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次回のヒーリングワークin天河の日程は未定ですが、決まり次第にお知らせいたします。それまで以下の講座やイベントにご興味のある方は是非ご参加下さい。心よりお待ち申し上げております。目からのウロコの人生の謎解きと自分探しドラゴンボール講座瞑想・気功・ヨガ・呼吸法リラクセーション講座日本のスピリチュアリティMISOGI神道&滝行体験日本で最も至貴至高の聖地。神宮と天照のエネルギーを体感。ISE神宮参詣
2007年03月13日

今年の天河ワークは、40名近いメンバーが集まり、民宿も参集殿も一杯で、お陰様で盛況のうちに終わることが出来ました。 ご参加頂いた皆様、お手伝いいただいた皆様には心より感謝申し上げます。今回は日本人のルーツについて、想像以上に反響をいただき、新たな講座開催の手応えを得ることが出来ました。この中で日本と日本人の使命と役割について言及いたしましたが、個人も国家もこれから「自立」から「立志」の時代へと移行していく予感がしております。 今回の天河ワークで一番感動的だったことの一つが、二日目の朝に山上に現れた龍神か鳳凰の姿をした巨大な雲でした。「オーラの泉」で格闘家・前田日明氏が披露されていた龍神のお写真が影響して、かなり盛り上がりました。来年2007年のご参加を、今から心よりお待ち申し上げております。
2006年09月17日
神道の最高神は天照大神(あまてらすおおかみ)です。そして、その神格とは「太陽神」にして日本人の「総氏神」、さらに天皇や皇族にとっての「皇祖神」というものです。しかし、日本全国の神社を統括する神社本庁(神社新報社)から出版されている「大祓詞の解釈と信仰」に記されている天照大神の信仰的な意義を知ると、そこに不思議なものを感じ取ることでしょう。以下に抜粋する内容は、日本神話に出てくる天岩戸開きについての記述です。 ──────────────────────(天照大神の)この神隠れは、国津神スサノオノミコトの罪を、天照大神が徹頭徹尾自らあがなわれ、身を隠されたことを意味する。天照大神はスサノオノミコトの罪を責められず、その改悛(かいしゅん)を最後まで期待されるとともに、常に「むつまじき心もちて相許したもう」という大きな自愛と包容力とをもって、その罪を許し、あがなわれたと書紀に見えている。 この神隠れした大神の再出現を祈るのが、天の岩戸の祭りであって、その祈りの果てに、天照大神は再び復活され、世にいう天岩戸開きとなる。それ以後、天照大神は永遠に生き神として、輝かしい御光を私共の上に投げかけておられるのである。 天照大神は又スサノオノミコトの罪をあがなうために、一度は神隠れされるが、再び復活されて、人々に「温かい手をさしのべられ、人々の罪を許す神」として今に至って、私共の上に輝きわたられているというのが、民族古典の示すところである。 この天照大神のみ心を継がれることが、その御子孫たる歴代の天皇の大きな使命であったとしてよい。明治天皇が「罪あらば我を咎めよ天津神民は我が身の生みし子なれば」と歌われ、今上陛下が今回の終戦に際し、マッカーサーに対して「我が身はどうなってもかまわぬ。国民を救ってほしい。」と仰せられたという。この国民の不幸を御自身の責任と感じ、国民の不幸を身をもってあがなわれようとの大み心こそ、天照大神が国津神(国民)の罪を、死をもってあがなわれた、尊い救いの再現ではなかったろうか。祓いはこのようにして、大きな自愛をもって、新しい人生を創造し、人々の罪を進んであがなう、救いと悲願とがこめられているのである。 ──────────────────────いかがでしょうか。不思議とは思いませんか。というのも天照大神をイエスに、そして、スサノオノミコトをユダヤ人(全人類)に置き換えたら、この文の伝えようとしていることは、聖書に記されているイエスが十字架にかかったことの意味と全く同じだからです。 皆様、ご承知の通り、イエスはユダヤ人(全人類)の罪を一身に受けて、そのあがないとして十字架にかかり、その死後3日のちに復活したと聖書に記されています。そして、イエスの説いた愛とは許しの思想です。そのことを念頭に今一度上記の文をお読み下さい。◎「大祓詞の解釈と信仰」 神社本庁調査部長 岡田米夫著 神社新報社発行 昭和37年7月1日初版発行 平成13年2月1日22版発行
2006年09月08日
日本は仏教国といわれています。実際、日本を代表する伝統的な観光スポットである京都や奈良へ行けば、その大半はお寺です。確かにものや形、形式の面だけで捉えれば、日本を仏教国と呼んでも、何らそれに違うことはないでしょう。ところがそれらに内在する心を丹念に見つめたなら、そこには仏教でもなく、神道でもないものがあることに気付きます。日本には神仏習合という言葉があるように、神道と仏教が混じり合ったのが、日本の宗教だといわれています。しかし、真実はそれだけではなく、日本の精神文化は神道と仏教と、さらにキリスト教が混在している、基神仏習合の国なのです。「キリスト教?」ほとんどの皆さんはそう思われるでしょう。なぜならキリスト教が日本に伝えられたのは、教科書で習ったように1549年のザビエルからですが、今日形成されている日本の精神文化はそれより遥か以前のものだからです。しかし、ここでいうキリスト教とは、いわゆる皆さんが思い浮かべる西洋人が作った、西洋文化としてのキリスト教のことではありません。イエスが十字架で処刑された後に、イエスの使徒たちがその教えを西の世界に伝え、その結果として出来たのが今日のキリスト教ですが、実は西にではなくて東にイエスの愛を伝えたグループもあったのです。それが原始キリスト教であり、景教(キリスト教ネストリウス派)なのです。そして、アジアに広まったこのキリスト教は、西洋と同じくイエスの愛を伝える宗教ではありましたが、アジア圏の文化と混じり合う中で、見た目にも教義的にも西洋のキリスト教とは異なるものとなっていきました。弘法大師空海が仏教を学びに唐に渡った当時、首都長安は今のニューヨークに匹敵する国際都市でした。そして、そこには世界の最先端の文化や宗教が集まっていたのです。宗教においては仏教のみならず、マニ教、回教(イスラム教)、拝火教(ゾロアスター教)、そして景教です。特に景教は当時の唐では大変盛んで、「大秦景教流行中国碑」にはその盛んだった様子が記されています。実はそのレプリカが空海が始めた真言宗の総本山である高野山にあるのです。いうまでもなくそれは空海、すなわち真言宗と景教のつながりを暗に示すものです。真理を求めて、世界の最先端の宗教が集まる唐に渡った空海です。仏教にしか目を向けなかったと考えることの方が不自然でしょう。実際、十字を切り大日如来を拝し(景教)、護摩焚き(拝火教)をする真言密教は、釈迦の伝えた仏教はもちろんのこと、それまでの仏教とは似ても似つかぬものとなりました。つまり、空海は唐で学んだ、世界の最先端宗教の集大成として、真言宗を完成させたのです。空海だけではありません。浄土真宗の開祖親鸞が熱心に学んだ教典に「世尊布施論」(西本願寺所蔵)がありますが、これは仏教の経典ではありません。中国で7世紀に漢訳された景教の経典なのです。またその内容もイエスの「山上の垂訓」に始まり、イエスの生涯、教え、基督教の救い等について述べられているのです。「南無阿弥陀仏」を唱えて、一心に阿弥陀仏を信ずれば救われるという阿弥陀信仰も、元々の仏教にはない発想で、これはイエスを信じてその御名を一心に唱えれば救われるという、キリスト信仰に起因するものです。こうしたことからもわかる通り、日本の仏教が今日の教義に変貌していく過程で、真理は一つなのですから、それぞれの開祖たちが思想的にイエスの愛に感銘し、その影響を多大に受けていたことが伺えます。つまり、私たちの学校で習っていないところで、日本の仏教とイエスの愛には深い接点があったということです。日本に最初にキリスト教を伝えたはずのザビエルは、その書簡の中で「日本には既に主イエスの教えは伝わっていました。しかしそれは力を失い、私はそれを再びこの地に復活させるために宣教します」と伝えているのです。実はザビエルは自分が来日する千年も前の十字架をこの地に発見し、人々の心のうちにイエスの説く愛があることを見い出していたのです。
2006年09月07日
瞑想の目的は自分を幸せにするために、自分を見つめて、自分をとことん愛することです。そして、自分を愛するとは、以下の3つと、それをさらに細分化した7つを、それぞれ徹底して行うことです。そして、これらを毎回の瞑想のテーマとして、毎日時間を見つけて、たとえ3分でもかまわないので実践することです。自分を愛するとは…【1】許す心 1.ありのままの自分を良いところも悪いところもまず知って、 2.一旦それを受け入れて、 3.その上で自分の良いところを伸ばし、悪いところを直すこと。【2】祈る心 1.自分の幸せを日々意識して、 2.自分の本心を常に汲み取ること。【3】活かす心 1.授けられた命に感謝し、 2.その恩返しとして、 授けられた能力を十分に発揮するために、日々精進すること。神社の本殿や神棚には、たいてい神鏡が正面にあります。そして、その神鏡の中に映し出されるのは、自分自身の姿です。つまり、神鏡に向かって拝礼するのは、ご祭神に対してだけではなく、神鏡に映し出された自分自身に対しでもあります。この拝礼を通して、自分という存在が釈迦の「天上天下唯我独尊」という言葉にもあるように、宇宙にたった1つしかない、尊い存在であることを自覚するのです。そして、その尊い自分を大切に愛し、幸せにするために瞑想を行うのです。
2006年08月24日
「恵」という漢字は「十」と「思」から成り立っているという俗説があります。これはイエスの「十」字架を「思」うことが「恵」みになるという意味に由来します。漢字の成り立ちがキリスト教に由来するとは、一見信じがたいことのように思えますが、中国自体が漢民族以外のさまざまな民族によって支配され、またその長い歴史の中で、さまざまな文化や宗教が流入してきたことを考えると、それは不思議なこととはいえないでしょう。たとえば定説となっている「美」という漢字は、「羊」と「大」から成り立ち、神に捧げる最も神聖な羊の姿に由来し、また犠牲の「犠」も、神に牛を捧げるという、漢民族の文化や宗教にはない、他民族、他宗教のものです。実際、唐の時代の長安では仏教、ゾロアスター教、マニ教、景教(原始キリスト教)、回教(イスラム教)などのさまざまな外来宗教が大変盛んでした。一方、日本では応神天皇の時代に、秦氏(はたし)という渡来民族が九州大分の宇佐から、大挙上陸移民してきました。彼らは高度な土木技術によって平安京を築き、それ以外の分野でも、酒造、養蚕で優れた技術を発揮しました。そしてさらに特筆すべきは、秦氏が伊勢神宮や伏見稲荷大社をはじめ、古(いにしえ)に起源を持つ神社の大半の建立に携わり、またその神官に収まってきたことです。そこで日本の神道にある、八百万の神、八坂神社、八幡神、八大龍王の「八」に注目してみましょう。なぜ六でも七でも九でもなく、八なのでしょうか。それは他でもない渡来の秦氏が信ずる神を表しているからなのです。つまり「ヤーの神」(ヤハエ)です。秦氏が景教を中心とする原始キリスト教を信奉していたことは、歴史の記すところです。この原始キリスト教とは今日私たちがよく知っている、欧米のキリスト教のことではありません。イエスが十字架で処刑された後に、ただ純粋にイエスの説く愛を受け入れ、イエスを救世主と信じた思想のことです。一般にイエスは全てのユダヤ人に受け入れられずに処刑されてしまったように思われがちですが、実際にはイエスをキリストと信じた者たちも多くいたというのが、歴史の真実です。そして、イエスを信じて西に行ったグループが、今日の西洋文明の精神的支柱であるキリスト教を築き、東へ行ったグループが極東の日本にまで辿り着いていたのです。また一時期は西洋でのキリスト教を凌ぐ勢いで、アジアでそれは盛んだったといいます。秦氏のうちで最も有名な人物は、聖徳太子の右腕であった秦河勝(はたのかわかつ)です。彼は京都の太秦にある広隆寺を建立しましたが、そのご本尊は弥勒菩薩です。実は弥勒信仰というのは、元来の仏教にはない思想で、イエスの死後に原始キリスト教がインドに伝わり盛んになった頃に、その思想が仏教に取り込まれたものといわれています。聖徳太子の「和をもって尊しとなす」という和の精神が、「イエスの説く愛にも匹敵する許しの思想である」と拙著「靖国」でお伝えしましたが、聖徳太子が秦氏や秦河勝と深く関わっていたことを考えれば、太子が彼らの思想に学んだことは容易に伺えます。
2006年08月23日
「天河に集まる人間は、必ず使命を持っている」(※1)といわれています。その使命を知る手がかりが、天河という地名と、祀られている神にあります。先述したように「天」という字は「愛」という意味に置き換えられます。このことから天河とは「愛の河」という意味になります。それでは「河」とは何を意味するかといえば、今日のようにモノを輸送する手段として、航空機や自動車、鉄道のある時代と違って、昔は船によって河や海を経由してモノを運んでいました。つまり「河」にもモノを「運ぶ」という意味が象徴されているのです。したがって天河とは「愛を伝え運ぶ」ことを表します。また天河神社で祀られている神は「弁財天」です。弁財天とは元はヒンズー教のサラスバティに由来します。サラスバティとは河の神です。そして、河のサラサラと流れる響きから、サラスバティは音楽の神となりました。それが広い意味で芸能の神となったのです。それでは音楽は何を表すかといえば、正に河と同様に、音楽に乗せて言葉を伝え「運ぶ」役割があります。それが「歌」です。それではどのような言葉を歌に乗せて伝え運ぶことが理想かといえば、「弁財天」という名を紐解くことで理解できます。「弁舌」「弁論」という言葉にあるように、「弁」とは言葉を伝えるという意味です。そして、天の財とは言うまでもなく「愛」のことです。すなわち「弁財天」とは、天の財である愛を言い伝えるということです。こうしたことから、たとえば「イマジン」を歌った元ビートルズのジョン・レノンは天の愛といえる人類愛をテーマにした歌を歌い、歌手として本当の意味でその使命を全うしたといえるでしょう。このように天河とは、愛を伝え運ぶ使命を自覚した人間が詣でた時にこそ、それにふさわしいエネルギーを天より授けられるパワー・スポットなのです。もちろんその自覚を持たぬ者にもパワーは感じられますが、その意味を知って訪れる者には、あたかも温泉の効能を知って、温泉に浸かるように大いなる力を授けられるのです。天河は空海や役小角が修行を重ねた聖地としても有名です。彼らは真言密教や修験道の開祖であり、大変な神通力を持った超能力者として、今日に名を残しています。しかし、彼らにとっては宗教も超能力も、目的ではなく手段でしかありませんでした。その目的とは正に人々に愛を伝え運ぶことにありました。だから、彼らも天河の力を求めたのです。「自分を愛するように、人を愛しなさい」というイエスの言葉にもあるように、人々に愛を伝え運ぶためには、まず自分自身をきちんと愛さなければなりません。したがって天河へは人々に愛を伝え運ぶ以前に、まず自分探しを目的に、自分をきちんと愛するために祈りや瞑想を行います。その後にそこで感得したものを里に帰って、人々に伝え活かすのです。(※1)「天河~メディテーション・ブック」(扶桑社刊)の「天河を訪れるにあたっての10の心得」に記されている項目です。
2006年08月14日
日本の神話の中に、有名な「天孫降臨」の話があります。古事記によると天照大神は天孫降臨に際して、孫のニニギノミコトに稲穂を渡して、これで豊葦原の国を開拓して暮らしをたてなさいと神勅されています。これが日本に稲作が伝わった始まりだともいわれていますが、さすがにこれだけでは学術的な史実とはなりえません。むしろ稲穂は神道においては、一つの信仰的な象徴と捉えるべきでしょう。稲とは「命の根」に由来して、それがイネとなりました。確かにお米を主食とする私達にとっては、肉体を生かすための命の根はお米です。それでは肉体の命の根がお米だとしたら、精神の命の根は何でしょうか。「人はパンのみによって生きるにあらず」とは聖書に記されているイエスの言葉です。確かに肉体はパンやお米といった食物によって生きるものですが、精神は違います。人の精神が何によって生きるかを知るには、人がどのようなときに精神的な救いを求めるかを理解することでわかります。もし私達が「自分は皆から愛されている、親からも、伴侶からも、仲間からも、社会からも」と、心から確信していたなら、決して「誰か私を救って!」と救いを求めることはありません。しかし、その反対に「自分は誰からも愛されていない、親からも、伴侶からも、社会からも」という思いが募るほどに、人は精神的に耐え切れぬほどに孤独になり、最後には「誰か私を救って!」という懇願になるのです。つまり、人は精神的には愛なしでは生きていかれないのです。「そんなことはない、自分は生きている」とうそぶく人がいたなら、それは単に自分の心とまともに向き合っていないから気付かないでいるに過ぎません。精神の命の根とは、間違いなく愛です。「一粒万倍」という言葉があります。それは一粒の籾(もみ)から万倍もの稲が収穫されるという意味です。それと同じような逸話が先述したイエスにもあり、十ほどもないパンと魚のはずなのに、それらが集まった五千人の群衆全員に行き渡るという、奇跡が聖書には記されているのです。また、夫婦の間に宿った新たな命を「愛の結晶」といいます。つまり、愛には新たな命を生む力があるということです。そして、こうした愛の働きがイエスの行った奇跡の逸話に表わされ、一粒万倍の働きをする稲に象徴されているのです。つまり、稲とは単に食物としての命の根を意味するのではなく、精神の命の根である愛を象徴しているのです。そして、人々に愛を照らす神である天照大神が、ニニギノミコトに稲を託したのは、人々に愛を広めなさいという神勅だったことに他なりません。日本人は昔からお米を特別扱いしてきましたが、それは経済的な意味合いからだけではありません。それは後付けの意味に過ぎないと言ってよいでしょう。人々がお米に対して特別な価値を見出したのは、それが人間が生きるために不可欠な肉体的な命の根、そして、精神的な命の根を表しているからなのです。つまり、私達の先祖が他の食物と違って、お米に特別に精神的な意味合いを持たせて尊ぶのは、それが人間にとって一番大切な命の根、すなわち「愛」を表しているからなのです。また、そのような思いで食卓にあがったご飯をいただいたなら、真にお米のありがたさ、尊さを感じることが出来るでしょう。
2006年07月24日
日本全国には沢山の温泉があります。そして、温泉は私たちに安らぎや気持ちよさ、さらには新たな活力を与えてくれます。しかし、温泉はただそれだけではなく、それぞれに効能があり、病んだ体を癒す働きがあります。したがってそれぞれの効能をよく知った上で温泉に浸かると、ただ気持ち良いだけではなく、より一層の効果を得られます。それと同じように全国には目に見えないエネルギーの噴き出し口である、パワー・スポットがあります。そして、ここでも心身の浄化と治癒が促されて、自然や宇宙の活力を与えられます。また瞑想や祈りを行うと、確かにその効果には日常では得られない成果が得られます。しかし、温泉と同様にパワー・スポットにも、やはりそれぞれに出しているエネルギーの違いから、心身に与える影響も全く同じではありません。これはパワー・スポットに優劣があるという意味ではありません。ちょうど内臓にはそれぞれに役割があって、どれ一つ欠けても体が正常に機能しないように、パワー・スポットにもそれぞれに役割があるということです。したがってその役割や効能を知った上で、パワー・スポットのエネルギーを求めると、ただ単に町中に比べてパワーを得られるから、というのとは随分と得られるものが変わってきます。そして、そのエネルギーの種類や効能を知る手がかりの一つが、パワー・スポットの地名であったり、由来であったり、あるいはそこが神社仏閣であったなら、その御祭神やご本尊の性質なのです。当然のことながら、古の人々はそれを知り感じていたからこそ、そのパワー・スポットにふさわしいエピソードを与えているからです。「天河」そして、その御祭神である「弁財天」もまた然りです。
2006年07月23日
もちろんすべてに当てはまるわけではありませんが、天河をはじめ、世界のパワー・スポットと呼ばれる聖地には、海抜1000メートルという共通点があります。それは何故でしょうか。私たちはいつのまにかこの世に生を受けた後の、この世の価値観や常識、あるいは現実的な肩書きや立場で物事を判断したり、あるいは自らを無意識にそれらのものと比較して一喜一憂して、見つめるようになっています。その結果、自分の本心(真我、内なる神)というのが、とてもわかりにくくなっているのです。海抜1000メートルの気圧というのは、ちょうど私たちがこの世に生まれ出る前の、胎内の環境に近いといわれています。この世の価値観や常識、肩書きや立場を持つ前の意識の状態、つまり、自分がこの世に生を受けた役割や意味、あるいは使命のすべてを知っているといわれる、本心(真我、内なる神)に、よりアクセスしやすい環境にあるということです。そういうことからパワー・スポットというのは、何か特別なミラクルを期待するために参るというよりも、自分を見つめ、自分の本心を感じて、本当の意味で自分らしく生きるための道を見出すという、自己実現を促すためのエナジーを秘めた聖地といえるのです。そして、それが叶ったときに結果としてミラクルを引き起こすのです。
2006年07月22日
この宇宙や自然はすべてにおいて一貫性があり、法則で成り立っています。また、それはミクロからマクロ、さらに目に見える世界から目に見えない世界に至るまでの一貫性であり、法則性です。だから、私たちはそうした一貫性や法則性から、真理を見出すことが出来るのです。つまり、この宇宙や自然を見ることで、私たちは心の持ち方や人生のあり方、人としての生き方といったものまで、知ることが出来るというのです。たとえばイエスは荒野での40日間の断食瞑想を通して、この世は「愛」であることを悟り、釈迦も同様にしてこの世は「慈悲」であり「空」であると人々に伝えてきました。このようにして自然から真理を見出す姿勢のことを、日本語では「神ながらの道」(惟神の道・かんながらのみち)といいます。これは神の摂理にしたがって生きるという意味ですが、この時の神とは大自然そのものを指します。そして、これが神道の精神なのです。だから、神道には教義も教典も教祖も存在しません。なぜなら自然こそが教義であり教典であり、教祖だからです。しかし、このような神ながらの精神は日本の神道だけではなく、北海道のアイヌ、オーストラリアのアボリジニ、アメリカのネイティブ・アメリカン、ハワイのカフナなど、さまざまな民族の中に元来ありました。それが今日の世界的な広がりを持った宗教の伝播と共に次第に力を失い、人々も自然から直接に真理を得るというよりも、所属する宗教団体の教義をそのまま受け入れるようになっていきました。このようにしてみたときに、イエスも釈迦も神社の神主ではないけれども、一宗教の教祖・開祖である以前に、自然に求め、自然から真理を見出すという神ながらの精神を持った、一人の神道家だったといえるでしょう。また私自身、イエスや釈迦の言葉をよく引用するのも、彼らの言葉が特定の宗教の教えなどではなく、神ながら精神に基づく万人に通用する、普遍性を持った言葉だからです。
2006年07月21日
自分を見つめるための瞑想を行う、スピリチュアルな人々は、遥か遠い昔のあの空海に至るまで、その成果をあげるための、特別な場所を求めてきました。そして、今日ではそれを俗にパワー・スポットと呼んでいるのです。たとえば天河という地は空海や役行者が修行した聖地として有名ですが、ここは高野山、熊野、吉野という三大聖地の中心に位置し、その中でも天河神社の鎮座する地名は「坪内」といって、パワー・スポットをそのまま言い表したものになっています。ツボというのは人体であれば、気というエネルギーの出入り口であり、話のツボを心得ているといえば、話の要点を心得ているということです。つまり、坪内というのはそうしたパワー・スポットのさらにその中心という意味なのです。そして、そんなパワー・スポットで瞑想や祈り、あるいはさまざまな修行やワークを行うと、街中で行うのとは違って、遥かに成果が得られるというのです。ちょうどそれは流水プールに例えることが出来るでしょう。いわゆる普通のプールで泳いだなら、自分の持っている体力や技術の分だけしか、前に進んで泳ぐことが出来ません。ところが流水プールで泳いだなら、プールの流れに乗っているので、どんどん前に進んでしまいます。パワー・スポットと呼ばれている場所は、スピリチュアルに何かを向上させたいような時に、あたかも流水プールで泳ぐように、その成果をもたらせてくれるのです。
2006年07月20日
神は愛なり。キリスト教に限らず、多くの宗教はこれが真理だといいます。この時の「神」とはこの宇宙を作り給うた存在のことです。しかし、日本語の「神」という言葉は英語のGodとは違い、それ以外のさまざまなものをも指しています。自然界のエネルギーを風神、雷神などといい、先祖を氏神、悪霊は魔神と呼びます。またすでに他界して幽霊となった人も神となります。つまり、八百万(やおよろず)の人間の力の及ばない存在をすべて神というのです。確かに昨年アメリカを襲ったハリケーン・カトリーナは、あの世界一の軍事力を誇るアメリカでさえ、為す術もありませんでした。ちなみに刑事ドラマで亡くなった被害者のことを、よく「仏さん」と言いますが、本来は仏になるのではなくて、神になるというのが、正しい日本人の観念でした。仏というは悟りを開いた人という意味です。したがって死んだら誰もが悟りを開いた人になるというのはおかしな話で、死んだら誰もが私たちの遠く及ばない存在、つまり、神になるのが正しいのです。しかし、神仏習合といわれるように、いつの間にか日本人の感覚の中で、神も仏も同一に考えられるようになった結果が、あの刑事ドラマのセリフになったわけです。さてそこで英語のGodのように、この宇宙を作り給うた存在に限定した言葉でそれを言い表すならば、それは「天」です。つまり「神は愛なり」というのは、言い換えれば「天は愛なり」ということになります。つまり、「天=愛」ということが出来るわけです。したがって「天」という文字のつく言葉は、そのまま「愛」という言葉の意味に置き換えることが出来るのです。たとえば日本の神々の最高位にあたる「天照大神」とは人々に愛を照らす神ということになるし、「天国」とはどのような世界と尋ねられたなら、それは愛の国、愛に満ちあふれた世界となります。また西郷隆盛の「敬天愛人」も、私たちは愛を敬い、その愛をもって人を愛しなさいということになります。いかがでしょうか。「天」という文字のつく言葉をこのように捉えると、それぞれの言葉がとても生き生きとイメージ出来るのではないでしょうか。
2006年07月19日
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