仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2006.03.29
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カテゴリ: 東北
先日ある資料を見て知ったのだが、仙台藩出身の学者で、刑律の体系的研究で先駆的成果をあげた人がいる。

芦東山(あしとうざん、1696~1776)。元禄年間に、現在の岩手県一関市(合併前の大東町)の渋民の肝入の家に生まれ、やがて仙台藩の儒学者田辺希賢の門下生。農民出身としては異例の藩生(藩が学資を給付)となる。

京都や長崎に遊学した後、綱村の御前講義も務める。26歳で江戸に出て室鳩巣の門下となり、鳩巣の志を継いで、中国古来からの諸家の刑律の研究に打ち込んだ。

東山の名声は高まったが、学問所では身分の隔てがないという東山の主張が問題とされ、藩要職の怒りを買った。具体的には、「藩校の席順は親の家柄ではなく年齢によるべき」、「藩の上役臨席の際に講師が下座に回る規則は改めるべき」など、の進言をしたそうだ。

これにより、43歳の時に加美郡宮崎村に幽閉されてしまいます。しかし24年の幽閉生活の間、東山は研究に心血を注ぎ、独自の見解を加えて、全18巻からなる「無刑録」を書き上げた。赦免され故郷渋民に帰った時には既に66歳。その後も亡くなる81歳まで東北各地を歩き、学問を教え続けた。

ところで維新政府は、近代的な刑法典の編纂を急ぐこととなり、日本の大宝律と唐・明・清の律を基本に、公事方御定書など旧幕刑法をも参照して、法典整備を進めた(明治6年改訂律例)。その後西欧法制導入の機運が高まり、客観主義、応報刑思想に依拠するフランス流のボアソナード刑法草案が明治15年に施行。なお、その後に、共和制フランスではなく立憲君主制国家に範を求めるべきとされ、ドイツ刑法典をモデルとする現行刑法が明治40年に公布。同時に、当時隆盛したリスト新派刑法理論が直輸入され、日本の刑法解釈に大きな影響を及ぼすこととなった(牧野英一など)。
(この部分、前田雅英『刑法総論講義第3版』p16-を参考)

この政府の刑法典整備の初期段階で、宮城上等裁判所判事の県信緝が「無刑録」を知りその内容に驚嘆、これを水本成美に知らせ、さらに陸奥宗光らの尽力もあり、明治10年(1877年)に元老院が公刊。東山は儒教的な性善説、寛刑主義に基づいて、教育刑論を結論づけているという。刑法の学派論争は欧州で19世紀末から始まるが(新派刑法学の登場)、すでに独自に理論を確立していた東山の卓見には驚く。

なお、改訂律例の編纂者の1人でもあった岡千仭は旧仙台藩士だが、東山の孫娘の子なのだという。


一関市HPから
■岩手日報記事(2005年9月8日) 芦東山の「無刑録」現代語訳が完成

昭和57年には地元で顕彰の機運が起こり、芦東山先生記念館ができたという。

すばらしいと思うのは、東山が宝暦5年(1755年)に完成した著作が、実に122年を経て評価され、近年にいたってなお現代語訳の動きがあるなど、今に生きていること。学者としてこれ以上の冥利はないだろう。しっかりしたものは、長く評価されるのだ。

題名の「無刑録」とは、「刑ハ刑無キニ期ス」、現代の刑法理論でいう教育刑の思想なのだという。

維新による西欧文明の輸入で、藩政時代は過去のものというステレオタイプの認識を植え付けられてきた私たち。著作が歴史を通じて評価され今に息づいている(歴史の激動があってこそ不動の業績が評価された、とも)、芦東山の偉業は、大いに再認識すべきでないだろうか。仙台藩の大きな文化遺産だ。





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最終更新日  2006.03.29 05:47:46
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