村、北尾村、大脇村、落合村、追分村、横根村六ヶ村之氏神、毎歳8月1日に右之村々ヨリ祭礼ニ馬ヲ出ス」とある。当時は横根郷一帯の氏神であり、祭礼には各村より飾り馬一頭ずつを仕立て社参し、盛況をきわめた。現在は山車(市指定文化財)が三台ある。口伝によれば、江州長浜より譲り受けたものといわれるが記録はない。三番叟(そう)とともに、祭礼を盛りあげている。横根地内には昔から各所に社があった。明治9年10月、すべて境内に移転された。記録として留めれば、字石丸の村神社(大国魂命)、字中村の山神社(大山祇命)、字茨廻間の山神社(大山祇命)、字羽根山の冨士社(木花開耶姫命)、字後田の神宮社(倉稲魂命)、字前田の神宮社(猿田彦命)などで、なかでも規模の大きかった字中村から移転した山神社の祭神を明治40年5月19日本社に合祀し、他の六社と従前からの境内社であった八王子社(正哉吾勝勝速日天忍穂耳命・天)穂日命・天津彦根命・活津彦根命・田心姫命・市杵嶋姫命・熊野杼樟日命・湍津姫命)・熱田社(熱田七社神・熱田本宮・高蔵宮・八剣宮・大福田宮・日破宮・氷上宮・源太夫神)の祭神を、大正8年8月7日本社の相殿の神としてすべて合祀した。現在は、境内社として天満宮(祭神菅原道真)と秋葉神社(祭神迦具土神)がある。社宝 藤井宮御酒瓶子(県指定文化財) 鎌倉時代 祭礼用山車(市指定文化財)三台 江戸時代 鎧・兜 江戸時代 銅製鏡三面 江戸時代“藤井神社には市指定文化財の山車が三輌あり、石丸組、南組、中組の三つの組でそれぞれ管理され祭礼時に奉納されるようです。また、境内には常設の餅投げ舞台があり、祭礼時は舞台から餅投げが行われるようです。参道右手の砲弾と由来。この三十㌢砲弾は「拝殿新築及び境内地拡張を記念すると同時に児童及び青年子女は勿論、一般町民の精神教育の目的を達せんが為」として、時の大府町長が、昭和8年(1933)に陸軍省に下付を申請し、同9年認可され、同10年に建立されたもの。日中・太平洋両戦争で筆舌に尽くせぬ多くの犠牲を払った。展示の砲弾等は二度と撃つ事・撃たれる事の無い、 恒久の平和を願い建立されたもの。社殿全景。写真では切れていますが、左に秋葉神社の堂があり、中央に社殿、右側に社務所、天神社、参集殿を持っています。明治5年郷社に指定され、横根郷一帯の氏神の貫禄が漂います。狛犬と藤井神社の大きな額が掛けられた拝殿全景。本殿域の眺め。本殿は内削木千木の神明造のようです。社務所右の境内。正面に一対の撫牛が守護する天神社、参道右に藤井の泉趾の碑が建てられていました。藤井の泉趾。藤井の泉は知多の里の知多三泉(生道井・東浦町、帝井・南知多町篠島)の一つに数えられ、その昔には泉が湧き出ていたといわれている。「藤井」の由来は、泉の近くに大きな藤の木があったことから、「藤井」呼ばれるようになり、泉周辺は藤井の里と呼ばれたそうで、里に祀られた神社を「藤井大明神」と呼んでいた。「藤」と「泉」、「藤井大明神」が現在の藤井神社の社名の由来のようです。上は江戸時代後期の天保12年(1841)に描かれた横根村絵図。右に普門寺、左に延命寺、中央の細い流れは明神川で右岸に「藤井大明神」と記されています。鎮座地の横根は、往古は鎌倉街道に出るための宿場町として栄えたとされ、藤井の泉は街道を行き交う旅人達の喉を潤したのでしょう。現在は藤の木もなく、玉垣で囲われた泉跡地から往時を忍ぶことは出来ませんが、後世に伝えるため保存されたもの。天神社鞘殿。いつ頃創建されたものか詳細は不明。社殿側面にも回り込んで見たかったが、またの機会として、延命寺に向かいます。藤井神社祭神 / 天照大御神、須佐之男命創建 / 建久2年(1191)境内社 / 天満宮、秋葉神社氏子域 / 大府市、横根村町祭例 / 毎月15日、10月第2日曜日所在地 / 大府市横根町惣作20参拝日 / 2025/01/25普門寺から藤井神社 / 普門寺から徒歩6分ほど関連記事・知多四国巡礼 一番札所 清涼山 曹源寺・近崎 神明社・北嶌山賢聖院・知多四国巡礼 二番札所 法蔵山 極楽寺・知多四国巡礼 三番札所 海雲山 普門寺
2025.03.11
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前回掲載した新四国八十八ヶ所二番札所、法蔵山極楽寺から三番札所、海雲山普門寺へは、極楽寺参道口前の細い道を南に向かって徒歩4分ほどの場所に鎮座しています。この道は明治時代まで、近隣の集落を結ぶ唯一の道だったようで、現在の県道57号線が地図に現れるのは昭和34年になってからです。西側の丘陵地の裾沿いに集落が点在し、東側は広大な水田が広がっており、往古の衣浦湾はこの辺りまで迫る波打ち際の集落だったのが容易に想像でき、調べて見ると結構貝塚も多いようです。三番札所海雲山普門寺門前の全景。門前の見上げるばかりの常夜灯と立派な鐘楼門を構える大きな伽藍です。車の場合、大府方向から県道57号線「横根町後田交差点」で右折すると写真の普門寺駐車場に至ります。狭い生活道路が多いので変に入り込まない方が賢明です。黒塗りの塀が二重門に続く趣のあるもので、上層には戦前までは梵鐘は吊るされていたが、供出により現在梵鐘の姿はありません。すぐ近くの賢聖院の門には梵鐘が残されていました。どちらの門も大棟には鯱が載せられています。境内は正面に本尊は釈迦牟尼仏を安置する本堂、向かって右側に手水舎・納経所・庫裏、左側に弘法大師・十一面観音を安置する観音堂が主な伽藍。普門寺の創建は古く、白鳳元年(671)とされ、元和年間に曹洞宗の寺院として再興され、天保年間に本堂などが再建されたようです。その後、平成に入り本堂、庫裏、弘法堂など改修が行われ現在に至ります。この寺の始まりについては面白い言い伝えが残り、尾張名所図会(天保年間)にもそのことが記されています。”海雲山普門寺横根村にあり大脇村曹源寺の末寺にて曹洞宗なり境内観音堂の本尊は天武天皇の白鳳元年二月十一日、観音の像白雲にのり南海より来現し給うと村民いうて、堂をつくりて安置す故に海雲山と名づけし“とあり、同時代の尾張志にも同様の記述が見られた。その観音像を祀るために建てられた堂が普門寺の始まりという。観音堂外陣の格子絵天井には四季の草花や鳥の絵柄が描かれています。内陣の眺め。白雲にのり南海より現れた十一面観世音菩薩立像は中央の社に安置され、普段は前立を礼拝します、本尊は17年に一度ご開帳されるそうです。秘仏十一面観世音菩薩立像は大府市文化財一覧にも登録があり、”平安時代の木彫像で、像高は104㎝で前立の十一面観音菩薩立像66.4㎝“写真では切れていますが左側に弘法大師が祀られ、右側には地蔵菩薩と十王像が祀られています。本堂から門前方向の眺め、右手の建物は薬師堂です。薬師堂内の眺め。本尊の木造薬師如来立像は大府市文化財一覧に登録がありました。その解説によれば本尊は、もともと横根藤井神社にあったもので、明治初年の神仏分離によって薬師堂とともに薬師寺(横根町)へ移されました。その後、薬師寺の無住化により、令和6年(2024)に普門寺に移されたもの。黄金色の厨子の中に安置される薬師如来立の像高は約1㍍で、平安時代(791-1185)のものとされます。一説には傅教大師(766-822)作とも言われるようです。次の四番札所 寶龍山延命寺はここから西へ約2kmほどになります知多四国巡礼 三番札所 普門寺宗派 / 曹洞宗 創建 / 白鳳元年(673)開基 / 開山 / 雪山寿盛大和尚本尊 / 釈迦牟尼仏札所 / 知多四国三番札所、尾張三十三観音五番札所(大黒尊天)、知多西国三十三所二十七番札所、大府七福神(大黒尊天)参拝日 / 2025/01/25極楽寺から普門寺 / 極楽寺から徒歩4分ほど所在地 / 愛知県大府市横根町石丸95関連記事・知多四国巡礼 一番札所 清涼山 曹源寺・近崎 神明社・北嶌山賢聖院・知多四国巡礼 二番札所 法蔵山 極楽寺
2025.03.10
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賢聖院から知多四国巡礼二番札所 法蔵山極楽寺までは西に徒歩4分程の城畑地内に鎮座します。狭い道路沿いに参道口があり、はじめて訪れる方には分かり難いかもしれない。写真は境内に続く参道口。この日だけかもしれませんが、入口には白と緑の奉納幟が立てられており、入口左には「新四国八十八ヶ所 第二番札所」の石標も立てられ、遠目から見ても分かりやすかった。ここから先は緩やかな坂となり境内に続きます。立地は東を流れる境川右岸の小高い丘陵地の裾にあたり、明治時代の地図では、近隣の集落を結ぶ唯一の道が参道口前の細い通りで、道から東の境川、逢妻川にかけては広大な水田が広がる地域。往古の衣浦湾がここまで来ていたというのも頷けます。参道口の石標は大正時代のもので、側面に一番・二番札所への丁石の役割を兼ねています。1丁が約109㍍なので一番札所の曹源寺まで27丁、約2.9kmとあり、極楽寺から次の三番札所普門寺は330㍍と目と鼻の先です。坂を上りきると極楽寺の伽藍が広がります。伽藍は正面の寄棟の建物が本堂で右が庫裏、左に弘法堂と手水舎、法蔵稲荷が主なものになります。スタート間際の人波を避け、道草しながら時間調整しましたが、次から次に巡拝者が訪れます。目指す弘法堂の前もごった返しています。左の弘法堂は大正8年(1919)に建てられた大きな露盤が載る方形の建物で、堂内には多くの弘法大師像が安置されており、これらの木像大師像は、信者が一人一体ずつ寄進したもので千体弘法と呼ばれています。本堂の山号額は「法蔵山」寺の由緒は見当たらず以下の書籍から引用します。大府市誌(1986)より"法蔵山 極楽寺北崎町城畑112番地に所在する。善導寺(東浦町)の末寺。草創について詳細は不明であるが、元和6年(1620)に善栄によって開かれたと伝えられる。はじめは道場山 極楽寺と称し、善導寺の手継(教導所)であった。六世呑説が本堂を再建し、九世澄音によって寺の什具などが完備された。再興時の享保9年(1724) 6月の棟札があり、のちに、25年間住持した一七世湛秀が、現在の本堂を建立した"尾張志(1844)より"北尾村にあり、法蔵山と号し、善導寺末寺"と記されている。山号額の掛かる本堂内部の眺め。中尊は無量寿菩薩、左脇侍に観音菩薩、右脇侍は勢至菩薩。内陣の光明遍照十方、世界念仏衆生摂取不捨の言葉の意味は、「黄金色に輝く阿弥陀仏の光明はあまねく十方世界を照らし、念仏するものを摂め取って決して見捨てない」阿弥陀仏は、信じる者に常に寄り添い、慈悲深く励まし続けてくれる。煌びやかな金色は、阿弥陀仏の不変の力を現しているという。・・・南無阿弥陀仏。納経印はまだ二つ、納経印で真赤に染まる事はないだろう。知多四国巡礼 二番札所 法蔵山 極楽寺宗派 / 浄土宗創建 / 元和6年(1620)開基 / 養誉善栄比丘開山 / 彰誉湛秀和尚本尊 / 無量寿仏、阿弥陀如来札所 / 知多四国二番札所、知多25霊場19番札所他参拝日 / 2025/01/25賢聖院から極楽寺 / 賢聖院から徒歩4分ほど所在地 / 大府市北崎町城畑112関連記事・知多四国巡礼 一番札所 清涼山 曹源寺・近崎 神明社・北嶌山賢聖院
2025.03.07
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近崎神明社からルートに戻り、県道57号線を南下、内田面南交差点を右折し二番札所極楽寺に向かいます。 交差点から右折し極楽寺へ向かう通りの前方に趣のある山門が視界に入り立ち寄ってみました。極楽寺の北側に位置し、極楽寺から徒歩2分ほどの高台に鎮座する北島山賢聖院。この鐘楼門が道の先に見えていながら寄らないわけにはいきません。入母屋造の木造瓦葺の鐘楼門を見上げる。門から先の観音堂の眺め。賢聖院は曹洞宗の寺院で、大府七福神霊場布袋尊天札所、尾州大府市内二十四ヶ寺巡りの第6番札所である。境内は右手の寄棟瓦葺の建物が本堂と庫裏、左の観音堂が主な伽藍です。人の気配を感じられませんが、それもそのはずで、現在は無住寺のようで、兼務寺院は刈谷市の洞隆寺が携わっているようです。賢聖院境内には由緒沿革の類は見られず、創建など詳細は現地では知ることができません。情報は少なく、辿り着いたのは1986年に出版された大府市誌でした。そこから得られた内容は以下のものです。“北嶌山賢聖院曹源寺(豊明市)の末寺。当寺に所蔵する「諸記録」によれば、創建は永禄7年(1564)3月で、開基甚入昌徹によって開創され、快翁竜喜の開山である。 その後、弘化2年(1845)11月22日に曹山智洞が住持になると、本堂・庫裡などを再建し、明治13年(1880)には、義翁鉤玄を寺院の確立に勧請した。また、当時の曹源寺住持雲菴黄竜を二世に勧請し、自らは三世となって寺院の中興を果たした。その後、曹源寺の法嗣が住持になるようになり、歴代住持の本師も、世代に請牌されている。なお、当寺は、永安寺(名古屋市東区東桜)・大光院(名古屋市中区大須)の住持となり、「大光慈舟禅師易贐録(文政10年出版)」という語録を残した高僧仏海慈舟(1745~1823)の頂相を所蔵している。 寺宝に江戸時代の鰐口がある。”天保15年(1844)に編纂された尾張誌にも賢聖院の名で“北尾村にあり北島山といい、曹源寺末寺”と記されています。本尊は釈迦牟尼如来、大府七福神霊場の布袋尊天札所でもあることから、本堂又は観音堂のいずれかに安置されている。観音堂全景。堂前の石仏には天保の元号も見られました。今は無住の賢聖院、かつての北尾村を見下ろす高台に建つ鐘楼門の鐘は、今は時を知らせることはないのだろう。北嶌山賢聖院宗派 / 曹洞宗創建 / 永禄7年(1564)開基 / 甚入昌徹開山 / 快翁竜喜本尊 / 釈迦牟尼如来、布袋尊札所 / 大府七福神霊場布袋尊天札所、尾州大府市内二十四ヶ寺巡り第6番札所参拝日 / 2025/01/25近崎神明社から賢聖院 / 県道57号線を南下、内田面南交差点を右折直進。1.1km約15分ほど。所在地 / 大府市北崎町北屋敷22関連記事・知多四国巡礼 一番札所 清涼山 曹源寺・近崎 神明社
2025.03.06
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3月1日の名古屋、春本番の訪れを感じさせる気温は20℃に迫ろうとする陽気でした。この日は小牧基地のオープンベースの前日にあたり、ブルーインパルスの演習飛行が予定されていました。前日から「小牧城に行かない?」と興味を示していた妻。小牧山は二人とも登ったことがなく、小牧山周辺も以前から行きたかった場所でもあり、二人で出かけてきました。 普段それほど混まない名鉄小牧線の車内には、長いレンズを持った乗客も多く目に付きました。乗客の大半は小牧基地の最寄り駅で降車し、そこから小牧駅の車内は嘘のように閑散としました。小牧駅西側のシンボルロードと呼ばれる通りから小牧山と小牧城の眺め。信号の先に見える森は神明社の杜。上は江戸時代末期に編纂された「尾張名所図会」の挿絵に描かれている小牧山。濃尾平野の中にポツンと聳える小牧山の姿は存在感があり、そうした地の利もあって戦国時代には城も築かれました。現在頂上には昭和42年に建てられた天守風の小牧山歴史館が建てられています。復元モデルではないものの、小牧山の頂に聳える姿は、戦国時代の信長や家康のころの小牧を象徴する小牧市のシンボルです。挿絵が描かれた江戸末期の小牧山には城の姿はみられず、山腹に複数の社が描かれています。名鉄小牧線の小牧駅は小牧山右の集落方向にあります。小牧山城は永禄6年(1563)、信長により築城され、尾張長久手の戦いでは家康が小牧山に陣を置き、豊臣勢から城を守るために防御を強化するなど家康と所縁がありました。城はその後廃城となり、江戸時代になって家康所縁の地である小牧山は江戸幕府により保護されたため、多くの遺構が残り、現在も発掘調査が行われています。当日も大手口から頂上に続く大手道は通行できず、迂回路から頂上に向かいました。郷社 神明社社頭全景。天照大神を祀り、永禄6年(1563)、小牧山に居城を移した信長が災厄除けのため、清須の御園神明社から分祀し創建され、広い境内には多くの末社が祀られています。こちらを参拝し小牧山方向に向かいました。小牧神明社所在地 / 小牧市小牧5-153神明社から10分ほどで小牧山史跡公園南口に到着。写真は入口の史跡小牧山解説と史跡案内。遺構や神社、頂上の小牧山歴史館など見て回ると一日がかりなのかもしれません。写真は小牧山の南にある愛宕社の社頭。愛知県神社によれば祭神は火具土命、菊理姫命、保武別命をお祀りする。尾張徳川家九代藩主徳川源明公墓碑。元は名古屋市の建中寺にあったものを昭和28年に当地に移設したもの。小牧山稲荷神社。市役所の北側の小牧山大手道沿いに鎮座する稲荷。その昔の小牧山は多くのゴイサギの生息地で狐や狸も多く生息していたといいます。ここ小牧山には妖力・霊力に優れた吉五郎という老狐が住み着き、周辺に住む狐の親分格だったそうです。吉五郎の霊力を知った村人が稲荷社を創建し崇敬したのがはじまりといいます。なので祭神は吉五郎狐のようです。吉五郎稲荷。小牧山稲荷神社のすぐ上に朱の鳥居を構えており、細い参道の先に小さな社が祀られています。吉五郎を祀る小牧山稲荷神社の奥之院的な存在なのだろうか。今のところ詳細は良く分かりません。この日小牧山頂上までに見かけた神社は以上3社、挿絵に描かれている山王や白山社など見かけなかった。小牧山南側の土塁。頂上の小牧山歴史館。建物を仰ぎながら、背景にスモークを吐くブルーインパルスの姿を撮りたくて、ここまで登ってきました。小牧市政70周年記念も兼ねていると聞いていたので、市役所上空を飛ぶものと想定しましたが空振りに終わりました。頂上にいた妻は、長いレンズを持った愛好家に押され下に降りてきました。結局頂上では一枚も撮れず、ブルーインパルスの写真は諦め、近くの堀の内神明社に向かいました。その道すがらブルーインパルスが頭上を通り過ぎていきました。堀の内神明社社頭全景。小牧市堀の内2に鎮座し、淡いピンクの神楽殿が印象的な神社で、今のところ創建時期など調べがついていない。社頭から南側の眺め、境内から広角で上空を構えたものの、上空を飛んでくれなかったなぁ、社頭南の遥か先にブルーインパルスの姿、やはり小牧基地北側の小針公園がいいのかなぁ。古い建造物の背景にブルーインパルスが飛ぶ光景、今回の場所選定は間違いだったようです。次回は方向を考えて候補を選定しよう。写真は小牧市小牧5-703のタウン小牧ビル203二階のベトナム料理のお店「PHO SEVEN」。こちらでフォーと生春巻きを食べて帰宅することにしました。フォーはどうしても肉臭くて今一つの印象があったが、ここのスープは牛+魚介の出汁で、臭みのないとてもやさしい風味のもので、牛臭いフォーの印象はガラリと変わりました。具の肉もさっぱりとしており、スープ同様に美味しいものでした。小牧は海外の移住者も多く、店の客層も日本人よりそうした方が多い。活気のある流ちょうな日本語で丁寧に接客してくれ、少し前の日本人の良さを感じさせてくれるお店でした。この日のルートはこちら
2025.03.05
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知多四国1番札所、曹源寺から2番札所に向かう途中、大府市神田町に鎮座する「近崎神明社」に立ち寄ってみました。今回はこちらを紹介いたします。この神社は、曹源寺から約35分ほど南の県道57号線北崎交差点西側に位置しています。近崎 神明社社頭全景。社頭右には「村社 神明社」の社号標が立ち、石の神明鳥居から先の参道は正面の拝殿まで真っ直ぐに続いています。鎮座地の神田町はかつて近崎と呼ばれ、明治24年(1890)当時の地図では、北崎村近崎に鳥居が記されています。古代には衣浦湾が目前に迫る岬に位置した地域で、近崎は師崎、亀崎と並び「知多の三岬」と称されていました。境内から眺める社殿全景。主な建物は右側に神楽殿、中央に拝殿・本殿、左側に手水舎・社務所があります。また、本殿の左には祖霊社と県社・八龍社・山之神社の三社相殿が祀られています。境内左の手水舎・社務所。境内には一足早い、春の彩りを見られました。境内には由緒書が見当たりません、尾張名所図会・大府市誌などを確認したところ、この神社の記述は見られませんでした。江戸時代後期の天保15年(1844)に纏められた「尾張志」には“神明社、 八龍宮・縣神相殿二社、近崎村にあり”とありますが、創建年などのは記されていませんでした。また、天保12年(1841)の近崎村絵図にも神明宮の名が見えます。創建はおそらく江戸時代中期以前まで遡ると思われます。愛知県神社庁に祭神の天照大御神、豊受大神、倉稲魂命、伊弉諾尊、伊弉冉尊と祭礼・氏子域の記載があるため、本ブログではそちらを尊重してお伝えします。明治5年(1872)、村社に列格、昭和20年(1945)三河地震、昭和34年(1959)には伊勢湾台風と被災し、その後再建されたものが現在の社殿のようです。神楽殿。神明造の拝殿と狛犬。本殿右から眺めた社殿全景。拝殿・幣殿・本殿がひとつながりで、本殿は内削ぎ千木が載る神明造、拝殿は6本の鰹木に内削ぎ千木が載ります。本殿左側の境内社、県社、八龍社、山之神社の相殿。尾張志に八龍宮・縣神は記されていますが、山之神社が祀られた時期は分かりません。祖霊社。拝殿から社頭方向の眺め。広い境内には桜が植えられ、例祭が行われる10月には、この広い境内で駆け馬まつりが行われるようです。近崎 神明社祭神 / 天照大御神、豊受大神、倉稲魂命、伊弉諾尊、伊弉冉尊創建 / 不明、天保12年(1841)以前境内社 / 県社、八龍社、山之神社、祖霊社氏子域 / 神田町、北崎町例祭 / 10月第2日曜日所在地 / 大府市神田町6-112参拝日 / 2025/01/25曹源寺から近崎神明社 / 県道57号線を南下、2.6km、35分ほど関連記事・知多四国巡礼 一番札所 清涼山 曹源寺
2025.03.02
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知多四国巡礼。昨年のテーマでしたが、結局、巡拝できず終わってしまいましたが。今年こそは、ということで「名鉄電車 歩いて巡拝 知多四国」の一回目に参加しました。上は初回のコースマップです。スタートは名鉄名古屋本線前後駅、そこから一番札所曹源寺、二番札所、三番札所、四番札所、六番札所常福寺の五寺を巡拝し、ゴールの常福寺からバスで名鉄常滑線太田川駅を結ぶ10.5kmのコースです。我家はゴールから徒歩でJAあぐりタウンげんきの郷で昼ご飯を食べ、そこからJR大府まで歩く全行程14kmを歩いてきました。今回は一番札所 清涼山 曹源寺を紹介します。前後駅から南に15分程で一番札所 清涼山 曹源寺山門に到着します。山門の左には宝暦12年(1762)に立てられた「不許葷酒入山門」の標柱があります。大きな「清涼山」の山号額が掛けられた山門は、入母屋瓦葺で三間一戸の木造楼門造り。趣きのある門は享保2年(1717)に建てられたもので、豊明市の有形文化財に指定されています。境内の眺め。スタートして間もないので、多くの巡拝者で境内は大賑わいです。正面の本堂と左手に弘法堂、右に庫裡、鐘楼が主な伽藍、檜皮葺の手水舎と袴腰の鐘楼は趣がありました。曹源寺のはじまりは鎌倉時代に遡り、天台宗として開闢されたと伝わります。後の永正2年(1505)に曹洞宗に改宗され現在に至ります。当初の鎮座地はここから南東1kmほどにあったが、承応3年(1654)の火災により伽藍を焼失し、鎮座地が境川、正戸川の氾濫が多かったことから、この地に遷されました。江戸時代より当地域の中本山の格を誇る有力寺院です。永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで今川勢は信長勢に敗れ、戦場には今川義元はじめ多くの死傷者が放置されていましたが、当寺が中心となり村人の協力の元に負傷者を収容・介護し、戦死者は各所に塚を作り供養したといいます。それも宅地化により姿を消し、現在はここから北の戦人塚だけとなり、毎年6月第一土曜日には戦人塚で住職による法要が営まれています。曹源寺位牌堂には、今川義元はじめ多くの武将の霊牌が祀られています。庫裡。文化10年(1813)に再建された入母屋瓦葺のもので、大屋根に煙抜きの小屋根が乗る禅宗寺院の庫裡の造りを伝えています。現在の本堂は明治13年(1880)に再建されたもので、軒丸瓦には「清」の文字が入る。軒唐破風の兎毛通には金色の立葵の紋と懸魚があります。なかでも、どこか自分の腹に似たどっしりと座り込む鬼の姿は妙に親近感が湧く。本堂扁額の「曹源寺」の揮毫は大本山総持寺の貫主を務めた石川素道禅師によるものです。本尊は釈迦牟尼仏、脇仏は釈迦の十大弟子迦葉と阿難。本堂大棟の鬼。境内左の弘法堂、今年最初ということで凄い人です。堂は明治23年(1890)に建立され、昭和49年(1974)に火災で焼失し、現在の堂は昭和51年(1976年)に鉄筋コンクリート製で再建されたものです。知多四国第一番札所 清涼山 曹源寺開闢 / 鎌倉時代宗派 / 天台宗として開闢改宗 / 永正2年(1505)曹洞宗に改宗される本尊 / 釈迦牟尼仏所在地 / 愛知県豊明市栄町内山45前後駅から曹源寺 / 徒歩15分前後参拝日 / 2025/01/15
2025.03.01
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