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斜め向かいに「お糸の地蔵堂」があり、此処に昔は高札場があったが今は何も表示されていない。「このお堂の再建は私がしました。その前は大工だった父が建てたのです」大工の息子が東京の大学に行き、1級建築士になったのだ。親の背中を見て、更に高度なレベルを目指したのだろう。 「向いの空き地が庄屋跡、私の親戚が所有していた。構口は西も東も今はないのです」何も保存されず、松井さんが説明してくれなければ証拠不十分で記憶から却下されるところだった。 途中、古い二階家があった。宿場の昔の役職者の建物で建築士が改造を手がけたらしい。 作業場に戻ると、横並びの家が立派な二階建てである。石州の黒瓦、屋根にはしゃちほこが4か所鎮座している。父が建てたという。所有の山から木を切り、乾燥させ柱に使った自慢のお宅である。 「中を見てみませんか」というので玄関から見せてもらった。広い4部屋の和室、昔は襖を開け大宴会をしたそうだ。床の間、飾り棚、床柱、窓、お縁も広い。欄間も見事、大工さんが自分の思いどおりの贅沢な造りにした跡がうかがえた。建築士としては、採光関係を考えてないなと辛口の親父批判をしていた。 「呼野の宿場の歴史は、学校の先生だった山本公一さんが詳しいのでお尋ねなさい」と言い場所を教えてくれた。 多分、幻になりそうな宿場だが、後日詳しく山本先生に会って話を聞くことにした。
2021.05.25
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秋月街道は小倉宿を出発して、次に徳力宿がある。この宿場も東構口が西がどこなのか 分らず仕舞いで、次の呼野宿に向かった。 国道322号線沿いに秋月街道の宿場はあるはずだが、今やバイパスが幹線道路になり、見過ごしやすい。秋月街道は旧道になっており、走ると呼野駅の信号があった。日田英彦山線で、かつては銅山の採掘が盛んで4000人の人口がいたという。山の土地を一坪買い、金を掘る人も居たという。 東の方には平尾台が見え、九州最大の石灰岩カルスト地形の勇姿を見せている。石灰石 はセメントの主原料として用いられる。採掘で山の上部はかなり採掘され白い肌が見える。 三菱マテリアルという会社が大規模に採掘を続けている。山の上部は1キロ四方の広場が掘られている。爆破した石灰岩をダンプトラックが立坑に投石する。立坑の先には地下工場があり、工場の中で破砕機によって石灰石が破砕されるシステムらしい。日本の経済には欠かせない事業である。 通り過ぎる我々には、山間の緑多き、のどかで静かな町だなと想像する。住む人にとっては良くない環境らしい。岩山を爆薬を装填し発破する。爆破音や岩を砕く機械の騒音が山間に谺するらしい。平尾山を眺めていると「ドカーン」と音がした。鹿威しかと思ったら爆破の音だったのだ。更に石の粉塵がまき散らされ、周辺は砂埃になり、木々の葉も真っ白になったらしい。 現在は、地域住民を交え、安全委員会が組織された。徐々に、悪環境は改善されつつあるという。今や人口は減り、街道沿いは空き家が多い。ほとんど旧街道の史跡らしいものはなく、「お糸さんの碑」があった。ため池を作るときに、難工事のため14歳の娘が人柱になるといった伝説がある。自ら志願していったというが悲しい物語である。 人通りもなく、里程標という看板があったが、その他の宿場の遺跡を見付けられず、また後日 訪ねてみようと思った。
2021.05.21
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兵庫に住む妻の姪から電話が掛かった。 「おばちゃん!岡山の父が亡くなったの。 どうしたらいい?土曜日、医院の駐車場で倒れ死んでいたと警察から連絡があったの」。 姪は母側に育てられたが、血の繋がった子で、離婚後も義兄と交流もあった。「父の遺体が戻って来たらどうするの」と動揺し妻に泣きつく。「え!兄が死んだ。3日前、孫の写真を嬉しそうにスマホで送ってきたばかりよ。一人住まいだから、死ぬ時は人前で分かるようにしといてと冗談で返したのに」と福岡に住む妻は絶句した。 妻は思った「92歳の母は少し認知が入っている。手助けしなくては」新幹線に飛び乗 った。「兄ちゃんが死んだ!」母は「なんで、なんで」と大声で繰り返し泣き叫んだ。親が先に逝くはずなのに、息子が先に亡くなるのは残酷な悲しみだろう。 喪主がどちらも頼りない。 姪は「火葬だけで、葬式も位牌も要りません。お金もありません」と言う。葬儀屋に訊くと「家族葬で70万円。僧侶は別途代金で自分で探して」と割高だった。しかし妻は自分で払ってもいいと家族葬で予約、お経のテープを流し終りにしようと決めた。妻から私に「毎朝、読経している般若心経などを家族葬で唱えて」と依頼があった。 私は菩提寺の住職に相談すると「葬儀でお経を読むのは僧侶の仕事です」と岡山の禅寺 を紹介してくれた。通夜と葬儀は岡山の安禅寺でお願いすることになった。僧侶と出入の葬儀屋で厳かな中、心込もった弔いとなった。 私は葬儀で亡き義兄に伝えた。私の父は生前「死んだら何も無くなってしまう」とよく嘆いていた。私は「DNAが私や子供に残って居るよ」と慰めた。 親がいるから私がいる。 赤子は親の育児なしには生きられない。成長し、自立し、自分の人生を楽しむ。親の恩 は忘れてはいけないと思う。人には寿命があり、義兄さんも生ける年月には楽しみ、悲しみ、苦しみがあっただろう。小さな幸せが沢山あったらいいなと思う。 好きな将棋を指している姿を想う。天国で安らかにお眠りください。
2021.05.17
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洒落た納骨堂の奥の正面に厨子があり、観音開きの向こうに、11面観音菩薩の立像がある。一枚板の扉もいぶし銀のような落ち着きがある。菩薩の顔は金箔で慈愛溢れている。墨染めの衣は漆が見事な調和を感じさせる。手を合わせ拝みたくなる国宝のような木像である。 住職は納骨堂を建てるにあたり、相応しい仏像を設置したいと念願した。手を尽くし捜しているうちに「福井の方に300年前の仏像がある。ご先祖は大金持ちの廻船商だった。当時の銀貨で、今だと何百万円もする金で、腕の良い仏師に彫らせたものだ」という話しがあった。 かなり修理をしないと仏壇には置けない状態だった。金額の話で、お蔵入りになった。時が経ち、持ち主から連絡があった「私はキリスト教だから仏像に未練はない。熱心に話され、大切にされるお寺さんのようですから、寄付させてもらいます」と有難いことになった。 扉や木彫りの像も痛みが激しく、修復は難しい状態だった。出会いが続く。国宝修理の仏師の弟子だったが、師匠と意見が合わなくなり、破門された70歳の仏師がいた。白髭を伸ばし放題、服はぼろで素足にサンダル履きだった。 生活困窮のようだが、仏師の腕は一流だった。3年の歳月を経て、修復した11面観音菩薩を持ってきた。流石、一流の仏師は仕上げが違う。300年の歴史ある国宝級の仏像にも劣 らない出来である。燻し銀で表面をいぶし、本来の輝きを抑えた銀のようなお姿となっていた。どこから見ても神々しい立像には、心うたれる気持ちになり賽銭箱へ千円を入れた。 この観音菩薩の前で、義兄の49日の法要のお経をあげてもらった。神聖な気持ちになり、 満中陰で死後、この世を浮遊していた魂が、仏の世界へゆっくりと飛んでいく姿を見るようだった。
2021.05.14
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木屋瀬宿は我が家から4キロの所にある。何度か行ったことはあるが、宿場として見詰めることがなかった。西構口から歩くと漆喰を塗った大壁造りの「大庄屋松尾家」がある。 掲示板には建物の造りや当時の庄屋の仕事などが記載されている。木屋瀬には村庄屋、宿 庄屋、船庄屋の三庄屋が置かれ、村庄屋は村全体を統括した。松尾家は屋号を灰屋と称し、 問屋役・人馬支配役、村庄屋などを務めた大庄屋であった。 「見学希望の方は隣に連絡ください」と小さい文字があった。「やった。チャンス」と呼び鈴を押した。広い庭の奥から松尾家の奥様が登場された。「宿場に興味があるので」と言うと「それは感心なことでございます。裏口を開けますのでお待ち下さい」と優しい。 通りに面した板木戸が開けられた。内部はびっくり仰天する江戸の遺物が陳列されている。 公共の物なら感じないが、個人でこれ程キチンとした展示には驚かされる。昔の土間で、排水溝は石をノミで彫った跡が無数に残っている。台所の流しも石を彫りぬいた物だ。井戸は六角に石を積み上げ、遠賀川から水を引き入れ使っていた。 人物画の初代大庄屋は福々しく、2代目は凛々しい男。平民であったが刀の帯同を許されていた。古文書もあり「黒田藩主に金を貸した名入り証文がそれです」と指し示す。「お金では返さず上野焼とか品物で返したそうです」2階の窓は銅板が張られ「参勤交代を眺める無礼がないよう、二階の階段はつり梯子にしてあります」当時、庶民は土下座を命じられていた。 「30年前、北九州市より補助金600万円、松尾家で600万円負担で家を補修しました。白壁は小倉城壁塗りの腕の良い職人が塗ったので、未だにびくともしない」と語る。 56年前、奥様が松尾家に嫁いだ時は、建物は奥行きが長かった。半分取り壊し、住居は別棟に新築し、歴史遺産の古民家を残したという。 ご主人は元校長先生で奥様も小学校の教師をされていた。「過去の出来事として後輩に伝え教える」心を感じた。
2021.05.12
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木屋瀬宿記念館で案内人が「江戸参勤交代は各藩主が財力を増やし徳川家へ 反抗の狼煙を上げないよう、散財浪費させるのが目的だった」と仰る。2年に一度、 藩主は徳川将軍に拝謁しなければならない。そのお供は加賀藩百万石は2千人 付いてくるという。福岡の黒田藩でも300人位のお供が付いてくる。街道筋にばら まく費用は莫大な金額になったことだろう。 今のコロナ禍にたとえると、国の経済政策のゴーツー・トラベルで地方が商売で 潤い、国民に活力を与えるのに似ている感じがした。 大名旅行には宿場が必要であり、本陣に殿様が泊り、脇本陣や旅籠が必要となって くる。宿場には数々の店が並んでいた。今や消滅した馬屋・船屋・牛馬の鞍屋・鍛冶 屋・鋳掛け屋・指物職・車挽き・桶屋・両替屋・麹屋・油屋・飴行商・麩屋・など店は200店はあった。木屋瀬宿で嫁入り道具の全てが揃うというほど繁盛したらしい。 ミニチュアの家並みがあり、ボタンを押すと建物の在処を示す。遠賀川は南から北に 流れ、芦屋港で玄界灘へ注ぐ。木屋瀬宿は遠賀川の傍である。どうやって対岸の中島 に渡るのか分からなかった。大井川では駕籠かきが担いで川を渡るイメージがある。 幕府は橋を作らせなかったという。川幅は広いし水量もある。300人もの参勤交代の 人たちがどうやって渡ったのか。 案内人の説明で謎が解けた「川には帆が付いた船が何隻もある。船庄屋というのが いて、黒田藩より24隻の船を預かり、木屋瀬から芦屋迄年貢米を運ぶ仕事をしていた」 という。渡し舟は民間の業者がやっていたらしい。江戸の中期からは筑豊では石炭が出ており既に五平太舟で運んでいた。木屋瀬には船庄屋という人が仕切っていたのだった。
2021.05.11
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秋月城址の次が野町宿らしい。近くに大己貴神社(おおなむち)があるというのでナビを設定し、到着した。日本最古の神社と謂れ、掲示板は「神功皇后が新羅との戦いの為、各地の豪族に命令し、多くの兵士を集めさせた。朝倉地区の’熊鷲’は命令に従わなかた。皇后軍は福岡の '香椎の宮’から進軍し熊鷲を征伐した。大己貴神社は皇后により建立された」と語る。 地元の人に聞くと「此処は野町ではなく筑前町弥永です。秋月街道を直進、渡った橋を右折し4キロ先に野町の信号機がある」と親切に教えてくれた。 野町に着き、街道沿いの大きい家から出てきた女性に尋ねた。「ここは野町ですが、宿場は聞いたことがありません」と言う。向かいの煉瓦塀の家は無人であり、両側には家が並び宿場らしき面影はある。事前調べでは信覚寺というのがあるはずだった。 地区住居表示板に信覚寺が載っていた。寺の新しそうな玄関の呼び鈴を押した。愛想の良 い声の女性が応対してくれ、年配の男性を連れてきた。住職で17代目の当主である。 住職がこの地区の説明をしてくれた。「嘉麻市の山を越えると、筑前町野町です。野町までが筑前の国で、その先から筑後の国になるのです。野町は関所があった所です」という。 国境で入国審査をする関所が設けられ武士が担当していた。「周りは田畑しかなく、係官は農業の許可がおり、年貢米は取られないらしい。金持ちの武士が多かった」という。 「この寺も250年前火事があり過去帳も燃えたてしまった。盗人が放火、火事の隙を狙い金持ちの家に泥棒に入った」と住職が明かす。娘さんが、松崎の道順を書きメモを渡してくれた。 信覚寺は、浄土真宗本願寺の中興の祖蓮如上人と共に、親鸞聖人の御真影を守護していた徳法師が筑前の国に下向し、500年前に草庵を結んだのに始まる。住職はその末裔の方らしかった。 「虚往実帰」が表玄関に掛けられていたので、尋ねた。「寺に来たら住職の話を聞き、身になるものをもって帰る」という意味だという。有益な話をしてくれそうな優しく知的な紳士だった。 野町の外れに「関所跡」という石碑だけがポツンと立っていた。
2021.05.10
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秋月街道の千手(せんず)宿は嘉麻市の小学校の近くにある。里山の宿場通りに漆喰壁の民家があり、隣接した作業場に「筑前左 山本刃物」の板看板があった。玄関で立ち話をしていた男女が、「何かお探しですか」と問う「ここは宿場ですか」と訊くと「隣が鍛冶屋になっています。どうぞご覧ください」と言う。 倉庫の中は、昔の鍛冶屋の機械や道具が放置され残っていた。「珍しいですね、使える状態の鍛冶屋は初めて見ました」と驚くと「祖父と父が鍛冶屋として働く姿を子供の頃見ていました」という。耐火煉瓦の炉があり、コークスが燃え、火床(ほくぼ)があったのだろう。煙突が屋根の外に出ている。炉の前の地面を堀下げ、その横にベルトハンマーが控えている。金床にある鉄を槌で叩き鍛える。作業風景を彷彿とさせる。「小学校から見学に来た時、父が火を起こし鍛冶仕事を説明した」娘はそんな父を誇らしく思った。 大学を出て就職し博多に住んだ。彼女が28歳の頃、父が59歳で急死し、母は2年後に亡くなった。10年位、家は無人だった。家はずっと心の中に残っていた。故郷とは「鍛冶屋の父母がおり、田や山も所有、親戚もいる。百年以上の家も居心地が良い。ここが故郷」と言う。惹かれるように帰郷の気持ちが募った。 36歳の頃、知り合いの男性と結婚し、博多に住んだ。「故郷の古民家で鍛冶屋を残し、生活したい」と夫に相談した。妻の望郷を思い遣り一緒にこの地で住むことを決意した。妊娠中に移住し「生まれる子に自分が経験した里山で大らかに育ってもらいたい」いまでは4歳と2歳の男の子と4人暮らである。 「家に上がって見てください」と言う。二階には鍛冶や刀剣に関する資料が曾祖父の代からある。刀鍛冶の左文字系の弟子となり刀鍛冶の職人をしていた。鍛冶の道具や炉や仕事場がその儘の状態で残る数少ない場所だ。 ここを修復し「つなぐもの 鍛冶屋の記憶」として皆様に見てもらいたいという。
2021.05.08
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宿場は江戸参勤交代のための街道で藩主等が宿泊する。500m位の道沿いに、 商売の家が両側に立ち並んでいた。色々な商売の店があり、宿場通りの図面では 商店の業種を記載し、賑やかな時代の名残を表している。 時代の流れと共に、ほとんどの店が消滅してしまった。建物だけが残っているが、 住居としての用途に変わっている。小さな宿場は、昔の痕跡もない場所もある。 唯一、脈々と残っている店がある。麹菌でつくる味噌屋である。朝餉に味噌汁を好む日本人は多い。千手宿の出口近くの坂道に溝口商店の立看板が目についた。ネ ットによれ「約200年続いた味噌・麹の店」となっている 下が板で上がガラスの引き戸をガラリと開け「こんにちは」と相方が声をかけた。 白髪のご婦人が応対してくれた。天井と上部の壁は黒い煤のようなもので真っ黒 である。「これは麹のカビが天井や壁に付いているものですよ」と説明。 奥に細長く作業場が続いている。神棚を指し「それが麹の神様です」間仕切り 壁の柱に目の高さの位置に設置してある。5月なのに玄関にお飾りがあり、神棚に パックの鏡餅が備えがある。背後に般若心経の写経が飾ってある。六角宿の味噌屋 屋の玄関にも正月でもないのにお飾りがあった。なにか意味があるのだろうか。 相方は1個600円の米味噌と合わせ味噌を買った。今でも需要はあるが「作業す るのに夫婦2人いなければ、仕事ができないのです」と言う。3人の息子さんがいて、 皆別の仕事をしているらしい。「この商売を押し付けるわけにはいきません。我々の 代で店仕舞いです」と残念そうだ。 宿場に現役で残る商売は味噌屋さんだけ。鳴瀬宿の味噌と六角宿の小串麹や木屋瀬宿の味噌など歴史的産物の味として、いまでも多くの愛好家がいるようである。
2021.05.07
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駐車場は200坪あり、真新しい砂利が敷いてあった。かつては寺の下段にある畑は農家のかたが所有し野菜を植えられていた。 高齢で跡を継ぐ人がなく荒れ地となっていた。「住職は譲ってもらえないでしょうか」とお願いしてみた。「この畑は、先祖から引き継いできた財産である。売って手放すなどは、ご先祖様に申し訳ない」と固辞された。 無人の禅寺を継ぎ40年近くなる。本堂に住み、托鉢や布施や庭の野菜で命を 繋いできた。この村には古いお寺があり、その檀家さんばかり。安禅寺の30軒の檀家だけでは生きていけない。並大抵の苦労ではなかった。久留米梅林寺の修 行を思えば、どんな状況でも活路を見出すことができる。 人の縁を大切にし、仏教の心を広めていった。新しく住み始めた住職の行動を、 10年という時が、真価を見極めるに十分な歳月である。良い縁が積み重なり、理 解者が増えてきた。 今では本堂で法要を企画し呼びかけ、法話や昼食のちらし寿司を作り食べて貰う。 「前回の法話会では80人の方が集まって頂けました」と住職は嬉しそうに言う。 下の荒れた畑も「持ち主から1年後、連絡がありました」地主さんは「ご先祖の大 事な土地を売ることはできない。だが働けなくなった今、仏様のためなら土地を寄 付できる」と言い無償で譲ってくれた。 住職はその心を深く受け止め、石碑を建て「この土地は地主様より寄贈して頂き ました。末永く感謝します」安禅寺の住職と刻んであった。この石碑は何百年の歳 月にわたり、この地に記憶を留めることになだろう。 広い駐車場に1台だけ我々の車が止まった。階段を登り、永代供養の建物へと 向かった。
2021.04.30
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寺の方に向かうと、前に大型トラックが止まっていた。も少し先に目的地に行く曲がり角がある。曲がった道にも大型クレーン車が止まっている。周りに坊主頭の人が 見える。作業員が狭い道幅で大型車が通行できるか見ているのだろう。 後ろで、様子を眺めることにした。クレーン車が前進、巨石を乗せたトラックも角を曲がった。寺は林の中にあり道は細い。巨石を庭に置くため、運んでるのだろう。 車がなかなか動かないし、約束した時間は余裕があるので、明日の49日法要後の昼食の場所を確認しに行くことにした。 携帯へ電話が鳴った「今どこにいますか?」と住職が訊き「寺への道は他にもう一か所、入る小道があります。そこからおいでください」と言う。途中の草むらに細道が 隠れるように山へ登っていた。寺の下の段に新しい砂利を引いた駐車場の広場があった。 後で住職さんに尋ねると、石は買ったのではなく、檀家さんが「古い家と土地を処分 するので庭石を寄付したい」という。5トンはありそうな大石が何個もあるらしい。 住職は「置く場所は、山だからありますが、とても石を運ぶお金がありません」と話 すと、檀家は「私が運搬費用を出すので」という。有難くいただくことにした。費用は クレーン1日借りて10万円はするという。 寺の裏山が雑木林になっているので息子の副住職が「山を切り開き、将来は皆さんが集まる公園にしたい」と夢を持っている。彼はクレーン免許を取り、斜面を切り開き、300坪位の土地が造成されていた。大きな酒造りの大樽が2個、逆さに置いてある。これは廃業する酒蔵の寄付らしい。 ある僧侶は「持つという字をよく見て下さい。手へんに寺と書いてある。お布施を 持って来て」ということらしかった。寺は施しを受けるのが基盤のようだ。 運ばれた大石は建築中の集会所玄関前に設置された。「もう永遠にこの場所から動かないぞ」と苔むし石が決意したかのよう顔をしていた。
2021.04.28
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多良宿と竹崎宿で面白い出会いや経験をした後、午後3時ごろ訪ねた湯江宿では少し探求心の気合が薄れてしまった。 多良宿から有明海沿いのルートを走った。諫早市の境界を超えた途端、おとぎの 世界の「フルーツバス停」が次々に登場する。スイカ・いちご・メロン・みかん・トマトの5種類がある。1990年長崎旅博覧会の際、設置されたという。 湯江の光宗寺も事前に調べていた。海道から坂道を上り寺を確認したが誰もい ない。戻ろうとすると、坂道で軽自動車に出会った。中年女性が運転していて、窓 を開けた。「宿場を探しているのですが」と問うと「うちが殿様を昔、お泊めして いました」とさらりと言う。お寺の住職さんだろう黒い僧衣を羽織っている。「檀家さんのお詣りが多いもので」凛とした感じの女性の和尚さんである。 「下の道の左先に女郎屋が3軒ありました」女性の坊さんだがケロリという。女性 差別とか言われそうだが、気にしない感じである。 「境内の階段を下りて右のほうに上使屋跡がありますよ。現在は人が住んでいま すけれど」。「ありがとうございます」といい境内を通ると小さな女の子2人が遊んでいた「こんにちは」と挨拶してくれた。後ろに品のいい中高年の男性が本堂の階段 に座っていた。住職のお婿さんかもしれない。 「湯江宿の上使屋跡」の証拠物件を発見した。今は人の住む民家であるが、看板に「この家が上使屋として使われた」と書いてあった。 宿場としての規模は200mと小さい感じがした。すでに午後4時となっており、疲れが出たのか、宿場探索の根気が薄れたようだ。これから3時間かけて家まで帰る。 途中、鞍手町の店で牛ビビンバを食べた。人気店で若い家族が焼き肉に舌鼓をうっていた。
2021.04.27
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店員さんから聞いた道を、国道から分岐し竹崎方面へ車で走る。街道を寄り道 し、宿場へ行く感じの場所である。竹崎城址は山城と水城の性格を持つ築城らし かった。展望台があり、360度が眺められ、雲仙岳も見える。夜灯鼻灯台跡も あり、海の難所と恐れられ海難事故も多かったそうだ。 カニや牡蠣を食べにくるお客さんの泊まるローカルホテルが2軒あった。広場で バイク2人乗りの男女が、ホテルの場所を訊いていた。「カニ料理を食べるのかな」。 五角形の島で底辺が四角い湾になっている。岸壁に釣り船が停泊し、丘に漁師の 民家が並ぶ。絵になる風景である。店員さんの家もあり、チワワが待っているだろう。 港の広場から細い階段があり家並みが続く。掃除をしていた女性の家の前に恵 比須の石像が竿を持っている。「ここに嫁いできた時からあります」という。「階段を上ると観音寺がありますよ」と教えてくれた。 中程の階段で、家の庭でしゃがんで作業をしている男性が見えた。相方が「訊い てみたら」と合図する。50歳代の男性は「カニ漁は旧暦の6月15日から2週間は 禁漁になる。後は年中、80歳の親父と二人で船に乗る」という。 「定置網を置いて、回収しカニや魚をとる」坂道の家の屋根から網が干されている。 「今何をされているのですか」と訊くと「網の周りのロープを外している。網が古くなり補修ができなくなった」と前の木箱の蓋を開け、新しい黄色の網を見せてくれた。 上下左右に家々があるが、高台の為、庭から海が見える。毎日、海の状況を調 べる良い場所である。「どこから来ましたか」と問うので「中間市からです」と答える。「そこへもぐりで行った」と喋る。もぐりって、例えば受験の替え玉でもぐりで入学したとか。「遠賀川の川底の調査で、もぐりに行ったとですよ」。成程。 ここは潜水業の発祥の地といわれている。今は酸素ボンベを担いで、海に潜るが、 親父さんの頃は空気を手押しで送って潜水したという。宇宙服のようなものを着て、 空気を手漕ぎポンプで送る。別世界の話を聴くようだった。
2021.04.26
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カニも茹でると赤くなり美味しそう。多良宿を出て国道207号を有明海岸沿いに走ると「休石」と書き”いけし”というバス停がある。 これから先に竹崎カニの飲食店と牡蠣小屋が並んでいることになる。ちょうど昼時、 最初の和風レストラン「川した」に入った。小さな湾があり、大きな窓から海を眺め、 カニどんぶりに牡蠣フライ定食を食べることにした。間仕切り席に大勢お客がいた。 干満差のある有明海の干潟に住むプランクトンや小動物を食べ竹崎カニは「ワタリ ガニ」で、最高の美味だという。多良町でもらったパンフレットを見ながら食べた。 片付けに来た店員さんは愛想がいい。「どちらに行かれるのですか」「竹崎宿に行 きたいのですが」と言うと地図を確認し「ここですよ。私の住んでる所でホテルが2軒もあります」と話す。「竹崎城址はどのあたりですか」と続けて聞く。 マスクをして顔半分美人の店員さんは「毎日、竹崎城跡付近で犬と散歩します」と 目で笑い答える。相方が犬好きで「なに犬ですか」と訊くと「チワワのミックスです。 写真見せましょうか」と奥の方へ行った。スマホの抱いた愛犬を愛おしそうに見せる。 「まー。おちんちんが丸見え」と相方がいう。「少しでべそも出ているのですよ」可愛くてしょうがないように、犬談議が女性同士で始まった。「うちもミルクというのを飼っていたけど、5年前に亡くなったの。見せましょう」と未だに忘れられない白く可愛い犬の写真をスマホで見せる。15年間、随分我が家でも彼女に癒された。 多良海道の人びとは明るく人懐っこい、感じのいい地域である。湾の突端に長崎本線の特急列車が走っている。右に急カーブするようで、車体が山側に低く傾いている。鳥栖駅から長崎駅までの利用者は多く、5両編成の列車である。 海と山と列車を眺め、カニも牡蠣も美味しい。店員さんの親切な応対も心温まる出会 い。またしても赤い糸のお出ましであった。
2021.04.22
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大魚神社の裏の通りが多良海道のようだ。斜向かいに円教寺というお寺がある。 傍にソテツの樹がある所が上使屋だったらしいが見つからなかった。 事前にネットの情報から簡単な写真や説明文をコピーし持ってきた。断片的でど こにあるのか見つけるのには、一苦労だが楽しくもある。 人は居ないがこの道は間違いなく宿場である。細い道の両側に古そうな民家が 並ぶ。玄関から出てきて、別棟に行こうとした男性に「この前の道が海道ですか」と声をかけた。 「多良海道の冊子を持ってないですか」と問われた。「見たことありますが持ってません」と言うと「ちょっと待って下さい」と家の中へ戻り、奥さんに話かけた。 A4版のパンフレット5枚持ってきて「これを上げます」という。「多良海道を往く」という写真の綺麗なパンフレットで地図と説明文と写真で纏められている。 先ほど見た海中鳥居に大魚神社に幸せの鐘までが載せてある。 これから行く竹崎と湯江もそれぞれ見開きの紙に細かく印刷されている。このパンフレットトに見覚えがあった。浜宿の案内所で諫早から多良の案内が詳しく書いてあり貰って居た。自宅に保管している。 男性は説明を始めた。「私は太良役場勤めで、郷土の歴史を冊子に作る仕事に 携わっていた。諫早市と太良町で郷土の宣伝になるような資料を国から補助金を もらって作る仕事です」。64歳の多良町役場の課長をしていた男性だった。 この冊子の製作に係わった本人の家の前で偶然お会いするとは、人生何が赤い糸で繋がっているか分らない。 現在のネット社会では、繋がっている赤い糸や黒い糸が滅茶苦茶多いのかも知れない。赤い良い糸が多いほうが嬉しい。
2021.04.21
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多良駅近くで、タクシー運転手を発見。「多良宿はどこですか」と訊くと「大魚神社は知っているけど、よく分からない」という。またも消えゆく宿場かなと寂しくなった。 取り合えず海中の鳥居がありそうなので、車を走らせた。川を渡ると鳥居と観光客が見えた。潮の引いた干潟の上に赤鳥居が3本立っている。石垣から干潟に降り、人々が写真を撮っている。 地元の人らしい日に焼けた頑丈そうな親父さんがベンチに座り海を眺めていた。話を聞くと「今から1キロ先まで干潟になる。あの黒い米粒のようなのが沖ノ島の灯台、満潮で島は海に沈む」と言う。後を振り向くと、連山が見える。沖ノ島と鳥居と多良山が 一直線で結ばれているらしい「どれが多良山ですか」と尋ねた。 木の看板の前で「左の高く見えるのが前山で、その右が太良岳で1m高い」親父さんの説明で山々が認識できた。 「陸にあるこの鳥居は今年の2月に建てられた。昔は30年ごとに建て替えられたが、 今は10年しか持たない。下の柱が腐ってしまう」昔の木は長持ちするとよく話を聞く。 伝説の鳥居と書いてある看板前で「300年前、悪代官に手を焼いた住民が示し合わせて沖ノ島に誘い出し、酔った代官を島に置き去りにした。満ちてくる潮で、驚いた代官は竜神様に助けを求めた。代官は大きな魚の背中に乗り帰還した。感謝した代官は魚 の名前を取って大魚神社を造営し、海中に200に渡り鳥居をたてた」と語った。 1年前の大雨で太良岳から大水が出て、倒木が海に流れ込んだ。昨日ここでイベントがあり、流木やゴミを片付けたという。魚も諫早湾のせき止めで、潮の流れが変わり、魚が来なくなた。昔は、たいらぎ貝という高価な物がよく取れた、今は取れなくなり漁師も いなくなった。特急も駅に止まり40分で諫早へ行ける。みんな会社勤めしているようだ。 「あの銀杏の木がある大魚神社の前が、多良海道」と教えてくれた。街道に詳しい人に会えて嬉しい。70歳の男性はここで生まれ、他所に住まない、生粋の多良宿民だった。
2021.04.20
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多良駅のホームの「幸せの鐘」を突いた後、向かい側のホームに行こうと階段を昇った。 橋から眺めると2本の線路があり「カーン・カーン」と警告音が鳴り、黒い列車が近付いて来る。手前の二股の線路が先で1本になる単線である。列車は直線を進む かと思ったが、方向を変え斜めの複線に進入してきた。 橋上から後ろを振り返ると、白い新型特急車両が上り方向に突入してくる。下りの 黒い列車も突進してくる。「わー!正面衝突となる」と想像した。鉄橋から現場中継 のように観察することができる。 ところが、主体が単線の鉄道で、複線になった駅で上下の列車が待ち合わせ、 それぞれが別方向へ運行するシステムだった。地元の人には当たり前のシーンだろうが、橋の上から初めて見ると迫力満点であった。無人駅で寒村の駅舎なのだが、特急列車も停車するし車両が5両も連結しているのに驚いた。私の地元の筑豊電鉄は1両列車が普通に可愛く走っている。 多良駅は長崎本線上の駅であった。私は長崎街道の宿場の武雄駅や嬉野駅で九州新幹線が開通する話しを聞いていた。そちらがJR長崎本線かと勘違いしていた。 海側のあまり開けてない多良宿はJR諫早線かと思っていた。現地へ行ってみない と分らない事が多いですね。反省。 さっきホームに居た、黄色のヘルメットに作業服の人が居なくなった。乗ったのかもしれない。
2021.04.19
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行ったことのない多良宿の近辺を写真で見る。実際はどんなところだろうか、想像は 限られ、静寂な瞬間の景色を思い浮かべる。 ナビを多良駅に設定し出発した。高速道路の武雄インターを降り、一般道を走り3時間の場所である。途中、長崎街道沿いの宿場を通り過ぎる 六角川の橋から、「鳴瀬宿」の鳴瀬味噌工場の看板が見える。元気な跡取り娘さんがリフトを運転しているだろう。「塩田宿」の傍も走る。川に突き出した、明治時代の鉄のクレーンの遺物が見える。下村家住宅もある。一度来ただけだが「懐かしい」。 「多良岳オレンジ海道」の看板があった。本来有明海沿いの国道を「浜宿」の傍を走るのだが、初めての近道を走ってみた。 火山であった多良岳は放射線状に幾重も谷が発達した。険しい山間を何カ所もの長大橋で直線的に結ばれ、長崎県側の多良岳レインボーロードに接続されている。尾根の斜面にミカン畑が続く。「スーパーで太良みかんを見かけるわ」と相方は言う。「ここから出荷しているのか」目に焼き付けた。時折、広大な有明海の眺めが見え隠れする。絶好のドライブコースである。信号や車も少なく、ナビの最初の予定時刻より20分早く多良駅に着いた。 無人の駅舎のホームに入ると、初めて見る「幸せの鐘」があった。板に黒ペンキで書いてある。この鐘は皆さんに幸せを提供します。「一回鳴らす 幸せを呼ぶ」「二回 〃 二人が幸せになる」連れ合いと一緒に鳴らした。「三回 〃 皆が幸せになる」 太良町長・多良駅長。 今は無人駅だからだいぶ前に設置されたのだろう。客を呼び寄せるためのいいアイデアだと思う。タッキーこと滝沢秀明さんもロケで来たらしい。 恋人と来ると、二人で和田アキ子の「あの鐘を鳴らすのはあなた」と歌いたくなるかもしれない。
2021.04.16
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最初の発想は、近所の町中散歩をした時だった。北九州市折尾の丘の細道を、 偶然見付け「長崎街道」の石標があった。こんな所に昔の儘の道があると気づき 感動した。好奇心に火が付いた。長崎街道の27宿場を小倉から順番に尋ねて行 ってみようと思った。 小倉・黒崎・木屋瀬は地元で再三行った所である。目新しくもない場所である。 内野宿からは全くの初体験の宿場であった。 初めての所は、どこも印象深い。まさに旅である。ふだんの生活を離れて別の場 所に出かける。新鮮な感じを受け、頭の中に光景が刻まれていく。 宿場で生活をしている人々と出会い、話を聞けばさらに想像が膨らむ。「自分の 住む地域に興味を持つ人が来れば、知っていることを、熱心に教えてくれる」。 福岡・佐賀・長崎の地図を九州道路マップからコピーし貼り付け俯瞰図を作った。 紙は細長くなり部屋の広さでは足りなく、巻物のようになった。訪ねた宿場に赤印 を点けていく。進行する様子が手に取るようにわかり、思いが広がる。 「旅は道連れ、世は情け」という。旅をするには同行者がいて互いに助け合う方 が心強く、世の中は互いに思いやりの心を持つのがよいと国語辞書に書いてある。 街道の旅には妻と同行している。宿場で合う人々も怪しまず、親切で、話してくれる。 長崎街道も小倉から20宿場の嬉野宿までたどり着いた。佐賀の外れに来ると、 まずは佐賀県の宿場を制覇したいと思った。佐賀の小田宿から有明海沿いに分岐 するのが多良海道である。 六角から湯江の7宿を通り、長崎街道の永昌宿に合流する。有明海沿岸に 点在する宿場であり、光景や生活が海に関わって来る。 次は多良宿であり有明海の世界に侵入していく感じであり、わくわくする。
2021.04.15
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内野宿は黒田藩主の命により、母里太兵衛が造成建築したものだという。前回はコロナの為、脇本陣が休業していたが再度寄ってみた。 脇本陣の長崎屋がひな人形を展示している。元美人だったろう女将さんがお茶を出し、 黒田節の母里太兵衛友信を敬愛する男がいると言う。障子の向こうの部屋から法被姿の 男性が、こちらを誰何するようにやってきた。 「お雛様ではなく、この建物や宿場の歴史に興味があるのですが」と私が言うと、男 の眼がキラリと光った。「小奴何者?敵の回し者では?」「それほどの者でなく、ただのオツサンです」と言いたかった。 この家の歴史を語り出した。「1階のひな飾り壇の部屋は天井が高い。2階が倉庫で道中備品を専用に置く部屋である」。荷物を納める箱は長さ1間・幅半間高さも半間の木箱だ。担ぎ棒で何人かで運んだらしい。重労働だったろう。 次の間は「家来が待機しており天井が低い。敵が侵入しても刀を振り回せないためだ」という。建築は戦国時代の様式で、廊下を歩く途中、ぎしッと音がする。敵が忍び込んだ際、気付くように細工してある。 奥が殿の部屋である。床の間には刀置きがあり、隅に茶の湯の為、小さく畳敷が切ってある。床の間の前に長い槍が鎮座する。母里太兵衛が主君の使者として年賀の挨拶に行ったところ、豪快な福島正則は酒の飲み比べを挑んだ。「お前が勝てば、好きなものを持っていけ」と宣った。 母里は巨漢であった。190cmで体重100kgはあったらしい。福島はべろべろ になるが、母里は三尺の盃の酒を何杯も空け、長い槍を頂戴した。それは天皇が足利義昭に下され、信長・秀吉・福島に渡った由緒ある槍「日本号」だった。 博多人形の母里太兵衛が棚にある。人形師を訪ね熱く母里のことを語る男の情熱に「この人形、持っていけ」とタダでくれたらしい。 箱階段を使い2階へ上がると、廊下の最初の部屋は家老が泊まる。窓からは宿場の様子が眺められ、敵をいち早く監視できる。次の間が女性の召使の部屋となる。 説明は専門的で詳しく、納得させられた。「国の補助金で今年補修が予定されておりR3年11月には完成する。その時はどうぞお越しを」と言う。 歴史に忠実に再現したくて文化庁の学芸員が調査を終え復元工事を行うという。「これは手帳に書かないで」と秘密めいた事を言う。「うーむ!あなたこそ何者?」
2021.04.14
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行橋は中津街道の大橋宿を含み北九州市小倉南区に近く、人口7万人である。 ナビで出てくる赤レンガ館を訪ねると、優しそうな中年女性が応対し旧銀行 の金庫の中まで案内してくれた。「他に観光する場所はありますか」と尋ねる 笑顔で「特にはないのですが、土日は守田蓑洲旧家を公開していますよ」と云う。 海にそそぐ祓川は干潮で地面が剥き出し、イカ釣り漁船が居心地悪そうに鎮 座している。 江戸末期に建てられた守田旧家に着くと、作業服の熟年の男性が笑顔で近づ いて来た。後ろで女性が「部長さん、案内してくれるんですか」と声を掛けた。 役所の人なのかなと推測した。 「大庄屋の守田家の裏山にある石の博物館へ、ご案内しましよう」と言う。 石段を昇る途中、巨石があり花崗岩に黒く固い石が抱き込まれ、大阪城の石垣 にも組まれたらしい。次の大石は「山縣有朋の揮毫”江山轄如”(こうざんか つじょ)小高い場所からの眺めが最高と刻んであります」と指さす。木々の間 から新緑の広がる田園に祓川が横たわり、河口から干潟と周防灘の海、まさに 絶景かなである。 頂上神社の石垣も「福岡出身の広田弘毅首相の父が石工で築垣し、遊び心で 扇型の石も混ぜてありますよ」ニコリと笑う。下りには高さ8mの巨石に三条 実美の達筆な文が刻まれている。男性は目を輝かせ説明し、石の傍に立ち5倍 の石の高さの確認を促した。 大庄屋だった守田家の子孫が10年前、旧宅を市に寄付し、東京へ転居した。 旧居だけでは迫力に欠けると、町おこしに燃えた区長が2年前、藪に埋もれて いた裏山を切り開き明治の遺産に光をあてた。案内してくれた人は部長ではな く区長だった。地域の為に、ボランティアで説明をしてくれる。沓尾の人々の 善意の行動を見聞きし、その優しさに心打たれた。いい体験に幸せを感じた。 「お知り合いの方にも見学にいらっしゃるように、機会があったら話して下 さい。」と区長は笑顔一杯見せながら語った。
2021.04.12
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町中に住んでいると、たまには広い海を眺め、息抜きをしたくなる。 芦屋のマリンテラスに行きコーヒーを飲んだ。窓越しに、防波堤で囲った芦屋港に係留した船が見える。ケンサキイカの釣りを業にしている柏原漁港もある。船首から船尾まで、丈夫そうな電球が何個もぶら下がっている。昼間の港は閑散として人影もない。多分、昼寝て夜に出港するのだ。夜間ライトを明々と点けイカをおびき寄せ、擬似バリで釣り上げているいるようだ。 この辺りは、山鹿(やまが)という地名である。昔、この岬に海賊がいて、沿岸を 航行する船から通行銭を取ったと聞いたことがある。詳しいことを知らず、気になっていた。此処は唐津街道の芦屋宿だったところである。 コーヒーを飲み終え、高台から車で下った所に、歴史資料館があり「山鹿素行展」の看板が目に付いた。疑問に思っていたことの手がかりが得られるかも知れないと思い入館した。 山鹿流の陣太鼓は、大石内蔵助が吉良邸討ち入りで鳴らした事を時代劇で見ていた。 それが芦屋町と関係があるのだろうか? 山鹿素行は江戸時代の著名な軍学者である。 播磨国赤穂の浅野家にお世話になっていたこともあり、内蔵之助も感化されたのだ。 同士討ちを避けるため「山」と「川」の合い言葉を使うなど、山鹿流兵法を実践したらしい。 また幕末の吉田松陰も山鹿流師範の家に生まれ、毛利藩主の前で山鹿流「武教全書」 を講じ、天才ぶりを発揮したという。 芦屋の安楽寺所蔵の「老騎歴に伏すとも千里にあり 鎮西将軍 山鹿秀遠(ひでとう) 裔(スエ)山鹿素行」という掛け軸が展示してあった。秀遠は芦屋の他、近隣を治める 平家方の地頭であり、九州一の水軍と称されていた。 下向してきた安徳帝を温かく迎え入れた。壇ノ浦の戦いで、秀遠は船を500隻率いて第一陣を任された。源氏に打ち負かされ平家一党は海に身を投げ滅亡した。 芦屋港の山鹿という気になる地名、そこに歴史があり、詳細をしり納得がいった。
2021.04.09
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中年男性が1.8Ⅼのボトル10本分を給水していた。「この水は効用があるのですか?」と尋ねると「アルカリ性の地下水で病人に効くのです」と男性は言う。「友達で乳がんの人がいて、水を飲んでいました」と妻が独り言ちた。「ガンには二日市温泉が効用がありますよ。体も温まるし治療にはいい」と薦める。二日市温泉は天拝山の東ろく、二日市に湧く温泉で、発見は約1300年前、薬師如来のお告げによるものと伝えられる。 「玄米もガンには良いですよ」と男性は詳しそうに話す。 「あまりおいしくないと言ってましたよ」と反論すると「玄米だけだと冷えてからは不味い。玄米に白米をまぜ土鍋で炊くといい」更に続く「美味しいご飯の炊き方を知っている。私は医者でありガンの治療など対応している」宰府で天拝坂クリニックをやっているらしい。天拝山は筑紫野市にある257mの山で、菅原 道真が大宰府に左遷され無実を訴えるため何度も登頂し、天を拝した所と伝えられる。 「ここで会ったのも何かの縁ですから、玄米の美味しい炊き方を伝授します。医院へ電話して院長の知り合いなので繋いでと話してください。」ファックスで作り方を教えると言う。人の出会いは偶然で、面白いこともある。数日後、電話すると院長が玄米の炊き方の自筆文を送ってくれた。 出会いの場所は大隈宿の「乳房の森のお水」という給水所だった。仲哀天皇(ちゅうあい) と神功皇后(じんぐう)がこの水を飲んだらお乳がでたという伝説があり、祭られている。石があり皇后がお座りなったと言い伝えられている。 山からの湧き水も狭い側溝を勢いよく流れ、傍を半間ほどの道が続きその両側に家々が並ぶ、 昔の地形である。大隈宿が江戸期に繫栄した証である 天拝坂クリニック
2021.04.08
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猪膝の街道を戻っていると、屋号の話しをしてくれた人の、散歩中だったワンちゃんが庭で餌を食べていた。古川さんの表札があり、ここで昔商売をしていたのだ。幼稚園の前は公民館で広場に看板があり、宿場の絵を描いてある。道筋の商店の職柄が詳しく書いてある。多くの店は潰れているが麹味噌屋は最近まで営業していたという。それだけ需要が今でもあったということだ。 もう中村邸のご主人は帰還されているかと思い呼び鈴を押した。立派なお庭の向こうに上品な奥様が「何かご用ですか」と尋ねる。「突然で済みません。猪膝宿のことを教えて貰いたいのですが」と訊ねると。「私はそれ程くわしくはないのです、堀江先生が詳しいのでそちらで」と言う。「いやこちらの当主の方のお話を伺えたらと中間市のほうから来ました」といった。奥様は「8人兄弟の5女ですが、この家を継ぎ酒醸造を行っていました」今は廃業したらしい。「主人は嘉麻市の黒田武士の酒屋さんに勤めていました。今は病気で、療養中です」と語る。 「あの中村一族の掲示板や石碑はどうなのですか。古川さんは反対したとか言われてましたが」と先ほど聴いた話をした。「あれは5年位前に、中村産業という会社から話しがあり、家紋が同じでしたので、一緒にやってもらえないかと話しがありました」「建てることは、文句は言いませんが、賛同者になることはお断りしました」。あの中村産業は町外の人で中村家とは関係がないようだった。 宿場の図面も幼稚園の掲示は本物で町の古文書を掲示しあるが、中村一族のものと元庄屋の中村家の物とは全然ちがうものだった。 「夕方近くに突然たずねて申し訳ありません」というと、奥様は「また温かくなった時期に御出下さい」と言ってくれた。「家の電話番号を教えますので、事前に電話頂けば、古文書も用意し見ていただけます」ジーンと胸に来るお言葉。「誠に嬉しく有難く存じます」と何度も礼を述べ「いずれまた、1時間位の所に住んでますのでお邪魔させて下さい」と言い庭から出ていった。 こんなに親切にしてもらうなど、思いもしなかった。何の補助金も受けずに、現状の屋敷を維持するのは大変な事だろう。また猪野膝の地名もなくなり今は猪国に変わった。 昔の宿場の有り様を彷彿とさせるこんな場所が残っていることに感動した
2021.04.06
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秋月街道の猪膝宿場は人の記憶から無くなってしまうかもしれない。宿場らしきもの をナビで探し、国道322号線上にある現地近くに着いた。何もない山際の道路だった。 農家のおばさんに尋ねると「右鋭角にそれらしき細道があるよ」と言う。歩くうちに潰れそうな猪膝建設の看板が見える。新しく作られた広場があり、事前に調べた中村一族の会の宿場絵図の立て札があった。6年前に土地を整備し宿場の説明板や石碑を建てたようだ。大庄屋の猪膝から中村へ代替わりしたと由緒に書いてあった。傍に「南構口」と湧き水の井戸もある。ここに幻の商いが賑やかに850mが並んでいたのだ。 歩くほど街道の家並みが出現する。これは間違いなく栄えた宿場の遺構である。人々 は住んでいるが閑散としている。寺の近くにいた中年女性に尋ねると「あそこの家が昔の大庄屋だった中村さんです」という。「訪ねたらどうですか」と肩を押してくれた。 呼び鈴を押すが留守だった。通りに1軒ある同じ苗字の中村商店が日曜で休みだ。家も土蔵造りで庭も昔の金持ちの風格がある、が手入れはあまりいき届いてない。 犬を散歩中の老年男性に会った。宿場の昔話を尋ねると詳しく幼少時を回顧してくれた。 「家は屋号が黒田屋といい両替業をしていた。ほとんど屋号で呼び合っていた」。「猪膝の地名が猪国に変わった。地元有力者がいないため行政で歴史的宿場地名を捨てさられた。 残念で仕方がない」と嘆く。「大庄屋は中村さんと言い、今でも立派な門構えの家がある。 藩主とか泊まった家柄です」と誉める。「最近、土地者でない中村産業という会社が、家紋が同じで中村一族とか言って、土地の宣伝を勝手にしている。縁もゆかりもない新参の人と混同されそうで地元民は困惑している」と胸の内を語る。 猪膝宿場は、歴史の匂いが残っている町並である。もっと田川市がこの歴史的遺跡を保 存する気持ちが必要だ。補助がなければ、人々は離散し、村が消えてしまうかもしれない。
2021.04.05
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行橋市観光に行くとき通った道に、鉱山らしく砕石運搬の機械が山中にあった。興味が湧き立ち寄りそぞろ歩いた。神社に老齢の男性がおり、祭りの旗竿の長い柱を眺めていた。「この柱を10年に一度山から切り出してくる。来年には新しい木を探し、ここに立てるつもりだ。長年、この仕事に携わっている」と話していた。もう3年前のことだった。 今回、香春宿を歩き、最後に辿り着いた場所に見覚えがあった。この神社との奇遇の出会いだった。香春町役場に車を止め、金辺川の高架歩道橋を渡ると街道らしき道に出くわした。まっすぐ行っても家並みがあるが右の方にも道があり、迷ったが右を選んだ。両側の家並は、宿場の雰囲気を感じた。 白壁土蔵もある中、男性2人がお宅を訪問していた。近づく選挙のあいさつ回りだろう。尋ねると「この先に藩庁跡があり、宿場通りの史跡案内図があります。向かいに一の岳、廃城となった鬼ケ城もあった」と説明した。よくご存じですねというと「地元に住んでいますから」というが、状況を詳しくすらすらと語るのは仕事柄なのか説得力があった。 道は鍵の手のようにぶつかっては左右に分かれている。戦闘時に、迷わせる道づくりである。香春陣屋は、慶応2年に小笠原忠忱によって築かれた。 小倉藩は、慶応2年の第二次長州征伐で将軍徳川家茂の死去により小倉城に集結していた幕府軍は解散したため、小倉城を自焼して香春御茶屋へと藩庁を移し、翌年には企救郡を長州藩に譲り和議を結んだという。 小倉藩の田川郡支配の拠点で、藩主の領内巡視の宿泊地となっていた。町役場も残っており、宿場の掲示板などは整備されていた。近くに採銅所という地名があり、鉱山で獲れた銅は東大寺の大仏や宇佐八幡宮の神鏡にも使われたという由緒のある場所であった。
2021.04.03
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岡山赤磐市瀬戸に安禅寺という臨済宗妙心寺派のお寺がある。瀬戸駅から6キロ離れた 山際のくねくね道を行った所にある。元は岡山藩主池田候の禅寺であったが太平洋戦争の空襲で寺が焼けてしまった。昭和47年、瀬戸町に移転し、山際に本堂だけ建てられた。 現在の住職は当時、久留米梅林寺で雲水として修行していた。修業道場で3年半の厳しい道場での生活を過ごさなければ僧侶に成れない。現在梅林寺の師家である東海大玄老師と同期であった。師匠は京都の妙心寺管長にもなった東海大光前老師である。 雲水の睡眠時間は1日4時間位である。前老師が外で檀家との会食で大酒を飲み、安禅雲水はお供で帰ってきた。夜12時を過ぎ、退出しようとすると「まだ儂が新聞を読んでいる」と放 してくれない。前老師は一升酒を飲む程強い。「早く寝てくれよ」と安禅は思ったが「俺の根性を試す為にやっているのだ」と悟った。何故なら老師の持った新聞は逆さまになっているのだ。 或るときは老師の出した公案が解けず「こんな事が分からないのかバカ」と厳しく叱責する。「クソ爺い」と思い障子に石を投げてやろうと何度思ったことか。 雲水は修行の為、1日2食、飯に汁に野菜を煮たものだけだ。後は座禅にお経に内外の掃除に老師の世話に明け暮れる。12月は蝋八という1週間寝ないで軒先で座禅修行する厳しい修行がある。その艱難辛苦に耐えた安禅はなんでも耐えられる根性と体力を得た。 厳格な修行に耐え、お寺出身ではない為、住職の居ない赤磐市瀬戸の安禅寺に行くことになった。老師は心配し「あの寺は、田舎で檀家は少ないから、食えないかもしれないぞ」という。 修行で鍛えた心身を原動力に寺再建の決意をした。老師は「世の中は動くからな」と送り 教えてくれた。1年に一度、博多で前老師と酒を飲んだ事がどれほど励みになっただろうか。 瀬戸の安禅寺の檀家は30軒だった。生活の為「1ヵ月に一度、お経を上げさせてください」と頼みこみ、半分の家が了解してくれた。「それでもわずかなお金だった」「食べ物がないので、町中へ托鉢に出て、食いつないだ」厳しいどん底の生活だったという 山を切り開き、野菜を植え凌いだ。並大抵の苦労ではなかった。師匠の「世の中は動くからな」という言葉を信じ、行動した。地元の人々も徐々に新参者を受け入れてくれるようになった。今では、新しい住居もでき、僧堂も整備できた。息子も大学を出て、久留米梅林寺で3年半の修行をした。 「新たな縁を大事にしこの寺を盛り上げることが出来て嬉しい」と語る68歳の安禅寺住職は慈愛と自信にあふれていた。そんな住職と「縁」があるとは想像も出来なかった。
2021.04.02
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遠賀川の東にある山々は子供の頃から見慣れていたが、名前までは分らない。調べてみると皿倉山は九州自然歩道の起点であり福知山は英彦山までの中間地点だそうだ。付近の低山で福知山の北にある尺岳に登ってみたいと思った。 県道61号線の畑貯水池を通り過ぎると、千本櫻展望駐車場がある。その向かいの欅(けやき)谷登山口から登る。20mもの欅が群生した木漏れ陽の中を歩く。更に緩やかな坂道には低木であるアオキが実を付け、山道へ誘導してくれる。渓流は音をたて流れている。砂防ダムがあり、降雨時は激しい流れを想像させた。 積もった落ち葉をサクサクと踏み歩くのは心地よい。快調に登っていける手頃な山である。沢横に岩場的な箇所にロープが引いてあり、有り難くロープを利用し、安全に登ることが出来た。 尺岳平を越え1時間30分で山頂に着いた。北側の岩場は最高に見晴らしが良く、思わず「万歳」が口から出た。後ろで2人連れがお昼を食べ笑っていた。尺岳権現の小さなお社があり日本武尊が608mある山と背比べしたとの伝説で尺岳(はかりだけ)と呼ばれていたそうだ。 西には遠賀川や直方市役所も見え、金剛山を刳り抜いた九州自動車道のトンネル入口が見える。北には皿倉山に帆柱権現が見える。まさに生活圏が手に取るように見下ろせる。帰りは滑り落ちるかもしれないのでストックを使いながら1時間で下山した。 畑貯水池の傍に、尺岳神社というのがあり、気になり行ってみた。車1台がやっと通れる道幅でカーブも多い。バックも出来そうになく、この先通り抜けれるのか心配になる。恐る恐る進むと突然、黄金色の銀杏が木立の先に見えた。明治22年建立の尺岳神社の鳥居そびえ立つ。須賀神社の祠も並んでおり、畑祇園の祭礼には高さ5メートルの曳山が急勾配の参道を一気に駆け下りるらしい。 こんな山深い神社で祇園祭が昔から延々と続いているという。古人(いにしえびと)は信仰の対象として山を敬い愛していたのだろう。
2021.04.01
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学生帽を被り友人と岩に腰掛けている。高校時代の福智山登山の一コマや、卒業記念のアルバムもある。定年後、父母のいる故郷へ戻った。もう一度、あの山に昇りたいと思っていた。体調が悪く10年過ぎてしまった。 体調も戻った年、猛暑の中を標高900mの福智山登山に挑戦した。朝6時、白糸の滝コースを出発した。岩に打ち込んである鎖を摑み登る。急な坂道はつづき、足下を一歩ずつ確かめて前進する。 途中で出会った老人は、1週間に一度は犬と来ると言って、軽々と追い越して行った。こっちも必死の思いで既に、汗だくだくである。だが「福智山へ登るぞ」という気力は充分である。 樹木の日陰はあるが蒸し暑い。30分登っては息切れし、お茶を飲む。500mlの1本持参のぺットボトルが軽くなっていく。 次の標識は「八丁越え」とあり800mの坂道が続くようだ。新たな試練である。木と木の間にロープが渡されてある。幹には巻いたロープの食い込んだ跡が残っており、痛々しそうだった。 石ころだらけの不安定な坂道が延々と続く。30分過ぎた頃、心拍数も上がり、足も疲労困憊の状況となった。振り向くと転がり落ちそうな急傾斜。無理だったら引き返そうと決めていたが、もはや不可能である。アブが一匹うるさく飛び回る。追い払っても付いてくる。「どうして好んでつらい体験をするの?」とアブがからかっているのだ。 平穏な生活になれた老体には、坂道や汗まみれは辛い。時計を見ると8時半だった。「まだ早いじゃないか」ゆとりが心を落ち着かせてくれた。 八丁峠に着くと、下山中の男性が「もう直きですよ」と励まされ、この言葉に救われ前進した。目の前が開け、頂上が見えてきた。限界を感じていたのに「山よ岩よ我らが砦」と鼻歌も出てきた。 9時45分、夢に見た頂上に辿り着いた。あんなに苦しい上り坂だったのに、今は達成感で幸せいっぱいである。出来ないかも知れないと思っていたことが、実現できたのだ。 高校時代から50年以上が経った。福智山の険しい山道のように、私も生きてきたのかなと振り返り感慨に浸った。
2021.03.31
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一度は日本一の山へ登りたいという願望があった。この年になるまで夢は実現 せずじまい。もう後期高齢だし無理だと諦めている。 せめて、地元にある福智山には登りたいと5年前、上野の登山口から登った。 白糸の滝の響きに釣られ、近道の八丁越えから登った。岩がごろごろ、急な斜面 は鎖に掴まらなければ登れない所もある。とんでもない足場の悪い過激な登山で あった。頂上近くの笹の生い茂ったなだらかな坂のT字路に出て、ほっと安堵の 溜息をついた。帰り道、標識をみると遠回りだけれど緩やかな別のルートがある のだ。なんと、この道が初心者向きだったらしい。 「今年の夏、富士山に登ってみるぞ」と埼玉に住む息子から檄のメールがあっ た。昨年、帰省した折、我々夫婦の話を小耳にはさんでいたらしい。体力には自 信がないが、折角の息子のご厚情には報いたい。テストで福智山に登り、その状 況で決断することにした。6月下旬の土曜、足慣らしで近隣住宅から足を伸ばし てみた。様々な住宅があり生活が窺え、楽しい散策である。途中で見つけた食堂 で昼食をすませ、自宅に戻った。3時間、1万5千歩の強行軍となった。 翌日曜日、登山靴とリュックを引っ張り出し、福智山登山に挑戦した。高齢を 自覚し、無理せず足元を進める。「コンニチワ」と早くも下山する人が声をかけ てくる。連れと下山する人で「もう80歳になってしまった」と喋っている人を 見て、「自ら老け込んでどうするのだ」と猛反省をした。人々に追い越されなが ら登った900メートルの頂上は、風が強く気温は18度。岩のような石の陰で 風を避け、おにぎりを頬張る。遠くの山並み、眼下の眺め、天空の青い広がり、 地上では見られない眺望に心が満たされた。 「富士山登山、宜しくお願いします」と長男へメールを返した。8月が待ち遠 しい。
2021.03.30
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友人の男性の音楽教師にギターを教えて貰った。ギターのコードをひき、自分で歌うことに挑戦してみたい。「野に咲く花のように」という山下清の映画のテーマ曲で、ダカーポが歌っている。 テープに録音し、友人に楽譜に書き落として貰う。メロディーを五線譜に描いて貰い。次にコードをつけてもらう。ギターでポツンポツンと弾いてみた。なんとなく良い歌であり心に滲みるようだ。 1ヵ月が過ぎ、音符が完成した。もうじき4月1日。友人は「今度転勤になるんですよ」と言う。今までは中学校の音楽の先生として、各所に転勤し通勤していた。 課外授業の部活も音楽指導し、近隣の演奏会に出場させ、見事な演奏を聴かせてくれる。 「今までは市立の中学校でしたが、県立の養護学校へ行きます」という。小学校から高等学校まである生徒300人の学校のようだ。「どんなことをやるのか分らない。やってみると分りますと学校では説明する」 音楽の専門ではなく、色々な事を指導するらしい。「不安で胸がどきどきする」と言う。障害のある子も色々なケースがあるだろう。正常な子であれば、直ぐ理解できることも、困難な子もいる。耳の聞こえない子もいる。親も大変だろうが、辛い状況の子供はもっと厳しいだろう。「大変な仕事ですけど、頑張ってください」と言った。 「野に咲く花のように」の曲を練習し、音符をギターでぽつぽつと弾き、歌詞に合わせて歌った。ーーのにさく はなのように かぜにふかれてーーのにさく はなのように ひとをさわやかにしてーーそんなふうに ぼくたちもいきてゆけたらすばらしい歌詞とメロディが感情を高ぶらせたのか、何故が涙がでて止まらなくなった。ーーときには くらい じんせいもトンネルくぐれば なつのうみ悲しい人達の心はどんなにか辛いんだろうと思い、自然と涙が出てきた。 友人もこれから、色々な事を体験するだろう。彼のことだから、障害のある子どもさんに、優しく色々な事を、音楽の楽しさも教えてあげる事でしょう。
2021.03.28
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読むこと、書くこと、推敲することが文章作りには必要な三大要素であるという。外山慈比古さんの「思考の整理学」を初めて読み、まさに学ぶことが多かった。 例をあげ、分かりやすく書き進める。そして抽出した考えを披露する。エッセーを書こうと心がけた私にとり、素晴らしい導きの本となった。 兼好法師の「徒然草」も、物事を少し斜に構えて観察するという方法も、こんなものかと教えられた。表から見るのが人生の大半であったが「物事を裏からも見てみろ」といわれた。真面目な私にはどうも意味が分からなかった。何十年も表から物事を見て、考え行動してきたのに、裏から観察することにより、独創的な作文も書けるのだということに漸くにして気づいた。 何事も遅いからダメだということはない。気づいてから行えば新しい世界を経験することができる。 土曜日に医院の駐車場で親類が心筋梗塞で、倒れ亡くなっていた。葬儀が行われ火葬で白い遺骨を箸で拾った。心からご冥福をお祈りいたします。 考えが浮ばなくて1週間文章が書けなかった。人の命には終わりがある。晩年の父は「死んだら何も無くなってしまう」とよく嘆いていた。「お父さんのDNAが僕たちの中に残っているよ」と慰めた。今は天国で安らかに過ごしているだろうか。 残された人生、1日1日を自分の思うように、楽しく過ごして生きたいと思う。
2021.03.26
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家の窓から、わずかに見える神社の桜は見事である。偶には花見客がコンビニ弁当を持参しピンクの風景を見上げる。一度、愛犬メジロを連れて行ったことがある。 ゴザを持参し、弁当を広げた。「メジロは人間不信」で落ち着かなく周りをきょろきょろし、「早くお家へ帰りたい」と吠え出す。「よしよし」と宥めるが、わがまま娘は盛んに「桜興味ないし、飯は内で食おうワン」と鳴く。それ以来、花見に誘っても「絶対行かない」と、首輪を引っ張っても、足を踏ん張って抵抗する。その姿も可愛い思い出だ。 かみさんが花粉症でもあり「この時期に外で弁当などとんでもない」と、メジロと共同作戦を張る。一人で竹ぼうきを持ち、神域も心も清め、桜を堪能するのも気楽でいい。 自営の商売が少し忙しくなり、土日の掃除をさぼっていた。草が随分生えてきただろうなと思った。神社に行ってみると、私が掃除している頃より、更にきれいになっている。 私の場合、掃いた落ち葉を両端のフェンス側に掻きよせ積み上げていく方式である。1年に一度、この落葉をトラックで運んでくれる人がいる。 フェンスの外の斜面に草やツタが這いつくばっている。このツタもボランティアらしき人がコツコツと撤去されてる姿を見かける。善意の人達が、ばらばらにこの神社を小ぎれいにしてやろうとしているのだと勝手に思っている。 最近、毎日のように庭の草を抜いているのは、神社の3軒先に住む75歳位のご婦人だった。「この地に住み40年、私が平穏に過ごせるのは神様のお陰もある。お世話になっているので、お礼に毎日掃除を最近、始めました」と話した。 奇特な人がいるものだ。「箒がよくちびるんですよ」と言う。箒だけは、古くなったら私が寄進しようと心がけるようにした。 それ以来、いつ行っても神域は見事に掃き清められている。狛犬は「時の流れに身を任せ」と歌いながら、端然と世の中の流れを眺めている。
2021.03.19
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初老の親父さんが店の奥に立っている女性に「チヨ子ちゃーん」と呼びかけた。先ほど会って話をした元気な高齢女性だ。この通りの人気者なのだろう。 「先っきはどうも、お話ありがとう」と挨拶した。「チヨコさんもお元気で」と言うと「まー!チヨコさんなんて言われたことが無いわ。今晩、嬉しくて眠れないかも」とさらりと言う。気さくな88歳の人である。 秋月城参道の脇道を歩いた。瓦を載せた塀の向こうにピンクの桜が咲き、心を和ませる。冠木門の向こうに高齢の女性を見かけた。頭を下げると向こうも下げた。妻が「庭に入っても良いですか」と訊くと「どうぞ」と気さくに言う。 和風の庭は手入れされ建物も和建築の立派なものである。「桜の花がきれいですね。庭の手入れも大変でしょう」と話すと「もう88歳にもなり、年だから大変」と木幡さんは言う。洒落た船員帽風なものを被り、赤地に白の水玉を散りばめたエプロンを羽織っている。 「自宅の前の秋月城参道で食堂を開き、自宅の広間では宴会をしてもらっていた。70歳を過ぎ体がもたなくて辞めた」。 今では通りの店を他の人にやってもらってのんびり暮らしている。玄関わきに菜の花が花瓶にさしてあり、椿も別の瓶に、客を招く心意気を今でも忘れない。 平屋のL字型の建物は廊下もあり、150年前に建てられたものだという。「古いので、4枚の玄関扉は固くて、開けるのに苦労する」と言いながら、力を入れ開けた。正面には立派な飾りや鮮やかな花が迎えてくれた。 「良いお宅ですね」と言うと「隙間風が入り寒い。寒い」と返す。「お話して頂いてありがとう」と言うと「こちらこそ」と優しく応えてくれた。
2021.03.18
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大隈宿の場所が確認できなかったので、次週の日曜日に行ってみた。嘉麻警察署か ら玉の井酒造までの通りが宿場だったらしい。車が頻繁に通り歩道もないが、改めて 道沿いの建物を眺めると、昔の白壁二階建ての家々が宿場の面影を残している。 新しい看板が久賀屋・創業安政元年が目に入った。先週見た北斗宮の秀吉と勝家 を描いた絵馬は、安政6年で同じ時期、ご先祖は其の絵を見られたことだろう。 店に入り若夫婦に尋ねると「安政元年はペルー来航の年で和服商を創業しました。 現在は妻が8代目として店を継いでいる」と40歳前の主人が語る。「博多で働いていた が、コロナ影響もあり、大隈に戻り父のあと継ぐことにした」。大正2年に建てた住宅 は道路まであったが嘉麻市の舗道拡張のため家の前部を削り、補助金で入り口を新 しくした。 建物は間口12mで奥行き50mある。京都と同じ間口の広さで税金がかかるので奥 行きが長い。居間から奥のにつながるガラス戸を開けると廊下があり内庭がありトイレ がある。梁は太い30cmはありそうな太いもの二階への階段の下には箪笥のようにな っている。奥は土蔵だったが隠居した父の為、居心地よく改造した。 雑貨類と和服と小物類、それにカフェとランチもできる女性の好みそうな店作りである。 我々はサンドイッチとコーヒーを頼んだ。カウンターの奥で夫婦が調理しコーヒーをいれ てくれた。味はとても良かった。雰囲気の良い店である。 この通りはほとんど高齢化し店仕舞いの家並みが続く。ご主人が着物を着て、この宿 場を案内する企画をやった。地域おこしのため、店の横の空き地にテントを張、多くの 仲間と「くがやマルシェ」を3月27日にも実施する予定。なんとか若い人が根付く街を 作ってもらいたい。
2021.03.17
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大隈宿に一宮神社があったが、黒崎宿近くにもある。筑豊電鉄の萩原電停 を下車、黒崎まで街中散歩をした。遠くの方に鳥居が見えた。最近は神主不 在の所も多く、期待せずに行ってみた。 鳥居の額束には一宮神社と書いてある。石段を登ると凜然とした境内があ り、社の後ろに小山がある。由緒書きを見て驚いた。古事記に出てくる紀元 前600年頃の初代神武天皇が1年間滞在されていたと示してある。 数年前、ユネスコ遺産登録の宗像神社に興味をもち行ってみた。神代の時 代の天照大神の三女が沖ノ島、大島、宗像の辺津宮に降臨された。今に伝わ る「天孫降神」の額を見たことがあった。 私は紀元前の弥生時代へタイムスリップしてみたくなった。当時は吉野ヶ 里遺跡のような状態で人々は麻袋から頭を出し、腰に麻縄を巻いていた。土 器を素焼きし、稲を作り、貝や魚も食べ集団生活を営んでいた。 古事記によれば勇猛果敢な神武天皇は「天下を平定するには大和の国が適 地である」との天のお告げを実行した。日向の高千穂宮殿から木造の船団を 率い進攻した。宇佐八幡宮に寄った後、筑紫の国へ向かう。当時の洞海湾は 海水が2m上昇しており黒崎付近は海だった。后御崎公園の麓に上陸した。 軍政を整えるため造船し、瀬戸内海航路の安定確保の交渉の必要から一宮 神社を1年間の宮居とした。 大集団の移動は苦難の連続であった。神武天皇は木立の中、円形に小石 を積み、後方を方形に丸い小石を重ねた。小石の中に榊を立て紙垂(しで) を下げ、磐境(いわさか)を作った。。この神の御座所である神籬(ひもろ ぎ)で祈りを捧げた。 移動中、瀬戸内海で遭難しそうな時、豊玉姫のいた祖母山に向かい安全を 祈願し難を逃れた経由もあった。 2600年もの昔、天皇が1年も住まわれた神宮が、地元黒崎にあったことに感激した。古代歴史に触れ、古人の行跡を忍ぶことは楽しく、果てしない歴史の不思議を感じさせられた。
2021.03.17
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秋月街道の大隈宿があったということなので探しに出かけた。通りがかりの老婦人に 訊くと「一宮神社また北斗宮というのが古くからあるので、聞いてみたら」と教えてくれた。 石の由緒書きがあり、歴史が古い。急な石段50段ぐらい上がると、社があった。拝殿 には武者絵らしきものが四方の壁のに架かっている。筋骨隆々のが侍が二の腕を出し て横たわる侍に何かをしている。安政6年という年号も見える。 ネットの説明だと「柴田勝家が羽柴秀吉の足を揉んでいる絵だ」という。 歴史では、柴田と羽柴は織田信長に仕え、柴田は筆頭家老までなり、羽柴も重要な 役になっていた。本能寺の変で信長が殺され、羽柴が石田三成を打ち仇をとる。その後 柴田と羽柴が勢力争い。柴田は破れ、妻で信長の妹のお市の方と自決した。 神社の絵馬は「年長で先輩の柴田が羽柴の足を揉む絵である」ありえない話だ。これ は後で調べて分かったことなので、その時神主に真否を尋ねればと悔やまれた。 神主らしき人が車で出かけようとしたので「大隈宿はこのあたりでしょうか?」と尋ねる と「この先のラーメン屋の所を左に曲がったところでは」と教えてくれた。結局、山に登っ て行き公園になっている益富城跡で、宿場ではなかった。驚いたことに「豊臣秀吉の張 り子の一夜城」で秋月種身を降参させた場所であり、大隈村民も大勢手伝ったという。 秀吉は此処でもこの戦法を使っていたらしい。 後に黒田節の母里太兵衛の居城になったようで、からめ手門が村に移設され麟翁寺 にお墓も残っている。 益富城の廃城後、宿場として栄え玉の井酒造は国の登録文化財で本陣跡だという。 日曜休みで話ができず残念だったが、聞く人もいないので確証は掴めなかった。後日、 役場に確認すると「嘉麻警察署から玉の井酒造までが宿場だった」という。 郷土史に詳しい職員は「北斗宮の絵馬は軍記物の内容を描いた物が多い。当地は 秀吉が大隈の地で戦った折、村人と親交を深めており、一連の思い出として描かれた ものだろう」という。
2021.03.16
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電化製品は10年経ったら壊れるようにタイマーが付いているのではないだろうか。 庭仕事の一服休憩に好きなチョコ棒アイスを食べようと包装紙を剥がした。口に入れる寸前チョコクリームが「ぼたっ」と地面に落ちた。「わお!なんすんだ!勿体ない。美味しいのに」棒だけが指先きに残っている。 冷蔵庫を追及すると「冷凍機能がダウンしました」と報告。メーカーの義務は10年迄部品を保管すればよいと法律にある。店は「10年経ったものは修理できません、部品ないから」 「それは悪法だ」と主張しても、役人は相手にしてくれない。仕方なくネットで修理法を探す。「一度電源を落として、再度電源を入れる」。パソコントラブルのやり方の初歩でやるシステムの回復を試した。正常に戻りアイスクリームは凍りだした。数日後、また氷が溶けだす。 一度トラブルが起こると、我々が諦めるまで、繰り返す。「もう替え時だ。観念した」と故障して2週間後、仕方なく買い換えのため電化品販売店に行った。 エディオンで30万円するのが最新モデル。昨年製造分は18万円に値を下げる。「何んでそんなに急激に下がるの」初年度は値段を倍に吹っ掛けているのじゃないの。予算で行けそうな日立冷蔵庫が”16万8千円”の表示「昨年は28万円で販売していた」と言う。 ケーズデンキに行くと、日立の同じ物が「18万円の税別」になる。「問題にならない」。 山田傘下になったベスト電器に行けば、日立同機種が値引き後「19万円税込み」である。販売員に「近くに住んでるし、少しまけて」と交渉すると「18万円の税別」とまだ高い。「エディオンは16万8千円税込みよ」と撮ったスマホ写真を見せた。「分かりました”16万5千円”の税込みにします」と言う。「決まり」。 3軒の店を回り、勉強すると値段が違ってくるのには驚いた。古いといえど見栄えは良い冷蔵庫で、十分使えそうなのに「製造会社で操作しているんじゃないの」と疑う。
2021.03.15
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国道200号を冷水峠に向かう手前に、飯塚市の飛び地である内野町がある。車を降り、左方向に坂道を歩くと、突き当りに嘉穂高校美術部の生徒が描いた内野宿の大看板がある。 日本一の槍を飲みとった母里但馬が建設に当たった。200号から少し外れており、江戸時代そのままの道が残り宿場の面影をとどめている。西構口(山家宿側)から東構口(飯塚宿側)まで600mあり、その中央で脇道を行くと本陣の御茶屋があった。 現在、新型コロナで三密禁止の緊急事態の時期で肥前屋旅籠の展示館は休館であり人通りもない。殿様以外でも泊まれる脇本陣の長崎屋は休館だったが、木戸が開いていたので庭に入りガラス戸越しに内部を拝見させてもらった。 シーボルトが立寄ったとの伝承があり、長崎出島の商館長キャピタンと共に江戸へ武士に守られながら行進している図が見えた。木戸を出ると宿場の道を、不思議な雰囲気の中年の女性が通り過ぎて行った。 内野宿の先祖の人達は、本陣の殿様の行列や、はた又多くの有名人が通り過ぎ宿泊していく様を子孫に伝承していった。山家宿から難所の冷水峠を越え内野に泊まり、翌日は4里先の飯塚宿をめざし歩き続けて行く、今では気が遠くなるような話である。 しかし歩くということは、色々なものをじっくり観察できる。周囲は里山に囲まれ、田んぼにはレンゲソウが爽やかな春の景色を繰り広げている。ずっと昔の似たような景色だったことだろう。 2時間後、帰路を車で走ていると、歩道を歩く一人の中年女性が目に留まった。スカートを履き少しお洒落してるが、肩の前後に荷物をぶら下げ、鼻歌を歌いながら楽しそうに歩いてくる。内野宿ですれ違った女性だった。片道5キロはある国道沿いのスーパーへ歩いて買い物に出かけ、徒歩での帰り道なのだろうか。 江戸時代の商家の方が、一里歩いて食料品を仕入れ、また戻るという生活をされていたであろう内野宿の映画の1シーンを見ているような思いがした。
2021.03.13
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週1回、身体の老化防止を目指し黒崎のフィットネスクラブに行く。マシーンで歩行しながら窓の外を見る。道路向こうに石垣があり、黒崎宿の提灯が並ぶ。その後ろは曲里の松並木が300m続く。昭和20年頃には、長崎街道の木屋瀬宿まで多くの松並木が残っていたそうだ。 石垣の前に黒崎宿本陣周辺の看板がある。入り口から出口の絵俯瞰図が描かれている。徳川時代は参勤交代という、幕府が諸大名に1年おきに領地と江戸を往復するよう命じた制度が作られていた。江戸への行程に街道があり、1日歩いて移動した後に殿様や家来が泊まる場所があった。宿場は道の両側に商店や旅籠が建ち並んでいた。黒崎宿もその一つである。 宿場の入口を「西構口」といい、現在の岸の浦信号から黒崎駅方面に向かう右手に石碑がある。熊手アーケード街が今は寂れているが、江戸時代は店が立ち並び賑やかであった。大看板が当時の街並みや人々の生業を描写している。北九州市は街道を整備し、歩道に石標を埋め込み長崎街道を案内する。 オランダ出島商館長はカピタンといわれ、洋装の館長たちが侍に護衛され行進している図も当時を偲ばれる。アーケードを抜け宿場通りを横切ると代官通りとなり、春日神社がある。 黒崎宿・藤田地区の鎮守神として栄え、後に藩祖・黒田如水および初代藩主・黒田長政を祀る。7月に黒崎祇園祭りで8基の山笠が走る。黒崎駅前は歩行者天国で山笠・出店・観客で大賑わいになる。高校の同窓生と会い、近くの居酒屋へ行くのが僕らのならわしである。春日神社にも祭りのときは奉納されるらしい。祇園祭に春日神社を一度は参拝したいと思った。 代官通りを進み3号線とJR鹿児島線を横切ると、出口である「東構口」通りとなり最後に石碑があり宿場出口となり小倉藩までの道のりが続く。当時はこの辺りまで海が広がっていた。 黒崎は子供の頃から断片的な知識があり思い出多い場所である。長崎街道で自分の頭の中で、一本の道筋が繋がったような思いがした。
2021.03.12
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秋月街道の大隈宿を目指していると、後藤寺駅近くを通った。子供の頃から聞いていた駅一度は寄ってみようと思った。かつては石炭の町で賑わい、各方面への連絡駅になっている。 商店街はシャターがおり入口の御茶屋さんが開いていた。お客が帰ったので、体格のいい店主に「随分古くからお茶を販売されているのでしょうね」と尋ねると、小一時間、お茶の話しをしてくれた。 「5月に新茶が出回りますが、熟成され本当においしいのは11月頃」と言う。今村茶舗は明治28年創業で主人は4代目跡継ぎである。 「日本には栄西が中国から茶ノ木を持ち帰った。嬉野にその石碑がある。それから京都へ広がった。中国は薬としていたが、日本流に洗礼されたお茶になった。高貴な人が嗜んだ。緑葉であるが酸化すると茶色になるのでお茶という」。 伝統の話を聞きいていると「お茶を入れましょうか」と言う。ちょうど喉が渇いて飲みたかった。まずは1杯目、八女茶の千円もの、香り良く熱さも飲み心地がよい。小ぶり茶碗ですぐ飲み干す茶は80度くらいで、小さじ2杯の葉でお湯は小さな湯呑で入れる。2杯目も濃い緑茶で美味しい。「お茶の味は甘さ、砂糖の甘さではなく、優しい味である」。3杯目は少し熱めで、茶を味わえる。「本当のお茶は3杯目まで飲める茶が本物」と匠は語る。 「祖父や父から子供の頃から茶を入れてもらい飲んだ。知識の数々も伝授してもらった」「飲んで、お茶がいくらの値段、どこの産地、静岡、京都、八女、鹿児島を当てることが出来る」「生協がほしの村の茶を100g800円で販売した。3000円する高級品なのにと疑問に思った」原産茶が50%以上あれば、安い茶を混ぜてもよいらしい。「星野の高級茶に安い鹿児島茶を混ぜていたらしい」 安い茶を買って、大衆は騙される。1杯目は美味しいが、2杯目は不味いお茶が多い。「お茶は1杯目、2杯目、3杯目迄飲めるのが純粋のお茶」と匠は念を押す。 家で買うお茶は1杯目は美味しいが、2杯目は不味いので捨てている。匠は強調する「安いお茶にアミノ酸を混ぜる。味は良くなるが1杯目でアミノ酸が溶けて、2杯目は不味いお茶になる」まさに思い当たる節があった。不味いお茶のアミノ酸入りを買って満足していたのだ。 八女茶販売の今村茶舗のガラスケースの葉から100g買った。私の近くにこんな純粋な茶販売が無い。どうしようと悩む。 「妻は日本茶のインストラクターの免許を取った。筆記は1回で受かったが、効き茶で2回落ち、3回目で受かった。効き茶は難しい」。「茶の業者が私にも免許取ったらというが、市川団十郎に歌舞伎の試験を受けないか」と同じことだと返答した」という。 自販売の茶はビタミンⅭが入って茶色にならないようにしてある。道理で自販機のお茶は不味い。しかししばしば買っている。便利な物は旨さに勝るものがあるのだろうか。
2021.03.11
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旦過とは雲水を1日泊める所の意味という。雲水の修行は臨済宗では特に厳しいらしい。 彼岸に久留米梅林寺へお墓参りに行った。禅の専門道場であり雲水6人を抱え師家という老師の元で3年半修業をする。境内は整然と清掃され、墓の筒には榊が飾られている。 お墓の底から「この寺の雲水さんは厳しい修業をされているぞ」とご先祖様の声がする「どんな生活ですか?」と尋ねると「仏教の戒律を守り12月には蝋(ロウ)八(ハツ)という1週間寝ずに坐禅をする。逃げ出す者もいるぞ」話を聴き「私にはとても耐えられません」と反省した 起床は3時半。本堂での読経の後、禅堂での坐禅が始まる。途中、雲水は一人ずつ師家の部屋に行き、公案の回答を提示する。内容を雲水に訊ねると「片手で音を出すにはどうするか師家に問われた。毎日答を提示するが老師から違う。深く考えろ!と叱られる。正解するのに2ヵ月掛りました」と言う。疑問によって悟りを求める看話禅 というらしい。 「食事も修業のうちで、朝はお粥と漬物のみです」「昼は、米入り麦飯と庭で採れた野菜を煮たり炒めたりし、それに味噌汁です」一汁一菜とはいえ極端過ぎると思った。「夜は本来、食事なしですが、掃除や草刈りの労働も多く体を維持する為、昼の残り物を食べます」と云う。雲水達はそれ程、痩せてはいない。「毎日たったそれだけ?」と驚くと、継ぎ接ぎ作務衣の若者は「御椀に大盛3杯までお代わりができます」と二コリと笑う。 老師も同じものを食べ、法要での法衣姿は凛として頭や顔は艶々している。葬儀の時、雲水にミスがあり老師が叱責の「喝」をいれ我々も威厳のある気合いどきっとさせられた。 総務の納所 が黒布から御椀2個と蓋3個箸に匙を出した。「食事が終わると茶を椀に注ぎ清め、飲み干し袱紗に仕舞うのです」法要時の食事だけ、雲水は全て食ても許されるらしい。日頃、美味しいものは食べないのだろうと、施主の出すステーキや刺身を見事に平らげる。住職になる為、この辛酸な菜食主義を3年半経験しないと、寺の跡を継げないと云う。
2021.03.10
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小倉宿の旦過市場 北九州市を代表する旦過市場が取り壊され、新しく建て替えと新聞で報道された。 小倉の魚町銀天街に続き、信号先に旦過市場がある。昭和35年頃建築の小さな商店が200店舗以上も軒を連ねる。鮮魚・青果・精肉・惣菜などを扱う。裏通りの飲食店が若者の人気を呼んでいる。個性豊かな小店が並び、韓国や中国からも観光客も訪れる。テレビのロケでも使われるレトロな雰囲気である。商う人の様子を眺めるのも楽しい。 旦過とは修行僧の雲水が宿泊する場所で、東曲輪の屋敷と小笠原家の宗玄寺や開善寺を結ぶ橋が架けられ、小倉城下の南玄関に通じる。 大正時代、隣接する神嶽川から魚の荷揚げ場と成り、その後、田川・中津方面からの野菜の集積地となり、市場となった。 中央の通路を挟み川側(丸和側)は建物が神嶽川の上にせり出して建っている。裏通りは古いトタン屋根やむき出しの古配管など、改造を重ねた跡が残る。 戦後の商店街の面影を懐かしみ、毎日多くの人が出入りし買い物また地元料理屋も仕入れる。看板も古く、表面のひび割れも味がある。間口1間の店に店員が2人いて、お客に「元気しとる」と対面販売の人情味溢れる遣り取りが飛び交う。 脇道に入るとホルモンの店があった。親父さんは話好きな年寄りだった。「北九州市が44億円の予算で、旦過市場移転新設を予定している」という。古いところに良さがある商店街を新築しても多分、人は戻ってこないと思う。 「土地の持ち主は、だいぶ前の亀井県知事で、1間幅の店舗を作りどうぞ使ってください」と宣伝したという。「昔、神嶽川で魚を下ろし、陸軍の大所帯へ納品していた」「馬車で荷を運び、金を貰うまで、この場所で大勢が待っていた。この先の店は馬小屋だったんだ。何十頭の馬が繋がれていた」。 「川へでっぱり部分は違法建築で、川の上だから税金もかからない」。「所有者はいろいろ変わっているが登記は出来ない。持ち主は家賃をもらう」。「メインの通りの商店は1間口は8万円、2間口だと16万円する」それでも儲かるらしい。 「私も40年ここで商売している。11時に店を開き17時には帰る」。「市職員が各店に交渉始めている。我々は営業権があり、それを払って貰えば立ち退く。200万円と提示するが、0が一つ足りん」。「40億予算で1店200万円が限度だ。新聞では直ぐ移転建設というが、我々は何も交渉していない」。「来年から交渉でも始まるが値段が折り合わず。もう10年以上前からもこの移転の話はある」。 店主も高齢化してる「私は年中無休でここを開け、正月だけは休み」。昔の商売人さんだ。
2021.03.09
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昔は材木屋が近くにあったが、最近はDIYで売っており、品種は限られている。都市高速の 近くに井上材木店があり、ウッドデッキの古い切れ端を持って行ってみた。社長は留守だった が老齢の営業マンがいた。 奥行のある倉庫に材木を縦に並べ立て掛けている。「教えてもらいたいのですが、時間 いいですか」と問うと。「ああ良いよ」と答えた。 テーブル台にするのか、古木を縦切りにした分厚く長い木材がある。老営業マンは説明する。 「原生林に生えていた年代物で、これが杉で、ケヤキで、栃の木は色が白い。値段は高い」。 愛しそうに商品を見る。 縦切り板に真っすぐな年輪が見え「白い部分を夏目、筋の赤い部分を 冬目と我々はいう」。 襖と天井の間に飾る「欄間」が何本も立て掛けてある。「これは屋久杉で数百年経った年代 物で、職人が薄い板をこすり、腐った穴も模様として磨きあげたものです。これらの杉の欄間 で割れが少ない。ヒノキは割れやすいので向かない」と専門の話は続く。 今は売れないが、博物館のように彼が木を眺め堪能しているそうだ。「大正・昭和時代に、 料亭でテーブルや欄間を座敷に使っており、この商売は繁盛した」と思い出す。「私は親父か ら色々教えて貰った」この話しをしてくれる人は、86歳の会長で息子が社長だった。 「こちらを見せましょう」と別の部屋の引き戸を開けた。そこには円柱で長さが3m級の各種 床柱が、立並んでいる。肌色の艶のある物。若木に枠を嵌め、絞り模様のある物。床柱は天井 から床下まで突き抜け設置するという。 丸柱の裏には縦に切れ目があり背割れといい、表の割れを防ぐ。数々の専門知識を教えて 頂いた。「久々に木の話をした」と会長は目を細めた。 帰り道、立派な日本風の家があった。磨いた丸太を横長に張りだし、軒下や玄関、柱の数々 に贅を尽くした建物だ。門札を見ると、田仲と書いてある。材木で大儲けした往時を偲ばせる。
2021.03.08
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ウッドデッキは10年くらいで腐るが、毎年防腐剤入りのピティ色のペンキを塗り、我が家では18年間使ってきた。それ以上は板の張替えが必要である。表面の板も少し腐り穴が開いている個所もあり、土台もかなり傷んでいないか、踏み外し怪我でもしたら。大事件になる。 去年息子が正月に戻ってきたとき、試しに2枚だけ板をはがし修理した。軒下の部分の木材は健在であるが、雨風にか晒される場所は釘の穴から雨水が滲みこみ腐っている。また夏帰ってきた時は親子大工をやろうと約束していたが、コロナで関東からは移動できなかった。 板も穴が開いては、危ないと妻と「共同で補修をやってみよう」という、しぶしぶ賛同してくれた、1m位のくぎ抜きを買い、一本ずつ大きな釘を抜いた。床下を開けてびっくり、土台の3寸角材は高さ20cmだが、手で扱っても崩れるほど腐っている所もある。 あと数年経っていたら、歩いて踏み抜き腰を抜かしていたかもしれない。または土台ごと倒壊の危険もあった。板をはぐって調べてよかった。 昨年、息子とやったときは、材木を近くのDIYで数枚買いテスト的に補修した。土台柱取り換は難しそうなのでボンドなど塗布し継板でごまかした。ツーバイフォー工法の材料は安く規格サイズで、多分外国材木である。ラティスという隣との目隠ものは、安物でホッチキスで止めてあり、木質も柔らかい、5年経ったら腐れ崩れてしまった。 材料は良いものを使いたい。
2021.03.06
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折角建てた鳥居も2年後、一部腐りだした。「早すぎるんだよ。安物の木を使ったな」。立ててもらったからには「10年は持たすのが私の責任である」と鳥居に宣言した。 腐った部分をノミで削り落とした。次は当木の製作だ。本職でもないのでぴっちりした形は作れない。空いた隙間は木工ボンドで埋めれば目立たないだろう。 通りの坂道に大工が趣味で建てている、ミニ家屋がある。屋根瓦と壁や玄関はあるが、奥行き半間の家である。住んでるのではなく「自分の腕前を見ろと」誇示しているのだ。たまにやって来るこの男、もう高齢なのに厄介者だ。酒飲んで来ては、大声で怒鳴る。通りの車にわけもわからない事を大声で怒る。暴力を振るう訳でなし、偶にしか叫ばないので近所の人は警察へ通報しない。 私は脚立の上で、鳥居の腐れ部分の充てん作業をしていた。後ろに人の気配を感じた。サングラスを掛けた作業着の厄介な親父が立っていた。知らん顔をしていると、意外と優しい声で「稲荷の修理をしているのだな」と訊く。「見りゃ分かるだろ」と言いたいが「まあそうです」と答えた。大工なら手伝えば良いのにと思った。 「人のためにしているんだな。良いことだよ」と言って去って行った。職人で良い腕して何軒も家を建てたのだろう。模造家を見ると手が込んでいる。柄が悪いのが玉に傷だ。通りがかった小母さんが大工が畑で野菜を作るのを見て話しかけた。返答がすごい「お前らにやるために作ってんじゃない」小母さんは黙って立ち去った。こんなバカな爺いがいるんだよ。 「これで世の中通ってきたのか」いろいろな人がいる。
2021.03.05
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新しい鳥居の庭はすべて掃き清めている。これに2年の歳月がかかった。土日曜の週二日で2時間の奉仕では、この程度しかできない。草も抜き、枯葉も掃きよせると、参拝する人も出てきた。稲荷の祠に10円や100円が置かれている。 鳥居の6本は真新しいが「なんと半分腐った額束は、金網フェンスに立て掛けてある」柱だけは変えれば事が済むと思っていらっしゃるのだろうか。「ままよ、鳥居だけでも再建して頂けば、この上もございません」と心で感謝し、額束を預かり我が家へ持ち帰った。補修できないかじっくり検討して見た。 長方形の厚板に「稲荷明神正一位」と黒字で書いてある。3分1は腐敗欠落している。勝手に修復すると「罰が当たる」と神主に言われそう。「そんじゃ辞めた」と歯向かえばいい。何もしないよりいい。 木枠を外し、腐れは切り落とし、同じ寸法の厚板をボンドで張り付けた。この工程は見せられないが誰も気づかないだろう。一連の子作業は手間がかかり、素人臭いが、見かけは遠目には分からない。木枠も新しくし、赤ペンキをたっぷり塗った。文字はトレッシングペーパーでで模写し黒ペンキで書いた。悪筆ながら、縁どりし遠目には分からない。 脚立を車で運び、赤い学束を鳥居面に打ち付けた。車に戻ると、パトカーが駐車違反黄色紙を貼っていやがった。「世の中、神も仏もないものか」と悔やんで罰金1万円を払った。 しかし、遠くから見ると「見事な稲荷さんの鳥居が再建された」と誰かが思ったことだろう。
2021.03.04
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御影石の鳥居は威厳を保ち岡部氏の名前を彫っている。材木の鳥居は10年過ぎたのか、朽ち果て赤い柱だけ残っている。無残な姿を晒すより「いっそのこと切り倒せばいいのに」と思うが誰も祟りを恐れ自然に任せる。笠木と額束だけは、腐ってはいるが厳かに枯葉の上に揃えてある。「心或る者に金持ちはいないのか」。修復は不可能なくらい腐っている。新品に建て替えるしかない。「お前が替えろ」と言われそうだが、財布が否決する。 元旦、参拝したとき私は決心して、狛犬に打ち明けた。鳥居再建のため、どこか篤志家を探してみる。稲荷は商売の神、地域の商売人に呼びかけ募金を募る。これは初夢の物語で見たが叶うまい。遠い氏子にお願いする。見たこともないから付き合いもないし、金を出しそうに無く、舌なら出す。 商工会の年始で、初対面だが面倒見の良さそうな他所の区長がいた。「太賀神社の壊れた鳥居なんとかなりませんかね」とおどおどしながら、お願いしてみた。「市との会合の時、話してみましょう」という。外交辞令も多い世の中だが、うちの地区の区長の何もしない口調よりは益しだ。 次の年の新年会、例の区長に尋ねると「私も動きましたよ。しかしなかなか宗教には町は金を出せないと言うんです」一応は談判してくれたことに深く感謝した。 次の年の新年会、例の区長は「いやー氏子総代の岡部さんに、稲荷の鳥居が折れて、尖ったまま残っています。子供が遊んで突き刺されたら大事です。寄付願いませんか」と口説いと言う。真新しい鳥居が6本建てられていた。世の中、捨てる神あれば、拾う神あり。
2021.03.03
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神社の境内は二段の庭があり広い。上段の庭の落ち葉も5cm位積り、枯れ枝も転がり放題。お世話をする人は誰もいないようだ。無断で庭を掃き清めるぐらいは、氏子も怒るまい。 竹の熊手を買い、お供えし、土日に掃いてみた。祠の狛犬の所から上段の石段迄、人が歩けるよう掃除。この作業だけでも1時間はかかる。掃き清めた跡の一筋を見ると清々しい気がする。 周りは草だらけだが、神様がお通りになるか誰かが参拝する道だけはきれいにした。草も地面に縋り着き、命を主張する。抜いても直ぐ生える。農業は草との戦いだと農家に聴いたことがある。 1年が経ち、参拝への歩ける小道だけは常時確保できた。賽銭箱のない稲荷の祠の前に誰か、1円や10円を置いていく。或る時、石段の祠の前で太っちょ女が横になっていた。賽銭箱に手を突っ込んでいる現場を私は目撃した。賽銭泥の女は「何もしてないよ」と座り直し拝む真似をした。自分の金だと「こらー」と怒鳴るのだが、 困っている人がいれば使わしてもらえばいい。神様の心は宇宙のように広い。 周りの草や枯れ葉、まだびっしりへばり付く。狛犬の「あー」と「うん」が見詰めているのに気づいた。頭を撫でると表情が緩む。口に手を入れるとペロリと舐める。別の神社でこれをやって「境内は神聖な所なのです。みだりに狛犬に触ってはいけません。罰が当たります」と神官にねちねち怒られた。「じゃー、あの親子でボール蹴りをしているのは良いんですか」と捩じると「見逃している」と愚痴る。 道路から拝む年寄りも偶には居る。石に腰掛け、涼ををとる老婆もいる。男の子が玉けりをすることもある。誰かが神を信じ、密かに礼拝し、心を安らかにしてもらっているのだ。狛犬は黙して見ている。
2021.03.02
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近所に太賀神社がある。私が子供の頃は、薪山といわれ、近隣の民衆が薪を拾いに来た共有地だった。のんびりした時代が懐かしい。 半世紀前、八幡製鉄まだ華やかな頃、山は戸建て住宅街に変身した。新日鉄や安川電機の高給取り社員がこぞって入居した。ダイエーも進出し、田舎の繁華街になった。 太賀神社の石鳥居は高さ5m程あり、昭和11年に建てられ地元名士の岡部氏の名前が刻まれてある。奥の庭には石段の上に小さな祠があり、左隅に稲荷神社の石の祠が控えている。春にはさくらが咲き誇り見事である。 氏子は住宅街から離れた所に住み、徐々に疎遠となり、草取りにも来ない。雇われ神主は年始の祭りのみ現れ、賽銭は定期に回収する。境内が荒れるに任せた。 神社前に家を建てた徳永さんは、荒れた神域に心が痛んだ。植木の経験があり、草むしりや落ち葉掃除や木の剪定を黙々と長年続けた。高齢になり心臓の血管が詰まる大病になった。死ぬ程の大手術をし、助かった。「毎日、神社を掃き清めていた私を神様が助けてくださった」と語った。もう90歳になる。 手入れがなされない神域は夏草が茫々と生え、人の歩く道が、まばらに地面が見えていた。赤い木の鳥居は、腐り両端の柱だけが6本突っ立っている。額束や笠木は落下し横たわっている。 私は定年後、縁あってこの地に住みついた。神様が寂しそうにしていた。茫々草の境内を、少しだけでも抜いてみようと思った。
2021.03.01
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