仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2010.07.25
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カテゴリ: 宮城
栗原市(郡)の名は古代の伊治城に由来するものと、20年くらい前に何かで読んで、単純に地名にかんする結論だけ記憶していた。しかし、これは近時の古代史研究の進展を踏まえたものである。


『続日本紀』では、神護景雲元年(767年)11月に、「陸奥国に栗原郡を置く。本是伊治城なり」とある。伊治の豪族の呰麻呂は伊治郡の大領であり、栗原郡大領ではない。この点は、栗原も伊治も同じ郡だが、後に栗原と遡称したと考えられる。

もっとも、宝亀11年(780年)紀3月22日条では「陸奥国上治郡大領外従五位下伊治公アザ麻呂」とあり、この上治郡と、伊治郡、栗原郡の関係が難しい。いろいろに考えられるのだが、伊治の領域の中心に伊治城(現在の栗原市築館の城生野)ができ、それを核に伊治郡ができ、伊治を上治と下治に分けて上治の方が中心だったので上治郡とも呼ばれていた。そして、後に、おそらくは呰麻呂が滅亡した後に栗原郡と呼ばれるようになった、と考えるのが一番穏当である。

以上は、新野直吉『古代東北史の人々』(吉川弘文館、2009年)の第4章(紀広純と伊治呰麻呂)から整理したものである。ところで、同書は、1978(昭和53)年に初版を刊行したものの復刊である。巻末には、2009年7月と時点を明記して、新野氏の解説が収められている。30年の時の隔たりで追補すべき点などが記されたものだ。これによると、「伊治」研究の進展により多くの補記が必要になったという。以下に要約する。

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神護景雲元年紀に「陸奥国に栗原郡を置く。本是伊治城なり」とあり、宝亀11年紀に「陸奥国上治郡(中略)伊治公呰麻呂」とあることについて、本書(復刊前)では、栗原と伊治は同じ郡で、伊治の中では上治と呼ばれる方が中心だったため上治郡とも呼ばれた、と考えていた。

しかし、1970年(昭和45年)の発掘調査で発見された「此治城」と記された漆紙文書の解読によって進展する。宮城県多賀城跡調査研究所は、1978年(昭和53)年に、「此治郡」が郡名であり、上治郡と伝写されてきたのは、「此」の略体「止」が「上」と誤られた事情によるとした。「伊」=「此」、つまり、「伊」はイではなくコレであると判定した。

これなら、コレハルからクリハラに転化したことになり、イヂからクリハラよりはるかに自然であり、新野氏も昭和54年以降は、上記(復刊前の原版)の考えを改めて、「此治(コレハル)から栗原(クリハラ)に転じた」とする立場に立っている。

なお、当時から若い研究者の間では、「墾」と解する立場からであろうが「コレハリ」と読む向きが多いが、「栗治郡」にならずに栗原郡となった文字については、西海道の西都原や田原坂などと併せて考えるのが自然と考えている。


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古代史研究とは、現代における研究の進展の歴史でもあることが、面白い。





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最終更新日  2010.07.25 07:13:22
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