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今の今まで誤解してましたが、松岡修造が出演しているフジテレビの料理番組は、「くいしん坊!万歳」ではなく、「くいしん坊!万才」だったのですね。まぁ、どっちも同じイミだけど、普通「バンザイ」と云うと「万歳」を使うような。かと云って、 エルヴィス・プレスリーとアン・マーグレットが出演してた昔の映画のタイトルは「ラスベガス万才」。私の悪い頭がますます混乱してきました(笑)韓国・北朝鮮では「マンセー、マンセ」、中国では「ワンスイ、ワンソェー)」。ベトナム語だったら「ムアン ナム」。ロシア語だったら「ウラー」。イタリア語は「ヴィヴァ」、スペイン語は「ビバ)」、フランス語は「ヴィーヴ」。これは、どれも「生きろ」という意味で長生きを願うことになり、万歳と同様の意味をもちます。ドイツ語だと「ハイル」ですね。ナチス時代には「ハイル・ヒトラー」という言葉が「ヒトラー万歳」という意味で使われました。しかし「ハイル」は本来ラテン語の「敬礼」にあたる単語なんです。モンゴル語では万歳を「フラー」と発音するらしいですが、「フラー」は同時に「エイエイオー!」の意味もあって、ロシアを支配した中世のモンゴル軍が「フラー」と雄叫びをあげていたのをロシア人がまねて「ウラー」(前述したロシア語の万歳)。ロシア語から、ドイツ語に入って「フラー、フザー」。ドイツ語から英語に入って「フレー」。それが日本語に入って「フレー、フレー」になったそうです。万歳は元々、中国で一万年で皇帝の寿命を示す言葉で「千秋万歳」の後半を取ったものでした。本来は皇帝に対する以外では使わなかった言葉です。諸侯の長寿を臣下が願うときは「千歳(せんざい)」を使っていたそうです。日本で「万歳」と発声するようになったのは1889年(明治22年)の大日本帝国憲法発布の日、青山練兵場での臨時観兵式に向かう明治天皇の馬車に向かって万歳三唱したのが最初です。それまで日本には天皇を歓呼する言葉がなく、出御にあたってただ最敬礼するのみでした。それが東京帝国大学の学生一同で皇居前に並び明治天皇を奉送迎しようという議が起こり、これに際して最敬礼では物足りないので歓呼の声を挙げようという話が教師の間で持ち上がったのです。当初は文部大臣森有礼が発する語として「奉賀」を提案していたのですが、連呼すると「ア・ホウガ(阿呆が)」と聞こえるという理由から却下されました(笑)そこで、帝国大学法科大学教授の和田垣謙三教授が提議した「万歳、万歳、万々歳」の唱和が決められたのです。ところが最初の「万歳」が高らかにあがると馬車の馬が驚いて立ち止まってしまい、そのため2声目の「万歳」は小声となり、3声目の「万々歳」は云えず終いに終わってしまいました。これを聴いた人々は「万歳」を再唱したと思ったようで、以後、めでたい時の歓呼の声として「バンザイ」が唱えられるようになり、「万々歳」は闇へと葬られたのです。衆議院解散時の「万歳」はよく取り上げられる話題ですが、衆議院の解散時に議員が「万歳」をした旨が記されているのは1897年(明治30年)におこなわれた「第11回帝国議会」での解散が最初でした。ただ明治期は本会議で解散詔書が読まれなかった場合もあり、解散時の流れは様々だったようです。その後、大正から昭和へと時代が進むにつれて、衆議院の解散時には、議長が本文のみを朗読→議員が「万歳」をするという流れが定着したようです。みなさんは「万歳三唱令」と云う文書の存在はご存じでしょうか?明治12年(1879年)4月1日施行の「太政官布告第168号」という趣旨の表記がされており、一見本物のように見えますが、実はそのような布告は実在せず、全くの偽文書なんです。この「万歳三唱令」は、その内容から、ある程度公文書の形式に通じた人物が作成したものと考えられていますが、なぜこのようなイタズラ文書が作成され、広まったのか、その作成者や作成の意図は全く不明なんです。ただ、この文書は他の政治的な偽書などとは性質が異なり、万歳の作法上の混乱を招くだけで、存在にあまり意味がありません。なぜ作られたのかも、よく分からない。噂研究専門の心理学者、佐藤達哉は、一部で広がった背景を「万歳には“お手上げ”の意味があるなど、どこかあいまいなところがある。そんなモヤモヤした人の気持ちに"三唱令"の文書がぴたりとはまり、受け入れられたのでは」と指摘しています。ここに定められている万歳の作法は「両手を真上に上げると同時に右足を半歩踏み出す」と一般的でない万歳で、布告日が書かれていないにも関わらず、番号が打たれています。本文・別紙のとおり明治12年4月1日よりこれを施行する。・右、勅旨を奉じ、布告する。・第一条:発声は、大日本帝国と帝国臣民の永遠の発展を祈って行うこと。・第二条:音頭を取る者は、気力充実・態度厳正を心掛けること。唱和の際には、全員心を一つにして声高らかに行うこと。・第三条:細部については別に定める。(実施要領を参照)実施要領1.直立不動で両手は指をまっすぐ下方に伸ばし体の側面にしっかり付ける。2.万歳の発声とともに右足を半歩踏み出し、同時に両腕を垂直に高々と挙げる。その際、両手の指をまっすぐに伸ばし両掌を内側に向けておく。3.万歳の発声終了と同時に素早く元の直立不動の姿勢に戻す。4.以上の動作を三度、節度を持ちかつ気迫を込めて行う。 熊本県の「熊本日日新聞」が、2017年に万歳三唱令を取り上げたところ、創作者を名乗る匿名の手紙が届きました。差出人は「正萬会議事務局」となっており、県内郵便局の消印があります。手紙によれば、万歳三唱例は筆者とその仲間が創作したものとのこと。1985年ごろにあった月例ゴルフコンペの打ち上げで、1人が突然右足を踏み出して万歳したところ、「面白い万歳」として仲間内で流行したと云うのです。さらに周囲からの問い合わせが続いたため文書化し、「どうせやるなら尤もらしく」と文案を練り上げていったと云います。万歳三唱令が全国に広まったことには、「国会図書館その他関係諸機関にご迷惑をお掛けしたことを少なからず反省」と述べる一方で、「全く悪気はなく、酒席の最後を盛り上げる一発芸と位置付けていた」と弁明しているのです。
Jan 31, 2018
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決闘と云うと、日本では宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島での決闘や、堀部安兵衛の高田馬場の決闘が有名ですが、もちろん今の時代にこんなことは行われていませんね。ところが今でも決闘および決闘への関与を禁止する法律がちゃんと存在するのです。「決闘罪ニ関スル件」はなんと明治22年に制定された法律で、それが連綿として存続しているのです。決闘罪は全6条からなり、決闘を申し込んだ人、申し込まれた人、決闘立会人、証人、付添人、決闘場所提供者など決闘に関わった者全員に適用されます。・決闘を挑んだ者、応じた者:6ヶ月以上、2年以下の有期懲役。・決闘を行った者:2年以上、5年以下の有期懲役。・決闘立会人、決闘の立会いを約束した者:1ヶ月以上、1年以下の有期懲役。・事情を知って決闘場所を貸与、提供した者:1ヶ月以上、1年以下の有期懲役。それとは別に、決闘の結果、人を殺傷した場合は決闘の罪と刑法の殺人罪、傷害罪とを比較し、重い方で処罰されます。また、決闘に応じないという理由で人の名誉を傷つけた場合は、名誉毀損罪で処罰されます。この法律は、後に内閣総理大臣になったけど、5・15事件で青年将校に殺害された犬養毅が1888年(明治21年)、当時新聞記者だったころ、決闘を申し込まれたことが契機となって制定されたのです。決闘を申し込んだのは、雑誌「日本人」社員・松岡好一。「日本人」は国粋主義の政治評論団体「政教社」が発行していた雑誌で、ここに松岡好一が高島炭鉱における惨状を誌上に掲載したのが事の始まりです。高島炭鉱と云うのは、長崎県にある世界遺産リストに登録されている炭鉱です。そこで、明治の初めに日本初の労働争議事件として「高島炭鉱事件」が勃発しました。当時の高島炭鉱の労働力は囚人などの下層所得者でした。しかもその実態はタコ部屋などの封建的、非人道的な制度に支配され、1日12時間労働という過酷な労働条件、低賃金、重労働にもかかわらずほとんど手作業とさんざんだったのです。「死んでも代わりはすぐ見つかる」といった認識がまかり通る地獄のような職場でした。そしてついに100人以上が参加した暴動になり、このことが雑誌「日本人」に掲載されたと云うワケです。これに反論したのが犬養毅が「朝野新聞」で書いた記事です。朝野新聞は民権派の政論新聞です。その犬養毅の記事に激怒した松岡好一は、三宅雄二郎、志賀重昂2人を介添人として犬養に決闘を申し込んだのです。しかし、犬養毅は野蛮な遺風であるとして応じませんでした。おりしも帝国議会議員である光妙寺三郎が「決闘は文明の華なり」という論説を発表し、決闘を賛美。一時世論は沸騰したのです。この事件に続いて決闘を挑むことが頻発し、ついに法律が制定されたと云うワケです。
Jan 30, 2018
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ある書籍に今はエル=アシュムネインと呼ばれるエジプトの古代遺跡ヘルモポリスのことが書いてあって、このヘルモポリス近くの村の洞穴に手品をする人の絵が残っているとありました。向かい合った2人の人物の絵で、ひとりはカップのようなものを伏せて何かを隠し、もうひとりが、それを不思議そうに眺めていると。ところが画像をネットで探しても全く見つからない。英語のサイトで同じような記述がないか探しても、これまた全く見つからない。古代エジプトにおいて、魔術の力のことは「ヘカ」と呼ばれました。このヘカの神格化というべき存在が、「ヘカ神」です。ヘカは子供の姿で表されました。エジプトの神話世界では、人間の魔術師たちは神や精霊の力を借りるのではなく、神や精霊たちと「同じ」力を用いて魔術を行っていたらしいです。ヘルモポリスの手品師も、こうしたヘカ神の力を借りてマジックを行っていたのかも知れません。しかしヘルモポリスの記事の出所が明らかになっていないので、件の書籍の記述が正しいのかも確証がありません。そこいくと時代が違うとは云え、日本の「手妻」は比較的出所も明確です。「手妻」は「和妻」とも呼びますが、日本に古来から主に口伝で受け継がれてきた伝統的な奇術です。日本の奇術師の演じる奇術は、「手妻」「西洋奇術」「中国奇術」の3種でした。現在は中国の伝統奇術を行うプロ奇術師はいなくなり、手妻、西洋奇術、そして和洋混成の奇術が演じられています。ちなみに明治になると日本や欧米に大勢の中国奇術師が流れてきましたが、彼らは政府に抑圧されてたからです。と、云うのも、清朝末期になると政府転覆を謀る連中が大勢芸人になりすまして潜伏しました。興行で村々をまわるときに、政府転覆を扇動するためです。それで清政府は芸人も反政府者もすべて同一とみなし、徹底的に弾圧したのです。そうした弾圧から逃れるために海外逃亡したのですな。和洋混成の奇術の代表が「袖卵」と「柱抜き」です。袖卵は、中には何も入っていないことを観客に見せた布の袋から卵が次々と出てきたり、袋の中で消えてしまったりするものです。布の袋が着物の袖のように見えるので袖卵といいます。柱抜きは、柱などにまわした両手の親指をヒモや針金などでしっかりと観客にしばってもらいます。ところがしばった部分が柱を貫通し、柱を両手の間に入れてしまったり、逆にはずしたりするものです。こうした和洋混成の奇術と違って、日本人が独自に完成させた奇術が手妻ですな。代表的なものとしては、紙で作った蝶を扇子であおぐと、まるで生きているように舞い飛ぶ「胡蝶の舞」、和紙が卵になってしまう「紙卵」、何もないはずの木箱の中からさまざまな品が出てくる「蒸籠」、さまざまな場所から水が噴き出る「水芸」などがあります。いずれの芸も奇術師の見た目の美しさが求められる点が西洋奇術とは大きく異なります。江戸古典奇術「手妻」By 藤山晃太郎そんな手妻の中で、いまでは文献しか残っていないスゴイ芸があります。「呑馬術」なんと生きた馬を飲み込む奇術なんです。 江戸時代の奇術の中で、雀、鳩、魚、鶏などの小動物を使う演目としては、「玉子、雀となる」「雀の首切り」「絵、雀になる」「籠より小鳥出る」「柿栗、鳩となる」「山の芋、鰻となる」「空中より魚を釣る」「笹の葉変じてドジョウとなる」「玉子、鶏となる」「生鴨、籠より二つでる」などがあります。牛や馬などの大型動物を使う奇術としては、1682年(天和2年)刊行の「絵本このころくさ」に「古の伝内が、緒小桶の曲という手品の中で、3本の筒から、初めは子どもの遊び人形を取り出し、その次に雁、鳩、鶉籠、行灯を取り出し、最後に牛を出現させて、舞台を3周歩かせた」と。また1826年(文政9年)発行の「還魂紙料」には、「塩屋長次郎は放下師にて太刀かたなは更なり、牛馬をさへ呑、眼くらましに長たり」と書かれています。この2つの奇術は、牛を使う点では同じですが、奇術的発想からみて決定的な違いがあります。それは、前者の牛を舞台に出現させることは大幕などを使えば可能ですが、後者の生きた牛や馬を小さい口から呑みこむことは、トリックの面から考えてみても全く不可能なんです。「信西古楽図」と云う中国唐時代の舞踊、演奏、軽業、手品などの散楽雑戯の様子を伝える絵巻物があります。この著書に「入馬腹舞」というのが著されています。「入馬腹舞」すなわち「馬腹術」とは、子どもが馬のお尻から体内に入って、口から出てくる術なんですな。もちろん実際にそんなことはできないので、馬の向こう側に黒幕を張り、お尻に入ると見せて幕に隠れ、移動して口側の幕から出てくる方法だと思います。これはブラック・アートという手法で、この場合は舞台を暗くすることと幕の後ろに子どもを補助する助手が必要なんです。子どもが馬のお尻から入り、馬の体内を通って口から出てきたように見える。「馬腹術」と「呑馬術」は、内容的には異なるが、雰囲気が似ていて、どちらも同じトリックではないかと思われます。「呑馬術」を語る上で、「塩屋長次郎」の名前を抜きには語れません。塩屋長次郎は放下師(手品師)として大坂で活動し、元禄時代に江戸に下って興行。名声を得ました。興行の演目は、空中から魚を釣りあげる技、からの箱からたくさんの品物を出す手品などを披露したあと刀を呑む技を見せ、そして、最後に馬を呑む術を見せたらしいです。「ぼうのみ」「剣呑み」は、特に仕掛けはなく、90cm の鉄棒や樫の棒、太刀を口から呑みこむ技です。顔をのけぞるようにして喉を伸ばし、食道、胃をまっすぐにすることがポイント。太刀の場合は、出来るだけまっすぐなものを使うのと、刃のあるものは前もって鞘を呑みこんでおくことがトリックです。ほとんどは仕掛けのない曲芸的な技ですな。その他に、ブラック・アートの応用で、背景に黒幕を垂らしておき、飲み込むように見せて、黒幕に開けた穴に入れていくと云う手法もとられました。さて、塩屋長次郎は「剣呑み」で観客の度肝を抜いた後に、追い打ちをかけるように「呑馬術」を見せたワケですが、「剣呑み」が効いているだけに「呑馬術」のトリックは案外容易くできたかも知れません。舞台に光沢のない黒幕を張り、床も黒一色にし、舞台上を真っ暗にします。舞台のかぶりつきには、何本かのロウソクの火を強く照らしておきます。舞台上で密かに操作をする助手は、全身黒子に身を固めます。このようにすると、観客は、ロウソクの灯りが近いために、その奥の暗がりが見えにくくなるからです。そのため舞台上に黒子の助手が現れても観客からは全く見えないのですな。このような手法を使い、「呑馬術」は、明るい色の衣裳を着た塩屋長次郎が白馬とともに舞台にあらわれ、次第に馬を呑みこむ演技に入っていくと云うワケです。呑んだように見せた部分は助手が馬に黒布をかぶせて、観客から見えないようにします。また、長次郎も馬を吸いこむように見せるために、V字形の皮か布製の仕掛けを使っていたと思われます。江江戸時代の見世物は、今日、私たちが縁日で眼にする見世物小屋とは決定的に違います。今よりはるかに巨大な存在であり、ショー、展覧会、サーカスという3つの要素が渾然一体となった、世界でもめずらしいものだったのです。
Jan 29, 2018
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コニーアイランドってのはニューヨークのブルックリン区の南端にある昔っからの観光地ですね。木製ジェットコースターのサイクロンとパラシュート・ジャンプは、ニューヨーク市の歴史的建造物として登録されてます。古い映画「ペーパー・ムーン」をご覧になられたでしょうか?ライアン・オニールとテータム・オニールが、詐欺師と亡くなった恋人の娘と云う役回りで、最後には実際の父娘のようになると云うお話し。この作品でテータム・オニールは、当時わずか10歳でアカデミー助演女優賞を手にすることになりました。この映画でおかしな会話をふたりがします。テータム・オニール演ずるアディに対して、テータム・オニール演ずるモーゼがこう尋ねます。アディが瓶の「Nehi」というブランドのジュースを頼むと、モーゼが「お腹が空いた?"コニーアイランド"でも食べるかい?」と。コニーアイランド?実は中西部では「ホットドック」のことをこう呼ぶらしいです。出自は確実ではありませんが、ニューヨークで生まれたホットドッグ。コニーアイランドの「ネイサンズ」によって、アメリカ全体に広がったので、そう呼ばれたのではないでしょうか。ただ、それだけのお話しなんですけどね(笑)なにも「ペーパー・ムーン」を持ち出すほどの話しぢゃないんですが。単に「ペーパー・ムーン」が懐かしかっただけ。DVD借りてこようかな。日本でホットドッグと云うと、あのコッペパンみたいな小型のロールパンにソーセージを挟んだものを指しますよね。だけど、英語でHotDog と云うと、日本で云うホットドッグと、ソーセージ単体の両方のイミを持ちます。それどころか、木の串に刺して揚げたアメリカンドッグ(コーンドッグ)もホットドッグと呼びます。中国の「熱狗」として売られているのも、日本で云うホットドッグ以外に、ソーセージそのものも指します。ドイツ語の「ケートヴルスト」も同じで、ホットドックとソーセージ両方指します。
Jan 28, 2018
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最新作のDVD「エイリアン: コヴェナント」を借りてきて観ました。監督は「エイリアン」第1作目を創ったリドリー・スコット。この映画は「エイリアン」の前日談として製作された新シリーズの2作目作品で、前作「プロメテウス」を観てないとお話しがつながらない。リドリー・スコットは「プロメテウス」で人類の起源について触れると云う壮大なテーマに取り組んだけど、この「エイリアン: コヴェナント」でまた先祖返りしたような。しかし今回はアンドロイドが非常に重要な役回りで、この辺にリドリー・スコットの工夫が見られますな。とは云っても、相変わらずのCG大放出で、もうどんな映像を見せられても驚かない。まぁ、劇場に行ったら、大画面の迫力に押されるのでしょうが。私的には同時に借りてきた「バンカー・パレス・ホテル」の方が同じSFでも趣味にあうなぁ。「バンカー・パレス・ホテル」は1989年の制作だから、CGなんてぜんぜん無縁なのですが、なんとも云えないレトロ感満載。しかもそれが戦後の東欧のような雰囲気で、これは日本の映画では描けない世界。この映画の唯一の難点はエンキ・ビラル監督による、フランス映画だと云うこと。以前にも述べましたが、私はフランス語のセリフが、なんか息を吸い込みながら話しているように聞こえて、非常に聴きずらいのです。題名の「バンカー・パレス・ホテル」、「バンカー」は「トーチカ」の意味。ここでは要人が集まる地下シェルターホテルのようなものが舞台ですが、原語では既にこの題名が軍事や政治を連想させています。空からは絶え間なく酸性雨が降り続け、政府軍と反乱軍の戦いが続く世紀末の物語。政府が壊滅寸前になる事を予知していたのか、大統領は政府高官達に招集をかけます。大企業オルム産業の総帥もそのひとり。黒い長いコートを着こなし、秘密のディーゼル機関車に乗って地下にあるバンカー・パレス・ホテルに到着します。姿を見せようとしない大統領の他、12名の要人が集っていました。アンドロイドのホテル従業員たちに迎えられ、ディナーをとる高官たち。このホテルに集まった大部分の人々は、既に古くなって継続の困難な体制でこそ存在価値があった人々です。大統領は粛正するために旧体制の要人を集めたのでした。そのために反乱軍のスパイや高官に変装したスパイが潜入。閉ざされた空間の中で高官たちは次第に誰が敵なのかを見失い、混乱に陥っていくと云うストーリーです。ついには絶対安全のはずのバンカー・パレスの壁まで崩れ始め、疑心暗鬼にかられて殺し合いを始める高官達。崩壊するホテルから1人地上に出されたのは不正にバンカー・パレスに潜入してた反乱軍の女性だけ。彼女を迎えるのは地下で死んだはずのオルムであり、補佐も運転手もみなオルムと同じ顔の人々。つまりアンドロイドたちによって占拠されてしまった地上の世界だったのです。この映画に登場するアンドロイドたちは、当時の映画としてもそうとう粗忽なつくり。こりゃあワザとそうしてますね。だいたい肥満体のアンドロイドって(笑)ところでアンドロイドと云うと、昨今はやりのAI(人工知能)がつきものですが、AIの研究なんてこの世にコンピュータが出現したときから続けられてきました。それは20世紀前半に流行した数学基礎論にもとずいて、アラン・チューリングとジョン・フォン・ノイマンと云う2人の天才学者が中心となって展開してきたものです。彼らの理論が現在のコンピュータでも連綿と続いていて、それを越えることはありません。つまり、最新のコンピュータ技術もしょせん20世紀前半の理論を改良しただけなのです。AIは「論理」と「知識」がキーワードになってます。人間の獲得した知識をどんどんコンピュータのなかに貯め込んでいき、それをもとに論理演算をしようと云うものです。昨今はやりのビッグデータもこれの応用に他なりません。だから将棋のありとあらゆる手を覚えたコンピュータが、人間の名人と呼ばれる人を打ち負かせることもできるのです。みなさんが、どこかのサイトで広告を観ると、次から関連した広告が自動的に表示されるのも、こうした技術の応用です。しかし、現在のAIはしょせんこの程度なんです。なにがって?例えば将棋を指すコンピュータは、パンは作れません。将棋以外の作業も教え込めば、またその作業はできますが、それ以外はやはりできない。つまり人間と根本的に違うのは、教えてないことは全くできないことです。特に「翻訳」がニガテなんです。なぜかと云うと、言葉と云うのは、人の解釈によって同じ意味でも表現がかわってきます。この「表現がかわってくる」と云うのがネックなんですな。昔と違って、現代の翻訳ソフトは単語の前後の文章から、適切な表現を得ようとしてるのでかなり正確になってきてますが、それでも「なんぢゃこらぁ?」ってな翻訳が払しょくできない。つまりコンピュータは過去の事例から、適切な単語を統計学的にチョイスしてるだけで、そこに感情の入り込む余地はないのです。「鳥は飛ぶ」と云う当たり前の知識でさえ、「ペンギン」だの「ダチョウ」だの「ニワトリ」だのを考えれば、必ずしも正しくはありません。「鳥は飛ぶ」と云う知識を無条件に前提にして演繹推論していくと、矛盾に陥るのです。「飛べない鳥」を列挙して例外扱いにすると、今度は「飛べるけれど、たまたまケガしてて飛べない」と云う対処ができない。しかし私たち人間の頭は、こんな問題は瞬時に解決できますね。考えることすら要らない。つまり人間の頭は「曖昧さ」において、コンピュータに対して絶対的な優位に立っているのです。ここでコンピュータと人間の根本的な違いをご披露しましまょう。コンピュータ:過去にしがみついて生きている人間:現在、今このときを生きてるど~云うことかと云うと、コンピュータのデータは全て「過去」のものだと云うことです。どんなに膨大であろうと、そこに「未来」は入っていません。ただ統計データから未来を「予測」しているだけで、「未来そのものではない」のです。それが証拠に、コンピュータが自発的に絵を描くことができますか?やっている「フリ」をしてるだけで、自分の意思で絵を描こうなんてこれっぽちも考えていません。だから映画「マトリックス」のように、ある日、AIが暴走し、人間を支配下におくなんてことは無いのです。あるとしたら、それを操作する人間が暴走してるだけで、AIは正しく処理をおこなっているのです。
Jan 27, 2018
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今どきの人には珍しいでしょうが、私ら子供のころは鯨と云ったら最もポピュラーなタンパク源でした。学校の給食にはクジラの竜田揚げがときどき出てきたけど、うちのヨメの大好物です。しかし1951年に実施された調査では、小学生が学校給食で嫌いな肉として挙げたのは豚肉16%、牛肉7%、鯨肉23%で、突出して鯨肉を嫌いと挙げている小学生が多かったのです。牛肉と違って、鯨の肉って安物って感が強かったですね。今でもスーパーなんかでも、「さらしクジラ」とか「クジラのベーコン」なんかは見かけますが、サスガに高級品の「さえずり(鯨の舌)」とか「尾の身(尾びれの付け根の霜降り肉)」なんかはスーパーに期待する方がムリですね。「さらしクジラ」は塩漬の尾羽毛を薄く切って熱湯をかけ、冷水でさらしたもの。「おばけ」とも云いますね。酢味噌でいただくけど、さらしクジラそのものに味がないので、あんまし美味しいと思わない。くじらの「コロ」ってのは全国版で食べられるのですかね?大阪では非常にポピュラーですけど、どうなんでしょう?鯨肉を揚げて油を絞った残りを乾燥させたもので、本来は捨ててたものですが、そこは大阪人。なんでも食べます。これっておでんにすると意外と美味しいんですよね。ユニークなのは他にも「クジラのベーコン」があります。あんなものは最も安い食材だったのに、いつの間にか高級品に成り上がってしまいました。当時でさえ、ど~見ても身体に悪そうな、まっ赤な食紅で着色して売られていましたね。クジラのベーコンは脂肪分の多い「畝須(うねす)」や「皮須(かわす)」などを塩水や燻液などに数日漬け、その後にゆでたもです。着色してないベーコンもあって、こっちは「白ベーコン」。対する着色してあるベーコンは「赤ベーコン」。これって酢味噌で食べるか、ポン酢におろしショウガやカラシを混ぜたもので食べるか。居酒屋さんでも置いてるとこ多そうですが、ど~してるのでしょう?ネット通販で見ると、ミンク鯨のベーコンで100g あたり2,900円ぐらい。仕方のないことだけど、大衆の食するものが、えらい高級品になったものです。着色してない「白ベーコン」は高級品で、「赤ベーコン」は大衆向きです。赤ベーコンに使ってるお肉はくすんで見栄えが悪かったので、食紅で着色して見栄えをよくしてたのですな。室町時代末期の「四條流庖丁書」という料理書に、食材としての魚の格付けとして、最高位に鯨、2番目が鯉、その他の魚は鯉以下として挙げられているそうですよ。そう云えばクジラの「大和煮」なんて缶詰もありましたなぁ。
Jan 26, 2018
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1910年、つまり明治43年に前代未聞の珍事件が世間を賑わします。「偽エチオピア皇帝事件」偽者のエチオピア皇帝とその随行団がイギリス海軍の戦艦に乗り込んできた詐欺事件です。イギリス南部にあるウェイマス港で停泊中のイギリス海軍戦艦は、イギリス海軍本部からの緊急の電報によりアビシニア(エチオピアの古称)の「王族一行」を迎える事になりました。王族一行は、まずロンドンのパディントン駅に向かい、外務省の要請だとしてウェイマスまでのお召し列車を仕立てるよう要求し、必要経費を支払いました。海軍はウェイマス港で、お召し列車から降り立った一行を出迎えましたが、この一行はエチオピア人に見えないお粗末な服装であったにもかかわらず、大多数の海軍軍人は偽者とは思わなかったのです。彼らはラテン語やギリシア語をもとにしたでたらめな言葉で話し、特に戦艦に乗り込むとあらゆるものを指さして「ブンガ、ブンガ!」と叫び、士官たちに偽の勲章を授与しました。その上、イギリス海軍も誤ってザンジバルの国歌演奏をしてしまうミスをしていながら、こちらも誰も間違いに気付いていなかったのです。彼らはロンドンに帰着するとデイリー・ミラーに真相と「王族」の写真を送りつけ、ネタ晴らしして真相が明らかになりました。やったのは後にヴァージニア・ウルフとして作家としてデビューすることになるヴァージニア・スティーブンやその弟であるエイドリアン・スティーブンをはじめ、ダンカン・グラント、アンソニー・バクストン、ガイ・リドリー、そしてコールの6人。全員、第2次世界大戦期まで存在し続けたイギリスの芸術家や学者からなる非公式な組織、「ブルームズベリー・グループ」に属する大学生達の仮装だったのです。つまり学生たちは今で云う愉快犯だったのですな。この事件を新聞各社は大きく取り上げ、面目を失った海軍はコールらの処罰を求めましたが、コールは海軍大臣室に呼び出されたものの、法律を犯したわけではなかったために罪には問われませんでした。その後、偽者に乗り込まれた戦艦は第1次世界大戦において、ドイツの潜水艦U-29を体当たりで撃沈したのですが、その際に送られた祝電には「ブンガ、ブンガ!」とあったのです(笑)この「偽エチオピア皇帝事件」の舞台となったのが、当時、革新的と云われた戦艦「ドレッドノート」です。革新的と云うのは、とにかくそれまでの戦艦のイメージを完膚なきまでに払拭させるド・デカさです。とにかく「本艦1隻で従来艦2隻分」の戦力に相当すると云いますから、ハンパありません。さらに艦橋に設置した射撃方位盤で統一して照準することで命中率が飛躍的に向上。長距離砲の命中率はそれ以上でありました。また英国の従来の戦艦の速力がレシプロ機関で18ノット程度なのに対し、蒸気タービン機関を装着していたドレッドノートは21ノットの高速が出るスーパー戦艦だったのです。ドレッドノートの登場は、ドレッドノート革命と呼ばれる、近代軍艦としての戦艦の設計に革新的な影響をもたらしました。本艦以前の戦艦をすべて旧式と認識させる一大変化を発生させたのです。とくにロシアのバルチック艦隊を破って自信をつけていた日本海軍が受けた衝撃はことのほか大きかったのです。日本政府はイギリスにドレッドノートを上回る戦艦を発注しました。それが戦艦「金剛」です。日本では、この「金剛」以降の戦艦を「ドレッドノートを上回った」ことから「超ド級」と呼ぶようになったのです。従来の常識を打ち破るほどずば抜けたスポーツ選手などを指して「超ド級の実力」なんて表現はここから来ています。一般的なフォークギターのサイズ「ドレッドノート型」(余りくびれていない)も「戦艦ドレッドノート」に因んでいます。
Jan 25, 2018
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つくづくチェコスロバキアのアニメーション監督、カレル・ゼマンの作品を観ると、映画と云うのは単にリアリズムを追及するだけでは成り立たないと云うのが分かります。カレル・ゼマンは「未来世紀ブラジル」や「12モンキーズ」「Dr.パルナサスの鏡」を創った巨匠テリー・ギリアムや「アリス・イン・ワンダーランド」や「シザーハンズ」を創った、これまた巨匠のティム・バートンに最も影響を与えた監督です。彼が監督した「クラバート」は宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」の元ネタとしても知られています。カレル・ゼマンは、戦後すぐチェコのモラヴィアにあった人形アニメの国立スタジオに所属し、アニメーションの仕事をはじめました。ジュール・ヴェルヌの小説の映像化で知られた監督です。ご覧のように、ハリウッドのSFXとは全く異なっています。大道具も背景もほとんど絵画ですね。ところが、この絵画が極めて繊細な美意識を誇示していて、ひと味もふた味も違う、独特の味わいの映像を作り上げました。よく見るとその内容は、無邪気さや繊細さの裏につねにシュールな感覚が満ち溢れています。カレル・ゼマンが日本に最初に紹介されたのはガラスの踊り子とピエロの悲しい恋を描いた詩的短編「水玉の幻想」と、ヴェルヌが予見した最終破壊兵器の秘密基地での特撮アドベンチャー「悪魔の発明」でした。「水玉の幻想」は、たんぽぽの種がピエロになり、やがてバレリーナに恋をするが、彼女は振り向いてくれないと云う悲しいラブ・ストーリーです。登場する人物やセットはなんとすべてガラス製という意欲作なんですな。昔懐かしの絵入り本をめくるような感覚がカレル・ゼマンの世界です。書き割りスタイルのセット、レトロなデザインの切り紙アニメに人形アニメ、実写とアニメの合成と多彩なテクニックを駆使して生み出す幻想空間がここにあります。プラハにはカレル・ゼマンを記念したミュージアムがあります。観光客で賑わうカレル橋の小地区側の橋塔のすぐ近く、橋のたもと付近にあります。
Jan 24, 2018
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みなさんは渡辺守貞と云う人物をご存じですかぁ?たいていの人は、「それ誰?」でしょうね。渡辺守貞は日本で運転免許をとった第一号です。三井財閥を築いた三井高保と云う男爵のお抱え運転手だった人です。日本に自動車が登場したのは1898年(明治31年)です。フランスからの車が築地~上野の間で試運転されたのが最初とされてます。このころは輸入に多額の費用が掛かるため、成金と呼ばれた富裕層や、一部の高い身分の人物しか所有できなかった代物。まさに身分の象徴となっていました。しかし当時は自動車の数そのものが少なく、免許制度もなかったので、運転者は好き勝手に乗り回していたのです。1907年(明治40年)になると、警視庁が自動車取締規則を公布し、運転を免許制にしました。渡辺守貞は明治26年に三井家の馬車の馭者(ぎょしゃ)として雇われたのですが、三井家が自動車を購入したので、引き続き運転手となった人です。で、渡辺守貞は無事に試験に合格し、晴れて日本で運転免許取得の第一号となったのです。そもそも三井家がなぜ自動車を買ったかと云うと、それは日露戦争と関係があるのです。日露戦争は明治37、38年です。そのときに三井家の馬はぜんぶ軍隊に徴発されてしまったのですね。それで新たに自動車を買うことになったのですが、それは「ホワイト スチーマー」と云うアメリカはオハイオ州クリーブランドで生産されてた蒸気自動車だったのですな。当時は自動車学校など無く、無免許で警視庁まで行き、警察官を隣に乗せて試験をしていたようです。では、誰が運転を教えたの?渡辺守貞は、当時三越にいた井上公爵の運転手だった中島と云う人物と大隈侯爵の運転手の林と云う人物に教えてもらったそうです。林と云う人は外国人に教えてもらったとあります。この頃、日本で走っていたのは輸入車のみで、輸入車販売会社の関係者が運転を教えていたのが一般的だったようです。有栖川宮家でも、当時は車を買ったものの運転手がおらず、有栖川殿下自らが運転していたほどだったとあります。さて、無事に運転免許第一号となった渡辺守貞と云う人物...実は後日談がついてくるのです。渡辺守貞が免許をとってから、14年後の1921年(大正10年)、東京の上野駅構内の踏み切りで、自動車がエンストし貨物列車が衝突すると云う事故がおこりました。運転手は難を逃れて無事でしたが、この運転手と云うのが件の渡辺守貞。彼は、この事故のため、運転免許を没収されてしまいました。これが日本初の自動車運転免許取消となったのです。つまり渡辺守貞は免許を取ったのも日本で第一号ですが、取り消されたのも日本で第一号となった稀有な人なんです。
Jan 23, 2018
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ハイドン、ベートーヴェンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人であるヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの作品に「ピアノ、クラリネットとヴィオラのための三重奏曲」と云う曲があります。この曲の愛称は「ケーゲルシュタット・トリオ」。由来は、ボウリングの原型とされる「ケーゲルン」に興じながら作曲したという云い伝えによるものです。ボウリング?ボウリングって、あのレーン上にピンが10本並んでいて、プレイヤーはピンを狙ってボールを転がし、ピンを倒すゲーム?だってモーツァルトが生きたのは18世紀。こんな時代にボウリングがあったのでしょうか...実はあったのです。それどころか、紀元前5,000年頃の古代エジプトの遺跡から、木でできたボールとピンが発掘されているのです。発掘されたボールとピンは、現在イギリスのロンドンの博物館に展示されています。古代エジプトではレーンの両端にプレイヤーがいて、両方からボールを投げてたらしいです。もともとボウリングは倒すピンを災いや悪魔に見立てて、それを沢山倒すことが出来たならば、その災いなどから逃れることが出来るという一種の宗教儀式だったのです。やがてボーリングはエジプトから地中海に広がり、イタリアで「ボール」を意味する「ボッチ」と云うゲーム、フランスの「ペタンク」と云うゲームなどに発展していったのです。しかし倒すピンの数やそれに応じた並べ方も場所や地域によってさまざまでした。それを統一して、ボウリングの基本的なルールを作ったのは、中世ドイツでプロテスタントが誕生した宗教改革の中心人物であるマルティン・ルターです。彼が作った9本と云う決められた数のピンを倒すと云う行為から、やがて「ナインピンズ・ボウリング」と云うゲームが誕生し、宗教家の間では人気のあるゲームとして広まったのです。ちょっと待って!それぢゃあ現代の10本のピンは誰が決めたの?それはこう云うことです。17世紀にアメリカ移住が盛んになると、多数の清教徒も移住しました。それによってアメリカでもボウリングが盛んになったのです。しかしナインピン・ボウリングは西部開拓時代に制定された禁酒法下において、酒をめぐる賭け事に利用されたため禁止になりました。それに反発した有志がピンを1本足し「テン・ピン・ボウリング」にしたことで法律の「ナインピンボウリングを禁ず」を回避していったのです。それが現在のスタイルになったと云われています。
Jan 22, 2018
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LINEやファックスが発達した現代で電報ってまだ使うシーンあるのでしょうかねぇ。私らの世代では結婚式の祝電が思いつくけど、久しく結婚式に出席してないので、現代はど~なってるのか知るスベがない。だいたい電報=モールス符合でツートンやってたなんて思い込みあるけど、あんなものは商用通信ではとっくに廃れていて、アメリカでは1846年に電報を自動的にタイプする器械が発明されてます。要するにテレタイプのことですな。テレタイプ自体が過去の遺物ですが、私がタイに行ってた70年代には海外との通信に盛んに使われていました。テレタイプは専用端末で打った文字を、一旦さん孔テープに作っておいて、そのさん孔テープを機械にセットして送信ボタンを押すと送信。それが受信する側では、また文字に変換して自動的にタイプするシステムでした。通信に使うのは電話番号でしたっけね?アメリカでは大陸横断電信線を敷設したウエスタンユニオンが2006年に電報事業から撤退したので、もう電報そのもののシステムが無くなったのかと思ったら、AT&Tなどの会社でまだ電報サービスが続けられているのですね。アメリカでの電報の歴史は、サミュエル・モールス(モールス符合の)が1844年にワシントンからボルティモアのアルフレッド・ベイル氏へ最初の電報を打ったことから始まりました。この時の電文は「神が造り給いしもの」でした。もちろんこの頃はモールス符合でツートンです。あの西部劇や昔の戦争映画にでてくるヤツ。余談ですが、日本初の電信による公式な送受信記録は、1854年のペリー2度目の来航の際に遡ります。ミラード・フィルモア アメリカ大統領から江戸幕府へ1/4サイズの蒸気機関車と共に贈られた「エンボッシング・モールス電信機」によるものでした。エンボッシング・モールス電信機は受信側で信号が紙テープへ記録されるもので、この電信機のセットで1.6km の電線を用いて送信されたのです。電文は「YEDO,YOKOHAMA」(江戸、横浜)でした。画像は「逓信総合博物館」に展示されてるエンボッシング・モールス電信機です。日本で電報サービスが開始されたのは1870年(明治2年)です。通信は東京-横浜間のみでした。その翌年、1871年には大北電信会社によって、長崎-上海、長崎-ウラジオストク間の海底電信線が敷設されて、国際電報が開始されます。大北電信会社と云うのは日本の会社のように思いますが、実態は「グレート・ノーザン・テレグラフ株式会社」と云うデンマーク資本の会社です。それ以降、日本の国際電信事業は長らくこの会社が独占していたのです。国内で電報の利用数が激増するのは第一次世界大戦による好景気にわいた1914年ころからです。1934年には「年賀電報」、1936年には「慶弔電報」のサービスが開始されました。これらのサービスは文例番号を選択して依頼すると、その番号に応じた文章で受信して配達してくれる仕組みですね。それによって文字数が少なくて済み、料金が割安になるワケです。これって要するに昔流行った「ポケベル」での数字の語呂合わせでメッセージを送るのと似ていますね。と、云うてもポケベル自体をご存じない若者の方が多いのかな?こんなん流行ったの90年代前半ですからね。「となりのトトロ」にも電報はでてきます。お母さんが入院してた七国山病院からの電報。「十九 シチ_コクヤマ マツゴ_ウ_ツカモリヨウコ_クサカベ タツオ殿_レンラク_コウ」シチコクヤマは七国山病院のある地名のこと。「マツゴ ウ」は草壁一家の住んでる「松郷」。「ツカモリヨウコ」は「塚森(トトロの住んでる)」の横。お母さんの容態に何かあったのかと「ドキッ!」とさせられるシーンです。昔の映画では、よく「チチキトク スグ_カエレ」なんてのが定番のように出てきましたな。そうそう思い出しました。電話で電報分を云うとき"アサヒの「ア」"とか"ヘイワの「へ」"とか通話表を使いましたね。間違いを防ぐために。私は最初、海外でアブリベーションとして"アルファの「A」"とか"マイクの「M」"とか英語を先に覚えたので、日本に帰って来てから、また日本語の通話表を覚えるのに苦労した経験があります。
Jan 21, 2018
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お店でトンカツ定食頼むと、山盛りの千切りキャベツ。これって定番ですよね。うちの近場にもキャベツ食べ放題ってお店あるけど、今ぐらい野菜が高騰してたら、お店としてはタマランでしょうね。キャベツとトンカツの組み合わせって、老化防止や疲労回復に効きます。なんと云っても、キャベツは食物繊維の含有量がハンパない。それに、トンカツの高カロリーをキャベツが燃やしてくれるし。脂料理のお供にピッタシですな。ただし生キャベツの繊維は消化が悪いため、食べ過ぎると腹痛を起こすおそれもあります。お店でメインの野菜にキャベツを使うのは別の理由もあります。キャベツは、季節を問わず、1年中確保しやすい野菜だからです。シーズンに関わらず、安定確保と云うのは、お店をやってたら必須条件のひとつです。そしてキャベツをトンカツと一緒に食べることによって、満腹中枢を刺激し、食べすぎを防いでくれます。私やヨメは食が細いのもあって、いくら食べ放題と云っても、お店で追加したことない。それどころか、最初に出されたキャベツだけでも食べきれない。ところでキャベツを生食するってのは日本ぐらいってご存じでしたか?欧米だったら、サワークラフトとか塩漬けキャベツのように加工して食べることが多いでしょう。キャベツはもともとヨーロッパ原産の野菜でした。古代からイベリア人が食べていた原種がケルト人に伝わり、それがヨーロッパ中に広まったとされてます。昔は野菜より、むしろ薬草として用いられ、古代ギリシャ、古代ローマでは胃腸の調子を整える健康食として食されていました。野菜として栽培が広まったのは9世紀ごろのことです。日本には当初、観賞用として伝わりました。ビタミンCや抗潰瘍成分は、熱に弱く水に溶けやすいので、生のまま食べるのが一番効果的なのですね。キャベツはアクが少ないので生食に向いてるワケですが、冒頭で述べましたように消化が悪いので、「よく噛んで食べる」ことが重要です。ところで、キャベツを生のまま提供しようと思いついたのは誰かご存じですか?それは銀座にある洋食レストラン「煉瓦亭」の2代目、木田元次郎です。煉瓦亭は1895年(明治28年)創業の老舗洋食屋ですが、日露戦争のとき、コックが徴兵されて手薄になったときのこと。それまでトンカツと云えば温野菜だったのを、木田元次郎が手間を省くためにキャベツを千切りにして出したのがはじまりです。これがお客さんには大好評となり日本人に定着していったのです。だいたい煉瓦亭ってのは、生キャベツどころぢゃない。メインのトンカツ(カツレツ)を公案したのも木田元次郎。1899年ごろ、フランス料理の「カットレット」からヒントを得て考え付いたのです。カットレットは仔牛や豚の切り身を平たく伸ばしたものに、小麦粉、溶き卵、パン粉をまぶしてバターで焼いた料理。木田元次郎は、いちいちバターでソテーするのは面倒とばかり、フライのように油で揚げたのですな。これがたちまち評判となって日本全国に広まったのです。トンカツの「トン」はもちろんトン=豚のこと。カツレツがトンカツにかわったのは、昭和に入ってからです。
Jan 20, 2018
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今週は寒さが和らいでいるけれど、また来週になったら寒さがブリ返してくるそうですね。と、云うか、寒さはこれからがホンバンでしょうし。そんなとき重宝するのが使い捨てカイロ。私はよほどでないと使わないけど、中には無くてはならない冬の必須アイテムの人も多いでしょう。特に、営業職とか屋外で仕事する人は重宝する便利グッズ。なのですがぁ、使い捨てカイロって暖かい部屋なんかに入ったら無用の長物。なのに何時までもポカポカ、アホみたいに温め続けて...なんせ通常サイズだと軽く10時間以上、温かさが持続するのだから。だったら、途中でいらなくなったら、カイロの発熱を抑えればいいのです。簡単な方法でね。それはチャック付ポリ袋などを用意しておいて、カイロが要らなくなったら、それを袋の中にポイ。それで袋の口を閉じればいいのです。ポリ袋が用意できなきゃ、カイロが入ってた袋を、開けるときにビリビリに破かず、口を折れば再び閉じられるようにして取っておけばOKです。破ったところは、カイロを戻してから、ガムテープとかセロテープで閉じてね。その袋をビニール袋に入れて、口を縛ればパーフェクト。カイロは中の鉄が酸素と反応することで熱を出すので、なるべく酸素に触れさせなければ、その間の発熱はストップさせることができるのですな。これが発熱ストップの原理です。再び使うときは、袋から出せば、発熱を再開します。カイロの熱の持続時間はかなり消耗してても、短時間であれば復活するハズです。「男はすき焼きを焼きたがる」。これは池波正太郎の著書「男の作法」に書かれてたフレーズ。たしかにそうだ。すき焼きと云うものは、男が作るものだと勝手に決めてるフシが。みなさんはすき焼き、関東風ですか?それとも関西風?関東風と云うのは肉も野菜も一緒に入れて、割り下で味付けする食べ方ですね。対する関西風は砂糖と醤油で先ず肉を「煮て」、あとで野菜を入れるやり方。と、云うのは関東人の誤解ではないですかねぇ。私は、先ずお肉を一枚きっちりと「焼き」ます。これは「犠牲肉」と云って、風味をつけるために犠牲にする肉です。それが焼けたら、初めて大量のお肉をブチ込んで、砂糖とお醤油で味付けしません?関西の人。だってすき"焼き"でしょ?すき"炊き"ではないのですから。だいたい関東でやる「豚肉」ですき焼きって、関西では考えられません。すき焼き=牛肉に決まってますがな。ってのも関西人の思い込みかな?関東だってすき焼きは牛肉ですよね。しかし割り下を使うのは関西では「京都」ぐらいしか思い当たらない。まぁあそこ(京都)は関西と云うても、私らが食べるやり方とぜんぜん違いますからねぇ(笑)池波正太郎に云わせると、野菜は「ねぎ」だけらしい。「しらたき」は水が出てくるから(割り下が)狂ってしまう。豆腐だって水が出るので、入れるにしてもホンのちょっと。ねぎも水分あるけど、ねぎはお肉に合うからいいらしい(どないやねん!)。それを斜めに切らないで、ブツ切りにするそうです。それを鍋の中に縦に並べると云うのです。ねぎは巻いているから、その隙間から熱が上がって来て、柔らかくなると。これを横に寝かしたら、なかなか火が通らない。なぁんて云ってますが、それぞれの家にそれぞれのすき焼きがあって、作る人それぞれにも独自の作り方がある。当たり前のことですが、それぞれの好みで好きなように作ればいいのです。「麩」って入れません?私は独断と偏見で、たまに「仙台麩」をすき焼きに入れることがありますよ~関西人でこれやってる人は珍しいのでは?と云うことで、昨夜は仙台麩入りのすき焼きを作りました。ヨメは仙台麩をひと口も食べません(笑)
Jan 19, 2018
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世界最大の楽器と云えばパイプオルガンかな?なんせ鍵盤の数だけパイプを揃えなきゃならない。それに加えて基準音高や音色の違うパイプ群を複数備えていることが多いから、ど~しても規模が大きくなりますね。特に17世紀~18世紀前半のバロック時代に北ドイツでは、新教が大オルガンを建造することを競い始めるようになり、巨大化が加速されましした。この時代に伝説の巨匠とされるアルプ・シュニットガーやジルバーマン兄弟が活躍したのです。規模ではパイプオルガンに敵うべくもありませんが、これもなかなかのものです。世界最大の弦楽器と云われてる「アース・ハープ」。弦の長さは300m に達し、チェロと同じように動作します。演奏者は、滑り止めのロジンを手袋に塗り、弦の間に立ち演奏するそうです。アーティストでありミュージシャンでもあるウィリアム・クロース(上の画像)さんによって発明されたアースハープはギネス世界記録にも認定されています。「クリサリス」は、クリスフォスターによって1976年に創られた楽器です。アステカ時代の太陽の石をモチーフにして作っており、2つの円形響板にそれぞれ82の弦が自転車のスポークのように張られています。こっちは古楽器の1つ「セルパン」。かつて「題名のない音楽会」で、「絶滅危惧の楽器」として紹介されたことがあります。セルパンは、フランス語でヘビという意味と云う意味です。語源はその形状を見れば分かります。これでも立派な金管楽器なんですが、19世紀以降はほとんど使われていません。19世紀にはオフィクレイドに取って代わられ、さらにオフィクレイドはバルブ化された金管楽器であるチューバ・ユーフォニアムによって取って代わられたと云うワケです。もうひとつ、奇妙な楽器を。これもなかなかに大きいです。「ヤイバハール」。一部のサイトではこの楽器をトルコ・イスタンブール在住のゴールケン・センさんが創り出したと紹介されてますが、実際には中東で何世紀にも前に現れた最も奇妙な楽器のひとつです。細長い棒の部分には弦が張られており、その中央からはまた2つの太い弦が伸び、円状のドラムへとつながっています。細長い部分の弦が弾かれると、振動が太い弦を伝わってドラムに広がっていき、まるでエコーのように音が空間へと伝わる仕組みです。
Jan 18, 2018
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ジャンケンは日本で拳遊びを基に考案されたものですが、現代では世界的に普及が進んでいます。ジャンケンって、昔からあるように勘違いしますが、意外に新しく、江戸時代から明治時代にかけて誕生したものなんですね。もともと日本には平安時代から「三すくみ拳」と云うものが存在してました。三すくみ拳は虫拳でヘビ、カエル、ナメクジの三すくみです。・人さし指はヘビ・親指はカエル・小指はナメクジルールはジャンケンとほぼ同じで、カエルはナメクジに勝ち、ナメクジは蛇に勝ち、蛇はカエルに勝つというものです。この三すくみ拳からジャンケンが考案されたとされてます。「狐拳」と云うのもあります。「藤八拳」とも云い、天保時代に花村藤八という売薬商人が「藤八-五文-奇妙」という呼び声で客引きをしていたのを、通人が狐拳のかけ声に使い始めたと云われています。これは狐は猟師に鉄砲で撃たれ、猟師は庄屋に頭が上がらず、庄屋は狐に化かされる、という三すくみの関係を使って、勝負を決します。通常は二人が向かい合い、正座して行ないます。・狐 : 掌を広げ、指を揃えて頭の上に相手に向けて添え、狐の耳を模する。・猟師 : 両手で握り拳を作り、鉄砲を構えるように前後をずらして胸の前に構える。・庄屋 : 正座した膝の上に手を添える。猟師は狐に勝ち、狐は庄屋に勝ち、庄屋は猟師に勝ちとなります。ところで、ジャンケンに勝つ方法ってご存じですか?ジャンケンは相手の心理を読む心理戦です。まず、「あいこ」になったとき、次に「同じ手」を出す人はかなり少ないです。そして「あいこ」になると、自分が出した「あいこ」の手に勝つ手を出す傾向が強くなるのです。つまり、もしパーで「あいこ」になったときは、相手は次に「チョキ」を出すことが多いので、こっちは「グー」で勝てる可能性が上がると云うことです。何度も「あいこ」が続くのは、お互いに「自分の手に勝つ手」を出しているからです。そうなると、必勝の手は「相手が出した手に負ける手」を出すことになります。そうすれば、かなり高い確率で勝てるハズです。もうひとつは、人にもよりますが、「チョキ」はなかなか出しにくい面もあります。パーとグーは突然「ジャンケン!」と云われてもとっさに出ますが、「チョキ」は指を2本出すために少し頭脳を使うためです。そのため、突然「ジャンケン!」と云われた場合は、グーかパーが多いので、そう云う場合は「パー」を出せば最悪「あいこ」で済みます。n人でジャンケンをしたときの「あいこ」になる確率は「全体からあいこにならない確率」を引いてみれば分かります。実際に「あいこ」になる確率は次式で求められますが、面倒くさいので止めときますね(笑)
Jan 17, 2018
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先日、TVのニュース特集でやっていましたが、外国から来た人たちが直面する問題のひとつに「印鑑」があると。確かに、現在、日常生活で印鑑を必要とするのは日本と韓国ぐらいです。中国は公印や企業印はあっても、一般にはサインで済ましています。韓国も徐々にサイン・オンリーになって、ゆくゆく印鑑を使うのは日本だけと云う事態も。そのTVの特集では、在留外国人で印鑑をもたない人は銀行口座が開けないと閉口してました。しかし、また、印鑑を持つのが彼らのステータスみたいで、極めて強い憧れをもっているのですね。外国人が印鑑を作る場合、問題になるのが「字数」です。と、云うのは、外国人によってはミドルネームを持っている人がいます。また、「本名」以外に日本で暮らすために「通称」を持っているケースも多くあります。外国人の場合は、この通称でも住民登録ができるのです。と、なるとややこしい。・アルファベットそのままでもOK。・日本人と同じように氏名だけの印鑑は「カタカナ表記」でも「通称」で漢字が混じっていてもOK。・「氏」だけの印鑑は「氏名」と同様に「カタカナ表記」でも「通称」で漢字が混じっていてもOK。・同じように「名」だけの印鑑もOK。・「氏+ミドルネーム+名」はもちろんOK。・「氏とミドルネーム」や「ミドルネームと名」もOK。ですが、すべて「イニシャル」とか「ミドネームのみ」は遊びで作る分にはいいですが、住民票なんかには使えません。「氏名と通称の組み合わせ」もダメです。どっちにしても、どれをとっても日本人よりかなり文字数が多くなるケースがほとんどらしい。なかにはベトナム人のように、名字に「グエン」のつく人が人口の40%も占めていて、フルネームでないと判別できないと云うのもあります。となると、印鑑のサイズが普通の日本人が所有するのより大きくなります。実際に作った外国人の印鑑を見ると、日本人サイズより一回りも二回りも大きいものがほとんどです。印鑑証明をする印鑑の大きさには決まりがあって...・一辺の長さが8mm の正方形より大きく・一辺の長さが25mm の正方形に収まるものとされています。まぁ、25mm 角以上の印鑑を作る人も居ないでしょうが、外国人の印鑑には書類の「印」枠内に収まらないのも多々あるらしい。とまぁ、なまじ印鑑文化をもたない人が印鑑を作るとなると、相当な苦労があるみたい。それを乗り越えて、初めて自分の印鑑を手にした外国人の喜びようったら(笑)ところで、安い印鑑を三文判と云いますよね。あれは文字通り、江戸時代の通貨「三文」で買えるような粗末な印鑑だったからです。比較的物価が安定していた文化文政時代(1820年頃)の物価と比較してみると、一文が平均30~35円くらいの価値だったようです。つまり、三文とは現在の100円くらいという計算になります。その後、三文と云う言葉は、実際の金額に関係なく、安価で粗末なものにつけられるようになりました。ちなみに、現代の三文判によく使われる素材に「カゼイン・プラスチック」があります。この「カゼイン・プラスチック」の原料はなんと「牛乳」なんです。バターや生クリームを作るために脂肪分が取り除かれた牛乳を脱脂乳と云いますが、この脱脂乳を加工してできるのがカゼイン・プラスチックなんです。あのぉ~脱脂乳って、私ら子供のころは給食の牛乳だったんですけど...
Jan 16, 2018
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1963年に公開された映画「博士の異常な愛情」の正式タイトルは「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」と云う異常に長いものです。監督は天才スタンリー・キューブリック。主演はピーター・セラーズ。ほんとうに何十年かぶりでこの映画を観なおしてみました。やはりキューブリックはスゴイ。50年以上も前の作品なのに、きっちり今日の出来事のように描かれている。この映画の冒頭にアメリカ空軍により「映画はフィクションであり、現実には起こりえない」と字幕が出ます。ワザと冒頭に出してますなぁ、キューブリックは。出していながら、いかにもウソくさいのを狙って。優美なメロディで始まったタイトルは、その音楽とは裏腹にB52戦略爆撃機の空中給油シーンです。その映像を背景に、軽妙な字幕タイトルが表現されてるのが、逆に背筋をぞっとさせます。物語はロシアがまだソ連と呼ばれていた時代。キューバ危機によって極限状態に達した冷戦の真っただ中の物語です。アメリカ空軍は、万一のためにB52を多数24時間絶え間なく飛行させていて、それぞれの爆撃機には原子爆弾が搭載されていました。その爆弾の総容量は第二次世界大戦で使用された全爆弾、砲弾の16倍の破壊力があったのです。核兵器によって保たれている「恐怖の均衡」...今の北朝鮮とアメリカの関係にピッタリ当てはまりません?どちらも核兵器を使ったら終わりだと云うことは分かっているけど、かと云って自国の軍事力を維持するには核兵器を手放せない。そんなときに、ひとりの核兵器を誘導できる人物がとち狂って発射ボタンを押してしまったら...この映画は、偶発的な事故が重なって、不幸なことに世界中で核爆弾が破裂するところで終わっています。なんか映画だけのお話しぢゃないんですよね。まして北朝鮮と云う、日本と直接関係してくる国が相手では。欧州の各国ではイスラム組織より、北朝鮮の方が厄介との見解を示しているのに。アメリカのバープルソン空軍基地の司令官リッパー准将が精神に異常をきたし、指揮下のB52戦略爆撃機34機にソ連への核攻撃を指令。そしてそのまま基地に立て篭もってしまったのです。この人物には実在のモデルがいます。ケネディ大統領のキューバ危機の際、全面核戦争を覚悟してでもキューバ空爆を行うべきだと主張したカーチス・ルメイ空軍参謀総長です。そのとき基地にいたNo.2はイギリス空軍から赴任していたマンドレイク大佐(ピーター・セラーズ)。リッパー准将に拉致されて、話し相手をさせられます。全ての爆撃機は敵の謀略電波に惑わされないために特殊暗号装置に接続されていて、それをコントロールできるのはリッパー准将ただひとり。つまり気のおかしくなった軍人が、いっさいの爆撃機をコントロールしてるワケです。対するアメリカ政府首脳部は機密情報の塊であるペンタゴンの戦略会議室にあえてソ連大使を呼び対策を協議します。ソ連大使いわく、ソ連が万一核攻撃された場合は、地球上の全生物を放射性降下物で絶滅させる爆弾「皆殺し装置」が作動すると告白します。なんとか「皆殺し装置」を解除してくれとアメリカ大統領(ピーター・セラーズ二役)。ソ連大使「それはできない。すべて自動化されていて、解除しようとするとその時点で自爆するんだ」アメリカ大統領「なんで、そんなモン作ったんだ!」ソ連大使「その方が、人を介して守るより安上がりだから」アメリカ大統領はソ連の大統領と直接電話で対策を協議しようとしますが、ソ連の大統領は酔っぱらっていて話がてんでバラバラ。アメリカ大統領「なんとか、そちらでアメリカの爆撃機を全部撃ち落してくれ!」リッパー准将に劣らぬ反共主義者のバック・タージドソン将軍(ジョージ・C・スコット)「そんな(爆撃機を打ち落とす)ことソ連のボケナスにできる能力はありませんよ。それより報復される前にソ連に先制攻撃するほうが先決。この際、ソ連を皆殺しにしてしまいましょう」爆撃機を呼び戻す方策の会議がどんどん違う方向にいってしまいます。バック・タージドソン将軍は熱弁中に勢いあまって後ろに転ぶも立ち上がり、なおも熱弁を続けます。これはヒトラーが演説中に興奮したときの癖と同じなんですな。こんなバカげた協議が続いている間も爆撃機は進撃を続けています。飛行をなんとか食い止めなければなりません。そこで気の狂ったリッパー准将のいる空軍基地に空挺部隊を動員するのですが、准将が基地内の兵隊に戦時体制の指令を出していたため、味方同士による戦闘が開始されます。このシーン、まるで実戦のルポを見てるみたいに、妙に生々しいのです。いっぽう1機の爆撃機の中では、実際にソ連基地に核爆弾を落とす準備が着々とすすんでいました。このB52爆撃機、当時内部構造は軍事機密であったためアメリカ国防総省の協力が得られませんでした。そこで仕方なくB29とB52の写真を参考にコックピットを作り出したのです。アメリカ空軍幹部が撮影終了後にセットに招待された際、「それはデータ分析装置のような小さな黒い箱さえ、全て正確に作られていた」と述べたと云います。偶然でしょうが、あまりにも正確なセットのため、キューブリックは美術チームがFBIの捜査対象になるのではないかと心配したと云います。いよいよ空挺部隊が空軍基地を制圧して、リッパー准将の部屋まで迫ってきました。リッパー准将はマンドレイク大佐に、日本人から拷問を受けた話を聞き、自分は耐えられそうもないと云ってバスルームであっさり自殺してしまいます。これで爆撃機を呼び戻す暗号は分からなくなりました。イギリス空軍のマンドレイク大佐は、リッパー准将が残した書類から暗号を推察して、ついに解読に成功します。そのとき、空挺部隊が乱入してきました。彼らはなんでこの基地を制圧するのか聞かされていません。マンドレイク大佐は引き立てられる途中で公衆電話を見つけ、そこからアメリカ大統領に電話することにしました。ところが小銭が足りない!空挺部隊の隊員を脅したりなだめたり、ようよう傍にあったコカコーラの自販機をライフルで打ち抜いて中の小銭を失敬することに。こうして無事、アメリカ大統領に連絡がとれて、爆撃機を呼び戻す暗号でほとんどの機はアメリカめがけて戻ってくることになりました。4機を除いて。実はすでにソ連のミサイルで撃ち落されてた爆撃機があったのです。しかし、致し方ありません。ところが、ところがです。1機だけは、依然としてソ連への飛行を続けていたのです。この機は飛行中にミサイルが近接爆発したために、機内の通信装置が全部やられて、「戻れ!」の通信が受信できていなかったのです。しかも、エンジンもやられていたため、超低空飛行をよぎなくされてる。ところが超低空飛行のため、逆にソ連のレーダーでは捕捉できないのです。いよいよ、目標のソ連基地が迫ってきました。カーボイハット被ったコング少佐は、核爆弾の入った機内のドアを開けるように命令します。ところがミサイルの影響でドアの開閉装置が壊れて開かない!しかたなくコング少佐自ら、開閉装置を点検にいきます。なんとかミサイル基地到着前に開閉装置を直して、コング少佐はロディオよろしく、核爆弾にまたがったまま真っ逆さま。ここはこの映画で最も有名なシーンです。こうして不幸な偶然の積み重ねから、1基の核爆弾が投下されてしまいました。こうなるとソ連の「皆殺し装置」が自動的に作動します。そのころペンタゴンの戦略会議室では対処を検討してました。こうなったら「やられる前にやってしまえ」しかし「皆殺し装置」が作動しますから、こっちも全滅です。そこに現れたのがストレンジラヴ博士(ピーター・セラーズ三役目)。彼はナチス政権下のドイツ科学者だった男です。そう原爆を作ったマンハッタン計画の責任者ジョン・フォン・ノイマンやナチスの元でV2ロケットを開発したヴェルナー・フォン・ブラウンを模しています。彼が云うには、アメリカもとっくに「皆殺し装置」と同等の装置を持っていると。だからどっちにしても、人類は助からない。しかしアメリカには地下1,000m の炭鉱がいくつも掘られている。ここを都市化して、選抜された頭脳明晰な男性と性的魅力のある女性を地下の坑道に避難させることにより人類は存続させられると。地球上に残った人類がたった1万人でも、核の影響がなくなるのが100年後だから、その間にたっぷり労働力は育っているハズ。君たちは関係者だから、もちろん選抜の対象だし、人類を増やすのが目的だから男性1人につき、女性は10人必要だ。ストレンジラヴ博士は熱弁し、興奮のあまりドイツ時代に立ち返り「総統!私は歩けます!」と絶叫するのです。こうしてヴェラ・リンが歌う第二次世界大戦時代の流行歌「また会いましょう」の甘いメロディが流れる中、核爆発が繰り返され、人類は滅亡していくのです。「また会いましょう、どことも知らず、いつとも分からないけれどでもいつかまた晴れた日に会いましょう。いつものあなたのように笑顔を絶やさないで。青空が暗い雲を吹き飛ばしてくれるまで」ドッカ〜ン、ボッカ〜ン。晴れた日に、お会いしましょうね、いつか...
Jan 15, 2018
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スズメと云うのは不思議な鳥ですね。人の近くで生活してるのに、決してハトのように人と接するほどには近寄らない。どっちか云うと、人に対する警戒心は強いほうですね。これはDNAに組み込まれた自己保身の術だとか。なんせ、今でも一部ではそうですが、昔はスズメは人が獲って食べてた鳥なんですから。ところが、農村なんかで人口が減って空き家が増えると、スズメも姿を消すと云います。これには理由があって、人の生活の傍で繁殖を行うことによって、天敵などから身を守る術を知っているからなんです。そんなスズメもどんどん数が減って来て、今では50年前の10分の1程度らしいです。それでなくても、生まれたばかりのスズメの余命は半年以下とのこと。長くても1年ぐらいらしい。しかし飼育されたスズメで15年も生きた例があるらしいです。それだけ野生では天敵の存在が大きいのです。スズメのイチバンの天敵、それはカラスです。町中でよく見られるハシブトガラスは肉食傾向が強く、スズメのような小型の鳥は食べられてしまうのです。東南アジアにも沢山のスズメを見ますが、なぜかインドだけにはほとんど居ないらしい。バッチイ国はイヤなのか?(笑)日本では冬になると、毛を膨らませてまんまるになりますね。これが「ふくらすずめ」。羽毛を膨らませて空気の層を作って、暖かくしているんだって。ふくらすずめは俳句の季語になっていたり、着物の帯結びや家紋にもなっていて、昔から親しまれていました。
Jan 14, 2018
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明治末期の新聞を見ると、催眠術、精神霊動、千里眼なんて言葉を使った広告がいくつも登場します。今の時代でも、一部にはこうした疑似科学を信奉する人が居ますが、明治のころはその比ではありません。科学としての心理学は1879年のドイツで心理学実験室を作ったのが始めと云われていますが、それから20年あまり経った明治末期、日本にこの手の科学が西洋から輸入されました。そこでは心理と心霊と超能力がいっしょくたになっていたのです。例えば「こっくりさん」。漢字では「狐狗狸」と書き、狐などの霊を呼び出してお告げを聞くと言われている、一種の占いですね。「遊び半分でやると呪われ、精神に異常をきたしてしまう」など多くの噂が流れ、現代でも怪談話の一つとして語られ続けています。これを科学として研究したのは明治時代の井上円了氏です。井上円了氏は東洋大学創立者です。氏の研究によると西洋には、「こっくりさん」の原型として「テーブルターニング」なるものがありました。これはテーブルの上にただ手を置くだけで、テーブルが勝手に動き出すと云うものです。そればかりか、テーブルの上に手を載せている人の質問に対して、テーブルが音を鳴らしたり、傾いたりすることで答えを返してくるのです。このテーブルターニングこそがこっくりさんの始まりなのです。当時、外国語を理解できる人は少なかったですから、テーブルが「こっくりこっくり動く様子」を見て「こっくりさん」と名付けられました。井上円了氏は「そもそもどういう形で日本に入ってきてブームになり、こっくりさんに変化したのだろうか」と疑問を持ち、調べ始めます。その結果、伊豆の下田の外国人船員がやっていることを日本人が真似て、全国の船着き場から広がっていったことを突き止めるのです。「こっくりさん」は科学的な見方では、意識に関係なく体が動く「オートマティスム」の一種と見られています。オートマティスムと云うのは、心理学用語で「筋肉性自動作用」と云います。あたかも、何か別の存在に憑依されて肉体を支配されているかのように、自分の意識とは無関係に動作を行ってしまう現象を指します。例えば「透視」。これは欧米でもさかんに研究がおこなわれていました。1972年~1995年にかけてアメリカ政府は極秘裏に「スターゲイト計画」を行います。「スターゲート計画」とは、超能力の一つである遠隔透視の能力、技術を軍事利用するための研究でした。この計画はカリフォルニア州の都市メンローパークにある、スタンフォード研究所にて進められたためこのように呼ばれています。しかし、1995年ごろにはCIA(中央情報局)によって、「この計画には成果が見られない」という理由から、打ち切りとされました。日本には透視でもっと有名な「御船千鶴子」がいます。あの映画「リング」の貞子の母親「山村志津子」のモデルになった女性です。この御船千鶴子が有名になったのは東京帝国大学(現在の東京大学)助教授で心理学者、超心理学者の福来友吉の存在が関わってます。福来友吉と云うのは「念写」の発見者とされてる人物です。ときは明治。この時代に心理学研究なんかで残された資料を見て見ましょう。先ずはジョーンスツロム著「催眠術」、渋江保訳、明27年。日本におけるごく初期の催眠術関係資料です。著者のジョーンスツロムは、スウェーデンの精神科医でストックホルム病院長とあります。訳者の渋江保は、江戸時代後期の医師、渋江抽斎の3男で、心霊現象などに関する翻訳で知られました。「本書は、恰も古代の神託、禁咒、妖術、預言等を始めとして、我か邦の憑狐者、生霊等を學理に由りて説きたるものなれば、興味殊に深く、且つ有益なり」とあります。古屋鉄石という明治30年代から大正にかけて活躍した催眠術師がいます。この人物は浅草公園の香具師あがりと思わせるとか、華族を治して得た大金で研究会本部を建てて、建物の立派さで上京してきた田舎の連中を信用させて会員を集めたとか、評判は散々です。古屋の団体は、それまでの催眠術師が治療を専らとしていたのに対して、治療者養成に軸足を置いていました。その点では、その後の霊術団体につながっています。教育は通学と通信教育の2本立てで、催眠学博士や哲学士といった称号を与えています。霊術団体の「資格商法」の先鞭をつけたわけですな。また、開業にあたっての注意やノウハウも親切丁寧に指南してます。こう云う怪しげなエセ科学者がぞろぞろ居たのですね。お話しを福来友吉と御船千鶴子に戻しましょう。御船千鶴子と云うのは熊本県在住の「千里眼」をもつ女性として有名でした。生まれつき進行性の難聴があり、成人するころには左耳が聴こえにくかったと云います。22歳のとき結婚するのですが、ある日、夫の財布からなくなった50円が姑の使っていた仏壇の引き出しにあると言い当てたのです。このことで姑は疑いをかけられたことを苦にして自殺未遂を起こしました。それが原因でほどなく離婚することになり、実家に戻ってます。その後、実家では義兄に催眠術をかけられた際、優れた結果が出たために「お前は透視ができる人間だ」と云われ修練を積むことになります。日露戦争時に第6師団が撃沈された軍艦・常陸丸にたまたま乗っていなかったことを透視したり、三井合名会社の依頼で福岡県大牟田市にて透視を行い、万田炭鉱を発見して謝礼2万円を得るなどしたのです。また、樹皮の下にいる虫の存在や海で紛失した指輪の場所を言い当てたり、人の人体を透視して病気を診断したり、手かざしによる治療を試みたとあります。評判が広まった千鶴子を研究し始めたのが福来友吉です。研究は1909年(明治42年)から始まりました。1910年熊本で福来は千鶴子の透視実験を行ないます。人々に背を向け、対象物を手に持って行う千鶴子の透視が不審を招くことに配慮した福来は、背を向けても対象物を手に取らないで透視するようにさせました。ところがこの方法では不的中に終わったのです。今度は用意した名刺を茶壺に入れ、それに触れることを許可して透視させると、名刺の文字を言い当てたと云います。千鶴子の透視能力を確信した福来は、この実験結果を心理学会で発表しました。これにより「透視」という言葉が新聞で大きく取り上げられることになるのです。千鶴子のもとには透視の依頼が殺到したほか、「千里眼」の持ち主を名乗る人々が続々と現れ始めました。1910年、物理学の権威で東京帝国大学の元総長、山川健次郎の立ち会いのもと、透視実験を行いました。千鶴子は鉛管の中の文字の透視を「成功」させたものの、それは山川の用意した鉛管ではなく、福来が練習用に千鶴子に与えたものであったことが発覚します。この不審な経緯に、新聞は千鶴子の透視能力について否定的な論調を強めて行ったのです。実際のところ、千鶴子の「透視能力」の存在は極めて疑わしいです。実験時の千鶴子は常に観察者に背を向けて10分以上時間をかけており、成功したのは封筒の透視がほとんどです。これだけ時間をかければ、背後からは分からないよう手の先だけを動かしてつばで封をはがし、体温で乾かして元に戻すことは可能であろうとの指摘は当時から出ていました。その後、千鶴子は1911年に重クロム酸カリで服毒自殺を図り、翌日未明に24歳で死亡しました。しかし福来友吉は長尾郁子や高橋貞子と云った「千里眼」や「念写」能力のあると噂される女性を使って次々と実験をおこないます。本人は全て成功と云ってますが、第三者が立ち会うとうまくいかなかったり、トリックが見破られたりと散々なありさまでした。福来がやった実験でケッサクなのは1931年と云いますから、もう昭和6年。それと1933年の2回、三田光一が成功したとされる月の裏の念写実験です。三田光一と云うのは自称透視能力者です。三田の念写では「何らかのトリックで感光させているのではないか」という疑念を払拭するため、当時人類の誰一人見ることが出来なかった「月の裏側」の画像を透視して念写することにしたのです。いちおう成功としてますが、当時はその真偽を判別できなかったため非難の対象となりました。その後アメリカの探査機が写真撮影した画像による月球儀が作られた際に、月球儀とこの念写画像と照らし合わせしました。そのときは合致する部分が多く見られたという説が流布されたのです。しかしながら、三田の写真には、実際の月の裏側にはほとんど存在しない「海」を思わせる黒い部分が写し出されていました。また、月よりはるかに暗く見える星が、月と同じ明るさで写っていたり、星の配置がランダムでなく人間の手で描いた特徴があるなど不審な点が多く見つけられたのです。三田はフィルムを入れた箱のすり替えをして、念写実験でトリックを使っていたことが発覚した過去がありました。福来友吉は当時、東京帝国大学の学長であった上田萬年から呼ばれ「東大教授として、実験が内容的に好ましくない行為」として警告を受けました。しかし福来も、透視や念写は事実である旨主張。ついに東京帝国大学を追放されたのです。彼が取り上げた御船千鶴子や長尾郁子、高橋貞子も「イカサマ」「ペテン師」などの攻撃を受けることになってしまいました。その後、福来は物理的検証といった方法論を放棄し、禅の研究など、オカルト的精神研究を行なうことになりました。
Jan 13, 2018
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2012年に公開された映画「天地明察」のDVDを借りてきて観ました。もうカビが生えたような映画なのに、ナゼ今頃?岡田准一と宮崎あおいが昨年末に結婚したから(なんと云うミーハー/笑)「天地明察」はふたりが付き合うきっかけになった映画です。宮崎あおいって、たしか再婚でしたよね。作品はDVDになったときから知っていたのですけどね。ナゼかそのときはスルーしてしまいました。だけど気になってた作品のひとつ。監督は「おくりびと」の滝田洋二郎。江戸時代前期の囲碁棋士で天文暦学者の安井算哲(別名を渋川春海と云います)の生涯を描いた作品で、算哲を岡田准一。その妻えん役を宮崎あおい。将軍の後見人で算哲にとっては最大の支援者、会津藩主の「会津中将」保科正之に松本白鸚(旧、松本幸四郎)。その保科正之と同じく算哲の良き理解者の一人、水戸光圀に中井貴一。算術の難問を一瞥即解して算哲を驚かせ、後に独自の研究の成果をもって算哲を手助けする孤高の天才、関孝和に市川猿之助。保科正之の命を受けて、日本各地で算哲とともに天体観測をするスタッフに、笹野高史、岸部一徳、プロレスラーの武藤敬司。算哲と幕府が行おうとする改暦事業を快く思わず様々な妨害工作を加える公家のリーダー陰陽博士の宮栖川友麿に松本幸四郎。史上最強の天才的碁士で、算哲と囲碁での生涯のライバル、本因坊道策に関ジャニ∞の横山裕とまさにオールスターキャストです。とても爽やかで非常に後味のいい映画ですね。算哲とその仲間によって、それまで中国で何百年前に作られた暦しかなかったのを、日本で初めての暦をつくった男の物語ですが、同時に妻えんとの愛の物語でもあります。劇中で算哲がえんに向かって「俺より先に死ぬな」と云うシーンがありますが、ラストシーンで算哲が命をかけて自分の暦が正しいと証明しに行くまぎわ、えんは「私より先に死なないでください」。映画の最後にクレジットが出て、1715年11月、老後のえんが急死すると、春海も後を追うように死去したとあります。まだコペルニクスの地動説が知られていなかった時代の日本。しかしこの時代(将軍綱吉の時代)に、もう日本でも地球が丸いって一部の人には分かっていたのですね。しかし暦は中国から入って来て、平安時代以来使用されてきた宣明暦でした。日本には遣唐使によって伝わり、それまで使われていた大衍暦、五紀暦に代わって862年(貞観4年)から使われてた暦で、実は中国と日本には里差(今日でいう経度差)があるので「地方時」(今日でいう時差)や近日点の異動が発生してしまうのです。しかし日本人にはそんなことは分からず、長い間に少しずつ暦がズレていってたのですね。これは遣唐使が廃止されて中国から新しい暦が入らなくなったこと、国内で新しい暦を開発する基盤となる学問が発達していなかったためです。そこで平安時代以来使用されてきた宣明暦に誤りのあることを発見し、改暦を幕府に建議、元の授時暦をもとに、天体観測で経度差を修正した日本独自の貞享暦にさせたのが安井算哲。1684年(貞享元年)のことです。算哲の偉業はまさに日本の天文学を興したと云えますが、それには苦い経験が踏み台となっています。日本では宣明暦はじめ、いくつかの中国の暦をそのまま使用しており、春海も当初は中国暦法最高といわれる授時暦による改暦を提案するのです。つまり選択する暦を宣明暦から授時暦に代えただけで、依然として中国の暦をそのまま使ったのですな。ところが1675年(延宝3年)に日食予報が起こるのですが、その日にち予報に失敗。そこでその原因を分析し、日本にあわせた独自の改良を加えたのが貞享暦なんです。貞享暦は北京と京都の里差(経度差)を算入し、近日点の移動を考慮した日本仕様の暦となったのです。そのためにイエズス会宣教師の利瑪竇が作成した坤輿萬國全圖を参考に紙張子製の地球儀を作成。これは現存するものとしては最古のもので、重要文化財として国立科学博物館に展示されています。また従来の渾天儀から観測に不要な三辰儀を取り払って簡略化。実用的でシンプルな渾天儀を製作しましたが、こっちは日光東照宮に現存しています。しかし算哲の改暦建議に反対する勢力がありました。京都の朝廷を仕切ってる公家の一党です。実は暦の管理は朝廷にとって、重要な権利で、こればっかしは幕府と云えども勝手に手がつけられません。そこで算哲は幕府の代表として朝廷に改暦を提案しに行くのですが、公家たちは自分たちの権益が侵されるとまっこうから反対。今のお役所と同じですな。そんな算哲をバックアップして、なんとか朝廷への提案を実現させるのが、水戸光圀(水戸黄門)です。ついに算哲は自分の暦が正しくなかったら腹を切ると公言して、事に当たります。日食のおこる日を当てると云うのです。京に旅立つ直前に、妻えんが「私より先に死なないでください」と云ったのはこのときです。はたして日食はおこるのか?...約束の日時になっても、いっこうにおこる気配がありません。もう...こうなったら仕方ない。ついに算哲は腹を切る覚悟を決めて、切腹の準備を始めます。その時です、天がにわかに暗くなり、たちまち日食がおこったのです。算哲の予測が的中した瞬間でした。それとともに、公家たちの反対も腰折れになり、ようやく算哲の貞享暦が認められることになったのです。編暦の実権は朝廷から幕府に移り、算哲は初代天文方に任命されました。算哲の妻、えんは武家嫌いで縁談を断り続けた美女。あまりにも断りすぎていたせいで金王八幡宮に行儀見習いに出されてしまい、そこで算哲と知り合ったのです。家の事情で嫁いだものの離縁。算哲に半年、3年と待たされた末に結婚しました。
Jan 12, 2018
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ちょっと前にブームとなった3Dテレビ。あれはいったいどこに行ったのでしょう?今、SONYやパナソニック、シャープのTV広告をネットで検索しても、4Kテレビばかりで3Dテレビの情報が全く見れません。こうなると思っていましたよ、3Dテレビ出てきたときから。今まで、なんども3Dは発表されてるけど、結局メジャーにならなかったのは、あの「3Dメガネ」の問題です。この3Dメガネ、今でも各メーカーで販売されてますが、このメガネをかけないと3Dが楽しめないのがネックなんですね。私のように老眼鏡にお世話になってる身には、メガネはど~ってことないけど、普段、メガネと無縁のご仁にはうっとおしいの極みだと思います。3Dで生き残っているのは「3D映画」とスマホを装着して使う「3Dゴーグル」でしょうね。3Dゴーグルは、「これを装着して何か体験できるぞ~」って異次元感が楽しめて受け入れやすい。それに対して、TVはながら見もするし、普段の生活にどっぷり浸っているので、そこに専用メガネを持ち込むのは難あります。そう云えばメガネを装着しないで、裸眼でも3D映像の見えるゲーム機「ニンテンドー3DS」ってのもありました。あれは左右の眼に別々の光線を入射させるメカニズムを搭載した「視差バリア方式ワイド3D液晶ディスプレイ」と云うものを搭載して3Dに対応していたのですね。しかし3D映像の見え方には個人差があるため、上画面横に「3Dボリューム」というアナログスライダーが付いており、無段階で3D表示の立体深度を変化させて対応してました。結局、全てのソフトが常に3Dで表示されるわけではく、またタッチ操作で付く指紋などの汚れが3D表示の立体感や画面の透明度を低下させるなどの理由で中途半端なままでした。この問題を解決するには、シャープが開発してる「8Kテレビ」しかありません。4Kで解像度は3,840×2,160ですが、8Kとなると7,680×4,320と云う驚異的な解像度。画素数は3,317画素です。この解像度だと立体映像でもなければ、特殊なメガネもしていないのに飛び出て見えるそうです。従来のメガネを着用する方式は、めっちゃ昔からありました。ステレオという言葉は、ギリシャ語で「実体的な」を意味するステレオス(Stereos)から派生しています。この言葉が「立体的な」という意味で使われたのは、19世紀です。人間の視覚の研究によって生まれた「ステレオスコープ」の原理は、実は銀塩写真の発明前から発見されていたのです。1949年になるとスコットランドのダニエル・ブリュースターによって「ステレオ・スコープ」が発明され、湿板写真以降ようやく「立体」に見合う写真と装置が現れました。1856年、イギリスの光学機械製作者ジョン・B・ダンサーがステレオ・カメラの特許を取ってからはこの装置は一挙に広まり、1860年代には爆発的なブームを呼ぶことになります。ジョン・B・ダンサーはもともとリバプールで父の楽器製造業の仕事をしてました。同時に彼は顕微鏡写真の分野で有力な発明家であるとともに、開業医でもあったのです。生涯にわたり、実に多くの発明をしてますが、そのひとつが立体カメラ=ステレオ・カメラだったのです。下の画像はジョン・B・ダンサーが特許をとった装置で撮影された写真を、GIFアニメーションで3D立体映像として再現しています。撮影は1856年におこなわれたものです。日本でも明治時代に入って、立体カメラは輸入され実に多くの写真が撮られました。横浜で写真スタジオを営んでいた江波信國氏が撮影した、明治中期~後期のステレオ写真を同じようにGIFアニメーションで3D立体映像として再現してみましょう。これらの写真は、実際には相互に少しズレた場所から撮影された2枚の画像を並べて置いて、左右同時に見る方式を取っています。そのときに、右目で見るのは右の画像だけ、左目で見るのは左の画像だけの仕掛けが必要です。今だったら上の画像にあるような、簡易的なメガネを装着するのですが、ステレオ・カメラが開発されたころには、もっと大掛かりな「ビュワー」と呼ばれる器具を使用してました。立体写真の原理は簡単ですね。両目の間隔だけ、距離を離した画像を同時に撮影して、それを両目の間隔だけ離して並べるだけ。これは両眼視差と云う原理を利用しています。両眼視差とは、右目と左目で見える像の「位置」あるいは「視方向」における差異のことです。この両眼視差から奥行きを知覚することができるのですな。この原理は両目で見た映像を脳内で合成する仕組みを利用しているワケですが、立体視による視覚は、完全な3次元の知覚ではなく、2次元の視覚に奥行き情報を追加した、2.5次元の知覚なんです。では、写す方はどうかと云うと、普通のカメラ2台をレンズの位置が目の間隔と同じように並べて置けばいいのです。注意点はシャッターがカメラ2台同時に押せる工夫をしなければなりません。こう云う、カメラ2台を並べるアダプターも販売されてますが、古くから専用のカメラが販売されてました。古いカメラを扱っているカメラ店では、今でもよく見かけます。現代は静止画も動画を撮るのも、とてもコンパクトなカメラが使われていますが、映画の世界ではまだまだ大規模な装置になります。でも動作原理はみんな一緒です。また3D映像は、こんな使われ方もされるようになりました。車の安全装置にステレオカメラを利用しているのです。これにより、単眼カメラを利用するより、もっと的確な安全確認ができるようになりました。
Jan 11, 2018
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きのうは朝からヨメとふたりで「今宮戎」の「十日戎」に行ってきました。本番はきょう10日なんですが、きょうはこれからリハビリがあるので行けない。で、「宵えびす」のきのうにしたのです。戎さんは商売の神さまだから、直接には関係ないんですけどね。まぁ、新年どこも初詣しなかったので、これでチャラに。いつも戎さんはスゴイ人出。まして境内を競争で駆け抜ける「西宮戎」と違って、大阪の今宮戎はめっちゃ狭い。で、もみくちゃにされて、お参りするのが常なんですが、宵えびすのそれも朝と云うともあって、まぁまぁの人出しかありませんでした。お参り済ませて、延々と続く屋台を横目に見ながらナンバまで。そこの「カオマンガイカフェ」でタイ料理。これが昼食です。ここのスタッフは全員タイ人なので、味も本格的なタイ料理が楽しめます。おっと、昔の福娘も混じっていました(笑)話しはまったく変わって...私たちが日常、普通に使っている「びびる」って単語。いかにも現代に出現した言葉のようですが、実は「びびる」って単語は、平安時代末期から既に使われていた言葉です。イミは鎧の触れ合う音のことを指した単語です。当時、大軍が動く時に鎧が触れ合って「びんびん」と響き、この音を「びびる音」と呼んでいました。静岡県富士川で源頼朝、武田信義と平維盛が戦った合戦で、武田信義の部隊が平家の後背を衝かんと富士川の浅瀬に馬を乗り入れます。それに富士沼の水鳥が反応し、大群が一斉に飛び立ったのです。これに驚いた平家方は大混乱に陥りました。兵たちは弓矢、甲冑、諸道具を忘れて逃げまどい、他人の馬にまたがる者、杭につないだままの馬に乗ってぐるぐる回る者、集められていた遊女たちは哀れにも馬に踏み潰されたとの記録が残っています。結局、平家方は総崩れになって逃げ出しました。遠江国まで退却しますが、軍勢を立て直すことができず、全軍散り散り。総大将の維盛が京へ逃げ戻った時にはわずか10騎になっていたと云います。このときの、「びびる」音を聞いただけで怯えて平氏が逃げ出した様子から、「びびる」という言葉が「怖い」とか「震え上がる」という意味で使われるようになったそうです。江戸時代には「はにかむ」という意味でも使われていました。このように、現代用語と思っているものが、実は意外に昔から使われてた例は他にもあります。例えば「モテる」。「モテる」は江戸時代から使われている言葉で、まったく字の如しで「持てる」が語源とされています。「持てる」には「持ち得る」の意味があり、そこから「持ちこたえる、保ち続けられる」。そして「支えられる、支持される」という意味に派生し、最終的に「もてはやされる」という意味になっていきました。昭和中期辺りからカタカナを併用した「モテる」という表記も広く知れ渡っていったのです。例えば「マジ」と云う言葉。これは江戸時代の芸人の楽屋言葉、つまり業界用語として使われていました。「マジ」は「真面目」「真剣」「本気」といった意味からきており、1980年代に入ってから、若者を中心に流行していきましたね。例えば「ムカつく」と云う言葉。これも「びびる」と同じで、平安時代後期から使われていました。最初は体調がすぐれないときに使う言葉。胃が胸やけを起こしていたり、吐き気を催している状態のことを指しました。それが1970年後半以降は「腹が立つ」という意味合いで使われるようになったのです。
Jan 10, 2018
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久しぶりに、「これぞB級映画!」と云う作品のDVDを借りてきて観ました。「メガ・スパイダー」。2013年の作品です。タイトル通り、巨大蜘蛛がLAの街を大暴れ。ストーリーなんて何もない。ただ暴れまわって、最後に主人公が放ったバズーカ砲の一撃で四散すると云う毎度おなじみの物語です。物語の主人公、アレックスは"害虫駆除業者"。ちょっとした手違いから腕を虫に刺されたので、病院を訪れていました。ど~見ても、いけてないアレックス。一生懸命ナースに云い寄ろうとしても、会話さえもかみ合わない。そう、アレックスは典型的な「モテないくん」だったのです。それで病院を立ち去ろうとしたら、たかが絆創膏代だけで100$も!不平たらたら支払いを済ませて帰ろうとしたら、非常ベルが!何かと思ったら、遺体安置室の係り員が運ばれて来て、ワケのわからん虫に刺されたとか。ここは出番とばかりに、その虫の駆除と引き換えに、自分の治療費を無しにする条件で遺体安置室に。同行するのは、この病院の警備員のホセ。安置室から通気口に潜入したアレックスは、異常に粘着力の強いクモの巣を発見。さらに奥に進んだ彼は病院の地下へとたどり着くのです。そこでアレックスは、一抱えもあるような蜘蛛と遭遇!こんなバケモノ見たことない...と思ってたら、「伏せて! 」の声とともに銃声が鳴り響く。それは米陸軍、特殊部隊所属の美女(と云うには難ありますが)、カーリーが放ったものでした。ところが、件の蜘蛛は10kg はあろうかと思われる下水道のフタを動かして、街へと消えていったのです。と、云うような出だしで始まったこの映画、B級作品の常として、お話しの整合性は完全に破たんしてます。米軍のリーダーは、さっきまで信頼してた学者を急にジャマ者扱いして追い出すし。かと思ったら、仕事の邪魔と追い出したアレックスに、蜘蛛に捕らえられたカーリー救出を頼んだり。人々は蜘蛛の鋭い脚でブスリ、ブスリと突き刺されてやられていくのに、なぜかカーリーだけは蜘蛛の網にぐるぐる巻きにされて生きたまま捕らえられる。なぁんてこと気にしてたら、この手の映画は観てられません。そこはB級映画なんですから、なにもかも飲み込んで、ただ楽しめばいいのです。ことの発端はこうでした。米軍が秘密裏にしていたバイオの研究。そこに宇宙から連れ帰った蜘蛛が紛れ込んで巨大化。今はバスケット・ボールくらいの大きさですが、そのうちとてつもなく大きくなって手がつけなくなると。それで病院に出動してきたのですな。対するアレックスと病院の警備員、ホセ。このふたりが漫才コンビよろしく、お話しをひっぱっていきます。しかし、主人公のアレックス、会話もイケてないけど、なんと云ってもお顔と体型がど~見ても映画の主人公然としていない。それでもって2人でかけあい漫才よろしく、くだらない会話を随所で披露するのです。蜘蛛はどんどん巨大化して、公園や市街に出没して人々を次々と襲います。もうLAの街は大パニック。下のシーンは明らかに映画「スターシップ・トゥルーパーズ」のパクリです。もう蜘蛛は兵士の放つライフル弾なんてへっちゃら。好き放題に暴れまくります。そのとき、蜘蛛退治で出動していたカーリーが、蜘蛛に襲われて拉致される事件が!それでアレックスとホセ、ふたりでカーリーを救出に向かいます。と、いうワケで蜘蛛はついに高層ビルをよじ登り、最上階を巣と決め込みます。ここにカーリーも閉じ込められてるのです。息詰まる蜘蛛との攻防戦。もう打つ手が無くなって、ついに軍隊は戦闘機でミサイル攻撃に着手します。ミサイルを撃たれたら、ビルの最上階にいるカーリーも危ない!もう戦闘機到着まで5分を切ってます。アレックスとホセは大急ぎでビルの最上階へ。ようやくカーリーを見つけ出して、ビルを降り切ったところで、ミサイルが蜘蛛に命中。もんどり打って地上に激突する蜘蛛。しかし地上に激突しても蜘蛛は死んでいなかった。なんと云う生命力。で、蜘蛛の攻撃をかいくぐり、アレックスは蜘蛛のお尻にバズーカ砲一閃。これが功を奏して、蜘蛛は四散したと云うところで大団円。B級映画と割り切って観たら、結構楽しめましたね。「悪魔の毒々モンスター」とか「ムカデ人間」みたいなグロさもないし、要するになんの害にもならない映画。たまにはいいのではないですか。もう一作、注目してるのが邦画の「日本以外全部沈没」。小松左京のSF小説「日本沈没」のパロディ。題名の通り日本列島以外の人類が住む陸地すべてが沈没してしまった世界が舞台。唯一の陸地である日本へと殺到する世界の著名人の悲惨な境遇と突然世界で一番偉い人種となってしまった日本人の島国根性による浅ましさを描くブラックユーモアです。捕鯨禁止を訴える国がなくなったため鯨肉が安くなる。英会話学校が倒産して日本語学校が繁盛。外国人犯罪が多発し対外国人治安維持組織が結成される。もうハチャメチャな世界。日本に潜入していた将軍さまの命を受けた北朝鮮特殊部隊が日本を乗っ取るためにテロを起こすが、日本も沈むと予言する日本の学者。安泉首相は各国の元首脳から今までの仕返しとしてリンチを受ける。襲撃された石山防衛庁長官は特殊部隊を道連れに自爆し、学者の予言通り日本列島も沈没を始める。最期を前にした各国首脳たちはようやく和解し、日本列島は完全に沈没すると云うストーリーです。この映画の上映当時、映画館で販売されたグッズには、「非常時用持ち出しセット」や「ロゴ入り懐中電灯」などがあったそうです。
Jan 9, 2018
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みなさんは金縛りにあったことありますかぁ?あの、夜中に目覚めたら、手足がビクとも動かない現象。ともすれば、地縛霊が腹の上に乗ってることすらある。異物を払いのけようと脳が命令を発するのに、いっこうに手足は脳の命令を聞いてくれない。これは現代科学では「すべて夢の中でおこってる」と云う証拠が得られています。金縛り時の生理状態が、夢を見ているときの生理状態に類似しているのです。つまり意識は、目覚めた状態に近づいてはいますが、まだ「夢見状態」なんですな。夢見状態では、そもそも手足が動かないよう人間は作られているのです。夢の中では跳んだり跳ねたりできますが、それは現実世界の単なるシュミレーションです。夢見状態では身体の運動機能がオフになっているのですな。だって夢で架空の世界に入って、そのまま手足が動いたら、ベッドどころか2階から落っこちることだってあるでしょ。そうならないように、人間の身体機能はよくできているのです。では金縛り時に「幽霊」が見えることが多いのはど~云うことなのか?これは生物学的な理由がよく知られています。手足が動かないと云うことは、「無防備」と云うことです。そんなときに敵に襲われると、命にかかわるので恐怖をだきます。そこで「その恐怖の源は何か」と合理的な思考が働くワケですな。「得体のしれない恐怖」=「幽霊」を無意識に作り出しているのです。何せ夢の中だから、何でもつくり出せてしまいます。人間にとって恐怖は、危険のサインです。高いところも、暗闇も、潜在的な危険がある。そうしたものに恐怖を感じて近づかない人の方が生き残りやすい。生き延びた末裔の私たちも、基本的に恐怖を感じやすい動物だと云うことは進化生物学の知見からも読み取れます。今日の文明社会では、そうした潜在的な危険はずいぶん薄らいだハズです。それでも、恐怖の感情は昔のままに私たちの中(DNA)に存在してるのです。私たちはその恐怖を説明するために、あえて妖怪や幽霊を生み出したのですな。ほんとうは、現実の人間の方がよっぽどヤバイ人が居るのにねぇ(笑)では幽体離脱はどうなのか?幽体離脱とは肉体から魂が抜けだしたかのような状態を云いますね。抜け出した非物質や半物質でできた自分は「幽体」「霊魂」「霊体」「生霊」とも呼ばれたりします。基本的には金縛りを経て幽体離脱をします。幽体離脱したときに行動できる範囲は限られてて、自分の身体から一定の距離を離れると視界が悪くなることがあります。また目を閉じていても景色が見えると考えている人も居ます。これは簡単な実験で再現できます。まず、目にゴーグル型のディスプレイを装着して、自分を見降ろす天井位置にカメラを設置します。設置したカメラから、自分の行動を見続けるのです。これにより、情報の拠点が天井に移動したことになります。すると、カメラの位置に「自分」がいるかのような感覚になるのです。つまり「自分」と云う身体感覚の拠点は、比較的自由に肉体外へと移動できるのです。これは「自分」と云う身体感覚が通常は肉体の位置にありますが、感覚系(情報の入力)と運動系(情報の出力)は別々に存在すると云うことです。幽体離脱で「魂が抜けた」とは主張できません。なぜなら、自分の位置感覚だけが対外に移動していて、当の肉体は普通に活動しているからです。金縛りのときに幽体離脱が起きやすいのは、実際に手足が動かない状態で、「自分」の感覚だけが明晰になっているからです。肉体の位置に「自分」想定しても、肉体は動かないので意味がないのです。科学や心理学の分野では、幽体離脱は白昼夢などに類似した現象で、脳の誤作動によるものと考えられています。ときどき幽体離脱をした心霊写真が登場しますね。「肉体から魂が抜け出ている!」霊能者が霊の姿を物質化、視覚化させるときに現れる「エクトプラズム」も同様の現象ですね。エクトプラズムは浮揚現象やポルターガイスト現象のように物体を手を触れずに動かしたり、誰もいない所から音を鳴らしたりするなど、物理的霊現象を起こす媒体になると云われています。こうした心霊写真は全部「偽物」です。写真機がまだ高性能でない時代、現像技術がまだ安定的でない時代には山ほど心霊写真があったのに、写真技術が円熟するにつれ、急激に減少しています。だいたい霊や魂が写真に写るってことは、それが光を反射する物体だと云うことです。それなのに物体である魂が、頭蓋骨を抜け出せるってのは理屈にあいません。幽霊に至っては、壁を通り抜けるくせに、ドアをたたいたり、足音がしたりと矛盾だらけです。すると霊能者は決まってこう云います「霊や魂は、物体になったりならなかったり、自らの意思で自由に変えられるのです」と。これが悪名高き「万能理論」なんです。霊魂は目撃されてもされなくても、写真に写っても写らなくても、常に存在すると主張できてしまう。客観的な実験や観察もせず、何の予測もしない。何が起きても、ただ起きた現象から、霊魂の意図とか怨念で説明するだけです。要するに自分の主張をただするだけの都合のよい理論なんですな。では、無いも同然の心霊現象を体験すると云うことはど~云うことなのでしょう。心霊現象のほとんどは「足音がした」、「声がした」、「気配がした」。全部、断片的な体験報告ばかりです。妖怪や幽霊の全貌が現れることはほとんどありません。断片的な情報から全貌を想像してしまう過程を「認知のトップダウン」と云います。報告者の記憶にある全貌の姿が、断片的な情報によって形成されてしまうのです。ところが、足音や声や気配の原因について、他の説明ができなければ、恐怖が勝って、見えない幽霊が存在すると云う説明が優勢になってしまうのですな。トップダウン型処理というのは、見たものや聞いたものからの情報によって、低次なレベルからより高次なレベルへと情報処理が進むことです。例えば、山道で目撃した「目の前の長いモノ」という情報に...・ヘビ=細長くてにょろにょろ・山道=ヘビがいる可能性がある・そういえば、過去に似たような道でヘビを見たことがあると云ったような脳内にある知識が勝手に付け足され、「よし!この目の前の長いやつはヘビであります!」と、ただの木の枝をヘビと誤って認識することです。霊魂について指摘を重ねていくと「人間の愚かな頭脳では、精妙なる霊魂世界の実情は想像もできないのだ」。要するに、理解できなくても仕方ないと云う理論にたどり着きます。これを「不可知論」と云います。それはそうかも知れないけれど、万人が想像できないうえに、理解もできなければ、その世界が存在する明確な証拠が無いと云うことです。結局、この現実世界への影響力はなく、やはり「無いも同然」と云うことになります。
Jan 8, 2018
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日本画好きの人にはお馴染み江戸時代の絵師、伊藤若冲。「鳥獣花木図屏風」に描かれた「象」が有名ですね。象の傍らには、虎とワンちゃんも。実は若冲の絵画に虎は登場しても、にゃんこは登場しません。あんなに生き物をいっぱい描写してるのに、ただのひとりも、にゃんこの姿がないのです。しかしワンちゃんは違います。なんと云っても代表作は「百犬図」。これが描かれたのは若冲が亡くなる一年前、1799年です。80歳を超えてから描いたとは思えないほどの細かい線と濃淡がなんとも云えません。この面相筆を使った線は日本画家の独壇場ですね。一見同じような仔犬がたくさんいるようで、よく見てみると皆違う模様や色を持っていますね。しかし「百犬図」と云うタイトルなのに、実は59頭しか描かれていないのですよ。描き疲れて、59頭目でリタイヤ?(笑)若冲にはもうひとつワンちゃん画があります。水墨画の「仔犬に箒図」です。この絵は禅の代表的な公案のひとつ「趙州狗子」を主題に描いた絵画。公案と云うのは、禅宗で修行者が悟りを開くための課題です。趙州狗子の公案を易しく解説したのが、中国宋代の禅書「五燈会元」に載っています。・僧はまた問うた。「上は諸仏より下は螻蟻に至るまで皆仏性あり、狗子甚麼として却て無きや」 (あらゆるものに仏性はあるとされるのに、なぜ犬にはないのでしょうか?)・趙州和尚は答えた。「尹(かれ)に業識性の在るが為なり」 (欲しい、惜しい、憎いなどの煩悩があるからだ。)・僧は更に問うた。「既に是れ仏性、什麼としてか這箇の皮袋裏に撞入するや」 (仏性があるならなぜ犬は畜生の姿のままなのでしょうか?)・趙州和尚は更に答えた。「他の知って故らに犯すが為なり」 (自他ともに仏性があることを知りながら、悪行を為すが故である。)あんまし、ワンちゃんの立場にたった問答ではないですね。実は水墨画の題材にワンちゃんは少ないらしい。昔はワンちゃんが尊ばれる生き物でなかかったため、おのずとテーマが限られていたのです。それでにゃんこの絵も少ないの?せめて最後ににゃんこの仲間、虎の絵でも。伊藤若冲の「虎図」です。
Jan 7, 2018
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新春恒例行事となった2日の箱根駅伝。今年も観てましたよ~やっぱ総合優勝は青山学院大でしたね。2位に4分53秒差をつける圧勝劇!強かったですねぇ。今や駅伝は「EKIDEN」の名で世界に知れ渡っていますが、駅伝が最初に開催されたのは1917年(大正6年)のことです。1917年ですから、太平洋戦争どころか、第一次世界大戦の真っただ中です。孫文が中華民国で広東軍政府を樹立した年でもありました。最初の駅伝は「遷都50周年」を記念して開かれたレースで、区間はなんと「東京~京都」だったのです。もちろん、そんな距離を1人で走りきることはできないため、複数の選手でリレーする新しいレース方式を考え出したのですな。開催されたの4月27日からで、3日間かけて京都、三条大橋から東京、上野不忍池までの516km を、23区間に分けて競走したのです。レースの名称は「東海道駅伝徒歩競走」。主催は読売新聞社で、「駅伝」の名は、このとき同社の社会部長だった歌人の土岐善麿が、江戸時代に宿場間の荷物を運んだ「駅伝」と云う職業にちなみ名付けたのです。ロードをリレーする競技をつくって長距離走の選手強化を図ろうという考えは、日本初のオリンピック選手で、1912年(明治45年)のストックホルムオリンピックのマラソンに出場したものの、途中棄権した金栗四三が後進の育成のために始めました。金栗は1920年(大正9年)、選手強化を念頭に関東の各大学に呼びかけ箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)を実現させるのです。しかし日本に当時はマラソンランナーは少なく、明大はラグビー部の部員を駆り出して、ようやく駅伝に必要なメンバーを捻出したほどです。このとき出場したのは、わずか4校のみでした。箱根駅伝は1953年からNHKラジオが全国放送を始めており、関東ローカルの大会から全国的にも知名度が上がっていきます。しかし、箱根駅伝が国民的行事となり、日本の陸上界におけるステイタスを確立したのは何よりも、1987年に始まった日本テレビでの中継によるところが大きいです。テレビ中継自体はこれ以前、1979年より東京12チャンネル(現 テレビ東京)で行なわれていましたが、その内容はダイジェスト版というべきもので、生中継は最後のゴール地点だけだったのです。その放映権が日本テレビに移ったことで、スタートからの生中継となり、1989年からはそれまで技術的に中継が難しかった5,6区間も含め完全生中継が実現することとなりました。
Jan 6, 2018
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自販機王国、ニッポンもまっ青の自販機がアメリカはテネシー州ナッシュビルの「車の自動販売機」。大手中古車販売のカルバナ社が2015年に設置した施設で、もちろん世界初です。この自販機、先ずはネットのオンライン登録で購入したい車を選択しておく必要があります。アメリカではネットでの車の売買は普通によくおこなわれているのです。後は実際に自販機のあるナッシュビルまで行き、自販機のコントロールパネルで自分の名前を入力、目的の車を選ぶのですな。前もって購入しておいたカルバナ社特製コインを入れると、機械が始動して、目的の車がでてくる仕組み。この間、セールスマンなどいっさいお店の人間はタッチしません。なぜ、こんな仕組みができたかと云うと、アメリカで車を買うには、やたらセールスマンが介入して面倒くさい。それも決定権をもってないセールスマンが多く、もっと安くしてくれと交渉すると、交渉の度に奥の事務所に行って上司と相談。で、値段があわないと、また相談の繰り返しで、なかなからちがあかない。そんな面倒がイヤと云う人も多いのですが、これがアメリカ流でいっこうに改善されないのです。だいたい値段の安い車で客寄せし、お店に来た客を小部屋に連れて行き、予算以上の高い車を売りつけると云う旧態然とした販売方法から脱却できないのですな。で、カルバナの社長は、こんなことでは差別化がはかれないと自販機販売に踏み切ったワケです。この新しい自販機は、ガラス張りの5階建てで設置されており、一度に中古車20台を置くことができます。ここにはウェルカムセンターも併設していて、3つのデリバリールームもあります。全自動化システムでタワーから各デリバリールームへ車が運ばれる仕組みなんですな。車をタワーから運び出し、購入した客が待つ顧客専用のデリバリールームまで機械が運んでくれる仕掛けです。購入した客は、その後1週間の試乗期間が与えられます。その期間内なら返却もOK。中古車の事故履歴やオーナー履歴などはCARFAX Reportなどのウエブサイトに確認できるレポートが掲載されているので問題ありません。オンライン上で購入した中古車を購入者の家まで届けるサービスも行っているそうですし、自販機で購入する人のために、ナッシュビルまでの交通費として200$までの航空券も提供しているそうです。この自販機、企画から完成まで総額約368億円もかかったそうですよ。カルバナ社はナッシュビルをかわきりに、アメリカでの事業拡大を狙っているそうです。
Jan 5, 2018
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このたびフランス政府が、2匹の猫をネズミ捕獲のために「雇用した」と正式発表しました。これは大統領官邸であるエリゼ宮近くの複数のオフィスでネズミ被害が甚大であるためとられた処置です。これまではワナを複数仕掛ける作戦だったのですが、ど~してもうまくいかない。と、なると、やはり、にゃんこの出番ですわな。2匹の名前はノミとノエ。これはブルターニュ公国初の統治者ノミノエの名にちなんでいます。ちなみにパリはネズミ蔓延の地で、その数はこの首都に住んでいる人間よりも多いと云われています。対するイギリス政府はにゃんこ公務員を前々から採用している歴史の長い国です。その歴史は70年以上も前からに遡ります。特に外務省に努める「パーマストン」は訪れる世界中のリーダーと面会してる有名なにゃんこです。ダウニング街10番地の首相官邸に勤務する「ラリー」もまた世界的な有名にゃんこです。英国政府がバタシー・ドッグス・アンド・キャッツ・ホームから採用したこの猫は、首相官邸の1階を警備しています。イギリスにあるヨルダン大使館にもにゃんこ公務員がいます。この子の名前は第一次大戦のとき、アラブ人と共にオスマン帝国と戦ったイギリスの軍人、トーマス・エドワード・ロレンス(アラビアのロレンス)の名にちなんで、「アブドゥンのローレンス」と名づけられました。しかし、こっちはネズミ退治と云うより、話題作りが主要任務のようです。
Jan 4, 2018
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国土地理院の測量用航空機に「くにかぜ2」と云うのがありました。今は「くにかぜ3」。「くにかぜ3」はセスナ208B型が採用されていますが、運航は民間に委託してます。対する「くにかぜ2」はビーチクラフトC90(海上自衛隊での名称はUC-90)を改装した機体が導入され、1983年から運航を開始しました。運用は初代「くにかぜ」と同様に海上自衛隊徳島教育航空群第202教育航空隊に委託され、徳島航空基地を拠点に全国各地の航空測量や磁気測量に従事したのです。「くにかぜ2」までは、このように海上自衛隊が運用していたのですが、前述の「くにかぜ3」に使用している機材が防衛省が持っていない機体のため、民間委託に変わったのですな。「くにかぜ2」は通常任務に加え、阪神・淡路大震災や三宅島火山噴火、新潟県中越地震などの災害発生時に、災害の発生状況調査のための航空写真撮影に出動しました。航空カメラRC-30(フイルムカメラ)とGPS航法装置などを搭載していましたが、デジタル情報化に対応するために、フィルム航空カメラに代えて航空用デジタルカメラを導入しました。しかし追加機器により機体重量がかさんだことで、デジタルカメラ使用時には4名搭乗で航続時間が2.5時間にまで短くなっていたのです。そして2010年、運航制限時間である9,000時間に達したため運用を終了。今は、撮影席は切り取られ、地図と測量の科学館の常設展示室に展示されています。退役までに実施した空中写真撮影の総面積は582,570km2、撮影延長距離は209,391km、航空磁気測量の延長距離は127,500kmに及びました。最近はドローンが普及したため、航空写真が身近になりましたね。ドローンに搭載するカメラは「ゴープロ(GoPro)」とかSONYの「アクションカム」とかアクションカメラ(ウェアラブルカメラ)もしくは、中・小型の一眼が多いですね。ドローンの機体サイズと推進力を考えたら、これが精いっぱいでしょう。それより墜落したときの被害額が大きいですものね。これが業務で使う航空カメラとなると、こんなものでは役に立たないので、もっと大型のカメラになります。だいたい2種類に分類されますね。ひとつは普通のカメラに暴風性能などをアップさせた手持ちカメラ。もうひとつは航空写真専用の大型機です。大型機と云うのは、先に述べた「くにかぜ2」のRC-30のように、小型飛行機の床に穴を開けて取り付ける大きなカメラを云います。フイルム時代でも、普通の写真では先ず使わない23cm×23cmと云う特大のロールフィルムを装着します。そして測量に使えるようゆがみのほとんどない広角レンズや超広角レンズで300mm ぐらいのを搭載しているのが特徴です。しかし、測量用航空写真の航空カメラは、カメラ本体だけでも大きいのに、フィルムの送りやシャッター作動を飛行機の速度に対応した自動装置にしたり、画面の周囲に指標を備えたりととかく大掛かりです。そんな大掛かりの装置より、手持ちの航空カメラの方が興味が湧きます。もちろん手持ちなので、フイルムも本格的なカメラ用と比べるとずっと小さい。と云ってもブローニーとか4×5インチサイズですから、普通の35mm フイルムと比べるとずっと大きいので、カメラも大型化しますが。こうした手持ちフイルムカメラは、航空写真業界では今でもデジタルカメラと併用されているようです。現在の日本の航空写真業界ではペンタックス6×7の航空写真仕様「エアロタク・ペンタックス6×7」が多く使われてるようです。こうしたカメラは超広角レンズなのでピントあわせはついていません。すこし前だったら「コニカの航空写真用カメラ」とか、もっと簡易的な方法としては特殊な魚眼レンズを普通のカメラに装着して撮影がおこなわれたようです。これは昭和35年から36年までニコンで製造された「全天カメラ」です。魚眼専用カメラなんですね。その画角は180度、つまりレンズの最先端から前の被写体はすべて写ると云う代物です。フイルムは120ブローニーで、6×6判に直径50mm の円形写真が写し出されます。ところで、こうしたカメラには「ニコン」と云うロゴが入っていません。特需要として作られたカメラにはロゴを入れなかったようです。納入先は気象庁や防衛庁などの官の他にNHKなどにも納入されましたが、総生産台数は30台しかありません。ニコンそのものにも資料が残っておらず、まさに幻のカメラです。手持ちの航空カメラで最も有名なのは「エアロテヒニカ」です。世界で初めて組み立て式フィールド用大判カメラを製造したパイオニア、ドイツのカメラメーカー「リンホフ」の製品です。4×5インチのフイルムを使う「エアロテヒニカ」は1972年に発売されて、宇宙船ディスカバリーから地球の写真撮影をするのにも使用されました。リンホフには他に6×9cm判や6×7cm判でグリップでフィルム巻き上げとシャッターセットを行なえ、3秒1コマでの連続撮影可能な「エアロプレス」。同じく航空撮影用で1983年に発売された「エアロトロニカ」と航空写真機では豊富な種類を誇っています。初めて、航空機にカメラを装填したのは1914年ですが、1917年に非常にユニークな航空カメラが作られています。イギリス製の「ウィリアムソン航空カメラ」。このカメラは先についているプロペラの回転のちからでフィルムを巻き上げる仕組みになってます。また撮影レンズは底の部分についています。このカメラは飛行機の機体外部に取り付けて使用されました。このカメラをセスナ180に取り付けて写した写真が残っています。やはり古いカメラなので、画像が鮮明ぢゃないですね。これは「フェアチャイルド」の手持ち航空カメラです。手持ちと云ってもこのサイズ。航空カメラがいかにバカでかいものかよく分かる画像です。こっちは、このブログで最初に掲出した「フェアチャイルドK-20」。軍用の航空カメラです。フェアチャイルドは、1925年~2002年まで活動したアメリカの航空機メーカーです。同社が制作した最も有名な機体は湾岸戦争やイラク戦争で大活躍した「A-10サンダーボルトII」戦闘機です。これは1939年に製造された「九九式極小航空写真機」。製造メーカーは銘板に「小西六写真工業」とありますから「コニカ」です。「東京光学(現・トプコン)」も同じ型のカメラを製造してました。とても風が強いなかで撮らなければならないので、金属で丈夫に作ってあります。「東京光学」は、もともと帝国陸軍が関与して設立された会社ですので、製造は当たり前のことだったのですね。ちなみに海軍が関わっていたのが「日本光学工業(現・ニコン)」。他には、「高千穂光学工業(現・オリンパス)」「富岡光学器械製作所(現・京セラオプテック)」「榎本光学精機(現・富士フイルム)などが日本軍の光学兵器を開発・製造してました。
Jan 3, 2018
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コンセプトカーと云うのは、自動車メーカーが展示目的で製作した自動車のことですね。モーターショーや、各メーカーのショールームなどで展示される。アメリカでは1950年代からコンセプトカーってのは存在してたそうで、「ドリームカー」「フューチャーカー」「ハローモデル」などと呼ばれてました。アメリカのコンセプトカー登場のきっかけは、SFパルプ雑誌に頻繁に登場していた「空飛ぶ自動車」のデザインを採り入れたコンセプトカーの展示が展示会などで好評を博し、実際に商品化を望まれたことによるものです。先ずは1933年に発表された「ダイマクション」。アメリカの発明家で建築家のバックミンスター・フラーが設計した三輪自動車のコンセプトカーです。1938年に発表された「ファントム・コルセア」。トマトケチャップで有名な「ハインツ」創業一族のRust Heinz氏がデザインした6人乗り2ドアセダンのコンセプトカーです。この車は実際に生産・販売される予定でしたが、Rust Heinz氏が自動車事故で亡くなってしまったため計画で終わっています。なんか昔のバットマンカーを彷彿させるこの車は「アルファロメオBAT5」で1953年に発表されました。イタリアのカーデザイナー、フランコ・スカリオーネ氏デザインによるアルファロメオ「BAT」プロジェクト初のモデルです。1954年に発表された「フォード・ジャイロン」デザインは、映画「ブレードランナー」や「トロン」のカーデザインで有名なアメリカの工業デザイナーのシド・ミード氏です。1955年のルマンに出場したレーシングカー「ナルディ・ビシルーロ」。ビシルーロとは双胴魚雷を意味します。ちなみ、レースは3時間でリタイアとなり、現在はイタリア・ミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチ記念国立科学技術博物館に所蔵されています。同じ1955年に発表された「リンカーン・フューチュラ」。アメリカを代表する高級車ブランド「リンカーン」のコンセプトカーです。11年後の1965年にTVのバットマンに登場する「バットモービル」へと改造されました。1956年発表の「オールズモビル ゴールデンロケ」。オールズモビル社はランサム・E・オールズが、1897年にミシガン州のランシングに設立した自動車メーカーですが、この車が発表された当時は現在のゼネラルモーターズ・コーポレーション (GM)に買収されて、単なるブランドとしての位置にしかありませんでした。それも2004年に廃止されています。この車はママ専用に作った2人乗りのショーカーです。1950年代の自動車雑誌を賑わせた宇宙時代の自動車の代表的なコンセプトカーがコレ!「フォードX2000」。かつてイギリスに存在していた自動車メーカ「メドウズ・フリスキー」がデザインした3輪自動車が1959年発表の「フリスキー・ファミリー・スリー」。これもスゴイ形の車です。1960年に発表された「プリムス XNR」。クライスラーが所有していたブランド「プリムス」の2シーター・コンバーチブル・コンセプトカーです。こっちは1962年のアメリカ・シアトルで開催された「シアトル万国博覧会」で公開されたフォードのコンセプトカー「フォード シアトリティ XXI」。「ダッジ・デオラ」。1965年に発表されたダッジのピックアップトラック「A100」を改造して作られたコンセプトカーです。ドアがらしきものが見当たらないこの車、乗り方はフロント部分がハッチバックのようになり、フロントガラスを持ち上げて乗り込むそうです。そろそろ国産車いってみましょか。「トヨタ EX-III」1969年。う~ん、デザインが面白くないですね。こっちは大阪万博のイタリア館に展示されたコンセプトカー「フェラーリPF512Sモデューロ」。もちろん1970年の発表です。現在はフェラーリ本社に展示されています。最後にスロバキアのアーティストMatus Prochaczka 氏が2007年にデザインした「マグネットカー」なるものをご紹介しましょう。この車は磁力と電気モータで走行します。しかしコンセプト・デザインとありますから、実用的なものが作られたかは不明です。
Jan 2, 2018
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明けましてオメデトーございます。意味不明、ヘンなブログですが、今年もよろしかったらお付き合いください。天皇陛下の退位日が来年の4月30日ですから、平成もいよいよ余すところ今年1年と4ヶ月になりましたね。30年3ヶ月ですか...私ら昭和中期以前の生まれは、シーラカンスと同じ生きてる化石と相成りました。なにしろ今上天皇よりも、昭和天皇の方がお付き合いが長い口なんですから。歴史の上で昭和みたいに60年以上続いた元号は世界中で他に、清の康熙(61年)と乾隆(60年)しかないそうですね。私はかろうじて太平洋戦争は知りませんが、それでも1945年(昭和20年)8月15日の終戦から5年しか経ってない1950年生まれ。幼いころは、家が貧乏だった(今でもですが)こともあり、ずいぶん貧相な生活を送ってきました。しかし、思い出は誰しも甘く切なく。今となっては、良いことしか記憶に残っていません。私の生まれた1950年は、特急「つばめ」が運転を始めた年で、東京-大阪間を9時間で走行してました。そうそう朝鮮戦争が始まった年でもありました。しかし私の年代だと、朝鮮戦争より、ベトナム戦争の方がグッと身近です。とりわけ私のようにベトナム戦争当時、ベトナムの隣国タイに行ってた身には、国内に居る人と違って切迫した問題でした。なにしろベトナム上空はミサイルが飛んでくるかもしれないので、日本からの飛行ルートはずっと迂回したルートで、時間も今より2時間ぐらい余分にかかっていました。戦争を知らない世代のハズなのに、あんなに戦争と隣り合わせの体験はちょっとできません。とにかく私のように短い半生の間でも、主だっただけで朝鮮戦争、ベトナム戦争、印パ戦争、中東戦争、パレスチナ紛争、アルジェリア戦争、ハンガリー動乱、コンゴ動乱、ビアフラ戦争、カンボジア内戦、ソ連のアフガニスタン侵攻、イラン・イラク戦争、フォークランド紛争、アフガニスタン内戦、湾岸戦争、ボスニア紛争とコソボ紛争、チェチェン紛争、イスラエルのガザ侵攻、そして北朝鮮問題と、毎日、地球上のどこかで殺戮が行われている。これくらいバカな生き物っています?人間って。他の生き物は、自らの生存のためにだけ狩りをしますが、人間だけは宗教と云うオブラートに包んだ経済戦争、それも一部の特権階級のために殺戮をくりかえす。それもテロ行為の蔓延で、どんどん状況は悪くなるばかり。いっそ人類は全て滅んだ方が、この星はよっぽど幸せでしょうね。お話しは飛びますが、冒頭に唱えたシーラカンスって、白亜紀(約1億4,500万年前~6,600万年前)に絶滅したと思われてたのですね。1938年に現生種の存在が確認されるまで、ずっと絶えた種族だと考えられてた。なんと最も栄えたのはデボン紀(約4億1,600万年前~約3億5,920万年前)なんだって。えらい長い間、種を保ち続けたものです。そこいくと北京原人でさえ、たかだか50万年くらしか時間が経過していません。人間なんて、でかいツラしてこの地球を蹂躙する資格がないのです。なぁ~んて、正月そうそうグチ話しになりましたが、お互いに生き物と自然を大切に、そして無用な争いごとの無い1年でいましょ。みんながそう云う気持ちを持ち続けられたら、いつかはもっと住みやすい星になるでしょう。いつかは...♪人生は紙飛行機 願い乗せて飛んで行くよ風の中を力の限り ただ進むだけその距離を競うより どう飛んだか どこを飛んだのかそれが一番 大切なんださあ 心のままに 365日
Jan 1, 2018
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