2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
全21件 (21件中 1-21件目)
1
連日飲んでる。 しかしこれは一応授業の一環。文集を作って、合評するというもの。何年か前から飲み会のセットになった。うるさい居酒屋なので教育効果は薄い。後期からは教室でやるかも。 授業の時は、私はかなり機能的な存在になっており、少々の美少女がいようと、びくともしない。飲み会で初めて名前を覚えるといった感じ。うちの大学の一年生は沖縄の土地柄もあり、異様になれなれしい。ため口である。が、3年4年と進むにつれ、だんだん態度が丁寧になっていく。これは徐々に尊敬が深まるとも、当初感じた親しみが次第に薄れるとも、考えられる。
Jul 31, 2003
コメント(0)
午前中は「ピノキオ」の着ぐるみ劇を鑑賞。牛乳のマークを集めると招待されるやつ。思ったよりも良かった。上の4才はともかく、2才が最後までこらえたのは感心。 午後から病院。長男が「飛び火」にかかった。見た目結構すごくて心配。 夕方から「貘賞」の授賞式。文芸部員も結構来ていたし、尊敬している船越義彰氏とお話出来たのも良かった。 受賞者と文芸部員で記念撮影。私の大学時代、仲間五人と写した写真がある。その全員が、研究者になった。普通千葉大卒で、研究者というのはそんなにいないのだが、あの時のグループは今思えばどうしようもない連中だったのだが、何となく仲間内でそういうのやってみようか、という気分があった。案外なれるものである。 何でもいいのだが、仲間に恵まれて力以上のことが出来るという事が良くあるものである。全く無名な連中によって作られた同人誌が、後に文学史に残るようなケース。例えば「白樺」とか「白痴群」とか・・・。あの時の仲間が、創作志向だったら、売れない作家とかになっていたかもしれないな。
Jul 30, 2003
コメント(0)
今日で前期の授業は終わり。最後は太宰の「トカトントン」だった。http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2285.html こういう小説です。戦後の虚無感って事なんだけど、虚無感を感じることすらむなしい、という自己言及性が、とても現代的、というか現代そのもの。 ぼーっとしている学生見てると、頭の中にトカトントンが響いているんじゃないかと思う。あ、俺もか?というわけでテスト採点に情熱をかけよう。その後、ウルトラマン。
Jul 28, 2003
コメント(0)
沖縄に来て10年になるが、やっぱ今年の暑さは異常だそうである。私の古くからの友人は、暑さに強くなっただろうと誤解するが、ほとんどクーラー環境なので、かえって弱くなったかも。さらに寒さには異様に弱くなった。 まあ7月と1,2月は毎年そうなのだが、いそがしい。本当は普段が暇すぎるだけで、多くの社会人が年中これ以上の多忙に終われていることくらいは知っている。 寒暖にしても、自由な時間にしても、本当に楽に慣れるのは早いなあ。というつまらないテーマでした。
Jul 25, 2003
コメント(1)
まだそういう段階ではないが、仮に今論文を書き出すとすればという前提で、構成を作ってみた。これは四年生の卒業論文指導のために作ったもので、実際にこうなるかどうかはわからない。「ノンマルトの使者」論ー金城哲夫と沖縄(仮)、「〈使者〉というモチーフ」の方がいいかも序論 サブカルチャー批評の方法について、金城哲夫の位置、「ノンマルトの使者」の概要等一章、「ウルトラマン」「ウルトラセブン」の時代(1)大状況:高度経済成長期、宇宙開発競争、科学への夢。公害、交通事故、都市化の問題点、科学に対する懐疑。薄れゆく「戦争」体験と冷戦状況、キューバ危機からベトナムへ。(2)テレビの時代:受像器の普及。海外テレビドラマの大量輸入。ゴジラからウルトラマンへ。商品版権の問題。(3)沖縄問題:アイゼンハワー一般教書から佐藤ニクソン会談、復帰へ。 これらの状況を簡単にまとめる。二章、金城哲夫の両義性 金城哲夫の伝記は先行文献の紹介程度にとどめる。金城にはヤマトへのあこがれと沖縄へのこだわり、というような相反する価値の葛藤があった。金城の〈使者〉意識はこの両義性に発する。二つの異質の価値を仲立ちすること。 この章は全体に関わる重要な部分なのだが、まだ準備不足のため、うまく節に区切れない。「玉川学園慰問隊」のエピソード、大城立裕の「文化的劣等感」の問題などをからめ論じる。またしばしば市川森一のキリスト教と対比される金城の沖縄性だが、金城の実家もクリスチャンだったことに注意。三章、〈使者〉達の系譜(1)「ウルトラマン」 「ウルトラマン」の枠組み。民俗とSFとの二重性。*「恐怖のルート87」交通問題と神話とを結びつける、使者=死者、モチーフ的にはもっとも「ノンマルトの使者」と関連がある。*「 禁じられた言葉」ここではウルトラマン自体が、使者となり、交渉は成立する。→セブン「闇に光る目」( 藤川桂介)、「ウルトラ警備隊西へ」*「小さな英雄」におけるピグモン。怪獣とのコミュニケーション。無惨な死。しかしメッセージ自体は伝わる。なおピグモン(ガラモン)は八重山エリアの神々、特に「アカマタ」にそっくりである。これは上原輝男経由の知識か?(2)「ウルトラセブン」 侵略物としての「ウルトラセブン」の枠組み。フォークロア的な異界との接触が、きわめて困難になる。セブンとダンという異質なもの同士との連帯は、「敵」の存在によって強められる。「戦友」というモチーフ→「コンバット」*良くしゃべるウルトラセブン。ウルトラマンは変身後、人間と言葉を交わすことはほとんど無かった。*「ウルトラ警備隊西へ」、和解の困難。藤川シナリオの「闇に光る目」についても、宇宙人であるセブンだから信じるのであって、人間と宇宙人が和解したわけではない事に注意。*「蒸発都市」、ユタ花村。作品構造上はほとんど不必要な仲介者はなぜ現れたか、しかもユタという名を付けたか?四章「ノンマルトの使者」(1)シナリオライターとチーフライター(2)〈使者〉の純粋性。(3)シリーズ全体への違和と、「カクテル・パーティー」芥川受賞。沖縄意識の再浮上。 大城の芥川賞受賞は67,7,23であり、ウルトラセブンの制作中の出来事であった。(4)〈使者〉の挫折と、強者の勝利。結論 帰沖後の「風雲 琉球処分前夜」の宜野湾親方の造形に言及しながら、全体をまとめる。参考文献、ちょっとやりかけ 『金城哲夫シナリオ選集』(金城哲夫シナリオ選集を出版する会 代表 屋良朝輝)アディン書房 1974。『ノンマルトの使者』金城哲夫、宇宙船文庫 1984.9『金城哲夫の世界 脚本集[沖縄編]』金城哲夫の世界実行委員会編 1993,2 パナリ本舗『ウルトラマン昇天』山田輝子 朝日新聞社 1992,8『金城哲夫 ウルトラマン島唄』上原正三 1999,10 筑摩書房『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』佐藤健志 文芸春 1992,7「私の思い出・戦争・金城哲夫・ウルトラマン」 上原正三 『うらそえ文芸』第8号 2003,5『怪獣使いと少年』切通理作 1993、7 宝島社 『GARVE 特集・ウルトラマンを作ったウチナーンチュ金城哲夫』 1993,7 『帰ってきたウルトラマン大全』白石雅彦・荻野友大編 2003,1双葉社『怪獣学・入門』 町山智浩編 JICC出版局 1992,7『ウルトラセブンアルバム―空想特撮シリーズ』竹内 博 編『小説ウルトラマン』金城 哲夫 『ウルトラマンの東京』実相寺 昭雄岩田功吉「さまよえるウルトラマン」(東京大学出版会『UP』1995年2・3月号)大江健三郎「破壊者ウルトラマン」『世界』1973,5大城立裕「金城哲夫の沖縄芝居」『沖縄タイムス』1993,7,21上原正三「なぜ、今」同、22満田カズホ(のぎへんに斉)「怪獣ネーミング秘話」同、23大城立裕 「心残りの記」(エッセイ)『金城哲夫シナリオ選集』金城哲夫シナリオ選集を出版する会編 1977,2 アデイン書房刊大城立裕「金城哲夫の帰郷」(コラム)『琉球新報』1988,5,29大城立裕「金城哲夫が、いま」(エッセイ)『日本経済新聞』(夕刊)1993,7,14
Jul 23, 2003
コメント(0)
夏休み前のテスト期間に苦しむのは学生だけではない。まあ私の場合は最大80人程度で、マスプロクラスはもってないんだけど、それでも苦手なものはしかたなく、つらいつらい・・・ 学生のみなさん。試験はなるべく濃い筆記用具で、丁寧に書きましょう。
Jul 22, 2003
コメント(0)
『金城哲夫全集』をもし発刊するとしたらシナリオ30分ものの分量計算『ノンマルトの使者』の版組 20字*18行*2段 (720字)例「まぼろしの雪山」18ページ、これに扉とスタッフ名簿が各1ページ。 シナリオ部分は12,960字 、題字、スタッフ名簿を詰めると原稿用紙33枚程度。改行が多いため、一行文字数を増やしてもあまり効果は出ない。 約700行と考えるといいかも。 一般的なA4版の書籍だと、22行程度が標準。この2段組だと30分シナリオ一本16ページが目安になる。なおシナリオ集『金城哲夫の世界』は、ポイントを小さくして30行とっている。これは率直に言って見づらい。金城哲夫 のシナリオ円谷系 本来単著のみを中心にすべきかもしれないが、それだと例えば「ウルトラ作戦第一号」などがはずれてしまう。一方共著者の著作権も存在するため、専門家に相談が必要かも。ウルトラQ 12本、ウルトラマン15本、ウルトラセブン15本 マイティジャック1本(60分もの、2本で計算)、戦えマイティージャック7本、怪奇大作戦3本、帰ってきたウルトラマン1本、怪獣ブースカ2本 以上全て製作、小計55本未製作、woo2本(『ノンマルトの使者』に収録)、ウルトラセブン2本(このうち「認識票NO3」は『ノンマルトの使者』に収録、「人間泥棒」については未詳)小計4本 ここで中間集計をすると、59本。標準的な本の形態にすると、概算で944ページになる。小熊英二の『〈民主〉と〈愛国〉』が966ページ(ちなみに6300円、新曜社)なので、まあ一冊でも出来ないことはないが、上下2分冊にすると500ページ弱の製本が可能。この中に円谷プロの日誌や、ジュブナイル、ノート「ウルトラセブン覚え書き」等を加えることが可能だと思われる。 仮に企画が『金城哲夫・円谷プロ全作品』だと、装幀にもよるが、上下分冊、セット価格5,000円台で出版可能かもしれない。 ただこれだと全集では無いので、円谷以前と帰沖後を含めると、映画「吉家チルー」および6編の沖縄芝居、5本(内前後編1本)のラジオドラマが『金城哲夫の世界』に収録されている。この本は前述の通り、ややきつい版組をしているが、300ページである。これに未上演の『剣は知っていた』および沖縄芝居と内容酷似のために省かれたラジオドラマ2本を加えると、ほぼ沖縄分は網羅できる。その他パイロット版のドラマ『沖縄物語』が3本(このうち一冊の台本が行方不明)、テレビドラマ5本。何とか一冊でいけそうな感じ。『金城哲夫全集』全三巻、A4版二段組み平均500ページ、分売不可。ニーズが不明なため価格設定は難しいが、一万円は切ることが出来ると思う。
Jul 18, 2003
コメント(1)
サブカルチャー批評の問題点 まず第一に、とてつもなく多くの人が興味をもっているという点にある。例えば、私はもとは鏡花を研究していたのが、「高野聖」あたりならともかく、「縁の女」など、研究者しか読まないのである。一念発起しても、ある程度修行しなければ、読破は難しい。小栗風葉あたりになると、普通存在していたことすら知られていない。ここに専門家の優位性がある。 これに対して、サブカルチャーは誰でも簡単に見ることが出来る。それゆえ専門家の優位性というのはほとんど無い。センスの無いことを論じたら、バカ丸出しである。非常にリスクの大きい分野である。例えば社会学者の大澤真幸という人は、とてつもなくえらい社会学者であると思われるが、彼の西田幾多郎論と「ウルトラマン」論とを比べれば、その違いは明らかである。まあバカ丸出しまでは行かないが、ウルトラマンマニアなら、簡単につっこめる部分がある。 ついでネットという表現媒体の出現によって、サブカルチャー批評においては、マニアの水準が異常に高くなった。やや傲慢であるが、ネット内の文学ファンの議論という言うのは、まあたいしたものはない。これに対してサブカルチャー系の議論は、しばしば侮りがたい水準に達している。特にウルトラセブン系は、その最高峰のひとつだと思われる。決して無視できない。 例えば私はウルトラセブン11話「魔の山へ飛べ」および13話「V3から来た男」にアンヌ隊員が登場しないことを、男の友情を強調するための意図的な設定だと考えた。特に「魔の山へ飛べ」のソガの男泣きはアンヌがいないことによって成立している。しかしネットで調べると女優としての自覚にかけるアンヌ役のひし美ゆり子に怒った、満田監督に干されたらしいことがわかる。http://www7.gateway.ne.jp/~okhr/page09.htm この事例には、さらにサブカルチャー批評における、別種の問題が含まれている。シナリオライターの意図とは、作品の中で常に部分的であるという点だ。文学研究の場合は読者論(受容理論)というものがあって、作者の意図はカッコにくくり、作品がどのような効果をもたらすか、という事に重点をおく場合がある。この立場に立てば、先の問題は、「(理由はどうあれ)アンヌの不在により、男の友情が強調された」と記述することが可能である。ただこの場合は、作家論的な視点は制限される。そうすると完成作品にないシナリオ部分を批評するという行為は、原理的には許されない。実現されなかったシナリオには通常の意味での受容者は存在しないからだ。 また回をあらためるが、サブカルチャーを文学とのアナロジーで批評することに関しては、他にも様々の原理的問題が横たわっている。
Jul 17, 2003
コメント(0)
うっけさんのご指摘の通り、「ウルトラマン研究11~20」一番しっぽが切れていた。楽天の掲示板800字制限は議論マニアにとっては非常に厳しい数字なのだが、日記5,000字、ページ50,000字は、まあよほどのことが無いかぎり、余裕だと思っていた。50,000字といえば原稿用紙125枚。まさかと思い、ワープロに貼ってみたが、すかすか改行こみで大体70枚分ぐらい。本当に50,000字なのか?今まで誰も試していないだけじゃないの? しかしまあただで借りてるんだから、しょうがないと改行詰めたのだが、あと数行なのに入らない(涙)。たとえくだらない部分でも改変しないという方針なので、「番外」を削除しました。本当に番外になってしまった。
Jul 16, 2003
コメント(0)
新着資料1『金城哲夫シナリオ選集』(金城哲夫シナリオ選集を出版する会 代表 屋良朝輝)アディン書房 1974。 何を今更だが、県立図書館に行く暇がなかった。没後一年目に主に知人友人によって刊行されたもの。限られた紙数の中で、なるべく全体像を伝えようという、苦心が感じられる。掲載シナリオは以下の通り。テレビ・ドラマ編「こんなに愛して」「翼があれば」「宇宙からの贈り物」「ウルトラ作戦第一号」「蒸発都市」ラジオ・ドラマ編「噴煙ー琉球反逆伝シリーズより」「江戸上り異聞」沖縄芝居編「風雲!琉球処分前夜」「泊気質・ハーリー異聞」「一人豊見城」 大城立裕を初め、青島幸男や藤本義一などのエッセイが掲載されている。いずれも弔辞のような内容。2,『琉球新報』1956年3月のコピー3点。 金城が参加した「玉川学園慰問隊」の記事。特に新事実はなく、『ウルトラマン昇天』の方が詳しい内容だが、当時の沖縄にとってそれなりに大きな出来事だったことが伺える。ひめゆりの塔の前で賛美歌を歌った事が、かなり大きく取り上げられている。 進行状況。ウルトラマン、ウルトラセブンの全作品見直し、ようやく完了。ただしウルトラQについては部分的だし、マイティージャックはひとつも見つけていない。沖縄在住のレンタルビデオマニアの人が、これを読んでいたら、最高の品揃えの店を、教えてください。
Jul 15, 2003
コメント(1)
トップページの写真を交換。今回も撮影は卒業生のやっすー。彼女の作品の特徴はほとんど人物がいないことなのだが、シルエットの人物がなかなか良い。場所は海中道路。貼ってみたら、予想以上によかったのだが、「オキナワの中年」というタイトルが妙に貧相に見えて、泣き。 『うらそえ文芸、8号』の批評をアップ。ややいわくつきの原稿なのだが、特に問題にはならなかったようだ。自分が知らないだけかも。 後ほど「ウルトラマン研究20」を書いて「11~20」をアップする予定。当初予定ではそろそろ下準備を終えて、テーマを絞る時期なのだが、いたずらにメモ・断片のみが増えていってる感じ。びっくりするような新事実や、新資料が無いのが残念。
Jul 14, 2003
コメント(0)
この文章は、掲示板で除籍くんに対するレスとして書いていたらむやみに長くなったため、日記にしたものです。 今回の沖縄の事件は、まずとてつもなく残虐な事件であって、途中でジュース休憩をとりながら2時間も殴り続けるなど、人間のやることとは思えません。しかも長崎の特異な事件とは異なり、再び似たような事件が起こる可能性が相当あると思われます。事実隣の沖縄市で少年による、身障者に対するリンチ殺人事件から一年もたっていません。死者が出なかったので大きく取り上げられませんでしたが、この事件発覚後も那覇で少年同士の傷害事件がありました。 しかし厳罰主義で抑止できるか、というと、私にはそうは思えません。社会の病理というと、責任の所在をぼかすという批判があるのですが、現状の沖縄はやはり相当病んでいるといわざるを得ない面があります。犯人も被害者も、家には帰らない、学校にも行かない、教師が何度家庭訪問しても家には誰もいない、この状態で学校に責任を負わせるのは酷というものです。しかも中学生だけではなく、小学生で事実上のストレートチルドレンみたいな子がたくさんいるのです。 しばらく前、近所の小学生が息子達と遊んでいて、ちょうどお昼時なので一緒に昼食をとりました。ところが次の日曜の昼時に、その子はまた我が家に来たというのです。ちょうど出かけるところだったので、「今日は遊べないから」と帰したようです。おそらくその子の家には、日曜日家族は誰もいないのでしょう(食べ物自体は多分ある)。「たいしたもの出さないんだから、飯ぐらい食わせりゃいいだろう」といったら、「毎週来るようになったらどうするの」と女房にしかられました。しかも幼い頃から、家庭というものをあまり経験できない、こういう子が大量にいるのです。完全週休二日制は、彼らの孤独を深めたと見るべきでしょう。 鴻池大臣は親の実名、顔写真を出すことで少年犯罪抑止が可能と主張しています。これは中流以上の責任感の薄い親には、ある程度の有効性を持つかもしれません。しかし貧困な家庭には、そういうルールにかわったとしても、事態を改善する余力はないと思われます。沖縄は今年ようやく首位を明け渡したようですが、離婚率が非常に高く、母子家庭の平均年収は税込み220万。来年から児童扶養手当は抑制されます。子供と飯を食う暇など無いでしょう。そしてこういう子供達を吸収していた、沖縄の地域共同体は、都市化により急速に解体し続けています。近年最も急激な都市化を経験しているのが北谷町です。雇用自体は増加しましたが、移入人口も増え、結果として経済格差は大きくなりました。しかも少年達の金銭欲を刺激するショップやゲームセンターなどが急増。さらに沖縄市にかわって、米兵達の主な遊び場となり、アメ女と呼ばれる米軍目当ての女性の中には中学生もいるようです。 沖縄の中部においては、市町村の境界ははっきりしませんから、周辺の宜野湾市なども、その影響を受けます。率直に言って中部エリアは北谷の一人勝ちで、周辺の商業地域は壊滅しています。以上のような北谷の繁栄のしわ寄せが、子供達に向かっていると見ることも出来ると思います。 さて問題指摘は簡単なのですが、じゃあどうすればいいのかというと、非常に困難です。共同体の復活というのは、不可能だと思われます。北谷町の場合は大きな軍用地料により財政自体には余裕があると思われますから、行き場のない子供達のための公的な受け皿を作る、というのがまず考えられる対策です。児童館の中学生向けということになります。ただそれがゲームセンターのように魅力的な空間になりうるのかは、不透明です。さらにお役所的に17:00に閉まるようだと、なんの意味もありません。しかし24時間開いていると、今度は夜遊びのための、基地のようになってしまうかもしれませんし、あまり魅力的な施設にしてしまうと、今度は本来なら深夜徘徊などしなかった層を掘り起こすという逆効果にもなりかねません。むう、難しい。 次に厳罰化です。とはいっても起こってしまった事件に対する厳罰化ではなく、それを未然に防ぐためのものです。今回の事件の加害者は、実に30回以上の補導歴があるということです。30回も補導していながら、その子の凶悪犯罪をくい止められなかった、ということになります。そこで補導した少年については、その原因を究明し、問題解決に至るまでは親権を停止し、期限をもうけず、保護施設に強制的に収監するという対策です。 これはあるいは劇的な効果を上げる対策かもしれませんが、実際に殺人、傷害等の凶悪事件に関与する割合はごく少ないのにもかかわらず、疑わしきはとりあえず閉じこめておく、ということに他ならず、人権上議論に値しないようにも思います。 どうもいけませんな。
Jul 13, 2003
コメント(1)
平成に入り「ノンマルトの使者」の続編が作られたらしいことはかなり前に知っていた。が、今回の課題の性質上、金城の死後の作品についてはふれる予定はないので、まあウルトラマンエースがセブンに「兄さん」と呼びかけようが、ダンがレオの鬼コーチになろうが、差し支えないのである。しかし「私は地球人」についてはそういった問題とはぜんぜん異なった性質がある。この作品自体が1999年発表と、既に四年も前の作品であり、おそらくファンサイトではさんざん議論され尽くしたのであろうと思われるが、せっかく見たので感想を記しておきたい。 1.まず率直な印象としては、こんな事していいのか、というものであった。まあ、ウルトラセブンの版権は円谷プロにあるのであり、どのように利用しようが、法的に問題はない。ミロのビーナスの所有者が、自由に腕を継ぎ足しても、多分問題はない(これはちょっと自信がない、問題あるのかも)。特にサブカルチャーの場合、実は星飛雄馬は右利きだったという無茶な設定で「新巨人の星」が書かれている。 ただ何となく思うのである。これが「明日のジョー」で、ジョーが再び修行してホセに挑戦していいのか、という問題である。むう、例が古いな。「BANANA FISH」のアッシュは実は生きていた、といえば若い人にもわかるだろうか。 文学の世界におけるこれほどの暴挙は井伏鱒二による「山椒魚」の改変だろう。詳しい内容は省略するが、半世紀以上親しまれ、教科書にも載るような有名な作品を、作者が唐突に改編したのである。当然著作権法上、全く問題はないのだが、「作品は誰のものか?」ということで、結構議論になったものである。2,次に少しややこしい問題であるが、文学性という問題がある。近代文学というのは、逍遙による「勧善懲悪」の否定に始まったとされる。要するに「正義の相対化」である。 しばしばエンターテーメントに、「正義の相対化」を持ち込むと、「単なる子供向けではない」と評価されたりする。「マジンガー・Z」より「ガンダム」のほうが高級な感じがするのはそのためである(それだけではないが)。 実は「ウルトラセブン」がシリーズ最高傑作といわれる理由のひとつ、しかも相当大きな理由が、この「正義の相対化」なのである。特に「ノンマルトの使者」の場合、ネットで検索すると、ほとんどがこの「正義の相対化」にスポットを当てており、アンヌ隊員の水着に言及するのは、私のような真の「セブン」ファンのみだと言えよう。 最も安易なパターンは、最近で言えば、「ブッシュ大統領に見せたい作品」などという賛辞である。ちょっと前だと、諫早湾の干拓に引きつけた例もある。そして何度か言及した切通氏も、「正義の相対化」マニアである。あるいはこんなマニュアル化が出来るかもしれない。「勧善懲悪のシリーズ中に「正義の相対化」を含むと、高級感が出る」 しかしこれは非常な単純化であって、例えばある日アンパンマンが内省して「バイキンマンをアンパンチで倒すのは、暴力の肯定ではないか」と苦悩する場面を想像すればいい。これは必ずしも冗談ではない。例えばドラゴンクエストⅣでは、魔王にも事情があるという要素を加えようとしていた。「宇宙戦艦ヤマト」も、ガミラスを叩きのめした後、大切なのは「愛し合うこと」だとか言っている。しっかり探せば、このような勘違いの「正義の相対化」は結構あるのではないか。そして「平成セブン」はまさにその勘違いの集積なのである。 「ウルトラセブン」に価値があるとするなら、単に内部に「正義の相対化」が含まれているからではない。そうではなく「正義の相対化」を含みつつも崩壊しなかった、シリーズの全体性にあると思われるのである。3.以下ネタバレ注意。 * * *「私は地球人」においては、ノンマルトがやっぱり地球の先住民であった事が明らかになる。その事実を隠そうというグループと、事実を明らかにしようという一派の対立。セブンは後者に味方しつつも、地球人の友情から、実力行使してきたノンマルトの怪獣を倒す。ノンマルトはおとなしく引き下がってくれる。人類は宇宙に向かって、事実を公開し、理解を求める・・・。 作品自体は結構しっかり作っているので、ビデオを見ていると何となく許されてしまうのかもしれないが、このようにあらすじにするとその欺瞞はひどいものである。どう考えても人類は、地球をノンマルトに明け渡し、火星あたりに移住すべきであろう。その際人類の築き上げた社会資本全てを賠償として提供することで、何とか勘弁していただければラッキーぐらいなものである。 逆に人類の侵略は遠い過去のことであり、既に長い実行支配によって、地球の所有権は人類に移転している。つまり時効である。ノンマルトの主張は既に言いがかりであり、テロに及ぶ以上は殲滅せざるを得ない、と開き直るべきであろう。実際の現実世界の秩序は現在そのように維持されている。 この作品を支えているのは、どんなに悪いことをしても正直に言えばみんな許してくれます、という小学生の道徳である。ポリティカルな議論は避けたいのだが、このような子供の理屈が90年代の日本に許容されていたのも否定できないと思う。そして作品内でこのような馬鹿げた話が成り立つのは、セブンが許してくれるからである。つまり旧作セブンにおいて築き上げられた、友情物語を利用して、現在クリエーターの文学気取りが可能になったのであった。
Jul 12, 2003
コメント(1)
貘賞とった学生が遊びに来たので、俺のホームページに貼っていいかと聞いたら快諾してくれた。で、トップページの詩を取り替えました。 昨夜、夜の北谷町に出かけたら、さすがに中学生の姿は消えていた。相当力を入れて巡回しているのであろう。しかしいつまで続くのか、という問題と同時に、力で押さえつけても、根本解決にはならないという気が強くする。などと他人事のように言ってはならないわけで、私も教育者の端くれであるし、何人も中学教師を送り出している。自分の子供は私立中に入れようなどと、逃げを打たずに一生懸命考えたい。
Jul 11, 2003
コメント(0)
「ノンマルトの使者」についての断片22.1シナリオと放映分の異同 非常に多い。特にレギュラー出演者は、語尾等についてはある程度の自由が認められていたようだ。逆に「真市」の子役などはシナリオに忠実である。文学の本文批評の場合は、一字一句正確にチェックしたりもするのだが、シナリオの場合そこまで厳密にやるのはあまり意味のないことだと思われるので、大きな異同だけにしておく。*もっとも大きいのはテーマに関わる、ダンの内言である。テレビ「もし、真市くんが言ったとおり、ノンマルトが地球の先住民族だったら・・・。もし、人間が地球の侵略者だとしたら・・・」シナリオ「(内心の声)真市君の言った通り、もし人間が地球の侵略者だったとしたら、ウルトラ警備隊の一員として働く僕は、人間という侵略者の協力をしていることになる……だが、ノンマルトは本当に地球人だったのか?」シナリオ ダン「真市君は、霊となって、ノンマルトの使者として地上に現われていたのだ」テレビのこの部分は驚くダンとアンヌのストップモーションに及び波の映像になっており、このダンのセリフは、ラストのナレーションに移されている。*ノンマルトの海底都市の発見者はテレビではアンヌであるが、シナリオでは一般隊員になっている。これはシナリオではアンヌがダンと一緒に海岸に出動したため。これに付随して、テレビにはなかったダンとアンヌのセリフが、シナリオ上いくつかある。例 ダン「アンヌ!君は向こうの岩陰に!」アンヌ、走る。*2回目のガイロス、テレビでは海中に沈むが、シナリオでは砂浜に投げられてから絶命する。これはあんまり重要ではないかも。*ト書きの問題「子供、すきとおるような無垢な瞳で見降ろす」 実際のテレビでもなかなか神秘的な感じのする子役を使っていたと思うが、この金城の意図がどの程度実現されていたのかは、不透明である。金城は「使者」をきわめて純粋な存在として描いていた。「と岩陰から顔を出すノンマルト!恐ろしく怪奇な顔!」 これは紫藻さんが重く見るト書きである。このト書きについては、先制攻撃したのはノンマルトであり、実際に死者も出ていること(ダン「失礼ですが、海底開発センターの遺族の方ですか?」)、ノンマルトが罪もない漁村の攻撃に踏み切ったこと、等と並び、この作品を成り立たせる重要な部分であると思われる。視聴者が一方的にノンマルトに感情移入するようなことになると、「ウルトラセブン」というシリーズ自体が、完全に崩壊しかねないからである。「ウルトラマン」のジャミラ(「故郷は地球」村山)が、のどかな山村を一方的に攻撃するのと、同じ役割をもっていると思われる。2.2グローリア号 ノンマルトが奪うイギリスの原潜の名前はグローリア号だった。これはもしかすると1949年に沖縄を襲ったグロリア台風から来ているのではないだろうか、などとふと思った。住宅の全半壊三万戸余、死者三十八人、負傷者多数。米軍基地にも多大な損害を与え、一時期沖縄撤退も議論されたそうである。まさに四年遅れの神風。当時金城は11才。しかしまあこれは「M78星雲=那覇」説と同様、証明不可能である。
Jul 10, 2003
コメント(2)
長崎の事件の被害者が、うちの長男と同じ四才であること。 沖縄の方の事件が、自宅から車で十分ほどの近所であること。 授業はみんなの前でやるし、一定の職業意識もあるから平気であるが、一人で考え事をしてると、妙に鬱になる。 四才の子供から見ると、小学校低学年くらいのお兄ちゃんは意地悪することもあるけど、高学年や中学生は優しくしてくれるという認識がある。ついて行っちゃうかもしれないよな。 親としても二歳児の次男は片時も目を離さないが、四才の方はまあ短時間なら大丈夫と思っていたし、現実にショッピングセンターなどで、短時間の行方不明になった事がある。うちの子はたまたま何事もなくすぐ見つかって、被害者はそのまま帰ることはなかった。私よりだいぶ若い両親は、たとえ周囲が慰めようと、何年も何年も自分を責めてしまうだろう。 北谷は沖縄の希望のエリアであった。返還跡地を見事に再利用したハンビー地区。米軍の存在を逆手にとって、アメリカンビレッジと称し、現在沖縄でもっとも活気がある美浜地区。これは巨大跡地利用を勧めている那覇の天久地区のモデルになっている。 比較的富裕な階層が住み、敷地二〇〇坪を越えるような大豪邸もある海浜部に対し、昔ながらの集落が残る内陸部。今回の事件はそういう場所で起こった。報道によれば被害者も加害者も経済的困難を抱えていて、子供に十分な時間をかけることが出来なかったようである。 最初来た頃は驚きだったが、深夜一二時を過ぎても、そこらをうろうろする子供達。中学生どころか、小学生だっている。希に親が何処にいるかわからない幼児すらいる。最近はすっかりなれてしまって、まあ沖縄というのはこういうもんだ、昼間は暑すぎで仕方ないだろうなどと思っていた。 今後こういう環境で、子供を育てていかなければならない。
Jul 9, 2003
コメント(1)
「ノンマルトの使者」についての断片1断片「ノンマルトの使者」の特異性 「ノンマルトの使者」については、このシナリオが金城のオリジナルではないのではないか、という考え方がある。その論拠はおおよそ以下の通りである。 脚本家金城哲夫は、何よりもチーフライターとして、シリーズ全体の統一性に力を尽くしていた。「ウルトラセブン」の全体性とはいうまでもなく「侵略」である。悪意をもった宇宙人(それに類する知的生命体)が、多様な手段を用い地球に侵略しようとする。これに対しウルトラ警備隊を中心とする地球防衛軍、およびウルトラセブンの努力により、侵略は防がれ、多くの場合宇宙人は殲滅される。これが一話ごとの基本的な枠組みである。 反復される侵略を通じ、ウルトラ警備隊のメンバーと、宇宙人モロボシダンとの友情と信頼関係は強まっていく。隊員それぞれのパーソナリティーを示すような作品を積み重ねることで、視聴者のおのおのの隊員に対する理解は深まり、地球防衛の困難さと崇高さ、さらにはそのようにして防衛されるべき地球の価値が、再確認されていく。「ウルトラセブン」の最終回とは、その決着点として位置づけられる。これがシリーズ全体をひとつの物語と見なした場合の枠組みである。 ただし発表から30年以上が経過した現在も、「ウルトラセブン」が強く支持され続けられる理由のひとつに、全体的な枠組みからはずれたシナリオの存在があげられる。それは、地球人=善、宇宙人=悪という、シリーズの枠組み自体を相対化するような作品である。例えば若槻文三の書いた「ダークゾーン」や「超兵器R1号」などが良く知られている。ダンと隊員達の連帯感を描かずに、むしろ宇宙人としての孤立感を強く表現した、市川森一の「盗まれたウルトラアイ」や、枠組み自体は単純侵略物だが、ラストのナレーションで現在の人類の不完全さを強く表現した「狙われた街」もそうであろう。 これらの作品は、金城以外のライターか、監督による大きな改変によって生まれた作品である。チーフライターである金城が基本ラインをつくり、他のクリエーターがそこに変化と多様性をもたらす。これはウルトラマン以来一貫したチーフライター金城の方法であった。本来統一感と多様性は齟齬を起こしかねない危険性があるのだが、金城は自己の判断で両者のバランスをとった。市川森一は金城の指示を受けて書いたことを証言しているし(ビデオ、『わが愛しのウルトラセブン』)、金城と他のライターとの共同脚本がいくつかあるが、これらは基本的に金城が、問題のあるシナリオに手を入れた物である。金城はそのような自分を「修理工場」と呼んだとされる(『島唄』p.149)。 以上のような前提に立つ時、「ノンマルトの使者」は特異な作品であるといえる。全体の統一感を維持する役割をもった金城が、シリーズ全体を覆しかねないシナリオを書いたからである。「ウルトラセブン」を愛し、その全ての作品を文字におこすという途方もない試みを実現した、編集人氏は、http://www7.gateway.ne.jp/~okhr/index.htm セブン途中からプロデューサーとして参加し、強い政治意識をもった橋本洋次の意志を示唆している。断片 ウルトラマンとウルトラセブン 逆に「ノンマルトの使者」を金城の代表的なエピソードと見なすのが、切通理作氏である(『怪獣使い』p.78)。切通氏はウルトラマンのシナリオから金城の考え方を抽出し、そこに「ノンマルトの使者」を接続している。切通論の特徴は、シナリオを直接的な脚本家の自己表現とみなしている点と、切通自身の世界観をかなり強く押し出している点にある。だからこそ読み物のとしての迫力があるのであるが、例えばチーフライターとしての金城の立場についての配慮などはあまり無い。それゆえ「ウルトラセブン」の全体性を作るためにどうしても必要だったセブンの初期シナリオについての言及は、ほとんど無いことになる。例外的に「宇宙囚人303」について言及しているが、囚人が「戦争忌避兵や、政治犯かもしれない」と述べ、「正義はひとつ」を「自己合理化するしかなかった」とするのは、作品全般のキュラソ星人の残忍さからすると、無理があるように思われる。ただしキュラソ星人の最期の場面における、フルハシの「まるで泣いているみたいだ」というセリフにはウルトラマンとの連続性はある。 「ウルトラマン」と「ウルトラセブン」世界そのものの枠組みが、本質的に異なっている、という点をまず確認しなければならない。 「ウルトラマン」の本質は、まず「ベムラー」のもっていた、フォークロア的な構造にある。そこに宇宙人ウルトラマンというSF的な要素をかぶせた二重構造が、ウルトラマンの枠組みである。初回と最終回、そして金城としては唯一の侵略物である「禁じられた言葉」が、SF的な枠組みであり、他のシナリオには、フォークロア的な色彩が色濃い。当然代表となるのは「まぼろしの雪山」となる。あれは正義の宇宙人と怪獣が戦っているのではない。二体の精霊の争いなのだ。ウルトラマンは寒くても平気なのである。ジラースとの争いもまさにそうであり、大地の精霊同士が力比べをしているとみるべきであろう。 「ノンマルトの使者」との関連でいえば、重要なのは「恐怖のルート87」である。この作品でも、死んだ子供がメッセージを発している。そしてウルトラマンの世界では、メッセージは、確実にウルトラマンに届くのである。ヒドラは倒していないのであるが、少年が昇天した以上、もはや心配はいらない。これがウルトラマンの世界である。逆に使者の言葉を信じて、攻撃を中止すれば、たちまちシリーズ全体が崩壊してしまうのがウルトラセブンの世界なのである。
Jul 7, 2003
コメント(1)
最近週末の行動が異様に制限されている。まあ、女房的には四六時中子供と一緒にいるわけで、週末は亭主に何とかしろということなのだが・・・・で、セミとり(涙)。 夕方から北谷の祭りに行った。卒業生との飲み会に脱出しようと思ったのだが、「花火を絶対に見る」と譲らないため、結局10時過ぎ。というわけで、のぞみその他、すまなかった。 帰ってみると、祭りの会場のすぐ近所で、死体発見。詳しい事情はわからないが、中学生が人を殺して、普通埋めるか?沖縄ではここ二三年で、確か3件目の少年による殺人である。日曜日も議論はあったらしいが、花火強行。いかがなものか?
Jul 5, 2003
コメント(2)
21時頃、突然普天間基地で爆音が・・・・テ、テロかと思いどきどきしながら、研究室のバルコニーに出てみると、なんと花火。 そうか、今日は独立記念日か。しかしニュースとかで、予告してたのかな。基地で爆音が起これば、びびるぜ、普通。実際どの程度の爆薬があるのか知らないけど、何かあったら俺もただじゃあ済まないな。「ノンマルトの使者」周辺を調べているのだが、もしかすると今回の論文のメインになるかのしれないので、ちょっと慎重。『島唄』はいい本なんだけど、レファランス厳密につけてくれればなあ、と思う。
Jul 4, 2003
コメント(1)
昨日今日と図書館にこもって、沖縄時代の金城哲夫の資料を収集しているのだが、はっきり言って難航している。 1993年、沖縄で唐突に金城哲夫ブームが起こり、「金城哲夫の世界展」が開かれたり、14であげたような資料が出されているのだが、それ以前はまるで、そんな人いなかったような扱いである。(92年から93年のブームについては、いずれ再検討しなければならない) 金城は1976年2月26日に亡くなっているのだが、県内紙には死亡記事すらない。この点について「ナビィの恋」の監督で、20年以上沖縄で暮らしている中江裕司氏は次のように述べている。「「ウルトラマン」が、なぜ年表にないんだろう。 テレビ放送が始まったのが二十世紀。そのテレビヒーローの代表は、やはりウルトラマン。そのウルトラマンを生んだ金城哲夫は沖縄生まれ。だから、ウルトラマンは沖縄が生んだ日本を代表するヒーロー。それなのに、金城哲夫の存在が地元で極めて低く、あぜんとした。沖縄は金城哲夫をもっと誇りに思うべきだ。 沖縄はエリートを大事にしないし、逆に足をすくったりする。それに沖縄のエリートほど大衆とかけ離れ、影響力を持ちえないというのも不思議だ」 『琉球新報』2000.12.29 全く同感であるが、なかなか私にはここまでは言えない。20年も暮らすと言えるようになるのだろうか。 沖縄の場合、本土で成功するというのは諸刃の剣である。安室奈美恵あたりも、この種の問題を抱えているらしい。生涯沖縄を離れないであろう大城立裕氏すら、そういう面がある。いずれきちんと考えるが、金城哲夫と大城立裕には共通点が多い。 現在の所、沖縄時代の金城を考える第一級の資料は『ウルトラマン島唄』である。もちろん一日や二日の調査で結論を出してはいけないのだが、研究者の端くれのカンとして、これにない文献資料を発掘するのは相当の時間を要すると思われる。で、沖縄時代の研究は夏休みに回して、当分はウルトラ時代に絞ることにした。まあ、もともと「ウルトラマン研究」なのでこれでいいのであるが・・・。 * * * 「ウルトラマン年表ver.2.1」をアップ。同時期のSF作品等を付け加えた。 直接、ウルトラマンには関係ないのだが、「小説遊女たちの戦争」の批評をアップ。これは紫藻さんの書き込みを見て、確かそんな小説を論評したはずだ、と思い出したため。個人としての日本兵と住民、特に慰安婦との関係を描いた、数少ない作品である。 一応98年以降に県内紙に書いたものは全てアップしたつもりだったが、結構いい加減かも。
Jul 3, 2003
コメント(2)
断片 ウルトラセブン第一話のシナリオ書き込みについて これは川端氏の論に大いに触発された部分だが、セブン第一話のシナリオには次のような書き込みがあった。「人類の“平和”について良く語られる“完全平和”それはもし……という仮設(ママ)故に現実性のないものだが、宇宙人の侵略がもしそのドラマをつらぬくことによってそれ故に地球の平和が乱されるとすれば、仮定の“もし”が現実に与える力がないかしら」(池田憲章『ファンタスティック・コレクション ウルトラセブン』) まず重要な点は、虚構が現実に何らかの力を与えられるかもしれない、という発想は、金城にとってはこの場かぎりのものではなく、信念に近いものだった、と考えられるという点である。 帰沖後の金城は、沖縄芝居第一作の「佐敷のあばれん坊」脚本中に次のような走り書きをしている。「芝居とは現実から別世界に遊ぶ、感情的な美の表現である。また、もう一つの芝居は現実改革の手段としての演劇である」(『金城哲夫の世界』p.57) 金城は佐々木守のように、社会問題に対する見やすく直截的な批判はしなかったが、エンターテーメントを閉じた世界とせず、現実に開かれたものと考えていたのである。 最初の書き込みに戻って、この書き込みから受け取れるのは、まず金城があらゆる戦争、紛争が無い「完全平和」というものに、現状では懐疑的だった、という点である。しかし「宇宙人の侵略」をうける架空の地球では、「完全平和」が成り立つ。 ただ、この部分だけでは「内乱を鎮めるには、戦争に限る」というロジックと同様であり、現実に歴史上、国内矛盾を解消するために行われた戦争は数多いのである。従ってそれは現実そのものの写し絵に過ぎず、「仮定の“もし”が現実に与える力」は存在しない。 ひとつの可能性としては、まず地球と宇宙とを切り離し、地球という星を価値ある存在とみなすというありようである。すなわち地球というのは宇宙の中でも例外的にすばらしい星なのだから、その星の中で争うのは愚かだという考え方である。現実には宇宙人は攻めてこないわけだから、地球を価値ある存在であると再確認することは、あるいは「地球」ローカルの「完全平和」になんらかの寄与が可能かもしれない。 その一つは、1958年ガガーリンの「地球は青かった」という言葉によってもたらされた、地球主義ともいえる考え方である。侵略ものでもっともポピュラーな侵略理由はなんといっても「美しい地球」に対する、宇宙人の欲望であり、この地球の美しさにおいては国家や民族は対立しない。 これは私が見過ごしていてシリカゲルさんに教えてもらったのだが、セブン第一話の放映時カットは、ラスト部分だけではない。http://homepage3.nifty.com/umt/bbs.htm アンヌ、ダンを案内して入ってくる。アンヌ「ここが私の部屋、メディカル・センターよ・・・ウルトラ警備隊のために、キズまで負って闘ってくれたお礼に、何かプレゼントしたいわ。あなたが一番好きなものは、なぁに?」ダン「地球!」アンヌ「(びっくりして)地球?」ダン「そうです。僕が闘ったのは、ウルトラ警備隊のためだけではない。この美しい地球のためだ」アンヌ「さすがは風来坊さんね。スケールがあっていいわ。お望み通り、青く美しいこの地球を心をこめてあなたに差し上げるわ」アンヌ、笑う。ダン「ありがとう。宇宙広しといえども、こんなすばらしい星はないからね。僕はいのちをかけて地球を守るよ。悪魔のようなヒレツな手段で地球を盗もうとする宇宙人がウヨウヨしているからね」(『ノンマルトの使者』p.69) 広い宇宙を知っているウルトラセブンに、地球はお墨付きをいただいている。地球人はそのような幸運にもっと感謝すべきなのである。 さらに地球のすばらしさは、美しさばかりではない。第8話「狙われた街」では、宇宙人が目をつけるほど相互に信頼し合う「人類」が描かれている(既に述べたとおり、このテーマは実相寺監督によって逆転された)。また第11話「魔の山へ飛べ」では、若い生命力を持った地球が狙われてしまう。侵略理由のバリエーションとは、地球のすばらしさの再確認なのである。そしてこのようにすばらしい地球は人類に大切にされるべきである。 もちろん以上の記述は、大きな欺瞞を抱えている。侵略によって確認される地球の価値が、たとえ視聴者に実感し得たとしても、虚構世界の中では血なまぐさい戦闘が続いているのである。虚構内部の侵略戦争によって、現実世界の「完全平和」をめざすという、ごまかしに過ぎないとも言える。 それゆえ金城は、虚構内部においても「完全平和」を試みようとしている。第7話「宇宙囚人303」である。この作品では宇宙普遍の「正義」が語られている。303号は例外的な犯罪者であり、しかもセブンが手を出す必要もなく、「自業自得」のもと自滅していく。この作品でセブンが手をださないという点は、相当に意図的だと思われる。なぜならセブンがやっつけてしまうと、それは善悪の問題ではなく、結局セブンの方が強かった、ということに過ぎなくなってしまうからだ(注)。悪は滅びるという普遍的な原則によって303号は自ずから滅びてゆく。そしてキュラソ星と地球は友好関係を築くのである。 この作品はシリーズにおいては、おそらく一回しか使えない手法である。そもそもウルトラの見せ場は、ヒーローと敵との戦闘であり、毎回のように勝手に敵が滅びたり、話し合いによって決着がついたりしては番組自体が成り立たなくなる。話し合い決着型はウルトラマンで一回使ってしまったため(第33話「禁じられた言葉」金城)、ウルトラセブンでは避けられたのかもしれない。まさに「禁じられた手法」であって、第14、15話「ウルトラ警備隊西へ」は、娯楽番組としての「ウルトラセブン」の限界を示す作品と言えるかもしれない。 さまざまな工夫の結果、金城の中で「仮定の“もし”が現実に与える力」の困難が、実感されていったのではないか。現在の所、私の考えは、そのようなものである。ウルトラセブンもしくは地球人の「正義」を支えるのは、その「強さ」であった。ウルトラマン以来、金城は様々な試みでこの問題を回避しようとしたが、結局は「強い者が弱い者をやっつける」という枠組みからは逃れられなかった。 チーフライターという立場の中で、唯一自己の築き上げた世界に異議を唱えた作品が、第42話「ノンマルトの使者」であると思われる。これは同時に、沖縄と本土の架け橋になる、といって沖縄を飛び出した、金城哲夫という「使者」の苦悩を示す作品であった。(注)「ウルトラマンコスモス」は「完全平和」を前面に押し出した作品である。劇場版第一作では、敵わないとわかったバルタン星人が自爆するという手法でこの問題を切り抜けている。第二作で「結局強さが正義なのだ」と主張するサンドロスとそれを否定するコスモスとの対立は、なんとサンドロスを力で倒すことによって決着する。サンドロスは、自らの死をもって自説の正しさを証明したのである。
Jul 1, 2003
コメント(1)
全21件 (21件中 1-21件目)
1

![]()
![]()