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2009/06/12
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テーマ: 城跡めぐり(1260)
「高天神を制するものは遠州(遠江)を制する」とまで言われた高天神城では、徳川家康と武田信玄・勝頼父子による激しい争奪戦が繰り返されました。


その高天神城の縄張りは、東西の二つの峰にまたがった格好になっています。

高天神城城郭図.JPG
城郭は東西2つに分れ、東側の峰に本丸があります。


東峰の南側が大手になっており、当時は大手門と着到櫓があったようです。
高天神城大手門.JPG
大手門跡(城内側から見たところ)
1571年に武田信玄が攻めた際は、城の堅固さを見てここで退却しました。

大手から本丸に登る間にはいくつか曲輪があり、その曲輪の跡が残っていました。
高天神城三の丸跡.JPG
三の丸跡。
もちろん建物は後世になってから造られたものです。



高天神城御前曲輪跡.JPG
御前曲輪跡
「高天神戦国ロマンの里」と書いてありますが、これではロマン過ぎじゃないでしょうか。

高天神城的場曲輪跡.JPG
的場曲輪跡

的場曲輪の後側には、「大河内政局の石牢」があります。
高天神城大河内政局石牢.JPG

1574年に武田勝頼が徳川家康から高天神城を奪取しました。
その攻防戦で最後まで武田方に抵抗して高天神城に残っていたのが、徳川家康の家臣である大河内源三郎政局です。
結局大河内政局は武田軍によって捕らえられ、再び徳川家康が奪還する1581年までの8年もの間、幽閉されていたのがこの石牢です。
いくら忠義一徹な「三河武士」でもここに8年とは恐れ入ります。

高天神城奪還の後、大河内政局を救出した徳川家康は、多大な恩賞を与えて功を労ったと言われています。
ちなみにこれらのエピソードは、山岡荘八著「徳川家康」第7巻に書かれていますが、山荘の「徳川家康」の記述から想像していた石牢と、実際に見学したものは少し違っていました。


そして的場曲輪のすぐ上にあるのが、高天神城の本丸です。
高天神城本丸跡.JPG


本丸を降りたところには、西側の峰との分岐点がありました。
高天神城鐘曲輪.JPG
ここも独立した曲輪となっており、「井戸曲輪」と名付けられています。
井戸の跡があり、ここで水の手を確保していたのかも知れません。


西側の峰にもいくつかの曲輪の跡が残っていました。
曲輪の間には空堀や堀切があり、かなり堅固に造った印象があります。

高天神城二の丸空堀.JPG


高天神城二の丸堀切.JPG
堀切跡

西側の峰で最も高いところにある曲輪が西の丸で、現在は高天神社の境内になっています。

高天神城西の丸土塁.JPG
西の丸跡。
神社の背後には、ちゃんと土塁が残っていました。

高天神社の社殿は元々本丸にあったそうで、西の丸に移築したようです。
それにしても高天神城にはあちらこちらに鎮守のための神社があり、激しい争奪戦の歴史を物語っていました。


西の丸から尾根伝いに進むと、「馬場平」の曲輪に到着しました。
高天神城馬場平より遠州灘.JPG
ここからは遠州灘が一望できるはずだったのですが、あいにくの天気で全く太平洋が見えませんでした。


馬場平からの先は急な崖になっていますが、「甚五郎抜け道」と呼ばれる細い道がついています。
高天神城甚五郎抜け道.JPG
甚五郎抜け道

1581年に徳川家康が武田勝頼から高天神城を奪還した時、高天神城を守る武田方の横田甚五郎は、甲斐本国の躑躅ヶ崎の館に落城の報告をするべく、ここから険しい山道を馬で抜けて行きました。

大河内政局の石牢の話もそうですが、激しい争奪戦が展開された城だけに武勇伝も半端じゃありません。

本丸背後の搦め手は急な斜面となっており、オーバーハングした崖が迫ってくる感じでした。
高天神城搦め手門跡.JPG
搦め手門跡。
(それにしても薄気味悪い場所です)



駿河の今川氏滅亡後、高天神城には徳川家康方の小笠原長忠が城主となって入城しました。

今川氏の遺領については、武田信玄が駿河(静岡県東部)、徳川家康が遠江(静岡県西部)を分割して領有することで密約が成っていました。
しかしながら武田信玄が密約に反して徳川家康の遠江に侵攻したため、徳川家康と武田信玄は敵対するようになりました、

武田信玄は1571年に高天神城を攻めましたが、この時は堅固な高天神城に阻まれて、徳川方が守り切りました。

しかしながら、1574年に今度は武田勝頼が2万の大軍で攻め寄せ、この時はついに力尽きて武田勝頼に城を明け渡しています。
前述の大河内政局が幽閉されたのもこの時でした。

さらに武田勝頼が長篠の戦いで織田・徳川の連合軍に敗北すると、1581年に再び徳川家康が高天神城を奪還しました。
この時に大河内政局は救出され、横田甚五郎が「甚五郎抜け道」を使って脱出したのもこの時でした。

ちなみにこの時の武田方の高天神城城主は岡部元信、桶狭間で織田信長が今川義元を討ち取った時に一矢を報いて、義元の首級をもらい受けた人です。


徳川・武田の激しい争奪戦が展開されたのも、高天神城が堅固な城であった証拠だと思います。
最終的には、高天神を制した徳川氏が遠江を制していますが、まさに高天神を制するものが遠州を制したと言えるでしょう。





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最終更新日  2022/02/02 11:54:18 AM
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