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中国での仕事も慣れてきた頃、夫は考えていた。万一(笑)のために、常に人脈を広げておこう、国民性は違ってもここは中国なのだから、郷に入っては郷に従え、ということを常に頭に入れておこうと思っていたらしい。駐在している日本人の中には、中国人を見下したような態度を取る者もいたらしい。中国語を知ろうともしないヤツ、通訳に方言そのままで喋るヤツ、注意しないでいきなり怒鳴りつけるヤツ、昼前に出勤して3時頃には帰るヤツ、夜は必ずといっていいほど総経理に酒をねだるヤツ、数えたらキリがないほど、いやらしい輩がいたらしい。その頃、まだ夫はスレてなかったようで(笑)こんなヤツには絶対になるまい!と思ったそうだ。(まじめだったのね♪)夫は全く中国語ができなかったので、通訳にはゆっくり標準語でしゃべるようにしたら、とても感謝されたそうだ。昼休みや仕事が終わってから、通訳の女性に日本語を教える代わりに中国語を教わった。時は掃除のおばちゃんや門番のおじさんにも教えてもらったそうだ。工場を見てまわる時も、ダメだ!しか言わないのではなく、どうしてこうなるのか、どうしたら改善できるかを、リーダーにキチンと説明をしたのだそうだ。(今までの人はどうだったの?と私は思わず聞いた)その工場では、今までと違う人~ということでちょっと有名になったらしい。そこで今度は別の工場を見てほしいということになった。しばらくして、別の工場の担当になった夫は、今まで自分なりにやってきたことがどこでも通用しないことをこれからイヤというほど知ることになった。次の工場は従業員が何千人もいる規模でほとんどが四川省などから来た、若い女の子たちだった。中には自分の名前すらが書けない(!?)子もいたというから驚きだ!!どんな工場に行っても夫は自分の姿勢を崩さなかったと言った。しかし、「先生、そんなことしていたら、 納期に間に合いませんよ!」とか、「どうしていけないのか、 わかりません!」「日本人は細かすぎる!」などと言われ続けたそうだ。これは国民性の違いだから仕方ないわ...と、半ば諦めたようなことを言うときもあったが、仕事は妥協できない!と言って、決して信念を曲げようとはしなかった。確かに中国人の中には、少々の汚れや破れなど気にしない人が多いといっても過言でない。でも日本で求めているのはそうじゃない!と言ってもなかなか理解されない。汚れや破れの問題だけでなく、衛生面でもびっくりするようなことがたくさん(笑)あったと言っていた。裁断台の上はホコリまみれ、ミシンの横にはどんぶり?(昼食用のマイ茶碗?)製品を入れるカゴには飲みかけのペットボトルのお茶。など数えたら、キリがないらしい。夫は少しずつ時間をかけて意識改革をしていったらしいが...(???)またまたある日のこと、顔見知りになったある中国人の工場経営者にぜひ、うちに来てほしい!と声をかけられた。場所は北京。工場は河北省にあると言う。住まいは北京のマンションを用意するとのこと。給料は今よりも増える。(悪くないな...)一瞬、頭をよぎった(そうだ~~ごもっとも♪)後日返事をするということで即答を避けた。一時帰国をした夫は、今回だけは珍しく私に相談した。「その人の住んでるところはどこ?」と聞く私に夫は、「わからん、たぶん北京市内や。」「ふ~ん、所在を明らかにしないのが 引っかかるなあ~」と、私は気になった。なぜなら、今まで出会った中国人は皆、家に招待してくれて家族に合わせてくれた、と夫から聞いていたのだ。この総経理はそういうことはいっさいしないようだ。聞けば、この業界には素人?のようで以前は武漢の大学で教授をしていたらしい。親のあとを継いで工場を新たに作るので、そこを見てほしいとのことだった。「まぁ、みんながみんな同じとは限らないから~」と言う夫の言葉に少し不安を抱きながらも私は賛成した。用意されたマンションは、28階の約140平米の2LDK。(ひょえぇー!うちより広い?)もちろん生活に必要な家具、家電類付き。3基あるエレベーターにはエレベーターガール付き??(何階?と聞いてボタンを押してくれるだけのお仕事♪)毎朝ベンツのお迎え、そして河北省まで平均時速140kmでぶっ飛んでゆく~それもほとんどノンストップで♪ (おおーNO!)広大な辺り一面、地平線しか見えないところにポツンと工場が...日が暮れると真っ暗。工場の明かりしか見えない。夫は何かあったら生きて日本には帰れないな...とマジで心配したそうな。(あなおそろしや~)半年くらいたった頃、北京事務所にいる中国人と話をしているうちにどうやら経営がうまくいってないことを知った。ヤバイかも...?と思ったが、今のところ給料は払われているし、もう少し様子を見てやろうということにした。そのうち、総経理はだんだん出社する回数が減り、いつのまにか顔を見せなくなって、外から携帯電話で指示すようになっていた。その頃には、会社に借金取りも来るようになってきていた。社員たちの給料はずいぶん前から払われていないとのことだった。愛想をつかした社員たちは、いつにまにかひとりふたりといなくなっていったーと夫は言っていた。(この人たちはともかく、工場の女の子たちは どうするんだろう?って心配した...)その後、誰も総経理の顔を見たものはいないらしい。(トンズラ♪ これが中国なのかも?)当然、夫の給料は未払いのままで、マンションも出て行かざるを得なかった。私の不安は見事的中した!(うれしくないけど...)(万一のために所在を明らかにしないのは さすが!元教授、頭がいいのダ♪)しかし、夫はこんなことくらいでメゲなかった!万一(笑)のためにいろいろ道をつけているからと言った。その後はホテル暮らしをしながら、ひたすらチャンスを待った。夫は離れて暮らしている私に不安を与えないように帰国の都度、状況を話してくれていたので、あまり心配はしなかった。今からおよそ3年ほど前、前々から、そうなればいいネ♪~と言っていたことが実現しそうになったのだ。やっとチャンスが巡って来たのだった!! 続く~
2006年03月23日
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兄は不整脈だった。ペースメーカーを埋め込む手術をした。一級障害者になるらしい。見た目は普通の人と全く変わらないが、やはり無理は禁物で、仕事の量は減らさざるを得なかった。そのうち、私も重要な戦力となっていた。今まで以上に工場に行くようになった。タウンエースに乗り、外注先をまわった。裁断屋に反物を運んだり、得意先に納品にも行った。今思えば、無我夢中だったように思う。会社を潰してはいけない。子どもたちを育てなければいけない。その思いで必死だったのだろう。しかし、どんなに私ががんばったところで兄の代わりはできない。夫もそろそろ会社の限界を感じていた。倒産する前に、なんとかしなければ...結局、出した結論が、夫が会社を離れるということだった。夫48歳の決断だった。とりあえず、どこでもいいからと見つけた就職先にはすんなりと入れた。しかし...今まで得意先にしか、頭を下げたことのない夫は、年下の上司の心無い言葉に耐えられなかったようだった。はじめの数ヶ月は、夫も必死だったのだろう、愚痴のひとつも言わなかった。給料は話にならないくらいの額だったが、この年で就職できただけでもありがたく思わないといけないね、と言いながらがんばっていた。そろそろ半年になろうかという頃、夕食時に「もうあかん~がまんできんわ~」と、言い出すようになっていた。私は黙って聞いていたが、夫が口に出すのはよっぽどのことなんだ、そこまでがまんすることないわ!と思い、「いいやん!やめたら?なんとかなるって~」と、言ってしまった。家族のためにがまんしていたのかと思うと私はいたたまれなくなった。なんとかなる~とは言ってみたものの、なんのメドもなかった。夫は次を見つけてからにするから~と言った。少しは気が楽になったのだろう、翌日からはなぜかイキイキしていた。次の就職先もすぐに決まった。退職の日、夫は社長やまわりの人にはお礼を言ったそうだが、その上司には、イチベツの目をむけてきたそうな...(よし!)新しい会社は、前の会社より居心地もよく、給料もいく分よかった。自分たちの会社と同じ縫製会社であったが、得意先がちがっていた。大手商社がほとんどだったのだ。夫は精力的に仕事をこなした。毎日、夫の話す言葉から、がんばっている様子が読み取れた。ある日、得意先のひとつである○○から、中国で生産管理を任せられる人を探しているが、どうか?とたずねられた(...そうだ)。夫としては、いつまで持つかわからない今の会社に再び、限界を感じていた。いつまでもここにはいられない!と思っていた(...らしい)。いい会社だったが、実は廃業を示唆するようなことをこっそり社長に言われていたらしい。2番目の会社は就職7ヶ月目にして廃業となり、夫の1年余のサラリーマン生活も終わった。が、すぐに中国行きの話も決まり、とりあえずは、正社員でないものの待遇はほぼ同じ扱いということでハレて入社となった。最初は、出張という形でだった。1ヶ月の間に約1~2週間、行き、慣れてきたら、1ヶ月くらい行って~となった。その後は3ヶ月とか~と言われたらしい。はじめての着任地は「寧波」だった。初めて上海に降り立ったときのことを夫は今でもはっきり覚えていると言う。(その頃はまだ虹橋空港だった)右も左も中国語も全くわからない...○○小姐という人が「○○先生」と書かれたプラカードを持って迎えに来ていますから見つけてついて行って下さい、とだけ言われたそうだ。あの時のこれからだ!という希望とえらいこっちゃーという不安が入り混じった気持ちは忘れられないと言う。上海から飛行機で約1時間足らず、案内の女性に連れられて寧波に到着し、工場に着いた夫は、そのスケールのデカさに驚いた。工場を一通り案内してもらってこれからのことを話し、(通訳がいるので心配はなかったらしい)歓迎の夕食となってまた驚いた。料理の量が半端じゃない!食べきれるのか?とマジで心配したそうだ。その頃の夫は、中国では出されたものを全部食べてしまうと、足りないのだ!と思われて、次から次へと勧められるということなど知るはずがなかった。もう食べきれない~と言ってようやく解放された?らしいが、そこの総経理は、どの日本人も少食だ~と言ったそうだ(笑)毎朝、ホテルに8時きっかりに工場から差し回しのベンツがお迎えに来た。8時から夕方5時まで仕事をして、その後は遊ぶところもなかったのでず~とホテルで過ごしていたらしいが、慣れないうちは、食後すぐ寝てしまって朝まで目が覚めないこともしばしばだったらしい。(笑)夫は帰国のたびに、中国でのおもしろい話をしてくれた。(ブログのはじめの方でいろいろ書いてます)寧波での生活の様子や食べ物やトイレの話、中国人の生活、ものの考え方など、私は初めて聞く、生の中国に興味深々だった。順調に見えたそんな仕事も何年か経った頃、また転機が訪れようとしていた。 続く~
2006年03月22日
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ブーザンさんから「バトンリレー」なるものがまわってきました。「○○○と私」というタイトルでふだんブログに書かないことを書くこと...らしいのです。ブーザンさんは3人の子どもさんの誕生から結婚までを書かれているようです。ブーザンさんの書かれた、「3人の子どもたちと私」を読んで、私も子育て時代を思い出しました。ブーザンさんほどの壮絶?(ごめんなさい!)な時期はなかったにしろ、どこか似ているところがあったりして、微笑ましく読ませていただいています。子どもたちのことはドラドラ姉弟ということでブログには時々登場しますので、「夫の仕事と私」というテーマにしたいと思います。 <夫の仕事と私>結婚当時、夫は実兄とニット製品の縫製会社を経営していた。そのほとんどが、セーターやカーディガン、スカート、パンツなどで、ゴルフウェアーなども多く取り扱っていたようだ。株式会社であるにもかかわらず、兄と夫以下、従業員が10数名、それに運転手がひとりという細々としたものだった。最初は家内工業?かと思った。それでも私は仕事を手伝うことなく、専業主婦でいた。夫は営業から納品まで全てしていた。(こんな規模ならあたりまえかな?)サンプルを作り、注文を取ってきて、縫製にかかる。従業員の中に混じってミシンを踏む夫を見て始めはびっくりしたものだった。仕事とはいえ、男の人はスゴイなぁ!と思った。ミシンだけでなく、アイロンをかけるのもボタンをつけるのもまつり縫いをするのも「まさにプロだ!」と思ったものだ。どんなに忙しくても外注を増やすなどして手伝ってくれとは言わなかった。子どもたちがまだ小さかったからだ。そのニットだけだったのが、布帛に押され出し、会社の方向が少しずつ変わり始めていた。以前のように高級品を少しずつではなく、安いものをたくさん作らなければならないようになってきていた。以前に比べて、忙しい割には売り上げが上がらず、従業員も減らしていった為か、夫の帰りが遅くなる日が増えていった。この頃には子どもたちにも手がかからなくなっていたので、忙しい日は私も工場へ手伝いに行くようになっていた。だんだん慣れてくると、襟や前立てに接着芯を貼ったりした。そのうち裁断もしたりしていた。さすがに縫製はできなかったけど。。。その頃の私はもうりっぱな?従業員のひとりとなっていた♪そんなある日、以前から疲れやすいと言っていた、兄が倒れてしまった! 続く~
2006年03月21日
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昨日、十数年ぶりに打ちっぱなしに行ってきました。最近、仲の良い友人のひとりが生涯スポーツのひとつとして、これからご主人と一緒に楽しみたいとはじめたので、私もそれに触発されて再開しようと思ったのです。子どもたちが小学生の頃、PTAの執行部の役員をしていました。とても気が合ったので、これからもみんなで遊ぼう!ということになり、まずは(いきなり?)ゴルフ♪となったのでした。(私以外全員経験者~)オジちゃんたちが言う、「いいからいいから♪振るだけでいいから~(??)」と言うのを真?に受けて、(アホでした~恥)数回だけ、打ちっぱなしに行き、見よう見まねでクラブの振り方を覚え、コースに出たのでした。(あなおそろしや~)今、思えば顔から火が出そうです~こりゃ~あかんデ!と思い、スクールに行くと、卒業コンペでいきなり優勝♪してしまいました。気をよくした私はそれこそ有頂天になり、週1回はコースに出る~なんてこともありました。しかし、しっかり基礎ができていないので、上達しないのは目に見えていました。ヒマはたっぷりあったので、練習には事欠きませんでしたけど...(笑)それもいつの頃からか、夫の会社を手伝うようになって、することもなくなってしまいました。しかし、いつか落ち着けば再開したいと、ず~と思っていました。年を取っても夫婦で遊べるスポーツだと思っています。いつか夫と一緒にしたいなぁ♪と、ホヘホヘ~。さぁて、この日の調子は?というと...散々でしたー。いかんせん、からだが動きませんー!!頭ではわかっていても、硬くなったからだがいうことを聞いてくれないのです...ダフリ2回、(おおー!涙)目の前に転がり、思わず拾いそうに...(汗)この日は100球打っておしまい!やめときました。いきなりはちょっとキツかったです。この調子ではコースなんてとてもとても~う~ん、再デビューには、まだまだ時間がかかりそうです...(滝涙)
2006年03月13日
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私はパンが大好き♪朝、パンが食べたい!と、思って目が覚める(笑)朝起きて、食べるパンがないと悲しくなってしまう。まずはコーヒーとパン。これがあれば幸せ♪(パンだけで)幸せやなぁ~と夫は言う。お気に入りは、クリームの入ったパン。(イヴちゃんも大好き! 好みがイヌと同じ~笑)今ハマっているのは、シロップをしみ込ませたこま切れのパンにクリームがかかっているもの。カップに入っていてフォークで食べる。コレってきっと売れ残った食パンの耳の再利用だと思うけど、考えた人はエライ♪と思う。昼過ぎに行くといつも売り切れなのだ。(しょっちゅう食べ損ねている...泣) <夫の上海パン苦労話>結婚する前、夫に言われた唯一の食べることに関しての注文。朝めしは絶対!ご飯やで。(パンは)月に1回くらいならいいけど、続いたらあかんデ、と。そうかー、ご飯か...。今までの習慣ってなかなか変えられないもんね、(まっ、私はパンを食べるけどね~)新婚当初は、せっせと私も一緒にご飯を食べていた。(少しだけにして夫が出勤した後、 パンを食べていた~笑)ず~と、朝食はパン♪の生活をしていた私は、ご飯だとどうにも調子が悪い。食道がつかえるような気がして苦しいのだ。そこで、私はパンを食べることにした。夫はご飯、私はパン。そんな朝食風景がしばらく続いたが、それもだんだんめんどくさくなり、月1回のパンが、気がつけば毎日がパンになっていた~(笑)今では「ご飯にする?」と、聞くと、「いやぁ~、パンがいいな。」と、言うようになった。帰国すると、たまにはご飯に納豆でもと、思って用意しても「パンなかったん?」と、聞くありさま~(ありゃりゃ~)で、上海に住むようになって困ったのが、朝食のパン。(それも食パン)3年前の上海では、まだ近所においしいと思われるパン屋がなかった。(その頃は上海でもまだまだパンの文化が 広まってなかったように思う。 街中にある見た目がおしゃれなパン屋でも パサパサでとても食べられなかった。)そこで、私は来海するたびに、スーツケースの片側半分に食パンをびっしり詰め込んで持って行った。夫はパンを受け取るとうれしそうに冷凍庫に入れた。でもそのパンが切れると、「次はいつ来るの?」と、催促のメールを送ってきたー(爆)そのパン問題も静安寺のそごう(久光)に山崎パンができたことで一気に解決した。「メッチャうまいで~ もうパン持ってこなくてエエで♪」その後夫は、休みの日にはマンションから歩いて20分はかかる道のりをひたすら?パンのまとめ買いに行っていた(...らしい~笑)そのパンで苦労しているという話を会社ですると、以前から赴任している人に、おいしいパンなら、准海中路の南側にありますよ、と教えてもらってからは、仕事の帰りに少しずつ買って帰っているらしい。今までのように冷凍庫にため込むことなく、夫のパン問題も解決したようだ。夫が言うには、上海の変貌ぶりは凄まじいらしい。(パンだけではなく...)6年前に初めて、出張で訪れたときは、まだまだ日本人は住みにくいと聞かされた、と、言っていた。今はどうだろう?パンひとつにとっても日本と変わらぬ店ができている。「うまい店、いっぱい見つけてあるから~」夫が今度はいつ来る?と聞く理由は、もうパンではないらしい。(笑)焼き肉まんとか、豆腐花とか食べないの?と、聞いても、家から会社まで行く間に1件だけある肉まんを売っている店は口に合わないからと、言う。朝からちょっと食べれない...というのもわかる気もするけどね。若い人たちの中には、これで済ませている人も多いようで、夫のような年配者は順応性がないのかも?せっかく中国にいるのだから、食べないのはもったいないよ!!私は豆乳と油で揚げた細長いパンが大好きなんだけどなぁ。襄陽北路沿いには、庶民的な朝ごはんの店がいっぱいあって、今度行くときには5元札握り締めて、絶対!!ひとりで挑戦してみようと思っている!どなたか、准海中路×陜西南路辺りでお勧めのおいしい朝ごはんのお店があれば、教えてくださいネ♪
2006年03月09日
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きょうは朝からとってもいい天気♪気分は最高!!(イェイ!)きょう1日のノルマ書き出してみました。1、イヴちゃんのお散歩。 (晴れの日は絶対!)2、ちらし寿司つくり。 (3日に作れなかったので)3、家族全員のシーツ洗濯。 (きょうははずせない)4、たまった新聞のまとめ読み。(疲れていて読んでなかった)5、アイロンかけ。 (めんどくさいので後回しにしていた)6、英語の勉強。 (生涯学習のひとつ)7、掃除機をかける。 (気がむけば~)以上、優先順位に書くとこうなりました。ナント!1以外全部達成!!イヴちゃん、ごめんね...きょうはあまりにも天気が良すぎて紫外線もいっぱい。ほんなら(それなら)、夕方に~と思っていたら、「take a nap♪」ナント!寝てしまったのです~でもね、イヴちん、アンタもぐっすり♪私のおなかの前で寝てたよネ! 寝息たてて~ちらし寿司は、ひなまつりに作らなかったので、娘のために♪作らなかったのではなく、作れなかったー。なぜ? 「ちらし寿司作るからネ♪」と、言う母に向かって、ドラ娘(1号)、 「あっ、いらんデ~ご飯食べてくるから~」と、いともカンタンに言うではありませんか! 「ちょと待てィ~、ひなまつりヤンケ!」って、大阪のおばちゃんなら、言うところでしょう~(大阪のおばちゃん、ごめんなさい~)私はいちぉー兵庫のおばちゃんなので、 「なんてェ? ひなまつりでしょ!」って、言いましたの。ちらし寿司だからといってもあんまりうれしくないらしい。どちらかというと、私と大違いで、焼肉、ラーメン、焼鳥、キムチ、ピビンバなどオッサン系が好き。「じゃ、また違う日に作るワ...」と、負ける私。で、きょう近所のスーパーの火曜市の日に(特価の日なので~笑)食材を揃え、張り切ったのでした。でも帰宅して喜んだのはドラ息子(2号)。 「うまいなぁ~♪ おかーさんのご飯は~♪」を連発しながら、 「イヴちゃんも食べたいニェ~」と、見せびらかして食べていました。(酷!)いつもドラは本当においしそうに食べるのです。見ていて気持ちいいくらい♪続いて、ドラ娘(1号)帰ってきました。 「あ~おなか空いた~」私:「ハイハイ、ちらし寿司お待ちョ~」娘:「あー、そやった~お寿司か...」私:「か...はないでしょ!!」気がつけば、昨日の残りのカレーと一緒に食べてる!?(アンタの味覚疑うヨ...)なんだか平和な我が家かな...?英語の勉強は3年ほど前から続けていて、生涯学習のひとつにしています。英語といっても会話がほとんどで、最近になって中学レベルの文法をおさらいする形で習っています。(まだまだそんなレベル~)国際交流にも参加してできるだけネイティブに触れるようにもしています。でもひとつ覚えれば、みっつくらい忘れていくので、全く上達してないんです...(泣)「頭ン中、ザルとちゃう?」習っているおばちゃん同士でなぐさめ合っています~(情けないー)ああ~きょうはなんだか楽しかったなぁ♪誰にも会わなかったけど、とても有意義に過ごせた気がするわ。もうすぐ春だ~というこの季節が私は一番好き♪きょうのこの日は昨日からつながっている。あたたかいコメントをくださる方々に感謝して...おやすみなさい。
2006年03月07日
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ひさしぶりに日記を更新して感激した。春節の後、PCの前に座るのもおっくうな日があった。心の中のモヤモヤをおもむくままに日記にしてみた。あたたかいコメントをいただいた。 うれしかったー♪会ったこともない私にエールを送ってくれる。中にはこのブログが縁で友人になれた?人もいる。ありがたいことだ。ブログなんて架空の世界と思っていたことがウソのようだ。いつも元気をもらうブログがある。訪問するたび、ワクワクするブログがある。なるほど~と感心してしまうブログがある。いろんなことを教えてくれるブログのある。短い日記の中にホッとさせられるブログがある。どの日記も飾らず、気取らず、その人の心そのままに書いていらっしゃるからだろう。非現実のブログの世界で癒される...顔を見つめてでもなく、声をかけてでもない。肩に手を置いてでもなく、ギュッと抱きしめてでもない。...なのに、なんでだろう?コメントをくれた人たちの人を思う気持ちが時空を越えて私の心に飛んで来たのだ。言葉には「会う」に劣らぬほどの「ちから」があるのだ!と、思わずにはいられなかった。ありがとう!!
2006年03月06日
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きょうは昨日とうって変わっていいお天気♪昨日一昨日に雪やあられが舞っていたなんてウソみたい。ひさしぶりにイヴちゃんとお散歩に行って来ました。早く暖かくなればいいなぁ~♪夫が帰国(上海に?)してから、なんとなくユウウツな日々が続いていました。(日記の更新も滞っていた...)実は私たちが加入している保険のことでちょっと××ってしまったんです。ちょうど10年前に入った生命保険の毎月の保険料の支払いが、今年の5月から11年目になり、そのままで更新するとびっくりするほどあがってしまうのです。特約を下げるとかで、安く抑えることはできるそうだけど、私はさっさと他の保険会社のものに変えてしまったのでしたー夫に相談しようにもいつもいないし、帰ってきてもすぐに帰るし...。エエィーめんどくせぇ~とばかり、勝手に解約し、あとは夫のサインを待つばかりにしておきました。春節に帰国した夫に話すとええええぇぇーー!!??と驚き、そして烈火のごとく怒ったのでした。(あたりまえですが~大汗)「もし、保険が切れている間になんかあったらどうするの!?」と、何回も言ったのでした。(そりゃそうだけど...。)でもここからなんです!私もキレてバトルになってしまったのは。何回も何回も同じことを言う夫に、だから、悪かったわ~って、私も何回も何回も言ってるでしょう!!と言い返したのでした。多分、夫は私たち家族のためを思って言ってくれているんでしょうけど。今までの夫なら、こんなにしつこく言わなかったのに。保険のことだからかな?それとも年のせい?(ヘンコになった?)そんなに責めることないでしょう!?と言ってはみたものの、夫のコーフンはおさまらず...なんということでしょう...(悲)今までなら春節でも労働節でも国慶節でも帰国なんてしなかった夫が最近、無理をしてでも帰ってくる...せっかく帰って来て、いろいろ話をしようと思っていたのに、(バカァ~!アホたれ~!おたんこなす~!!)悔し涙とともにその夜は一言も口を聞かず、眠りについたのでした、翌朝早く帰るというのに...。帰国の朝、夫は、「荷物少ないからバスで行くワ~」とだけ、言い残して我が家をあとにしました。「気をつけてネ...」玄関で見送りながら、それだけ言うのが精一杯でした。ドアが閉まると、なんだか涙があふれてきて声を出して泣いちゃいました...悪いのは私だってわかっているから。帰ってきた日にすぐ言えばいいのに、なかなか言いだせなくて、帰国する前日に言った私。家をあとにした夫の心の中はどんなだっただろう...そう思うと、私は胸がしめつけられるくらい苦しかったのでした。夫婦ってやっぱり時々、会って?おかないといけないのかな...今度いつ来る?となんども聞くようになった夫に対して、私はというと、これまでに何度も行ったのでちょっと飽きてしまってこれからは年に1回くらいでいいやん~♪なんて思うようになっていたのでしたー(笑)意思疎通のできない夫婦。悲しいかな...今の私たち。(夫はそこまで深く考えてないでしょうけどネ?)労働節はずして4月or5月に行こう、上海へ!! 夫に会いに♪今度はちょっと長く、ビザのいらない2週間にしよう!!きょうのいいお天気に私の気持ちも上昇気流!ようやく前向きになれたのでした。
2006年03月05日
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