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離任式に出席。例年はめんどくさいので出ないのだが、採用の時からお世話になったN先生が退職するので、出席。うちの定年は65才である。退職する先生を見てると、まだ相当元気である。 後24年もあるのか?あるいはもう24年しかないのか、と感慨深い。
Mar 31, 2004
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私が大学教員になった一年目の夏休みは衝撃だった。なあんにもしていないのに給料が振り込まれるのである。しかも交通費付き。え?行ってないんですけど・・・。予備校や非常勤は、やった分しかもらえないので、まさに天国と地獄である。「乞食と大学教員は三日やったらやめられない」という業界内の諺があるが、まさに本当である。 まあ、こんな事書くと世論に火がついて、休み中も毎日出勤になっちゃうと大変なので、この辺で。 2ヶ月にわたる春休みももう終わりである。これはこれでうれしいことだ。私は結構講義が好きである。沖縄の学生は(特にうちの学科は)授業態度がいいので、出席さえ取らなければ、不愉快な思いをしないですむ。ほとんど私語無し。みんな眠いときには、がまんせずに眠っていいよ。居眠りが多いと、自分の授業がつまらないってことだから、改善するから。 何よりも私ごときの話を、若者が目を輝かせて聞いてくれた時には、生まれてきて良かったとすら思う。 えっと、何の話だったっけ。そうそう、春休みも終わりである。春休みのことは春休みに終わらすべきである。というわけで、玉城版完成しました。明日発送します。「金城哲夫と沖縄」アップしました。この休みの唯一の業績です。後はエッセイ一本だけ。大学教員の休みは研究のためにあるのだから、これじゃあ給料泥棒。精進します。
Mar 28, 2004
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21日に「国立劇場おきなわ」に美人と二人で組踊りを見に行った。紀子様は残念ながらキャンセルされて、一緒に見られなかったのは残念。まあ、皇族来ちゃうとじゃない、いらっしゃると、SPとか持ち物検査とかでうざかったかも。 さて、前回は機能不十分だった字幕機能がついに、フル稼働。演劇を字幕で見るなんて、テクノロジーもついにここまで来たか?千駄ヶ谷の「能楽堂」なんかにもあるのかな? 字幕に助けられた部分もあるが、組踊りはおもしろい。沖縄芝居はきつかったので、組踊りはさらに厳しいと思っていたが、これなら苦痛無く鑑賞できるから、二、三年で何か論じられるかもしれない。 「能」と共通する部分が多いのだが、まずストーリーが単純である。そして圧倒的な様式美。特に空間の多重生はすごい。場面が変わっても、先刻の演者は、その場所でじっとしているのである。特に「万歳敵討」の方は、仇討ちされる側の人間の目前で、仇討ちの計画が進行していて、何とも幻想的。 これで三千円なら、安い。観光でいらっしゃるみなさん。必見です。
Mar 27, 2004
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「まなざされる沖縄/生きられる沖縄」完成。これは事実上絶滅を宣告された都立大学人文科学研究科の同人誌『遊卵船』にのる。これはまあ売れなくとも差し支えない雑誌なので、発刊しだい「左」に貼ります。タイトルの割には軽いエッセイです。よしこれで春休み中の義務はコンプリートだ、と思ったら、もう春休み終わりじゃん(涙)。 執筆作業中、しばしば私はネットに逃げる。で、偶然★夢トコ7★さんのページを発見。ちょっと書き込んだところ、過分なリアクションをいただいた。本当に綺麗なページです。http://plaza.rakuten.co.jp/dream30/diary/をご覧下さい。
Mar 25, 2004
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卒業式、終了。この日は本当に教育職はおいしい仕事だと思う。「ありがとうございました」って半ば様式的な儀礼であるが、本当にそんなこといわれるほど、ちゃんと指導したか、といわれると恥ずかしい限りである。 で、多少余力があるので、掲示板の紫藻さんの投稿に応える形で、小原氏に関して補足します。実は私は小原氏をちょっぴり尊敬しちゃったりする部分があるので。卒業生ならすぐ解ると思いますが、小原氏はE先生にそっくりです。 本当に発送が遅れていて申し訳ないのですが、玉城版には、小原氏の講演に関して、興味深いエピソードがあります。教職員に対する講演の中で、小原氏は派手な化粧をしている女性教員を見つけ、「パンパン(娼婦)のように挑発的で派手、教育者としてもあわないからふき取りなさいと言った。みんな笑っていたら小原が赤すぎた口紅をした女性教師に自分のハンカチを差し出したという」 これは現在だったら大問題でしょう。セクハラの典型。しかし良い意味でも、わるい意味でも小原氏は戦前の教育者でした。鉄拳制裁あり、差別的発言あり、生徒への愛情が真実なら、それが教育なのだという信念に基づいていた、と思われます。私は優柔不断な教員ですから、学生を傷つけようと、憎まれようと最善と信じられる選択をする、という境地には達していません。 例えば掲示板のちなみに対する発言は、現在の水準で言えば、明らかにセクハラと言われても仕方ない表現を含んでいます。しかしこれは私とちなみの関係において、ギャグとして流れうるといった結構綿密な計算に基づいているのです。 これは小原氏ではなくE先生のエピソードですが、私のゼミ生が教育実習の直前に母親を亡くしました。それで今年は実習を辞退したいとというので、教職の責任者であるE先生のところに一緒にいったところ、E先生は次のようなことをいいました。「お母さんが亡くなったのは気の毒だが、受け入れ先の学校は君の来ることを、年間計画に入れている。私事は些細な問題だ。実習にいけ。年老いたものは死んでいく。お前は新しい世代のために全力を尽くせ」 私は身震いしました。教育とはかくも過酷なものなのか? この学生は結局実習に行き、私は研究授業の見学に行ったのですが、それは本当に見事な授業でした。 私は教育職に従事してから10年になりますが、おそらく私のゼミ生に対して、私を憎むほど強烈な印象を与えてはいないと思われます。なぜなら私は、学生達に好かれたいから。このような私にとって、小原氏の「琉球人っめ」は、強い印象を残すのです。 生徒に憎まれようと差し支えない。世論から糾弾されようと、そんな事はどうでもいい。ただ、目の前の生徒が、少しでも成長するなら、自分はどのような評価を下されようと差し支えない。 小市民型教員である私としては、高い高い壁です。
Mar 19, 2004
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エライいわれよう(泣き)。 が、二日で20枚という遅筆で怠け者の私としてはがんばった方なので、何とかなりそうな気配。タイトルは多分「まなざれる沖縄/生きられる沖縄」 明日は卒業式+謝恩会、これは私の職業上、大切な行事。21日は初めての組踊り鑑賞。これは大城立裕氏本人のご招待なので、最優先。で、問題は22日の女房の誕生日だが、ここは泣いていただけば、多分大丈夫。ちょっぴりこはい。 という訳なので>ごやさん 脚本予習は無理なので、レクチャーよろしく。
Mar 18, 2004
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重要な原稿の締め切りを忘れておりました。ここ一週間ほど、不在かもしれません。
Mar 15, 2004
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脳天気な日記の次で、気が引けるし、あまりにも根拠が弱い推測に過ぎないのだが、ここまでのまとめとして、現時点での感想を記しておく。 まず最初に前回のミスの訂正。年表に「問題の「琉球人め!」発言」を1955年の初夏としたが、これは54年の誤り。 お詫びして訂正いたします。 まずここ数日の調査で明らかになったことは、「この琉球人めッ」は小原氏の発言として、十分にあり得るということである。しかも「つい」ではなく、意識的に言った可能性が高いと思われる。 「小原園長」と言うと小さな学校の園長先生、といった印象を持つが、この時点で玉川大学は、既に設立されており、小原氏は幼稚園から大学までの相当な規模を持った学校法人の理事長であった。 この時期、玉川大学は通信教育部を設置した直後であり、工学部開設の準備過程に既に入っていたと思われる。そのような法人の理事長が、わざわざたった一人の寮生のために日が暮れるまで待つ、という事があり得るだろうか?『島唄』の記述を読んだ時の、第一感はそういうものであった。「寮長」か何かの間違えではないのか?しかしこの点についても、現時点ではあり得ると考えられる。 小原氏は「この琉球人めッ」というために日の暮れるまで金城の帰りを待っていた。というのは、一件些細な「風呂焚き当番のすっぽかし」は、沖縄の近代化を阻止する、重大な文化的特徴をはらんでいるからである。いわゆるテーゲー主義と、ウチナータイムである。 戦前本土への出稼ぎを余儀なくされたウチナーンチュ達の前に立ちふさがったのは、「言葉の壁」と「沖縄人はいいかげんである」という認識だった。現在では、「ウチナータイムは豊かな人間性のあらわれだ、スローライフだ」と褒める文化人などがいるが、時間も守れずに市場主義社会で生き抜けるわけがないのである。 小原氏とて毎日、風呂当番の監視をしていたと思えない。どのようにして金城がすっぽかした事を知ったのか不明であるが、金城に対する特別な指導として「この琉球人めッ」があったと思われるのである。これが指導方法として正しかったのかどうかについては、意見の分かれるところであろう。 一方このとき感じた金城の胸のうずきが、どのようなものであったのかは、さらに難しい問題である。この後沖縄に帰郷した時、「沖縄の若者の風紀の乱れ」に珍しく激怒した、というエピソードは、本件とほぼ直接的に関係していると思われるし、晩年のギャラを巡る発言や、海洋博のイベントでぶつかった沖縄の閉鎖性と関係も興味深い。 沖縄を愛すると言うことは、沖縄の全てを容認すると言うことではない。(このシリーズ終わり)
Mar 14, 2004
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しばらくぶりに会ってみると、みんな立派になっていて感激。 ピンクのあじさい、女房は大感激です。クースーは私が大感激。 本当に今回はどうもありがとう。
Mar 13, 2004
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小原氏と沖縄との結びつきは、成城時代に「尚侯爵」を教えたことに始まる。年齢から推定して、21代当主尚昌(最後の琉球王尚泰の孫)だと思われるが、現時点では断定できない。 この縁で昭和二年に沖縄を訪れた。この時次のようなエピソードがある。「私はウッカリ、とんでもない失敗をしてしまいました。「琉球」というと、軽蔑視した言葉だったそうです」(小原國芳「補遺」『日本新教育史 九州沖縄編』玉川大学出版部 81,2,21) しかし小原氏は、自分には軽蔑する気持ちはない、と釈明し、「滞在中「りゅうきゅう」で通した」。昭和二年といえば、広津和郎の「さまよえる琉球人」の問題の翌年である。なぜ大きな騒ぎにならなかったのかは現時点では不明である。 一つには小原氏が、とてつもなく人を引きつける人物だったらしい、ということである。文章はこれほど有名な人のわりには稚拙な感じがするが、各種の資料を見る限り、講演のパフォーマンスは天才的だったようである。 玉川学園の顧客満足度は非常に高く、これほど卒業生に慕われる創立者も珍しい。彼のあだなは「おやじ」であり、ネットでいまもそのように呼ぶ卒業生もいる。また卒業生相互が「全人っこ」と呼び合うケースもある。 メモとはいえ、また話がずれ始めた。「メモ」といいつつ最近の私のペーパーは、このメモを大いに利用しているので、慎重にならねば・・・。 話を沖縄に戻すと、二度目の来沖は、昭和二七年、広島大学時代の後輩屋良朝苗(後の沖縄民政府主席)の招きによるものであった。これについては山田輝子『ウルトラマン昇天』 朝日新聞社 1992,8 にかなり詳しく紹介されている。実際七〇代で当時を知る人は、非常に感動したようである。http://hpmboard3.nifty.com/cgi-bin/bbs_by_date.cgi?user_id=MLD08680 金城の母親もその一人であった。金城の玉川入学は二年後の二九年になる。このあたりを年表で整理しておくと、次の通り。1952 昭27 サンフランシスコ講和条約 小原来沖1953 昭28 映画「ひめゆりの塔」(東映)1954 昭29 金城上京、玉川学園入学。映画「ゴジラ」(東宝) アイゼンハワー一般教書「沖縄を無期限管理」1955 昭30 由美子ちゃん事件(沖縄) 問題の「琉球人め!」発言はこの年の初夏。1956 昭31 「もはや戦後ではない」(経済白書) 朝日新聞「米軍の『沖縄民政』を衝く」キャンペーン 金城、同級生らと、沖縄訪問。 小原氏の訪問が、沖縄が事実上本土と分断された、昭和二七年であるということの意義は大きい。「補遺」には具体的な講演内容は記されていないが、この来沖で感じたことの内容から推定すると、柱は三本ある。 一つは、「沖縄県民かく闘えり」の延長にある、沖縄県民への賞賛である。例えば「ひめゆり」をめぐる言説には両義性があり、一つはうら若い少女達が、国家のために献身的に働いた、という評価である。もう一方は戦争という、あってはならない悲惨な現実の被害者としての側面である。「ひめゆり」は三回映画化されているが、昭28年版においては前者の側面が強い。「ひめゆり」は当時の視聴者から言えば、あるいは自分であったかもしれない、けなげな乙女達、だったのである。そしてこれは非常に大事な事だが、この時点でなくなった少女達の、亡くなる時点での主観に近いと思われるのが、この側面である。彼女たちは、自分が無駄に死んでいくのだという認識は持たなかったであろう。 当時、小原氏の講演に参加した聴衆もまた、沖縄戦への参加協力を無駄で無意味になもの、とは思えなかったに違いない。沖縄戦での民間犠牲者が、侵略戦争の報いとしての、無駄な犬死にであったという観点が出現するのは、私の調査の範囲内では、復帰以後である。 小原氏の講演の、もう一つの柱は、必ず本土人達は、この戦争の犠牲に報いるために、最大限の努力をする、というものであったと思われる。実際、この時期においては本土でもそう物資が豊かであった訳ではないが、小原氏は7000冊を越える書物を、沖縄に送っている。また大ヒットした「ひめゆりの塔」の東映と交渉し、利潤の一部を沖縄に寄付させたのも、小原氏であった。 三本目の柱が、小原氏の進歩主義に基づく、沖縄自体の成長である。小原氏の教育理念は、弱いものは弱いままでいい、というものではなかった。沖縄は「優生学」的に、排除されてしまうような、先天的な弱者ではない。懸命に自助努力すべきである。紫藻さんはウルトラ掲示板の方で福沢諭吉を取り上げておられるが、小原氏の思想には、福沢との類縁性も多い。 沖縄県民はよく戦った。本土はその感謝のため、最大限の努力を払うであろう。しかし沖縄自体もまた、最大の努力をしなければならない。 この思想は一九五〇年代の、ウチナーンチュの、特に知識人達の心をとらえたであろう。 そしてこの観点から言って、許し難いのは、些細な問題ではあるが、金城の風呂当番すっぽかし事件であったと思われるのである。
Mar 11, 2004
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*「優生学」について、本当にホンのちょっぴり勉強しているが、非常に難しい。少なくとも大正から昭和初期においては「優生学」は輝かしい先進的な理念であった。「優生保護法」が日本で撤廃されたのはつい最近のことである。 この時期の小原氏の思想を現在の意識で糾弾するのは、誤りであろう。さらに小原氏の思想がその後どのように変遷したか、十分に追っていないため、相当な慎重さが必要だろう。*問題を複雑化しているのは、「人間は進歩する(べきだ)」という立場は原理的に徹底すれば、必ず「優生学」的発想を含むのではないだろうか、ということである。うちの場合長男が誕生する時点で女房はまだ20代だったため、試験は受けなかったが、様々な先天的障害を事前に知りうる方法が次々に確立している。念のため受けておこうというのが人情ではないのか?*「断種法」の場合、国家が個人に対して、遺伝子の持続を強制的に禁止するものであった。現在の人権意識では、この主張は容認されにくいだろう。しかしそれが個人的な選択の場合、それを禁止するのは、やがて難しくなるだろう。場合によっては、「健康はもちろんですが、音楽的才能と、数学的才能をトッピングしてください」という時代がくるのかもしれない。**前世紀、何よりも批判されるべきものは、科学的根拠を全く持たない、階級差別であった。日本において典型的なのはいわゆる「部落差別」である。この差別には全く科学的合理性はない。 ペスタロッチはどのような家柄に生まれようと、適切な教育を施せば、その子は無限の可能性を持っている、というものである。この考え方は教育関係者にとっては、今なお高い支持を受けているが、いかなる教育を施そうと見込みのない先天的障害者については、様々な意見が存在する。*ここで神と科学とが対立する。例えば、つい最近、人工授精についてのみだが、男女の産みわけはほぼ100%で技術的には可能であるということが明らかになった。やろうと思えば、自然着床の場合も可能なのだろうと思う。実は我が家の場合、100発100中で女の子なら、第三子出産という合意がある。しかしまあ現状でもそう深刻ではないため、神に挑戦するほどの意志は持たない。 が、世間には深刻な悩みを抱えている家庭も現に存在する。特に沖縄の場合、伝統的に男児の出産が非常に望まれる。女児ばかり連続して出産した女性には、一定の圧力がかかる場合もあるようである。現在のテクノロジーはこの問題を技術的には解決しうる水準に達している。ではどうするのか?*今日の日記は大幅に本題からはずれてしまった。
Mar 9, 2004
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大体親戚系の訪問は一段落。 海洋博公園の水族館はすばらしい施設なのだが、連チャンはちょっときついものがある。 今週土曜日にゼミOB第二派が来ます。若干の空席がございますので、ここを見ている卒業生で誘われていない人は、掲示板もしくはメール下さい。ZEN applebomさん宛の返信に若干生臭い表現が含まれていたので、書き直しました。
Mar 8, 2004
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『母のための教育學』玉川学園出版部 ,1925.7 題名の通り、一般むけの書物であるが、「全人教育」という思想の本質が解る本。「全人教育」の理想は、「真、善、美、聖、健、富、の6つの価値の創造にあるのです」とされ、現在では「学歴偏重批判」が強調されるが、実際にはかなりすごい思想である。 思想の基盤にあるのはペスタロッチ(有名人なので名前は知っているが、具体的には勉強中)と「優生学」である。とくに現在読むと「優生学」の部分にはかなり強烈な印象を受ける。以下引用(子供から母親へのメッセージ、大野注)「健やかな体を下さいね。わるい遺伝や低能の頭をいただくやうじゃ、生んで下さらぬ方が、余程幸福でございます」 この部分を強烈に感じるのは、私も現在を生きているからだろう。The Myth of Ultraのほうで紫藻さんが、「低質」について言及されているが、これは偶然やうっかりではなく、小原氏の信念であった。『母のための教育學』では、劣等な遺伝子を持った人物の断種が主張されている。 ただこの部分のみを強調するのは、小原氏の全体性を損なうきらいがある。小原氏の思想は、全ての徳性がバランスよく備わった完全人格をめざすという、理想主義であり、先天的障害者は、そもそも生まれない方がよかった存在なのである。現在の文脈では、この思想は「思想」としては批判を受けるだろうが、これについて私の体験を話すと、長男の出産は「立ち会い」であった。私は女房より早く、息子を抱いたのである。 そのとき驚くほどの小ささに、強い印象を受けた。特に指。見たことがある人は解ると思うが、新生児の爪というのは白いのびた部分が全く無く、きれいにピンクの部分で切れている。驚くほど小さいのであるが、きっちり五本ずつそろって、強く握られている。私は息子を見て、ああ、五体満足のようで本当によかった、と思った。 何だかタイトルの趣旨と離れてきたが、まあ日記なので、思いつくままに書くと、「馬鹿な子ほど可愛い」という言葉は、実際に子を持つまでは欺瞞だと思っていた。名前は忘れたが、元アイドルで、ダウン症の息子を授かった人がいる。その子が可愛くて仕方がない、という。私はそれをインチキだと思っていた。これは小浜逸郎氏の『弱者とは誰か?』にも書いてあったと思うが、親というものは、子供が優れているほどうれしいというのが自然なのではないか。 これは一面真実である。しかしその一方、「馬鹿な子ほど可愛い」というのも真実のように思われる。実はうちの長男と次男ではかなり能力差がある。同じ月齢において、相当な差があるのである。次男が生まれるまで、私たち夫婦は、長男の育児に異常に力を尽くした。ほ乳瓶は煮沸消毒である。次男は水洗い。長男がベットから落ちた時、私たちは深夜救急に行った。次男は絆創膏である。 そのせいかどうかは不明であるが、長男は三歳児の時、結構生意気な理屈を言うようになっていた。これに対して次男はぽーっとしており「ぱぱ、だっこ」である。これが異常に可愛い。 母親はぽつりと「いつまでも赤ちゃんでいるといいのにね」これにはちょっぴり同感である。親というものは子供の成長を望む一方、いつまでも無知無能な存在でいてほしい、とも望むのであろう。「馬鹿な子ほど可愛い」のである。 あ、訳のわからぬ文章を長々と書いて、もう一つ重要な『日本新教育史 九州沖縄編』に言及する余力が無くなった。多分明晩。
Mar 2, 2004
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