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2025年最後の歩いて巡拝知多四国。 本開催当日の12月20日(土)の天候は天気図から見て雨に降られそう、そこまで気合の入っていない我家は天候の回復を待って12月22日(月)の後開催で回ってきました。上は後開催のコースマップ。 スタートは名鉄知多新線内海駅。駅前から海っ子バス左回りに乗り、中須バス停➡40番札所影向寺➡海っ子バス(右回り)中須バス停🚌サンタバーバラ サンセットバス停➡41番札所西方寺➡42番札所天龍寺➡番外奥之院➡43番札所岩屋寺➡つくだ煮街道➡28番札所永寿寺➡海っ子バス矢梨海岸バス停(左回り)🚌ゴール・名鉄河和線河和駅を巡る全長11.5km+α、六つの札所を巡拝するもの。影向寺が建つ南知多町豊浜中之浦地区は、国道247号が海沿いを走り、国道のすぐ北側に山が迫る地域で、海と山の狭間にできた漁師町。 9:14発の左回りに約15分ほど乗り、中洲漁港の前にある中須バス停で降車、国道を渡り住宅街の中に続く細い路地を少し進めば40番札所影向(ようこう)寺が現れる。参道右の手水舎。 切妻瓦葺の木造で梁の透かし彫りや、屋根の四隅には見ざる・聞かざる・言わざる・せざるの四猿の飾り瓦が載せられていて面白い。影向寺伽藍全景。 中央の本堂は入母屋瓦葺で本堂左の間に観音堂、右に納経所、本堂左側が太子堂(子安太子堂)になります。太子堂左側の青瓦の門の先が子安観音霊場になっています。 当寺の由緒について、明治26年鈴木作次郎編の尾張志 知多郡(明26.2)に「中須村にあり 普門山といひて 本寺須佐村正衆寺末なり 永祿元戊午年正月の建立なり」と記されています。知多四国ガイドブック、南知多三十三観音霊場の由緒・沿革を纏めると以下のようになります。「曹洞宗 普門山 影向寺。 由緒当寺は永禄年間(1558~70)明鏡山浄心寺として創建。 かつて当地には浄心寺、影向寺、興福寺の三寺があった。明治初年に三寺が統合され普門山影向寺となる。 本尊は十一面観世音菩薩を奉祀。昭和46年、境内に子安観世音菩薩建立。 平成7年、本堂の改修。大師堂に祀られる子安大師像は、観世音菩薩の神通力で現れたと伝えられ、安産、子育て、除難、除病に霊験あらたかで、なかでも大師像や経文が描かれた「御守腹帯」の御利益は広く知られる。 軒下の名彫刻本堂正面の梁には、躍動感あふれる獅子や獏の彫刻が踊る。江戸中期に興った建築彫刻の一門・信州下諏訪立川流の名工だった立木音四郎種清の手によるもの。 御詠歌中須をも照らせる月の影向寺彼岸浄土もさやかにぞ見る 本尊 十一面観世音菩薩開基 不詳 開山 相芳宗」とある。本殿向拝梁の龍の彫飾り。 信州下諏訪名工立木音四郎種清の手によるもの。普門山山号額、なんとか読める。堂内正面に本尊の十一面観世音菩薩を安置する。なんと読むやら。堂内には聖観世音菩薩、福禄寿尊天、薬師如来を安置します。太子堂(子安太子堂)。子安大師尊・弘法大師尊が祀られています。子安観音霊場入口の門。 ここから本堂裏側に参道が続き、子安観音像に至ります。境内の眺め。参道入口の病よけ地蔵。 御符を左の手水で浸し、お地蔵様を自分と見立て患部に貼ると改善されるという。境内左の青面金剛像。 元号が切れてしまったが、江戸時代中期に寄進された像です。背後の山肌を背にして立つ子安観音像。 手前には水子地蔵尊が祀られている。小高く盛られた子安観音の台座の下は地下室になっており、中には十二支の守護神が祀られ、内部は壁面・天井に色鮮やかに絵が描かれています。 これらは崇敬者の浄罪により建立されたものという。地下室入口から内部の眺め。入口右側から、八幡大菩薩、不動明王、大日如来。正面の勢去菩薩、普賢菩薩。左面の文殊菩薩、虚空菩薩、千手観世音菩薩。角を生やし、鋭い目つきで天井からこちらを睨み、右手にこん棒、左手に女性を掴んだ鬼の天井絵。 作者は分からずじまいですが、影向寺を訪れた際は子安観音霊場にも立ち寄ってみるといいかもしれない。なかすをも てらせるつきのようこうじ ひがんじょうどさやかにぞみるさて、次は41番札所・西方寺に向かいます。 影向寺からの移動は二通りあります。① 国道を内海方向へ約2km歩く(徒歩約30分) ② 中須バス停に戻り、海っ子バス右回りでサンタバーバラ サンセットへ向かう(約12分)この区間さえスムーズに移動できれば、後の行程はそれほど負担になりません。我家は、内海駅のバス車内で一日乗車券(600円)を購入し、サンタバーバラ サンセットバス停までの8.6km(徒歩なら約2時間)をバスで移動しました。 通常運賃は400円なので、2回乗れば一日乗車券の方が割安です。影向寺の参拝を9時40分までに終え、中須バス停に戻れば9時43分発の右回りに乗れます。 これを逃すと、次のバスは1時間後になります。後開催 第十回歩いて巡拝 知多四国 40番札所 普門山影向寺宗派 / 曹洞宗創建 / 永禄元年(1558)開基 / 不詳開山 / 相芳宗本尊 / 十一面観世音菩薩札所 / 知多四国40番札所・南知多三十三観音霊場21番札所・直伝弘法八十八ヶ所霊場69番札所・南知多七福神「福禄寿」所在地 / 知多郡南知多町豊浜中之浦84参拝日 / 2025/12/22内海駅から影向寺 / 徒歩約6.9km・90分、バス移動約15分(片道400円)
2025.12.29
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福井県「縣社 岡太神社」岡太神社の鎮座地は、越前市北東部に位置し、武生盆地の東外れの粟田部町に鎮座します。北側の行司岳南麓に広がる粟田部町の北端部にあたり、古くから今立地域の中心集落として栄えてきた場所です。行司岳を背にして建つ「縣社 岡太神社」の社号標と参道の眺め。参道左側に鎮座する粟生(そくしょう)寺。岡太神社の別当寺として、白山を開いた泰澄大師により開山された天台真盛宗の寺院。長い歴史の中で白山平泉寺の末寺でもあった。岡太神社は、平安時代に編纂された延喜式神名帳(927)に「越前国今立郡 岡太神社」として記され、今立郡十四座の中でも最古と伝えられる古社です。創建は雄略天皇以前、五世紀頃に遡るとされ、当初は「岡太の宮」あるいは「玉穂宮」と呼ばれたようで、養老二年(718)には泰澄大師が巡錫の際に仏像二躯を勧請するなど、神仏習合の「白山三社大権現」として崇敬を集めました。明治五年(1874)の神仏分離令により「縣社岡太神社」と改称され、現在に至ります。社地は花筐(かきょう)公園の一部となり、地元では桜や紅葉の名所として親しまれています。石畳の参道の先に朱色の両部鳥居を構え、上・中・下と三段構造の境内に社殿が建てられています。参道の先の両部鳥居と拝殿。両部鳥居の額、揮毫は明治14年慶永とあり、16代越前福井藩主の松平慶永(文政11年~明治23年)によるものだろうか。境内右の手水舎と両部鳥居。拝殿全景。入母屋瓦葺の平入で前後に千鳥破風と、大きな向拝を持つ重厚感のあるもので、継体天皇ゆかりの神社です。本殿は拝殿右の石段を上った行司岳の中腹に鎮座し、周辺には複数の境内社が鎮座します。拝殿から社頭の眺め。武生盆地にポツンと聳える行司岳は、朝倉氏の本拠地一乗谷館に至る要衝の地であったことから、多くの城が築かれ、神社後方にはかつての粟田部城もあった。石畳の参道が真っすぐに続き、参道の両脇に多くの寺院が点在する光景は城下町の趣が漂います。上中下とある境内、下の境内に建つ拝殿。拝殿を守護する狛犬。向拝下の彫飾りは三頭の獅子と牡丹、上には波が描かれています。拝殿額は「岡太(おかふと)神社」。ここから南東に車で5分程の大滝町に「岡太神社・大瀧神社」が鎮座します。昭和中頃まで粟田部町と旧岡本村と呼ばれ、それぞれ「岡太神社」が鎮座しており、当初は当社がこの神社の里宮なのかと思っていましたが、両社に直接所縁はないようです。「岡太(おかもと)神社・大瀧神社」は、独特の屋根の連なりを見せる社殿や施された彫も見事なので合わせて参拝するのをお勧めします。拝殿左から見た拝殿。左の石標は「継体天皇潜龍の聖跡」と刻まれ、当社が継体天皇ゆかりの古社であることが分かります。拝殿から右に進んだ花筐公園の一角に、27代安閑天皇、28代宣化天皇がこの地で生まれ、その際に産湯に使われた池が現存しています。岡太神社由緒記。「往古、男大迹皇子「繼軆天皇」当地に御潜龍の頃、漲水氾濫し、皇子甚く是を憂い、九頭龍・足羽・日野の三大川を拓き、此の地、大迹部蓬莱山の麓に、建角身命・國狹槌尊・大己貴命を奉祀し、岡太神社と号して、治山治水事業の竣功を祈誓された。即ち、今立郡十四座中の式内社である。相殿に繼軆天皇を奉祀し、明治8年、県社に列した。殊に、皇子ゆかりの神事旧跡等が、連綿として現在に伝承されている。王位莱祀「莱祀祭」春正月13日(今は2月21日)皇子、河内國樟葉宮に着御する日を奉祝し、例年、山車を奉じて、街仲を巡幸する素朴な神事として知られている。迹王の餅「堂の餅」大和國玉穂宮に遷都賜る日を奉祝し、秋季大祭の宵宮10月12日若衆等が、迹王の餅を神前に奉納し、翌朝堂・宮講中に、御神餅を配与する伝統の儀である。皇子ヶ池は安閑・宣化天皇の産湯の池と伝えられる。薄墨桜は皇子お手植えと伝え、県内外に知られる。謡曲「花筐ゆかりの地」として、著名である。」福井県神社誌(昭和11編纂)に岡太(おかふと)神社について長文で語られており、由緒に記されていない部分を以下に追記します。「相殿 継体天皇、高龗神、少彦名命、素戔嗚尊、猿田彦命、天鈿女命、金山彦命、崇德天皇、火產靈命、崇神天皇、應神天皇、倉稲魂神、彥主人王命。・明治41年神饌幣帛料供進神社。・明治43年同町無格社貴船社 祭神高龗神、同町無格社天神社 祭神少彦名命、同町金刀比羅神社 祭神素戔嗚尊、猿田彦命、天鈿女命、金山彦命、崇德天皇、同町秋葉神社 祭神火產靈命、崇神天皇、同町八幡神社 祭神應神天皇、同町稲荷神社 祭神倉稲魂神。・大正5年本社境内社 彥主人王宮 祭神彥主人王命を合祀。境内神社須波阿湏疑神社(建御方神、大己貴命、事代主命)。安閑天皇宮(広国押武金日天皇)。宣化天皇宮(武小広国押盾天皇)。白山比咩神社(伊弉諾、伊弉冉尊)。宗忠神社(黒住宗忠)。」また当神社は明治6年(1873)、火災で消失、明治35年(1902)に再建されたものです。岡太神社由緒記左の境内マップ。大きく分けて境内下段に拝殿、中段に神輿殿・神明宮・稲荷社、上段に本殿があり、公園側に天神社・出雲社・秋葉神社、皇子ヶ池、行司岳を登った先に金刀比羅神社が鎮座するなど、見所は多くバスツアーの限られた時間では全て回りきれなかった。拝殿右側から拝殿と神馬像の眺め、神門は五七桐のようです。拝殿後方の中段の神輿殿。拝殿右から本殿に続く石段を上った先の中段に鎮座する神明宮と稲荷祠。神明宮は、養老二年(718)泰澄大師により白山三社大権現(岡太神社)の別当寺として開山された粟生寺の鬼門封じとして創建されたもので、稲荷社は五穀豊穣を祈願し同時期に祀られた。坪田真悟助翁名碑。第15代横綱梅ケ谷藤太郎が功績を称え寄進したという。そこから左の鳥居を構えた石段を上がれば岡太神社本殿です。上段にあたる本殿域全景。本殿正面に鳥居を構え、石畳の参道が唐門に伸び、両脇に常夜灯、狛犬を安置します。鳥居前から本殿の眺め。粟田部の町は、即位前の継体天皇が暮らしていたと伝わり、花筺公園内には「皇子が池」と呼ばれる六角形の玉垣に囲まれた聖地があり、この池で継体天皇の子、安閑・宣化両天皇の産湯に使ったと言われます。以前は宮内庁管理だったようですが、町に下賜されたそうです。ここから車で10分弱の南東の大瀧地区に、滝のように屋根が連なる本殿を持つ岡太(おかもと)神社・大瀧神社の里宮と、大徳山の奥宮には岡太神社・大瀧神社其々の社殿が鎮座しますが、歴史的には同社より岡太(おかふと)神社が古いとされます。唐門と本殿の全景。本殿域には流造の本殿と両脇に二社祀られています。玉垣で囲われた本殿域。もう少し早ければ紅葉も綺麗だったろうが、わずかに残った葉にも冷たい雨が打ち付け、落葉を急かしているようだった。本殿左脇の不明社。上段の本殿域の右側に脇参道があり、そこを進むと皇子ヶ池や秋葉神社等境内社が鎮座する花筐公園の核心部に続きます。脇参道の鳥居から本殿域の眺め。皇子ヶ池。安閑天皇、宣化天皇がこの地で生まれた時、この泉に湧き出る水を産湯に使われた池とされています。周囲は六角形に玉垣をめぐらし、池を囲っています。現在はかつてのように皇子ヶ池に水が湧き出る事はなく、入口付近の手水と井戸に水が湧き出ています。皇子ヶ池の右上の散策路沿いに社頭を構える秋葉神社。園内のこの一帯には天神社・出雲社・秋葉神社が鎮座し、行司岳に続く参道の先に金刀比羅神社が鎮座します。花筐公園や岡太神社は紅葉が美しいところだと思います。しかし訪れた11/28ではピークを過ぎており、前日の風と当日の雨で落葉も進みいま一つでした。行司岳の麓には古刹や神社もあり、機会をみて、歩いてひと回りしたいところ。来年6月にはかみさんが3週間近く家をあける、そのタイミングで訪れるか。息子もその方がいいのかも知れないし。栗田部 岡太神社創建 / 不明祭神 / 建角身神、大己貴命、国狭槌尊他境内社 / 神明宮・稲荷社・天神社・出雲社・秋葉神社・金刀比羅神社他所在地 / 福井県越前市粟田部町19-3関連記事・セイコ丼と紫式部、越前を巡る秋のバス旅過去記事・岡太神社・大瀧神社
2025.12.28
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知多四国二十六番札所・弥勒寺を後にし、次なる目的地は二十七番札所「誓海寺」と番外札所「禅林堂」、第九回歩いて巡拝 知多四国も二十七番札所「誓海寺」が最後の目的地となります。誓海寺へは海沿いの国道247号線を南下、河和交差点から左に進み、師崎街道で田畑の中を通り抜け、南知多道路の高架橋に向かう、4.5km約1時間の道のりです。弥勒寺から河和駅付近の堤防沿いから、河和港と穏やかな表情の三河湾を望む。陽気も良く、こんな日なら釣りにきてもいいかなぁ。ここから国道247号線河和交差点に向かいます。河和交差点から師崎街道ひたすら南に向かい、大川を渡ったら県道279号線を右手に向かって歩いて行きます。写真は美浜町古布大坪付近の刈り取りを終えた田圃が広がる見通しの効く光景。この平坦な道を左手の山に向かって進んでいきます。人影は消している訳ではないが、本開催でこの人影、やはり参加者は減っているように見える。太田川を渡り県道を進むと、山の入口あたりの九條交差点角に大きな石標が立てられています。表には「新四国二十七番・開設者禅林霊場」、裏側に「大正三年三月」と寄進者名が刻まれていました。ここまで来れば目的地まであと500m、約7分程なので着いたようなもの。南知多道路の高架を潜った先の左側に誓海寺の石柱門が立っています。南知多道路の高架手前に「村社 津島神社」社頭が現れます。過去に一度訪れたことがありますが、ゴールも近いので一人で寄り道してみました。南知多道路沿いに続く参道を上った左に社殿が建てられています。津島神社社殿全景。この時期、境内のイチョウの黄葉が鮮やかでした。上は愛知県神社名鑑から津島神社の解説を纏めてみました。過去に訪れた際の津島神社の様子は最後にリンクを貼っておきます。津島神社知多郡美浜町大字古布字九条13-20。南知多道路沿いに続く参道から西の眺め、左の森に誓海寺は見えています。ここに歩道橋があれば近いのだが戻るしかありません。県道沿いに立てられた誓海寺石柱門。誓海寺は、ここから左に入り、坂を上り詰めた先に鐘楼門を構えています。誓海寺は、知多半島の南中部の美浜町善切地区の山間にたたずむ曹洞宗の寺院。釈迦牟尼仏を本尊とする曹洞宗の古刹で、境内には知多四国開山所のひとつ禅林堂が併設され、開創に尽力した岡戸半蔵行者を祀っています。鐘楼の彫細工には三鈷杵と二頭の犬が彫られています。高野山開創の地を求め、空海が唐から投げた三鈷杵を探し求めていた際、導いた二頭の犬を表していると思われます。木鼻の意匠は獏と獅子だろうか。鐘楼門の右には金色に輝く観音像、左には千手観音、地蔵菩薩が安置されています。傍でよく見ると金色の像はコンクリート像の様だ。誓海寺は室町時代後期の弘治元年(1555)、周栄和尚が開基されました。戦前まで、現在地よりも海に近い場所に鎮座していました。しかし昭和19年(1944)に河和海軍航空隊施設建設のため、山に囲まれた静かな当地域に誓海寺をはじめ村ごと強制移転されました。禅林堂は知多四国霊場の「開山所」のひとつ、三開山(亮山阿闍梨、武田安兵衛、岡戸半蔵行者)の一人岡戸半蔵行者を祀る。岡戸半蔵は1752年、知多郡福住村(阿久比町)で生まれた江戸時代後期の人物で、妻子に先立たれたのを機に諸国巡礼の旅へ。そこで妙楽寺住職の亮玄阿闍梨に出会い、霊場開創の思いに感銘を受け、私財を投じて開創に尽力、後に出会う武田安兵衛らと共に現在の知多四国霊場の礎を築いた人物。岡戸半蔵は文政7年(1824)73歳の時、誓海寺で息を引き取り、戒名の「冷月院 禅林 逸学庵主」から禅林堂と名付けられたようです。右の本堂と左に弘法堂・愛染堂、禅林堂が連なり、その間の小堂には岡戸半蔵の石像、文化13年(1816)に建てた妻子の供養塔が安置されています。かのきしに わたらんこふのせいかいじ なみもしずかに のりのかぜふく第九回梵字カード、せっかく巡拝しているのでなんとか全てコンプリートしたい。今回のコースはこの後「えびせんパーク」を経てゴールの河和駅に向かいますが、我々はここから来た道を戻り、国道を南に進み「魚太郎本店」で昼食の後河和駅に向かう事にしました。誓海寺から国道を南下、2.6km・約30分かけて魚太郎へ。上 ビールに焼き牡蠣。下 あてにしていた定食が売り切れのため選んだ地魚定食(1400円ほど)。魚種の分からない刺身がなんなのか気になるも、お腹に入れば皆同じ。昔に比べお得感はなくなった気がするが。相変わらず賑わっていた。魚太郎 本店所在地 / 知多郡美浜町豊丘原子32-1食後は堤防沿いを北上、河和駅に向かう。堤防沿いを歩いている際に見かけた、「旧第二河和海軍航空隊 滑走台跡」堤防の先の浜辺に水上機の上げ下げに使用した、コンクリートの滑走台が残っており、現存するものとしては日本最大規模という。第二河和海軍航空隊は水上機の練習航空隊で、実戦機による特攻訓練が行われていたという。周辺には他にも滑走台が現存し、誓海寺や集落の強制移転の発端となった場所です。所在地 / 知多郡美浜町古布屋敷80本開催 第九回歩いて巡拝 知多四国 27番札所誓海寺・番外札所禅林堂宗派 / 曹洞宗創建 / 弘治元年(1555)開基 / 周栄和尚本尊 / 釈迦牟尼仏札所 / 知多四国八十八箇所 27番札所、南知多三十三観音霊場第5番札所番外札所 禅林堂本尊 / 岡戸半蔵行者所在地 / 知多郡美浜町古布善切20-63弥勒寺から誓海寺 / 国道247号線を南下、河和交差点から左に進み、師崎街道で誓海寺へ4.5km約1時間。参拝日 / 2025/11/15 関連記事・第九回歩いて巡拝知多四国 番外札所 影現寺・第九回歩いて巡拝 知多四国 26番札所 弥勒寺過去記事・『津島神社』知多郡美浜町古布九条・知多四国霊場二十七番札所 『天龍山 誓海寺』
2025.12.27
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影現寺を後にして、潮の香りが漂う国道247号線を南に歩みを進める。国道から右に曲がり路地を進むと、正面に石造りの鳥居が立つ十二神社が姿を現す。 弥勒寺の手前に鎮座し、文明二年に創建され、木工理姫命、木花咲耶姫命を祀る古くからこの地を守ってきた神社。この社頭を左に進むと知多四国26番札所 弥勒寺の山門も近い。十二神社の社頭から左へ進んだ先の弥勒寺山門。落ち着いた佇まいで、大棟の鯱が印象的な山門が巡拝者を迎えている。影現寺の広大な境内とは対照的に、集落の中に佇む弥勒寺は控えめな印象を受けます、この山門をくぐれば境内へと足を踏み入れることになる。山門をくぐり、山門右手から境内伽藍の眺め。山門正面に本堂が佇み、左に太子堂、本堂右が納経所・庫裏が主な伽藍。26番札所 弥勒寺本堂。尾張志下巻(1979)、尾張志知多郡(1893)に弥勒寺の記述がみられ、「北方村にあり、龍華山といひて河和村全忠寺末寺也」と短く記されるにとどまっていた。知多四国ガイドブックでは以下のように記述されています。「曹洞宗 龍華山 弥勒寺 二十六番本尊 弥勒菩薩開基 友林光益和尚開山 実山道大和尚由緒弥勒寺は、慶長元年(1596)、 友林光益和尚により開創。宝暦三年(1753)、火災のため堂宇のほとんどを焼失するも、八代祖春和尚によって再建。十三代実州道明大和尚が法地勧請を行ない、実由道悟大和尚を開山に招請し、自らは二世中興となって当寺の再興に尽力したと伝えられる。明治四十年、本堂を落慶。昭和三年、五世奇関鍼厳大和尚により弘法堂が再建。平成七年、本堂、開山堂、檀信徒会館など改修、庫裏や位牌堂には、現代美術家協会に参加する愛知県出身の画家佐藤八生氏作の「極楽図」「花鳥図」などが飾られ、秋の彼岸期間中には、守宝の 「地獄絵図」が御開帳される。」太子堂。本開催というだけに、堂の前はお経を唱える参拝者が後を絶たない。とはいえ、以前の本開催と比べると、信徒の方のもてなしやキッチンカーも見られたものだが、最近はかつての賑わいとは程遠くなった気がします。混雑を避けるため、行くなら後開催と思っていたが、そうでもないのかな。2021年に訪れた太子堂印象は、妻壁や破風板の腐食が進んでいたのを思い出します。唐破風向拝。4年ぶりの太子堂は特に補修された形跡はないが、腐食が進んだ様子も見られないようです。三鈷杵や木鼻の装飾も以前のままで、相変わらずなのは額の書が読めない。遍く照らす御心の「遍照」と書いたと思われるが自信はない。因みに今年の漢字は「熊」でしたが、書いている途中では良く分からなかった。読めないように書く=達筆、凡人はそのように受け止めてしまう。山門付近の道端で見かけた丁石。廿と丁は分かるものの、拡大すれば読めるだろう、なんて思っていたが・・・苦もなく腰を落として撮るのはいいが、固まった姿勢から立ち上がるには一苦労するようになってきた。blogのタイトルもおやじから爺に変えないといけないかもしれない。さて、弥勒寺を後にして再び国道沿いに河和方向に歩き、27番札所誓海寺と隣接する番外札所禅林堂に向かいます。距離は約4km、一時間程の道のりです。つゆのみも けふはうれしくきたかたの みろくじそんのあかつきにある本開催 第九回歩いて巡拝 知多四国 26番札所 弥勒寺宗派 / 曹洞宗創建 / 慶長元年(1596)開創 / 友林光益和尚本尊 / 弥勒菩薩札所 / 知多四国八十八箇所 26番札、南知多三十三観音霊場二番札所所在地 / 知多郡美浜町北方西側16影現寺から弥勒寺 / 影現寺から国道247号線を1.3km南下、そこで右に入り200mほど、徒歩20分。参拝日 / 2025/11/15関連記事・第九回歩いて巡拝知多四国 番外札所 影現寺過去記事・『十二神社・山之神社・北方稲荷社』知多郡美浜町北方・知多四国霊場 二十六番札所 『弥勒寺』
2025.12.24
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11月15日、本開催第九回歩いて巡拝 知多四国を歩いてきました。上は第九回のルートマップ。今回のスタートは名鉄河和線「河和口駅」、そこから番外札所影現寺、26番札所弥勒寺、27番札所誓海寺、開山札所禅林堂を巡り、ゴールの名鉄河和線「河和駅」までの11kmを歩く道のりになります。河和口駅に降り立つと、当日は絶好の巡拝日和、目の前の海は朝の陽光に照らされ眩しいくらいに輝いていた。海岸沿いに伸びる国道247号線、南に向かい国道沿いを歩きだします。写真は駅から1kmほどの国道沿いに店を構える「大砲巻本舗飴文老舗」。江戸末期に創業した「大砲巻」で知られるお店。スタートして間もないが、「季節限定」・「くり」のワードは女心を掴んで離さない。いきなりここで寄り道、土産に「栗ごろも」一本を買い求め、おやじのリュックに納まる。札所目指してひたむきに歩く巡拝ではなく、我家はこんな感じの温い巡拝です。9:20、再び歩き出す。最初の札所影現寺は右に200mほど。国道沿いに「時志観音」の石標、その先に長い石段が迫っている。個人として2度目の訪問になりますが、壁のような120段を超える石段は相変わらず。曹洞宗の寺院で、慈雲山影現寺と号し、知多四国八十八ヶ寺巡りの番外札所で、南知多三十三観音霊場一番札所でもあります。前回訪問時の様子は過去記事にリンクを貼っておきます。この日は本開催ということで、境内は特に参拝客が多い、いつものように自由気ままに見て回る事は出来なさそうです。伽藍は正面に観音堂、右に本堂、毘沙門天堂、弘法堂が主な伽藍となります。境内の左の手水舎、その先の地蔵堂に祀られている子安地蔵と不動明王。金剛力士像もお変わりないようです。視線の先には光り輝く三河湾と海原に浮かぶ佐久島の島影が眺められます。鐘楼。1922年(大正11)に建立された鐘楼で、戦時下は梵鐘は供出され、現在の釣鐘は昭和24年朝鮮の古梵鐘の流れを受け継ぎ鋳造されたものだそうだ。観音堂全景。影現寺について尾張志下巻(1979)の記述には以下のように記されていた。『時志村にあり、慈雲山と号し河和村全忠寺の末寺なり。永正十一年(1514)五月、観音堂を建立して今の山号寺号を稱せしに、いつしか海面山普門寺と改号せしを、宝暦三年(1753)官許を蒙りて今の山号寺号に復せり』とある。その観音堂に祀られるのは十一面観世音菩薩で「時志観音」と呼ばれます。十一面観音像は1574年(天正4)、佐久島の漁夫が出漁中に網にかかって現れたとされるそうです。佐久島の草庵に祀られたその尊像は、ある夜、島守の夢枕に立ち以下のように告げたという。「我は観音菩薩の化身なり。衆生救済の為に中国より渡れども。時を得ずして海中の藻屑になること幾星霜、願わくば対岸の地に移し祀られよ」と告げたという。尊像はお示しのとおり対岸の戸岸(現在の時志)へ移されたのだという。観音堂建立時期と観音像出現の時期がほぼ同時期であることから、この十一面観音像の出現が開創のきっかけになったようです、改号のきっかけは調べが付かなかったが。影現寺は尾張徳川家とも所縁があり、1605年(慶長10)、尾張徳川初代藩主の徳川義直は尾張一円を巡察の途中、当時荒廃していたこの観音堂を訪れ、安産祈願の霊験があらたかで、その由来に感銘し200両を与え荒廃していた堂宇の修復を命じたとされます。それは義直自らが子供を授かるタイミングだったからかも知れない。義直は無事に男子を授かり、それ以降、尾張徳川藩から厚く崇敬され庇護されたようです。そうした事から、三つ葉葵を寺紋にすることを許され、境内の至る所に三ツ葉葵の紋を目にします。「時志観音」慈雲山 影現寺十二世の重興仙嶺大隣和尚により1981年(昭和51)に建立されたもので、御影石の一枚石から作られた像としては、日本一の大きさとされる。像の高さは6㍍あるという、影現寺を象徴するのがこの観音像かもしれない、その前の狛犬も勇猛な姿をしています。境内左の石像群と石塔。石像群は太子堂の右にもあり、重興仙嶺大隣和尚の座像や座禅猿などあります。本開催 第九回歩いて巡拝知多四国 番外札所 影現寺宗派 / 曹洞宗創建 / 永正十一年(1514)本尊 / 十一面観音像札所 / 知多四国番外札所、南知多三十三観音霊場1番札所所在地 / 知多郡美浜町時志南平井86大砲巻本舗飴文老舗から影現寺 / 右に200mほど、徒歩2~3分参拝日 / 2025/10/21関連記事過去記事・知多四国霊場 番外札所『慈雲山 影現寺』
2025.12.23
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山口県下関市に鎮座する長門國一宮 住吉神社は、長い歴史を有する由緒ある神社で、日本三大住吉の一つとして知られています。境内には国宝の本殿を有し、古来より長門國の総鎮守として崇敬を集めてきました。山陽新幹線新下関から南東2km、徒歩でも30分ほどとアクセスも良好で、参拝や観光に訪れる人々にとって便利な立地です。長門國一宮 住吉神社 社頭全景。大鳥居右に「長門一宮 住吉神社」の社標があり、社頭左の神池に浮かぶ小島には厳島神社が祀られています。大鳥居の先の神橋を越えた参道の先の石段を登り詰めた先には荘厳な社殿が広がっています。社頭左には社殿の見取り図が掲げられています。石段を登り詰めた先には楼門があり、社殿の周囲を透かし塀で囲われています。境内の中心には、重要文化財に指定されている拝殿と、九間社流造で五つの千鳥破風が連なる壮麗な本殿が並び、住吉神社の威容を今に伝えています。写真は社頭左の神池の小島に鎮座する厳島社の全景。創建時期など詳細は不明ですが、社名から祭神は市杵島姫命と思われます。参道中ほどの神橋。恐らく左の神池は以前は写真右側にも同様に広がっていたと思われ、現在は埋め立てられ宝物館が建っています。神橋から楼門に続く石段を望む。上。新橋右側の宝物館、残念ながら非公開です。下。石段右の手水舎と左に神社解説板がある、内容は以下。『長門一宮 住吉神社御祭神 (本殿向って左から)第五殿 建御名方命(たけみなかたのみこと)第四殿 神功皇后 (じんぐうこうごう)第三殿 武内宿祢命(たけうちのすくねのみこと)第二殿 応神天皇(おうじんてんのう)第一殿 住吉大神、荒魂(主神) (すみよしのおおかみ・あらみたま)御由緒今から一七八四年前、住吉大神の御神託により、神功皇后が現在地に、その『荒魂』を鎮祭され、以来、延喜式内・名神大社、長門国一宮、国幣中社(明治四年)、官幣中社(同四十四年)、神社本庁別表神社(昭和二十二年)として現在にいたる。拝殿には『住吉荒魂本宮』の懸額がある。御神徳『荒魂』とは、積極果敢に物事を成就させ給う御神威の顕現(お示し)であり、古来特に勝神としての信仰が強く、交通安全、(新車祓)海上安全、厄祓、清祓等の祈願が多く、(特有性) 家内安全、商売繁昌、五穀豊穣、学力向上、当病平癒等はもとより(通有性) こうした『進路守護』の御神徳は、何時の世も高く仰がれるところである。祭典(主なるもの)和布刈祭・旧元旦 、御田植祭・五月第三日曜日神幸式・九月秋分の日、河流祭・十二月十五日御齋祭・十二月八日~十四日、例祭・十二月十五日御社殿 本殿(国宝)、拝殿(重文)宝物 銅鐘(重文)、唐鞍(重文)社叢 八○余種の樹林(県指定) 』石段脇の青銅狛犬は、一般的に見られる威厳や畏怖の表情とは異なり、慈愛と親しみを感じさせる面持ちが特徴です。その朗らかな表情は参拝者に安心感を与え、神社の象徴的存在として親しまれてきました。しかし、昭和18年(1943)、戦時中の金属供出により軍需物資として徴用され、青銅製の狛犬は失われてしまいます。以来、コンクリートの複製が設置され、往古の姿を偲ぶ存在となっていました。終戦70年を迎えた平成27年(2015)、復元計画が立ち上がり、神域を守る神獣として往古の姿で蘇ったもの。石段を上り詰めた先の朱に彩られた楼門。室町時代建立の楼門ですが、現在の門は明治34年(1901)に再建された入母屋造の檜皮葺、三間一戸の楼門で国の登録有形文化財に指定されています。山口県神社庁の住吉神社解説から抜粋編集した内容は以下。『当社は、延喜式に載せる名神大社で、のち、長門國一宮を称しているが、古く仲哀天皇の御后、神功皇后の創祀。仲哀天皇の崩御は、天皇が神の教えを信じなかったためで、皇后の征韓は神の教えに従われた結果であった。凱旋の時、再び神から「吾が荒魂を穴門の山田村に祀れ」との神誨をうけられた。そこで、神恩奉謝のために、この地に祠を立てて三神の荒魂を祀られた。これが当社の起源である。『西暦200、日本書紀』。伊弉諾大神が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で、禊ぎ祓いされ、住吉の大神が出生されたことにより、古来住吉の大神が禊ぎ祓いの神として、朝野の厚い崇敬をお受けになっている理由から、厄除け・方位除(進路守護)、海上・交通・工事安全、家内安全、安産・初宮詣・初誕生祭・七五三詣、合格、年祝い、商売繁昌、社運隆昌、心願成就、病気平癒、出向祭典の地鎮祭、竣工・開所・家祓など広く崇敬をあつめている。古くから多くの文化人の崇敬を集め、有名な中世の歌人宗祇の「新撰菟玖波集」をはじめ、「銅鐘、住吉神社法楽百首和歌、金銅牡丹唐草透唐鞍」(重要文化財)など40点を宝物館に保管。現在の本殿(国宝)は応安3年(1370)に大内弘世の寄進。拝殿(重文)は天文8年(1539)に毛利元就が奉建。本社東に境内摂社の蛭子社(事代主神)、若宮神社(穴門直践立命)、境内末社の田尻社(山田大宮司家祖神)、七社(伊勢・八幡・加茂・春日・松尾・平野・稲荷の京都七社)、稲荷社(宇賀の御魂神)、高元社(須佐之男命)、本社北に采女社(山田家祖先のうちの女神)。本社西に検非違使社(火須勢理命)。本社南に嚴島社(市杵嶋姫命・田心姫命・湍津姫命)。境外末社が本社西に天神社(菅原道真公)、本社東に打下社「貴船社を合祀」(猿田彦命・高龗神・大歳神・菅原道真公)がある。住吉神社の境内を覆いつくすように生い茂る樹林は住吉神社社叢として、古来より神域として崇められ保護され、昭和28年、山口県天然記念物に指定されている。』楼門手前を守護する石造狛犬(寄進年未確認)。尾をピンと立て、鬣を強調したフォルムは犬というよりライオンのような勇ましい姿をしていました。楼門から境内拝殿の眺め。住吉神社の楼門をくぐる際、ふと天井を見上げると、明治34年に寄進された十二支と東西南北が描かれた干支方位盤が掛けられているのが目に入ります。古来、人々は天体観測によって方位や時刻を知り、航海や農耕に役立てましたが、現代人には用のないものかもしれない。楼門の左右の間に安置されている随神像。鎌倉時代の作とされるが、作者不詳で県の文化財リストには登録されていなかった。実物は約800年前のものとは到底見えない、とても綺麗な状態です。毛利元就が寄進した拝殿と大内弘世が寄進した本殿の眺め。拝殿左には神門があり、西参道、西駐車場に通じています。拝殿に掲げられている額には「住吉荒魂本宮」とあり、有栖川宮幟仁親王(1812-1886)の揮毫によるものです。山口を訪れるにあたり、住吉神社の九間社流造に五つの千鳥破風が連なる本殿の姿は一度は見ておきたかった。全体として視線を釘付けにする意匠は少なく、建立された中世以降から、透彫りの欄間を用いたりして装飾の意匠に拘りを持つようになっていきますが、住吉神社はその狭間の時代かもしれません。因みに神社境内の本殿、拝殿の解説内容を下に書いておきます。『国宝(建造物)住吉神社本殿一棟九間社流造、正面五ヵ所千鳥破風附、檜皮葺附 玉殿5基、棟札4枚昭和二十八年十一月十四日指定応安三年(1370)長門国守護大内弘世が再建、 以後、何度も修理が施されていますが、再建当時の室町初期の神社建築様式を留めています。祭神を祭る本殿は、一間社流造の五つの社殿を相の間(あいのま)で連結した九間社流造の様式を採っていますが、正面に千鳥破風が設けられ、流造としては異例です。身舎(もや) 側面は一間で、正面には浜床(はまゆか) および浜緑 (はまえん)が取りついています。また、組物、軒廻り、墓股などの構造意匠は非常にまとまりがよく、優れています。重要文化財(建造物) 住吉神社拝殿一棟桁行三間、梁間一間、一重、切妻造、妻入、檜皮葺昭和二十九年九月十七日指定天文八年(1539)、安芸国(広島県)の戦国大名毛利元就 (もうりもとなり)が建立した、四方吹放ちの建物です。木鼻、墓股、組物などの細部手法に創建時の特徴が見られます。この種の拝殿を縦長に配置する例は少なく、本殿とともに貴重な文化財です。』当日は特別拝観期間中で、透塀右の神門から本殿前庭に立ち入ることが許されており、九間社流造を間近で見ることができました。目を引くのは五つの本殿の相の間の板戸絵に描かれている花鳥図だろう。本殿左から春夏秋冬の四季の花鳥図が描かれています。春「桜と鴨」、夏「柳と白鷺」。秋「紅葉と鷹」、冬「柿と鵜」。400年間吹曝だった板絵は判別不能なまで劣化していたが、宇部在住で国選定保存技術者の馬場良治氏により復元され公開されていた。前庭に立ち入れること自体稀な体験であり、修復され、往時の色彩を取り戻した板戸絵を、間近に見られることなど今後ないだろう。参拝の後本殿左側に回り込んでみました。写真は本殿左から拝殿と楼門の眺め。左から本殿の眺め。真横から見ると流造の特徴が良く分かる。本殿左の突き当りには境内社も祀られています。大宮司家祖神を祀る「采女社」。本殿左の鐘楼(右)の腰壁に解説があり、それによると文字通りの鐘楼堂で、古記録によれば天文八年(1539)に毛利元就が拝殿・鐘楼を修造した記録が残り、四隅の丸柱の先に突き出た木鼻の紋様に室町期の様相が現れている。方形瓦葺の屋根は令和7年に葺き替えられたもので、高麗時代初期の鐘楼は重要文化財で宝物館に収蔵されている。大きさは高さ約142cm、口径が約79cm、重さは800kgのものという。左は検非違使社(火須勢理命)。社殿右の儀式殿の前から東に進んだ先に写真の境内社が祀られています。右の瓦葺の三社相殿には右から七社(伊勢・八幡・加茂・春日・松尾・平野・稲荷の神)。中央の蛭子社(事代主神・蛭子神)は住吉三神が鎮座する以前より祀られてきた地主神。左は田尻社(大宮司家祖神・天満大神)・若宮神社(穴戸直・践立命)。若宮社は神功皇后五十九年(228)に勝山村に鎮座していたが、明治になって当社に遷座。左の社が高元社(須佐之男命)、中国自動車道建設に伴い遷座。ここから左は杜の高みに続く参道があり、その左に稲荷神社が祀られています。稲荷神社全景。祭神は宇迦之御魂命、猿田彦命、大宮売命。天保十年(1839)、伏見稲荷より勧請し、藤山村に祭祀されていたが、平成十五年(2003)に当神社に遷座されたもので、社が建つ小高い丘は恰も狐塚のような趣きが漂っています。稲荷神社の社頭前に武内宿祢命お手植の大楠が聳えています。本殿の第三殿に長寿の神として祀られ、幹の内部には畳二帖ほどの樹洞があり、小さな鳥居と社が祀られています。以上で境内社の参拝は全て終え、西参道から駐車場に向かいます。西参道から手水舎、神門の眺め。その背後に宮地築始祈念碑 神籠石(こうごいし)という大きな岩が安置されています。立札には「東の斎宮の旧跡と相応ずるもの、東に祀る庭のしるしである」西鳥居をくぐり社頭へ。ここにも文化十一年(1814)に寄進された手水鉢、常夜灯は更に遡り寛政十一年(1799)の先人が寄進したものです。それとて仲哀天皇9年創建とされる、長門國一宮 住吉神社の長い歴史の一コマでしかない。長門國一宮 住吉神社創建 / 仲哀天皇9年(200)祭神 / 住吉大神(表筒男命、中筒男命、底筒男命)の荒魂、応神天皇、武内宿祢命、神功皇后、建御名方命境内社 / 恵美須社、七社、検非違使社、妥女社、厳島社、稲荷社所在地 / 山口県下関市一の宮住吉1-11-1参拝日 / 2025/11/06関連記事・周防國・長門國一ノ宮巡りday1(錦帯橋・玉祖神社・瑠璃光寺)・周防國・長門國一ノ宮巡りday2(元乃隅神社・住吉神社)・白山比咩神社・錦川水神社・周防國一宮 玉祖神社・瑠璃光寺・元乃隅神社
2025.12.22
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長門市街地から車で約30分ほど、山口県長門市油谷津黄の日本海に面した断崖絶壁の上に鎮座する元乃隅(もとのすみ)神社。眼下には海蝕洞があり、荒波が打ち寄せるたびに潮が吹き上がる龍宮の潮吹と朱の鳥居が連なる光景は、海沿いの絶景スポットとして観光庁のプレスリリースで世界中に発信され注目を集め、ミシュラン・グリーンガイド・ジャポンの二つ星観光地として掲載されてから、海外からの観光客が増加した観光名所。写真は駐車場から東の眺め。荒々しく切れ落ちた絶壁が広がっており、北長門国定公園に指定されています。北の水平線に見える島影は、ここから45kmほど沖合に浮かぶ、周囲25kmの見島。古来、朝鮮半島の新羅の侵入に備える前線として、武人が駐留し島内には7世紀後半から10世紀初頭の古墳群があるという。北長門国定公園観光マップ。訪れた時にはツワブキの黄色い花が至る所で見られました。駐車場入口付近から左の高台にある、社務所と鳥居。神社の参拝時間は7:30からとか情報が錯綜しています。参拝時間は9:30からで、7:30では駐車場に係員がおり駐車は出来ますが、社務所と鳥居に続く参道は封鎖されています。写真は社務所下側に立てられていた由緒。当神社は神社庁に属しておらず、創建時期は比較的新しいもので、現地解説板とHPから由緒を抜粋してみました。「白狐のお告げから創建された神社。創建当時の昭和30年はお堂だけだったが、昭和33年に祠を建立。その後、昭和62年から平成9年にかけて約123基の朱の鳥居が奉納され、現在の姿になった。御利益は航海安全、福徳円満、学業成就、商売繁盛など。 平成28年、海沿いの絶景スポットとして観光庁のプレスリリースで世界中に発信され注目を集め、翌年6月にミシュラン・グリーンガイド・ジャポンの二つ星観光地として掲載されてから、海外からの観光客が増加した。」というもので、古来、津黄や油谷の漁業や田畑の豊穣を祈願した小さな祠から始まっており、断崖に祀られた祠を見るべきなのかもしれない。とはいえ、日本海の荒波が龍宮の潮吹に打ち砕け、吹き上がる飛沫と朱の鳥居の連なる光景は一度は見ておきたいところです。因みに龍宮の潮吹は写真右手の断崖付近の、波の高い時期に打ち寄せた波が岩壁の隙間から吹き上げられます。その断崖には幾つかの小さな祠が祀られており、吹き上がる様をみて信仰対象とされたのだろう。駐車場から右に下る道があり、高みに鎮座する社殿に続く123基の奉納鳥居が連なる参道口に通じています。ここから奉納鳥居の連なりが途切れるところまでは、時間前でも歩いて行けます。参道入口の「龍宮の潮吹」の解説。「龍宮の潮吹(国指定天然記念物及び名勝)指定年月日 昭和9年8月9日龍宮はこの地帯の海蝕地形の総称。この地帯は第4紀洪積世 (現在より約200万年~1万年前)の安山岩からできています。岩の間に黄色く見える部分が流紋岩で、その部分が波で削れて洞ができます。その洞内に打ち寄せる波が突入するごとに、圧縮された洞内の空気が縦約1m、横約0.2mの隙間より外に出ていこうとして、海水を一緒に吹き上げる現象が見られます。吹き上げる海水は、北東の風が吹き、海が荒れると30mにも達する。この一帯の海岸は岩礁・洞穴に富み、龍宮洞、龍宮の舟隠しと称される小さな湾等があり、景観は人の目を楽しませています。この奇観は龍神のなせるわざとして、広く里人の間に信仰を集め、とりわけ旱魃の際には近郷より雨乞いに集まる人が多かった。」解説の右が社殿に続く正参道入口、両部鳥居の先から稲荷鳥居が社殿に向け連なっています。両部鳥居の扁額は元乃隅神社。稲荷鳥居は社殿の下の祠まで連なります。創建が新しいだけに石段も整備され、手摺もあるので安全です。稲荷鳥居が途切れた先に祠があり、左右に狛狐が安置されています。時間前はこの手前で封鎖されており、祠の中やここから先へは登れません。祠前から稲荷鳥居と一ノ鳥居、駐車場方向の眺め。祠あたりから見下ろすと、岩壁と鳥居の連なる姿は収まりません。よく見る景観は、ここから少し高い位置の境内から見下ろしたものだろう。因みに、中央の岩山の左から下に下りる道がありますが、柵や手摺もなくお勧めしません。写真は降り口付近の石仏、断崖から海を見つめる姿が妙に印象に残る光景です。当日の穏やかな波では「龍宮の潮吹」は見られませんが、これから荒れた日本海の表情を見せる頃になれば、潮を吹き上げる神々しい光景がみられるだろう。その光景こそが、人々が神の存在を感じ取って祠や石仏を祀るようになった、はじまりの光景なんだろう。元乃隅(もとのすみ)神社創建 / 昭和30年祭神 / 白狐、宇迦之御魂神、伊弉冉尊所在地 / 山口県長門市油谷津黄498関連記事・周防國・長門國一ノ宮巡りday1(錦帯橋・玉祖神社・瑠璃光寺)・周防國・長門國一ノ宮巡りday2(元乃隅神社・住吉神社)・白山比咩神社・錦川水神社・周防國一宮 玉祖神社・瑠璃光寺
2025.12.19
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山口県山口市香山町に位置する瑠璃光寺は、豊かな自然に囲まれた「香山公園」の一角に鎮座しています。周囲には四季折々の花々が咲き誇り、春は桜、冬は梅の名所として広く知られています。背後には戦国期の山城「古城ヶ岳城址」を擁する古城ヶ岳の南麓が広がり、市街地からほど近いながらも落ち着いた雰囲気を保ち、訪れる人々に安らぎを与える環境です。山口市コミュニティバス「大内ルート」で約10〜15分乗車した「香山公園五重塔前」で下車、バス停の目の前が瑠璃光寺になります。背後に標高367mの古城ヶ岳の南麓に位置し古城ヶ岳城址を擁するこの地は、歴史と自然が調和する静かな環境に包まれています。車で瑠璃光寺に着いた頃は、既に夕暮れが迫るタイミングで授与所の授与時間(9:00~16:30)には間に合わなかった。しかし、後方に見える国宝五重塔は境内から眺められるのでそれだけでも訪れた甲斐があった。周辺の観光マップ。山口の町は室町時代の大内氏により、風水を採り入れ、町そのものが四神に護られるように作られているという。瑠璃光寺の鎮座する位置は、玄武の西「義弘公菩提寺香積寺」と記された場所(赤丸)にあたります。大内氏の町づくりは、一の坂川を京の鴨川に見立て、町を中央に配置し、路に「大路」「小路」といった京風の名称を付け、八坂神社や北野天満宮を勧請するなど、京への憧れを形にしたもので、西の京とも呼ばれる由縁。曹洞宗瑠璃光寺、香山公園入口から山門方向の眺め。室町時代に大内氏が建立した香積寺の境内跡を基盤とし、元禄3年(1690)に瑠璃光寺が移転した際に伽藍が再建されました。香山公園は瑠璃光寺移転後の江戸期から明治期にかけて庭園として整備が進み、桜や梅の名所として地元民に親しまれる現在の公園の姿になりました。その庭園の右側の池の畔に建つのが国宝の五重塔。修復工事にともない、長らく養生シートで囲われていた塔が今再び姿を見せていた。嘉吉2年(1442)、大内義弘の菩提を弔うため弟・大内盛見が建立を開始し、完成させたもので、檜皮葺の三間五重塔で、宝輪の先端の宝珠までの高さは約31.2mある大建築。檜皮葺の屋根は、軒の出が比較的深く、勾配は緩やかで、軒先に向け軽快に反り上がるものです。三重目より上は縁と高欄がなく、ひきしまった姿が印象的です。建立時期は大正時代に行われた解体修理の際に墨書きが見つかり特定されたようです。この塔は法隆寺、醍醐寺と並ぶ日本三名塔のひとつで、海外のメディアに取り上げられたことから、日没迫る時間帯でありながら、インバウンド客の姿も見られました。瑠璃光寺境内の池畔脇に、室町時代の画僧・雪舟の胸像があり、雪舟は大内氏の庇護のもと山口で多くの傑作を残し、この地は雪舟ゆかりの地として知られています。境内の五重塔解説。当日は五重塔修復期間中限定で秘仏公開が行われていたが間に合わず。参道左側の大内氏第24代当主大内弘世の銅像。弘世は室町幕府の重臣として活躍し、京の文化を山口に取り込み『西の京』と呼ばれる文化都市へと発展させた功労者で、文学や寺社の保護にも尽力した名将の功績を讃え設置されたもの。瑠璃光寺は文明3年(1471)、陶弘房の夫人が夫の菩提を弔うために建立した曹洞宗の寺院で、創建当初は「安養寺」と称しましたが、弘房の念持仏が薬師如来であったことから、明応元年(1492)に「瑠璃光寺」に改められました。元禄3年(1690)には仁保から現在の香山町へ移転し、かつて大内義弘の菩提寺であった香積寺の跡地に根を下ろしました。山号は保寧山と称され、本尊は薬師如来を祀ります。境内にそびえる、国宝「五重塔」は嘉吉2年(1442)、大内義弘の菩提を弔うために弟・大内盛見が建立した室町時代中期の代表的建築として知られ、内部の心柱に須弥壇が作られ、大内義弘像と阿弥陀如来像が祀られており、塔の下には大内義弘の柩が埋葬されているとも言われています。参道より山門、伽藍の眺め。山門。江戸時代中期に建造された木造の四脚門で、左右に回廊が繋がれ、回廊はその先で折れ曲がり、方生池を挟んで鐘楼・本堂・禅堂・庫裏を配置する独特の伽藍構成を持っています。現在の伽藍は元禄3年(1690)に仁保から香山町へ移転した際に再建されたものという。山門額は保寧山。一間一戸の四脚門で有形文化財に指定されており、四方の蟇股には透かし彫りが施されています。山門をくぐり、境内右側の眺め。袴腰の鐘楼に吊るされる梵鐘は、天文元年(1532)に鋳造されたもので、年末の除夜の鐘には広く開放され、室町時代の鐘の響きを体感できるそうです。(山口市指定文化財)手前の石造五重塔は平成4年(1992)、国宝五重塔の創建550年を記念し、実物の五重塔の約7分の1の縮尺で建立されたもので、写経を埋納する経塚としての役割を持つそうです。回廊は更に先に続き、方生池を挟んで正面中央の本堂、右の禅堂、左の庫裏を繋ぐ伽藍構成。正面の本堂。石段の右には閻魔大王、左に身代わり地蔵の祠がある。本堂左の庫裏と右に身代わり地蔵。山門左の慈愛に満ちた姿の慈母観音像とわらべ地蔵。境内から香山の町の眺め。写真は明るくしてありますが、この時期の17:30は実際には薄暗く、折しもスーパームーンが見られる日で、塔方向に三脚を構えその時を待つカメラマンの姿も見られました。保寧山 瑠璃光寺宗派 / 曹洞宗創建 / 文明3年(1471)開山 / 大庵須益開基 / 陶弘房夫人本尊 / 薬師如来 文化財 / 国宝「五重塔」、萩藩主毛利家墓所(国指定史跡)、瑠璃光寺開山から三世までの肖像画(山口県指定文化財)所在地 / 山口県山口市香山町7-1参拝日 / 2025/11/05関連記事・周防國・長門國一ノ宮巡りday1(錦帯橋・玉祖神社・瑠璃光寺)・白山比咩神社・錦川水神社・周防國一宮 玉祖神社
2025.12.18
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この季節になると個人的にパイ生地に包まれた酸味のあるリンゴの味が恋しくなる。昨日、通りすがりのシャトレーゼに立ち寄り「プレミアムアップルパイ」を買った。こんなメーカーイメージです。この画像に釣られた訳ではなく、単にそこにあったから買っただけです。プレミアムアップルパイ(定価390円)の実態。こんなレポート書きたくないが、何せ最初の一口・二口・三口・四口、その間口に入るのはサクサクしたパイ生地のみ。中を確かめると空洞のみ。リンゴの風味・食感は口の中に入ってこなかった。手元の部分にきて固形物らしきリンゴの姿がようやく現れ、口の中にリンゴの風味が伝わった。別のものを割ってみた絵が上のもの、果肉ジャム、カスタードクリームらしきものは申し訳程度に入っているが、リンゴは僅か一切れ。これではスカスカで到達しないはずだ。タイ焼きの外れを食べた時の失望感しかなかった。そもそも受け取った時、妙に軽い印象を持ったが、結果はまさにその通り。世の中原材料が値上がりするなか、スカスカのパイを受け入れなきゃいけないのかもしれない。パイ生地はそこそこいい感じなのに、二度とシャトレーゼで買うことはないだろう。商品名を調べていたら以下のような記事を見かけた。そもそも、こうした記事に感化される方ではないが、「どこから食べてもちゃんとリンゴを感じられる」と締めくり、☆五つついていた。TV・グルメレポート・口コミは全く信用ならない。
2025.12.17
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2025/12/02、早いものでもう師走。この時期になると毎年近鉄電車で少し遠出するのが恒例、今年は奈良県の「山の辺の道」を散策する事にしました。明日から寒波が押し寄せ一気に冬らしくなるという事でこの日にしたが、現地は快晴で風もない暖かい一日でした。9:37桜井駅到着。駅で見かけた「橿原市×ストリートファイター」のラッピング車両。ゲームのことは知らないが、橿原市はストリートファイターのキャラクターで熱いようだ。ここからJR万葉まほろば線に乗り換えて長柄駅に向かう。JR長柄駅。9:53 今回の山の辺の道散策のスタート地点長柄駅に到着。〒632-0044 奈良県天理市兵庫町ここから山の辺の道を一部辿りながら、大和神社から天理市布留町の石上神宮を回る約8kmを歩きます。奈良盆地は古代日本の政治の中心ともなり、一帯には無数の古墳が残り、古墳マニアにとって古墳の宝庫といっても過言ではないかもしれない。10:20、長柄駅の東約800mほどの大和神社北側付近の眺め。盆地の中で見かけるこんもり盛り上がったところは古墳と思ってもいい。大和神社社叢もその一つで、大和古墳群のひとつ星塚古墳が境内に有ります。道を進むと大和神社参道に至り、右に社殿、左に進むと社頭に繋がっています。旧日本海軍の戦艦大和と所縁のある神社で、写真右側には戦艦大和ゆかりの碑があり、傍らの祖霊社は大和と共に犠牲となった2736柱の御霊が祀られています。大和神社と戦艦大和の所縁を記した解説。戦艦大和に当神社の分霊が祀られ、艦長室には堂本印象画伯の「戦艦大和守護神」と題し、大和神社の3つの本殿と神門を描いたものが掲げられていたという。1945年4月、大和は天一号作戦のため山口・徳山湾沖を出航し、沖縄海上特攻に向かうが、その直前、呉市周辺で燃えやすい物が陸揚げされ、絵は難を逃れ、今も現存しています。戦艦大和ゆかりの碑と左の社が祖霊社。大和大明神、日本最古の神社 大和神社由緒。三つの本殿の中央殿に日本大国魂大神、左殿に八千戈大神、右殿に御年大神が祀られています。もともとは孝昭天皇の時代から瑞籬宮で祀られていたが、崇神天皇6年(BC92)に渟名城入姫により当地に遷されたのが創建とされる。御神徳は交通安全、厄除け、家内繁栄、土木建築工事起工安全に御利益がある。「日本最古」の定義が曖昧ですが、今回訪れる石上神宮もまた日本最古のひとつに数えられています。入母屋銅葺屋根の大和神社拝殿。拝殿向拝の額は「大和大明神」。神門の先に連なる本殿。社頭に向かう参道の左脇が星塚古墳。全長70mの前方後円墳と思われますが、発掘調査はされておらず、一説には神武天皇皇后陵とも言われるようです。参道からニノ鳥居、一ノ鳥居方向の眺め。戦艦大和の全長はこの参道と同じ長さで、幅は参道の5倍あったとされます。大和神社所在地 / 奈良県天理市新泉町306大和神社を後にして、山を背に田畑が広がる一帯を北に向かいます。この光景はインバウンド客の多い京都では味わえないもので、奈良に魅せられる理由のひとつ。関の地蔵。大和神社から北に1kmほどの路地に建つ地蔵堂。所在地 / 奈良県天理市佐保庄町紅葉も終わりを迎え、これから色合いの乏しい時期を迎える。11:20、関の地蔵から1.5kmほど北上した天理市乙木町の交差点から東の眺め。赤い鳥居の先のこんもりした森が次の経由地夜都岐神社の社叢になります。夜都岐神社社叢全景。なんでも古墳のように見えてしまうが、古墳ではなく宮山という山のようです。境内には右の藁葺屋根の拝殿と後方の本殿、社務所が主なものになります。古来、夜都岐神社と春日神社の二社があったものが、春日神社一社となり、春日四神を祀る夜都岐神社に社名変更されたようです。春日大社とも結びつきがあり、県道脇の朱の鳥居や本殿を春日大社若宮から下賜(春日移し)されたものという。夜都岐神社。所在地 奈良県天理市乙木町76511:45、夜都岐神社北側から山の辺の道を北上し、園原峠の三叉路を左に進み、「道の駅なら歴史芸術文化村」に向かいます。12:00、幾坂池西岸沿いに歩き「道の駅 なら歴史芸術文化村」に到着。幾坂池では鮮やかな瑠璃色に輝くカワセミが飛ぶ姿を見かけた。堤の水抜き穴が巣のようで、しばらく見守っていたが顔を見せてはくれなかった。今日は当てにしていたお店が定休日、周辺にコンビニもなく、こちらで弁当を買い求め二階にあるフリースペースで昼食とする。鉄板の柿の葉寿司、かみさんに合わせて同じものにしたものの、王道はさば・さけ、これが一番かもしれない。店によって酢加減が違いますが、ここのは酢じめが弱く魚臭さを感じる印象を持ちました。わさびいなり。ひとつ買ってシェアしましたが、甘い揚げとわさびの相性が良く、価格に対し美味しかった。この道の駅は文化財修復工房や展示棟などの施設が併設されており、面白い道の駅かもしれません。道の駅 なら歴史芸術文化村所在地 / 奈良県天理市杣之内町437-313:00、道の駅の前を横切る国道25号線を右に200mほど進み、側道を下っていきます。正面に見えているのは厳島神社。厳島神社 / 奈良県天理市杣之内町左手の森の裾を抜け更に北に向かい石上神宮を目指す。森の裾沿いの細い道、そこから森の中に伸びる石段があり、神社がありそうなので寄ってみました。都祁(つげ)山口神社社頭全景。石段を上りきると鳥居の先の境内に繋がっています。瓦葺の拝殿とその後方に流造の本殿を持ち、紅葉に包まれひっそり佇む神社で、大山祇命、久久迩知命、波爾夜須命を祀るようです。都祁山口神社所在地 / 奈良県天理市杣之内町896道は社頭から右に向かい、突き当りで右に進み、すぐ先の田畑の中に続く細い道を左に進みます。13:20、峯塚古墳南側に到着。道はこの先で左に進み、県道51号線を右に進めば石上神宮も近い。所在地 / 奈良県天理市杣之内町196県道沿いの峯塚古墳解説。この解説の後方、県道51号線脇に小さく盛られた円錐形の小山があります。それも杣之内古墳群の一つ保昌塚古墳で、直径13m、高さは人の背丈の2倍ほどの小さな円墳があります。息子達が小さかった頃、夏休みの自由研究のネタ探しの際、当時三角縁神獣鏡が話題で、家族で古墳めぐりをしたのを思い出す。奈良はそうした体験の場としてとても環境が整っています。13:30、石上神宮末社の神田神社の脇を通過。このすぐ先を右に入ると石上神宮参道です。長い参道の先の石上(いそのかみ)神宮社標と鳥居。鳥居の先の参道には無数の鶏が放されており、人について歩いてくる。その先の楼門は文保2年(1318)に建立されたもので重要文化財に指定されている。楼門の右手の摂社 出雲建雄神社拝殿(国宝)。神社HPの解説は以下。『元来は内山永久寺の鎮守の住吉社の拝殿だったが、大正3年に現在地に移築されました。内山永久寺は鳥羽天皇の永久年間(1113~18)に創建された大寺院でしたが、神仏分離令により明治9年に廃絶しました。その後も鎮守社の住吉社は残されましたが、その住吉社の本殿も明治23年に放火により焼失し、拝殿だけが荒廃したまま残され、当神宮摂社の出雲建雄神社の拝殿として移築しました。この建物は内山永久寺の建物の遺構として貴重なもので、国宝に指定されている。建立年代は、はじめは保延3年(1137)に建立され、その後13・14世紀に2回の改築を受け現在の構造・形式になったと考えられています。』参拝客の大半は煌びやかな楼門をくぐり国宝の拝殿を目指しますが、楼門の前の高台の上にひっそりと建っているもう一つの国宝には訪れないようです。石上神宮拝殿。(国宝)神社HPの解説は以下。『当神宮への御崇敬が厚かった第72代白河天皇が、当神宮の鎮魂祭のために、永保元年(1081)に宮中の神嘉殿を寄進されたものと伝えられています。建築様式の区分では鎌倉時代初期の建立と考えられる。いずれにしても拝殿としては現存する最古のものであり、国宝に指定されています。なお、文明2年修復、貞享元年上葺、享保18年修補、元文5年上葺、寛政10年修復、安政6年屋根替、計6枚の棟札が現存しています。』古来の石上神宮はこの拝殿と後方の禁足地だけで、現在のような本殿はなく、拝殿内に本殿が置かれていたという。主祭神は布都御魂大神、布留御魂大神、布都斯魂大神を祀る。御神体は禁足地から出土した布都御魂剣、古来からの伝承が事実であったことを裏付けるものです。楼門右手からの眺め。ここから右手に続く参道を進むと、大きなイチョウや参道脇のイチイガシの巨木が聳える社叢(天然記念物)の中に参道が続き、祓戸神社の注連柱を経てさらに伸びています、ここは奈良に続く山の辺の道です。祓戸神社へは立ち入り禁止ですが、杜の静けさに包まれ、雑念から解放された自分が見つけられる場所かもしれない。石上神宮所在地 / 奈良県天理市布留町384参拝を終え、一の鳥居から右に向かい、一路天理駅に向かいます。天理本通り。石上神宮の西1kmほどにあり、このあたりで地酒を買うつもりで訪れました。写真は稲田酒造、色々物色したが決めきれず、JR天理駅から三輪駅に移動しました。15:00、三輪駅に到着。この路線に乗ると、車窓からこのお店が良く見え、ついつい三輪で降りてしまう。駅の正面の今西酒造の駅前店で一杯飲むために立ち寄りました。おっさんが選んだ三諸杉初しぼり。かみさんが選んだ三諸杉鬼このみ。我家の嗜好に合っており、何を飲んでも美味しいお酒を醸す酒蔵で、商品も販売しており、蔵元に行かなくても気に入った酒が手に入る。この時期に三輪を訪れたら「どぶろく」だろう、名古屋までの長い道のり、取扱要注意ですが早速購入し、15時過ぎの桜井行きに乗り慎重に持ち帰る。電車は1時間に1本ほど、周辺には三輪坐恵比須神社や大和国一宮大神神社、今西酒造の酒蔵など見所が多い。今西酒造 駅前店 Cafe 三輪座所在 / 奈良県桜井市三輪354どぶろくを名乗るラベルは多い、醸造用アルコールまでは許容できますが、糖類と表示されたものはほぼ買わない。このどぶろくは、米そのものが持つ旨味と甘みが感じられ、美味しく食べられる。今回のルート。
2025.12.15
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山口県防府市大崎に鎮座する周防國一宮 玉祖(たまのおや)神社。現地に着いた頃には、既に夕陽で赤く染まろうとしていました。鎮座地は八籠山の南麗の佐波川右岸に位置する扇状地で、一面田畑が広がり、住居がポツン〃と点在する解放感溢れる地域です。駐車場に車を停め左を眺めるとすぐそこに玉祖神社の社頭が見えている。 右を見れば、遥か先に一ノ鳥居がある、行くべきか?神社に向かうべきか?今日の予定が押しており、かみさんは御朱印を頂きに足早に神社に向かいました。遅れの要因を作っているのが自分だけに、ここは左に進み、後を追うのが賢明だろう。ニノ鳥居に続く参道左の常夜灯、竿には玉祖宮と刻まれています。その右側に猿田彦大神。玉祖神社参道から見たニノ鳥居。鳥居前の狛犬は文化9年(1812)に寄進されたもので、素朴なフォルムで吽形は角を持っているようです。上、自然記念物玉祖神社樹林。社殿北側の社叢が樹々の密度も高く、希少な植物が見られるとのことで市指定自然記念物となっています。下、国指定天然記念物「黒柏鶏」山口県文化財では以下のように解説されています。「島根県と山口県でかなり古くから飼育されてきた中型の鶏である。現在県内では、山口・防府・徳山の三市及びその付近の町村だけで飼育され、標準体重は成鶏の雄で3.3kg、雌で2.3kg。羽色は全身金属光沢をもつ緑紫黒色、純粋種は目、足、爪、もすべて黒色である。とさか及び耳たぶは赤色、足は暗い鉛色で、鳴き声は普通7~8秒続き、中には10秒に達するものもある。長鳴性のあることや尾羽が長く伸びる形質をもっていることから、小国鶏(京都府・三重県・滋賀県を生息地とする国指定天然記念物)の系統であるとされるが、その成立過程はよくわかっていない。白柏、赤柏と呼ばれる近縁の鶏も飼育されたが、ほとんど姿を消したらしい。」現在、黒柏鶏は防府市内の一部と玉祖神社境内で飼育されており、社頭右に黒柏発祥地の顕彰碑がある。黒柏鶏は境内で飼育、放鳥されているため、ペット同伴で境内に入ることは出来ません。当日は夕暮れも近づき鶏舎に戻ったのか、境内に姿はなかった。後方の建物は玉祖神社 齋館。神門左の手水舎。龍がいい仕事していました。以下は山口県神社庁による解説を玉祖神社概要と沿革年表に整理したもの。概要主祭神 玉祖命 外一座不詳。玉祖神社は、天照大神の天岩戸隠の神事で八坂瓊曲玉を造った玉祖命を祖神とし、天孫降臨に際して国土統治を補佐したことに始まると伝えられる。玉祖命は中国地方を平定後この地で神去り、御祖の地に葬られたことが社の起源とされる。奈良時代には朝廷から租税免除や神税奉納があり、平安期には社格が従三位から従一位へと昇格した。鎌倉時代には俊乗坊重源が造替を行い、室町期には大内氏による社領拡大や造営が続いた。安土桃山期には毛利輝元が社領を寄進し、江戸初期には火災で社殿や社坊が焼失するも再建された。18世紀以降も毛利氏や藩主による造替・修繕が行われ、明治には国幣小社に列し、大正期に国幣中社へ昇格。昭和期には斎館新築や社務所改築が行われ、長きにわたり社格と祭祀を保ち続けてきた。沿革年表・奈良時代 天平八年(736)~十年(738):社領の田租穀が奉免。翌年、周防国正税から神税奉納。・平安時代 大同元年(806):封戸10戸に加え5戸を賜る。 貞観九年(867):社格が従三位に昇格。 康保元年(964):正二位から従一位に昇格。 長徳四年(998):『今昔物語』巻十七に玉祖惟高の名が見える 永万元年(1165):神祗官から名神諸社に進物、大榑300寸を給される。・鎌倉時代 建久六年(1195):俊乗坊重源が造替を行い、神宝を調進。料田10町歩が奉免。・南北朝時代 建武二年(1335):大内弘幸が社殿造営と神宝調進。・室町時代 文明十一年(1479):社領が佐波郡から吉敷郡に及ぶ記録。 明応六年(1497):大内義興が参詣し神馬を寄進。・安土桃山時代 天正十七年(1589):毛利輝元が社領200石を寄進。 文禄五年(1596):「打渡坪付帳」に九社坊の名が見える。・江戸時代 慶長三年(1598):社殿・社人屋敷・九社坊が焼亡。 慶長十四年(1609):毛利秀就が社殿を再興。 寛延三年(1750):毛利宗広が本格的造替工事。 安政元年(1854):藩主による大修繕。・明治時代 明治四年(1871):国幣小社に列格。 明治六年(1873):佐野若宮社を摂社とする。 明治十年(1877):浜宮御祖神社を摂社とする。 明治十一年(1878):官費で社殿改修。・大正時代 大正四年(1915):国幣中社に昇格。・昭和時代 昭和十一年(1936):斎館新築、社務所改築。玉祖神社は『延喜式神名帳』に「玉祖神社二座」と記され、祭神は2柱を祭祀しますが、玉祖命の他の一柱は諸説あるようですが定かではなく、創建時期も神代の時代に遡ります。また、本殿左の北参道口から約750mの大崎地内の田んぼの中に、玉乃岩屋と刻まれた石碑が建てられ、ここが玉祖命の墓所とされます、当日は次の目的地もあり自然記念物の社叢北側から眺めるだけに留めました。悠久の歴史を持つ玉祖神社、当社寺宝に重要文化財の「周防国一宮造替神殿宝物等目録」建久六年(1195)が残ります。文治二年(1186)に周防国は東大寺再建のための東大寺造営料所にあてられ、建久六年(1195)東大寺再建の後、その礼として、再建の中心人物だった僧侶 重源が、周防国一宮である玉祖大明神(玉祖神社)の社殿を新しく造り直しました。この文書はその際に贈られた目録で、文書の裏には重源本人の直筆で「日別供料として田んぼ10町を免除する」と記され、署名や花押が押されているという。その他にも大内弘幸重建目録、毛利輝元宗広再建目録や重要美術品として銅製巴文双雀鏡、源義経奉納吉包の太刀など多くの有力者から崇敬されてきました。玉祖神社神門の眺め。中央の親柱の前後に其々2本の控え柱を持つ四脚門で袖塀が付く。神門の前の狛犬は文久3年(1863)に寄進されたもの。神門から拝殿の眺め。玉祖命は、勾玉や管玉をつくる玉造部の祖先神とされ、三種の神器のひとつ、八坂瓊曲玉をつくった神と言われ、神紋も亀甲紋様の周りに曲玉が3つ配されたもの。拝殿全景。入母屋銅葺屋根に千鳥破風と唐破風向拝が付く平入拝殿。唐破風向拝の懸魚と蟇股。拝殿から幣殿の眺め、鏡の両脇に一対の狛犬の姿がある。社殿全景。社殿は拝殿と幣殿、流造の本殿が主なもので、一宮らしい威厳を感じさせる堂々としたもので、市内に鎮座する同名の玉祖神社は全てこちらから勧請されたもの。透塀沿いに社殿を一周でき、拝殿の左から杜を抜ける北参道があり、参道口を右手に進めば玉乃岩屋に至ります。拝殿内部。大きな屋根を隅柱と側柱が支えており、中柱のない開放感のある内部です。北参道から眺める本殿。白さが際立つ漆喰仕上げの基礎の上に、大きな流造の本殿が聳え立っており、大棟には三つの外削ぎの置千木と鰹木が施されています。北参道を抜けた先の参道口、鬱蒼としたこの杜全体が自然記念物です。社務所。平日の夕方ともなると、御朱印は頂きにくいかもしれない。神門左の反り橋と方生池。放すべきものがあっても、池に水はない。神門からニノ鳥居と遥か先の一ノ鳥居の眺め、随分と待たせてしまったようだ。このうえ一ノ鳥居まで行ってもいい?とはとても言えない、夕陽に染まりはじめた玉祖神社を後にしよう。周防國一宮 玉祖神社創建 / 神代祭神 / 玉祖命、外一座不詳神事 / 占手神事(山口県無形文化財)例祭 / 9月25日境外社 / 御祖神社、若宮社参拝日 / 2025/11/05所在地 / 山口県防府市大崎1690関連記事・周防國・長門國一ノ宮巡りday1(錦帯橋・玉祖神社・瑠璃光寺)・白山比咩神社・錦川水神社
2025.12.14
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錦帯橋で知られる錦川の清流を望む岩国市横山。訪れた日は冬の晴れ間が広がり、絶好の旅行日和になりました。錦川右岸の吉香公園北側、岩国城ロープウェー麓駅の右側に鎮座するのが「白山比咩神社」です。白山信仰の息吹を今に伝える「白山比咩神社」は、地域の人々にとって心の拠り所であり、旅人にとっても穏やかな時間を与えてくれる場所です。今回は、白山比咩神社境内の様子や歴史を綴っていきたいと思います。吉香公園への入口とも言える錦帯橋。優美な曲線を描く五連の木造橋は岩国市のシンボルと言っても過言ではない。後方の標高200mの城山の頂には日本100名城の一つ岩国城跡があり、昭和37年(1962)に再建された岩国城が岩国の街を見下ろしています。城山へは岩国城ロープウェーで僅か3分ほどで尾根まで運んでくれます。「白山比咩神社」は麓駅の右側の突き当たりに鎮座しています。当日もインバウンド客で賑わっていましたが、公園の外れに位置するこの辺りではあまり撮影会は開かれていなかった。社頭全景。城山を背にして建つ笠木の反り具合が大きな石造の明神鳥居は、由緒によれば元禄7年(1694)に寄進されたもの。由緒は社頭右手に立てられています。白山比咩神社由緒。『この神社は白山比咩神(別名 菊理姫の命)、大己貴の命(別名 大国主命)を祭っている。創建年代は明らかでないが、伝えられたところによると、加賀国石川県白山神社の分霊を移し祭ったものという。永興寺伝記によると、もとは永興寺の鎮守社であったと記してあり、永興寺所蔵の神興には、永禄2年(1559)正月の字が刻まれている。萩の近藤清石の風土記によると、鎮守社云々は誤りで一時永興寺僧徒の奉仕したことが推し図られるとしている。社前の石鳥居は元禄7年(1694)吉川広紀(岩国藩主)の御寄進で、石柱に宇都宮遯庵(漢学者)の碑文がある。享保12年(1727)に再建された大規模の社殿は明治23年(1890)に消失した。現在の建物は明治31年2月(1898)に完成したものである。』社頭の狛犬、寄進年を見忘れましたが、白い阿形の姿から、さほど古いものではないかもしれない。鳥居には「白山比咩神社」と彫られた木製の額が掛けられています。鳥居正面の手水舎。手水舎の右手に神門と境内社「錦川水神社」。「錦川水神社」全景。「揁謝水恩」・「恭仰神徳」と刻まれた注連柱の先に切妻の遥拝門があり、その前から参拝する事になります。錦川水神社由緒。「御祭神 弥都波能売神。岩国市を貫流する錦川は、古代より優れた水質と豊富な水量によって近代産業誘致の原動力となり、一面天下の奇橋錦帯橋によって観光面に於ても岩国市今日の繁栄をもたらしたものであるが、近来世情一般に動もすれば、此の偉大な水恩に対する感謝の念薄れつつ有るを愁へ、岩国市観光協会が神社を建立して永々錦川の守護神として崇め、水恩に感謝すると共に岩国市永遠の発展を祈念すべし昭和49年11月10日竣工せしものにて、偶々前年第六十回伊勢神宮式年御遷宮に際会し神宮の古材の一部の御分譲を得て当白山比咩神社境内に建立せしもので有ります。」昭和49年と比較的近年に創建されたものです。時に暴れることもある川ですが、天然の要害岩国城や美しい造形美を見せる錦帯橋など、錦川あってのもの。田畑を潤し、観光資源をもたらしてくれる、錦川の恵みに感謝する趣旨から水の神を祀ったものだ。門に掲げられている「錦川水神社」の額。本殿全景。祭神は弥都波能売神。以下は山口県神社庁より白山比咩神社解説。『貞観18年(876)加賀の白山比咩神社を勧請、元慶8年(884)社殿を創建、天正年間には毛利輝元公により神田を賜る。江戸時代の慶長年間(1596~)、吉川広家が岩国の地に移封されてからは封内の鎮守と仰がれ、吉川家歴代の産土神として崇敬される。享保年間(1716~)、本殿の大造営、同13年(1728)、神社林として城山の一部を賜わる。元禄7年(1694)、大鳥居の建立等歴代藩主の尊崇は厚かった。当時の社殿は壮麗豪華にして工作の妙を極め、殊に拝殿・楼門の如きは精彩粉飾を尽し、関西の東照宮と言い伝へられていた。しかし、惜しくも明治23年(1890)、火災により建造物全部を悉く消失する。当神社は、安産の神として古より崇敬者多く、氏子内には難産の例なし(旧県社)。主要祭典鎮火祈願神舞・湯立神事(7年毎旧暦1月17日)、疫祓神事(毎年4月15日)』切妻瓦葺の四脚門。四脚門から社殿の眺め。虹梁の龍の透かし彫り。色合いの違いをみると、あとから付け加えられたものかもしれません。神門をくぐった先の注連柱と境内全景の眺め。入母屋瓦葺の拝殿正面には2間ほどの向拝と大棟に千鳥破風が施されています。拝殿の意匠は控え目で、視線を集める凝った意匠は少なく、ある意味で白山神社らしさを感じる。現在の拝殿は平成16年(2004)の火災で焼失、平成17年(2005)に再建されたもので、神紋は八曜に月のように見え、軒丸瓦や本殿の大棟にも、この神紋があしらわれています。また拝殿前に一対の銅製燈籠がありますが、撮り忘れていたようです。拝殿左から見た本殿。大棟には5本の鰹木と外削ぎの置千木、千鳥破風の上に2本の鰹木と置千木が施されており、向拝柱も見られることから流造のようです。拝殿左の白山宮常夜灯。寄進者の名は読み取れないが、3世紀前の正徳4年(1715)に寄進されたもののようです。貞観18年(876)、遠く離れた加賀の白山比咩神社から、誰が周防国に勧請したか、そこは分からなかった。境内の右手の不明社。Gマップでは御霊神社とあり、鎌倉権五郎命(鎌倉景正)を祀るとされますが、拝殿額、本殿の神札が見当たらず、創建等調べてみても定かにはならなかった。拝殿の格子天井には干支方位盤を中心に四季の草花が描かれています。不明社本殿。流造で3本の鰹木、外削ぎの置千木が載せられ、巴紋があしらわれています。本殿海老虹梁と木鼻の意匠。大きな本殿ではありませんが妻壁や桁隠しなどにも装飾が施されています。境内から見る神門。かつては関西の東照宮と称された白山比咩神社ですが、今の落ち着いた佇まいの方が似合っていると思います。本来ならば吉香神社にも参拝したいところですが、撮影会も終わる気配もなく、鳥居だけ撮影し吉香公園を後にしました。白山比咩神社・錦川水神社創建 / 不明祭神 / 菊理姫命、小白山比咩命、大己貴命境内社 / 錦川水神社、不明社所在地 / 山口県岩国市横山2-8番12号参拝日 / 2025/11/05関連記事 / 周防國・長門國一ノ宮巡りday1(錦帯橋・玉祖神社・瑠璃光寺)
2025.12.13
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今朝、久々にサギ電話がかかってきた。うちの固定電話は、鳴る前に「この通話は防犯のため録音されます」と自動で警告する仕組みだ。普通の詐欺師ならここで退散するはずだが、世の中には“勇気”と“無謀”を履き違えた人たちがいる。名乗りは「区役所保険年金課」からで名指しでかけてきた。はいはい、またそのパターンね、と聞き流しながら、 かみさんにも聞こえるようにスピーカーフォンに切り替えたところ、 朝食中だった彼女が、口に含んでいたものを噴き出すのを必死にこらえていた。 あの肩の震え方は、もはや笑ってはいけないコントの現場だった。こちらが「あなた、私の職業わかります?」と一言返した瞬間、 相手は見事なまでの“秒切り”。 あれだけ堂々と名乗っていたのに、急に風のように消えるのだから、詐欺師というのは忙しい商売だ。それにしても、なぜこんなに“お上”を名乗る詐欺が多いのか。税務署、年金、警察、最近はLINEで逮捕状なんていうファンタジーまで登場する。だが実際の役所というのは、こちらが連絡しなければ、向こうから正式な書類を持ってやってくる。電話一本で金をどうこうなんて、現実にはあり得ない。思えば昔、税務署の入力ミスで想定外の還付金が振り込まれ、 家族旅行に行ったあとで「こちらのミス、全額返して」と言われたことがあった。あのときは署長に来てもらって説明してもらったが、 あれこそ“本物の役所”の対応だ。 詐欺師のように慌てて切ったりはしない。📌 せっかくなので、我家の対処法を少し①「録音されています」と伝える(または録音機能を使う) 詐欺師は録音を極端に嫌う。うちの電話のように自動で言ってくれると効果抜群。② 相手の名乗りを深掘りする 「課長は誰です?」「事件番号は?」「職員番号は」 台本にない質問をすると、だいたい切ってしまう。③ 金の話が出たら100%詐欺、役所は電話で金を要求しない。 これはもう鉄則。④不安になっても“無視”が最強。本当に必要な用事なら、役所は書面で来るし、最終的には訪問する。まして逮捕するのに事前通知はない電話を切ったところで何も起きない。結局のところ、 「親方日の丸」だからといって、怯える必要はない。 公務員は国民のために働く人であって、 電話口で脅してくる存在ではないのだ。今朝のサギ電話は、そんな当たり前のことを改めて思い出させてくれた。 次にかかってきたら、もう少し話を聞いてあげよう…… いや、どうせまた秒切りされるか。それともこちらから無言で切ってやろうか。何れにしても、役所が開く前の営業時間外に電話かけてくるのは、マニュアル見直す必要がある。また、名指しでかけてきたのは古い電話帳をみてのことだろう。師走はこうした電話が増えるそうな、引っかからないようにしたいものです。
2025.12.11
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11月28日、日帰りバスツアーで福井県へ解禁間もないセイコ丼を食べに出かけてきました。当日は名古屋は晴れでしたが、日本海側には雲が湧いており、現地は雨が濃厚。案の定、関ケ原を越え余呉を通過したあたりから小雨が降る天気となった。今回の日帰りツアーは以下4カ所が立ち寄りポイント。1.紫式部公園2.魚屋の喰い処まつ田で「セイコ丼」を味わう3.花筐公園(岡太神社)4.越前そばの里自家用車で一人で移動する事を思えば、運転から解放され、酒も飲めるリーズナブルな価格設定。名古屋駅を8:00出発、一路高速に乗り日本海を目指します。10:20、越前市東千福町の「紫式部公園」に到着。セイコ丼を食べるには早すぎ、時間調整の立ち寄りポイントになっている。こちらでボランティアガイドの説明を受けながら公園をひと回り、今年は紅葉を見に出かけていなかったので絶好の機会。写真は公園に隣接する「紫ゆかりの館」。2021年に開設されたもので展示ブースや売店がある。内部展示の一部「紫式部の間」。紫式部公園内の式部像。この公園は泉池を取巻く様に作られた寝殿造庭園で1986年に竣工し、紫式部が父・藤原為時とともに越前国府に滞在した史実を記念して整備された。隣接する「紫ゆかりの館」は、越前市の歴史と紫式部との関わりを紹介する施設として2021年に開館した。新たに再現された釣殿や紅葉と朱の橋が水面に映る光景は情緒豊かである。日野川左岸の旧武生市街に平安時代の越前国府が置かれたとされるが、正確な場所は未だ特定されていない。ボランティアガイドの方の話から、明治2年に「府中」から「武生」と改称されますが、武生の「生」は国府の「府」を用いたかったようですが、時の政府が難色を示し「府」を使うことができず、「生」を当て字として「ふ」と読む事で現在の「たけふ」が誕生したとも聞きます。これは古代歌謡に「太介不₍たけふ₎の国府」とあることに由来し、古地名「たけふ」を復活させたものであり、地元の方は国府が置かれたことに誇りを持っているようです。式部像は泉池の先になだらかな稜線を見せる日野山(別称越前富士)に向かい立てられており、越前で過ごした日々のなか、式部はこの光景を愛でたようです。式部が愛でたという、越前富士の眺め。紅葉のピークを過ぎた庭園内では、そこまで来ている冬を前に、雪囲いの作業が急ピッチで行われていました。紫式部公園所在地 / 福井県越前市東千福町21-12散策を終え、ここから約一時間程の越前海岸にある「魚屋の喰い処まつ田」でお待ちかねのセイコ丼を食べに向かいます。12:00、福井市蒲生町の国道305号線、荒々しい表情を見せる日本海の海岸沿いに店を構える「魚屋の喰い処まつ田」到着。道路側の一階が一般客、地下一階が団体客用の部屋があり、どちらも越廼海水浴場の先の日本海を眺めながら食事ができる。外観は漁師が営む飲食店の外観、店先では取れたばかりの越前ガニを茹で上げている。土産用の越前ガニでも、と価格を見るが、簡単に手が出せる価格ではなく、蟹コース一泊ウン十万が頷ける。少し前は温泉付きのホテルが数万で泊まれたものだが、相場のアップデートができていないようだ。店舗前のメニュー。今回頂く「まつだせいこ丼」、子供連れで訪れれば・・・ツアーで提供された「まつ田せいこ丼」。セイコガニ(ズワイガニの雌)の漁期は11月・12月の2ヶ月限定、毎年この時期になるとかみさんが騒ぎ出す。それを二杯使って丼にしたもので、外子の食感と内子のまったり感がカニ身と交わり、ズワイガニより美味しいと感じる向きもある。蟹と言えば「面倒くさい、無言になりがち」ですが、そんなことがないのがいい。一年振りに現地で頂くセイコ丼は実に美味しいものがある。上は2023年「道の駅 越前」内の「お食事処 かねいち」で頂いたセイコ丼(¥5,500)。2年前で物価も違うが、当時はこの価格でタグ付きの丼が食べられました。物価の高騰、円安、インバウンド・・・だんだん手が出せないものになっていく気がする。そうして考えればバスツアーはやはりお得?海岸から見る店舗外観。鉛色の雲と海、自分がイメージする日本海になってきた。魚屋の喰い処まつ田所在地 / 福井県福井市蒲生町16-7-113:00、お腹も満たされ、3つ目の立ち寄りポイント越前市粟田部町にある花筐(かきょう)公園に向かいます。そちらでもボランティアガイドの方により園内の解説を受けます。自分は、公園内の西側に鎮座する岡太神社に一度訪れて見たかっただけに、一人列から外れ岡太神社を目指します。行司山を背にして建つ「縣社 岡太神社」の社号標と参道の眺め。参道の先の両部鳥居と拝殿。拝殿全景。入母屋瓦葺の平入で前後に千鳥破風と、大きな向拝を持つ重厚感のあるもので、継体天皇由来の由緒ある神社。延喜式神名帳の旧今立郡十四座の中で最も古い社とされる。祭神は建角身神、大己貴命、国狭槌尊の三柱で、相殿に継体天皇をお祀りします。当初「岡太の宮」と称し、21代雄略天皇(456~479)以前に鎮座されたものと伝わります。本殿は拝殿右石段を上った行司山の中腹に鎮座し、周辺には複数の境内社が鎮座します。岡太神社本殿。鎮座地の粟田部町は、即位前の継体天皇が暮らしていた言い伝えがあり、花筺公園内に六角形の玉垣に囲まれた「皇子が池」があり、この池で継体天皇の子、安閑・宣化両天皇の産湯に使ったと言われます。ここから車で10分弱の南東に、滝のように屋根が連なる本殿を持つ岡太神社・大瀧神社の里宮があり、大徳山の奥宮には岡太神社・大瀧神社其々の社殿を持ち、歴史的には大瀧神社より岡太神社が古いとされます。同じ名前を冠する粟田 岡太神社と岡太神社・大瀧神社の関係性の有無に興味があり、福井県神社庁から調べ始めましたが、リンク先が変わったようで繋がらず、別の資料を探す必要がありそうです。花筐公園や岡太神社は紅葉が美しいところだと思います、しかしピークを過ぎており、前日の風と当日の雨で落葉が進みいま一つでした。周辺には古刹もあり、機会をみて再訪したいところです。岡太神社所在地 / 福井県越前市粟田部町19過去記事 / 岡太神社・大瀧神社そろそろおやつの時間、最後の目的地越前そばの里はここから10分ほど。見計らったように15:00到着。このツアー、酒や水産加工品など土産物屋に寄る機会が少なく、ここが唯一の場所になりました。こちらでは越前おろし蕎麦とぼた餅を頂く、この蕎麦は大根の風味と蕎麦の風味が病みつきになるもので、独身時代には下道を走り食べに出かけたものです。ぼた餅はあの甘みが個人的には苦手、しかし、ここのぼた餅は甘さ控えめで初めて美味しいと感じた。蕎麦屋でぼた餅と感じるかもしれませんが、こちらの人気の商品ですぐに売りきれるらしい。他にもよもぎ餅もあるようですが、この日最後の団体さんという事で全て売り切れでした。併設の土産物屋で地元の「へしこ」「しおから」と酒を買い求める。この酒、以前平泉寺白山神社を訪れた際、大野の「越前おおの結楽座」で買ってきて、二人の間では好評のお酒で、その時の印象から再びリピート買いしてみました。正直自分は覚えておらず、どんな印象だったか過去の記事を見てみたが、お酒には触れなかったようで、かみさんの記憶力の良さには頭が下がる。スッキリした飲み心地でありながら、日本酒らしい香りと味わいが感じられるお酒でした。へしこと酒があれば今晩は何も考えることはない。過去記事 / 苔を訪ねて白山の麓まで15:40。店の外に出ると大きな虹が、この日の目まぐるしい天気を象徴しているようだ。この時期の日照時間はとても短い、陽が傾くと行動時間がついつい短くなり、気分は家路に向かいたくなります。あとは渋滞を気にせず、眠っていれば名古屋まで運んでくれるバスツアー。一人で行くならコスパも良く、普段運転する者にとっては楽ちんそのもの。越前そばの里所在地 / 福井県越前市真柄町7-37ツアー走行ルート / 走行距離約380km
2025.12.09
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後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国の最終札所を回り終え、ゴールの常滑駅に向かう道すがら常滑市栄町で神明社を見かけ立ち寄ってみました。鎮座地は宝全寺から北に延びる常滑街道沿いにあたり、常滑の街を見下ろす高台に神明社の杜が息づいている。神明社社頭。右に社標、左に手水舎があり、高台に続く石段の前に神明鳥居を構えている。石造の一ノ鳥居。両脇には神馬像と陶製の大きな狛犬が参拝客を見届けている。常滑を象徴するこの狛犬は、昭和17年、紀元2600年を記念し奉納されたもので、二人の地元陶彫作家による作品。角を持つ吽形は柴山清風(1901~1969)氏、阿形は片岡武正(1901~1964)氏の作品で、どちらも子供の背丈ほどの高さの凛々しい姿をしています。 右手の由緒の内容は以下。『社名 神明社。祭神 天照皇大御神、豊受姫大神。例祭日 4月第2日曜日。由緒 この社は旧郷社で、神明社が創祀されたのは明応3年(1494)に瀬木の千代の峯に祭られていた古社が三社に分祀された時である。常滑浦という大きい入海が、山から流れてきた土砂によって陸地化が進んだことや、政治的変化の影響を受けて西之宮とも称せられた神明社、高宮とも称せられた常石神社、中宮とも称せられた大善院鎮守社の三社に分祀されたと云い伝えられている。元禄7年(1694)の棟札によれば、伊勢の内宮外宮白山神社乾坤宮の神を祀り、北條村、世儀村、市場村、同所浦方保示によって修復がなされている。文政時代(1818)の記録には、北條村207戸、瀬木村134戸、常滑村533戸とあり、常滑村は市場山方、市場浦方、保爾浦露、支邑奥條とに分かれていた。江戸時代の例祭は夏に行われていたが明治に入ってから春祭となり、神明社、常石神社の例祭日にあわせて保示、市場、山方、奥條、瀬木、北條の六台の山車が二日間に渡って市内を巡行している。』地史は見ていませんが、愛知県神社名鑑から由緒で割愛されている部分を下に追記しておきます。『創建は定かではない。明治五年、村社に列し、同四十年十月、指定社となる。大正二年、字丸山八七番の山神社を合祀。昭和二十六年、六等級社に昇格。昭和三十一年、字八反田二番無格社山神社を合祀。同六十一年、本殿、幣殿、拝殿を造営した。』社殿に続く石段、そこそこ急で、踊り場も無いので疲れ切った足にはきついものがある。石段の先に二ノ鳥居も見えているので、あと少しひと踏ん張り。ニノ鳥居から境内正面の拝殿の眺め。木造の神明鳥居は柱と笠木の一部が銅巻きされています。境内右の日輪遥拝所。神明社にはこうした遥拝所が複数あります。境内右の社務所。神明社社殿全景。拝殿の左右に境内社が祀られています。拝殿前で守護する狛犬は、昭和4年に寄進されたものでした。拝殿額。昭和61年に本殿、幣殿、拝殿が造営されたとあるので、その際に新たに作られたものだろうか。拝殿内から幣殿の眺め。境内左手の伊勢神宮遥拝所。その右に神武天皇遥拝所。その右隣りの金刀比羅社遥拝所。本殿左の脇参道にある手水舎、子供を背に乗せた鯉の龍口がありますが清水は注がれていなかった。手水舎右の境内社四社相殿には恵比須社、香良須社、猿田彦社、多賀社が祀られています。本殿右の境内社。左から秋葉社・八幡社の相殿、御鍬社・白山社・津島社相殿、金刀比羅社・山神社相殿と整然と祀られています。本殿は神明造で内削ぎの千木が付き、鰹木は6本と思われます。参拝を終え下界に戻るとします。ここから階段を下るか、拝殿右から駐車場に出て車道を歩くかの二択。迷わず後者を選択。上は駐車場脇に掲げられていた文政2年(1819)の北条村・瀬木村・常滑村村絵図。由緒に記載されている高宮・中宮の位置を破線、西宮の位置を実線で囲ってみました。現在と比べると、すぐ目の前まで波打ち際が迫っていたことが分かります。下は由緒に書かれていた六台の山車、何れも大きな山車なのが良く分かる。さあ、常滑駅に向かおう。登り窯焚口。所在地 / 常滑市栄町6-208でんでん坂。所在地 / 常滑市栄町4-75常滑駅に10:00に降りたち、11kmを歩き、再び駅に戻ったのは16:00を過ぎていました。なかなか距離もあり、それに伴い立ち寄りポイントの多い楽しめるコースでした。後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 栄町神明社創建 / 不詳祭神 / 天照皇大御神、豊受姫大神境内社 / 恵比須社、香良須社、猿田彦社、多賀社、秋葉社、八幡社、御鍬社、白山社、津島社、金刀比羅社、山神社氏子域 / 常滑市栄町、飛香台、市場町、奥夏敷、乙田、かじま台、北古千代、北条、鯉江本町、古千代、栄町、椎池、新開町、瀬木町、セントレア、長間、千代ヶ丘、陶郷町、鳥根、仲井、中千代、錦町、西梨木、白山町、原松町、広内、古社、保示町、本町、南古千代、森西町、山方町、斧口、りんくう町、脇田口祭礼 / 4月第2日曜日所在地 / 常滑市栄町6-200宝全寺から神明社 / 宝全寺から来た道を戻り、突き当りを左折、西へ進む。350m、約5分。参拝日 / 2025/10/21関連記事・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 村社 八幡社・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 番外札所 金鈴山 曹源寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 58番札所金光山 來應寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 行者神變大菩薩・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 59番札所 萬年山 玉泉寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 60番札所 大光山 安楽寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 尾張多賀神社・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 61番札所 御嶽山 高讃寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 62番札所 御嶽山 洞雲寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 63番札所 補陀落山 大善院・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 65番札所 神護山 相持院・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 贄代稲荷大明神・阿弥陀堂・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 白龍神社・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 64番札所 世昌山 宝全寺※残念なピザとの遭遇
2025.12.08
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白龍神社の社頭を後にし、常滑本町の細い通りを50メートルほど進むと、街並みに溶け込むように佇む寺院が現れます。そこが第八回歩いて巡拝 知多四国の最後の札所「64番札所 世昌山 宝全寺」です。所在地は常滑市本町2-248。宝全寺の門前と伽藍全景。門前の狭い道筋は常滑街道で街道に面し玉垣と石柱門が建っています。門前から境内の眺め、正面の寄棟瓦葺の建物が本堂となります。自身としては今回が2回目の訪問になり、前回と比較しても伽藍に変化はないようです。因みに、前回訪れた際の記事リンクを最後に貼っておきます。境内左には三十三観音堂と十王堂、秋葉三尺坊大権現堂、弘法堂とその右に三宝荒神様の小さな祠があり、正面に金毘羅堂と続きます。門前右には地蔵堂と手水舎があります。むくり屋根の向拝を持つ三十三観音堂と十王堂。堂内左には十王が並び、中央に弥勒菩薩と釈迦如来の姿、右に三十三観音が安置されています。参道右側の地蔵堂と正面の本堂。地蔵堂内の眺め。この二体のお地蔵様は「いぼ取り、がん封じ地蔵」と呼ばれ、近隣の墓地で六地蔵として祀られていた内の二体だと云います。祈願は既に奉納されている小石を持ち帰り、患部をこするとご利益を得ることができ、治れば借りた石を倍にしてお返しするものらしい。こうした悩みを持つ方には御利益があり、遠方から訪れる方もあるという。足元の二体のお地蔵様は文政、天保のころに作られたもの。宝全寺は曹洞宗の寺院で、本尊は十一面観世音菩薩。由緒と歴史『常滑市誌』(1965〜1968年編纂)によれば、宝全寺は、天正元年(1573)に北条光明寺八代・吟法龍公和尚を開山として瀬木村に創建されており、明治36年(1903)に宝全庵から宝全寺に改称し、今日に至っている。本尊は十一面観音である。さらに、『尾張徇行記』(1790〜1820)には次のように記されています。『宝全庵在府志曰 在瀬木村、曹洞宗、属天沢院、此寺ハ草創ノ由来ハ不知、龍公和尚ヲ開山トス』とあり、この記録から、当時は宝全庵と呼ばれ、曹洞宗に属して天沢院の末寺であったこと、また草創の由来は不詳ながら龍公和尚を開山とする伝承があることが確認できます。因みに、『尾張名所図会』(1830〜1844)には宝全寺の記載は見られず、史料により偏りがあるようです。相持院との関わり前回掲載した65番札所「相持院」と宝全寺の両寺院は曹洞宗に属し、明治初年の神仏分離・廃仏毀釈の際、相持院は一時的に宝全寺へ合併された史実があり、地域の寺院が時代の荒波を越えて信仰を継承してきた証でもあります。むくり屋根の向拝を持つ寄棟瓦葺の64番札所弘法堂。右の小さな祠が三宝荒神様で更に右に金毘羅堂。堂前の狛犬、寄進年は見忘れました。写真は堂前の賓頭盧尊師。宝積む全き寺の鐘の声 寂滅為楽と響く入相さて、今回最後の札所も回り終え、ここから常滑駅方向に向かいます。後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 64番札所 世昌山 宝全寺宗派 / 曹洞宗創建 / 1573年(天正元年)開山 / 吟法龍公和尚本尊 / 十一面観世音菩薩所在地 / 常滑市本町2-248白龍神社から宝全寺 / 白龍神社から南へ進む。50m、約1分。参拝日 / 2025/10/21関連記事関連記事・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 村社 八幡社・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 番外札所 金鈴山 曹源寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 58番札所金光山 來應寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 行者神變大菩薩・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 59番札所 萬年山 玉泉寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 60番札所 大光山 安楽寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 尾張多賀神社・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 61番札所 御嶽山 高讃寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 62番札所 御嶽山 洞雲寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 63番札所 補陀落山 大善院・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 65番札所 神護山 相持院・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 贄代稲荷大明神・阿弥陀堂・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 白龍神社過去記事・知多新四国八十八箇所霊場 六十四番札所 『世昌山 宝全寺』
2025.12.07
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前回の贄代稲荷大明神から南へ歩を進めること約700メートル、陶器の町らしい町並みの路地を抜け、64番札所 世昌山 宝全寺の手前でひっそりと鎮座する白龍神社(常滑市本町2-156)が現れます。大きな一本の楠木を背にして佇む白龍神社全景。社頭には淡いベージュ色の鳥居が立ち、御神木へと参道が伸びています。鳥居右側の水琴窟の解説、常滑を歩いているとこうした水琴窟をよく見かけます。この水琴窟が手水のようで、柄杓で水をすくい流し込むと澄んだ水音が聞こえてきます。常滑ならではのものかもしれない。白龍神社本殿全景。境内は決して広くはありませんが、足を踏み入れると御神木の根元の本殿とその前の陶製の小さな狛犬に目が留まります。常夜灯も常滑焼ですか。常滑焼の陶製狛犬。素朴でありながら愛嬌のある姿は、信仰と文化が結びついた象徴といえるだろう。社殿の背後には、天を衝くように大きな樹が聳えています。樹皮からみて楠かと思われますが、こうした樹には古来より龍神や蛇が宿るとして社が祀られます。白龍大神を祀るこの神社も、まさにその伝承を体現する姿を見せており、樹と社殿が一体となって「龍の依代」としての神域を形づくっています。祭神は 白龍大神。白蛇信仰と結びつき、「白蛇を見ると幸運が訪れる」との伝承が残ります。一方で古来より龍神・蛇神は水の守護や財福をもたらす存在とされ崇敬されます。ここ白龍神社も商売繁盛や金運向上を願う人々の祈りが込められているのだろう。町並みに溶け込むように調和する姿は、神社そのものが町の景観の一部となっています。小さな祠でありながら、地域の人々の日常の暮らしと信仰が交差する場所です。さて、今回の知多四国巡拝の最後の札所、64番札所 世昌山 宝全寺はここから50メートルほど先になります。後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 白龍神社創建 / 不明祭神 / 白龍大神所在地 / 常滑市本町2-156贄代稲荷大明神から白龍神社 / 贄代稲荷大明神から坂を下り、南へ進む。0.7km、約10分。参拝日 / 2025/10/21関連記事・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 村社 八幡社・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 番外札所 金鈴山 曹源寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 58番札所金光山 來應寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 行者神變大菩薩・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 59番札所 萬年山 玉泉寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 60番札所 大光山 安楽寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 尾張多賀神社・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 61番札所 御嶽山 高讃寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 62番札所 御嶽山 洞雲寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 63番札所 補陀落山 大善院・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 65番札所 神護山 相持院・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 贄代稲荷大明神・阿弥陀堂
2025.12.04
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前回掲載した65番札所相持院、その境内からそのまま上にでて、通りを左に進み300mほど先の常滑市陶郷町地内で贄代稲荷大明神の前を通りかかり立ち寄ってみました。今回はこちらを掲載します。陶郷町4の「あみだ堂」全景。相持院からは正面の道を歩いてきました。外観は特に神社・仏閣らしい趣は感じられませんが、境内に堂らしき建物が見え、この石段を上ってみました。かみさんには例によって「パッパッと見て来るから待っててね」お願いし駆け足で境内を散策。境内に向かう石段の眺め。鎮座地の常滑市陶郷町は、奈良時代から平安時代は知多半島の根元から先端の全域を尾張国智多郡と記され、但馬・贄代(にえしろ)・番賀(はが)・英比(あぐい)・冨具の5郷があった。『和名抄』や木簡資料にもその郷名が見え、時代と共に漢字を変えながら、一部はそのまま地名として今も残っている。社名の「贄代」は、その頃の郷名を誇りとして継承したものと思われる。武豊町観光協会の伝承によれば、贄代の由来は天照大神の御神託を受けた倭姫命が社地を探す旅の途上、この知多半島の地に仮殿を建て、大神に供物を奉ったことから「贄代郷」と呼ばれるようになったとされる。「贄代」の名は、神に捧げる供物を奉る土地を意味するといわれ、倭姫命が建てたと伝わる「仮殿」は、現在の知多市新知(旧・朝倉村)にある「知里付神社」がその比定地と考えられ、知里付の「チリフ」は古語で「イケス」を意味し、供物奉献地としての性格を裏付けている。石段の先の境内。入口に陶製狛犬一対が守護しており、右手に阿弥陀堂、その先の朱の鳥居と社が主なもの。狛犬の吽形は角もあり凛々しい姿をしています。陶製狛犬からみる神社の創建時期の考察。この陶製狛犬は、常滑を代表する陶彫作家 片岡静観(1910~1988)が制作したもので、昭和期に数多くの陶製狛犬や仏像を制作した作家。彼の作品は、地域の寺社や祠に奉納され、常滑焼の伝統と信仰文化が融合した造形として今も残されている。常滑郷土文化会『つたえたい常滑』には、以下のような記述がある。「狛犬は昭和17年制作されたもので、この狛犬の他に贄代稲荷大明神の狛狐も彼の作品。静観の父が阿弥陀堂再建の世話人を務めたことから、阿弥陀堂の天井絵、欄間の木彫なども静観が手掛けたという。」この記述から、阿弥陀堂の再建が昭和期に行われたこと、その際に静観が複数の造形を手掛けたことが分かる。贄代稲荷大明神の陶製狛狐も同時期に制作されたとすれば、祠の建立自体もそれほど古いものではないかもしれない。今昔マップで明治期まで遡っても堂や鳥居の記号が見られないことからも、贄代稲荷大明神は近代以降に地域信仰の中で祀られた小祠であると思われます。地名「贄代」の由来や、倭姫命の仮殿伝承といった古代の記憶を背景に、近世以降の稲荷信仰が重なって成立した祠で、陶製狛犬・狛狐という常滑ならではの寄進物が奉納されており、地域の信仰と焼き物文化の融合を象徴するもので、片岡静観の作品がその記憶を形として残している。境内全景。右手の寄棟瓦葺の建物が昭和に入り再建された阿弥陀堂、堂は戸が閉じられ内部の意匠は見られなかった。左の鳥居が贄代稲荷大明神となります。鳥居の先のふたつの社。右手が「贄代稲荷神社」で、左手が「三頭黒龍神社」。狛狐も片岡静観の手によるもので、右手の石標には「平成7年建立60周年記念」と刻まれていました。このことから、昭和10年(1935)が建立時期かもしれません。稲荷神は五穀豊穣を司る宇迦之御魂神を祭神とし、各地に広がった信仰である。常滑は焼き物の町であり、「贄代稲荷大明神」は土地の古い郷名と商工業繁栄を祈る形で祀られたものかもしれない。阿弥陀堂の情報は掴めなかった。贄代稲荷大明神が鎮座する高台から、西側のやきもの散歩道方向の眺め。常滑の街には最盛期は数百を超える煉瓦煙突が聳えていた、今では減少の一途を辿り数えるほどになり、焼き物の街の風情が薄くなっている。後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 贄代稲荷大明神・阿弥陀堂贄代稲荷大明神創建 / 不明(昭和10年か?)祭神 / 宇迦之御魂神(?)所在地 / 常滑市陶郷町4-54相持院から贄代稲荷大明神 / 相持院を北へ、通りを左に進み300m進むと贄代稲荷大明神。0.3km、約3分。参拝日 / 2025/10/21関連記事・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 村社 八幡社・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 番外札所 金鈴山 曹源寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 58番札所金光山 來應寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 行者神變大菩薩・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 59番札所 萬年山 玉泉寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 60番札所 大光山 安楽寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 尾張多賀神社・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 61番札所 御嶽山 高讃寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 62番札所 御嶽山 洞雲寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 63番札所 補陀落山 大善院・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 65番札所 神護山 相持院
2025.12.03
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前回までは58番から63番札所 大善院を札所順に巡ってきました。今回は本来の64番札所を目指すルートから逸れ、先に65番札所 神護山 相持院に向かう事にします。大善院の門前から右に続く上り坂があるので、こちらを進みます。この坂を上りきり、「とこなめ陶の森資料館」の西側の尾根沿いの道を北に向かい、700㍍先の常滑市千代丘地内の65番札所 神護山 相持院までは15分ほどです。尾根の外れから北を眺めると、北側に丘陵地が現れ、相持院の寺叢が見えています。65番札所 神護山 相持院の門前、ここから山門をくぐり本堂までは長い石段が続いています。相持院山門。入母屋瓦葺の平入の四脚門で前後に軒唐破風が付く。この山門そのものは比較的最近に作られたものですが、木鼻や透かし彫りの意匠には手間が掛けられている。門前からは石段が続きます。相持院へは今回で2回目の参拝となり、前回の記事リンクは最後に貼っておきます。この石段を登れば境内ですが、長い距離を歩き足取りが重たくなっているところに、この勾配はとてもきつく感じます。石段を上り切ると、静かな境内に入母屋瓦葺の落ち着いた佇まいの本堂が姿を現します。右側には願掛六地蔵尊、水子地蔵尊、左側の祠の後方には弘法大師像が安置されています。境内右の「延命の鐘」。吊られている梵鐘は知多半島でも最大級の大きさを誇るもので、100円で突くことが出来、一突きすれば寿命が延びるそうだ。常滑観光協会の解説によれば、相持院の草創は南北朝期(1336~1392)頃とされ、当初は真言宗に属していましたが、永禄3年(1560)に曹洞宗天沢院の末寺となりました。明治初年には神明社と分離し、隣寺の宝全寺と合併して一時廃寺となりましたが、明治36年(1903)に静岡の西光寺から寺号を譲り受けて再興、大正10年(1921)に「相持院」と改称し、昭和23年(1948)に現在地へ移転しました。鐘楼は北叡山をモデルに建立され、知多半島随一の大きさを誇る梵鐘が吊られています。境内には陶芸家の作品が安置され、四季折々の景観とともに「陶都の趣」を感じさせます。『尾張徇行記』では、相持院は「神古山」と号し、曹洞宗天沢院の末寺で、開山は恵杉和尚、境内には観音堂や秋葉社があったと記されています。常滑市誌によると、相持院は明治10年(1877)に廃寺となり宝全寺に統合されましたが、前身の西光寺が明治36年に常滑へ移転して説教所を開設し、明治39年(1906)に「西光寺」と号しました。大正10年(1921)に「相持院」と改称し、戦後に現在地へ移転。本尊は地蔵菩薩で、天沢院の末寺でした。なお、西光寺自体は寛文2年(1662)に創建されたとされています。地元では「西光寺さんと呼ぶ時もある」とする記事も見られます。もともと南北朝から相持院だったのか、創建時期がいつか、これらでははっきりしない。ただ現在の相持院伽藍は明治中期になってからのようです。本堂延命殿前の香炉。本堂に掲げられている「延命殿」の額。本尊は1336年~1392年頃に作られたとされる延命地蔵尊。本堂左の大師堂、当日は御覧のように戸が閉じられていました。境内左の稲荷社。創建等の詳細は不明、本堂前の狛犬同様に狐達も陶製です。後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 65番札所 神護山 相持院宗派 / 曹洞宗創建 / 不明(現在地へは明治中期移転)開山 / 恵杉和尚開基 / 養春上人本尊 / 延命地蔵大菩薩札所 / 知多四国霊場65番、常滑郷廿一大師17番、南知多七福神(布袋尊)、くるま六地蔵4番所在地 / 常滑市千代丘4-66大善院から相持院 / 大善院から北に向かう、「とこなめ陶の森資料館」西側を経て0.7km、約15分。参拝日 / 2025/10/21関連記事・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 村社 八幡社・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 番外札所 金鈴山 曹源寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 58番札所金光山 來應寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 行者神變大菩薩・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 59番札所 萬年山 玉泉寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 60番札所 大光山 安楽寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 尾張多賀神社・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 61番札所 御嶽山 高讃寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 62番札所 御嶽山 洞雲寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 63番札所 補陀落山 大善院過去記事・知多四国六十五番札所 「神護山 相持院」
2025.12.02
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