October 4, 2023
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カテゴリ: 気になるTV番組
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。

この回はタイトルが「さらば三河家臣団」とあり、視聴
する前は、北条征伐後に徳川から誰かっが去るのかな?
そんな人いたかな?と思っていました。

でも実際は、秀吉の関東移封の命で父祖伝来の地の三河は
手放すけど、重臣たちが城持ち大名になって、今までの
ように城の近くに屋敷を構える暮らしから、一つの領国の
まさにお殿様になる、という意味でした。


共にしてきた重臣たちとの場面は良いものでした。

たしかに、この乱世で生き延びているだけでもラッキー、
スタートは弱小国で貧しかったけど、次々とくる難題を
主従の皆で力を合わせて乗り越えて、徳川家として出世
してそれぞれに立派に豊かになってもっとラッキー、
といったところでしょうか。

そして家康の若い頃の弱さや頼りなさを知っているだけに、
いや、弱くても他者の言葉を受け入れる、そういう殿だった
からこそ家臣団は主君・家康に遠慮なくものを言ってきて、
主従が互いに相手を見放すことなく絆を深めてきたのかな、
と感じる場面でした。


発展している東京ですが、逆にこの時代の地政学を調べて
想像してみるのも面白いかと思いました。

こちらでは様々な意見がでていて参考になります。
 ⇒ ⇒  #どうする家康

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天正17年(1589)5月、豊臣秀吉(ムロツヨシさん)は側室の茶々との間に
初の我が子・鶴松を授かり、喜びの絶頂にありました。
秀吉はその勢いのままに関東の北条征伐を決定したのですが、北条家の嫡男・
氏直には徳川家康(松本 潤さん)の娘・おふうが嫁いでいました。
家康は当主・北条氏政に対し秀吉に臣従するよう説得しているのであと少しの
猶予をと秀吉に乞いますが、秀吉は家康に「早く軍勢を整えて北条に向かえ、
北条を滅ぼせばその領国は全てくれてやる。成敗後はそのまま関東を治めよ。」
と言うだけで、そのまま退室しようとしました。
家康は秀吉を引き留め、褒美は断る、北条には領地を安堵して速やかに戦を
終らせるので4カ月待って欲しいと乞いましたが、秀吉は3カ月で北条征伐を
終らせよと言って出ていきました。



家康は京を発つ前に病気で伏せっている正室の旭を見舞いました。
一緒にいた秀吉の正室・寧々も、鶴松が誕生して以来、秀吉は自分の話に耳を
貸さなくなった、弟の秀長も病に伏せって誰も秀吉にものが言えなくなった、
秀吉にものが言えるのは家康と(秀吉の妹の)旭だけと言っていました。
駿府城に戻った家康は重臣たちに、秀吉より北条攻めの命が下った、3か月で
終わらせる、戦の仔細は皆に任せると言って退室していきました。
家康はこの戦の後には国替えを命じられるだろう、これまで故郷・三河を守る
ために多くの犠牲を払って戦い続けてきた皆には言えない、と悩んでいました。
そんな話の後で、今や家康の知恵袋となった本多正信(松山ケンイチさん)は
軍議中の皆のところに行き、大久保忠世(小手伸也さん)を外に呼んで密かに
何やら伝えていました。



天正18年(1590)2月、北条征伐のために駿府より徳川勢が出陣、続いて
3月に京より秀吉の軍勢が出陣、各所から総勢20万の大軍勢が小田原に向けて
進軍し、周辺の城を落としながら北条の領地を取り囲みました。



しかし北条氏政(駿河太郎さん)はかたくなに籠城を続けていて、重臣たちも
籠城か降参かで議論がまとまらないままでした。
そんな時、笠懸山に城が現れたと注進があり、一同が何事かと山の方を見たら、
昨日まではたしかに山だったところに城ができていました。
この小田原城の様子が丸見えになる場所に、一夜にして城が。
秀吉の力を見せつけられた一同は、ただ呆然とするばかりでした。



もうこれで北条は降参してくると読んだ秀吉は、これで天下一統の総仕上げと
なった、亡き主君・織田信長も喜んでいるだろう、と上機嫌でした。
家康は秀吉に、北条に少しだけ領国を与えて降伏を促してはと進言しましたが
秀吉は耳を貸さず、ちょうどそこへ側室の茶々(北川景子さん)が来たため、
秀吉は家康に「北条領はそのままやる。今治めている領国は他の者に。家康は
武蔵の江戸に入れ。徳川の重臣たちにも領国を与えて城持ち大名にしてやれ。」
と言って茶々と奥に入っていってしまいました。
その話を正信は「江戸に町を作らせ、財を失わせ、ついでに徳川家臣団を分裂
させて我らの力をとことんまでそぐもの。」と分析していました。



一夜城出現より9日後の7月5日、家康の娘婿の氏直が降伏して家康の元に
来て、7月10日、家康は小田原城の引き渡しで入城しました。
家康は氏政に、氏直は助命されるが氏政は切腹と秀吉の命を伝え、北条領を
家康が治めると考えた氏政は「我が民を頼む。」と言って去っていきました。
陣地に戻った家康は、秀吉のやり方に腹が立ちながらもこの先のことを考えて
いると、そこへ石田三成(中村七之助さん)が訪問してきました。
家康の気持ちを察している三成は、秀吉から国替えを命じられた織田信雄が
不服を言ったら改易にされたと話し、家康に「今は辛抱を」と伝えました。
しかし、秀吉の判断は今までに一度として間違ったことになってない、自分は
戦なき世を目指す家康と同じ星を見ているとも言い、去っていきました。
「江戸からも同じ星が見える。」ーー正信の言葉に家康は決心がつきました。



夜になり、家康は重臣たちを集め、秀吉の命で徳川は関東移封になった、今の
領国は徳川のものでなくなると伝えました。
重臣たちの猛反発を予想していた家康でしたが、いちばん異を唱えると思った
本多忠勝(山田裕貴さん)の口から「関東も良いところに相違ない。」と。
続けて榊原康政(杉野遥亮さん)が「我らはとっくに覚悟ができている。」と、
井伊直政(板垣李光人さん)も「新たな領国を治めるのもやりがいがある。」
と、このことをそれぞれがもう知っていたようでした。



鳥居元忠(音尾琢真さん)は「もう故郷には別れを告げてきた。」と言い、
家康が不思議に思うと平岩親吉(岡部 大さん)から「実は国を発つ前に忠世
から話を聞かされていた。」と真相を聞かされました。
その忠世は、実はあの軍議の時に正信から「国替えのことを皆にうまく伝えて
おいて欲しい。」と頼まれたとのことでした。
まあ話をした時は怒り狂った皆が文句を言いながら忠世に突っかかっていって
乱闘になったけど、ひとしきり暴れて悔し泣きしたら皆それぞれ気が済んで、
故郷の山河に別れを告げてこれたと納得の表情になっていました。



それでも家康は、表に出さない皆の悔しさや無念さを思い詫びました。
しかし家臣の皆は、今川や武田が滅び、織田が力を失ったこの乱世をこうして
生き延びてきた、それで十分と言い、そして家康は、こんな自分によくついて
きてくれた、支えてくれた、皆のおかげだ、と皆に礼を言いました。
その後は、直政は上野箕輪に、康政は上野館林に、忠勝は上総万喜に、元忠は
下総矢作に、親吉は上野厩橋にと次々と領国が正信から言い渡され、そして
相模小田原は、忠世がこの家臣団をまとめあげてくれていた礼とともに家康が
直々に忠世に言い渡しました。
家康は正信と服部半蔵(山田孝之さん)を連れて江戸に入り、今は荒地の江戸
だけど大坂をしのぐ街にしてみせる、今の粗末な城も造り直す、と皆の前で
意気込みを語りました。
「次に集まるときは江戸!」「我らは離れ離れになっても心は一つ!」ーー
皆は笑って別れの盃をかわしました。



そんな頃、大坂では病に伏していた秀長が兄・秀吉が天下一統を成したと聞き、
心から喜んでいましたが、同時に「これ以上の欲は張らないで欲しい」と兄の
いる方角を見つめて祈っていました。
その秀吉は、ようやく授かった我が子の鶴松が病になり、天正19年(1591)
8月、鶴松は夭折してしまいました。
最愛の我が子・鶴松を失った悲しみで秀吉は「次は何を・・」と秀長が願う
方向とは逆の方に進もうとしていました。



一方、江戸に入った家康は街の造営に励んでいました。
普請奉行に伊奈忠次(なだぎ武さん)を据え、丘陵部の先端に江戸城を築き、
土地を増やすために神田山を削ってその土で日比谷入江を埋めるなど、人を
集めて豊かな街にする構想を練って進めていました。
そんな折の天正20年(1592)正月、秀吉から朱印状が家康に届き、そこには
朝鮮に出兵する旨が書かれていました。






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Last updated  October 4, 2023 01:55:17 PM


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