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今月の初めに京都府舞鶴市にある 海上自衛隊 舞鶴地方隊 の施設を見学してきたときの日記です。3つ前の日記の続きになります。 ⇒ ⇒ こちら 東郷邸(舞鶴地方総監部会議所) に関していろいろ調べていたら、今年はあさって11月2日(土)~4日(月)で特別公開をするとありました。東郷邸は毎月第1日曜日のみの公開です。でも3年前の2016年4月に、旧軍港市である横須賀・呉・佐世保・舞鶴が共同で 日本遺産 の認定を受けたことを記念して、毎年10月か11月に『日本遺産WEEK』を開催していて、舞鶴はあさってからイベントを開始です。※こちらのサイトもどうぞ ↓ ↓ 平和産業港湾都市 旧軍港4市 私が今月初めに舞鶴に行ったときは、日本遺産のことは知らなくて、ただ自衛隊関連として見て回っていました。今度また舞鶴に行ったら、日本遺産を意識して見るから、何か違った感覚があるのかな?と期待しています。洋間からつながる廊下を進んでいくと和の風景が広がります。二間続きにテーブルが置かれた和室です。ここは現在でも、海上自衛隊の幹部の方々が会合等を行うときに使われています。この日は、舞鶴に着いたときは小雨の降る曇り空でしたが、東郷邸を見学している間は陽光が差し込んできました。木の床に光と窓枠の影のコントラストが綺麗だったので パチリ床の間に飾られた調度品をズームで撮ってみました。(部屋の入口に竹の筒で仕切りがあり、入室不可だと思って廊下から撮りました)掛け軸に書いてある文の解説です。「どんなに天下が太平であっても、万一の戦争に対する準備を忘れてはいけない」はい、全くその通りだと思います。部屋を反対方向から撮ってみました。庭からの明かりがあると、雰囲気がぐっと変わってきますね。廊下を進んでいちばん奥の部屋に行ってみました。この部屋の右手にある部屋(書斎)が最高の場所です。小さめの2つの部屋をつなぐ廊下です。この建物のガラスは明治時代の “手作りのガラス” なので、ガラスの表面が少しだけ波打っていて、景色も微妙に歪んで味わいがでます。古い建物に行くと私が必ずチェックするポイントです。床の間の掛け軸には、東郷平八郎海軍中将と思われる肖像画が。書斎の窓の前には文台が置いてあります。歴代の司令長官の方々も、美しい庭を眺めながら沈思黙考されたのでしょうね。書斎の窓から庭と和室(洋間に近いほう)を眺めてみました。秋が深まって葉が赤く色づいたら、もっと趣が出ると思います。
October 31, 2019
2019年NHK大河ドラマ 『いだてん~東京オリムピック噺』 。第40回の部分的な感想です。役所広司さん演じた嘉納治五郎が第37回で他界して姿を消し、以降は回想という形でドラマに登場していました。でも、この世の人でなくなっても嘉納治五郎は実は人々の心の中にずっと生きていました。嘉納の生きざまは、オリンピック招致に行き詰った人の発奮材料となり、なぜオリンピックにこだわるのかと悩む人の答えとなり、そして国籍を問わず愛されたその人柄はいよいよ決戦となる総会の場で陰の力となりました。人々の心の中に残り、肝心な場で人々を動かす力となった嘉納治五郎という人物像を役所広司さんが9ヵ月間かけて作ってきたのだと、改めて思った回でした。昭和34年(1959)戦後の焼け野原から復興しつつあった日本は高度経済成長期に入っていて、都市はどんどんと新しく生まれ変わっていました。そんな中、東京ではオリンピックの誘致が決まるかどうかの瀬戸際にありました。田畑政治はIOC総会の決戦に向けて万全を期していました。しかし外交官を経てNHKの解説委員になった平沢和重(星野 源さん)は、日本はまだオリンピックを開催できる状態ではないと反対でした。時はさかのぼり終戦直後の 1945年、まーちゃん(田畑政治;阿部サダヲさん)は戦争で生き残ったオリンピック関係者をバラックに集めて体協を再建しました。東 龍太郎を体協の会長、まーちゃんは水連理事長に就任し、戦地から帰ってきた小池や宮崎らを指導員として、早速選手の育成に努めました。戦後の食糧不足の折、特に足りないタンパク質はカエル等で補っていました。昭和23年(1948)ロンドンで12年ぶりのオリンピックが開催されるも、当時の日本はまだ占領下にあってオリンピック参加は認められませんでした。そこでまーちゃんは水泳だけでも「裏オリンピック」をやろうと考え、神宮競技場は進駐軍に没収されていて日本人はプールも自由に使えなかったけど、GHQにねばり強く交渉して4日間だけ日本人が使用する許可をとり、日本選手権を開催しました。古橋廣之進らが裏オリンピックで素晴らしい記録を出したことにより、日本の水連は国際競技連盟に復帰でき、さらに全米水泳選手権に招待もされました。とはいえ占領下だった日本はパスポートも発行できず。そこでまーちゃんはGHQ最高司令官のD.マッカーサー(ダニー・ウィンさん)に直談判し、戦前オリンピック選手だったマッカーサーは激励とともに快諾してくれました。1952年のヘルシンキ大会の後、東京オリンピック招致を進めるために、東 龍太郎とまーちゃんは吉田茂首相に直談判に行きました。しかし首相は思うように動かないので、まーちゃんはならば自分が政治家になろうと、活動資金を浜松の実家に頼るようになりました。実家を束ねる母のうらが「政治の頼みじゃ」と次々と土地を手放してまーちゃんにお金を渡してしまうので、家族の皆はやりきれない思いです。選挙で立候補してもオリンピックのことばかり言うまーちゃんは下位で落選でした。仕切り直して、1956年のメルボルン大会のときのロビー活動が功を奏し、次のIOC総会は東京で開催されることになりました。さらにまーちゃんは神宮競技場の建て直しを提案し、昭和33年(1958)の春に8万人収容の国立競技場として生まれ変わったことに、各国のIOC委員たちは絶賛でした。そして総会でIOC会長から、東京はオリンピックを開催できると太鼓判をもらいました。オリンピック招致まであと一息と手応えを感じたまーちゃんは、IOC委員の東 龍太郎(松重 豊さん)を東京都知事にしようと考え説得しました。そんな折、まーちゃんの自宅に東の妻・照子(筒井真理子さん)と息子の博彦(荒井敦史さん)が押しかけ、東をたきつけないでほしいと言います。ただ東自身は「晩節を汚してでもやりたい」という気になっていて妻と息子に強く主張し、いつもは控えめな夫の変貌ぶりを見て照子は東の思いを受け入れました。そして時は昭和34年(1959)に戻ります。終戦から14年のまーちゃんたちの歩みを聞いても、なぜそこまでオリンピックにこだわるのかがわからなかった平沢でしたが、話の流れから故・嘉納治五郎と船上で最後に過ごした時間のことを思い出しました。嘉納:「これから一番面白いことをやるんだ、東京で!」平沢は自分の考えでスピーチすることを条件に、IOC総会の壇上に立ちました。総会があるミュンヘンに発つ前、平沢が何を話そうかと考えていたとき、娘の洋子との会話で小学校の国語の教科書に載っている『五輪の旗』の話がヒントになりました。 オリンピック、オリンピック。 こう聞いただけでも、私たちの心はおどります。 全世界から、スポーツの選手が、それぞれの国旗をかざして集まるのです。すべての選手が、同じ規則に従い、同じ条件のもとに力を競うのです。遠くはなれた国の人々が、勝利を争いながら、仲良く親しみ合うのです。 オリンピックこそは、まことに、世界最大の平和の祭典ということができるでしょう。スピーチの前に「嘉納治五郎の最期を看取った人」と紹介されて会場のムードは盛り上がり、平沢は日本のこどもたちが学校でオリンピックを題材に学んでいることを伝え、そして「アジアで開催するときが来た」とスピーチをまとめました。会場のIOC委員たちは満足げな表情になり、万雷の拍手が起こりました。結果、東京は過半数を超える票を獲得し、1964年の東京開催が決定しました。
October 28, 2019
令和元年10月22日、天皇陛下が内外に即位を宣言する 『即位礼正殿の儀』 が執り行われました。私はこのとき家に居たのでTVの前で中継を食い入るように見ていました。めったに見られない最高の儀式ですからね。思えば上皇陛下が即位の礼をされたとき、当時の私は即位の礼の意味や重要性を理解してませんでした。また当時はTV中継をビデオで録画はできたものの、今のようなネットの環境はなかったので、後で友人や知人と感想を述べあうぐらいでした。そう思うと今の時代は、美しい映像を見ながら美しい録画を残せて、なおかつSNSで会ったこともない者同士がリアルタイムで思ったことを投稿してイイネで共感し合い、昔の何倍も感動があると思っています。政府が公式に映像を公開してくれるのも嬉しいです。首相官邸のHPでは安倍総理大臣が述べた寿詞(よごと)と共に、正殿の儀の模様が1時間11分余の動画で(TV中継のような解説なしで)紹介されています。 こちら そして寿詞の後で安倍総理大臣が万歳三唱をするのですが、そのときに陸上自衛隊が万歳に合わせて21発の礼砲を撃ったときの動画もあります。朝の大雨の中の準備の様子、発射の瞬間の各隊員の動作など、特別なこの時にしか見られないものです。(動画で音が出るのでご注意ください) こちら この礼砲では音を万歳に合わせるために、大砲を置いた北の丸公園から宮殿までの距離と音速を計算して、発声の約3.1秒前の時間差で発射していて、これも驚きでした。さて、この特別な日の厳かな儀式を一般庶民はというと、それぞれの得意分野の視点の感想をSNSで言いたくてたまらない~な状態でした。歴史、平安装束、ドレス、外交、軍事などのクラスタの皆さんが、ワクワクしながらTVに見入り、おおっ!と思った瞬間にSNSに思いをUPしていた時間でした。 ↓ ↓ #即位礼正殿の儀この即位の礼の時間にこのような一面があるのかと思うと、日本と天皇家の素晴らしさがグンと上がります。──今、世界中の〝王〟が極東の島国に集結している。 こちら そしてこの日は、お天気の変化が神がかっていました。即位礼正殿の儀により台風20号は消滅し・・・ こちら「後世の人がこの話を聞いたら、絶対話盛ってるって言われるよね」という声が数多あった展開でした。(ホント、この方もう最高・笑 ↓ ↓ )ジジィになったときに「令和の即位礼正殿の儀はどうでしたか?」って聞かれて・・・ こちらこういった神話のような展開がなくても、若い世代もちゃんと天皇陛下と皇室に対する敬意をもっています。今のマスコミが皇室に対する敬称を正しく使わない中、逆に若者たちが正しい敬称を使って投稿しています。ノリの勢いが強すぎる投稿には「不敬」と諫めます。日本の伝統や格式は、いつの間にかちゃんと次の世代に伝わっていたのですね。重たい十二単の衣装を身に着けながら、それでも儀式の間は微動だにせず立ち続けた皇族の方々に、SNSでは新たな称賛の声が上がっていました。皇族としての別格の品位を保つために、教養だけでなく所作の訓練を重ねていらっしゃるのでしょうね。天皇陛下はお言葉の中で「国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添う」.と述べられました。常に国民と苦楽を共にされてきた上皇上皇后両陛下のお姿をずっとご覧になってきて、ご自身も他者にはわからない苦労を重ねてこられたお優しい両陛下なので、そのお心はこれからも常に国民と共にあることでしょう。 天皇陛下、バンザーイ、バンザーイ、バンザーイ!天皇皇后両陛下のお住まいには保護犬たちがペットとして飼われています。命を慈しむ両陛下の思いが一人でも多くの国民に伝わっていきますように。そして式典を陰で支えた警察や自衛隊の皆様、大変お疲れ様でした。
October 25, 2019
今月の最初の日曜日だった10月6日に、京都府の日本海側の舞鶴市にある 海上自衛隊 舞鶴地方隊 の施設を見学してきました。舞鶴は我が家から近くないです。遠いです。でも海上自衛隊の護衛艦や設備を見学するのに、ここが一番我が家から近くて、私の体力でぎりぎり運転して日帰りできる距離だったので、行ってみました。名神高速から北陸道に入り、敦賀JCTで舞鶴若狭道に入って舞鶴東ICで下りて、一般道を数キロ走って舞鶴地方隊に着きました。途中少し休憩して3時間弱かかりました。自衛隊の設備を見学するなら、行事等がなければ自衛隊の中の駐車場に停めさせてもらえます。私は「自衛隊の敷地内に入ってもいいのだろうか?」と半信半疑でしたが、大丈夫でした。受付を済ませた後、まずは敷地内にある 海軍記念館 に行ってみました。海軍記念館には戦前の帝国海軍に関する資料が展示されています。特に戦争で己が命と引き換えにこの国を守ってくれた英霊の方々のことを思うと、自分たちもしっかりしなければと身が引き締まる思いがしました。海軍記念館を見学した後、東郷邸(舞鶴地方総監部会議所)に向かいました。車は自衛隊の駐車場に置いたまま周辺を見学してOKだったので、歩いて移動です。歩道橋の上から港の自衛艦が見えると、テンションが上がって運転の疲れも忘れます。画像の奥のほうが舞鶴赤レンガパーク方面です。ふと見ると、道路の反対側(自衛隊の隣の敷地)にSLが見えました。せっかく歩道橋を渡ったけど、横断歩道を渡ってもう一度自衛隊の建物側へ。昔のモノのシンプルだけど重厚な作りにグッときます。SLの運転席には子供たちがいて楽しんでいました。広場に置いてあるSLを見た後、東郷邸に向かいました。少し歩いて 東郷邸(舞鶴地方総監部会議所) に着きました。敷石を進んでいくと、どこかでよく見た感じの建物が出てきました。ここは明治時代に建てられた建物だから、愛知県犬山市の明治村にある建物と同じような感じなはずでした。舞鶴鎮守府の初代長官が海軍中将の東郷平八郎でした。初代の名にちなんで、舞鶴地方総監部会議所を東郷邸と呼んでいます。歴代の司令長官の写真と、昭和天皇の若かりし頃のお写真がありました。東郷中将は昭和天皇の教育係でした。当時、会議に使った応接セットですが、もちろん椅子に座ってはいけません。各種資料が展示されているこの部屋は、全面がガラス張りで解放感があります。洋間から和室のほうに向かいます。白い石で整備された庭がとても綺麗です。(この続きは次回に)
October 22, 2019
先週末に日本列島に上陸した超大型台風19号は、関東甲信越から東北の地域にかけて記録的な大雨を降らせて、甚大な被害をもたらしていきました。昨日の午後1時の時点で、7つの県で68河川の125か所に渡って堤防が決壊しています。他には土砂崩れ等で道路が寸断されて、孤立している山間部などもいくつかあります。各地で起こった洪水は大都市よりも農村部や小さな自治体に多く、東京都心部では多摩川沿いで堤防や排水の整備が十分でなかった二子玉川周辺や川崎市の武蔵小杉が冠水して大変な事態になりました。しかし東京では都市防災で水害を防ぐために、神田川水系の洪水を貯留しておく神田川・環状七号線地下調節池があり、今回これが大きな役割を果たしました。こんなツイートがありました。 ↓ ↓(中野区)神田川ほか氾濫寸前だった河川の水位が今、一気に下がりました。環七地下の巨大トンネル(=写真)に水を流し込んでいるようです。ありがとう! こちら 他にも水害対策の設備はあるでしょうが、“地下神殿” の異名をもつ首都圏外郭放水路は・・ついに今夜、龍は目覚めるのか。東京地下神殿、(中略)彩龍の川の二つ名をもつ首都圏外郭放水路が、今夜台風19号を迎え撃つことになる。 こちら その地下神殿は今回、稼働して水害を止めました。もしこの施設がなかったらどうなっていたか…ありがとう地下神殿(2019.10) こちら そして今回、とてつもなく大きな仕事をしたのが群馬県吾妻郡長野原町にある 八ッ場ダム でした。2009年9月当時の政権の意向でダムの建設が中止となり、その後再開となったもののダム工期は大幅に遅れ、今年の6月に完成したばかり。その八ッ場ダムが・・・試験湛水が始まったばかりの八ッ場ダムが(中略)台風19号の豪雨をいきなり支えきるという誰にも文句を言わせない偉業を速攻で成し遂げてしまい、そのカッコ良さに震えが止まらない。 こちら ダムの工期が間に合った、広範囲の記録的な大雨の前にダムがほぼ空っぽだった。これはもう神のご加護でしょうね。そして今回、学んだこともありました。ダムの緊急放流するな!放流したら川が氾濫する!ってツイート見かけるけど、緊急放流はダムの決壊を防止するのが目的で、今まで避難の時間を作ってくれただけでもすごいだろ。 こちら緊急放流があったダムの職員さんたちは、ダムと川の水位計をにらみながら考えて考えて、決断にはかなりのストレスがあったと思います。自然の大きな力の前では、人間はどうしようもない。そういったときもありますからね。今日は午後からこの地方では強い雨が降り続いていて、この雨雲は関東のほうに移動していきます。被災された皆様、被災地の復旧にあたっている自衛隊や消防やインフラ整備の皆様、気温も下がってきました。どうぞご安全に、体調を崩さずお過ごしください。八百万の神様、この日本の国と民を、どうかお守りください。
October 18, 2019
2019年NHK大河ドラマ 『いだてん~東京オリムピック噺』 。第39回の部分的な感想です。この回はスポーツ史の話はなく、終戦前に噺家の志ん生(美濃部孝蔵;森山未來さん)が慰問で満州に渡り、そこで出会った小松 勝(仲野太賀さん)との関わり、そして満州で迎えた終戦と小松の死が話のメインでした。ただ私としては小松の死に至るまでの流れに違和感があり、なんで敵地に取り残された敗残兵なのに夜に危険も考えず一人で外に走り出していくの?とか気になり、小松の死やその関連の場面に感動はありませんでした。戦時中の大陸であったこととかは他のドラマでも何度か見ているので、この回は志ん生と同行した三遊亭圓生(中村七之助さん)の大陸での出来事に注目していました。昭和20年(1945)3月、志ん生(森山未來さん)と三遊亭圓生(中村七之助さん)はひと月ほどの予定で、慰問のために満州に渡りました。志ん生は家族にとって稼ぎ手ではあるけど父親としては頼りにならないので、家族は皆家のことは自分たちでなんとかするからと、快く志ん生を満州に送り出してくれました。小松 勝(仲野太賀さん)がいた部隊は沖縄に配置換えになる予定でした。しかし沖縄への出発前夜に分隊長(村杉蝉之介さん)が「日本はもう駄目だ!妻子を内地に残してきたやつは(軍律違反だけど)今すぐ逃げろ!遠からず戦争は終わる!」と部下に伝え、自らも軍服を脱ぎ捨てて脱走していきました。そして8月15日、志ん生と圓生と小松は大連で終戦を迎えたのですが、日本の敗戦により中国人は日本人を襲撃するようになりました。志ん生らだけでなく大陸にいるすべての日本人は、危険をかいくぐってなんとか日本に帰る手立てを考えなければいけなくなりました。こんな状況下、予定されていた二人会には客は誰も来ないだろうと思っていたところ、現地に残っていた人が百人くらい集まりました。初めは皆、このまま日本に帰れず恐ろしい目に遭って死ぬだろうと暗い気持ちで一杯で、ならばせめて死ぬ前に思いっきり笑いたいと思っていました。その思いを受けた圓生は『居残り佐平次』で客を大いに笑わせ楽しませました。志ん生が自分は『富久』を出そうかと考えていたとき、小松が話の中の距離を浅草から芝にしたらどうかと提案しました。それは小松が師匠の金栗四三(中村勘九郎さん)と毎日走っていた道で、その四三は今終戦後の焼け野原となった東京を自慢の体力で毎日、家族やハリマヤの皆の食糧確保のために上野の闇市まで走りまわっていたのでした。そして志ん生は小松の提案どおり、噺を少し変えて距離を芝まで延ばしてくれました。さらに話すときの身振りも小松の意見を取り入れてくれ、そんな志ん生の心意気が小松は嬉しくてたまらず、どうしても走りたくなって・・・小松は夜の大連の街に一人で飛び出して走り始めました。途中でポストを見つけ、絵葉書に「志ん生の『富久』は絶品」と書いて投函したときにソ連兵に見つかってしまい、走って逃げようとしたものの銃殺されてしまいました。小松は日本の妻子の元に帰りたがっていたから、ならなおさら慎重に行動しなければいけないのに「感動→我慢できずに走る」なんて流れにしたのかなと思いました。小松の死の後、中国での日本人の惨状を目の当たりにした志ん生は自暴自棄になり、このまま自分も死のうと思っていましたが圓生が引き止めてくれました。そして家族持ちは日本に帰る船に早く乗れるという噂があったので、二人は偽装結婚をすることにしたのですが、志ん生の相手の女はかなりハズレだったようで。(笑)昭和22年(1947)1月にようやく引き揚げ船に乗れるまで、志ん生は大連で今日生きられるかどうかの過酷な日々を過ごしていました。そして乗船のとき、中国人に成りすまして生き延びている美川秀信(勝地 涼さん)と再会し、志ん生は美川から小梅や清さんといった懐かしい名前を聞きました。志ん生にとってもちろん家族は大事だけど、若い頃に泣き笑いを共にした友達のことを思い出すと生きる力になりますよね。そして志ん生はやっとの思いで家族の元に帰ってきました。戦争で財産を失ったけど家族は皆無事で力を合わせて生きていました。「今は日本中が貧乏だから、皆で揃って上向いて這い上がっていこう!」ーー志ん生はそう心に決めて再び落語の高座に上がり、落語の聴衆も大喜びでした。
October 14, 2019
大型で非常に強い台風19号が今日の夕方に伊豆半島に上陸し、昨日の夜からの雨も含めて東海地方から関東・北陸・東北と各地に大きな被害をもたらしています。この台風19号が非常に危険であることは数日前から気象予報で何度も言われていたのですが、果たしてその通りでした。ただこの名古屋エリアでは、午前中は風雨もそれほど強くなく「超大型台風」の実感がわかないくらいで、開いてるスーパーに買い物も行けたりしました。その台風に関して、私はTVニュースよりツイッターから流れてくる現地の人や、災害を経験した人の生の声がとても興味深く、今日はツイ廃一歩手前みたいについつい情報をチェックしていまいした。ちなみにこの地方では、鉄道は昼頃まではだいたい動いていたけど、その後は各線が一斉に運休でした。動物園や水族館、各百貨店、長島スパーランド等のレジャー施設は一斉に臨時休業でした。来園・来店するお客様になにかあってもいけないし、そこで働く従業員の安全もあるから休業で正解です。大手運送会社も集荷や配送が停止になりました。しかしその一方で、どんな悪天候であろうと出勤して通常の仕事をせよ、という会社もまだまだありました。新聞配達員や宅配ピザの人たちは、本人または彼らを案じるお身内が悲鳴を上げてました。配達がある仕事は、暴風雨のときは危ないから休業にしてもいいですよね。ただこんな災害時こそ出動しなくてはならない自衛隊、消防、警察、ライフラインの作業員、役所の方々は、本当に大変だと思いますが、国民を守るために働いてくれて大変ありがたく思ってます。河野防衛大臣は台風19号への対応として、自衛隊員1万7千人の即応体制をとりました。初動対処部隊及び一部の主力部隊の資機材の準備だけでなく、県庁等への連絡員を先行的に派遣しました。これまでの災害時の経験をふまえた積極的な対策です。災害の経験者の方のツイートも有意義でした。「停電したら精密機器のコンセント抜いて下さい」という話、 こちら バイクや自転車、植木鉢といった外に出ているものはとにかく家の中へ、という呼びかけもいくつかあってその中で最も強烈だったのが こちら また強風で物が飛んできて窓ガラスが割れたときの予防対策で、養生テープや粘着テープがないときに、「アフガン帰りの人のアドバイス」で こちらためになるお話を、ありがとうございます。この時間台風は茨城県から太平洋に抜けつつありますが、記録的な大雨による災害の危険性はまだ残り、長野県と関東と東北の各地に特別警報が出ています。大雨と強風の影響を受ける皆様は、どうか身を守ってご安全にお過ごしください。7月末に我が家に来たスモモちゃん。今は安全で快適なおうちの中で、安心してのびのびと暮らしています。野良にゃんこたち、雨に濡れても我慢して、じっと耐えているんだろうな。
October 13, 2019
2019年NHK大河ドラマ 『いだてん~東京オリムピック噺』 。第38回の部分的な感想です。『いだてん』での今回の主役というか一番印象に残る人。今回は塚本晋也さん演じる副島道正の生き様に、私は強く感銘を受けました。嘉納治五郎が他界してしまう少し前にエジプトに赴いて、最後の情熱をかけてIOC委員を説得して勝ち取ってきた2年後の東京オリンピック。しかし日本ですぐに終わると思った戦争は激化していき、軍の力が強くなる一方の日本では国民は物資も言論も軍の統制をうけ、とてもオリンピックという平和の祭典を開催できる状況ではなくなってきていました。開催するのか否か、これ以上返事が遅れたら他国でも開催できなくなり、日本という国は信用を失って、この先エントリーに名をあげることもできなくなります。とにかく日本でのオリンピック開催を返上しなければ。東京にオリンピックを誘致するために、副島だって交渉の第一線で働いて苦労してきました。シベリア鉄道での長旅で疲れてローマで重病となり、注射200本の激痛に耐えたこと、独裁者ムッソリーニとのド緊張の会談、その他あれこれ。でも今は己の苦労なんかもうどうでもよく、日本にまたオリンピック開催にふさわしい時期が到来するであろうと祈りつつ、開催返上を決めました。周りを誰も巻き込まないよう、世のそしりを一身に受ける覚悟での独断でした。無理だとわかったときに理想論で先延ばしせずに撤退する勇気と、その後に起こる苦悩を甘受する度量。塚本晋也さん演じる副島道正という男に感動の回でした。昭和13年(1938)5月、あと2日で横浜に着く船の上で突然この世を去った嘉納治五郎の棺にはオリンピック旗がかけられ、氷川丸から降ろされました。嘉納の生前に深く関わった人々が横浜港にかけつけ、その死を悼みました。そして集まった人々は皆「オリンピックは、やる。必ず」と心に誓ったのでした。嘉納の旅立ちを見送った後、体協でずっと嘉納と一緒にやってきた永井と可児と野口、そしてまーちゃん(田畑政治)が集まって飲み屋で嘉納を偲ぶ会をやっていました。でも体協の皆は嘉納を慕いつつも振り回されてきたので、話が愚痴っぽくなっています。そこへまーちゃん(田畑政治;阿部サダヲさん)が「ずるいよ、さっさと死にやがって」と発言したことに他の3人は一瞬ムッとしますが、その言葉の真意は「絶対に日本でオリンピックを開いてやる!嘉納の遺志を実現させる」という強い意志でした。さてオリンピック東京大会組織委員会ですが、時勢の流れで軍の発言力はますます強くなり、オリンピックの聖火はアテネからではなく高千穂からの神火がいいとか、新たな競技場建設の資材は軍艦の建造に使いたいなど、話は一向にまとまらないままでした。そんな状況下で副島道正(塚本晋也さん)の元にIOC会長のラトゥールから、イギリスとフランスが東京オリンピックをボイコットする申し出があったと私信が届きました。副島はオリンピック辞退を決断し「嘉納さんはもういない」と言いますが、まーちゃんは「いるんだよ、ここに!」と秒針を止めないままの嘉納の形見のストップウォッチを出し、このまま東京オリンピックをやるべきだと副島に反論しました。副島だってオリンピック招致のために重病を押してムッソリーニと交渉したり(第33回)と陰で苦労をしてきたし、オリンピック自国開催への嘉納の遺志だってわかっています。しかし今の日本はそれができる時ではないと判断し、「機が熟せば…いつかやれるさ」と言葉を残して、独断で政府にオリンピック中止を働きかけました。そして7月14日、政府は東京オリンピックの中止を決定し、発表しました。「日本中で最も評判の悪い男になる危険を冒して政府に働きかけた。売国奴、非国民と罵られても、私は自分のとった行動を後悔してはいない。返上が半年遅れたらどの国でも開催できない。いつの日かアジアで、願わくばこの東京で、オリンピックが開かれることを夢見て。」ーー世間の非難を我が身に一身に受け、副島はラトゥールに報告の返信をしました。東京がオリンピックを返上した後、フィンランドのヘルシンキでオリンピック開催が予定されていたので、小松 勝(仲野太賀さん)は練習に励んでいました。しかしそのヘルシンキ大会も翌1939年に勃発した第2次世界大戦により中止に。弟子の小松を案じてだけども金栗四三(中村勘九郎さん)が現実的な暗い話ばかりするのでハリマヤ製作所の黒坂辛作(三宅弘城さん)が「戦争だろうが何だろうが、あんただけはバカみてぇに笑ってなきゃいけんだいんだよ!」と四三にイライラ爆発でした。さてこちらは昭和36年の古今亭(美濃部)一家です。巨人軍優勝祝賀会の席で倒れた志ん生(ビートたけしさん)はまだ寝たきり・・だと皆は思っていますが、実は五りん(小松:神木隆之介さん)と二人きりのときは起きてふつうに会話して、こっそり1杯だけ酒も飲んでいました。(昭和36年だけど女性の皆さん着物姿で、これは落語一家だからでしょうか)そして昭和16年(1941)、戦争による国民の統制はいよいよ厳しくなっていき、娯楽である落語でも軍の検閲が入るようになりました。席亭(谷川昭一朗さん)から、あれもダメこれもダメの禁演落語を告げられ・・・志ん生(美濃部孝蔵;森山未來さん)は、お上の顔色伺いながら芸人なんてできねえ!と憤りますが、三遊亭圓生(中村七之助さん)から、これぐらい葬ってもネタにはこまらないと涼しい顔で言われ、己のプライドから志ん生も気を取り直しました。日中の衝突から始まった戦争は、1941年12月には太平洋戦争へと拡大し、軍の言論への統制もますます厳しくなっていきました。大本営発表では連戦連勝の戦果が伝えられ、その報道は真実ではないと一部の者はわかっていましたが異を唱えることはできず、新聞の記事は大本営発表に従い、国民は万歳を何度も何度も叫んで喜びを分かち合っていました。戦争が激化していき、昭和18年(1943)には兵力不足からついに、20歳以上の文科系大学生が徴兵対象となりました。(学徒出陣)りく(杉咲 花さん)と結婚して金治という幼子がいた小松勝は、黒坂辛作や四三やスヤたちに金治を託して戦地へと赴きます。「この子は体が弱いから、3つになったら冷水浴をさせてほしい」と四三に頼んで。昭和18年(1943)10月、出陣学徒壮行会が明治神宮外苑競技場で開かれました。ここはかつて嘉納治五郎がオリンピックを呼ぶために建設したスタジアムでしたが、平和の象徴のこの場所から皮肉にも学生が戦地へと送り出されました。雨がしたたる中、3万人の学徒が家族や関係者たちに万歳の大歓声で見送られて出陣していき、まーちゃんは時の流れに逆らえない悔しさをにじませていました。
October 8, 2019
名古屋市守山区にある 志段味古墳群 の記事です。5月にUPしてから少し間が開いてしまいましたが、もう少し続きがあるのでUPいたします。守山区のいちばん奥で春日井市と瀬戸市を境にする志段味地区に今年の4月、 歴史の里 しだみ古墳群 が新しくオープンし、整備されて見やすくわかりやすい史跡ができました。※前回の日記は ⇒ ⇒ こちら 今月の終わりから11月の半ばまで名古屋市内の各所で やっとかめ文化祭 というものが開かれるのですが、今年からはこの志段味古墳群も文化祭の項目になりました。『まち歩きなごや』のコーナーにある「古墳図鑑」を歩く ~いろんな古墳がある志段味古墳群~ で、11月4日(月・祝)の開催になります。JR中央線の大曽根駅から出る ゆとりーとライン が一般道の渋滞を避けて小幡緑地まで頭上をスイスイ走り、バス停「上志段味」で下車してトボトボ10分ほど歩けば志段味古墳群のミュージアムに着きます。学芸員さんの解説を聞いて、現地の地形を実感しながら、古の時代に思いを馳せるのもいいでしょうね。この志段味古墳群は、画面の左手に庄内川がながれ、画面の上に東谷山がある河岸段丘の中の、中位段丘に多く集まっています。(下のほうの画像で出てきますが、高位段丘の東谷山の中にも古墳があります)ミュージアムの前にある古墳群は、この階段の上の緑地(中位段丘)に整備されています。さてこれから東谷山白鳥古墳に歩いて向かうのですが、その途中にある白鳥塚古墳で前回のときによくわからなかった箇所があったので、ちょっと寄ってみました。※ しだみ古墳群~その1、白鳥塚古墳(名古屋市守山区)現地では斜面に葺石がなくて木があるのでちょっと実感しにくいのですが、この位置からかなり下のほうに小川があり、古墳の高さを感じました。落下防止の柵があるので、手を伸ばして撮っています。画面中央に流れる小川は、庄内川に流れていきます。「上志段味」のバス停は県道15号沿いにありますが、このバス停は県道から少し南に入った住宅街にあります。位置としては「白鳥塚古墳」の裏というか西側にあります。バスの本数は上志段味側よりやや少ないですが、ベンチも屋根もあって、のんびりバスを待つ人にはいい場所です。上の「東谷山フルーツパーク」のバス停の少し東側にあるこの橋の下を流れる川が、先ほどの白鳥塚古墳の下を流れていた川で、庄内川に流れていきます。白鳥塚古墳から県道15号沿いに進む、または住宅横の林の中の細い道を抜けると、東谷山白鳥古墳に着きます。道路(県道15号)で画面の奥は瀬戸方面になります。整備される前に寄ったときは古墳の史跡と言われてもよくわからなかったけど、入り口ができて立派な石碑も立って、やっと古墳の実感がわいてきました。説明もグンと見やすく分かりやすくなりました。説明によると、この古墳は志段味古墳群の中でも唯一、横穴式石室がほぼ完全な状態で残っていて貴重なものだそうです。施錠された扉の窓から撮っているので、ISOを上げてあります。古墳群の各所にこういった地図の案内板があります。(ミュージアムのHPやパンフレットにも載っています)東谷山の山の中にも古墳があるようなので、暑くない体力のあるときに一度、山道を歩いてここまで行ってみたいと思います。ミュージアムの中にはお土産コーナーもあります。(テーブルも何気に前方後円墳の形です)クリアファイルやメモ帳といった使いやすいもの、古墳に関する書籍などあります。
October 3, 2019
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