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ヤスミラ・ジュバニッチ「アイダよ、何処へ?」シネ・リーブル神戸 毎日お勤めに出て人と出会う生活をやめて4年目の秋にこの映画を見ました。打ちのめされました。この4年間で、最も衝撃をうけた映画といって間違いないと思います。 映画は「アイダよ、何処へ?」、ヤスミラ・ジュバニッチという、1974年、ボスニアに生まれた女性の監督の作品でした。 打ちのめされた理由には二つあります。 一つは、はっきりしています。映画がドキュメンタリー・タッチで描いていた事件に対してでした。 1995年、夏、戦後欧州最悪の悲劇「スレブレニツァ・ジェノサイド」 チラシにはこう書かれていますが、ぼくはその事実を知りませんでした。 だいたい「ボスニア紛争」と聞いても、あやふやなイメージが浮かんでくるだけですし、ユーゴスラビアという国がどこにあったのかさえはっきりわかりません。 再びチラシですが、こんな説明文が載っていました。「ボスニア紛争」とはユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴヴィナで1992年~95年まで続いた紛争。ボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人の3民族による戦闘の結果、人口435万人のうち、死者20万人、難民・避難者200万人が発生した。 ちなみに、見終わった後、大急ぎで読んだ柴宜弘「ユーゴスラヴィア現代史」(岩波新書)によれば、チラシのボシャニャク人はイスラム教徒でムスリム人と表記されていましたが、この映画が描いているスレブレニツァ・ジェノサイドについての言及はありませんでした。 映画は、この紛争の末期、1995年7月11日、ボスニア東部の町スレブレニツァで起こった、セルビア軍によって、8000人をこえるボシャニャク人(イスラム教徒)の男性市民や少年を「人種浄化」を目的にして殺した経過を国連軍の現地通訳の女性アイダの視点によって追っています。 事件の発端から、数年後に町に戻ったアイダの目に映る「平和」を取り戻した町の生活の姿を映し出しながら映画は終わります。 映画が描き出した、この一連の「事実」、暴力が進行してる映像はもちろんですが、「平和」を取り戻したかに見える町の生活の姿の虚構性、「悪」がなされたことを忘れたかのように暮らしている「普通の人々」の姿を映し出す映像の迫力に圧倒されました。 二つめは「アイダ」という登場人物の描き方です。チラシの写真の女性ですが、目つきの鋭い40代の女性です。 紛争以前、彼女は小学校の教員であったようですが、戦争がはじまり、平和維持のために進駐してきた国連軍の現地通訳として働いている設定でした。中学校の校長をしている夫と十代後半の息子が二人いる母親です。 セルビア軍が町に攻撃を仕掛け始めた最初から、彼女は国連職員の特権を利用し、何とか3人の家族を救おうと苦闘します。徹底的にエゴイスティック、自分の家族だけはどんな方法を利用しても救おうとする、ある意味で嫌な女性として描かれています。しかし、「いやな女」として描かれている、この、アイダの性格設定がこの映画のもっともすぐれているところだと思いました。 彼女は、一般的な基準で言えばエゴイスティックでズルイ女性です。そして、自分の家族だけは、「国連」という第三者を隠れ蓑として利用し、特別扱いで助けようとする彼女の要望は「あなたの家族だけ特別扱いはできない」という、いかにも正しい返事によって拒否され、彼女は3人の家族を殺されてしまいます。 数年後、町に戻ってきた彼女が自分の住居に行ってみると、別の人間が暮らしています。本来の所有者がやってきたことに対して「新しい社会」の「新しい法」にしたがって合法的に所有している「新しい住民」は何の動揺も見せず、アイダの家族が残していった「忘れ物」を笑顔で手渡すのでした。 平気で人種浄化を実行したセルビア軍の「悪」は国際軍事法廷でも裁かれ、歴史的にも批判されています。しかし、人道を口にし、中立を標榜しながら、結果的に、殺されていく人間を見殺しにした国連軍という欺瞞や、和解が成立し新しく生まれた「平和」な社会で過去を忘れてくらすという欺瞞については誰がどこで批判するのでしょうか。 夫と息子たちを連れ去られる姿を見つめる妻であり母親であるアイダの眼差し、かつて、いや、本当は今も自分の住まいであるはずの住居に小さな子どもを育てながら楽しく暮らしている家族を見つめるアイダの眼差し、新しく赴任した小学校で子供たちのさまを楽しそうに見学している家族たちを冷たく見つめるアイダの眼差し、絶望、怒り、拒否、嫌悪を、そして深い哀しみをその眼差しが具現していました。 映画の始まりから最後まで、この表情を貫き通した存在として描かれた、こんなヒロインを今まで見たことがありません。 ぼくは、この映画を撮ったヤスミラ・ジュバニッチ監督の「気迫」に圧倒されたのです。 アイダの怒りこそが「正当」なのです。「あなただけ特別扱いにはできない」ではなく、「誰でもいい、一人でも救う」というべきだったのではないでしょうか。 超絶した「悪」が、わたしたちの常識的なモラルを踏みにじって登場したときに、当然のことながら「常識」は通用しないのです で、「どうすべきなのか」、映画はその問いを突き付けてきたのですが、平和ボケした老人にはこたえるすべがなく、ただ、ただ、打ちのめされるだけだったのです。 しかし、これが他人事ではないという現実感だけは失いたくないと思いながら帰り道をとぼとぼ歩いたのでした。 監督 ヤスミラ・ジュバニッチの気迫 と、すさまじい役を演じきったヤスナ・ジュリチッチに拍手!でした。監督 ヤスミラ・ジュバニッチ製作 ダミル・イブラヒモビッチ ヤスミラ・ジュバニッチ製作総指揮 マイク・グッドリッジ脚本 ヤスミラ・ジュバニッチ撮影 クリスティーン・A・メイヤー美術 ハンネス・ザラート衣装 マウゴザータ・カルピウク エレン・レンス編集 ヤロスワフ・カミンスキ音楽 アントニー・コマサ=ラザルキービッツキャストヤスナ・ジュリチッチ(アイダ・通訳)イズディン・バイロビッチ(ニハド・アイダの夫)ボリス・レール(ハムディヤ・息子)ディノ・ブライロビッチ(セヨ・息子)ヨハン・ヘルデンベルグ(カレマンス大佐)レイモント・ティリ(フランケン少佐)ボリス・イサコビッチ(ムラディッチ将軍)エミール・ハジハフィズベゴビッチ(ヨカ)2020年・101分・PG12・ボスニア・ヘルツェゴビナ・オーストリア・ルーマニア・オランダ・ドイツ・ポーランド・フランス・ノルウェー合作原題「Quo vadis, Aida?」2021・09・28‐no88シネ・リーブル神戸no122
2021.10.06
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バーツラフ・マルホウル「異端の鳥」シネリーブル神戸 ポスターの、この写真にビビって、見ようかどうしようかと躊躇しましたが、見て正解でした。監督はチェコの人らしいですが、写真に大写しされているのがカラスですから、てっきり「カフカ」的不条理の世界かと予想していましたが、圧倒的なリアリズム映画 でした。見たのはバーツラフ・マルホウル監督の「異端の鳥」です。 10歳になるかならないかの少年が、小さな生き物を胸に抱えて走っています。ネコなのか、それともウサギなのか、判然としませんが、ともかく林の中を走って逃げています。 何者かに追い付かれ、生き物は取り上げられ油をかけられてその場で焼き殺されます。少年は殴り倒され、泥まみれになって家に帰ってきます。 家の前には井戸があります。井戸からくみ上げた水で少年の顔を拭いた老婆が、厳かに言い放ちます。 「自業自得だよ。外に出るなといったじゃないか。」 少年の顔が映し出され、老婆の顔が映し出されます。じっと、老婆を見ている少年の目が印象的です。 映画が始まったようです。 画面の下に「名前」と思われるクレジットが出て、場面が変わります。クレジットごとに、少年が出会う人物の名前が出ているようですが、覚えきれません。全部で、八つか九つの出会いの物語でした。 覚えている人物を数え上げると、伯母、呪術師の老女オルガ、粉屋ミレル、鳥飼クレッフ、肺病やみの司祭、密造酒業者ガルボス、ドイツ国防軍兵士ハンス、水辺にすむ山羊飼いの女ラビーナ、赤軍の狙撃兵ミートカ、そして、少年の父親です。 伯母は、最初のシーンで少年の顔を拭いてくれた老婆ですが、彼女が少年の伯母であったことは、帰ってきて解説を読んだ結果わかったことです。 彼女は「靴」をきれいに磨くことが「男のたしなみだ」と少年に教えますが、自らは井戸の水を沸かしたお湯で足を洗いながら、椅子に座ったままであっけなく死んでしまいます。 夜明けでしょうか、ふと、目覚めて、伯母の死を知った少年は、驚きのあまり手にしたランプを取り落とし、その火が燃え広がり、住んでいた家は跡形もなく燃え落ちてしまいます。 家を失い「外に出る」ことを余儀なくされた少年に襲い掛かるのは村人たちでした。打ち据えられる少年に助けの手を差し伸べたのがオルガでした。「この黒い眸、黒い髪、悪魔の申し子に違いない。この子は、この子と関わるものすべてに、不幸をもたらす。」 村人の前で、呪術師オルガが宣言します。悪魔の子は呪術師に買い取られ、「魔法」をあやつるオルガの助手として暮らし始めます。 村に悪疫が蔓延し、悪魔の子も高熱を出し、生死の境をさまよいます。呪術師は少年を土に埋め、「悪霊退散」の呪文をかけ、一晩放置します。そこにやって来たのがカラスでした。 情け容赦なく襲い掛かる、無数のカラス。血にまみれた少年の頭部。遠慮会釈なく映し出すこの映像を「リアル」だと感じながら見ている自分の「感覚」が不思議でしたが、オルガに助け出された少年の高熱は下がり、彼は再び生き始めます。 やがて、オルガが死に、庇護者を失った少年に村人が襲い掛かります。無防備な少年の黒い瞳と黒い髪めがけて、村人たちは、あのカラスのように襲い掛かります。 水辺にうち捨てられた少年は川に流され、水車小屋に流れ着きます。粉ひきのおやじミレルが三人目の庇護者ですが、彼は嫉妬と性欲に狂った老人でした。カメラが執拗にとらえるミレルの眼差しを少年はじっと見つめています。 映画は少年の黒い瞳に見据えられた「人間」たち が、暴力へと昇華していく「欲望」の虜 であることを描き続けているかのようです。 この少年が、なぜ、こんな世界をさまよい続けなければならないのか、見ているぼくには、いつまでたっても「物語」の輪郭が見えてきません。 始まったばかりの少年の旅は、まだまだ続きますが、とりあえずここで「異端の鳥」(感想その1)を終えたいと思います。監督 バーツラフ・マルホウル原作 イェジー・コシンスキ脚本 バーツラフ・マルホウル撮影 ウラジミール・スムットニー美術 ヤン・ブラサーク衣装 ヘレナ・ロブナキャストペトル・コラール(少年)ウド・キア(ミレル)レフ・ディブリク(レッフ)イトゥカ・ツバンツァロバー(ルドミラ)ステラン・スカルスガルド(ハンス)ハーベイ・カイテル(司祭)ジュリアン・サンズ(ガルボス)バリー・ペッパー(ミートカ)アレクセイ・クラフチェンコ2019年・169分・R15+・チェコ・スロバキア・ウクライナ合作原題「The Painted Bird」2020・10・20・シネリーブルno69追記2024・02・20「黒い瞳」と「黒い髪」の暗示しているものが、ヨーロッパの、おそらく、キリスト教社会に暮らす人たちにはすぐにわかるのかもしれませんね。それがユダヤ的なものなのか、アジア的なものなのか、ボクには相変わらずわかりませんが、「異端」であることの「全体主義的社会」における意味は、ボンヤリ理解できますね。 要するに、現代社会を描いているということですね。だから、リアルなのでと思ったのでしょうね。にほんブログ村にほんブログ村
2020.10.23
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ステファノフ & コテフスカ「ハニーランド 永遠の谷」十三シアター・セブン 毎日の雨模様と開幕以来やたら負け続ける、どこかの球団のせいで、すっかり出不精になっていましたが、この映画「ハニーランド」が神戸には来ないと知って、大慌てで十三のシアター・セブンまで出かけてきました。 早く着き過ぎたので、30分ほど淀川の河川敷を歩きました。薄曇りでしたが、汗だくになりました。劇場のトイレでシャツを着替えて着席です。着替えたのは正解で、汗だくのままだと風邪をひいていたと思います。 30人ほど入れる小さなホールに客は数人でした。北マケドニアという国があるそうです。マケドニアといえばアレクサンダー大王という名前でしか知りませんが、紀元前の話ですね。 断崖の絶壁から眩暈がするような谷を覗き込むようにして、ロングスカートの女性が岩の中に入っていきます。 岩の狭間に手を差し入れ、岩盤を外すようにするとミツバチの巣が出てきました。なにやら群れ飛ぶ蜂に語りかけているようです。半分はわたしに、半分はあなたに。 チラシにもある決め文句を口にしたようですが、自然との共棲に関心のある人ならだれでも知っている言葉でした。 この映画は、監督が撮ろうとした「物語」に対して、信じられないほどのベストマッチな俳優を、偶然でしょうか、キャストとして得て、生活そのままに演技をさせた結果、目指していた以上の「物語」が出来上がったというべき映画だったと思いました。 要するにドキュメンタリーとしては話が出来すぎていて、制作過程において、所謂「やらせ」の要素が「0」であるなら、奇跡としか言いようがない展開なのです。上に書いたセリフも、かなりきわどい境界線上の、むしろ、映画のために用意された「セリフ」というべき言葉ではないかと感じました。 事実はわかりませんが、もう少し、穿ったことを言うと、主人公の女性が住む「廃村」、彼女と年老いた母以外には人の気配のなかった高原の谷底にある「村」に牛の群れを追いながら、トラックでキャンピング・トレイラーを引いて大家族のトルコ人一家がやって来ます。 彼らも、この映画を「物語」として見るには、欠かせない不幸をもたらす「客人・マレビト」の役柄を演じきり、3年ほどの滞在で去って行きます。 「過度の人口増加と貧困」、「最後の辺境を探し求める資本の論理」、「文明による自然破壊」、「同種交配の繰り返しによる疫病の蔓延」、そして「隣人との繋がりの喪失」。 一家が演じて見せるのは、マケドニアの僻地にまで、突如、闖入してくる「現代社会」の「欲望の化身」そのものでした。 もう一つ、勝手なうがちを付け加えるとすれば、招かれざる隣人が嵐のように去ったある日、沈黙が支配する闇の中でラジオのヴォリュームを調節しながら「聞こえる?」と声をかける、母との永遠の別れのシーンの迫力は、ドキュメンタリーであるからこそなのですが、果たしてこんなシーンが実際にドキュメントできるものなのかどうか、疑い始めれば際限のないことになりそうです。 ドキュメンタリーとしてのこの映画を貶めるようなことばかり書きました。しかし、この作品は制作過程の経緯やジャンルの分類に対する疑いを超える映画であったことは事実なのです。 マケドニアという、ヨーロッパの辺境の自然の中で、おそらく親の言いつけにしたがい、60年を越える生涯、自然養蜂を生業とし、独身で過ごした女性が、老いて片目を失っている老母を介護し、その死を看取った夜、悪霊退散の松明をふりかざし、他には誰も住んでいない廃村の辻々を一人で練り歩く姿には、世界宗教以前の「孤独な人間」の自然に対する「信仰」と「畏れ」が息づいていました。 隣人も去り、家族も失った彼女の姿が、高原の夕日の中で愛犬と連れ添うシルエットとして映し出されるシーンには、文明の片隅で生きているぼくの中にも、ひょっとしたら流れているかもしれない「神話的な時間」を想起させる力がたしかにあると感じました。半分はわたしに、半分はあなたに。 やがて来る、彼女の自然な死と共に、この世界から永遠に失われる「あなた」を描いたこの作品は、やはり「すぐれた作品」というべきではないでしょうか。監督 リューボ・ステファノフ & タマラ・コテフスカ製作 アタナス・ゲオルギエフ撮影 フェルミ・ダウト サミル・リュマ編集 アタナス・ゲオルギエフ音楽 Foltin2019年・86分・北マケドニア原題「Honeyland」2020・07・21 シアターセブンno5ボタン押してね!
2020.07.27
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