仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2025.01.25
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カテゴリ: 東北


原田好太郎 である。

■岩本由輝『東北開発人物史』刀水書房、1998年 から
(適宜、当ジャーナルで要約・再構成しています。)

1 職人から出てきた技術者

原田好太郎の貢献は、地域の工業近代化を技術的に支えたことにあるが、大発明や大発見ということでなく、 地域において江戸時代から内在的に蓄積された伝統的な技術を継承 しながら、 新たなものを加えて時々の地域経済を振興した 意義がある。日本の各地にそうした人物がいたが、好太郎もそのひとりである。

ただし、好太郎(明治28年山形市生まれ)は小学校を途中でやめて木工職人の徒弟となり、その技術をベースに独学で機械製造業への道を開拓した。少なくとも輸入技術の直接の影響はない。 とかく日本の近代化は欧米由来の技術で進められたと思われる 高い水準の日本の伝統技術を持って、輸入技術を自分のものとして使いこなせる人間がいた ことは見落とされてきた。

2 独立するまで

明治28年生まれ。原田家は山形城下鉄砲町にある天台宗の宝光院の寺侍を代々務めていた。しかし、維新後、寺は朱印状による禄高を失い、祖父が失業。貧しい時期であったようだ。好太郎は10歳で山形市立第二小学校に入学(実年齢では4年遅い)、明治40年に3年で中退し、すぐ山形市八日町の和田金蔵という木工織機製造の親方に徒弟奉公する。

当時、若いほど技術が身につくとされ、12歳の徒弟は珍しくなかった。好太郎は、大正7年、23歳まで親方に奉公。大正8年から2年間兵役(歩兵32連隊)。大正11年東京に出て、はじめ徳岡という木型屋、間もなく中村という木型屋に勤めている。かつて職人は一人の親方の下で修業を終えて給料をもらう身になっても、さらに技術を身に着けるために旅修行をしたのだ。

好太郎が木製織機製造の親方から独立して、 木工の技術を生かせる木型屋に進んだことの意味は重要 である。和田のところは織機を金属で作るには至らず未だ木製の段階だったが、当時の日本は機械を機械で作る段階に移行する時期だった。職人が親方から独立する場合、仕事を食い合わないよう別の土地でやるか仕事を別にすることが有るが、好太郎の場合は、そうした事情というよりは、 木製織機を製造する仕事がすでに時代遅れと判断 して、山形市の鋳造業界に習得した木工技術を生かして参入するつもりで、 自ら積極的に木型屋を選択した のだろう。

3 木型屋、東京進出、部品生産から完成品メーカーを目指す

大正12年、父芳蔵が亡くなって好太郎は山形に戻り、宮町で木型屋を開設する。好太郎が参入したのは、 鉄瓶などの伝統鋳物ではなく、汎用鋳物ともいわれる近代的な機械鋳物だった 。昭和2年に弟健次郎とともに 原田鋳物工場

しかし、金融恐慌で帝人の親会社である鈴木商店が倒産。米沢工場が撤収となったため、五百川鉄工所からの注文がなくなり、好太郎は東京市場からの部品注文によって、金融恐慌とそれに次ぐ世界恐慌の波を切り抜ける。

原田鋳物工場の作る部品の評判は高く、昭和9年、好太郎は東京に進出を決意し、蒲田に 旭鋳造所 という鋳物工場を開設した。好太郎は、恐慌の経験により部品メーカーの危うさから、 アセンブリー(加工組立)として完成品メーカーとなることを念願していた が、当面は部品メーカーから脱せないので、注文の多い東京に出るのが得策と判断したのだ。

しかし、東京に出た結果、下請けながら ミシン工業とつながりができた 平木信二 (戦後にリッカー・ミシンを始めた人)を迎える。昭和13年になると、帝国ミシンからミシン・テーブルの注文を受けるが、 木工職人として本格的な修行をした好太郎が一番得意にやれる仕事だった ろう。まだミシン完成品メーカーではないが、ミシンの鋳造部品、機械部品、テーブルの生産を行ったことで、念願の完成品メーカーの見通しができたのではないだろうか。

4 山形の地域経済を牽引

この間、好太郎は山形市についてもおろそかにせず、昭和13年に 山形電鋼株式会社 の設立にかかわる。企業グループの形成を意図したと思われる。翌14年には山形市円応寺にあった昭和セメント株式会社を買収して、ブリキのスクラップを原料に再製鉄の生産を始める(のちに株式会社原田鋳造所)。

昭和15年、帝国ミシンが旭鋳造所の鋳物工場と機械工場を買収する一方で、個人企業だった原田鋳物工場を帝国ミシンとの折半出資(資本金40万円)で 株式会社原田製作所 に改組した。原田製作所の社長には帝国ミシン専務の 小瀬与作 が就き、好太郎は専務となった。このとき、戦時統制下で株式会社設立に日銀の承認が必要で、はじめ資本金50万円の設立を申請して却下されたので、好太郎は山形県出身の日銀総裁 結城豊太郎 を動かして発足にこぎつけたといわれる。

日米開戦後は平和産業のミシン製造から軍需生産に転換が求められたが、金属欠乏で海軍から命じられた木製プロペラで仕事は継続した。 ミシンのテーブルづくりの技術の転用だが、好太郎の木工職人としての原点に関わるものだった 。木製プロペラは横浜市の 日本飛行機株式会社 に納められたが、間もなく同社は山形市に疎開工場を作り、県内工場からプロペラのみならず機体全体の部品調達を行うようになる。木製飛行機が実際に飛んだかわからないが、木製のプロペラや機体を製造する技術が、敗戦後に 山形県の木工家具生産の技術につながる副産物を生んだ のだ。グッドデザイン賞などで著名な 天童木工株式会社 は、かつて日本飛行機に関係した技術者たちが戦後創設したものである。

5 ハッピーグループの形成

敗戦により日本飛行機のような軍需だけの会社はなくなり、疎開工場はほとんど山形から去っていく。好太郎は、原田製作所を軸にグループ再編成に向かうのだが、単なる再編ではなく、疎開工場で山形に残ろうとするものを含めて、それまでの部品メーカーから脱して完成品メーカー構築をめざしたのだった。

昭和21年4月15日、原田製作所はついに 完成品のミシン第1号を作り、ハッピーミシンの銘柄で売り出す 。また同年には 山形電鋼株式会社 を再設立して、ミシン部品を供給させるグループに加えた。しかし、部品メーカーであったときの経験から、傘下の工場には、原田製作所だけに供給させず、 積極的に他のメーカーにも納めさせた 。競合ミシンメーカーだけでなく、ミシン以外のメーカーからの受注も促進させたのが特徴だが、そこには、五百川鉄工所から機械部品の注文を受け喜びも束の間、親会社倒産で注文が途切れた好太郎の苦い経験があったから、 単用部品でなく汎用部品メーカーの方向 を参加工場に勧めたのだった。

こうして、ハッピーグループの部品メーカーは、全国の業界から「 部品山形 」の評判をとるほどに汎用部品製造の能力を発揮することとなった。

6 ミシン市場

ミシンは、タンス、長持ちに替わり欠かせない嫁入り道具とされ、重要な市場だったが、それまで部品メーカーで商品販売の経験がない原田製作所が、自社ブランドを消費者に買ってもらうのは困難であった。かつての納入先の帝国ミシン( 蛇の目ミシン )、旭鋳造所で経理顧問をした平木信二( リッカーミシン )と、激しい競争となった。

昭和21年5月、 ハッピー・ミシン販売株式会社 を設立。最初は特約店方式をとったが、特約店との関係が円滑でなかったようだ。蛇の目ミシンは直売方式で伝統的な月賦販売を採用しており、ハッピーもまもなくこの方式をとる。日本で長い歴史を持つ月賦販売で、いずれのミシンメーカーも大いに販売を伸ばしたのだった。

好太郎は、こんどはミシンを使う人を作り出す必要を考え、昭和22年、 原田高等洋裁学院 を開設。他方で、敗戦国日本が本格的に貿易を行えるのは昭和24年だが、好太郎はそれ以前から 米国にミシン輸出を行って おり、これが日本のメーカーの中でハッピーの製品輸出率が高い背景である。安定的に米国市場に輸出するため、好太郎は昭和23年に 東北精機株式会社 をつくり、高質の部品を供給させるとともに、他社からも積極的に受注させ、「部品山形」の評価の大きな要因となった。

しかし、昭和24年IMF加入(1ドル360円の固定レート)でフロアープライス(商品ごとのレートでミシンは500円程度)が撤廃された衝撃が大きく、経営の曲がり角を迎えた。

7 労働争議と好太郎の晩年

好太郎は経営引き締めで対応したが、それが原田騒動とも呼ばれる一大労働争議「ハッピー争議」を惹起する。

山形県の労働運動史をみると、仁丹体温計株式会社山形工場、株式会社鉄興社、合名会社宮崎芸能社の映画館が、大争議とされるが、ハッピーもこれと並ぶものであった。しかし、根っからの職人である好太郎は労働運動をほとんど理解できないまま否応なしに対応し争議をこじらせた面もあった。

このころ、原田製作所は都市対抗野球に強力なチームを出場させ、ストライキで野球どころではあるまいと取り沙汰されても、好太郎は野球だけなやめられないと頑張ったと伝えられている。とにかくストが多かった。

昭和28年、原田製作所は社名をハッピー・ミシン製造株式会社(現ハッピー工業株式会社)とし、そのころから好太郎は体調を崩す。昭和29年7月に大手術、30年9月1日に満60歳で亡くなった。やり残したことが、いろいろと多かったであろう。

(以下、おだずまジャーナル補足)

ハッピージャパンのサイトの 沿革 を読むと、1953年(昭和28)ハッピーミシン製造株式会社と名称を変更。1978年台湾に現地会社を開設し、操業開始。1985年、ハッピー工業株式会社に変更。90年代はシンガーミシンのブランドで供給を開始し、2000年同社の国内独占販売権を取得して今日に至る。

2014年には、東北精機工業株式会社、株式会社シンガーハッピージャパンと統合し、株式会社ハッピージャパンと称する。2017年タイ工場で量産開始。2021年には、20年ぶりの自社ブランドミシン(mycrie)を販売開始。2023年には創業100周年、とある。

■関連する過去の記事(岩本由輝さん著作をもとにしたもの。他にもあったかも)
東北開発の具体像 (2023年04月06日)
中央からの視点だった東北開発 (2023年04月02日)
東北という呼称の初現 ー 「東北」の形成 (2023年03月26日)
仙台藩の経済と財政を考える(5) 升屋と中井 (2011年3月5日)
仙台藩の経済と財政を考える(4) 藩財政の構造と御用商人 (2011年3月5日)
仙台藩の経済と財政を考える(3 本石米と買米制度) (2011年2月20日)
鮎川と鯨の歴史 (2011年1月29日)





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最終更新日  2025.01.26 14:48:43
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