全54件 (54件中 1-50件目)
畑宿から先の東海道は、石畳もよく残っていて、急坂も当時のままに残っていました。橿の木坂「東海道名所日記」には「けわしきこと 道中一番の難所なり」とあり、「おとこ かくぞよみける」として、灰色ウサギさんのコメントにもあったようにこう書かれていたそうです。「橿の木の さかをこゆれば くるしくて どんぐりほどの 涙こぼれる」橿の木坂を越えると須雲川沿いを行くようになり、現在は「須雲川自然探勝歩道」が旧街道を踏襲していました。山根橋甘酒橋まさに山を飛び、谷を越えといった感じですが、当時の箱根坂で活躍していたのが「雲助」です。雲助と言えば「足下を見る」の由来にもなったように、どうも胡散臭いイメージがありますが、実際はそうではなかったようです。雲助になるには三つの条件があってまず一番目、力が非常に強いことそして二番目、荷造りが上手いことさらに三番目、歌が上手いことだそうです。一番目は当たり前と言えば当たり前で、いきなり非力な雲助に登場されても困ったものです。それでもこの箱根の坂を生業とするには、並大抵の体力では無理かも知れません。二番目については、荷物を見れば誰が荷造りをしたかがわかったそうで、箱根で荷造りをしたものは、京都に着くまで荷物が壊れなかったそうです。三番目は意外ですが、箱根の厳しい山旅も、随分楽しい遊山になったのかも知れません。そんな多才な雲助たちが活躍した箱根の坂は、1つの坂を越えれば次の坂があるといった感じで、名前を変えながら次々に続いて行きました。猿滑坂「殊に危険 猿候といえども たやすく登り得ず よりて名とす」と記録にある難所です。追込坂追込坂を登り切ったところで古風な建物が見えてきて、「甘酒茶屋」に到着しました。当時は箱根だけで9軒の甘酒茶屋があったそうですが、現在残っているのはこの1軒だそうです。車道にも面して駐車場もあり、ドライバーもハイカーも一息ついていました。甘酒茶屋で一息つくと、石畳の雰囲気も変わって来て、元箱根が一段と近くなってきました。風が正面から吹いてくるようになり、芦ノ湖が近いことも実感できます。その元箱根近くの旧街道沿いに「お玉観音堂」があり、箱根関所の関所破りをして処刑された少女、お玉を祀った観音堂です。なぜお玉は関所破りをしなければならなかったのか、詳しいことはわかりませんが、少なくとも旧街道の片隅には、少女が命を懸けた歴史の跡が残っていました。そのお玉観音堂から見ると、二子山の山容がよく見渡せました。ところで、これまで「上二子山」と「下二子山」の2つで「二子山」だと思っていました。よく見てみると、上二子山と下二子山がそれぞれ双耳峰になっていて、全部で「四子山」になっていたようです。左が上二子山で右が下二子山こちらが上二子山そしてこちらが下二子山現在は上二子山、下二子山ともに自然保護のため入山が禁止されています、これまで箱根の山を歩いていて、「どうも二子山が多いな~」と思っていたのですが、「実は四つ子だったのね」と、ようやく謎が解けました。お玉観音堂を過ぎると権現坂の緩やかな登りとなり、いよいよ元箱根も近くなってきました。権現坂当時の旅人たちも、ここから芦ノ湖を眺めて一息ついたと言われています。そしていつか見たことのある木製の歩道橋を渡ると、箱根の杉並木の中へ飛び込んでいました。こちらも「いつか来た道」ですようやくここで東海道がつながりました。箱根宿の杉並木(2010年2月)東海道箱根宿の関連記事東海道箱根宿(元箱根)(2010年2月)→こちら箱根関所(2010年2月)→こちら箱根外輪山(箱根峠~湖尻峠)(2012年12月)→こちら
2013/08/24
コメント(2)
湯坂路から分岐して、旧東海道の箱根東坂にある畑宿へと下りてきました。畑宿から箱根の坂を下って湯本へ戻ることもできるのですが、ここは箱根の坂を登って元箱根に向かうことにしました。畑宿の旧東海道畑宿は小田原宿と箱根宿の間にある「間の宿」で、名物のそばや箱根細工などのお店が今も並んでいました。箱根寄木細工「すぎや」箱根細工の歴史については、戦国時代の小田原北条氏の頃から作られていたと記録にあるようです。畑宿の一里塚付近にある「桔梗屋」に入り、「名物」と書かれたとろろそばを食べてみました。好き嫌いはほとんどなく、とろろも嫌いではなのですが、そばだけで食べても美味しかったかも知れません。(納豆は苦手な方なのですが、なぜかとろろは大丈夫です)。ところで、とろろを広めたのはあのドケチのタヌキ親父T川I康だったと思いますが、東海道筋のとろろと言えば、鞠子宿の丁子屋が有名でしょうか。弥次さん喜多さんの「東海道中膝栗毛」にも登場し、広重の風景画にも描かれています。畑宿の一里塚からは旧東海道の石畳が残っており、当時を思いながら箱根の坂を登って行きました。実は畑宿から先の東海道は徒歩で通ったことがなく、これまでは文明の利器を使って箱根七曲りを登り下りしていました。道路脇から改めて見てみると、クレイジーとしかいいようがありません。旧街道の方は七曲りをショートカットしながら登って行くのですが、ドライバーからすればこちらの街道トラベラー方が狂気の沙汰なのかも知れません。
2013/08/23
コメント(4)
桑名にやって来たもう1つの目的が東海道桑名宿、約2年ぶりの東海道宿場町めぐりです。江戸日本橋から数えて42番目の宿場町で、宮宿(名古屋)との間には東海道唯一の海路である「七里の渡し」がありました。歌川広重「東海道五十三次 桑名 七里渡口」桑名城の石垣と幡龍櫓が描かれており、ここに桑名城の往時の姿を見ることができます。現在の七里の渡し船着場跡幡龍櫓が復元されて、国土交通省の水門管理事務所となっています。また、昭和34年の伊勢湾台風の後に堤防が築かれ、船着場の跡は揖斐川の堤防で囲まれていました。桑名宿は同じ七里の渡しの船着場があった宮宿に次いで、東海道五十三次の中でも2番目の規模があったそうです。何より嬉しいことは宿場町が城下町ともなっており、城跡めぐりと街道めぐりがセットで出来ることでした。数ある東海道の宿場町の中でも、城下町と宿場町がセットになっているのは小田原宿と小田原城・沼津宿と三枚橋城・府中宿と駿府城・掛川宿と掛川城・浜松宿と浜松城・吉田宿と吉田城・岡崎宿と岡崎城くらいでしょうか。(沼津と岡崎以外は、新幹線の駅があるのもまたよろし、と思われます)中でも桑名宿に関しては城と宿場町の間が近く、城郭の中心である本丸と宿場町の中心である本陣の距離は、500mも離れていないほどです。(城と宿場町が近いのは楽でいいのですが、桑名に関しては「こんなに近くて大丈夫かな?」と思ったほどでした)その桑名城の北大手のすぐ隣に七里の渡しの船着場があり、船着場からもすぐ近い所に本陣や脇本陣がありました。船着場からの旧東海道その船着場のすぐ隣に脇本陣があったので、とても便利でした。脇本陣「駿河屋」(現在は料理旅館「山月」)右の端にあるのが渡し場の碑です。その駿河屋のすぐ近くに本陣があり、大塚本陣の跡は料亭の「船津屋」となっていました。船津屋(大塚本陣)桑名宿には本陣が2軒あり、船津屋の大塚本陣と丹羽本陣がありました。桑名宿の旧東海道丹羽本陣付近七里の渡しの船会所や問屋場もこの辺りにあったようです。城跡と宿場町がほとんど同じ場所にあって、何かと便利な桑名宿でした。一度は訪れてみたかった桑名城と桑名宿を同時に見ることができ、すっかり満足して桑名を去った後、肝心なことに気付きました。「あっ、焼はまぐりを忘れた」関連の記事東海道~宮宿→こちら桑名城→こちら
2012/08/07
コメント(2)
東海道五十三次の宿場めぐりも、ようやく江戸日本橋から数えて41番目、五十三次の4分の3を超えてきました。(世の中には「4分の3症候群」なるものがあり、後半になると精神的な苦痛が出てくるそうです)宮宿の旧東海道は熱田神宮の南側を通っており、別名「熱田宿」とも呼ばれて、熱田神宮の門前町としても栄えていました。歌川広重「東海道五十三次 宮」当時の宮宿には、本陣2軒・脇本陣1軒と旅籠屋が248軒もあり、東海道最大の宿場町だったのですが、現在は戦災で宿場町は消失してしまい、往時の賑わいは遠い過去のような感じです。宿場町入口付近の旧街道道幅は当時のまま残っているようです。旧東海道も普通の生活道路に変わっていましたが、所々に史跡看板が立っていました。裁断橋と姥堂(いずれも復元)裁断橋は宮宿の東の外れを流れる精進川に架かっていた橋で、大正時代になって、地元の人によって擬宝珠がこの場所に移設されました。姥堂は1358年に創建されたもので、本尊である姥像は熱田神宮から移されたものです。太平洋戦争の戦災で焼失したため、平成5年に本尊が復元されています。裁断橋と姥堂の横には、「都々逸発祥之地」の碑もありました。由緒はよくわかりませんが、東海道とはあまり関係がなさそうです。宮宿の東海道は国道1号線と並行するように通っているのですが、現在は脇を通る普通の道路に変わっており、本陣付近の旧街道も裏道といった風情です。本陣跡付近の街道沿いには、ひつまぶしの発祥と言われる蓬莱軒があります。西へ向かってほぼ直線に続いていた東海道ですが、ほうろく地蔵の所で南へと向きを変えていました。ほうろく地蔵ここは美濃街道との分岐点でもあり、曲がり角には道標が残っています。道標が残っているだけでも奇跡のような気がします。南に方向を変えると、当時はすぐ目の前に海が広がっており、その先の東海道は海路となっていました。桑名宿までは「七里の渡し」となっており、その船着き場の跡が公園として整備されています。宮の渡し公園宮の渡し付近は賑わいをみせていたようで、この付近には熱田魚市場も置かれていました。1537年にはすでに魚問屋があり、織田信長の居城である清須城に毎日魚を運んでいたそうです。当時は目の前に伊勢湾が広がっていたのですが、現在の海岸線ははるか先にあります。宮宿の次は一気に飛んで伊勢国の桑名宿なのですが、なかなかピンとこないものです。関連の記事熱田神宮(2009年8月)→こちら
2010/09/05
コメント(0)
池鯉鮒宿から鳴海宿と続く東海道は、戦国の歴史を変える大舞台でもありました。1560年に起きた桶狭間の戦いで、織田信長が今川義元を討ち取った場所が、池鯉鮒宿と鳴海宿の間の東海道付近でした。東海道から目と鼻の先に、桶狭間の古戦場と伝えられる場所があり、史跡公園として整備されています。伝桶狭間古戦場跡(2009年8月)公園内には今川義元の墓所があり、公園近くにある高徳院は今川義元が本陣を置いた場所だとされています。今川義元墓所(2009年8月)桶狭間の戦場については諸説あって、ここから南西に約2km行った場所にも、桶狭間の古戦場跡とされる場所があります。今川義元軍は二手に分断されたため、どちらも織田信長軍との激戦地であったことは間違いないようです。鳴海宿の中心部は、名鉄名古屋本線の鳴海駅付近にあり、扇川に架かる中島橋を渡ると、宿場町へと入って行きました。狭い道幅の直線道路に旧街道の名残を感じます。宿場町に入ったすぐのところには瑞泉寺があり、京都宇治市の黄檗宗万福寺の総門を模した中国風の山門が見事でした。瑞泉寺は1396に創建された古刹で、1501年に現在の場所に移ってきました。鳴海の豪族であった下郷弥兵衛の援助によって、1755年に現在の堂宇が完成しています。鳴海宿には本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋が68軒あったのですが、本陣付近の街並みはすっかり変わっていました。道幅も少し広がったようです。本陣手前の誓願寺には芭蕉供養塔があり、芭蕉供養塔の中では最古のものと言われています。元禄7年(1694年)の銘文があります。誓願寺付近には札の辻があったようで、少し離れた場所に高札場が復元されていました。こうも新しいと、かえって有難味が薄れるように思います。それでも本陣から少し離れると、ところどころに旧家が残っており、何となく東海道を歩いているような気がしました。枡形も残っていました。歌川広重「東海道五十三次 鳴海」関連の記事桶狭間の戦い(2009年8月)→こちら東海道~池鯉鮒宿→こちら鳴海城→こちら
2010/09/03
コメント(2)
元々は「池鯉鮒」と書いて「ちりふ」と呼んだようですが、現在の地名は愛知県知立市と、表記も変わっています。日本橋から84里17町(約330km)あり、日本橋からは10日間ほどかかったそうです。幕末から明治にかけて、農業用に矢作川から取水した明治用水が造られ、現在も明治用水の跡が東海道沿いに残っていました。池鯉鮒宿の宿場町に入る手前には、約500mにわたって松並木が続いていました。池鯉鮒の松並木には、珍しく側道が設けられていたのですが、これは池鯉鮒で開催された馬市の馬を、松の木に繋ぐためだったと言われています。歌川広重「東海道五十三次 池鯉鮒」毎年旧暦の4月25日から5月5日になると馬市が行われ、このあたりが馬の産地でもあったことから、400~500頭の馬が売られていたそうです。馬市跡の碑また馬市の様子は歌や俳句にも詠まれたようで、松並木の途中に碑が建っていました。小林一茶「はつ雪や ちりふの市の 銭叺(ぜにかます)」万葉歌「引馬野爾 仁保布榛原 入乱 衣爾保波勢 多鼻能 知師爾」(引馬野に にほふ榛原入り乱れ 衣にほはせ 旅のしるしに)池鯉鮒宿の中心部に入ってみると、わずかに道幅だけが旧街道の面影を残している感じでした。本陣付近の旧街道宿場町の中心部を抜けたところには、三河国の二ノ宮である知立神社(池鯉鮒大明神)があります。知立神社の石橋「東海道名所図会」には、「石橋は神難の外にあり 名を御手洗という。片目の魚ありなん」と書かれているそうです。(片目の魚は、身代わりとして娘を目の病から救ったためとされています)また知立神社の境内には、重要文化財に指定されている多宝塔があります。850年に神宮寺が創建された時に建立され、後に知立神社の別当となりました。現在の多宝塔は1509年に再建されたものです。なお、知立神社は東海道三大社の1つだそうですが、あとの二つはどこの神社なのでしょうか。知立神社からしばらく行くと総持寺があり、徳川家康の側室「お万の方」の生誕地でもあります。総持寺の山門(上総勝浦城の正木頼忠の娘で、徳川頼宣(紀州徳川家)や徳川頼房(水戸徳川家)の母も「お万の方」ですが、こちらはもう一人の方で、結城秀康の母の方です)関連の記事東海道~岡崎宿→こちら知立城→こちら
2010/09/01
コメント(0)
江戸から数えて東海道38番目の宿場町が岡崎宿です。岡崎城の城下を通る旧東海道は「岡崎二十七曲がり」と呼ばれ、かぎ型に曲がった道が続いていました。現在の道は碁盤の目の形に整備され、かぎ型に曲がった道も十字路に変わっていますが、交差点には「二十七曲がり」の標識があり、それを辿って行くと東海道をめぐることができます。名鉄岡崎公園駅にある案内図現在の岡崎宿は戦災復興の整備によって、完全に市街地に変わっていました。本陣付近の旧東海道西本陣跡。コンビニに変わっていました。それでも道端には当時の道標などが残っており、街道の要衝であったことがうかがえます。足助街道との分岐点吉良道との分岐を示す道標中にはレトロな建物も残っていました。東海道沿いにある旧商工会議所赤レンガと花崗岩のルネッサンス風の建物で、大正6年に岡崎銀行本店として建てられました。岡崎宿を通る東海道は、岡崎城の北側を迂回するように格好になっています。一部は岡崎城の外堀沿いを通っており、岡崎城との間には門が置かれていました。外堀にあった籠田総門の跡。大手門跡岡崎藩の外来使を受け入れる「対面所」も置かれていました。岡崎城の西側まで来ると、八丁味噌で有名な八帖町(八丁町)へと続いていました。岡崎城から八丁(約870m)離れていることから名付けられ、現在も味噌蔵が並んでいます。せっかく岡崎に来たので、味噌煮込みうどんを食べてみました。名古屋で味噌と言えばこの赤みそですが、煮込んでも風味が落ちないのが特徴です。岡崎宿の西側には矢作川が流れており、矢作川には東海道最長の木橋である矢作橋が架けられていました。歌川広重「東海道五十三次 岡崎」岡崎城の天守が描かれており、矢作川を渡った西側からの構図だと思います。現在の矢作川矢作橋は鉄橋に変わっていますが、昔と同じく矢作橋を渡って岡崎宿を後にしました。関連の記事岡崎城→こちら
2010/08/30
コメント(0)
赤坂宿から藤川宿へ向かう途中の東海道沿いには、山中八幡宮という神社があります。1563年から起こった三河の一向一揆の時、徳川家康が逃げ隠れた場所です。桶狭間の戦い後にようやく今川氏から独立した徳川家康にとって、三河の一向一揆は、三方ヶ原の戦いと本能寺の変の後の伊賀越えと並ぶ三大危機の1つと言われています。藤川宿に入る手前には、宿場町の入口である「東棒鼻」の跡が復元されていました。宿場町の入口は「見付」とか「木戸」と呼ぶのが通常ですが、「棒鼻」と呼ぶのは初めてみました。東棒鼻跡当時は大名行列が宿場町入って来ると、本陣から名乗り出て棒鼻で出迎えたそうです。歌川広重「東海道五十三次 藤川」宿場町に入ると、昔ながらの格子戸の民家も残っていました。商家「銭屋」脇本陣も昔ながらの建物ですが、資料館として復元されていました。脇本陣(資料館)本陣だけは「現代風」でした。藤川宿本陣京都側の出入口である西棒鼻は過ぎると、岡崎宿へと続く松並木が残っていました。西棒鼻跡松並木の旧東海道関連の記事東海道~赤坂宿→こちら
2010/05/13
コメント(0)
御油宿と赤坂宿の間は距離にして1.7kmしかなく、東海道の宿場町でも最も短い間隔です。赤坂宿入口にある関川神社には、その短かさを詠んだ松尾芭蕉の句碑が建っています「夏の月 御油より出でて 赤坂や」夏の夜の短さと御油と赤坂の間の短さを詠んだものです。また「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」とか、「 御油や赤坂、吉田がなけりや、親の勘当受けやせぬ」などと謡われたように、吉田宿・御油宿・赤坂宿は歓楽街としても栄えた宿場町でした。歌川広重「東海道五十三次 赤阪」相当な賑わいだったようです。御油宿と同様に市街地から離れているため、現在の赤坂宿も閑散とした感じがありました。本陣付近の旧東海道本陣跡ところどころに格子戸の旧家が建ち並び、昔の街道筋の風情を残していました。中でもすごいのは、旅籠屋の「大橋屋」です。1716年建築の建物建物が現存しているだけでなく、1649年の創業以来現在も営業を続けています。(東海道の宿場町の中で、現在も営業をしているのは大橋屋だけです)関連の記事東海道~御油宿→こちら
2010/05/12
コメント(2)
江戸から数えて35番目の宿場町が、愛知県豊川市にある御油宿です。東海道見付宿(静岡・磐田)から分岐する「姫街道(本坂街道)」との合流点でもあり、最も多い時で本陣が4軒もあったそうです。見付宿にある姫街道の分岐点(御油宿の分岐点は見落としてしまいました)現在の御油宿は市街地から離れているため、ひっそりとした感じですが、所々に旧街道の名残がありました。格子戸の旧家が並ぶ旧東海道問屋場跡秋葉山信仰は遠江から三河に入っても健在なようで、秋葉灯篭も残っていました。御油宿に限らず、当時の宿場町では「留め女」と呼ばれる旅籠屋の女性が、旅人を引き入れようとして、盛んに声を掛けていました。歌川広重「東海道五十三次 御油」それでも特に御油宿や吉田宿は東海道では有名な繁華街として賑わったようで、広重の絵にも留め女の様子が描かれています。そしてこちらが現在の御油宿です。ひっそりとして閑静なたたずまいになっていました。そして御油宿と言えば、「御油の松並木」でも有名かと思います。国の天然記念物に指定され、現存する数少ない松並木です。関連の記事東海道~吉田宿→こちら
2010/05/11
コメント(0)
江戸から数えて34番目の宿場町が、愛知県豊橋市の中心部にある吉田宿です。江戸時代までは吉田の地名で呼ばれており、豊橋と呼ばれるようになったのは明治に入ってからのことです。江戸時代の吉田宿は、「吉田通れば二階から招く しかも鹿の子の振袖が」と謡われたほどの繁華街でした。吉田宿には「曲尺手(かねんて)」の地名が残り、当時は街道が曲がりくねっていたと思われますが、現在となってはアスファルトの道が碁盤の目のように整然と並んでいました。曲尺手町付近の旧街道現在となってはすっかり面影がなくなっていました。吉田宿には本陣が2軒あったのですが、そのうちの「清須屋」は現在うなぎの「丸よ」として営業されています。前日も浜松でうなぎを食べたのですが、やはりうなぎと聞くと入ってしまいました。遠江から三河に入ったこともあり、今回はひつまぶしです。(考えてみれば、これまでの東海道の記事で食べ物が登場したのはこれが初めてです)丸よのうなぎは皮を上にして乗せるそうで、これは全国でもここだけだそうです。さらには意外なルーツが丸よにあり、美人のことを「ベッピン」と言いますが、その語源となったのがこのお店です。明治時代のことですが、看板に鰻とも何とも書かず、ただ「頗(すこぶる)別品」とだけ書いていたところ、珍しい名前にみんな立ち寄って行きました。「すこぶる別品」は美味しいものを指す言葉となり、さらには美人のことを「ベッピン」と呼ぶようになって、現在に至っています。発展した都市の宿命ではありますが、旧東海道の面影は全くと言っていいほど残っていませんでした。仕方なく旧街道めぐりは早々に切り上げて、メインの吉田城へと向かって行きました。(吉田城の記事→こちら)吉田宿は吉田城の城下町としても栄えた町で、歌川広重も吉田城の櫓を描いています。歌川広重「東海道五十三次 吉田」豊川と豊橋も描かれていますが、右の御三階櫓は吉田城の鉄(くろがね)櫓だと思われます。吉田城の鉄櫓その吉田城跡である豊橋公園のすぐ南側を通っていると、ビザンチン様式の建物が目に入ってきました。1913年に建築された豊橋ハリストス正教会です。正式名称は「聖使徒福音記者マトフェイ聖堂」で、国の重要文化財にも指定されています。(他に重要文化財に指定されているハリストス教会としては、函館とニコライ堂があります)内部には山下りんのイコン画が描かれているそうですが、中に入ることは出来ませんでした。吉田宿から御油宿の間には豊川が流れており、旧東海道に架かる橋が「豊橋(とよばし)」で、豊橋の地名の由来にもなっています。矢作橋(愛知・岡崎)・瀬田の唐橋(滋賀・大津)と並ぶ、東海道三大橋の1つです。関連の記事吉田城→こちら
2010/05/10
コメント(0)
思えば三島宿から白須賀宿まで、長い長い静岡県の東海道でした。(東海道五十三次のうち、最多の22宿が静岡県にあります)とは言え、そもそも江戸時代には静岡県という概念はないので、あくまでも伊豆・駿河・遠江の3国だったのでしょうが…白須賀宿を過ぎるといよいよ遠江を出て、三河国は二川宿に入ってきました。(現在の地理においても、静岡県からようやく愛知県です)現代住宅と旧家が混在する二川宿の旧東海道二川宿に入ると、街道沿いのあちらこちらに昔ながらの家屋が並んでいました。脇本陣こちらも脇本陣ですそして何より驚きだったのは、本陣が現存していることでした。二川宿に限らず、本陣は地元の有力者が代々経営するものですが、二川宿の場合は火災によって二度も本陣が消失し、その度に本陣の経営が変わって行きました。最後に残った馬場本陣昭和60年に馬場氏から豊橋市に本陣の敷地・建物が寄付され、その後の改修・復元によって、今では本陣の内部を見ることができます。これまで東海道の宿場町をずっと見て来ましたが、本陣の中まで入って見るのは初めてです。(そもそも本陣が残っていること自体が珍しいことですが…)さらにありがたいことに、本陣の隣に旅籠屋まで復元されていました。旅籠屋「清明屋」の内部ちょうど旅籠屋に着いた旅人が足を洗っているところで、リアル感がありすぎです。旧東海道ではマイナーな宿場だったかも知れませんが、ちょっと江戸時代にタイムスリップしたような気分でした。歌川広重「東海道五十三次 二川猿ヶ馬場」これだけ当時の面影が残っている二川宿ですが、結局この構図がどこなのかわかりませんでした。それにしてもさすがは街道名物、当時は柏餅屋があったようです。関連の記事東海道~白須賀宿→こちら
2010/05/08
コメント(0)
新居宿を過ぎると、旧東海道は遠州灘の海岸近くを西へと延びて行き、旧街道らしい長い直線道路沿いには、旧家も残っていたりしました。元々はこの辺りは「元白須賀」と呼ばれ、白須賀宿の中心部のあった場所です。1707年の地震による大津波で、白須賀宿は壊滅的な被害を受けました。その津波が襲う前夜、岡山藩主の池田綱政が白須賀宿本陣に宿泊していたのですが、夢枕に観音様が立って「この地に大危難あり、早々に立ち去れ」とのお告げがあったそうです。池田綱政の一行は急ぎ本陣を離れたため、難を逃れたと言います。元白須賀から高台に通じる途中にある蔵法寺には潮見観音が祀られていますが、池田綱政は観音様のご加護に感謝して、分身を邸内に祀って厚く信仰したそうです。蔵法寺の潮見観音津波で大打撃を受けた白須賀宿の宿場町は、潮見坂の高台の上に移って行きました。(同じく津波で宿場町が移動したものに、興津宿があります)京都から江戸に向かって東海道を上って行くと、潮見坂で初めて太平洋が見えたそうで、歌川広重も潮見坂からの太平洋を描いています。歌川広重「東海道五十三次 白須賀」こちらが現在の潮見坂です水平線がうっすらと見えていました。潮見坂を登ったところには「潮見坂公園」があり、「おんやど白須賀」という旧家が建っていました。後になって建てられたものだと思いますが、中は無料の案内所になっていました。潮見坂公園は、織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張に帰る途中、徳川家康が茶亭を建ててもてなした場所でもあります。ここからは眼下に太平洋を望むことができました。潮見坂公園から見た太平洋旧東海道は再び西へと延びて、後から移った宿場町へと入って行きますが、宿場町の入口には「曲尺手(かねんて)」の跡が残っていました。「枡形」の呼び名の方が一般的だと思うのですが、遠江・三河では曲尺手の地名をよく見かけました。曲尺手や枡形は宿場町に直線進入できないための防御設備でもありますが、大名同士がすれ違わないようにするための役割も持っていました。当時は大名同士がすれ違うと、格式の低い大名は駕籠から降りて挨拶をしなければなりませんでした。しかしながら主君を駕籠から降ろすことは、先頭を行く供頭にとっては失態に当たります。そこで曲尺手まで先行して確認し、格の高い大名が来たならば、休憩を装って近くの寺に避難していたそうです。曲尺手を過ぎて宿場町に入ると、昔ながらの旧家が建ち並んで、旧街道の風情を残していました。本陣付近宿場町を過ぎると、遠江と三河の国境を流れる境川を渡り、遠州を離れて三州は二川宿へと入って行きました。関連の記事東海道~新居宿→こちら
2010/05/07
コメント(0)
舞阪宿から今切の渡しで浜名湖を渡ると、江戸幕府によって設けられた今切関所(新居関所)を通らなければなりませんでした。江戸時代には箱根関所と今切関所で、「入り鉄砲に出女」を取り締まっていました。(実際には今切が「入り鉄砲」で箱根が「出女」と、役割分担が決められていました)東海道の他にも関所はいくつか設けられましたが、数ある関所の中でも建物が現存しているのは今切関所だけです。浜名湖の地形が変わったため、現在の今切関所は浜名湖の湖岸から1kmほど陸に入ったところにあります。江戸時代の今切関所は浜名湖に面していて、関所には船着場が設けられていました。関所の横には、船着場の跡が残っていました。船着場跡また今切関所から少し南に行った場所には「船囲い場」があり、常に120艘ほどの船が係留されていたそうです。船囲い場跡(道路のところが岸壁です)大名の通行などで渡し船が必要になった時は、「寄せ船」制度によって近隣から船が集められました。今切関所を過ぎると、すぐに新居宿の中心地へと入って行きました。弥次さんと喜多さんも食べた街道名物の柏餅を食べながら、宿場町を歩いてみました。旅籠屋「紀伊国屋」(紀州藩御用達の旅籠屋だったそうです)飯田本陣疋田本陣跡本陣付近で旧東海道は左に大きく曲がり、南へと延びていきます。遠州灘の海岸近くで再び西に向かい、海岸に沿うようにして白須賀宿へと向かって行くのですが、白須賀宿に入る前に少し寄り道をしました。関連の記事東海道~舞阪宿→こちら
2010/05/05
コメント(0)
浜松宿で一泊し、翌朝再び東海道を西へと向かって行きました。浜松の西には浜名湖が広がっており、現在の東海道新幹線・東海道本線・国道1号線は浜名湖の南端を橋で渡っていきます。(東名高速だけは浜名湖の北側を迂回しています)旧東海道も浜名湖の南端を通っていたのですが、当時は「今切の渡し」と呼ばれる渡し船で浜名湖を渡っていました。その浜名湖の渡しの江戸側(東側)の宿場町が舞阪宿で、浜松宿から遠州灘沿いに続く旧街道には、今も松並木が残っています。宿場町の中心は浜名湖畔に近い場所にあり、本陣前の旧街道からは浜名湖を望むことができました。徳右衛門本陣と伝左衛門本陣前の旧街道。浜名湖はすぐ目の前に広がっています。本陣の向かい側には脇本陣「茗荷屋」が復元されていました。内部には当時の書院が残っており、中に入って見ることもできるのですが、まだ開いていませんでした。元々浜名湖の南端は陸続きになっていて、浜名湖も完全に海から遮断されていました。1499年の大地震で陸が切れ、太平洋とつながったので「今切」と呼ばれるようになっています。江戸時代にはすでに陸続きではなくなっていたため、「今切の渡し」を使って浜名湖を横断していました。歌川広重「東海道五十三次 舞坂今切真景」(描かれている山は舘山寺でしょうか)舞阪宿から対岸の新居宿までの約1里を渡し船で渡っていたのですが、現在も渡船場の跡が残っています。北雁木跡。雁木(がんげ)は城郭ではおなじみですが、階段状になった石垣のことです。舞阪宿には渡船場が三ヵ所あり、主に荷物の積み下ろしをする「渡荷場」、一般の旅人が利用する「本雁木」、そして大名や幕府役人が利用する「北雁木」がありました。舞阪と新居の間にはうなぎの養殖場や温泉のある弁天島が浮かんでいますが、現在は埋め立ても進んでほとんど陸続きのような感じです。東海道新幹線・東海道本線・国道1号線が寄り添うように集まっており、弁天島公園のすぐ後ろを東海道新幹線が通過して行きました。弁天島の公園から眺めると、東海道新幹線の車窓ではおなじみの光景が広がっていました。鳥居と浜名大橋(実は2日前に出張で名古屋に行ったので、ここを通過したばかりです)関連の記事東海道~浜松宿→こちら
2010/05/04
コメント(0)
見付宿から天竜川を渡ると、浜松宿へと入って行きました。浜松宿は浜松城の城下町として栄え、本陣が6軒、旅籠屋が94軒もあった静岡県(駿河・遠江)最大の宿場町でした。現在の浜松市も人口・面積ともに県庁所在地である静岡市を上回って、静岡県最大の都市になっています。しかしながらこのように発展した都市の宿場町にはありがちなことですが、旧街道の面影は皆無と言っていいほどです。浜松城大手門の旧街道(連尺交差点)浜松城の大手門からが宿場町の中心部なのですが、見る影もありませんでした。高札場跡本陣のあった場所も、今や普通の道路沿いの光景に変わっていました。佐藤本陣跡梅屋本陣跡国学者賀茂真淵の生家が近くにあり、現在は賀茂神社が祀られています。毎年5/3~5/5に浜松まつりが行われ、この日(5/2)は前夜祭のような感じでした。市内のあちらこちらには山車が出ていました。力連の山車都市開発の影響もあるのですが、浜松に限らず戦災によって史跡が失われてしまったのは、何とも残念です。歌川広重「東海道五十三次 浜松」有名な「浜松冬枯れの図」ですが、当時はこんなのどかな光景だったとは、想像もできません。御三階櫓が描かれていますが、浜松城でしょうか。東海道の旅人と同じく、この日は浜松で一泊することにしました。関連の記事東海道~見付宿→こちら浜松城→こちら
2010/05/03
コメント(0)
前回の袋井宿で止まっていた東海道五十三次めぐりを再開、江戸から数えて28番目の宿場町である見付宿に来ました。東海道五十三次も半分を過ぎ、ここから先はいよいよ後半に突入です。街道宿場町の出入口を「見付」と呼びますが、見付宿の名前はこの見付から来たのではなく、京都から東海道を上ってくると、最初に富士山が見えたことに由来しています。江戸方の出入口である「江戸方見付」の東木戸跡東木戸脇には阿多古山があり、その斜面を下るような感じですが、富士山は見えませんでした。阿多古山には一里塚があり、愛宕神社が祀られていました。阿多古山一里塚愛宕神社神社の裏手には土塁や空堀の跡のようなものが見受けられたのですが、もしかして城跡なのでしょうか。その愛宕神社の境内から振り返ると、見付宿の宿場町を眼下に見ることができました。旧東海道は愛宕神社から西へと延びているのですが、旧街道に下りてみると、当時の面影はほとんど残っていませんでした。問屋場跡(静岡銀行の支店になっています)本陣跡本陣前の旧東海道それでも街道沿いを見ていると、ところどころに旧街道の面影が残っていました。秋葉山信仰が盛んな静岡県西部の旧東海道では、この秋葉灯篭をよく見かけます。脇本陣跡(といっても薬医門だけですが…)旧街道から少し足を延ばすと、さすがに東海道には歴史の跡が残っていました。脇本陣の少し江戸よりには宣光寺というお寺があり、徳川家康が寄進した梵鐘があります。幕府を開く前の1587年に寄進したもので、「源家康」の文字が刻まれています。また日本人で初めて空を飛んだとされる、「鳥人」浮田幸吉も見付宿に住んでいたようです。浮田幸吉が空を飛んだのは、江戸時代のことです。さらに本陣跡の奥に行くと、現存する日本最古の木造小学校である「旧見付学校」がありました。1875(明治8)年に完成し、大正11年まで小学校として使われていました。校舎の土台にある石垣は、横須賀城の玉石垣を流用したものです。宿場町の中心部を過ぎると、旧東海道は左に大きく曲がって、南へと延びる形になります。そのまま真っすぐ西へ向かうと「姫街道」となり、曲がり角が姫街道のスタート地点です。「これより姫街道 三州御油まで」姫街道は、その名の通り女性が多く利用した街道です。理由は浜名湖の「今切の渡し」を嫌ったとも、新居宿の新居関を嫌ったからだとも言われています。いずれにしても浜名湖の北部本坂峠を迂回するルートで、「本坂道」や「本坂街道」が正式名称です。姫街道次に姫街道と合流するのは、遠江国(静岡)ではなく、三河国(愛知県)です。姫街道の分岐点で南に折れた旧東海道は、遠江国分寺の前を過ぎると再び西に向かい、天竜川へと続いて行きます。天竜川の川幅は約1kmあり、あの大井川と同じくらいの川幅をもっています。大井川は川越人足によって渡っていましたが、天竜川の方は船で渡っていました。歌川広重「東海道五十三次 見附」天竜川の渡船の運営は、池田村が独占しており、当時は大番船6艘、小番舟22艘、高瀬舟が10艘もありました。「大井川ではあれだけ大騒ぎだったのに、天竜川ではあっさり船で渡るのか…」といった感じですが、天竜川は水深があるため、川越人足で越えるのは難しかったようです。現在の天竜川さすがに「暴れ天龍」の流れとあって、大井川に比べると水深も流量も多い感じがします。やはり天竜川に橋を架けるのも難しかったようで、池田橋が架けられたのは明治に入った1875年のことです。当時の池田橋の跡には、その碑が建っていました。天竜川を越えると、いよいよ浜松宿へと入っていきます。関連の記事遠江国分寺→こちら三方ヶ原の戦い~一言坂(2008年4月)→こちら(姫街道沿いにあります)東海道~袋井宿(2010年1月)→こちら
2010/05/02
コメント(0)
「箱根の山は天下の嶮 函谷關もものならず」と歌われる「箱根八里」は、東海道最大の難所として知られてきました。「箱根八里」とは、小田原宿から箱根宿までの四里と箱根宿から三島宿の四里を合わせたもので、小田原~箱根が「箱根東坂」、箱根~三島が「箱根西坂」とも呼ばれています。駒ケ岳から下りて来た後は、箱根宿の旧東海道を見て回ることにしました。(当初は元来た道を引き返して、大涌谷の方へ下りる予定だったのですが、予定より時間と体力が余ってしまったため、大幅に予定変更です)箱根宿の中心部は芦ノ湖畔にあり、元箱根の入口付近には石畳が続いていました。雪や雨が降ると歩くのが困難になるため、江戸時代になってから石畳が敷かれたそうです。その石畳を下りた先には杉並木も保存されており、旧街道の風情が残っていました。杉並木一里塚また箱根は地蔵信仰の霊地として、東海道の旅人の信仰を集めた場所でもあります。芦ノ湖畔の旧街道沿いには「賽の河原」と呼ばれる場所があり、数々の地蔵が並んでいました。賽の河原箱根の旧東海道は芦ノ湖畔を通っており、ここから見る富士山は「逆さ富士」としても有名な場所です。駒ケ岳では見えなかった富士山ですが、芦ノ湖では見ることができました。歌川広重の浮世絵にも、芦ノ湖畔からの眺めが描かれています。芦ノ湖畔であることは間違いないのですが、描かれた場所を比定できませんでした。(真ん中手前の山は駒ケ岳でその奥が神山だと思われます)さらにこの浮世絵を見てふと思ったのですが、成層火山がいくつか描かれています。左の方に小さく描かれているのが富士山で、右側の2つは箱根の外輪山だと思います。明神ヶ岳と金時山だと思うのですが、江戸時代は富士山のような成層火山の形をしていたのでしょうか。箱根の旧街道には箱根関所があり、その箱根関所が復元されています。(箱根関所の記事→こちら)元々の箱根の中心部は元箱根にあったのですが、関所の設置に反対した住民が本陣の提供を拒否したため、関所の京都側に新たに宿場町を造ったそうです。(江戸幕府が最高権力を握っていた当時を考えると、箱根の住民は相当な力を持っていたようです)新しい宿場町には、小田原や三島から住民が強制的に移住させられ、現在も小田原町・三島町の地名が残っています。本陣付近の東海道本陣跡には引き続き旅館が建っているものの、現在となってはほとんど宿場町の面影がありませんでした。ここから三島方面へ向かうと、いよいよ最大の難所である箱根峠が待ち構えています。箱根湯本から三島まで、いつかは旧東海道を走破しようと思いつつ、今回はあっさり断念しました。まだまだ勝負はこれからです。関連の記事箱根関所跡→こちら駒ヶ岳→こちら小田原宿(2009年9月)→こちら三島宿(2009年10月)→こちら山中城(2009年4月)→こちら
2010/02/22
コメント(2)
江戸時代に入ると全国53ヶ所に関所が設けられましたが、中でも中山道の木曽福島・碓氷、東海道の新居そして箱根の4ヶ所は規模も大きく、重要な関所と位置付けられていました。箱根関は芦ノ湖畔の東海道沿いにあったのですが、現在はその箱根関所が復元されています。江戸口御門足軽番所関所破りの罪人を拘置する「獄屋」も復元されていました。足軽番所の内部旧東海道を挟むようにして番所が並んでおり、足軽番所の向かい側には「大番所」が建っていました。大番所大番所の中にある「面番所」箱根関には、「伴頭」と呼ばれる関所の責任者と伴頭を補佐する「横目付」が1名おり、その他にも定番人が3名と足軽が15名いました。「入り鉄砲に出女」と言われますが、実際に箱根関では入り鉄砲の検査は行われず、「出女」の検査が行われていたようです。それでも大名の家族が江戸を出て行かないよう、「出女」の取締は厳重に行われていました。そのための「人見女」と呼ばれる女性の検査官が置かれ、身体的な特徴まで入念に調べていたようです。大番所の上の間には、通行人を威嚇するため鉄砲や弓がずらりと並んでいました。あくまで威嚇のために置かれたもので、実際に鉄砲には弾が込められておらず、弓にも矢がありませんでした。また芦ノ湖や街道の外を通る関所破りを監視するため、関所の上には「遠見番所」が置かれていました。遠見番所遠見番所からは関所全体がよく見渡せますが、今は芦ノ湖のビューポイントになっています。遠見番所から見た箱根関と芦ノ湖関連の記事足柄関跡(2009年9月)→こちら箱根の東海道が開通するまでは、こちらがメインでした。
2010/02/21
コメント(4)
東海道のちょうど真ん中、江戸日本橋から数えて27番目、京都三条大橋から数えても27番目の宿場町が袋井宿です。(ずいぶん遠くへ来た感がありますが、まだ半分です)掛川宿から袋井宿の間には松並木が続いており、往時の東海道の雰囲気が残っていました。松並木を支える土塁も残っています。一里塚原野谷川の支流に架かる「天橋」が宿場町の東の入口で、「これより袋井宿」の道標が建っていました。天橋付近の光景は広重の浮世絵にも描かれています。歌川広重「東海道五十三次 袋井」こちらが現在の天橋付近です。広重の浮世絵をモチーフにした「どまん中茶屋」がありました。天橋を渡ると、袋井宿の中心部へと入って行きました。袋井宿の旧東海道東本陣の跡東海道から少し外れた所には観福寺というお寺があり、「へそ寺」とも呼ばれています。793年に建立された古刹で、山号の袋井山は袋井の地名の発祥とされています。関連の記事東海道~掛川宿→こちら
2010/01/30
コメント(0)
再び遠州掛川にやってきました。前回は掛川城が目的で、今回は東海道掛川宿が目的です。(「バカも休み休み」とはこのことでしょうか)今回は日坂宿から東海道を下って掛川宿に向かったのですが、途中の旧東海道には一里塚や常夜燈が残っていました。馬喰橋の一里塚常夜燈江戸時代の掛川宿には城下町特有の「七曲がり」があり、宿場町の中心部へは直線侵入できないようになっていました。現在は七曲がりも碁盤の目に整備されていますが、それでも所々にその名残を見ることができます。七曲の1つ東番所跡七曲りを過ぎると、掛川城の大手付近を直線状に通るようになりました。やがて見覚えのある場所に来たのですが、掛川宿の宿場町と言うよりも、やはり掛川城の城下町と言った感じです。塗籠の海鼠壁が城下町風情を漂わせていました。銀行の支店までがこんな感じです。掛川宿の中心地である本陣付近から見ると、掛川城の天守と太鼓櫓がそびえるように建っていました。掛川城は山内一豊によって築城され、「東海の名城」と呼ばれています。天守は後に復元されたものですが、全て木造で復元されたもので、二の丸には御殿が現存しています。掛川城の記事→こちら掛川城の本丸には立派な天守が復元されていますが、掛川宿の本陣は散々な扱いで、本陣跡はコインパーキングになっていました。掛川宿本陣跡本陣付近の旧東海道掛川城が東海の名城と呼ばれるのとは裏腹に、東海道の掛川宿は面影がほとんど残っていませんでした。尾張名古屋と同じく、遠州掛川も城でもつのでしょうか。関連の記事東海道~日坂宿→こちら東海道~袋井宿→こちら掛川城→こちら
2010/01/29
コメント(0)
金谷宿と日坂宿の間には、箱根峠・鈴鹿峠と並んで東海道の三大難所として知られる「小夜の中山」があります。牧之原台地に至る金谷坂を登ったかと思ったら、さらにアップダウンの激しい道が続いていました。この東海道屈指の難所であるこの急坂は、歌川広重の浮世絵にも描かれています。広重の浮世絵はデフォルメが多いのですが、小夜の中山は本当にこんな感じです。その小夜の中山を越える旧東海道は、今も旧道の道幅を残しながら続いていました。その旧街道の途中には久延寺という山寺がありますが、掛川城主であった山内一豊が、関ヶ原に向かう徳川家康を接待した場所でもあります。久延寺山門。山内一豊はここに茶室を設けて徳川家康を接待したのですが、その久延寺境内には、曲亭(滝沢)馬琴の「石言遺響」に出てくる「夜泣き石」があります。夜泣き石山賊に殺された妊婦の霊がこの石に乗り移り、夜毎に泣いたことから「夜泣き石」と名付けられました。山内一豊がこの伝説を知っていたのかどうかはわかりませんが、すごい所で接待したものです。この辺りの旧街道は、当時の面影をそのままに、ずっと細い一本道が続いていました。小夜の中山の旧街道途中には江戸日本橋から五十二里目の一里塚が残っていました。小夜の中山の難所を過ぎ、急坂を下った先には日坂宿の宿場町が続いていました。静岡県の旧東海道ではおなじみの標識です。本陣1軒と脇本陣が1軒ずつ、旅籠屋は33軒ほどの小さな宿場町ですが、大井川の川留めの時などは、かなり賑わっていたそうです。扇屋本陣跡日坂宿には今も旧家がいくつも残っており、軒先には昔ながらに屋号の看板が掛っていました。日坂宿最後の問屋役を務めた「藤文屋」旅籠屋「川坂屋」日坂宿の建物は1852年の日坂宿大火で焼失してしまいましたが、川坂屋はその後の江戸時代末期に建てられています。その川坂屋の先には、高札場も復元されていました。ようやく大井川の難所を越えたかと思うと、さらには小夜の中山の難所が待ち構えていたため、昔の旅人たちは息つくひまもなかったのではないでしょうか。関連の記事東海道~金谷宿→こちら東海道~掛川宿→こちら
2010/01/28
コメント(0)
島田宿から大井川を渡ると、金谷宿に入って行きます。島田宿も金谷宿も同じ静岡県島田市にあるのですが、大井川を挟んで島田宿は駿河、金谷宿は遠江にあり、金谷宿は遠州最初の宿場町となります。金谷宿の旧街道本陣は大井川に近い東よりにあったようで、現在は書店に変わっていました。金谷宿の佐塚本陣跡(それでも屋号は同じです)金谷宿を通る東海道は短くて、本陣があったかと思うとすぐに上方の入口跡に着きました。江戸時代には「西入口土橋」や「金谷大橋」と呼ばれ、長さ10mの土橋が架かっていたそうです。ようやく大井川の難所を渡り終えたかと思うと、今度は「金谷坂」の急坂が待ち構えています。牧之原台地へと続く金谷坂金谷坂の旧街道では、一部石畳が復元されていました。「平成の道普請」で築かれた石畳です。東海道からは少し外れますが、牧之原台地の上には「牧之原公園」があり、眼下に大井川を眺めることができます。大井川と駿河湾(まだ遠州灘ではなさそうです)大井川の上流部に目を向けると、南アルプスの連山が白く見えていました。再び東海道に戻って金谷坂の石畳を登り切ると、今度は一面の茶畑の中を行くようになりました。ふと「あら?見覚えがあるな…」と思っていたら、このまま諏訪原城へと続いていました。諏訪原城は築城の名手馬場信春によって築城され、武田流築城術の三日月堀などが随所に残っています。(一見の価値がある名城です)諏訪原城の記事(2009年6月)→こちら諏訪原城を訪れた時は全く知らなかったのですが、目の前の細い道が実は旧東海道でした。諏訪原城を通り越してしばらく行くと、今度は菊川へと下る坂道となりました。こちらも石畳が復元されています。やはり「平成の道普請」で復元されたものですが、旧街道で石畳が残っているのは、中仙道の十曲峠、東海道の箱根峠と金谷坂だけだそうです。金谷宿から次の日坂宿までの間はアップダウンの激しい難所が続くため、宿場町の間の菊川に「間の宿」が置かれていました。間の宿「菊川」の旧街道当時は旅籠屋がずらりと並んでいたそうです。1221年に後鳥羽上皇が鎌倉幕府追討の院宣を出した「承久の乱」の時、上皇側について捕らえられた藤原宗行は、鎌倉へ護送される途中で菊川宿に泊まりました。さらには1324年の後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕計画「正中の変」では、後醍醐天皇方について捕らえられた日野俊基が、やはり鎌倉へ護送される途中に菊川宿に泊まっています。鎌倉へ護送される途中で死期を覚った藤原宗行は菊川宿に詩を書き残し、日野俊基は藤原宗行を追悼して歌を書き残しています。「昔は南陽県の菊水下流を汲みて歳を延ぶ今は東海道の菊川西岸に宿りて命を失う」(藤原宗行)「いにしへも かかるためしを 菊川の 同じ流れに 身をやしづめん」(日野俊基)同じ無念の思いを残したのが菊川宿とは、何とも言えない運命を感じますが、藤原宗行の110年後、そして日野俊基の9年後、足利尊氏や新田義貞、楠木正成たちの活躍により、鎌倉幕府は滅亡しています。関連の記事東海道~島田宿→こちら東海道~日坂宿→こちら諏訪原城(2009年6月)→こちら
2010/01/27
コメント(0)
島田宿の西側には東海道有数の難所、遠江との国境を流れる大井川があります。現在も「大井川川越遺跡」として、当時の町並みが保存され、旧街道の面影を残しています。大井川は氾濫を繰り返して来ましたが、1604年の慶長の大洪水では川除堤が決壊して島田宿が押し流されてしまいました。その後の治水と灌漑工事によって、1644年までに灌漑用水と大堤が完成したのですが、今もその一部が残っています。大井川大堤江戸時代になって街道が整備された後も、大井川に橋を架けることは禁止され、駕籠・高台・肩車などで川を渡る必要がありました。1696年から大井川の川越は本格的に管理・統制されるようになったのですが、その川越を管理していた場所が「川会所」で、現在も建物が移築・現存しています。川会所右が水深を測って賃銭を決定する「川庄屋」で、左が賃銭の取立てや川越人足の管理をする「年行事」です。さらには当時の川越で使われた蓮台や籠も展示されていました。半高欄蓮台高欄蓮台駕籠一般的には川越人足の肩車で渡っていたそうで、棒につかまって渡る「棒渡し」などもあったそうです。当時の大井川の水深は平均76センチもあったそうで、当時の川越はまさに命がけでした。大井川手前の旧街道この道の向こう側には、大井川の難所が待ち構えています。広重の浮世絵にも、当時の川越の様子が描かれていました。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」の意味がわかるような気がします。現在の大井川無事に大井川を渡ると、いよいよ遠州に入って行きます。関連の記事東海道~島田宿→こちら東海道~金谷宿→こちら
2010/01/26
コメント(0)
いよいよ東海道も駿河国最後の宿場町である島田宿まで来ました。問屋場付近の旧東海道常備人足が136人、伝馬は100頭もいたそうです。その問屋場跡には、島田刀匠碑も建っていました。島田刀匠碑島田の刀鍛冶は室町時代からの歴史を持ち、戦国時代には武田氏や徳川氏の高い評価を受けて、多くの刀鍛冶集団が形成されてきました。刀剣のその名を残す名刀も島田から数多くが生み出されています。刀剣もさることながら、島田と言えば「文金高島田」に代表される「島田髷」の発祥の地でもあります。江戸時代の全国的に流行した島田髷も、元は島田宿が発祥でした。そんな名高い歴史を持つ島田宿の旧東海道をさらに西へ進むと、大井神社へとやって来ました。大井神社境内には、東海道の常夜燈が解体復元されています。当時の部材を利用して、1年以上の歳月をかけて復元されたものです。大井神社では「日本三大奇祭」の1つである、「島田の帯祭り」が10月中旬に行われます。元々は3年に1度のお祭りだったのですが、他町村から嫁いできた花嫁が大井神社に参詣した後、帯だけを大井神社に飾って島田宿の人たちに披露したのが始まりです。現在では大名行列の後に続いて、25人の「大奴」が晴着の帯を披露するそうです。境内の大奴像これも島田髷なのでしょうか。大井神社の参道には石垣が積まれていますが、大井川の川越人足が河原から持ち帰った石を積んだものだそうです。てっきり現代になって積まれたものだと思っていたら、ちゃんとした野面積みの石垣でした。(横須賀城の玉石垣みたいですが、横須賀城は天竜川の川原石を野面積みにしたものです)大井神社から少し西へ行った旧東海道沿いには、大善寺があります。大善寺本堂大善寺の鐘は、島田宿に時刻を告げる「時の鐘」として親しまれてきました。大善寺鐘楼大善寺を過ぎたあたりが「上方見付」、島田宿の宿場町もここで終わりです。上方見付跡駿河の宿場町もここで終わり、この先にはいよいよ大井川の川越が待ち構えています。関連の記事東海道~藤枝宿→こちら大井川川越遺跡→こちら東海道~金谷宿→こちら
2010/01/25
コメント(0)
東海道の岡部宿から続く松並木を抜けると、江戸から数えて22番目の宿場町である藤枝宿へと入っていきます。藤枝宿へ続く松並木藤枝宿の東の入口である東木戸跡東木戸の近くには成田山新護寺がありますが、鎌倉時代には「左車山休息寺」という変わった名前で呼ばれていました。鎌倉時代に後嵯峨上皇の皇子である宗尊親王が、6代将軍になるため京都から鎌倉に向かう途中、乗っていた車の左車輪が壊れたため、修理のためにここに立ち寄りました。元々は照光院という名前でしたが、以後は左車山休息寺と名付けられ、今も左車の地名が残っています。戦国時代の戦火で焼失して廃寺同様でしたが、成田山の分身を勧進して、今は静岡県唯一の成田山となっています。藤枝宿の旧街道は商店街となっていましたが、道沿いに置かれた常夜燈がわずかに旧街道の面影を残していました。復元された鬼島建場の常夜燈蓮正寺境内に残る秋葉灯篭宿場の西の方に宿場町の中心があったのですが、問屋場の跡は交番になっていました。今はすっかり変わってしまいましたが、広重の浮世絵に描かれたのが、この問屋場です。本陣付近には、駿河記にも書かれた神明神社や、日蓮が植えたとされる「久遠の松」がある大慶寺があります。「昔蓮華池畔岩田山の宮社をここに奉還す」との記述がある神明神社大慶寺山門1253年に、日蓮が京都の比叡山に遊学に行く途中でここに立ち寄りました。そしてその時に松を植えて「久遠の松」と名付けたのですが、その松は樹齢700年を越えて今も残っています。久遠の松藤枝宿は田中城の城下町でもあったのですが、街道の東の入口には「従是西田中領」の石標が建っています。田中城は旧街道の南にあるのですが、輪郭式の珍しい縄張りを持つ城郭です。関連の記事東海道~岡部宿→こちら田中城→こちら
2010/01/23
コメント(0)
丸子宿から宇津ノ谷峠の要衝を越えると、旧東海道も平坦となって岡部宿に入っていきます。奈良時代に官道が整備された頃の東海道は、焼津から日本坂を抜けて駿府に至る海沿いのルートをたどっていました。その後源頼朝によって宇津ノ谷を越えるルートが整備され、岡部宿が設立されています。江戸時代の岡部宿には本陣が2軒と脇本陣が2軒あったのですが、旅籠屋は大小合わせて27軒しかなく、割と小さな宿場町でした。それでも旅籠屋の1つである「柏屋」は、今も旧街道の面影を留めて今に残っています。旅籠屋の「柏屋」歴史資料館となっていますが、建物は江戸時代の1836年に建てられたもので、登録文化財に指定されています。その柏屋の2軒先にあるのが「内野本陣」ですが、今も人が住んでいるようなので、中を見るわけにはいきませんでした。内野本陣跡本陣の隣に「岡部宿公園」という公園があったのですが、これが何なのかはよくわかりませんでした。特に何があるわけでもないのですが、本陣のすぐ隣だからという理由で造られたのでしょうか。2車線の車道となっている旧東海道ですが、途中から狭い道幅に分かれて、旧街道の道幅を今に残していました。静岡県内の旧東海道ではおなじみの看板です。1車線の旧街道が再び2車線の道路と合流したところには、「五智如来像」が建っています。元々は丸子宿の誓願寺にあったのですが、誓願寺の移転と共にここに移されたものです。1705年に田中城の城主となった内藤豊前守式信には、口の不自由な姫がいました。それを悩んでいた内藤式信でしたが、徳川家の奥方に相談すると、「誓願寺の阿弥陀さまにお参りするといい」と教えられ、お参りを続けた満願の日に姫は口をきけるようになったそうです。そして内藤氏の家老であった脇田正明により、この五智如来像がこの地に寄進されました。五智如来像からは2車線の道路が続きますが、道路脇には東海道の象徴である松並木が今も残っていました。このまま藤枝宿まで行くつもりだったのですが、五智如来像の隣にある観光案内所のガイドさんの話を聞いて、急遽予定変更を変更することになりました。(岡部の地名の由来を聞いたことから始まった話です)関連の記事東海道~丸子宿→こちら田中城→こちら
2010/01/20
コメント(0)
丸子宿の中心部を過ぎると、旧東海道は山あいを行くようになり、いよいよ宇津ノ谷峠の要衝へと差し掛かります。宇津ノ谷の旧東海道は昔の道幅をとどめており、峠の旧街道の風情が残っていました。この辺りでは今でも「伊勢屋」などの屋号で呼んでいるそうですが、その中に「お羽織屋」の屋号を持つお店があります。お羽織屋元々は「石川屋」という屋号だったのですが、ある出来事をきっかけに「お羽織屋」の屋号を名乗るようになりました。1590年の北条氏の小田原城攻めの時、東海道を東上していた豊臣秀吉は、石川屋の軒下に吊るされた馬の沓に目を止め、使い古された自分の馬の沓と取り替えようとしました。しかしながら石川屋の主人は、四脚の馬に対して三脚分の沓しか差し出そうとしませんでした。「馬の脚は四本なのに、どういうわけか」と尋ねる豊臣秀吉に対し、石川屋の主人はこう応えました。「申し上げます。差し上げた三脚分の馬の沓は、道中安全をお祈り申し上げたつもりでございます。残る1脚分でお戦のご勝利を祈るつもりでございます。」それを聞いた豊臣秀吉は、機嫌よく小田原に向けて出発して行ったそうです。しかしながらこれだけだと、なぜ豊臣秀吉が機嫌よく出発していったのか理解に苦しむところです。石川屋の主人は「四」が「死」を意味するので縁起が悪いので機転を利かし、豊臣秀吉も鋭敏にそれを察知したからだそうです。それから半年ほど経って、小田原城攻めの帰りに豊臣秀吉は再び石川屋に立ち寄りました。そして約束通り勝利で帰って来た豊臣秀吉は、褒美として自分の着ていた陣羽織を石川屋に与えました。それからは「お羽織屋」を名乗るようになったのですが、その豊臣秀吉着用の陣羽織は今も残っており、石川屋では陣羽織を見せてもらうことが出来ます。豊臣秀吉が着用していた陣羽織店のおばあさんが長時間丁寧にエピソードを語ってくれましたが、話の最中も展示してある陣羽織が気になって仕方がありませんでした。実は豊臣秀吉の陣羽織がここあることは以前から知っていたのですが、それでも実際に陣羽織を目の前にすると新鮮な感動がありました。この陣羽織を見ようと訪れた人は数多く、徳川家康もその1人でした。徳川家康も感動して、記念に茶碗を置いていったそうです。徳川家康が贈った茶碗他にも大勢の大名がここを訪れ、その芳名録を見ると錚々たる名前が並んでいました。宇津ノ谷の要衝にある旧街道の片隅ですが、ここを実際に訪れた人の顔ぶれを思うだけで、自分もここを訪れていることの不思議さを感じます。旧街道に残された数々の足跡には、街道めぐりの醍醐味があるような気がしました。関連の記事東海道~丸子宿(その1)→こちら
2010/01/19
コメント(2)
府中宿から安倍川を渡ると、丸子宿へと入って行きます。丸子宿の江戸方見付跡丸子宿は江戸から数えて20番目の宿場町ですが、東海道五十三次の中でも最も規模の小さい宿場町でした。丸子宿の旧街道本陣1軒・脇本陣2軒と、旅籠屋は大小合せても24軒ほどの小さな宿場町です。現在の本陣跡には、その碑だけが建っていました。本陣付近の旧東海道丸子宿は「とろろ汁」で有名ですが、丸子川の橋の手前には歌川広重の浮世絵にも登場する「丁子屋」が今も残っています。「東海道五十三次 丸子」に描かれた丁子屋こちらが現在の丁子屋です。丁子屋は十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも登場しています。安倍川を肩車で渡った弥次さんと喜多さんが、にわか雨に降られて丸子の茶店に駆け込んだものの、店では夫婦喧嘩の最中で名物のとろろ汁を食べられなかった話があります。丁子屋の隣には、その十返舎一九の碑が建っていました。「けんくハする 夫婦は口をとがらして 鳶とろろにすべりこそすれ」丁子屋を過ぎて丸子川を渡ると、旧東海道は山麓に沿って通るような形になりました。丸子城もその山の上にあるのですが、丸子城の麓にあるのが誓願寺です。誓願寺山門建久年間(1190~1199)に源頼朝によって建立された古刹ですが、戦国時代の天文年間(1533~1555)に、丸子城の戦火に巻き込まれて焼失してしまいました。それを惜しんだ武田信玄は、1568年に誓願寺を再建しています。誓願寺本堂1614年には豊臣家の重臣で、「賎ヶ岳七本槍」の1人でもある片桐且元が誓願寺に滞在していました。駿府城の徳川家康に対し、方広寺鐘銘事件の申し開きのために片桐且元は誓願寺に滞在していたのですが、結局片桐且元の申し開きは通ることなく、大阪冬の陣へと続いていきました。境内の片隅には、その片桐且元の墓所がひっそりと置かれていました。片桐且元の墓所誓願寺を過ぎて旧東海道を西へ向かうと、宇津ノ谷峠の要衝へと差し掛りますが、ここにも豊臣秀吉に縁の深い場所がありました。関連の記事東海道~府中宿→こちら東海道~丸子宿(その2)→こちら丸子城→こちら決定版東海道五十三次ガイド
2010/01/18
コメント(0)
旧東海道の府中宿をさらに西へ進むと、静岡市街地の西側を流れる安倍川へとやって来ました。歌川広重「東海道五十三次 府中安倍川」現在の安倍川はこんな感じです。同じアングルで撮ったつもりですが。。。江戸時代の東海道には架橋が禁止されていた川がいくつかあり、大きな川では大井川と安倍川がその代表例です。いずれも川越人夫によって、川を渡してもらう必要がありました。安倍川の両岸には、その川越人夫の監督所である「川会所」が置かれていました。川会所跡毎日役人がここに詰めて、川越人夫の指示や渡し賃の取扱、さらには警備監督を行っていました。(皮肉なことに、現在の川会所の跡には交番が建っています)その安倍川の脇には、「義夫の碑」が建っています。1738年に紀州(和歌山)の旅人が、安倍川の渡し賃があまりに高いので、人夫を雇わずに自分で渡ろうとしました。しかしながら、川を渡ろうと着物を脱いだときに、うっかり財布を落としてしまいました。その旅人の財布をたまたま川越人夫の喜兵衛が拾ったのですが、その人夫は旅人の後を追って次の丸子宿の方へと向かって行きました。ようやく宇津ノ谷峠で財布を探しに戻って来た旅人に出会い、無事に財布は旅人の手に帰ったのですが、礼金を渡そうとする旅人に対し、川越人夫の喜兵衛は「拾ったものを落とし主に返すのは当たり前だ」と受け取ろうとしなかったそうです。(この後で丸子宿の宇津ノ谷峠を越えましたが、すごい難所です)喜兵衛がどうしても礼金受け取らないので、旅人は仕方なく駿府町奉行に礼金を渡すことにしました。奉行所からの呼び出しでも喜兵衛は礼金を受け取ろうとしないため、町奉行は礼金を旅人に返し、喜兵衛には褒美としてお金を渡したとのことです。そして昭和4年にその美談を称えて、和歌山県と静岡県の学童有志により。「義夫の碑」が建てられました。その碑にはこう書かれています難に臨まずんば 忠臣の志を知らず財(たから)に臨まずんば 義士の心を知らず意味はよくわかりませんが、道徳の教科書に出そうないい話があったものです。ところで安倍川と言えば、やはり「安倍川餅」でしょうか。安部川の上流で金が採れることもあり、ある人が「きな粉」を「金な粉」と洒落て徳川家康に献上したところ、家康は大喜びして「安倍川餅」と名付けたそうです。今も安倍川の近くには、あべかわ餅のお店が並んでしました文化元年(1804年)創業の「石部屋」関連の記事東海道~府中宿(その1)→こちら東海道~丸子宿→こちら
2010/01/16
コメント(0)
東海道五十三次のうち、江戸から数えて19番目の宿場町が府中宿です。「府中」と聞いてもピンと来ない感じですが、まさに静岡市の中心部に府中宿がありました。東海道が通る国はいくつもありますが、唯一「府中」を名乗っているのは、徳川家康のお膝元である駿府ならではでしょうか。華陽院門前町付近の旧街道「華陽院」はお寺の名前なのですが、徳川家康にゆかりの深い人の名前でもあります。またの名を「源応尼」と言いますが、松平清康の正室で、徳川家康には祖母にあたる人です。その華陽院は旧東海道沿いの住宅地の中にありました。華陽院幼くして父を亡くし、さらには母と生き別れた上に、今川義元の人質として駿府で暮らしていた徳川家康にとって、岡崎城から駿府に招かれた源応尼が唯一の肉親であり、唯一の理解者だったことでしょう。徳川家康が大御所として駿府城に引退した後、祖母のために盛大な法要を営んで、ここを菩提寺としました。それまでは知源院と呼ばれていましたが、祖母の法名をとって華陽院と名を改めています。境内にある源応尼(華陽院)の墓所華陽院の門前町からしばらく行くと、伝馬町の界隈へ続いていきます。伝馬町の旧東海道伝馬町は上伝馬町と下伝馬町に分かれ、この付近に本陣が置かれていたのですが、今となってはわずかに碑が建っているだけでした。下伝馬町本陣跡上伝馬町本陣跡(歩道上に駐輪された自転車の中に埋もれていました)徳川家康とはゆかりの深い駿府ですが、幕末に徳川幕府の運命を決定付けたのも駿府だと言えることでしょう。府中宿の伝馬町にある松崎屋源兵衛の邸宅跡ですが、1868年3月9日に東征軍の参謀西郷隆盛と徳川幕府の勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄太郎(鉄舟)が、ここで会見しました。ここで合意された内容は、徳川慶喜の処遇、江戸城の無血開城、そして徳川幕府の武器・弾薬の引渡しです。その5日後には西郷隆盛と勝海舟が会見し、世界史にも類を見ない無血の政権交代が決定されました。伝馬町からの旧東海道は複雑に折れ曲がって。呉服町へと続いて行きました。呉服町の旧東海道徳川家康のお膝元である駿府城のすぐ近くを通るのですが、さすがに直進進入はできないようになっていました。府中宿の絵図それでも旧街道から少し足を伸ばすと、すぐに駿府城の外堀がありました。駿府城の虎口「城代橋」駿府城は三重の堀を巡らせた輪郭式の城郭ですが、その最も外側の堀が今も残っています。駿府城の記事(2007年9月)→こちら駿府城大手門跡枡形虎口になっており、渡櫓があったことだと思います。(ついつい足が城内に向きそうになってしまいます。。。)旧東海道は駿府城の大手門の前でさらに折れ曲がり、その角には町奉行と高札場が置かれていました。町奉行跡(旧静岡市役所)高札場のあった場所は四辻の普通の交差点になっていますが、当時は駿府城に背を向けるように直角に曲がっていました。高札場のあった場所は「札之辻」と呼ばれていましたが、今は交差点の片隅に碑が建っているだけでした。関連の記事東海道~江尻宿→こちら東海道~府中宿(その2)→こちら東海道~丸子宿→こちら駿府城(2007年9月)→こちら
2010/01/15
コメント(0)
清水次郎長やちびまるこちゃんで有名な静岡市清水区(旧静岡県清水市)ですが、かつてその中心部には東海道の江尻宿が置かれていました。江戸から江尻宿に入る途中の街道沿いには、徳川秀忠の命により「細井の松原」が植えられていたそうです。当時は206本の松並木が続き、「松原せんべい」を売った茶店もあったようですが、現在はこの1本しかなく、松原とは程遠い感じがします。「細井の松原」があった旧街道。360mも続いていた松原の面影はありません。かつての江尻宿の中心部も今は「清水銀座」となって、宿場町の面影は全くといっていいほど残っていませんでした。江尻宿の旧東海道当時は宿場の防衛のため、道が鉤型に大きく曲がり、袋小路も造られていたようです。江尻宿には本陣3軒、脇本陣3軒と旅籠屋が約50軒も並んでいましたが、現在では商店街の傍らに建つ標識が、かつての本陣跡を示していました。本陣跡(推定)江尻宿の宿場町はすっかり変わってしまいましたが、宿場町の東側の海岸線には「三保の松原」が広がっており、東海道でも屈指の景勝地だったと思います。歌川広重「東海道五十三次 江尻」三保の松原の三保半島が駿河湾に突き出して、その向こうの水平線上には伊豆半島の天城山が描かれています。今では三保半島の内側は埋め立てられ、清水次郎長の清水港の港湾施設が並んでいます。日本平から見た清水港と三保の松原関連の記事東海道~興津宿→こちら三保の松原→こちら
2009/12/11
コメント(0)
江戸日本橋から数えて17番目の宿場町が興津宿です。この辺りは律令時代に清見関が置かれた要衝でもあり、また清見潟が広がる名勝でもありました。歌川広重の浮世絵にも、干潟が広がる清見潟の様子が描かれています。歌川広重「東海道五十三次 興津」清見寺の名前も清見潟に由来していますが、「清見寺スケッチの思い出」で山下清も書いているように、現在では清水港の埋立地が広がっており、当時の様子を想像するのはなかなか難しくなっていました。ところで興津の地名の由来ですが、宗像神社の祭神である「興津島姫命(おきつしまひめのみこと)」がここに住居を定めたのが始めとも言われています。「宗像神社は九州のはずでは?」と思いながらも、街道沿いにある宗像神社に行ってみました。宗像神社創建年代等はわかっておらず、筑前(福岡県)から勧進したとも言われています。現在は隣に小学校の校庭がありますが、昔は小学校の敷地も神社の境内だったそうで、東海道一帯に境内が広がっていたことになります。宗像神社から旧東海道をさらに西へ向かうと、身延道(現在の国道52号線)との分岐点があり、今も道標が残っていました。身延道は身延山参詣の道で、興津宿が起点となります。元々は駿河(静岡)と甲斐(山梨)を結ぶ交通路として使われ、武田信玄も甲斐から駿河に侵攻した時にこの道を使っていました。ところで旧東海道の宿場町の方は、全くと言っていいほど面影がありません。宗像神社付近の旧東海道伝馬所の跡が公園として整備されており、常夜燈が復元されていました。「枯木も山の賑わい」とはこのことでしょうか。公園のすぐ脇に東本陣が置かれていたのですが、今となっては建物の前に碑が建っているだけで、当時の往来を想像することは出来ませんでした。東本陣付近の旧東海道興津宿には本陣が2軒、脇本陣が2軒置かれ、旅籠屋が34軒並んでいたそうです。宿場町を抜けた所に清見寺があり、さらに西へ向かうと西園寺公望の別邸「坐漁荘」があります。「坐漁荘」(この手の史跡にしては珍しく入場無料です)坐漁荘は明治の元老西園寺公望が70歳になった1919年に建てたものです。風光明媚な清見潟を望むこの地に、老後の静養の目的で建築され、1940年に西園寺公望が生涯を閉じたのもこの坐漁荘でした。ちなみに「坐漁荘」の名前は、周の文王が太公望の坐漁する場で太公望に出会った故事に由来していますが、当時は清見潟の向こうに三保の松原や伊豆の天城山を望む絶景だったそうです。今となっては、三保の松原も清水港の建物の間に垣間見える程度でした。関連の記事清見寺→こちら東海道~由比宿→こちら東海道~江尻宿→こちら
2009/12/09
コメント(0)
旧街道の道幅が残る由比宿の旧東海道を急ぎ、サッタ峠へと向かって行きました。(「サッタ」は「薩」と「土へんに垂」なのですが、ブログ上に記載できないのでカタカナ表記にしています)宿場町内ではかろうじて対向できたのですが、サッタ峠の道は完全に一車線となり、対向車が来るとすぐに立ち往生すると言った感じです。(衝突するか海に落ちるか、過去の歴史でもサッタ峠は要衝でありました。現在も旧街道の細い道が残り、道端には道標が残っていました。サッタ峠の道標今も昔もサッタ峠から見る駿河湾の風景は、東海道の代表的な景色として絵画や写真などに描かれてきました。歌川広重も東海道五十三次の由比宿ではサッタ峠からの駿河湾を描いています。歌川広重「東海道五十三次 由比サッタ峠」そしてこちらが現在のサッタ峠現在では東海道に変わって国道1号線が通っています。写真では富士山が写っていないのですが、肉眼では頂上にうっすらと雪を被った富士山の山容を望むことができました。(何とか日没までに間に合いました)東海道の要衝とも言うべきサッタ峠は、過去に何度も合戦が繰り広げられた場所でもあります。南北朝時代の1351年には、足利尊氏と足利直義の兄弟同士の合戦が繰り広げられ、戦国時代のなると北条氏康・今川氏真VS武田信玄の合戦が何度も行われました。(蒲原城の争奪戦が展開されたのもこの時です)それだけ東海道の要衝だったことを物語っていますが、江戸時代以降は東海道を象徴する風景に河っているのは、何とも皮肉な結果です。関連の記事東海道~蒲原宿→こちら東海道~由比宿(その1)→こちら蒲原城→こちら
2009/11/04
コメント(6)
駿河湾の海岸線から急斜面が切立つ由比宿付近は、旧東海道でも交通の難所とされてきました。現在は旧東海道・国道1号線・東名高速道路・東海道本線が狭い海岸線に身を寄せ合うように通っています。東名高速道路は最も海岸線を通っており、高波で通行止めとなることもあったりするほどで、太平洋に面した由比PAは東名高速のビューポイントともなっています。そんな狭い海岸線にあるためか、由比宿では道路が拡幅されずに、旧街道の道幅がほぼそのまま残っていました。江戸方の出入り口には、クランク状に曲がった枡形も残っています。宿場町への直進進入を防ぐため、各宿場町には枡形が設けられましたが、現在では交通の障害となるために直線に改変されるケースがほとんどです。枡形の木戸口には、旧家も残っていました。現在も屋号「こめや」を名乗る志田家住宅。由比宿には本陣が一軒しかありませんでしたが、狭い海岸通りにありながらも、その広さは1,300坪もあったそうです。現在本陣跡は公園として整備されていました。由比宿には「東海道広重美術館」があります。広重美術館はぜひ見てみたいところですが、先を急ぐ事情もあって、やむなくパスすることにしました。本陣跡由比宿の本陣は、桶狭間の戦いで討死した今川家の家臣由比光教を祖とする由比氏が代々経営してきました。平成10年に当主由比宏忠氏の理解を得て、本陣の屋敷跡が公園として整備されています。本陣公園には常夜燈や陣馬の水呑み場も復元されていました。常夜燈(現存するものかも知れません)陣馬の水呑み場大名行列の馬を洗ったり水を呑ませたりする場所で、当時は深さが60cmもあったそうです。由比本陣の向かい側には、「正雪紺屋」の旧家が残っていました。1651年の幕府転覆計画「由井正雪の乱(慶安の変)」の由井正雪は、この紺屋で生まれたと言われており、そこから「正雪紺屋」と名付けられています。また本陣近くには、コミカルな脇本陣「羽根ノ屋」がありました。やはり東海道と言えばこのお二人、弥次さんと喜多さんです。由比宿には至る所に旧家が残っており、これまで訪れた東海道の宿場町では、最も往時の姿をとどめていると思います。小池邸(国登録有形文化財)明治になって建てられたものですが、代々小池屋文左衛門を名乗る名主の居宅です。もっとゆっくりと由比宿を見て行きたかったのですが、どうしても日没までにサッタ峠にたどり着きたくて、やむなく旧街道を先へと急いで行きました。関連の記事東海道~蒲原宿→こちら
2009/11/03
コメント(2)
吉原宿を過ぎて富士川を渡ると、蒲原(かんばら)宿に入ってきます。蒲原宿の碑現在の行政区分では、静岡市清水区蒲原町です。東海道は再び海岸線沿いを行くことになりますが、蒲原宿から由比宿の間は、海岸線からすぐに急な斜面が切り立っているため、宿場町も細く長く続いています。旧東海道と共に、東名高速道路・国道1号線・東海道本線が肩を寄せ合うように集まってきました。(東海道新幹線だけは「蒲原トンネル」の山の中を通っています)蒲原宿の旧街道蒲原宿には旧東海道の面影がよく残っており、往年の宿場町の雰囲気がありました。「平岡本陣」(現在も人が住んでおられるので、中を見ることはできません)旅籠屋「和泉屋」天保年間にの建物が今も残っています。磯部家住宅1909(明治42)年に建てられたもので、総ケヤキ造りの見事な建物です。二階のガラスは日本でガラス生産が始まった頃の手作りのガラスです。志田家住宅(国登録有形文化財)町家形式の建物で、当時は味噌や醤油の醸造を営む商家でした。旧五十嵐歯科医院(国登録有形文化財)町家の外観を洋風に改築したもので、外は洋風、中は和風の「擬洋風建築」と呼ばれる珍しい建物です。その他にも旧街道の名残があちらこちらに見られました。馬頭観音の碑馬頭観音は馬の守り神として信仰され、その供養塔は街道の道標の役割も果たして来ました。蒲原宿のこの辺りにも伝馬や宿駅などで馬を飼っていたようです。高札場跡現在は町内の掲示板としてなっており、当時の高札場と同じ役割を果たしていました。江戸時代の歌で、蒲原宿は次のように歌われています。「蒲原に過ぎたるもの三つある。出入り、疫病、寺が八ヶ所」その歌にあるように、蒲原宿には急斜面の麓に寺院が所狭しと並んでいました。その1つである東漸寺の山門関連の記事東海道~吉原宿→こちら東海道~由比宿→こちら蒲原城→こちら
2009/11/01
コメント(2)
沼津宿から原宿に至る旧東海道は、海岸線に沿ってほぼ東西に一直線延びていました。しかしながら吉原宿の東海道は陸地に向かって大きく湾曲しており、ちょうど「Ω」のような形をしています。1639年と1680年の二回の津波でそれぞれ壊滅的な被害を受け、その度に吉原宿の東海道は内陸部へと迂回することとなり、吉原宿も内陸部へと移って行きました。津波の被害を受ける前の吉原宿は「元吉原」と呼ばれ、原宿からまっすぐ続く旧東海道の先にありました。元吉原付近今も旅館があるのですが、旅籠屋時代からのものでしょうか。その元吉原の宿場町には、毘沙門天「妙法寺」があります。その名の通り日蓮宗の寺院ですが、本尊はインドの財宝神である毘沙門天です。境内にはインド風の派手な建物が並び、石の毘沙門天像も建っていました。「お身拭い」と呼ばれ、自分体の痛む所とこの像の同じ所をさすると、痛みを取り去ってくれるそうです。元吉原からの旧東海道は方角を変え、今度は北に向かって延びていきました。南北に延びる旧東海道江戸日本橋から西へ向かうと、富士山は常に右側に見えるのですが、吉原では東海道が南北に延びているため、富士山を左に見ることになります。旧街道沿いには「左富士神社」が建っていました。左富士神社。神社に祀られるほど左富士は貴重だったのでしょうか。歌川広重も吉原から見る左富士の姿を浮世絵に残しています。歌川広重「東海道五十三次内 吉原」(左富士)今となっては浮世絵に描かれている松は残っているものの、工場や住宅が建ち並び、浮世絵のような壮大さはありませんでした。現在の旧街道と左富士さらに東海道を北へ進むと、「平家越え」の跡があります。「平家越え」の碑と旧東海道の道標。1180年源頼朝が平家打倒のために、東国武士を集めて再起した時、平維盛の追討軍と戦った場所です。この時に平家軍が陣取ったのがこの辺りだとされ、水鳥の羽音に驚いて退却した「富士川の戦い」の舞台でもあります。二度の津波で被害を受けた吉原宿の中心地は、「元吉原」、「中吉原」、「新吉原」と移っていきました。最も内陸部にある「新吉原」の旧東海道は、現在は商店街に変わっています。ありがちと言えばありがちですが・・・新吉原を過ぎると、今度は内陸部を東西に延びる形となり、富士川を渡って蒲原宿へと続きます。富士川と富士山当時は渡船があったようですが、現在は富士川大橋が架かっています。関連の記事東海道~原宿→こちら東海道~蒲原宿→こちら
2009/10/31
コメント(0)
旧街道の宿場町跡に関する考え方は、市町村によって異なるようです。全く何も残っていないため、その跡を示す碑や解説板などを建てて、旧宿場町の面影だけは残そうとしている所もあったりします。(平塚宿がいい例でしょうか)しかしながら全く何も残っていない上に、その跡にも何も建っていないので、さっぱりわからない宿場がありました。今回訪れた原宿がまさにそれで、「本当に宿場町があったのだろうか…」と思ったほどです。原宿本陣のあった場所(推定)もっとも原宿には旅籠屋が25軒しかなく、他の宿場町と比べても非常に小さな規模の宿場町だったようです。それでも原宿には、太古から変わらずに残っているものがあります。歌川広重「東海道五十三次内 原朝ノ富士」雪も被っておらず、アングルも少し違ったようです。(広重はもっと沼津宿よりから見たのでしょうか)原宿にある神社のほとんどは、富士山の方向を拝むような格好で建っており、何はなくとも原には富士山があるといった感じでした。明徳稲荷神社1798年に原宿の鎮守として建てられたもので、拝殿の向こうには富士山を見ることができました。浅間愛鷹神社富士山信仰の浅間大社を総本宮とする浅間神社です。浅間愛鷹神社の主祭神は、「木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)」でした。浅間愛鷹神社の境内には、この地の開拓で功績を残した鈴木助兵衛の記念碑が建っています。鈴木助兵衛の「桃里記念碑」(後ろの碑に由緒が色々と書いてあったのですが、全部漢字で書かれているので何だかよくわかりませんでした。。。)さらに旧街道沿いの「立円寺」には、富士山に向かって「望嶽碑」が建っていました。1808年に尾張藩の侍医であった柴田景浩によるもので、江戸に向かう途中で立正寺に滞在した時、富士山を賞して建てた碑です。ところで原宿の北には、伊勢宗瑞(北条早雲)が初めて城主となった興国寺城があります。興国寺城から見た原宿(2009年4月)北条早雲が四公六民などの徳政を初めて行ったのも興国寺城の城下町である原宿でした。また原宿から吉原宿に至る海岸線に「田子の浦」があり、山部赤人が富士山を詠んだ歌はあまりにも有名かと思います。田子の浦の海岸線から見た富士山田子の浦は以前も訪れたことがあり、その時は冬だったのでまさに白妙の富士山を見ることができました。田子の浦の富士山(2008年1月)また沼津宿で見た千本松原は、沼津宿から原宿を経て次の吉原宿まで延々と続いていました。沼津宿の方に目を向けると、太平洋の水平線上に伊豆半島がうっすらと浮かんでいました。関連の記事東海道~沼津宿→こちら東海道~吉原宿→こちら田子の浦→こちら興国寺城→こちら
2009/10/30
コメント(0)
江戸日本橋から数えて東海道12番目の宿場町である沼津宿は、沼津城の城下町としても栄えていました。(沼津城の方は跡形もなくなっていましたが…)沼津市内には狩野川が流れ、三島宿から沼津宿に至る旧街道も狩野川沿いを通っていました。歌川広重「東海道五十三次 沼津」そしてこちらが現在の狩野川です。沼津城の本丸も狩野川のすぐそばにあり、本丸の周囲をめぐる道路は、てっきり外堀の跡かと思っていました。この道路は「川廓通り」や「川曲輪通り」と呼ばれ、実は東海道の本道です。(やはり名称は城郭に由来していると思われます)江戸時代の東海道は、沼津宿の中でくねくねと複雑に曲がっていました。川曲輪の次は南へと折れ曲がれ、さらに通横町で西へと折れ曲がるといった具合です。現在は碁盤の目のように整備されていますが、当時はここで西向きに曲がっていました。さらに本町付近では、再び西から南へと折れ曲がっていました。本町付近は現在の沼津市街地からは南に外れていますが、ここが東海道沼津宿の中心地でした。この通りに本陣が置かれ、東海道沼津宿のメインストリートでした。今となっては、本町の道路脇に本陣跡を示す碑がひっそりと建っていました。中村脇本陣跡の碑清水本陣跡の碑うっかりすると見落としてしまいそうな小さな碑です。本陣のあった本町を過ぎると再び西へ曲がって、海岸に沿うように原宿へと延びていきます。岡崎の七曲がりほどではないにしても、あまりにも複雑な沼津宿の東海道でした。(防衛上の理由からだと思いますが…)現在は旧東海道から海岸へ向かう道があり、「千本浜通り」と名付けられています。この辺りは神社や寺院が多く、東海道と千本浜通りの分岐点には浅間神社がありました。三島宿にも浅間神社があったのですが、さすがは富士山のお膝元だと思います。さらには乗運寺があって、境内には若山牧水の墓所がありました。乗運寺本堂若山牧水の墓所若山牧水は宮崎県の出身ですが、沼津の千本松原の風景が気に入って、沼津に移住して来ました。そしてその生涯を閉じたのも、千本松原のある沼津でした。若山牧水の墓所がある乗運寺からは海岸線も近く、若山牧水が魅了された千本松原の松並木が続いています。千本松原の海岸では、皆さん何も言わずにただ海を眺めていたのが印象的でした。千本松原から見た太平洋。関連の記事沼津城(三枚橋城)→こちら東海道~三島宿→こちら
2009/10/14
コメント(4)
大磯宿からの東海道は小田原宿・箱根宿・三島宿の順に箱根八里を越えるルートなのですが、今回はあっさりと文明の利器「丹那トンネル」を通って、江戸日本橋から11番目の宿場町である三島宿へと向かいました。ちなみに箱根八里とは、小田原宿から箱根宿まで四里と箱根宿から三島宿までの四里のことを言います。(小田原宿から箱根峠までの登り坂を箱根東坂、箱根峠から三島宿までの下り坂を箱根西坂とも言ったりします)以前訪れた山中城は箱根西坂の途中にあり、今も旧東海道の石畳が残っていました。旧東海道の石畳(2009年4月山中城にて)それまでの土の道では雪が降ると泥道となってしまうため、石畳が造られたそうです。江戸日本橋から西へ向かう人は、箱根を越えて三島宿でほっと一息ついたところだと思います。またこれから江戸に向かう人は、目の前に迫る箱根の山並みを見て、三島宿で最後の気合を入れたことでしょう。そんな当時の旅人の思いはいざ知らず、今回はいきなり三島宿の東海道にやって来ました。丹那トンネルを通って来た私が言うのもなんですが、今となっては旧街道や宿場町も完全に市街地化され、そんな当時の思いも遠い過去のような気がします。三島宿には本陣が2軒あったのですが、今はその跡に碑が建っているだけでした。世古本陣の跡道路の向かい側にもう1つの樋口本陣の跡があります。問屋場の跡も、今は市役所の窓口に変わっていました。三島宿の問屋場は小田原宿よりも賑わいを見せていたようで、当時は常に人手不足で悩んでいたそうです。現在では当時を想像するのも難しくなってきました。それでも旧街道を探索していると、往時を偲ばせるものが三石神社に残っていました。三石神社境内には「時の鐘」が置いてあります。寛永年間(1624~1644)に鋳造されたのですが、現在の鐘は昭和25年に造られたものです。明け六つと暮れ六つに鐘が鳴らされていたようで、当時の旅人もこの鐘の音を聞いていたことだと思います。三島宿の東海道は、旧街道とは言ってもどこにでもありがちな普通の道が続いていました。そうこうしているうちに秋葉神社に到着です。ここが西方見付跡、三島宿もここで終わってしまいました。関連の記事三嶋大社→こちら東海道~箱根宿→こちら山中城→こちら
2009/10/12
コメント(6)
鴫立庵を過ぎると上方見付の跡があり、東海道大磯宿の宿場町もここで終わりとなりました。それでも上方見付跡からは今も松並木が残り、東海道の往来を偲ぶことが出来ました。江戸時代に植えられた松の年輪。すぐ目の前に太平洋を眺めるこの場所は、著名人の別荘地としても知られています。その1つが「滄浪閣」で、伊藤博文の別邸があった場所です。大磯プリンスホテルの別館となっていましたが、現在は閉鎖されていました。伊藤博文は当初小田原に滄浪閣を構えていましたが、大磯に立ち寄った時にここが気に入り、小田原から別荘を移してきました。(後には別荘ではなく、伊藤博文の本邸となっています)伊藤博文の他にも、山縣有朋・西園寺公望・大隈重信などの明治の著名人たちが別荘を構えていました。吉田茂も大磯に別邸を構えていましたが、火事で焼失してしまったニュースは記憶に新しいところかと思います。この辺りは海岸線もすぐ近くにあって、目の前には太平洋が広がっています。別荘を建てるなら、絶好の場所ではないでしょうか。滄浪閣の裏手から見た太平洋。滄浪閣を過ぎると「城山公園」の標識があり、突如として小高い丘陵が見えてきました。城山の地名もさることながら、独立峰のように丘陵があって、周囲に天然の川が流れているとなると、城郭があったとみて間違いはなさそうです。(しかも川の名前が血洗川と戦乱を連想させる名前です)街道めぐりの途中ではありますが、本来の城跡めぐりを開始することにしました。城山公園に着いてみると、城跡らしい雰囲気はなく、ちょっと勝手が違いました。ここには三井財閥の別荘「城山荘」が建っていたようで、頂上にあるは本丸跡ではなく、本館の跡です。現在は展望台になっていました。それでもここは大磯の高台、頂上からは相模湾が一望できました。三井の別荘時代には、織田有楽斎が建立した国宝の茶室「如庵」も置かれていましたが、現在は如庵を模して造られた「城山庵」が建っています。城山庵(平成2年建立)如庵は犬山市に移築され、現在は別荘時代の建物はほとんど残っていませんでした。別荘の建物もなくなってしまったのですが、城郭の遺構となるともっと困難な状況でした。その名の通り城山には小磯城があったと言われていますが、遺構が残っていないため、城郭そのものは比定できていません。1477年には長男景春の家臣であった越後五郎四郎が小磯城に立て籠もりましたが、太田道灌に攻められ落城したと言われています。築城には適した場所だと思うのですが、その後は誰も築城しなかったのでしょうか。関連の記事東海道~大磯宿(その1)→こちら東海道~小田原宿(その1)→こちら東海道~小田原宿(その2)→こちら
2009/10/10
コメント(2)
大磯は律令国家の時代には相模国の国府が置かれ、江戸時代になると江戸日本橋から数えて東海道8番目の宿場町となりました。旧東海道は現在の大磯駅の南側を通っており、広重の浮世絵にはすぐ横に海が広がっています。歌川広重「東海道五十三次 大磯」こちらが現在の東海道です。歌川広重の浮世絵では雨が降っていますが、こちらはいい天気でした。当時は本陣が3軒と旅籠屋が66軒もあったようで、舗装道路を歩きながら過去の賑わいを想像していました。小島本陣の跡小島本陣の南側には延台寺があり、ここは曽我兄弟の仇討ちに縁のあるお寺です。延台寺本堂なにやらお祭りが行われているようで、お囃子の音がずっと流れていました。曾我物語の曽我兄弟を追善するため、虎御前が曽我堂を建立したのが、延台寺の始まりと言われています。曽我堂延台寺には、工藤祐経が曽我十郎を返り討ちにしようとした時、曽我十郎の身代わりとなって矢や刀を受けたと伝えられる「身代わり石」が安置されているとのことでした。延台寺からさらに西へ進むと、尾上本陣の跡がありました。尾上本陣跡(食堂になっていました)尾上本陣から街道を外れた所に地福寺があります。地福寺地福寺の境内には島崎藤村の墓所がありますが、墓地に比べて墓碑はとても小さく目立たない感じでした島崎藤村の墓所大磯宿の東海道は海岸線に沿うように通っており、大磯港のある照ヶ崎付近で大きくカーブしています。問屋場付近の旧街道。当時はこの辺りに問屋場があり、現在も旧家(お菓子屋)が建っていました。「大磯名物西行まんぢゅう」の文字があります。海岸線はすぐ近くにあり、砂浜の広がる照ヶ崎海水浴場は「海水浴発祥の地」となっています。海水浴発祥の地の碑照ヶ崎からは伊豆半島や真鶴岬が一望でき、さらには水兵線上に伊豆大島を眺めることができました。右端が伊豆大島で左は三宅島だと思います。写真で見ると小さいですが、伊豆大島はよく見えました。照ヶ崎からさらに西へ進んだ鴫立沢の街道沿いには、俳句道場であった鴫立庵が建っています。鴫立庵は、1664年に崇雪が草庵を結んだのが始まりです。1695年に俳人大淀三千風が入って第一世庵主となった後、1768年に白井鳥酔が再興して庵主となり、京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並んで日本三大俳諧道場の一つに数えられています。また敷地内に建てられた石碑に「著盡湘南清絶地」の銘文があることから、「湘南発祥の地」とされています。湘南発祥之地の碑その銘文らしき石碑があったのですが、よく読めませんでした。鴫立庵の名前は、西行の歌「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」に因んで名付けられました。大磯名物「西行まんぢゅう」の由来がようやくわかりました。鴫立庵を過ぎた後も、大磯宿はまだ続いています。関連の記事東海道~平塚宿→こちら
2009/10/09
コメント(2)
江戸日本橋から数えて東海道7番目の宿場町が平塚宿で、平塚宿付近の旧東海道は東海道線の北側を並行するように通っています。平塚駅から西に向かって行くと、江戸方見付の跡があり、ここが平塚宿の東側のスタート地点です。江戸方見付の跡見付跡と言っても碑が建っているだけで、現在となっては東海道も片側二車線の道路に変わっていました。高麗山を正面に見ながら、旧街道らしい長い直線道路が続いています。旧街道の途中には、街道の名残を示す碑が建っていました。傾けて撮影したのではなく、そもそも碑が傾いています。高札場の跡。問屋場は東西に二つあったようで、まずは東組問屋場の跡がありました。と言っても碑が建っているだけですが…本陣の跡はと言うと、銀行に変わっていました。地元の銀行であるのがまだ救いでしょうか。やがて海鼠壁が見えてきたので近寄ってみると、今度は西組問屋場の跡でした。西組問屋場から少し北に外れた所には、「平塚の塚」なるものがあり、とりあえず見に行ってみました。江戸時代に編纂された「新編相模風土記」によると、857年に桓武天皇の孫高見王の娘が、東国への旅の途中でこの地で亡くなったそうです。墓所として塚が造られたのですが、上が平らだったので「たいらつか」と呼ばれ、平塚の語源となったとのことでした。どうも胡散臭い話だと思いながら東海道に戻ると、すぐに上方見付跡に到着、平塚宿は終わってしまいました。国道1号線との合流点ですが、こちらも碑が建っているだけでした。それでも高麗山だけは、往時と変わらない端麗な姿を見せていました。歌川広重「東海道五十三次 平塚」同じアングルで撮ってみました富士山はいずこ…広重の浮世絵にも描かれている花水橋を渡る時、北の方に目を凝らせば丹沢の山並みが広がっていました。つい先日登ったばかりの大山の山容が見えています。高麗山もずっと近くなり、近くでみるとまるで巨大古墳のような感じです。その高麗山の山麓には高来(たかく)神社があります。高来神社は神功皇后の三韓平定に勝利したことをから、武内宿禰が御霊を奉じたことが始まりとされています。一説には高来神社の高来も「高麗」に由来するとされ、唐・新羅の連合軍に敗れて滅びた高句麗の王族がこの地に移住し、開墾したとも言われています。いずれにしても717年の神仏習合の時は、行基が千手観音を本地仏と定め、高麗寺の別当なりました。その後は24の僧坊が建てられるなど伽藍も広がっていったのですが、戦国時代には足利氏の内紛や北条・武田の争いで戦火に巻き込まれ、多くの伽藍を焼失しています。現存する高来神社社殿(元は観音堂)神楽殿(現存)高麗山からは相模湾が一望でき、相模平も含めてハイキングコースになっていますが、機会があったら登ってみたいものです。高来神社を後にして再び東海道に戻ると、平塚宿の中心地とは違って旧街道らしい趣きがありました。これまでずっと東海道をたどって来ましたが、萱葺屋根の旧家に出会うのは初めてです。最後にようやく旧街道に来た感じがしました。関連の記事東海道~藤沢宿→こちら
2009/10/08
コメント(2)
藤沢宿は遊行寺の門前町として栄えた宿場町で、江戸方見付も遊行寺の近くにあったようです。江戸方見付付近の道場坂道場坂を下り切った所には境川が流れており、現在は県道30号線の藤沢橋が架かっていますが、当時の東海道には遊行橋が架けられていました。歌川広重「東海道五十三次 藤沢遊行寺」おそらく境川に架かる遊行橋だと思います。東海道は現在の藤沢橋の少し上流を通っていたので、藤沢橋から少し上流にある橋が広重の浮世絵に描かれた遊行橋かも知れません。現在の遊行橋旧東海道は境川を渡ったところで北に曲がり、現在は国道467号線となっていました。やはり旧街道には旧家がよく似合います。この辺りに本陣がありました。問屋場のあった場所さらに進んでいくと、街道脇に「義経首洗井戸」がありました。源義経は奥州平泉で藤原秀衡に討たれ、腰越にて首実検にかけられました。首実検の後は腰越の海辺に捨てられていたのですが、境川を遡って藤沢に流れ着き、里人がこの井戸で洗い清めたそうです。(にわかには信じがたい話ですが・・・)八王子街道の分岐点に入っていった所には、義経を祀った「白旗神社」もありました。元々は相模国一ノ宮の寒川神社から分社され、寒川神社として寒川比古命を祀っていました。祭神として源義経を祀るようにしたのは、源義経討伐の命を下した源頼朝です。白旗神社の解説によると、奥州平泉で討たれて腰越で首実検にかけられた源義経の首は、夜のうちにこの神社に飛んできたそうです。(さらに信じがたい話ですが、弁慶の首も一緒に飛んで来たようです)源義経の鎮守のため、源頼朝が義経を合祀したのがこの白旗神社です。首洗井戸も白旗神社も信じがたい話ではありますが、「火のない所に煙は立たない」と言います。源義経にまつわる、何らかの出来事があったのではないでしょうか。関連の記事清浄光院(遊行寺)→こちら東海道~戸塚宿→こちら
2009/09/25
コメント(2)
江戸日本橋から数えて東海道の5番目の宿場町が戸塚宿です。江戸方の入口である江戸見付の跡には、現在ファミリーレストランが建ち、江戸方見付の碑だけがその場所を示していました。江戸方見付碑人も車も目の前をただ通り過ぎて行きました。江戸方見付跡からしばらく行くと、柏尾川に架かる吉田大橋が見えてきます。歌川広重「東海道五十三次 戸塚元町別道」同じアングルで撮影してみました。現在の吉田大橋。(ちょっと違ったか…)広重の浮世絵には、吉田大橋の手前に道標が建ち、「左り かまくら道」の文字があります。実はこの道標は現存しており、街道から少し離れた妙秀寺の境内にありました。妙秀寺の山門山門をくぐったところに、その道標がありました。上の方は折れて継がれた感じですが、確かに「左り かまくら道」と書いてあります。現在の東海道は、戸塚駅の北側を通る国道1号線となっています。国道沿いを行くと、宿場町を思わせる歴史の足跡が残っていました。その1つが清源院長林寺です。1620年に、徳川家康の愛妾お万の方によって開基されました。裏手の墓地には、お万の方を火葬した跡に建てられた供養塔がありました。お万の方については、勝浦城(千葉)→こちら勝浦城のお万の方像。清源院の境内には芭蕉の句碑もありましたが、心中句碑というのもありました。「井にうかぶ 番(つがい)の果てや 秋の蝶」心中する時に詠んだ句は初めて見ました。さらに東海道(国道1号線)を西へ向かうと、八坂神社があります。7月14日の八坂神社の夏祭りになると、「お札まき」が行われます。江戸時代の中期には江戸や大坂でも盛んに行われていたそうですが、現在は東海道の戸塚宿だけに伝え残されているようです。男性十数人が女装して踊るそうで、見てみたい気もします。その八坂神社の先にあるのが、冨塚八幡宮です。前九年の役の平定のために奥州へ向かう途中の源頼義と源義家は、この地で応神天皇と冨属彦命の御神託を授かりました。その加護で戦勝したことに感謝し、1072年に社殿が建立されました。冨塚八幡宮の裏手には、その冨属彦命の古墳があり、「冨塚」と呼ばれていました。この「冨塚」が「戸塚」となって現在に至っています。冨塚八幡宮からは緩やかな坂道となり、戸塚宿もそろそろ終わりです。「大坂」と呼ばれる坂の下に上方見付の跡がありました。ところで戸塚宿の途中では、いくつか興味深い発見がありました。戸塚の東の方の旧街道にある斉藤家の土塀です。ここは「鎌倉ハム」発祥の地で、初めて日本人によってハムが作られた場所です。1874年にイギリス人のウィリアム・カーチスがここで牧畜業を営みながら、外国人相手にハムを製造販売していました。その製法を伝授された斉藤氏が、日本人初のハムの製造を開始しています。今も旧東海道沿いに、赤レンガのレトロな倉庫が建っていました。さらに斉藤家の近くには、護良親王の首洗井戸の跡があります。住宅地のど真ん中にひっそりと碑が建っていました。護良親王は後醍醐天皇の皇子ですが、建武の新政権で後醍醐天皇や足利尊氏と反目したため、足利尊氏の弟足利直義の監視の下、東光寺(現在の鎌倉宮大塔宮)に幽閉されていました。しかしながら足利直義の家臣である淵辺義博に殺害されてしましました。その首を洗ったとされる井戸の跡が、ここに残っていました。淵辺義博は逐電したはずなので、一体いつ誰が…関連の記事東海道~程ヶ谷宿→こちら
2009/09/23
コメント(2)
東海道の起点である江戸日本橋から数えて4番目の宿場が程ヶ谷(保土ヶ谷)宿です。旧東海道の街道筋は、相鉄線の天王町駅前に残る帷子橋跡から、南西方向に直線に延びていました。復元模型となった帷子橋跡昭和31年に帷子川の改修と相鉄線の立体工事でなくなってしましました。天王町駅前からは片側二車線の道路が続きますが、沿道には寺院や旧家もところどころに残っており、旧街道の面影をわずかに残していました。JR保土ヶ谷駅の西口まで来ると、西口商店街の一車線の道路へと変わりました。保土ヶ谷の旧東海道。道幅もほぼ当時のままだと思います。この辺りが程ヶ谷宿の中心地だと思うのですが、問屋場や高札場などがあったようです。問屋場のあった場所助郷会所跡宿場だけではまかない切れない人馬は、周辺の村から動員されていましたが、これを助郷と言って、指定された村のことを助郷村と言います。各助郷村の人馬を手配するために設けられたのが助郷会所です。助郷村の代表はここに出勤して、問屋場の指示に従うとともに、手配した人馬が不正に使われることのないように監視も行っていました。さらに旧東海道進むと、金沢・浦賀に至る脇往還の分岐点があり、四辻の角に道標が4基建っていました。金沢横町の道標左から・「円海山之道」(1783年建立)、左面に「かなさわかまくらへ通りぬけ」とあります。・「かなさわかまくら道」(1682年建立)・「杉田道」(1814年建立)、「程ヶ谷の 枝道曲がれ 梅の花」の句がありました。・「富岡山芋大明神社の道」(1845年建立)、それにしても「芋大明神」が気になる…東海道線と横須賀線の踏切を越えたところで、旧東海道は北に曲がり、国道1号線と合流します。交差点のある場所には、当時本陣が置かれていました。現在は塀の向こうに門が残っています。本陣は参勤交代の大名と幕府の役人だけが宿泊を許された公用の宿場でした。程ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣であった苅部豊前守康則の子孫が代々努めています。1870年に苅部姓から軽部姓に変わったのですが、表札を見ると軽部氏の名前がありました。道路の幅も広い国道1号線沿いを行くと、脇本陣の跡がありました。現在は碑が建っているだけで、うっかりすると見落としそうな感じです。脇本陣は本陣がいっぱいの時に予備として代用された宿場です。本陣・脇本陣とも、大名か幕府の役人専用の宿場でしたが、そんなに数多く泊まるものでもありません。そこで脇本陣は、通常は旅籠屋と同じく一般の旅行客も泊めていました。脇本陣は一般客も宿泊出来たのに対し、本陣は要人以外の宿泊は認められていなかったため、深刻な経営難に陥る本陣もあったようです。脇本陣からしばらく行くと、旅籠屋が残っていました。旅籠屋「本金子屋」建物は明治になってから建てられたものです。旧東海道の跡を探りながらさらに行くと、いよいよ程ヶ谷宿も終わりとなり、上方見付と一里塚の跡に来ました。現在は松並木がわずかに復元されていました。古地図を見ると、一里塚と上方見付はほぼ並んで建っていたようです。ここから先は「権太坂」と呼ばれる坂道となって、次の戸塚宿へと続いて行きます。歌川広重「東海道五十三次 保土ヶ谷新町橋」関連の記事東海道~神奈川宿(その1)→こちら東海道~神奈川宿(その2)→こちら
2009/09/19
コメント(2)
小田原宿の上方口である「板橋見付」を越えると、いよいよ箱根宿へと入って行きます。小田原宿からの東海道は、早川に沿った山あいを通っていますが、ちょうど同じ所を箱根登山鉄道が走っており、小田原から箱根湯本までは電車で行きました。旧東海道は箱根湯本駅の手前で国道1号線から分かれ、途中で早川に架かる三枚橋を渡って続いていきます。車がやっとすれ違うほどの細い道を登って行くと、早雲寺の山門が見えてきました。早雲寺山門以前の記事(→こちら)でもご紹介しましたが、早雲寺は小田原北条氏の菩提寺です。早雲寺にある北条氏5代の墓所。再び車がやっとすれ違うほどの細い道を行き、箱根の温泉街を右下に見ながら進んで行きました。そして正眼寺に到着。正眼寺本堂。正眼寺の裏手に上がった所には、「曾我堂」と名付けられたお堂があります。仇討ちで知られる曾我十郎・五郎兄弟が地蔵に化けたと伝えられる地蔵菩薩が2体祀られています。元々箱根山では、鎌倉時代に地蔵信仰が広がり、正眼寺も地蔵信仰から建てられたお寺です。境内には高さ2.5mもある地蔵菩薩の像も立っていました。さらには松尾芭蕉の句碑もあったのですが、削れてしまってよく読めませんでした。解説板によると、「山路来て なにやらゆかし すみれ草」の句が書いてあるそうです。正眼寺の境内から望む箱根の山路には、わずかに秋の気配が感じられました。関連の記事早雲寺→こちら東海道~箱根宿その2→こちら
2009/09/18
コメント(2)
江戸時代には東海道随一の繁栄を誇った小田原ですが、その礎を築いたのは北条氏5代であったと言えるでしょう。初代伊勢宗瑞(北条早雲)の時代から続いた「四公六民」などの治世により、人と物が小田原に集まって、城下町が発展していきました。その繁栄の中心にあったのが小田原城ですが、現在となっては北条氏時代の戦国城郭はほとんど姿を消し、江戸時代の大久保氏・稲葉氏の近世城郭が復元されています。それでも小田原宿を探索してみると、北条氏時代の名残をわずかに見つけることができました。旧東海道に面した三の丸小学校の脇には、「箱根口」の跡があります。石垣は江戸時代になって造られたのだと思いますが、北条時代の小田原城ではここが大手門でした。三の丸小学校の校庭には土塁の跡が残っており、ここでは北条氏の小田原城をわずかに偲ぶことができます。東海道の箱根口から、海へ向かって南に延びる道は、「安斎小路」と名付けられています。1590年の豊臣秀吉の小田原攻めによって小田原城は降伏・開城し、北条氏第4代の北条氏政と弟で八王子城主の北条氏照は切腹を命じられました。2人が切腹した場所が田村安斎の屋敷であり、その田村安斎邸があったことから「安斎小路」と呼ばれています。東海道からは離れていますが、小田原駅のすぐ東側には、北条氏政と北条氏照の墓所があります。北条氏政が切腹の時に乗ったとされる「生害石」安斎小路を南へ向かうと、「御幸の浜」の太平洋が広がっています。水平線上には、宿敵である里見氏の房総半島がわずかに浮かんでいます。小田原攻めの時は九鬼や長宗我部など、音に聞こえた水軍で海上が埋め尽くされていたことでしょう。西側を向くと、荒波の向こうに真鶴半島と箱根の山々が見えていました。小田原宿はこの辺りで終わり、箱根八里が待ち構えています。旧東海道でも、小田原宿の終わりを告げる「板橋見付」が置かれていました。江戸から西へ向かう旅人は、どんな気持ちでここを通ったことでしょう。すでに箱根八里に半歩踏み入れたところですが、北条時代の小田原城「総構」は、ここまで広がっていたようです。早川口には北条時代の総構の跡が残っているとのことで、「それは是非行かねば…」と総構を探しに行ってみたものの、それらしきものは見当たりませんでした。「さっき土塁みたいなものがあったけど、あれがそうなのかな?」などと話していると、通りすがりの人が「あ~、あの土塁がそうですよ」とご丁寧に教えてくれました。(もしかして城跡マニアなのか?)小田原城総構の土塁と空堀跡。最近は戦国時代の城郭を探索していないせいか、これをあっさり見逃してしまいました。(二重の土塁の間には、ちゃんと空堀の跡がありました。。。)さらに箱根方面へ進んでいくと、街道沿いに大久寺がありました。北条氏滅亡後に小田原城主となった大久保忠世の開山で、大久保氏の菩提寺です。境内には大久保一族の墓所がありました。大久保忠世・忠隣の墓所大久保忠世は大久保忠教(彦左衛門)や大久保忠佐と共に、「大久保兄弟」として徳川家康家臣の中でも武勇を馳せた人です。しかしながらその子大久保忠隣は、本多正信・正純父子の陰謀(大久保長安事件)によって改易となりました。(大久保忠隣の孫娘を妻としていた里見義康も改易となり、里見家もここで途絶えています)関連の記事東海道~小田原宿(その1)→こちら小田原城(その1)→こちら小田原城(その2)→こちら小田原城「総構」→こちら石垣山一夜城→こちら早雲寺→こちら名胡桃城→こちら山中城(その1)→こちら山中城(その2)→こちら八王子城(その1)→こちら八王子城(その2)→こちら鉢形城→こちら鉢形城北条まつり→こちら忍城→こちら
2009/09/16
コメント(2)
旧東海道を江戸から下っていくと、酒匂川を越えたところで、東海道9番目の宿場町である小田原宿に入っていきます。歌川広重「東海道五十三次内 小田原」当時は酒匂川を渡し舟で渡っていたようです。旧東海道の小田原宿の入口には、江戸口見付と一里塚が設けられていましたが、現在となっては国道1号線の脇に、その位置を示す碑が建っているだけでした。江戸口見付と一里塚の碑。この辺りは小田原城総構の東の端に当たるため、土塁や空堀の跡を探してみたのですが、住宅地が広がるばかりで発見することはできませんでした。今回は小田原城二の丸でレンタサイクルを借りて、小田原宿を散策しました。一里塚のところで再び自転車に乗ろうとすると、地元の人に呼び止められました。聞くと、「街めぐりをするなら、『北条稲荷』に行くといい」とのことです。北条稲荷と聞いて行きたくなったのですが、ご丁寧に北条稲荷の由緒まで教えてくれて、さすがに二の足を踏みました。結局は北条稲荷に向かったのですが、北条稲荷は旧東海道のすぐ近く、江戸口見付のすぐ南側にありました。北条稲荷北条氏の時代に建立された神社で、勧進の時に小田原城にあった「蛙石」を移したと言われ、「蛙石明神」とも呼ばれています。この蛙石は小田原に異変があると必ず鳴くという伝説があり、小田原城落城の時は、ずっと鳴き声が止まなかったと言われています。さらに国道1号線を西に向かうと、東海道はクランクのように大きく鉤型に曲がっています。ここから小田原本町となり、小田原宿の本陣が置かれていた中心部となります。小田原城の大手門も東海道に面した位置にありました。鐘が乗ってしまっていますが、小田原城大手門の跡です。鉤型に曲がった街道の角には、「なりわい交流館」と名付けられた建物があり、中に入ると無料休憩所となっていました。なりわい交流館関東大震災で被害を受けた問屋の建物を、昭和7年に復元したものです。ここでは小田原提灯の製作体験もできるそうで、ちょうど年配の方々が小田原提灯を作っていました。何やら議論が行われていたので聞いていると、「『提灯をぶら下げる』という表現はおかしい」とのことです。(「おさるのかごや」の話だと思うのですが、正しい提灯の持ち方については、結局わかりませんでした)小田原宿は城下町と宿場町が一体となった場所であり、当時から相当な賑わいを見せていたことだと思います。当時の東海道宿場町の繁昌番付では、堂々と東の横綱でした。東海道宿場町繁昌記(「なりわい交流館」にて)各宿場町の名物も書いてあるのが興味深いところですが、戸塚の「うどん豆腐」って何なのでしょうか。なりわい交流館から先の東海道は、本陣が置かれていた場所であり、小田原宿の中心となっていました。現在の小田原本町。今も旧家屋や老舗が街道沿いに軒を並べていますが、そんな老舗の1つが「ういろう」で、北条早雲の時代から続く老舗中の老舗です。「ういろう」は元々薬のことを指し、中国から移り住んだ陳外郎(宗敬)に由来するそうです。その外郎家で出されていたお菓子が、現在の「ういろう」となりました。北条氏から特別な知遇を得てきた外郎家ですが、1590年の豊臣秀吉による小田原攻めで北条氏が滅んだ後も、小田原に残ることを許されて、現在に至っています。まるで天守のような建物ですが、「ういろう」の中に入ると、今もお菓子と薬の両方が売られていました。東海道五十三次で最も繁栄した小田原宿ですが、その繁栄の礎となったのは何だったのでしょうか。いよいよ「箱根の坂」も近づいてきました。関連の記事小田原城(その1)→こちら小田原城(その2)→こちら小田原城「総構」→こちら
2009/09/15
コメント(2)
1858年に日米修好通商条約が締結されると、既に開港していた下田・函館に加えて、神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港が決定されました。神奈川の開港に伴って、神奈川宿にある寺院には各国の領事館が置かれました。東海道に面した山の手には、今もその寺院が建ち並んでいます。浄瀧寺1120年に開山された日蓮宗のお寺で、開港時にはイギリス領事館が置かれていました。成仏寺鎌倉時代に創建された浄土宗のお寺で、アメリカ人宣教師の宿舎として使われました。「ヘボン式ローマ字」のヘボンはここの本堂に住み、日本初の和英辞典を完成させています。甚行寺1656年創建の浄土真宗の寺院で、フランス領事館が置かれたと言われています。そして東海道を見下ろす一段と高い場所にあるのが本覚寺です。鎌倉時代創建の臨済宗のお寺ですが、ここにアメリカ領事館が置かれました。アメリカ総領事のハリスは、自ら選んでここをアメリカ総領事館に決めたそうです。神奈川湊の渡船場に近く、眼下に横浜と湾内を一望できることが決め手だったとか…確かにここは一番眺めが良かったことでしょう。本覚寺から見た旧東海道。ちょうど京急神奈川駅の青木橋のあたりです。ちなみに、前回の記事(→こちら)で書いた「生麦事件」の時、負傷したイギリス人が駆け込んだ先がアメリカ領事館のある本覚寺でした。(イギリス領事館の浄瀧寺の方が、生麦村からはるかに近いのですが…)それぞれの寺院が各国の領事館として伽藍を提供したのですが、必ずしも喜んで提供したのでもなかったようです。中にはこんなお寺も良泉寺開港が決まると本堂の屋根をはがし、修理中を理由に領事館の提供を断ったそうです。このように開港と同時に各国領事館が置かれた神奈川宿でしたが、実際に開港されたのは神奈川湊ではなく、横浜港でした。神奈川湊は遠浅で船の接岸が難しく、東海道の神奈川宿に近いため、日本人と外国人のトラブルが起こるというのが理由です。しかしながら横浜開港を主張したのは幕府の方で、アメリカ総領事のハリスや各国の領事は横浜開港には反対でした。結局は幕府が押し切る形で、神奈川ではなく横浜開港となり、神奈川湊は廃れていきました。ちょうど今年は横浜開港150年、神奈川宿でもその幟が立っていましたが、今や横浜港は日本を代表する貿易港に発展しており、何とも皮肉な結果です。関連の記事東海道~日本橋→こちら東海道~品川宿→こちら東海道~川崎宿→こちら東海道~神奈川宿その1→こちら
2009/09/04
コメント(0)
全54件 (54件中 1-50件目)