パクス・ジャポニカ Vol.2

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2010/06/08
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テーマ: 城跡めぐり(1287)
これまでアプローチを試みながらも、本丸にたどり着けなかった城跡はいくつかあります。


千葉県富津市にある造海(つくろうみ)城もそんな城跡の1つで、城跡の位置は特定出来ていながら、何度もアプローチに失敗している城跡です。
造海城遠景.JPG
造海城の全景
この「城山」に城郭があり、頂上部には堀切跡のようなものが見えています。

これまでは海側(西側)からのアプローチを試みて失敗していたので、今度は山側(東側)からアプローチしてみることにしました。

城山の東側には灯篭坂大師があり、ここから城山の山頂に向かって尾根が延びています。
造海城灯篭坂大師.JPG
灯篭坂大師

造海城の大手口はこの灯篭坂大師にあったようなのですが、さらには灯篭坂大師の脇から細い道が延びているのを見つけたので、たどって見ることにしました。


造海城登城道.JPG
「今度こそは」と思ったのですが、あまりにも荒れていたので途中で断念しました。
軽装だったこともあるのですが、この道を発見したことで、次回アプローチのヒントを得たような気がします。
次は天敵のヘビがいない季節で、軽登山装備くらいは用意して行こうかと思います。


反対側の海側から造海城を見ると、東京湾の海岸線に城郭が張り出すような格好になっています。
造海城海岸線.JPG
以前訪れた時、海岸線の岩場に船着き場のようなものがあるのを確認しました。

内房の沿岸部にあるため、里見氏にとっては対岸の北条氏に対する重要な防衛拠点であり、同時に北条氏にとっては、房総に進出するための重要な上陸拠点でもありました。

造海城より三浦半島1.JPG
造海城から見ると、対岸の三浦半島はすぐ目と鼻の先のような感じがします。

また造海城のすぐ北側には、白狐川の河口があります。

造海城白虎川河口.JPG
この白狐川の河口から里見水軍は相模に向けて出航し、北条水軍はこの河口から上総に上陸してきたのだと思われます。

造海城は上総の玄関口であり、現在で言うなら国際空港と言ったところかも知れません。
時代が時代なら、「Yokoso Kazusa」となるのでしょうか。


それだけにこの城山山頂に足を踏み入れてみたいものです。


造海城は別名「百首城」とも呼ばれており、元々は 真里谷城 を本拠とする真理谷武田氏の築城によると言われています。


里見氏の軍記などでは、里見氏初代の里見義実と息子の里見成義が真理谷武田氏の籠る造海城を攻め囲んだ時、
「里見父子は文武両道に優れていると聞くが、この辺りの景色を詠んだ和歌を作り、手並みを見せてくれれば城を明け渡してもよい」


この時里見義実と成義はたちまち百首の和歌を作ったのですが、ちなみにその和歌とは

里を見よ はげしき春の山嵐 世をつくろみに さはらざりけり
夜をこめて 灯篭坂を越えぬれば 味方のひかり 日の出ますます
つくろうみ 川瀬定めぬ折なれど 下れる水は入るる大海
などです。
(「里を見よ」は里見にかけてあり、「灯篭坂」は灯篭坂大師のことだと思われます)

百首の和歌が優れていたので、城内の武田氏は感服して造海城を明け渡したため「百首城」の名が付いたそうです。

あまりにも美談ではありますが、これは後日里見氏によって創作された話だとされています。
(創作は里見氏の「お家芸」ですが、そもそも近年では、第2代里見成義すら実在しなかったとする説が有力です)

現代においても、和歌が優れているからという理由で、自分の家を他人に明け渡す人がいるでしょうか。
(時代は戦国時代、お人好しにもほどがある気がします)

実は百首城の由来にはもう1つ説があるのですが、こちらは生々しいので割愛させて頂きます。
(こちらの方が説得力があるのですが)


里見氏と房総の歴史には何度も登場してくるお城ですが、海と川に囲まれた天然の要害であり、それだけに重要視された拠点であると言えるでしょう。

まず造海城が戦国時代の歴史に登場するのは、1533年に起こった里見氏の内紛( 犬掛の戦い )の時です。

里見氏当主であった里見義豊が、叔父の里見実堯(里見義堯の実父)を 稲村城 で殺害したことに端を発し、里見義堯と義豊の従兄弟同士の争いへと発展した有名な内紛です。
結果は里見義堯が勝利し、里見第5代の当主となるのですが、この内紛の時に里見義堯が拠点としたのが造海城でした。

この時里見義堯が海岸の造海城を拠点とした理由は、援軍を求めるためだったのですが、その援軍を要請した相手とは、なんとそれまで里見氏と敵対していた小田原の北条氏綱です。

北条氏綱は里見義堯の要請に応じ、やはりこの造海城に援軍を上陸させています。。


さらに1537年、今度は上総の有力豪族である真里谷武田氏で内紛が勃発し、武田氏当主の武田信隆は、異母弟である武田信応(のぶまさ)と争いの中で、真里谷城を追い出されました。
この時武田信隆は真里谷城から移って造海城を拠点としたのですが、武田信隆が造海城を拠点としたのもやはり北条氏綱に援軍を求めるためです。
この時も北条氏綱は援軍を造海城に上陸させたのですが、はるばる小田原から呼ばれた理由が兄弟喧嘩の助っ人でした。

ちなみにこの武田氏の内紛をきっかけに、武田信隆が後ろ盾とした北条氏綱と、武田信応が後ろ盾とした小弓公方足利義明・里見義堯の対立へと発展していきました。
そして北条氏綱VS小弓公方・里見義堯(房総連合軍)の、 第一次国府台合戦 が勃発し、この戦いで小弓公方・里見方が敗北すると、造海城の支配は里見から北条へと変わっています。

北条氏綱の後を継いだ北条氏康も、やはりこの造海城を上総への上陸拠点としており、1554年に里見義堯の久留里城を攻めた際も、大軍を造海城に上陸させています。
(北条軍にしてみれば、敵地にありながらも勝手知ったるお城だったことだと思います)

造海城より三浦半島.JPG
造海城から見た東京湾
房総で従兄弟や兄弟の喧嘩が起こる度に、北条水軍がはるばる渡って来た浦賀水道です。

その後1567年の 三船山の戦い で里見義弘が北条氏政に勝利すると、再び造海城は里見氏の支配下となり、里見水軍の重要拠点として機能していました。
(海岸線の船着き場もこの頃造られたのかも知れません)

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現代語訳南総里見八犬伝(上)


現代語訳南総里見八犬伝(下)





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最終更新日  2022/02/02 07:03:14 AM
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