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2010.06.24
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カテゴリ: 京や街の風物詩


女紅場と言えば祇園の芸・舞妓らへの躾けを主とする機関と思っていましたが、どうやら3通あったようです。

艶っぽい呼び名の女紅場の「紅」には、工或いは巧という意味合いがあって、さしずめ「府立女子技芸学校」と置き換えても良さそうです。

明治5年、京都に端を発して近畿の各地で数多くの女紅場が生まれましたが、次の3種類がありました。

1)華・士族子女向けの上流女紅場

2)遊女・芸者らを収容する遊所女紅場

3)町家娘対象の市中女紅場

現在で女紅場と言えば2番目のものが主流ですが、実は、1と3こそ京都の特性を示す女紅場史の重要な点なのでした。

<上流女紅場>

 新英学校・女紅場が正式名称で、九条家河原町別邸を教場として開講されました。当初は凡そ80名ほどの生徒。

8歳の最年少から38歳の夫人まで、お供附きで登校。期間が2ないし4年で英語、書道、礼儀作法、

細工物、茶道、華道、画道、裁縫、算術、読書などが教科としてあったようです。これが明治37年に府一(府立第一高等女子)となり、

昭和23年の新学制で共学の鴨沂(オウキ)高等学校に。福澤諭吉の書には「花の如く、玉の如く、

愛すべく、貴(トウト)むべき子女の姿」とあって、喜悦満面だった様子が伺い知れます。


<遊所女紅場>

 明治3年の公認花街は島原を筆頭に、七条新地、五条橋下の下京地区、

祇園町、八坂新地、清井町、宮川町、下河原、清水、辰巳の東山地区、二条新地の左京地区、

北野上七軒、内野五番町、内野四番町、白梅図子の上京地区、

先斗町、壬生の中京地区、そして中書島、恵美酒撞木町、黒染の伏見地区〆て20カ所ありました。

明治5年に政府から発布された「芸娼妓開放令」には業者も貧農出身の芸妓たちも誰もが困惑。

そこで考えついた苦肉の策が「婦女職工引立会社」という機関を作り、業者側もこれに賛同、各花街に出揃いました。

料理、書道、華道、礼儀作法は無論のこと、裁縫・機織・養蚕・製茶などの技術を教練しました。引立会社の名を女紅場に変えたのです。


<市中女紅場>

 どうやら従来市中には”縫物屋”という場所があって名目は裁縫ながら、芝居見物や俳優の噂にふける不良化を助長していたようで、

裁縫は勿論、洋服の仕立、養蚕や紡織の技術をみっちり仕込む趣旨で10カ所ほど設立されましたが、明治40年にはいずれも消滅したようです。


(参考図書:明田鉄男著「維新 京都を救った豪腕知事 槇村正直と町衆たち」小学館)












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Last updated  2010.06.24 10:33:03
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