仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2011.10.12
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カテゴリ: 仙台
慶長7年(1602)の仙台開府以来、明治元年(1868)まで266年間に焼失戸数350戸以上の大火が13回を数え、そのうち焼失戸数1000戸以上の大火が6回起こっている。

○正保4年4月12日(1647年陽暦5月16日 2代忠宗)火元川内、焼失1549戸
○宝永4年2月20日(1707年陽暦3月23日 5代吉村)火元支倉通北三番丁角 焼失1558戸
○宝永5年壬正月24日(1708陽暦3月16日 5代吉村)火元竜宝寺門前石切町 焼失2364戸
○享保12年3月16日(1727陽暦5月6日 5代吉村)火元北二番丁 焼失1525戸
○宝暦2年2月6日(1752陽暦3月21日 6代宗村)火元北一番丁 焼失1527
○安永5年4月17日(1776陽暦6月5日 7代重村)火元川内 焼失1553

宝永5年の大火は芭蕉辻付近から西風に変わり、火炎は大町5丁目から、新伝馬町、名掛丁、二十人町、鉄砲町、南は新寺小路、さらに原ノ町を焼土と化した。昭和20年7月の戦災を除いて、仙台開府以来最大の大火であった。他の5回は、型の如く東南に燃え続け、南小泉の畑地で自然鎮火した。

こうした大火を繰り返した根源は、仙台城下が広瀬川の流線に沿って展開するため、いわば宿命であった。仙台を通過する季節風は広瀬川の流線と並行するため、城下は風道(かざみち。季節風の通過方向)の直下にさらされる結果となり、発火点が北西の風土に寄るほど災害を大きくした。



仙台の城下町が季節風を横切る方向に展開するか、または政宗の希望通り榴ヶ岡に築城したなら、市街は城を中心に環状式形態をとっていたであろうから、よほど災害を軽減し得たであろう。戦後仙台の復興計画にあたり、わたし(おだずま注:下記出典筆者の三原さん)も委員を仰せつかり、この時提出した開府以来の大火の詳細な資料を参考として出来たのが青葉通、広瀬通の防火帯である。

仙台城下の発展は4代綱村の元禄時代をもって頂点に達したが、それから間もない宝永4年、5年と続いた空前の大火で城下経済の中心は全滅し、これを境に、後年の宝暦、天明、天保の3回にわたる冷害による大飢饉と相まって衰退をたどったのであった。城下町の中心芭蕉の辻は、正保4年以来文政10年1月の肴町の大火まで、前後8回全焼を繰り返している。

■三原良吉『郷土史仙臺耳ぶくろ』宝文堂、1982年





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最終更新日  2012.06.28 20:34:08
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