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<平成20年1月23日、サクラコ天使になって100日目>今日はサクラコが天使になって100日目だ。神道では「100日祭」に当たる日だが、我が家では特段の祭事はせず、家族だけで偲ぶことにしていた。定時に退庁し、サクラコにちなんで桜餅を買って帰ろうとボンベルタの地下にいた時、U先生から電話があった。U先生は「授業は無事終わりました。メッセージビデオを見て、涙ぐむ子どももいました。命に対する思いは伝わったと思います。サクラコちゃんにも報告してください。授業が終わって子ども達に手紙を書かせたのですが、読んでみると思った以上にいろいろと考えてくれたようです。誤字や失礼な表現もありますが、修正を加えず、子ども達の書いたままの形で○○さん(私の名前)に手紙をお渡ししたい」と話された。U先生には「サクラコの霊前に報告します。取り上げていただきありがとうございました」と感謝の気持ちを伝えた。出向先の学校でも感じたのだが、子どもの感性には驚かされることがある。子どもだと言って侮ってはいけない。大人があれこれ考えるより、素直な気持ちをぶつけてみれば、子どもなりに一生懸命考えるのかもしれない。帰宅してサクラコの霊前に桜餅を供え、U先生の話を報告した。なぜかヤマトも私の横で「なむなむ」といって手を合わせていた。そして今、この日記をサクラコの霊前で書いている。写真のサクラコはいつもにっこり笑っているが、今見た写真は「お父さんよかったね」って笑っているようにも見える。ああ、サクラコが天使になって100日が過ぎたんだなぁ。
2008年01月23日
<平成20年1月19日、サクラコ天使になって96日目>U先生から「サクラコちゃんのことを授業で話したい」という申し出を受け、その後、電話で色々と話をした際、U先生から「授業のまとめの部分でサクラコちゃんの話をしようと思いますが、私があれこれ言うと『私の言葉』になってしまいます。○○さん(私の名前)達の思いをダイレクトに子ども達に伝えたいので、メッセージビデオで直接、サクラコちゃんに対する思いや子ども達に伝えたいことを話していただけないだろうか」との話があったので、この日はそのメッセージビデオを撮影することにしていた。普段、サクラコの話はすらすらと話せるのだが、いざメッセージビデオで、小学4年生に向けて簡潔に話そうとすると難しいものだ。あれこれと考え、あんちょこを作り、サクラコの霊前で撮影に臨んだ。約1分半、私なりの言葉で○サクラコが産まれ、しばらくは楽しく過ごしていたこと。○サクラコの病気が分かり入院して、サクラコが一生懸命病気と闘ったこと○サクラコが亡くなり、とても悲しかったこと○サクラコから 「命は1つしかないからこそ大切なものである」 「大切な命だから自分と命と同じように人の命も大切である」 「命は限りがあるからこそ1日1日を大事にしなければならない」 と教えてもらったことを話し、最後に「命」について考えて欲しいと話した。撮影を終え、U先生を見送った後、「うまく伝えられるだろうか」とか「ああいえばよかったかな」などとあれこれ考えたが、最終的に「たとえメッセージビデオで子ども達にうまく伝わらなくても、最低限U先生には私たちの思いがしっかり伝わった。そのU先生がこれからも教壇に立ち続けるのであれば、それで十分かも」との思いに至った。
2008年01月23日
<平成20年1月17日、サクラコ天使になって94日目>私は今の職場に来る前、3年間、小学校に出向していた。この日、残業中に出向先の小学校で知り会ったU先生から電話があった。U先生は今は転勤して偶然にも私の妻の母校に勤務している。U先生はとても言いにくそうに「今度、『命』をテーマにした授業をするのですが、授業の最後の5分くらいでサクラコちゃんの話を実際にあった話として子ども達に話したいのですが・・・。まだ、日が経っていない中でこんな申し出はどうかとも思ったのですが、なんとか命の大切さを子ども達に伝えたいと思います。了解していただければ、忙しい中すみませんが取材もさせていただきたい」と話された。願ってもないことだった。U先生がサクラコの通夜に来ていただいた時、私が「サクラコの死を経験した私たちは、これから親になる人や子供を持つ親御さんなどに、命の大切さなど伝えていきたい」と言ったことを覚えていてくれたようだ。U先生は「指導案(学校の先生方が研究授業などをする際に作成する授業の計画書のようなもの)をメールで送ります。返事はそれを読まれて、賛同していただいてからで結構です」と慎重に言ってくださったが、U先生の人柄を承知している私は「ありがたい話です」と快諾した。その夜、送られてきた指導案に目を通した。妻にも読ませた。指導案を見て気付いた。この命の授業が行われる1月23日はサクラコが亡くなって100日目。神道では100日祭に当たる日だった。サクラコの話を妻の出身校で取り上げてくださることにも縁を感じたが、その授業が100日祭の節目に当たる日に行われることにも縁を感じた。「おい、サクラコ。おまえやっぱり天使だったんじゃねえか」U先生に改めて、了解の意と感謝の気持ちをメールした。
2008年01月23日
<平成20年1月8日、サクラコ天使になって85日目その2>たか先生達は忙しい身だろうと思い、あいさつもそこそこに大学病院を後にした。妻に「あんた、なんも話さんかったけど、よかったの」と聞くと「何言っていいかわからんかった」とのことだった。「サクラコの病気が10万人に1人だということは、宮崎県で1年間に1万5千人の赤ちゃんが産まれてるから、県内で6年半の間に産まれた子供の中で1人っていう確率だよね。県内の全小学生の中で1人の確率だよね。こんなことがよりによってウチに起こったんだね」帰りの車中、そんなことを話しているとケーキ屋さんが見えてきたので、サクラコちゃんの霊前に供えようとショートケーキを買った。もちろん、私たち、ヤマト、ばあちゃんの分も一緒に。妻が「気持ちを切り替えるためにスタバに寄りたい」と言ったので、スタバに寄った。たか先生の言葉を思い出し、「サクラコ、俺たちと一緒にいたくて頑張ったって言ってたよねぇ。葬式の日、アンタの母さん(妻の母)が『この子は本当に天使で、あんた達の家が楽しそうだったから、ちょっと遊びに来たのかもしれんね』と言ったけど、俺、そんな風に思えるときがあるんだよねぇ」と言うと、妻が涙ぐんでしまった。「ゴメン、こんな話をすると気持ちの切り替えにならんね」とは言ったものの、妻もサクラコへの思いに浸りたかったのか、それはそれでいいようだった。家に帰り、サクラコの霊前にケーキを供えた。妻と手を合わせ、「解剖の結果でもサクラコちゃんが頑張ったってことがわかったんだって。たか先生が言ってたよ。サクラコちゃん凄いね」と報告した。妻が夕食の支度をしている間、ばあちゃんにも解剖結果やたか先生の話を話した。「ついこの間まで、○○(妻の名前)が晩飯の用意をしているときに、お母さん(ばあちゃん)がサクラコを抱っこしていて、その周りを俺とヤマトが追いかけっこしていて、みんなでゲラゲラ笑ってたよね。ウチは幸せすぎたのかなぁ」と話すと、ばあちゃんは言葉に詰まったのか「そうやったね」と言うだけだった。
2008年01月08日
<平成20年1月8日、サクラコ天使になって85日目>昨年暮れ、サクラコの病理解剖の結果が出たと大学病院から連絡があった。年明けの火曜日又は木曜日の都合がよい日に説明したいとのことであったので、1月8日を希望していた。ヤマトをばあちゃんに託し、私と妻とで大学病院に行った。大学病院の敷地に入ると、否応なしにサクラコが病気と闘った時のことを思い出してしまう。「この入り口から運び込まれたんだよね」救急車で運び込まれた時と同じ入り口から建物に入った。約束の時間より20分ほど早く着いたので、なんとはなしに売店に寄った。サクラコによく似たオラウータンのマスコットを買った売店だ。そのマスコットと同じものはもう置いてなかった。「ほら、買っておいてよかっただろう」私が自慢にもならない自慢を妻にした。妻も「そこの裏の棚にずら~っとあったらおかしいよね」と笑いながら話した。そんな軽口をたたいていないと、大学病院の情景を見るだけで無口になり、涙が出そうだった。約束の時間になり、小児科に行った。少し待たされた後、たか先生の外来診療の部屋に通された。たか先生、くう先生、こん先生。サクラコの病気と闘ってくれた先生方が勢揃いした。たか先生から「剖検記録」のコピーを手渡され、説明を受けた。説明の要旨は○左心室の内膜に心内膜線維弾性症の所見が見られ、「心内膜線維弾性症」と断定された。○心筋炎は認められず、後天的な要素はない。「心内膜-」による死亡だった。○母親(妻)の検査結果からも遺伝的要素は認められない。というものだった。説明を聞きながら、私も妻も泣いてしまった。一通りの説明を聞いて、私は「この子には、親として後悔があります。重篤になる1週間前に予防接種を受けに行った時、一般外来患者と隔離された時間帯に予約していたにもかかわらず、親の都合でわざわざ一般外来患者と同じ時間帯に変更してしまった。(感染症を避けるべき)病気を持つサクラコにとって最悪の選択をしてしまった」「素人の私が失礼な言い方かもしれませんが、先生方はサクラコの心臓のコントロール自体には成功していたと思います。ただ、もう、にっちもさっちも行かない状況になってからここ(大学病院)に来ました。先生方も救命に力を注がざるを得ない状況だった。もっと早く私たちが病気に気付いて、先生方と出会えていたら、この子は年を越せたんじゃないかと・・・。そんなことを考えてしまいます」と泣きながらサクラコに対する後悔を話した。たか先生は「親御さんが後悔をされる気持ちはよくわかります。大切なお子さんを亡くされたわけですから『ああすれば、こうすれば』と思うこともあるでしょう。ただ、解剖の結果からわかるとおり、この病気は全くもって先天的なものだったんです。後発的な要因はない。そしてサクラコちゃんは、この病気を持ちながら、産まれて3ヶ月以上も元気に育っていた。なぜ元気な姿を見せていたんでしょうか。私はサクラコちゃんがお父さんお母さんのそばにいたかったからだと思いますよ。サクラコちゃんは頑張って5ヶ月も普通の生活をしていた。結果的に入院は数日間だった。私の(過去の)経験上、すごいことですよ。あなた方と一緒にいたかったから重篤になる直前まで精一杯頑張った。私にはそう思えます。サクラコちゃんは一緒にいたくて精一杯頑張ったのに、あなた方が後悔ばかりしていたらサクラコちゃんがかわいそうじゃないですか」と言われた。たか先生の言葉に更に涙が出た。「そうだよね。後悔ばかりしていたんじゃサクラコちゃんが悲しむよね」そう思えてきた。最後に、「私はもう医者にはなれません。だから、私に出来ることは、こんな病気があることを周りにいる子供を持つ親やこれから親になる方々に伝えていきたい。そして、役人の端くれである私は医者にはなれなくても医療行政に関わるチャンスはあるかもしれません。その時は検診のシステムなど考えていきたい。これからそういうことを考えながら日々、過ごしていきたい」嗚咽でうまく話せなかったが、私はお世話になった先生方に決意を伝えたかった。たか先生はほんの一瞬、にっこりとされた。
2008年01月08日
2007年、私は厄年だった。2月上旬、遅れながらも同級生と厄払い祈願もした。厄年。後から思えば、今年は何かヘンだった。4月上旬、熱っぽかったので受診。インフルエンザに罹患していた。産まれて初めてのことだった。サクラコを出産する直前だった妻とヤマトをその日のうちに実家に避難させた。4月中旬、1週間以上の頭痛に悩まされ受診。緊張による極度の肩こりとの診断。職場の係メンバーが私を除き総入れ替えだったこともあり、自覚しない緊張があったのかもしれない。5月、原因不明の発疹にて受診。はしかだとヤマトにうつしてしまうので、大急ぎで受診。身に覚えはないが「虫さされ」との診断。6月下旬、喉の腫れから発熱。毎年、草野球の仲間と出場することが恒例となっていた「玉入れ大会」をドタキャン。メンバーに迷惑をかけた。8月上旬、またしても喉の腫れから発熱。8年ぶりくらいに39度以上の熱。草野球結成記念日に仲間と飲むことになっていたが、またしてもドタキャン。そして、中旬、原因不明の発熱。またしても39度超の熱。9月中旬、微熱で寝込む。とにかく体調が悪かった。熱が出ることなんて年間1回あるかないかだったのに、毎月のように熱発した。「厄年ってこんなものなのか。迷信ではなく身体の変調がある節目の年齢なのかな」と思っていた。そして、10月にサクラコが逝ってしまった。「子どもの病気に気を付けろ」神様が私の身体に病気を刻むことで、注意を喚起していたのかもしれない。サクラコが逝ってから、あれほど私を悩ませていた喉の腫れや発熱がぴたりとなくなった。まるで、サクラコが私を守ってくれているかのように。サクラコちゃん、私の「厄」まで請け負ってくれたのかな。手のかからない親思いの子どもだったけど、そこまでやんなくても良かったのに。父と娘の話がしてみたかったな。
2007年12月31日
サクラコが逝った2007年がもうすぐ終わる。28日、咳をするのでT小児科を受診したヤマト。今日までは咳だけだったが、昨夜、寝た後、度々ぐずって起きたヤマト。今朝方、ついに熱を出した。在宅医を調べたところ、サクラコが亡くなる10日前に受診したC小児科。「サクラコの病気を発見できなかった」というイメージで見てしまい、サクラコの件以来、足が遠のいていたが、久しぶりに受診。診断は「風邪」。混雑していたこともあり、サクラコのことは話題にしなかった。21時過ぎまで、「まだ寝ら~ん」と言っていたヤマト。熱を測ったら、38度1分。22時には見ていたテレビも消して就寝。熱性けいれんなどを起こすかもしれないので、起きてヤマトを見守ることにした。23時、熱が39度にまで上がっている。ヤマトがきつそうなので水を与え、解熱剤を飲ませた。本当に「風邪」なんだろうか。疑いだしたらきりがないが、子どもの病気は心配でたまらない。怖い。どうか無事に回復しますように。サクラコちゃん、お兄ちゃんを守って下さい。
2007年12月31日
少し前の話題になるが、毎年、12月12日の漢字の日に発表される今年の漢字は「偽」だった。我が家でも毎年、この時期になると、冗談で「我が家の今年の漢字は何?」という話になる。「今年の我が家の漢字は『心』かなぁ」と私が言うと、妻も同意した。心。サクラコちゃんの心臓の「心」。そして、サクラコちゃんのことで人の優しさ、ありがたさを知った。人の「心」。来年の我が家の漢字は何になるのだろう。
2007年12月28日
先日、職場の忘年会があった。周りが私に遠慮してか、飲み会に誘われていなかったので、忌明け以降、職場関係の飲み会には行くようにしていた。もちろん、妻も容認している。1次会が終わり、2次会に向かう途中で上司から「○○さん(私の名前)作詞とかするの」と問われ、「いや~、そんな才能はありませんよ」と答えた。上司は「実は、言おうか言うまいか迷っていて、結局、言っちゃうんだけど・・・。何かあんたの心情を歌ったんじゃないやろうかというような歌を聴いたんだよ。知らない?」全く心当たりがなかった。上司の記憶もあいまいで、私自身もその歌も知らなかったので、2次会の会場で若手に聞いてみたが、誰もわからない。ただ、曲名が「さくら」というらしい。家に帰り、ネットで調べてみた。あった。たかのけんいちさんが歌っておられる「さくら さくら 君に会いたいよ いやだ君に今すぐ会いたいよ」で始まるこれだ。曲の一部を視聴することができたので、視聴もしてみた。歌詞の内容は本当に今私の気持ちを代弁するかのような歌だった。この歌は西加奈子さんが書いた同名の小説をモチーフに作られた歌で、たかの氏も限りある命だからこそ、そこに幸福があるというような意味で書かれた歌詞らしい。どんな小説なのだろう。今度はその小説について調べてみると、、、その小説に出てくる「さくら」とは、どうやら犬の名前らしい。犬の名前であっても、何だかうれしかった。上司がその歌を聴いて、サクラコに思いをはせてくれたということがうれしかった。命が大切であることは人間も犬も一緒だ。「周りの方々がサクラコちゃんを心に留めてくれている」そう思うと心が温かくなった。
2007年12月28日
<平成19年12月23日、サクラコ天使になって69日目>妻が部屋の掃除をするため、昼過ぎ、ヤマトを連れてイオンに行った。イオンはクリスマス客でごった返していた。昨年のクリスマスは、サクラコは妻のお腹にいた。「来年はもう1人増えてにぎやかなクリスマスになるね」そう話していたんだけどなぁ。ヤマトは前日、ばあちゃんと祖父母(妻の両親)の両方からクリスマスプレゼントをもらっていた。通常、24日又は25日にもらうものなのだろうが、ばあちゃんも祖父母もヤマトが喜ぶ顔が見たくて待ちきれない様子で、私たちもサクラコの一件以来、「あの時渡していれば」なんて縁起でもないことが頭をよぎったりして、22日に渡すことを容認した。プレゼントはヤマトのハートをがっちり掴み、昨日はもらったものでご機嫌に交互に遊んでいた。寝るときはばあちゃんからもらったプラレールの新幹線を抱いて寝ていた。ヤマトだけがクリスマスプレゼントをもらうことに理不尽さを感じた。もちろん、ヤマトに全く罪はない。サクラコに何か買いたくなった。イオンの中に女の子が喜びそうなものを扱っているショップがあった。「ヤマちゃん、サクラちゃんにプレゼントを買おう」ヤマトと一緒にショップに入って、いろいろと物色した。アザラシがウサギの着ぐるみを着たぬいぐるみがあった。ヤマトが「こえしよっか(これにしようか)」と指さす。それに決めた。家に帰り、サクラコの祭壇に「お兄ちゃんと一緒に行ってお兄ちゃんが選んでくれたんだよ」と言ってぬいぐるみを置いた。「サクラコちゃん、よかったね」妻が言う。「やーちゃんがこえしよっかっていったねえ(やまちゃんが、これにしようかといったんだよ)」とヤマトが自分が選んだことをアピールする。生きていれば、8ヶ月。ぬいぐるみに十分反応を示す月齢だ。サクラコ、喜んでくれたかな。でも、やっぱり、お父さん寂しいよ。
2007年12月28日
10年くらい前に同じ係だったIさんの息子さんY君が20日に亡くなられた。13歳だった。Iさんはサクラコの葬儀にも来てくださった方だったが、Y君が病気などという話は聞いていなかった。亡くなった原因はよくわからないが、突然のことだったようだ。Iさんと同じ係だった時、当時独身だった私は、一度、夕食にお呼ばれしたことがある。その時、2歳くらいの男の子がちょろちょろとして、しきりに覚え立ての言葉で話しかけてくれたのを覚えている。今のヤマトと同じくらいだ。その子がY君だ。告別式に参列したが、祭壇を見て涙が出た。突然の不幸にみまわれたIさん家族のことを思うと胸が苦しくなる。遺族代表謝辞でIさんが「人の一生に長い短いはありませんが、13歳という年齢がYの寿命だったようにも思える。その13年間を精一杯生きました」旨の話をされた。悲しすぎる現実をIさんが受け止めるには「寿命」と思うしかないのかもしれない。子どもの葬儀は悲しすぎる。もう嫌だ。サクラコちゃん、Y君がそっちに行ったよ。きっと、優しいお兄ちゃんだから遊んでもらいなさいね。
2007年12月22日
<平成19年12月9日、サクラコ天使になって55日目>前の週に50日祭を終え、忌明けとなった我が家。忌明けに伴い、黒いリボンがはずされたサクラコの遺影は相変わらず笑っている。納骨を延期したため、祭壇はそのまま、御霊をお祀りしていない御神徒壇は閉じられたまま。ばあちゃんが庭に咲いた花を飾ったり、ありがたいことにお花を送ってくださる方がいて、祭壇は華やかだ。無宗教だった我が家は、サクラコの葬儀に際し、神式を選択した。なぜなら、サクラコが唯一、神々と関わったのは、宮崎八幡宮へのお宮参りであり、我が家が初詣に行くところでもあるからだ。神道を選んだものの、神道に対する知識は皆無だ。私は、神道のことが知りたくて、特に霊祭に関する知識や納骨に関して書かれたものはないかと先月末から仕事の帰りに本屋に立ち寄り、神道関係の本を読みあさっていた。びびっと来る本があれば買うつもりでいたが、どの本も私が知りたい「結局、御霊は今、どうなってんのよ」という部分が解説されているものはなく、立ち読みにとどまっていた。ただ、読みあさるうちに、少しだけわかったことがある。○神道に「教義」はない。○唯一神ではなく八百万の神が日々の生活、自然の中で我々に恵みを与えてくださっている。○死者に対して「穢れ」の概念がない。○八百万の神は結構、寛大だ。12月9日の夜、サクラコの納骨に関し、私の中にぱぁっとある考えが広まった。すぐに妻に私の考えを話した。それは、○サクラコの納骨は、今後、20年間、我が家の誰かが亡くなるまで行わない。○20年間で誰も亡くならなかった場合は独りでも納骨する。というものだった。「20年」という期間には意味がある。子どもはいずれ親の手を離れ、独り立ちする。だから、サクラコが二十歳になる年までは「子ども」として、家に置くが、二十歳を機に独り立ちをさせようという考え方だ。この結論に達した時、「この結論しかない」と思えた。神道がこういう考え方を認めるのかどうかはわからない。神道の本を読みあさった結果、ひらめいたものであるから、導かれたものかもしれない。ひょっとすると、新米神様のサクラコが、悩む両親にインスピレーションを与えてくれたのかもしれない。妻には「八百万の神は寛大だし、『それもありかなぁ』と認めてくれるんじゃないだろうか。もし、神道が認めないのであれば、オレが開祖となって、あくまで我が家はこのやり方で行く」と言った。妻は賛成してくれた。妻が内心どう思ったかはわからないが、私には妻の顔があかるくなったように感じた。別に新興宗教を起こすつもりはさらさらないが、大げさに「いざとなったら開祖」と決意してみると、自由に発想できるものだ。その日から、サクラコに関する我が家の教えは「心のままに」になった。
2007年12月16日
<平成19年12月2日、サクラコ天使になって48日目>この日は、天使になって48日目だったが、日曜日ということもあり、2日繰り上げて50日祭を行うことにした。家族、祖父母、義妹夫婦に加え、仲人夫妻(友人)にも参列していただいた。神官さんは、サクラコの告別式、10日祭と同じ方が来てくださった。この神官さんの妹さんは義妹の元職場の同僚で、私の所属する草野球チームの試合にも来てくれたことがあり、奥様は祖母がお世話になっている歯科医で、我が家としてはご縁を感じる方だった。10日祭の時に「告別式にはこれまで何度も行っていますが、サクラコさんの告別式では、あまりに悲しくて、プロとしてしっかりお勤めできるか心配でした」と告別式での裏話を話してくださり、家族一同、親近感を持っていた。納骨を延期した件については、「もとより穢れているものではありませんので、ご家族の気持ちの整理がつくまでは側に置いてあげても問題ありません。サクラコちゃんもその方が寂しくないでしょう」と話してくださった。霊前祭は淡々と進んだが、祝詞を上げている最中に、ヤマトはうろちょろし、とよちゃん(飼い猫)は玉串にじゃれるなど、「我が家らしい」50日祭だった。祭事後の食事には、我が家によく遊びに来てくれ、サクラコを一番抱っこしてくれていた友人2人にも来ていただき、楽しく食事をすることができた。この日をもって忌明けとなった。
2007年12月11日
<平成19年11月25日、サクラコ天使になって41日目>10時に御神徒壇(仏教でいう仏壇)が納品された。業者さんに納骨スペースについて訊いてみた。業者さんの説明によると、○お墓はコンクリートで基礎を作っている○死後は「土に還る」という意味で、わざわざ基礎の上から土を入れてある。○地球とつながりを持つため、基礎の一部は穴が開けてあり、土つながりとなっている。とのことだった。「そういうものなんだ」と自分に言い聞かせるように何度も思った。妻はサクラコが不憫でずっと悲しい顔をしていた。夕方になって、ある考えが浮かんだ。ホームセンターで綺麗な砂利を買ってきて納骨場所の土にまき、少しでもあかるい感じにしよう。また、骨壺の側に石か焼き物でできた人形を置いてあげよう。古墳だって死者が寂しくないように埴輪を埋葬してるじゃないか。この考えを妻に話すと、笑顔は見せるものの複雑な顔をしていた。夜、妻が申し訳なさそうに私に「納骨、延期できないかな」と言った。妻は続けて「サクラコちゃんは、クリスマスもお正月も迎えることが出来なかった。あんな寂しい場所で独りでいなきゃならないかと思うと可哀想すぎる。1年はみんなと一緒に過ごさせたい」と涙を流して言った。私はあっさりと承諾した。自分自身、納骨に際し、無理に納得しようとしていたが、妻に言われて気持ちが楽になった。ばあちゃんと妻の実家に予定通り50日祭は行うが、納骨は延期する旨連絡した。誰からも異論は出なかった。1年祭まで、納骨は延期することにした。しかし、1年後、果たして納骨することができるだろうか。
2007年12月11日
<平成19年11月24日、サクラコ天使になって40日目>好天で温かかったこの日、サクラコの納骨を控え、我が家の墓を掃除することになった。「我が家の墓」とはいっても、私とばあちゃんが平成5年に生前建立したものなので、まだ、誰も入っていない。まさか、一番年少者のサクラコが一番先に入ることとなるとは・・・。考えもしないことだった。私、妻、ばあちゃん、ヤマトに加え、祖父(妻の父)が来てくれた。みんなで墓の周りに生えた草をむしり、墓石に水をかけ、拭きあげた。ヤマトは途中まで参加していたが、飽きたのか墓の周りをウロウロしていたが、案の定、転んで左の目尻を擦りむき、大泣きだった。ひととおり作業を終えた後、墓石内の納骨する場所を確認した。そこは、土が剥き出しの寂しい感じの場所だった。そこにいた誰もが「こんなところにサクラコが入るのか」という思いだった。にぎやかで楽しげなお墓があろうはずもない。しかし、たった5ヶ月でこの世を去ったサクラコがひとりぼっちでここにいるのかと思うと、かわいそうになった。「納骨するとはそういうものなのだ」と自分自身を納得させようとしたが、あまりの寂しさに心に引っかかるものがあった。翌日、御神徒壇が届くので、業者さんに「納骨スペース」について聞いてみようと思った。
2007年12月11日
たくさんの方々からコメントをいただきました。ありがとうございました。パソコンが修理から帰ってきましたので、少しずつ更新します。また、病気についてのおたずねがありました。大学病院から病理解剖の結果説明を受けてから、病気について書きこみたいと思います。ただし、医学的知識がないものですから、「素人の説明」になってしまいます。ご了承下さい。
2007年12月09日
「サクラコ175」を読んでいただいてありがとうございます。パソコンを修理に出しますので、しばらく更新できないかもしれません。
2007年11月23日
<平成19年4月25日、サクラコ1日目>出勤前、妻が「陣痛にはまだ早いと思うんだけど昨日の夜から少しお腹が痛いから病院に行ってくるわ」と言った。「何かあったら携帯に電話して」と言って家を出た。出産予定日の3週間前だった。4月の人事異動で私の係の係員は私を除き総入れ替えだった。係でも年長者になった私は、少しでも早く慣れてもらうため、代わる代わる新しく着任した職員を自分の仕事に同行させていた。その日の同行者はO君。銀行を6店舗くらい回る予定だった。2店舗回り終え、小戸之橋を渡っていたところに、妻からメールが来た。「都合のいいときに電話下さい」折り返し電話すると、妻が「早いけど産まれるみたい。今から分娩室に入る」とのことだった。O君が「職場に戻りましょうか」と言うも、私は「いや、あと2件回ってから戻ろう」更に2店舗回ってから職場に戻る。2人目の子ども。それくらい気分的に余裕があった。職場に帰り、後処理をして、上司に「もうすぐ産まれそうなんで午後から休みます」と言って休みをもらった。職場から妻がいる病院は目と鼻の先だ。病院に行くと、看護師さんが「経産婦さんだから午前中に産まれるかと思ったけど、今は落ち着いていてお母さんはこれから食事をとるところです」と言われたので、自宅に帰り、ビデオカメラなどを持って出直すことにした。出直して病院に行き、分娩室にはいると、妻は病院から出されたうまそうな弁当を食べていた。ヤマトの時より格段の余裕を感じる。「1度産んでると強いね」13時くらいから陣痛の間隔が短くなり、14時にはあっさりと産まれた。産まれたときから手のかからない子だ。名前は前々から決めていたので、はじめから「サクラコちゃん」と呼んでいた。「ちっちゃいね」「顔が女の子だね」「髪の毛多い」助産師さんに身体を洗ってもらい、初乳を与えた。初めから器用に乳首を吸うので、妻もびっくりしていた。妻を休ませるため、病院を出た。その日もいい天気だった。ヤマトが産まれたときもそうだったが、子供が生まれたときに見る街の景色は本当に活き活きしたものに見えた。私は山形屋に行った。サクラコが年頃になったときプレゼントするアクセサリーを買うためだ。ちなみにヤマトが産まれたときは腕時計を買った。山形屋のショップ内に入り、あれこれ見て回る。すかさず店員さんがスクランブルする。私「娘にプレゼントするものを選びたいんですけど」店員「娘さん、おいくつくらいですか」私「さっき産まれたんですよ」店員「(何?この人といった顔で)えっ・・・」店員さんが「???」な感じだったので(あたりまえだが)、私が「娘がおしゃれをして出かけるような年頃になったとき、『生まれた日に買ったもの』としてあげようかなと思うんです。身につけるものにしたくて、上の子の時は腕時計を買ったんですけど、今度は女の子なのでペンダントか何かにしようと思って」店員さんにも主旨が理解できたようだった。蝶をモチーフにしたペンダントとイヤリングのセットを買った。どんなシチュエーションで渡そうか、いろいろと想像した。サクラコから「お父さん、趣味わるぅ~」って言われるかもなんて心配もした。宮日新聞社にも行き、その日の新聞を買った。夜、ヤマトを寝かしつかせた後、私は「乾杯」がしたくて、ヤマトをばあちゃんに頼み、街に出た。野球仲間のK君がやっているバーに行った。サクラコが産まれたことを切り出そうとしたがなかなか恥ずかしくって言えなかった。K君が「(出産)予定日はいつでしたっけ」と聞く。K君、ナイスパス。私は「実は今日産まれたんだよ」と言ってビールを振る舞い乾杯をした。175日後のことは想像すら出来ない1日だった。 病院のベッドでお兄ちゃんが添い寝
2007年11月23日
<平成19年10月18日、サクラコ天使になって3日目>その日の朝は寒かった。出立ての膳が運ばれたが、あまり喉を通らない。そうこうしているうちに弔問客が見えた。野球仲間のY君。「昨夜は夜勤で来られなかったんです」Y君は看護師。夜勤明けで疲れているところ、わざわざ足を運んでくれたのが嬉しかった。神官さんへの挨拶、弔電の整理などしているうちに告別式の時間となった。告別式は淡々と進んでいた。ヤマトが退屈なのか、終盤で「おしまい、おしまい」と無頓着に口にする声が、シンとした斎場に響き、会場の雰囲気とヤマトの無邪気さのミスマッチが余計に悲しくさせた。告別式の最後に遺族代表謝辞としてあいさつをした。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆遺族代表謝辞全文遺族・親族を代表して一言ご挨拶を申し上げます。本日はご多忙の中、サクラコのためにご会葬くださいまして、誠にありがとうございました。ご挨拶の場をお借りしまして、サクラコを襲った病魔と小さい身体で力の限り病魔と闘ったサクラコのがんばりをお話しさせていただきます。サクラコを襲った病魔は「心内膜線維弾性症」という10万人に1人の割合で起こる先天性の恐ろしい心臓病でした。10月12日夕刻に病院に運ばれたときは心臓の8割は動いておらず、まさに瀕死の状態。転院先の宮大付属病院のスタッフの方々の懸命な処置によりなんとか命をつなぎ止めていました。13日午後には急変し、10分以上続いた激しいけいれんのため、心肺停止状態となりましたが、サクラコの生きようとする力により蘇生しました。「正直なところ、あの弱った心臓で、あの状況から蘇生できるとは思わなかった」とお医者様を驚かしました。そして、状態が落ち着いたところで、目を開け手足をバタバタさせ、あたかも私たちに「お父さん、お母さん私は生きているよ。あきらめないで」とアピールするかのようでした。その後、右肩下がりだった検査数値も、亡くなる前日の15日夜には初めて改善傾向を見せ、懸命に病魔と闘っている姿に何度も涙しました。「子どもは奇跡を起こす」という言葉が現実に思えてきました。しかし、16日朝についに力尽き、天国へと旅だって行きました。子ども達のヒーロー「アンパンマン」の主題歌にこんな一節があります。 なんのために生まれて、なにをして生きるのか、 答えられないなんて、そんなのは 嫌だサクラコは私たちにたくさん答えてくれました。笑いの絶えない生活を私たちにくれました。子どものいとおしさを教えてくれました。発病後も、身近なところで病気と戦う子ども達、親御さん、医療スタッフがいること、サクラコ自身の強さ、1日、1日の大切さ、そして、最後まであきらめないスピリッツを教えてくれました。サクラコはこの病魔の研究のため、心臓を提供しました。今後の研究により、これから同じ病魔と戦う子ども達や医療関係者の方々のお役に立つのであれば、それは懸命に救命してくださった医療スタッフに対するサクラコからのご恩返しであり、世の中の役に立てたという証になるのではないかと思っています。胸の傷とほっぺたの絆創膏かぶれは病魔と闘ったサクラコの勲章です。お見送りいただく際に一言、サクラコに「がんばったね」と声をかけていただければ幸いです。 平凡だけど楽しい我が家でした。そんな平穏な生活が突然絶たれてしまったのは返す返す残念ですが、「5ヶ月と21日」という短い人生の中で、皆様方と出会い、大変可愛がっていただきました。厚くお礼申し上げます。長くなりまして、はなはだ恐縮ではございますが、これをもちましてお礼の言葉とさせていただきます。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆途中でとちってしまったり、涙ぐんでしまったりしたが、参列いただいた方々にサクラコに対する思いを伝えることが出来た。「謝辞」になっていなかったかもしれないが・・・。告別式が終わり、いよいよ出棺となった。小さな棺はあっというまに花で埋め尽くされた。妻があらかじめ用意していた母乳をガーゼに含ませ棺に入れた。私はたっぷり涙を吸い込んだハンカチを入れた。お人形や天国で着る洋服も入れた。私はサクラコのほっぺにキスをして「よく頑張ったね」と声をかけた。棺が小さいので、私たち夫婦、ヤマトで持った。最近、お手伝いをしたがるヤマトは「よいしょ、よいしょ」と楽しそうに運んでいる。親族以外にもたくさんの友人がサクラコを見送ってくれた。うれしかった。霊柩車の中でいろいろとサクラコに話しかけた。ヤマトが棺の扉を開けたり閉めたりしていたが、「ヤマトなりにお別れをしているんだ」と思い、何も言わなかった。ヤマトのおかげで「不幸のどん底」な家庭の割には、霊柩車の中は笑い声もあったりした。「サクラちゃん、最後まで騒がしくってゴメンね。でも、にぎやかでウチらしいでしょ」火葬場が近づく。実は我が家から大学病院に行く経路上に火葬場がある。大学病院への往復で何度も火葬場を通ったが、その時、心の中で「絶対ここには来るもんか」と強く思っていた。そんな話をしているうちに火葬場に着いた。神事のあと、点火ボタンを押した。妻がどうなるか心配だったが、意外にもしっかりしていた。待っている間、妻は「少しでも近くにいたいから」とロビーのサクラコに一番近いところにずっと立っていた。私も一緒にいた。火葬終了の知らせが来て、お骨を拾った。骨はとても小さかった。一片たりとも残さないように家族みんなで入念に拾った。サクラコが亡くなった日、お骨をペンダントに入れて肌身離さず身につけていようと夫婦で話していたが、サクラコの骨を拾い終わって、なんだかサクラコが心の中に入ってきて、いつも一緒にいるような不思議な気持ちになった。「もうペンダントはいらないね」妻と話した。火葬というプロセスは、残された遺族にとって大切なものだと思った。 頭を持ち上げるサクラコと なぜか真似するお兄ちゃん
2007年11月20日
<平成19年10月17日、サクラコ天使になって2日目>アルバム作りをしている妻を尻目に、「明日があるから」と明け方3時に寝た。朝起きると、妻はまだアルバムを作っていた。ヤマトが起きてきて、妻の作業を手伝う(邪魔する?)「ヤマちゃんもサクラコちゃんのアルバムを一緒に作りたいんだよね」妻は優しくヤマトに言うが、一睡もせず作っている妻に早く作り上げさせ、休ませたかった。そこで、ヤマトを連れてイオンにアンパンマンのCDを買いに行った。買い物を終え、ピクニックコートでうどんを食べた。ヤマトは取り分けたうどんをこぼさずつるつると食べている。ほんの数日でずいぶんお兄ちゃんになったもんだと感心した。14時30分くらいに家に帰るとアルバムはできあがっていた。買ってきたアンパンマンのCDを聞きながら、できあがったアルバムを見て、サクラコのあまりにも短すぎる生涯に涙した。16時に葬儀会場入りすることになっていた。家を出る直前、急に妻からアルバムに貼った大学病院からの「弔祭料」の封筒について説明文を書いて欲しいと言われた。説明文を作っていたため、私の準備が一番遅れた。ばあちゃんが玄関口で「○○(私の名前)急がんね」と叫ぶ。ヤマトがそれをまねして「○○急がんね」と私を促す。ヤマトが私を下の名前で呼んだことがおかしくてみんな笑う。ここ数日、泣くことが多かったが、ヤマトの突拍子もない行動に笑わせられることもあり、泣いたり笑ったりで感情が壊れてしまいそうだった。会場に入る。かわいらしい花々が祭壇を飾っている。祭壇の中央ではサクラコが微笑んでいる。「あ~、サクラコの葬儀なんだ」妙な実感がわいてきた。メモリアルコーナーが設けてあり、預けていた写真が展示されていた。そこに、桜の枝葉が飾ってあった。昨夜、葬儀屋さんに「お金はいくらかかっても構いませんので、祭壇に桜の生花が飾れないでしょうか」と頼んだが、季節柄無理とのことだった。「桜を探してくれたんだ」葬儀屋さんの配慮が嬉しかった。サクラコは親族控え室にいたが、時間になったので棺を祭壇に安置した。棺に入ったサクラコを見て、祖母(妻の母)が「本当に天使みたい。この子は元々天使で、あんた達(私たち夫婦)の家が楽しそうだから、ちょっと遊びに来て、また、天に還ったんじゃなかろうか」と言った。棺の中のサクラコは今にも目を覚ましそうだった。「サクラコは天使だった」本当にそう思えた。あっという間に通夜の時刻になった。勤務先から「何か手伝うことがあったら何でも言って下さい」と言われていたので、通夜の受付を甘えることにした。受付に来てくれた同僚らにお礼を言い、所定の席に着いた。前勤務先で大変お世話になったHさんが真っ先に声をかけてくれた。勤務先の同僚、同期、前勤務先の方々、野球仲間、友人、、、私自身がびっくりするくらい、ひっきりなしの弔問を受ける。ここ数日、非日常的な生活を送っていた私は、見慣れた顔、久しぶりに会う顔を見てどっと涙が出た。弔問に来て下さったみなさんも涙してくださった。もちろん、サクラコに会ったことがない方も。サクラコのために涙してくださる優しい気持ちが身にしみた。24時前に弔問客が途絶えた。斎場は貸し切りだったので、家族しか残っていなかった。防犯のため戸締まりをして、私たちも休むことにした。しかし、非日常的な光景にヤマトが興奮したのか、1時を回っても寝ない。それどころか、葬祭場を走り回っている。ずっと叱らないでいた私も「ヤマト、寝なさい」と叱った。ヤマトは堰を切ったように泣き出し、今度はなだめるのが大変だった。結局、妻が抱っこして寝かしつけ、ヤマトが寝たのは2時前だった。翌朝、祖母が「ヤマトはサクラコと最後に遊んじょったのかもしれんね。本当は、通夜は寝ないで夜通し弔うものだから、通夜の意味がわかってたのはヤマトだけかもね」昨夜、ヤマトを叱ってしまった私は、少し反省した。 こんな風に遊んでたね
2007年11月19日
<平成19年10月16日、サクラコ天使になって1日目その3>私たちが家に帰り着いた頃、祖父母がサクラコの服を買いに行ってくれた。ベビー服以外、ほとんど着ることのなかったサクラコにかわいい服で旅立たせようと妻と祖母が考えたことだ。祖母が買ってきた服はとてもかわいらしかった。ベビー服ではない服を着たサクラコは、少しお姉ちゃんになったようだった。あまりにかわいらしかったので家族で代わる代わる写真を撮った。遺体の写真なんて不謹慎に思われるかも知れないが、私たちは今にも目を覚ましそうなサクラコと少しでも一緒に写りたかった。出棺の際、棺に入れるものも選んだ。友人から出産祝いにいただいていたお人形のセットを入れることにした。サクラコにはまだ早いと思って未開封のままだったが、早速開封し、枕元に並べてあげた。こんなことなら、サクラコが生きているうちからサクラコの周りをにぎやかにしてあげればよかったと思った。私がサクラコを風呂に入れるとき、サクラコが膝から滑り落ちないように敷いていたタオルも入れようと思った。しかし、天国でサクラコが自分でこのタオルは使えないなと思い、妻に「このタオルは天国でサクラコを洗うときに使うから、オレが死んだとき棺に入れてくれ」と早めの遺言を伝えた。妻からは「あんたがよぼよぼになっていて、逆にサクラコから洗われるんじゃない」と言われた。19時30分、葬儀屋さんとの打ち合わせ。17日通夜、18日告別式・出棺が決まる。通夜までにいろんな役割を決めることになったが、遺族代表謝辞については「私がやりたいと思いますが、父親がやるのはおかしいでしょうか」と聞いた。弔問していただく方々にサクラコの頑張りを少しでも伝えたかった。たとえ「それはおかしいです」と言われようともやるつもりだったが、「いえ、そんあことはありませんよ」とあっさりと返事が返ってきた。打ち合わせを終え、22時、サクラコの遺影を選ぶため、未現像だったものを現像しにTUTAYA内のキタムラへ。しかし、現像受付時間はとっくに過ぎていた。私は「勝手言ってすみませんが、今日、娘が亡くなりまして、遺影にするための写真をこの中から選びたいんです。なんとかならないでしょうか」と頼み込んだ。責任者らしき方が出てきて「そういう事情なら引き受けましょう。30分だけ時間を下さい」と特別に引き受けて下さった。ありがたくってまた涙が出た。待っている間、葬祭場で流す童謡のCDを買った。「生きている間に買ってあげなくちゃダメだよね。サクラコちゃんごめんね」23時、妻がサクラコのアルバムを作ると言い出した。それを葬儀の会場に置いて、来られた方々にサクラコの生きた姿を見てもらいたいとの思いだった。写真を差し込むだけのアルバムはあるのだが、妻が言うそれは、サクラコが産まれて間もない頃、妻が「写真を切り貼りして楽しいアルバムを作りたい」と言っていたものを指す。しかし、妻は着想から着手までとても時間がかかる人なので、まだ、作っていなかった。妻がアルバムを作っている傍らで私は遺族代表謝辞の原稿を作っていた。「アンパンマンのマーチ」の歌詞を原稿に引用するため、インターネットで調べた。この歌は「生きる喜び、大切さ」を歌った歌であることは前々から知っていたが、改めて歌詞を読んでびっくりした。歌の終盤に「時ははやく過ぎる 光る星は消える だから君は行くんだほほえんで」という歌詞がある。「サクラコちゃんのことを歌ったような歌だね」出棺の時、この歌をかけてもらうことにした。サクラコの姿を見て、本当に1日1日の大切さを痛感した。
2007年11月18日
<平成19年10月16日、サクラコ天使になって1日目その2>15時、たか先生から「解剖が終わりました。心内膜線維弾性症の症状である心臓内部の白色化が見られました。詳しい分析はこれからですので後日ご説明します。今、サクラコちゃんをきれいにしています。これは大学からサクラコちゃんにお礼です」と弔祭料をいただいた。たか先生が申し訳なさそうに「こんな時に何ですが・・・、受領印がいるんですよ」と言われるので、私は「私も役人ですから」と印を押した。15時40分、サクラコが霊安室に帰ってきた。かわいらしい棺に入れられ、顔は笑っている。家族、医療スタッフ一同で焼香する。16時、病院を出る時間になった。サクラコを妻が抱っこした。たか先生、くう先生、こん先生をはじめ、すっかり顔なじみになったスタッフに見送られる。くう先生は「一緒に遊びたかったね」と言って、サクラコにキスをしてくれた。サクラコは残念な結果に終わったが、たか先生をはじめ、医療スタッフに感謝の気持ちでいっぱいだった。私は3人の先生に「(病理解剖の説明で)もう1度会えますよね」と言って車に乗った。サクラコは後部座席で妻が抱いている。車を出すと、たか先生ほか医療スタッフが深々と頭を下げられた。後ろから車でついてきていた祖父母の話によると、私たちの車が見えなくなるまで頭を下げたままだったらしい。大学病院からの帰り道、休耕田にコスモスが咲いていた。車を停めサクラコに「きれいだね。コスモスって秋の桜って書くんだよ」と語りかける。小戸之橋を渡る。サクラコが産まれるとき、私が妻から「今分娩室に入った」と連絡を受けた場所だ。サクラコに「サクラちゃんがもうすぐ産まれるよって連絡を受けたところだよ」と語りかける。車の中で、「まっすぐ家に帰らずサクラコに色々と見せてあげよう」という話になり、家族で食事に行ったホテル前、サクラコが産まれた病院前、私の職場の前を通り、県劇前の文化公園に車を停めた。妻が「サクラちゃんがお腹にいるとき、よくお兄ちゃんを連れてきたところだよ。春になると桜がいっぱい咲いてきれいだよ。来年また来ようね」と話す。「サクラコは桜の花を見ることなく逝ってしまった」そう思うと涙が溢れた。17時、家に着いた。妻が「サクラコちゃんがいる空の写真を撮って」というので、青空の写真を撮った。サクラコが入院してからずっと好天だったが、この日はとりわけ抜けるような青空だった。 サクラコちゃんが還った空
2007年11月18日
<平成19年10月16日、サクラコ天使になって1日目>サクラコの身体からチューブや絆創膏が取り除かれた。痛々しいチューブの跡と絆創膏かぶれが残ってしまっていた。女の子のかわいいほっぺに跡が残って可愛そうだったが、それはサクラコが病魔と懸命に闘った勲章にも思えた。私は職場へ電話でサクラコのことを伝えたが、泣いてしまってちゃんと話すことができなかった。遺体の処置のため、しばらくの間、家族は別室に控えていた。私と祖父(妻の父)がたか先生に呼ばれ、学生控え室のような部屋に通された(学生さん達はたか先生に追い払われてしまった)。たか先生からは心内膜線維弾性症の説明の後、言いにくそうに病理解剖の話をされた。たか先生は「私は元々子どもの身体を解剖することは嫌いなんです。ただ、私たちもサクラコちゃんを救えなくてくやしいんですよ。現時点では『心内膜線維弾性症疑い』ですが、病理解剖をすることで確定診断を出すことができ、また、いろんなことがわかります。サクラコちゃんが頑張ってきた臨床記録も無駄にしたくありません。また、ご両親が第3子をお考えであれば、予防的意味も含め、確定診断があった方が良いと思います。ただ、これは私の考えであって、ご両親からの同意がなければもちろん解剖はやりません」と話された。私は「第3子のことは今は考えられませんが・・・。病理解剖することで、サクラコの病気のことが少しでもわかり、現場で働く方々や同じ病気で苦しんでいる子ども達、医者を目指されている学生さん達の役に立てるのであれば、サクラコがこの世に生を受けた証になるんじゃないかと思います。私は(解剖を)お願いしたい。ただ、サクラコといつも一緒にいた妻の意志を尊重したい。妻が同意しなければ私は妻を説得しませんし、同意しません」と泣きながら話した。たか先生は、涙ぐまれて「お父さんの話は現場で働く者にとって励みになる言葉です。実は今、小児科医が減り、心臓医はなり手がいません。そういう中で本当にお気持ちはありがたい。お母さんと話された結論で結構です。もし、同意していただければ、傷は胸部の一カ所、最小限の大きさにするよう執刀医に私から頼みます」と話された。祖父からは「○○(妻の名前)の意見をちゃんと聞いてくれ」と念を押された。妻達が控えている部屋に戻った。久しぶりに母親に会えたのが嬉しいらしくヤマトがはしゃいでいた。思いのほか、妻は落ち着いており、「何の話だったの」と聞くので、「今、話していいのか」と聞き返すと、「うん」と答えが返ってきた。病理解剖の話であったことを話し、たか先生とのやりとりを話すと妻は「私もお願いしたい。病院から言われなければこちらから申し出ようと思っていたくらい。私は全てが知りたい。病理解剖にも立ち会いたいとたか先生に伝えて欲しい」としっかりとした口調で言った。ナースステーションで、たか先生を呼んでもらい、病理解剖に「同意」と「立ち会い希望」であることを話す。たか先生は「ありがとうございます。よく決心してくれました」と言われたが、立ち会いについては「病理に話はしてみますが・・・」と困惑気味だった。その後、たか先生が「立ち会いはダメでした。ただ、取り出したサクラコちゃんの心臓をご両親に見ていただけるよう私がお願いします」結局、心臓を見せてもらえることになった。13時頃、サクラコの遺体と家族共々霊安室に移動した。サクラコの霊前で家族に続いて、小児科教授以下、たか先生、くう先生、こん先生、病棟のスタッフが次々に焼香してくださった。全ての方々の焼香が終わり、サクラコを解剖室へ送る。「サクラコちゃん、みんながお勉強できるようもうひとがんばりしてね。今度はサクラコちゃんがお医者さんに色々と教えてあげるんだよ」と妻が声をかけた。解剖中は霊安室で待っていた。職場の上司が弔問してくださり、花をいただいた。ヤマトは祖父と「大学病院探検」に出かけた。解剖室の前室に呼ばれ、私、妻、ばあちゃんが取り出した心臓を見せてもらった。心臓にも「がんばったね」と声をかけた。妻が「触ってもいいですか」と言った。くう先生が困惑していた。私はびっくりして「そりゃだめだろう」と妻に言った。しかし、たか先生が「ご両親ですから、どうぞ」と言ってくださった。私たちは心臓を軽くなぜながら、「がんばったね。今まで動いてくれてありがとうね」と言った。
2007年11月18日
<平成19年10月16日、サクラコ175日目>7時20分、ヤマトと朝食を食べようとしていたところ、妻から電話。「サクラコの状態がよくない。早く病院に来て」私は妻の実家に電話で伝えると、ばあちゃんにヤマトを頼み車に飛び乗った。8時に大学病院着き、4階の病棟まで駆け上がった。廊下でくう先生から説明を受ける。「今朝の3時くらいから徐々に状態が下降してきた。血液中の酸素濃度が下がっている。肺が破れてそうなったのであれば、破れた箇所をふさぐ方法がとれるが、サクラコちゃんの場合、肺に到達するまでの気管全体から空気が漏れている。気管から漏れた場合は手の打ちようがない。今、心臓マッサージなどで対応している。しばらくはここでお待ち下さい」とのことだった。しばらくして、たか先生が看護師に「入ってもらえ」と言い、私たちは病室に。病室に入ると、心臓マッサージ、電気ショック、手動で空気を送り込む作業が行われており、たか先生の指示の元、6人くらいのDrが対応していた。妻は13日の急変時と異なり、取り乱さず、やさしくゆっくりとサクラコに話しかけている。私は、「サクラコ、もう少し頑張ろうよ。お前、お利口さんだから、お父さん達に気を使っちょるちゃろう。お父さんもお母さんも全然疲れてないよ。お前の世話をもっとさせてよ」と涙声で叫ぶように声をかけていた。たか先生から「おじいちゃん達はどこから来るのか」と聞かれ、「木城です」と答える。13日の急変時に匹敵するかそれ以上の対応なのに、家族が病室に通され、祖父母の到着を待っているという状況は素人の私でもそれが何を意味するのかわかった。私は、ばあちゃんに「すぐにヤマトを連れて病院に来て」と電話した。引き続き、目の前で、こん先生をはじめ、数人の先生方が代わる代わる懸命に心臓マッサージを施してくれていた。9時20分、祖父母が到着。9時40分、たか先生から私と祖父が別室に呼ばれた。たか先生から「瞳孔反応もなく、心臓マッサージのみでの蘇生処置を行っています。お兄ちゃんが着くまでは(蘇生処置を)続けます。しかし、1時間以上、蘇生術をしていますが戻ってきません。蘇生は難しいでしょう。私は最後にお母さんにサクラコちゃんを抱っこさせたいと思います」との話があった。私は県病院を出るとき、サクラコがおっぱいを飲もうと妻の胸元で口をパクパクさせていた姿が目に焼き付いていた。たか先生に「無理なお願いかも知れませんが、サクラコにおっぱいをあげさせてもらえませんか」とお願いした。たか先生は、快諾してくれた。10時、ヤマトとばあちゃんが到着した。家族全員がサクラコのベットを取り囲むようにして声をかけた。私はヤマトを抱っこし、サクラコの頭をなぜさせた。みんな泣きながら声をかけた。「さいた、さいた、ちゅーりっぷの花が・・・」ふいに、ばあちゃんが「ちゅーりっぷ」の歌を歌い始めた。家にいた時、サクラコは、ばあちゃんが「ちゅーりっぷ」の歌を歌うといつもニコニコして機嫌が良かった。ばあちゃんに合わせてみんなで泣きながら「ちゅーりっぷ」を歌った。たか先生と目が合った。私が妻の肩をたたくと、妻は「いや、いや」と言って、サクラコから離れない。私は「サクラコにおっぱいをあげよう」と言う。たか先生も「お母さん、サクラコちゃんにおっぱいをあげましょうよ」と言い、スタッフがカーテンを引く。家族でサクラコを抱きかかえ、妻の腕に。サクラコは、妻に抱かれおっぱいを口に含んでいる。「サクラコちゃん、やっとおっぱいがあげられたね。いっぱいいっぱい飲もうね」妻がサクラコに語りかける。10分弱、そうしていた。みんなでおっぱいを口に含んでいるサクラコを見ていた。そして・・・、私が妻に「サクラコをおうちに連れて帰ろう。サクラコがんばったね」と言うと、妻は意外にもすんなりと納得していたようだった。たか先生が、サクラコの瞳孔反射など確認を行い、「10時23分(死亡)」と宣告した。ばあちゃんが「サクラちゃんお花がいっぱい咲いているところに行ったね。ゆっくり休んでね」とサクラコに声をかけた。皆、口々に「頑張ったね」と声をかけ泣いた。 サクラコ、よくがんばったね
2007年11月17日
<平成19年10月15日、サクラコ174日目その2>14時半ごろ大学病院に戻った。売店に寄ると、小さなオラウータンの人形があった。サクラコが追視を始めた頃、目をくるくるさせている様を見て、私がよく「オラウータンの子どもみたい」と言っていたのを思い出した。2つあったうちの1つを購入し、病室へ。病室にいた妻が「(サクラコに)似てるぅ」私はもう1つ欲しくなり、再び売店で残りの1つを買った。サクラコの輸血が始まった。輸血によって新鮮な血液を送り込み状態の改善を図るというものだ。「輸血すら出来ない状態」から「輸血ができる状態」に変わったことを喜んだ。16時、心エコー検査があった。たか先生が「まだまだだが、ここに運ばれてきたときに比べると、少しは『心臓らしい』動きになってきた」と説明して下さった。午前中の悪性の酵素が減少した件とあわせ、入院後、サクラコの状態が初めて上向いた。祖父母は翌日、職場の人たちに休んでいる間の仕事を頼むため一旦木城に帰った。19時、こん先生から「先ほど行った血液検査の数値が『良すぎる』ことから、かえって信憑性が疑われます。もう1度検査をやり直します」と説明があった。KさんがAさん(男性)、Oさん(女性)と一緒に見舞ってくれた。サクラコの病室に入れないことはわかっていたそうだが、私たちを励ましに来てくれたそうだ。サクラコの状態が初めて上向きになったことから、私も妻も涙ぐみながらも饒舌に話したように思う。20時半、こん先生が驚いた表情で「先ほどの検査数値は間違いではなかったようです。やり直しでも同じ結果が出ました。状態が改善してますね」妻はサクラコのベッド側にいるときは常に話しかけている。この検査結果に「サクラコちゃん、先生がびっくりしちょるが。100点満点やね。えらいねぇ。あんまり急によくならんでもいいとよ。少しずつ、少しずつでいいからね」と声をかけた。サクラコの手を握ると、いつもは冷たかったサクラコの手がぽかぽかと温かかった。「本当はこんなに温かい手なんだよね。今まで気付かずにごめんね」「子どもは奇跡を起こす」この言葉が現実になるように思えてきた。面会時間を終え、ばあちゃんに電話した。サクラコの入院後、ずっとヤマトの世話をしてくれており、私が2~3時間おきに電話しても「ヤマトは大丈夫だから」と言っていたが、この時、初めてばあちゃんが弱音を吐いた。「今日、あんた達が病院に行った後、ヤマトが『お父さんがおらん』と泣きながら家中探し回ってなだめるのが大変だった。興奮して昼寝もせんかった。家の外でちょっとでも物音がすると『お父さんが帰ってきた』と言って玄関に走っていく。昼寝をしなかったから眠そうにしているが『お父さんが帰るまでは寝らん』といって寝ようとしない。今までこんなことはなかったんじゃけど」ばあちゃんが困惑している様子とヤマトが不安定になっている様子がありありと伝わってきた。妻を1人病院に置いて帰ることは不安だったが、妻が「私は大丈夫だから、今夜はヤマトの側にいてあげて」と言い、私は急遽、帰宅することにした。22時過ぎに家に帰った。ヤマトは大喜びで私の膝の上に座った。ばあちゃんにサクラコの状況を話していると、ヤマトは私の顔を見て安心したのか、膝の上で寝てしまった。「寂しかったっちゃね。今までよく我慢したね」サクラコもヤマトも我が家の子ども達は頑張り屋だ。 オラウータンの人形と撮影
2007年11月17日
<平成19年10月15日、サクラコ174日目>この日は月曜日。先週金曜日に受診し、未精算のままだったT小児科と県病院に、朝いちで精算することにしていた。また、ヤマトも丸1日会っていなかったので、清算後、一旦、家に帰り、ヤマトと少し遊んでから大学病院に帰る予定にしていた。おそらく乳幼児医療で350円だろうとは思いながらも、こんな事態は初めてだったので、余計な時間を取らないために、あらかじめ電話して金額を聞くことにした。T小児科は「350円です。精算はいつでもいいです」県病院は「会計に来てもらえればすぐできますよ」とのことだった(県病院の男性の回答が安易に感じたため、念を押したが、「時間はかかりません。すぐできます」とのことだった)。祖母(妻の母)が私の母を気遣い、「ヤマトの相手も疲れただろうから」と一緒に同行してくれることになった。T小児科で精算し、サクラコの心臓の異常を発見して下さったT先生だったのでお礼が言いたかったが、診療が始まる時間だったため、遠慮して帰ろうとしたら、スタッフの方から「もしお時間があれば先生がお話を伺いたいと言っておられますが」と言われ、お礼もしたかったので「少しなら」とT先生にお会いした。T先生にお礼を言った後、県病院から大学病院に転院したことや、そこで、たか先生から言われたことなどを話した。T先生は「心内膜線維弾性症が濃厚なんですね。正直、厳しい状況ですね」と言われた。私は心に引っかかっていた疑問をT先生に質問した。「サクラコはC小児科での3ヶ月検診でも『異常なし』という診断でした。先生の所に来る1週間前にも微熱があったので、C小児科で受診しましたが『かぜ』との診断でした。一番身近にいる親が早く気付いてあげられなかったことを悔やんでいますが、医者が診て本当に気付かないものなんでしょうか」T先生は「私が見たときには心臓の増悪が顕著な状態でした。ただ、症状が余り出ていない状態では医者でさえも『かぜ』と判断するかも知れません。こればかりは何とも言えません」とのことだった。県病院へ向かう途中、妻からメールが入った。「酵素の値(2000以上あったやつ)が650くらいまで減っていたそうです。すごいね、サクラコ頑張ってるよ」サクラコが入院して聞く初めての朗報だった。続いて、県病院に行った。朝の病院は予想通り混んでいた。私は会計でサクラコの名前を言い、金曜日の状況を説明した。偶然、Kさんと中学生の息子さんに会った。Kさんは仲間から「ねーやん」と慕われる姉御肌の人で職業は看護師だった。Kさんに状況を説明すると、びっくりしていた。Kさんから「でもね、私たち(医療関係者)の間では、『子どもは奇跡を起こす』『奇跡は小児科で起こる』って話があるのよ。あきらめないで」と励まされた。「子どもは奇跡を起こす」。。。嬉しくて涙が出た。既にサクラコは弱った心臓で1度は蘇生し、多臓器不全に陥る状況でも心臓、肺以外の臓器は守っている。サクラコは『奇跡を起こす』かもしれないと思った。それにしても・・・、精算に時間がかかる。私も役人の端くれ。「自分だけ特別扱いして」といった来客は大嫌いだ。しかし、だからこそ、事前に電話で「すぐできるのか」を確認したではないか。会計の人に「あの~、もう20分以上待っているんですけど、まだですか。電話で『すぐ精算できる』と聞いたからこそ、今日来ましたが、娘は依然として危篤状態なんです。時間がかかるのであれば、後日、改めて来ます」言ったところ、「もうすぐです」と言われ、まもなく精算できた。結局、350円だった。私も同業者だが、朝、電話で対応した人の適当な返事(お役所仕事)に無性に腹が立った。今後、絶対自分はこんな仕事はしないようにしようと思った。家に帰ったのは11時頃。ヤマトが元気に迎えてくれた。ヤマトが産まれてから、丸1日両親が家にいなかったのはこの時が初めてだ。たった3日でずいぶんヤマトがお兄ちゃんになったような気がした。14時までヤマトと遊び、ヤマトに気付かれないように家を出た。
2007年11月17日
<平成19年10月14日、サクラコ173日目>カメラとヤマトがサクラコを抱っこしている写真を準備し、朝4時に家を出た。道がすいていて、20分で大学病院に着き、入れ替わりで祖父母が家に帰った。6時30分頃、妻と病室に入り、ずっとそばにいた。10時過ぎ、くう先生から検査結果に基づくサクラコの状況について説明があった。サクラコの心臓、肺の状況は相変わらず悪かった。くう先生からこんな話があった。「通常、心臓、肺の状況がこれだけ悪いと、新鮮な血液が全身に送れないので他の臓器に悪影響が出て多臓器不全となり、死に至ることが多いんです。しかし、サクラコちゃんは心臓、肺以外は健在なんです。この状況下でサクラコちゃんががんばっているということです」昨日の急変時の蘇生とあわせ、私たちはサクラコ自身の頑張り、強さに改めて驚いた。「サクラコちゃん、お兄ちゃんは来られないけど応援しているからね」と、サクラコの枕元にヤマトの写真を置いた。サクラコが元気になって、もう少し大きくなったら、「サクラコちゃんはこんな状況から元気になったんだよ」って話して命の大切さを教えようと点滴が10本も並んだベッドの様子も写真に撮った。昼過ぎには祖父母(妻の両親)が来た。この日は日曜日で、月曜日から仕事を休むことについては職場の了解を得ていたが、職場に行き、仕事の整理と簡単な引き継ぎメモを作ることにした。15時頃職場に行くと、同僚のYさんが休日出勤していた。12日からの状況を説明し、しばらく仕事を休んで迷惑をかけることを話した。約4時間、集中して仕事をした。ヘンな話だが、こんなに追い込まれた状況でこんなに集中して仕事をしたのは就職して初めてだった。仕事の整理を終え、上司と同じ係の職員にサクラコの状況と仕事の引き継ぎメモを残した。職場を出て、家には帰らず、そのまま大学病院に向かった。妻から頼まれたものを買って大学病院に着いたのは21時少し前だった。面会時間ぎりぎりまでサクラコの側で見守り、その後は病棟のロビーにいた。たか先生から「くう先生から聞かれたと思いますが、サクラコちゃんはがんばってますよ。この子はすごい。これは持久戦になりますよ。ご両親ともしっかり体調管理をしてください」との話があった。「サクラコ、すごいね」妻と話しながら寝た。 サクラコの枕元に置いた写真
2007年11月17日
<平成19年10月13日、サクラコ172日目その3>サクラコのベッドサイドにたか先生が来て検査結果の説明があった。その検査は心臓内のある悪い酵素(先生は名称を言われたが覚えていない)の数値を調べる検査で、正常な心臓は、その数値が200以下なんだそうだ。サクラコは2000超。2000以上は測定出来ないらしいので、要するに「測定不能なほど心臓の状態が悪い」という結論だ。たか先生は「これは、昨夜、運び込まれてきたときに採取した血液での検査なので・・・。状況が変われば、数値も変わります。今後、点滴などで心臓をコントロールし、この数値が下がれば打つ手の選択肢も増えます」と説明された。私は話を聞きながら、改めて見た目のサクラコと心臓の状況とのギャップを感じた。ベッドの横で妻、私、祖父(妻の父)が座り、サクラコを見守っていた。祖母(妻の母)は「あんまりぞろぞろ行くと他の方に迷惑だから」と遠慮して面談室にいた。交互にばあちゃんが持たせてくれたおにぎりを食べた。15時、サクラコの様子が変わった。急にからだが反り、顔が小刻みに震えていた。祖父(妻の父)が、こん先生に「先生、様子が変です」と叫ぶ。こん先生がすぐに駆け寄る。知らせを聞いたたか先生もすぐに来た。たか先生が「息をしとらん」と言う。急変。大声でたか先生の指示が飛ぶ。医療スタッフの動きがあわただしくなる。いろんな機材がサクラコのベッド横に運び込まれる。妻が「いや~」と泣き叫ぶ。私も狼狽して泣く。「別室でお待ち下さい」と病室から出される。廊下を挟んだ別室で、妻と祖母(妻の母)と私で待機する。妻は泣きながら、気が触れたように「桜が咲いたら、桜の花の下をいっしょに散歩するんだもん」「いっぱいお洋服をもらったのにまだ着てないじゃない」「お父さんはサクラコちゃんが産まれたときに買ったイヤリングとペンダントをサクラコにあげるんだって楽しみにしているのに」とうわごとのように繰り返す。しばらくして、私は廊下から窓越しでもサクラコを見ようと思い、妻に「サクラちゃんを見てくる」と言って病室前に。サクラコの救命措置のため、同室の子ども達の付き添いのお父さんお母さん方も廊下に出されていた。私はまだ名前も知らないその方々に「ご迷惑をおかけします」と頭を下げると、みなさん「気にしないで」といった様子で、涙を流しながら口々に「(サクラコちゃん)頑張ってるから」と逆に私を励ましてくださった。病室前の廊下に祖父もいた。私も祖父も無言だった。少し背伸びすると、窓からサクラコのベッドが見えた。医療スタッフがベッドの周りを囲んでいて、サクラコの足しか見えない。その足が激しくけいれんしている。「これまでか」妻のいる別室に戻り、泣きじゃくっている妻の手を握る。実際、どれくらいの時間が経ったのかわからなかったが、時間が長く感じた。時間が経つに連れ、あきらめが強くなってくる。部屋のドアが開くのが怖かった。妻がふっと「サクラコちゃんのそばに行きたい」と言った。妻を病室前の廊下まで連れて行く。夫婦2人で病室前で背伸びして中をのぞいていると、看護師が「お気持ちはわかりますが・・・、下がってお待ち下さい」と言って、廊下に椅子を用意してくれた。「どうぞ、お入り下さい」急変から約1時間が経っていた。おそるおそる病室に入っていく。サクラコは蘇生していた。たか先生から「激しいけいれんが10分以上続きました。そのため一時的に心肺停止状態になりましたが、戻ってきて(蘇生して)くれました。けいれんの原因は熱によるものか、脳波によるものか今のところわかりません。ただ、再度のけいれんにより心臓を止めてしまうおそれがあるので抗けいれん剤を投与しています。これから怖いのは感染症です。今までもそうでしたが、病室に入るときは(手洗いなど)注意して下さい。とにかくサクラコちゃん頑張りましたよ」との話があった。ビニールテントは取り払われ、サクラコは寝ていた。「がんばったね。えらいね」と何度も声をかけた。そして、18時過ぎ、サクラコが目を覚ました。私たちはびっくりして、近くにいた看護師さんに「サクラコ、目を覚ましました!」と知らせた。目が覚めたことは、スタッフにとっては当たり前の出来事だったようで、私たちの呼びかけに看護師さんは少しとまどっていた。目を覚まして私たちを追視し、手足をバタバタと動かすサクラコは、「お父さん、お母さん、私がんばってるよ、あきらめないで」と言っているようだった。私はサクラコに「お父さんだけがあきらめていたね。ごめんね」と謝った。たか先生から「急変は乗り切りましたが、心臓の状況は予断を許しません。自発呼吸ですら心臓に負担を与える状態です。心臓の負担を軽くするために自発呼吸から人工呼吸に切り替えます。人工呼吸器をつけても意識があると本能的に自発呼吸をしてしまうので、筋弛緩剤を使って完全に人工呼吸になるようにします」との説明があった。覚醒しているサクラコをいつまでも見ていたかったが、とにかく少しでも心臓の負担を軽くしてあげたかった。筋弛緩剤を投与されたサクラコはまた眠ったようになった。病室に入室できる時間が終わり、ロビーにいた私たちに、たか先生が「あの心臓の状態で、10分以上も激しいけいれんが続き、正直、ダメだと思っていました。しかし、戻ってきてくれました。呼吸も早い段階で回復しましたから脳などへの後遺障の心配もないと思います。それにしても、よく戻ってくれました、この子は何か『予備の力』を持ってますよ。この力に期待してこれからもがんばりましょう」と声をかけてくださった。妻に家に帰って布団で寝てはどうかと話したが、妻は少しでもサクラコのぞばに居たいので病院から出たくないとのことだった。妻を1人にしたくなかったが、ヤマトのこともあるので、祖父母と話し合って、私が家に帰り、翌明け方4時頃、病院に来て祖父母と交代することにした。 急変から蘇生したサクラコ
2007年11月14日
<平成19年10月13日、サクラコ172日目その2>昼過ぎ、サクラコの病室に入る。サクラコは起きていて、ビニールテント中できょろきょろしながら手を宙で動かしている。一見、元気そうで、ビニールテントや点滴の管がなければ、家にいるときと変わらない。その様子を見ながら「本当に重篤な病気なんだろうか」と改めて思う。たか先生が来て、「主治医(こん先生)がご両親から昨夜うかがった話や症状を考えると、急性心筋炎ではなく心内膜線維弾性症である可能性が高い。この病気を治すには究極的には海外での心臓移植しか方法がない(国内では子どもの心臓移植はできない)。同様の子どもが日南にいて、私はその子のアメリカでの心臓移植に同行したが、莫大なお金がかかる。ただ、サクラコちゃんの場合は、まだまだそんな段階ではなく、今をどう乗り切るかなんだが、正直なところ、心内膜線維弾性症であれば、今を乗り切っても予後は・・・」と話された。私は、午前中、インターネットで心内膜線維弾性症について調べていた。この病気は、1歳を超えることが難しい病気であることが書かれていた。だから、たか先生が最後の方で言われた「予後は・・・」と言葉を濁された意味が「死」を意味するものだと理解できたが、妻の前では黙っていた。たか先生に「聞くのが恐いけど」と前置きした上で「その~、私たちがもっと早くサクラコの病気に気付いていれば、今のような状況にはならなかったんでしょうか?」と聞いた。たか先生は「例えば3週間前に私がサクラコちゃんを診察していたら、即入院させていたでしょう。ただ、入院が早くても、いずれはこのような状況になることは避けられない。そんな病気なんです。素人のご両親がサクラコちゃんの病気に気付くのは難しい。ご自身を責める必要はない」と答えてくれた。たか先生が行かれた後、妻に「海外で心臓移植かぁ。テレビで見たことはあったけど、我が家の話になるとはね。とてもオレの収入じゃぁ足りないから、寄付のお願いとかしなくちゃいけないね。寄付をお願いする前に家を売ろうね。家族みんなで楽しく住めれば狭いアパートでもいいよね。」と話すと、妻も「サクラコちゃんが元気になればどこに住んでもいい。(心臓移植ができる状態まで持ち直して)『家を売る』という話になればいいね」と言った。
2007年11月14日
<平成19年10月13日、サクラコ172日目>病棟のロビーで寝たような寝なかったような朝を迎えた。時刻は6時。看護師さんからは病室に入れる時間を「大体7時頃」と言われていた。私は早くサクラコの姿が見たくて、6時30分位からナースステーションの前をウロウロしていた。看護師さんと目が合ったのをチャンスとばかり「7時にならないと(病室に入っちゃ)だめですよねぇ」と聞くと、意外にも「ああ、もう入っても大丈夫ですよ」との答えが返ってきた。私は妻、祖父母を呼び、すぐさま病室へ。サクラコは上半身をビニールテントに覆われ、高濃度の酸素の中で寝ていた。なんともあれ一夜を乗り切ったサクラコに夫婦で「頑張ったね」と何度も声をかけた。昨夜からヤマトをばあちゃんに任せたままにしていたので、妻と話して私だけ一旦、家に帰ることになった。8時頃、家に帰った。ヤマトはまだ寝ていた。ばあちゃんにヤマトの様子を聞くと、「昨日はびっくりするくらい良い子だった。『お父さん、お母さん、赤ちゃん(ヤマトはサクラコのことを主にこう呼ぶ)がいない』などとは一言も言わんかったし、泣かなかった。この子なりに何かが起こっていることがわかってるっちゃないかねぇ」とのことだった。次週から休みをもらうため、職場の上司と同僚に電話して状況を説明した。同僚からは「こんな時こそ僕らがお役てると思いますから」と優しい言葉をかけていただき、ありがたくて涙が出て、最後の方はうまく話せなかった。「何も食べちょらんちゃろう」と、ばあちゃんが私の朝食を用意してくれた。ヤマトも起きて私の横に座る。最近、ミカンの皮を自分でむいて食べられるようになったのが嬉しいらしく、さっそくみかんをむきはじめた。私は飯も喉を通らず、ばあちゃんに昨夜の状況を説明する。説明しながら、「こんなになるまで、あの子のことがわかっていなくて、普通に元気だと思いこんでいて、あの子が独りで苦しんでいたかと思うと、自分に腹が立って腹が立ってしょうがない」と床をたたき、はばかりなく泣き出してしまった。私の横でご機嫌にみかんを食べていたヤマトは、泣きじゃくる私を見て「がちょ~ん」とおどけてみせる。「がちょ~ん」はヤマトが2歳になるちょっと前に、私が「語り継ぎたい昭和のギャグ」として教えたものだ。ヤマトがコレをやると、いつも家族みんなが大笑いをする。泣きじゃくる私を笑わせようとしてコレをやったのかと思うと、余計に涙が出た。私はヤマトの前でわんわん泣いた。ヤマトは少し困った顔で、今度は自分が食べていたミカンを半分私にくれた。大げさなようだが、アンパンマンがお腹がすいている人に頭をちぎって分け与えるかのようだった(ちなみに、みかんが大好きなヤマトは、今まで自分が食べているみかんを人に分けたことなどない)。ヤマトの観護でばあちゃんは満足に買い物にも行けないらしいので、ヤマトとばあちゃんが食べる食料品やサクラコの入院中のオムツなどを買いそろえ、私は病院に戻ろうとしていた。ばあちゃんが「○○さん達(妻、祖父母)も何も食べてないだろうから」とおにぎりを作ってくれていた。私が家を出ようとすると、ヤマトがいつものお出かけだと思ったのか、「サ、イコッカ、イコッカ(さあ、行こうか、行こうか)」と言ってついてこようとする。私はヤマトの両手を握り「ヤマちゃん、サクラコちゃんが病気なの。お父さんは病院に行かなくちゃいけないけど、ヤマちゃんまで病気になったら大変だから、ヤマちゃんは行けないの。ばあちゃんと一緒にお留守番ができるかな」と話すと、何も言わずトコトコとばあちゃんの所に行き、膝に座った。私は「ヤマトはわかっている。非常事態だと感じているんだ」と思い、家を出た。 サクラコはヤマト兄ちゃんが横にいると いつもご機嫌だった
2007年11月07日
<平成19年10月12日、サクラコ171日目その2>大学病院に着いたのは23時少し前、救急車で先着していた妻が緊急入院の手続き中だった。手続きが終わり、病棟へ行くと、サクラコは処置中だった。サクラコの治療にあたる、たか先生が、くう先生とこん先生を従え、「私たちがサクラコちゃんの担当をします。わからないことなど何でもお聞きください」と言って、自己紹介された。たか先生から、「県病院からは、急性のウイルス性心筋炎という判断でここに運ばれてきましたが、1週間前の風邪のウイルスが悪さをするには、少し早すぎるので、心内膜線維弾性症の可能性もあります。両方に対応できるような薬の投与をしますが、心臓はいつ止まってもおかしくない状況です。挿管などのちょっとしたショックでも止まってしまうかもしれません。小さすぎて人工心肺をつけることも出来ません。内科的処置でとにかく心臓の動きをコントロールするしかありません。とにかくここ数日がヤマです。今を乗り切れるよう最善を尽くします」との説明があった。まもなくナースステーションで、こん先生から輸血、グロブリン投与に対する説明を受け、同意書に押印した。処置には時間がかかった。たか先生から、「血管がまだ小さく、血管の確保(点滴の針を入れること)が困難を極めているが、絶対に確保します」との話があった。処置中に、こん先生から生育歴の聴取があった。私と妻で今日の大学病院に来るまでの経緯を説明。そして、生まれてからの話となった。こん先生「サクラコちゃん、呼吸に何か変わったことがなかったですか?」私たち「少し早く、寝ているときにたまに音がするのが気になっていました」こん先生「いつ頃からですか?」私たち「はっきりとは覚えていませんが、1~2月くらい前からだと思います。私が鼻炎もちなので、最初は遺伝でサクラコも鼻が詰まっているのかとも思っていました。10月6日にサクラコが微熱で受診したC小児科で呼吸についても相談したのですが、『赤ちゃんはあごが未発達なので、寝ているときに舌が落ち込み音がすることがある』と説明され、病気じゃなくて良かったねと夫婦で話していました」こん先生「確かにあごが未発達でそうなることもありますねぇ・・・」それから、もう1つ気になっていたことを私の方から話した。「サクラコ、手足が冷たかったんです」こん先生が「やはり」といった感じで「そうですか。心臓の異常で血を十分に巡らすことができず、血行が悪かったんだと思います。汗をたくさんかくとかなかったですか」私たち「寝起きに汗びっしょりになっていて、びっくりしたことがあります。上の子(ヤマト)も寝汗をよくかいていたし、夏だったので『汗っかき』なんだと思っていました」こん先生「私たちが運動をすると、呼吸が速くなり、汗をかきますよね。サクラコちゃんの場合は心臓の動きが悪いことから、たとえ寝ていても運動をしているのと同じような状況になっていたんだと思われます」私たちは愕然とした。はじめから「心臓」を疑っていれば、全て説明が付くことだったんだ。ノー天気な日々を過ごしていたが、サクラコは誰にも気付かれず、自ら話すこともできず、独りで病気と闘っていたんだと思うと不憫で涙が出た。「2人目の子どもで私たちに油断があったと思います。子どもは機嫌が良くて食欲があれば大丈夫だという言葉を鵜呑みにしていました」泣きながらそういう私に、こん先生は「普通の人が気付くのは難しいです。ご両親がご自身を責めることではありません」と話された。時刻は翌日2時を回っていた。たか先生から「サクラコちゃんの血管が確保できました。心臓の動きを助けるための薬とウイルス対策としてグロブリンを投与します。ウイルス性の心筋炎であれば、このグロブリン投与に対し、何らかの反応があるはずです。心臓の状況から今夜はそれ以上の対応は出来ません。今夜を乗り切ってくれると良いのですが・・・」私たちは「よろしくお願いします」と深々と頭を下げた。ナースステーションで病室に入れる時間を聞いた。「7時くらいからいいですよ」私と妻、祖父母はロビーの椅子に寝た。
2007年11月04日
<平成19年10月12日、サクラコ171日目>その日は金曜日。妻と共に6時に起きて、10月1日から始めていた「モムチャンダイエット」を小一時間。エクササイズしている私たちが面白いのか、ヤマトは起きてきて私たちのマネをし、サクラコは不思議そうな顔でそれを見ている。ヤマトの仕草がこっけいで、我が家は朝から笑い声いっぱい。いつもと同じような朝だった。8時前、私が出勤前にサクラコに「お父さん、行ってくるね」と声をかけると、サクラコが「にこっ」と笑った。出勤前の声かけでサクラコが私に笑いかけたのは初めてだった。私はうれしくて「オレが出る前に初めて笑ったよ。今週はサクラコ機嫌が良いよね」と台所の妻にはしゃいで言った。ただ・・・、なんだかサクラコの笑顔を見て胸騒ぎがした。後付ではなく、あの時、本当にそう感じた。「嫌な予感がするから、事故に遭わないように注意しよう」と思って通勤したほどだ。私の身には何も起こらなかった。18時頃、職場にいた私の携帯に妻から電話。妻「今日は残業なの」私「いや、キリのいいところで帰るつもり」妻「あの~、落ち着いて聞いてね。サクラコが心不全で県病院に来ているの」私「心不全の状態があったけど、今、病院にいるから大丈夫ってことだよね」妻「よくわからない。今夜は入院になるみたい」私は妻の言っている意味がよく理解できないまま急いで帰宅。「今夜は帰れないかも」とばあちゃんにヤマトを頼み、妻から言われた物を持って県病院へ。19時過ぎ、県病院着。処置室からサクラコの泣き声が聞こえる。「心臓が弱っている子があんなに大きな声で泣けるんだろうか」きっと大丈夫。私も妻も願うような気持ちだった。処置が終わるのを待っている間、妻から、朝以降の経緯を聞いた。妻によると、午前中、ヤマトとサクラコを連れて山形屋に行き、昼過ぎに帰ってきた。サクラコが熱っぽかったので、C小児科(かかりつけ)に行こうと思ったが、診療時間が15時からだったので、自宅でおっぱいを飲ませたりしていた。15時になり、C小児科に行ったところ、休診だったので、T小児科に行ったら、エコーを見て「心臓が肥大して大変なことになっているからすぐに県病院に」って言われて、T小児科の看護師さんも同行して県病院に来た。とのことだった。処置が終わり、サクラコが病室へ。廊下で私がDrに聞いた。「娘の状況は、その~、ある『覚悟』をしておかなければならないんでしょうか」「いや~、お父さん。そんな大げさなものじゃないですよ」という答えがDrから返ってくると思っていた。そう願いたかった。しかし、Drは言いにくそうに「詳しくは検査結果を見ないと・・・。ただ、そういうことも十分あり得ます」ドラマだとここで泣き崩れたりするのかもしれないが、私も妻も「きょとん」としていたような気がする。人は受け入れたくない現実を目の前にしたとき、意外とそんなものかもしれない。相変わらずサクラコは病室のベッドで泣いている。重篤な状況であるため、心臓に負担がないようおっぱいをあげることも禁止された。「おなか、すいてるよねぇ」しばらくして、小児科部長から説明があるとのことで、ナースステーションに呼ばれた。小児科部長はレントゲン写真を指しながら○心臓が炎症で肥大して、肺を圧迫している。○心臓の8割は動いておらず、動きも悪い。○写真(レントゲン)で見る限り、心臓に奇形はないのだが・・・。○風邪のウイルスが心臓に入り、稀にこのような自体を引き起こすことがある。○ウイルス性心筋炎といって、この病気である可能性が高い。○助かる子もあれば残念な結果に終わる場合もある。○外見では元気そうだが、心臓はかなり弱っている。見た目にだまされてはいけない。○県病院ではこの状態の乳児が急変した際に対応する術がない。○宮大付属病院で「準備を整えて待っている」とのことだったので転院搬送したい。私も妻も泣くでもなく、呆然として説明を聞いていた。救急車の到着を待っていると、知らせを聞いた祖父母が木城町から駆けつけてきた。私がこれまでのことを説明する。救急車到着の報が病室に入る。妻がサクラコを抱き、医療スタッフがそれを取り囲むようにしてに救急車まで運ぶことに。妻がサクラコを抱き上げた時、やっとおっぱいをもらえると思ったのか、サクラコが妻の胸のあたりで何度も口をぱくぱくさせている。「サクラコちゃん、今はダメなんだよ。あとでいっぱいいっぱい飲もうね」妻がサクラコに言い聞かせるように話しかける。私は、やりきれない思いでそれを見ていた。22時過ぎ。救急車には妻とDrが同乗し、私と祖父母は車で大学病院へ向かった。
2007年11月01日
私と妻の目の前で、お医者さん5~6人で代わる代わるサクラコの心臓マッサージをしている。たか先生の指示が飛び交い、サクラコのベッドの周りは医療スタッフがあわただしく動いている。私はサクラコに声をかけるが、言葉にならない。涙があふれて止まらない。現実だとわかっていても目の前の光景が信じられない。だって、今まで「機嫌が良くて、食欲があった」じゃないか。この日からさかのぼること1年あまり。まだ我が家に子どもがヤマトしかおらず、ヤマトが赤ん坊だった頃、よく熱発していたのでしょっちゅう小児科に連れて行っていた。熱が高く神経質に心配している私にお医者さんは「赤ちゃんは、機嫌が良くて食欲があればたとえ熱が40度あろうとも大丈夫なものですよ」と笑って話された。「機嫌が良くて食欲があれば大丈夫」この小児科医の言葉は間違ってはいないと思う。事実、ヤマトは今も元気に過ごしている。ただ・・・、この言葉は100%正解ではなく、概ね正解なのだ。私たち夫婦はこの言葉を、知らず知らずのうちに、盲信していた。今年4月にサクラコが生まれた。生まれたときからおっぱいをよく飲み、手足もよく動かしていた。3ヶ月検診でも異常は指摘されなかった。首の据わりもヤマトの時より早かった。泣いても抱っこすればすぐ泣きやんだ。ばあちゃんが「ちゅーりっぷ」の歌を歌ってやるとよく笑った。寝返りするんじゃないかと思うくらい身体を動かしていた。私たちから見れば、元気に「見えていた」サクラコ。9月くらいだったか、サクラコの呼吸が「少し早いかな」とは感じていた。手足が少し冷たいことも感じていた。「サクラコ汗っかきだね」とも話していた。ただ「機嫌も良いし、おっぱいもよく飲む」ことから、それが「心臓病によるもの」とは思いも寄らなかった。だから、10月12日に熱を出し、「風邪かな」と妻が病院に連れて行き、そこでサクラコの心臓が大変な状況になっていると聞かされるまで、サクラコがそんな重大な病気を持っていることに気付かなかった。たか先生をはじめ、サクラコの心臓の異常を最初に発見してくださった開業医の先生からも異口同音に「この病気は普通の人にはわからないですよ。ご両親は自分たちを責めないで」と慰められるが、親としては気付くことができなかったことを後悔してしまう。わからないことでも気付いてやるのが「親」なんじゃないかと後悔してしまう。きっと、この後悔は一生続くのだろうなと思う。 入院前日のサクラコ
2007年10月30日
この間まで、楽しく暮らしていた普通の家族でした。たわいのないことで笑っている家族でした。しかし、先日、娘のサクラコ(生後5ヶ月)を心臓病で亡くしました。「人はこんなに泣けるものなのか」と思うくらい泣きました。まだまだ気持ちの整理がつきませんが、サクラコが精一杯生きたことを少しでも知ってもらいたくてブログに書き記すことにしました。稚拙な文章ですが、サクラコの過ごした日々や病気、家族のこと、思いつくままに少しずつ書いていきます。もし、子育て中の方やこれからお父さんお母さんになられる方が読んでくださって、何かしら感じてくだされば幸いです。 最愛の娘、サクラコちゃん
2007年10月30日
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