草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2020年11月18日
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自然への畏怖と、自ずから然りという言葉を廻って思いつくことなどを書くつもりです。

 昨夜、以前のカウンセラーの仲間から飲み会に誘われて、行ってきました。家族以外とお酒を飲むのは

久し振りの事でした。幹事役の海老原さんが非常に気遣いの行き届いたお方で、最近は頓に出不精になっ

ている私も、気軽に参加出来ました。

 以前、支部会の支部長を長年務められていらっしゃった上条さん、近年益々元気溌剌たる二宮さん、オ

ートバイで颯爽とツーリングなさっている市川さん、など総勢五名の宴会でしたが、終始会話が弾み、楽

しい一夕でありました。

 ある程度気心の知れた仲間との屈託のない団欒は、人生のオアシスとして、又心の糧としても大切な物

であります。自由参加で、義務や強制でないのがとてもよいのです。



が、それはそれで楽しく、有意義な場ではありましたが、仕事の一環である事実は明瞭でありましたか

ら、私もそのつもりで、心してその場に臨んだし、常に宴会費用の捻出に腐心していました。

 さて、自然への畏敬という事ですが、この場合の自然は英語の nature の訳で、明治期以後は専ら翻訳

語として日本語として定着して、今日に及んでいます。しかし、古代から日本人は自然環境としての山河

海、草木に至る迄の諸々に神・god を感じて恐れと畏怖、敬いの精神を抱いて来て居りましたから、信

心深いことでは、世界中のどの民族にも劣らない精神性を発揮しております。

 台風や河川の氾濫、火山の噴火、大地震、津波など、人の力ではどうしようもない絶大な力が、常に私

達の生存を脅かし、人々の尊い営みに対して、決定的な支配力を及ぼしている事実を、夢寐にも忘れるこ

とは出来なかった。その様な自然の驚異には人間の微弱な力では対抗しようにも、その手立てを見つける

ことは出来ない以上は、ひたすら畏敬の念を捧げて、その怒りの鎮まるのを待つしかなかった。

 この基本的な関係に、今も、今後も変化が無い事は自明であります。が、現代人は、神々に対する畏怖



 所で、二つ目の自ずから然る、の方ですが、「じねん」と読んで、取り分け仏教の方の心の悟りと深い

関係を、伝統的に保持しております。

 この大宇宙での生成と滅亡とは、誰の仕業とも知れず、おのずとその様に展開し、収束している。その

様に達観する。我々人間の喜び・悲しみ・嘆きなどの諸感情は、大自然の営みという偉大な働きの、小さ

な反映として、各人がそれぞれの置かれた立場で受け止める、その仕方であり、従って、人智を遥かに超



 人間だけではなく、生きとし生けるもの全て、更には山川草木の全てがそれぞれの仕方で、大自然の圧

倒的な力に抗すべくもなく、ただひたすらに受身で、大きな流れの中を漂い、流れ、流されている。

 この自ずから然る本質に留意すれば、人間は今日の如き 傲岸不遜 には生きられない筈のもの。蟷螂

の斧という言葉があるが、到底敵わない強大な相手に対してさえ、思わず知らず身構えてしまう微弱な力

に対する自嘲の表現である。又、井戸の蛙、大海を知らずも同様の趣旨である。

 我々人間は、時間的にも、空間的にも小さな点に過ぎず、無限に伸びている直線を俯瞰して見ることは

出来ない。何故かは知らないけれども、自ずから然る成り行きの結果として、前後左右空漠たる闇の中の

矮小極まりない小点として存在させられて在る。かくの如き存在を果たして、存在していると言って良い

ものか、甚だ心もとないのではあるが、仮に真実存在するものとして、自己とその中に置かれている 

nature との関係、並びに、意味合いについて意味付けをするのであれば、自分に有意義な仕方で解釈す

るのがベストであると、私などは思うのですよ。

 つまりは、自分の命を輝かすのに有利な線で考える。その自由は少なくとも 与えられて いるのだか

ら、その自由を 勝手に 行使して悪かろうはずがないのだ。私は随分と自虐的な精神構造を持って、私

の前半生を渡って来ているが、今は超がつく程に楽天的、積極的な気持ちに切り替わって、天寿が尽きる

までの後半生を生き切ろうと考えております。

 私の人生は神から多大な祝福を、過分な果報を頂戴している。ならば、その御恩報じにこれからの日々

を鋭意使って行きたい。親切の押し売りはいけない。愛されたくない女性から口説かれても、少しも嬉し

さを感じなかったから。同様に、有難さを感じない相手に、自分が親切と思う「勝手な親切」を押し売り

しては先方に迷惑を及ぼすのが、関の山である。相手との間合いをタイミングよく捉えて、自他共にウイ

ンウインの関係で、人生を輝かす仕事に邁進する。これが私の今後の目標であります。

 今日、このようにして在るのは、自然の営為の結果であります。ビッグバンによって引き起こされた宇

宙の膨張は今尚続いているそうですが、永久に膨張を続けるのか、それともどこかの時点で収縮に転じる

のか、今のところ予測がつかないそうですが、どちらにしても、今を生きている私どもには全く無関係な

途轍もない現象であり、この様な宇宙の一隅であるからして、地球でも大陸が大きく移動し、生命の限り

ない変転が、発生と消滅とが絶え間なく繰り返されている。

 私達人類もその一環として、激動する諸環境と共に変化してやまないのは、当然の帰結であろう。我々

は一体どこから来て、何処へ行くのか、の疑問には、取り敢えずビックバンに始まり、その終局に到ると

答えるのが合理的な思考と言えるが、ビックバンを起こした宇宙の種はどこから来たのかを問われれば、

真空の中に何処からともなく姿を現した、そう現代科学の最先端を行く学者が説明する以上は、取り敢え

ずそれを信ずるより仕方がないわけである。

 全く、雲を掴むような話で、この伝で行くと、われわれが大宇宙などと形容するこの宇宙など、真空さ

えあれば無数の宇宙種が見えない壁をすり抜けて出現することになろうか。

 合理的な演繹、推論の結果は不合理で、理屈に合わないヘンテコな結論に行き着いてしまう。ならばい

っそのこと、我々の想像も及ばない絶対者を想定し、それを神と名づけて、神が全てを「存在あれ」と唱

えたので、この世に存在が芽生えた。そう考えるのは、科学的な思考よりは、少なくともより合理的な思

考と言える。そもそも、合理的ばかりではない対象を、合理一本槍で押し通すのには無理があり、それを

がむしゃらに押していけば、後には不合理要素だけが残ることになる。子供にでも分かる、道理なのだ

が、自分だけが正しく、偉いと頑なに信じている者には、真理がどこかへ姿をくらましてしまっても、そ

の理由が理解できないわけだ。

 英語で intuition 、直感こそが、ある部分では合理思考に数段勝る事を、先ず認めなければならないだ

ろう。合理的な思考・推論が先か、直感力によるブレイクスルーが先かの議論はともかくとして、その両

者の巧みな使い分けを駆使することによってしか、我々の前に立ち塞がっている難局には、立ち向かえな

いことだけは確かであろう。

 だから、真空と、宇宙種の件にしても、真空の定義の吟味や、宇宙の種と命名した対象の再吟味が必然

的に要請されていることは、俊敏なる宇宙科学者が一番に承知している所であろう。始原に関する前提条

件は終末の検証以上に困難が付き纏う。やわな合理の刃などで、方がつく代物ではあるまい。

 私の直感であるが、ニーチェの永劫回帰は本当で、一度起こったことは何度でも繰り返し起こる。私を

例に取れば、私は永劫の時の経過の後に、悦子と巡り合い、再び結婚する。それは間違いのない事実であ

って、勝手な妄想などではないのだ。ビックバンを裏付けたス-パーコンピューターのシュミレーション

を盲信するよりも、遥かに信憑性に勝る考えなのである。笑う人がいれば勝手に笑うが良い。笑う者は救

われるのであろうが、私は既に救われて満足している。誰が何と言おうとも、私のこの直感は正しく、正

当なものであり、既にして私を夢見心地にしてくれている。

 それだけではないのだ。私はそうした自己の内的な体験から、人生を肯定し、積極的に生きる事を知っ

た。どの様な宗教よりも絶対者・神の存在を感じ、有難いと心底思う感謝の念も自然に学ぶことになっ

た。悦子とのホスピスの部屋での所謂「永別」を悲しみだけでなく、ある種平穏な心のままで迎えた体験

を思えば、人間としての感情を超えた何か別の情感に支配されていた。

 死は死であって、死ではなかった。譬えば昆虫などの脱皮を想像すればよいのではなかろうか。普通の

人間としてのステージから、別の何かへの飛躍的な移行であった。そのメカニズムについては全く理解が

及ばないのではあるが、地球を離れて別種の星にでも旅立つごとくに、悦子という存在、地上では肉体と

清らかな魂とで成長を遂げた一個の霊的な生命体が厳かに飛翔を果たした。そう、私には認識出来る。

 全大宇宙の神秘に包まれた在り方よ、有難う! そして、永劫回帰のあり方に感謝。私は、気の遠くな

るような永い、永い眠りの後に、白紙状態でまた元の魂的な存在者として復活を遂げる。

 すると、復活を遂げるのはイエスキリストだけでは無かったことになる。人間として現世に存在し得る

者は皆、再び三度、地上に、地球に生還する。少なくとも、その資格を有している。

 それと知って、どれだけの人が喜び、どれだけの人が嘆き悲しむのか。所謂最後の審判とは既に判決が

下されていた。悪人は悪人のままで永劫回帰し、善人もまた同様である。言うまでもないが、悪人も善人

も本来はいないのだ、神の目から見た場合には。それを、肝に銘じよう。

 人間とは結局、素晴らしい存在なのだ、間違いなく。これが私の、善人であり、同時に悪人でもある私

の結論である。人間万歳、そして、生きとし、生きる物に幸いあれと、私としては可能な限りの祝福を送

りたい。共に、この現実という大きな舞台で名演技を披露して呉れた人々に、拍手を送りたい。





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最終更新日  2020年11月20日 16時15分13秒
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