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大野隆之

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書評1


魂込め(まぶいぐみ)/目取真俊


沖縄文学の情景/岡本恵徳


果報は海から/ 又吉栄喜


反近代の文学/三田英彬


*神様の失敗/勝連繁雄


面影と連れて/目取真俊


98年沖縄文学 回顧


99年 沖縄文学回顧


00年 沖縄文学回顧


海鳴り/長堂英吉


01年 沖縄文学回顧


大城立裕全集発刊・沖縄に生きた文学


夏化粧/池上永一


鯨岩/又吉栄喜


うらそえ文芸8号


干刈あがたの文学世界


新報文芸


*古波蔵信忠『三重城とボーカの間』


*竹本真雄『燠火』


又吉栄喜『陸蟹(おかがに)たちの行進』


目取真俊『署名』


*『うらそえ文芸』第5号


日本平和学会「戦争と文学」分科会


又吉栄喜「海の微まど睡ろみ」


目取真俊「群蝶の木」


大城立裕「水の盛装」


新川明『沖縄・統合と反逆』上


新川明『沖縄・統合と反逆』下


久志芙沙子「滅びゆく琉球女の手記」


*てふてふP「戦い、闘う、蠅」


日本・沖縄・ドイツの国際シンポジウム


「文学」と「映像」再論


全国で売れる沖縄本


又吉栄喜「落とし子」


「現代思想」臨時増刊号


崎山多美「水上揺籃」


大城立裕「クルスと風水井」


目取真俊「希望」


大城立裕全集


最終回


船越義彰「小説遊女たちの戦争」


学術系


オキナワの少年試論マイナー文学の視座から


「滅びゆく琉球女の手記」論


堀辰雄事典三項目


沖縄戦とメディア


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国際シンポ「複数文化の接触」にむけて


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まなざされる沖縄/生きられる沖縄


ウルトラマン研究


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des.2004


Mar 11, 2004
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カテゴリ: カテゴリ未分類
小原氏と沖縄との結びつきは、成城時代に「尚侯爵」を教えたことに始まる。年齢から推定して、21代当主尚昌(最後の琉球王尚泰の孫)だと思われるが、現時点では断定できない。
 この縁で昭和二年に沖縄を訪れた。この時次のようなエピソードがある。

「私はウッカリ、とんでもない失敗をしてしまいました。「琉球」というと、軽蔑視した言葉だったそうです」(小原國芳「補遺」『日本新教育史 九州沖縄編』玉川大学出版部 81,2,21)

 しかし小原氏は、自分には軽蔑する気持ちはない、と釈明し、「滞在中「りゅうきゅう」で通した」。昭和二年といえば、広津和郎の「さまよえる琉球人」の問題の翌年である。なぜ大きな騒ぎにならなかったのかは現時点では不明である。

 一つには小原氏が、とてつもなく人を引きつける人物だったらしい、ということである。文章はこれほど有名な人のわりには稚拙な感じがするが、各種の資料を見る限り、講演のパフォーマンスは天才的だったようである。
 玉川学園の顧客満足度は非常に高く、これほど卒業生に慕われる創立者も珍しい。彼のあだなは「おやじ」であり、ネットでいまもそのように呼ぶ卒業生もいる。また卒業生相互が「全人っこ」と呼び合うケースもある。

 メモとはいえ、また話がずれ始めた。「メモ」といいつつ最近の私のペーパーは、このメモを大いに利用しているので、慎重にならねば・・・。
 話を沖縄に戻すと、二度目の来沖は、昭和二七年、広島大学時代の後輩屋良朝苗(後の沖縄民政府主席)の招きによるものであった。これについては山田輝子『ウルトラマン昇天』 朝日新聞社 1992,8 にかなり詳しく紹介されている。実際七〇代で当時を知る人は、非常に感動したようである。

http://hpmboard3.nifty.com/cgi-bin/bbs_by_date.cgi?user_id=MLD08680



1952 昭27 サンフランシスコ講和条約
      小原来沖
1953 昭28 映画「ひめゆりの塔」(東映)
1954 昭29 金城上京、玉川学園入学。映画「ゴジラ」(東宝)
       アイゼンハワー一般教書「沖縄を無期限管理」
1955 昭30 由美子ちゃん事件(沖縄)
      問題の「琉球人め!」発言はこの年の初夏。
1956 昭31 「もはや戦後ではない」(経済白書)
       朝日新聞「米軍の『沖縄民政』を衝く」キャンペーン
       金城、同級生らと、沖縄訪問。

 小原氏の訪問が、沖縄が事実上本土と分断された、昭和二七年であるということの意義は大きい。「補遺」には具体的な講演内容は記されていないが、この来沖で感じたことの内容から推定すると、柱は三本ある。



 当時、小原氏の講演に参加した聴衆もまた、沖縄戦への参加協力を無駄で無意味になもの、とは思えなかったに違いない。沖縄戦での民間犠牲者が、侵略戦争の報いとしての、無駄な犬死にであったという観点が出現するのは、私の調査の範囲内では、復帰以後である。

 小原氏の講演の、もう一つの柱は、必ず本土人達は、この戦争の犠牲に報いるために、最大限の努力をする、というものであったと思われる。実際、この時期においては本土でもそう物資が豊かであった訳ではないが、小原氏は7000冊を越える書物を、沖縄に送っている。また大ヒットした「ひめゆりの塔」の東映と交渉し、利潤の一部を沖縄に寄付させたのも、小原氏であった。

 三本目の柱が、小原氏の進歩主義に基づく、沖縄自体の成長である。小原氏の教育理念は、弱いものは弱いままでいい、というものではなかった。沖縄は「優生学」的に、排除されてしまうような、先天的な弱者ではない。懸命に自助努力すべきである。紫藻さんはウルトラ掲示板の方で福沢諭吉を取り上げておられるが、小原氏の思想には、福沢との類縁性も多い。

 沖縄県民はよく戦った。本土はその感謝のため、最大限の努力を払うであろう。しかし沖縄自体もまた、最大の努力をしなければならない。
 この思想は一九五〇年代の、ウチナーンチュの、特に知識人達の心をとらえたであろう。








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Last updated  Mar 12, 2004 03:50:39 AM
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