仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2011.11.18
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カテゴリ: 宮城
1 序

東北の古代史に大きな位置を占める多賀城だが、その認識は戦前戦後を通じて、蝦夷討伐の軍事基地とするのが大方のイメージだった。それが一変したのは、昭和30年代からの発掘調査の成果である。防御施設と見られていた外郭、内郭の区画施設が、政治の場を囲む施設であったことが確認された。また、昭和44年から城外の調査によって町並みの存在が明らかになり、真贋論争のあった多賀城碑は、平成10年に国の重要文化財に指定され、真碑であることが明らかとなった。

かくして、多賀城の環境は、それまで考えられていた多賀城跡と付属寺院たる多賀城廃寺跡だけではなく、周辺の「国府域」と捉えられる広い地域に及んでいたことが明らかになったのである。

2 近世の認識

多賀城跡について最初の文献は、延宝5年(1677)ごろ成立の『仙台領古城書立之覚』であり、この記述は政庁跡の規模に匹敵することから、多賀城跡を政庁地区のみの狭い範囲で捉えていたと理解される。さらに、壷の碑の記載内容と結びつけ、この遺跡を大野東人の居城と位置づけている。

佐久間洞巌が享保4年(1719)刊行した『奥羽刊蹟聞老志』では、古瓦と礎石の存在を記載しており、多賀城を古代に限定して碑の記載から大野東人が築いたものと理解した。

安永3年(1774)に書かれた「市川村風土記御用書出」では、かなり広い範囲が多賀城碑と認識されており、本丸、二の丸、三の丸と区別され記載されていることから、遺跡の構造を中世以降の城館と同様に捉えていたものと思われる。また、同年の「高崎村風土記御用書出」にある多賀城廃寺跡とみられる「塔の越原」の記述は、すでに多賀城と関連する寺院の跡ととらえていたことを示す。

3 近代の研究

明治から大正には、絵図や図面が作られる。最初は、「多賀城古趾の図」と題する絵図で、木版により明治22年に刊行された。明治天皇東北巡幸の歳に境界捜索に従事した地元の人の図面に基づき、地形の上に築地や礎石の様子を記すなどわかりやすく紹介し、遺跡研究に大きく貢献した。



4 史跡指定

大正8年に史蹟名勝天然紀念物保存法が成立すると、多賀城跡も史蹟指定の候補に挙げられる。大正11年10月、史蹟「多賀城跡附寺跡」として指定された。昭和2年刊行の『宮城県史蹟名勝天然紀念物調査報告』に、委員会会長清水東四郎調査として「多賀城址』が掲載されている。これはそれまでの研究の集成で、以降の多賀城研究に大きな役割を果たした。

(つづく)

高倉敏明『多賀城跡』(菊池・坂井 企画・監修「日本の遺跡」30)同成社、2008年 から





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最終更新日  2011.11.19 09:44:11
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