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さすがに禁煙しているのである。 実を言うと喉に違和感を感じて病院にいくことを決意したとき一番思ったことは「あるいは、禁煙しなくてはいけないかも・・・・それが死ぬより辛いかも・・・」 昔「太陽に吠えろ」という刑事ドラマがあった。その数ある作品中最も人気があった回は、「Gパン刑事の最期」だろう。松田優作扮するGパンデカが死ぬ回である。このどこに感動するかというと、死を覚悟した刑事は寝転びタバコをくわえるのである。しかし火をつけられずに意識を失い、口からタバコが落ちる。これほど悲しいことはない。死ぬのはやむを得ないが、Gパンデカは最後の一服を吸わずに殉職するのである。 あるいは映画。例えば「戦国自衛隊」という映画があった。この作品で最も痛切なシーンは明らかである。タイムスリップした自衛隊隊員がタバコを持ち「最後の一本だ」・・・・・ その他、「3丁目の夕日」2回目かな。茶川が芥川賞目指し頑張る。当然タバコ吸わないとダメでしょう。結局芥川賞は取れないのであるが、あれだけタバコが吸えれば、まあ幸せでしょう。 というのがこれまでの私の生き方であった。女房はタバコは嫌いである。したがって事あるごとに文句を言うのであるが、私は結婚を期に主にパチンコであるが、バクチを一切やめた。実は沖縄を離れた場合はいいことになっており、パチンコ屋へ行ったり、中山競馬場に行ったりするのであるが、まあこの程度では家計に影響はない。 その他飲む打つ買う、というのは酒、バクチ、女であるが、私はまあ酒というのは自宅で飲む程度であるし、博打はすでに述べたようにほとんど休止。女についてはびっくりするほど可愛らしい(ホリプリロからスカウトされたり、県内CMに出たりしているゼミ生がいる)学生もいる中、今思えばちょっとやばかったかもというのは一度しかない。 という訳で、私はその他品行方正であり、人生唯一の楽しみが喫煙だったのである(つづく)。
Apr 24, 2013
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前日夜としてはこんな感じか。明日もうちょい頑張ります。与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」 2013.4.22 大野隆之 テキスト0.書誌1.報告のテーマ2.報告の方法。3.データ 3.1時代状況、年表。これは必要ないなら、必ずしも入れなくて良い。 3.2批評の四類型。4.考察 4.1 批評誌の検討。 4.2 第3連についての検討。 4.3 表現としての「君死にたまふことなかれ」5.結論 テキスト、今回は一篇の詩がテキストのため、レジュメに掲載した。通常は各自読んでくること。 君死にたまふことなかれ 旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて 與 謝 野 晶 子 あゝをとうとよ、君を泣く、君死にたまふことなかれ、末に生れし君なれば親のなさけはまさりしも、親は刃(やいば)をにぎらせて人を殺せとをしへしや、人を殺して死ねよとて二十四までをそだてしや。堺(さかひ)の街のあきびとの舊家(きうか)をほこるあるじにて親の名を繼ぐ君なれば、君死にたまふことなかれ、旅順の城はほろぶとも、ほろびずとても、何事ぞ、君は知らじな、あきびとの家のおきてに無かりけり。君死にたまふことなかれ、すめらみことは、戰ひにおほみづからは出でまさね、かたみに人の血を流し、獸(けもの)の道に死ねよとは、死ぬるを人のほまれとは、大みこゝろの深ければもとよりいかで思(おぼ)されむ。あゝをとうとよ、戰ひに君死にたまふことなかれ、すぎにし秋を父ぎみにおくれたまへる母ぎみは、なげきの中に、いたましくわが子を召され、家を守(も)り、安(やす)しと聞ける大御代も母のしら髮はまさりぬる。暖簾(のれん)のかげに伏して泣くあえかにわかき新妻(にひづま)を、君わするるや、思へるや、十月(とつき)も添はでわかれたる少女ごころを思ひみよ、この世ひとりの君ならであゝまた誰をたのむべき、君死にたまふことなかれ。 0.書誌 若干の異同のあるテキストが3種類ある。 初出『明星』明治37年9月号で、初出の題は「君死にたまふこと勿れ」 初版『戀衣』版明治38年1月、本郷書院 通常この形態が引用されることが多いため、これをテキストとして用いる。 『定本 與謝野晶子全集 第九巻』版 上記3種類のテキストについては補足資料1。ただし今回は微妙な異同については問題としなかった。 1.報告のテーマ ここが最重要。結局直前になっちゃう・・・・2.報告の方法。 3.データ 3.1.時代状況、年表。 1862鴎外1867漱石 1872 一葉誕生 1873 鐵幹誕生 5歳上 1878(明11年)晶子誕生 1880 鳳籌三郎(弟)誕生。これが本名だが、父親の鳳宗七を襲名したため詩の副題は宗七になっている。 1894 日清戦争 1896 18歳、このころから和歌を始めた。 1898(明治31)与謝野鉄幹「血写歌」日清戦争を批判した詩とみられる。補足資料2 1900 『明星』創刊。 義和団事件→ロシア満州進出。 1901 『みだれ髪』発刊。鐵幹と結婚。 1902 長男 与謝野光を出産。日英同盟。 1903 二代目宗七(晶子の実父、死去)。 三代目宗七(弟)が駿河屋を継ぐ。 1904(明37)2月8日 - 1905年9月5日日露戦争 5月弟出征。 7月7日、次男秀(しげる)出産。外交官、最近引退した与謝野馨のお父さん。 9月「君死にたまふこと勿れ」『明星』 11月「ひらきぶみ」『明星』 1905 1月『恋衣』与謝野晶子、山川登美子、増田雅子共著の詩歌集に「君死にたまふことな かれ」収録。あえて批判に妥協しなかったとみられる。 5月27日 日本海海戦(宮古の久松五勇士はこの時の出来事)。 9月5日 ポーツマス条約。3.2 批評の四類型。3.2.1 政治的な詩とみなし、批判的。 明瞭な文章として残っているのは大町桂月のみ。ただし悪口、家に投石などさまざまな嫌がらせがあったとされる。その他文部省文芸委員の受賞を逃したり、生涯文化勲章など公的な栄誉が得られなかったのは、この作品のためだとされている。大町桂月「文芸時評欄雑評録」『太陽』1904年10月 戦争を非とするもの、夙に社会主義を唱ふるものゝ連中ありしが、今又之を韻文に言ひあらはしたるものあり。晶子の「君死にたまふこと勿れ」の一篇、是也。(中略) (第三連について)さすがに放縦にして思ひ切った事いふ人も、筆大にしぶりたり。されど草奔の一女子「義勇公に奉ずべし」とのたまへる 教育勅語、さては宣戦詔勅を非議す。大胆なるわざ也。(中略) (第二連について)家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦うべき義務なしといふは、あまりに大胆すぐる言葉也。3.2.2 政治的な詩とみなし、肯定的。 現在支配的な認識ではないかと思われる。 例えば日本ペンクラブの見解。 「此処に掲載の詩編は、名高い「君死にたまふこと勿れ」が明治三十七年(1904)九月「明星」初出。忠君愛国の日露戦争時代に果然反響を巻き起こしたが、毅然として退くことなかった晶子反戦の真意は、「あきびと=商人」の自立心とともに、今にして露堂々と受け取れる。」http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/poem/yosanoakiko.html NHKの見解。「日露戦争(にちろせんそう)の最中に発表された詩、「君死にたまふことなかれ」。書いたのは、歌人の与謝野晶子(よさの・あきこ)。晶子は、戦争に反対する気持ちを、この詩に表しました。」http://cgi2.nhk.or.jp/school/movie/clipbox.cgi?das_id=D0005310132_00000&keepThis=true&TB_iframe=true&width=920&height=480受験産業「歌人の与謝野晶子は、戦場にいる弟を思いやる詩を発表して戦争に反対する気持ちを表した」(新小学問題集社会、奥付なし)。3.2.3 政治性、思想性は低いとみなし、批判的。同時代。田岡嶺雲はこの詩に政治性がないことを認めた上で、所詮は利己主義であり(弟が助かればそれでいい)、「其私情は之を犠牲としてさらに大なる或公義に殉ずることあるによって、始めて没我の美はしき詩想に化し得らるべきのみ」(田岡嶺雲『霹靂鞭』日高有倫堂 1907年10月) この田岡に始まる利己主義、エゴイズムという批判はその後も数多くある。戦後。 反戦・平和主義のサイドから、反戦歌としては不十分、という批判が多い。 平和教育で知られる家永三郎は、この詩をあくまでも個人的な厭戦感を表現したものに過ぎず、反戦表現としては二流としている。3.2.4 政治性、思想性は低いとみなし、肯定的もしく擁護的。 同時代では本人の書いた「ひらきぶみ」およびそれを受けて晶子を擁護した鉄幹、剣南、平出修らの立場。この場合率直に個人的な感情を吐露した作品ということになる。 「ひらきぶみ」については補助資料2 この作品について、今のところ最も網羅的な研究書と言って良い『「君死にたまふこと勿れ」』の著者、中村文雄氏が基本的にこの立場に立っている。 ある意味非常に穏健な立場である。4.考察4.1 批評史の検討。 データに提示したとおり、「君死にたまふことなかれ」の評価は2×2の四通りに分けられるわけだが、実質的に反戦詩として忌避される状況から、忘却。そして戦後になると、戦前を代表する反戦詩として再評価されることになった。つまり政治的・思想的な作品として世俗的大衆的には把握され、一方より詳細に作品およびその背景を検討する側からは、個人的な感情表現である(に過ぎない)という見方が主流である。 大町と鉄幹ら新詩社サイドとの議論は実質的には、撤回こそしないものの、大町が引くかのような決着になっている。この議論関連の文章は『大町桂月全集』には収められていない。これは必ずしも大町の分が悪いからということではなく、全集の大半は「美文」と分類される紀行文が占めており、すなわち大町にとってはこの議論は大したものではなかった、ということになるのだろう。また新詩社としては絶対に引くことができない、というわけで大町が引くほかなかったように思うが、大町サイドに立った場合、もう少し頑張れたようにも思う。4.2 第3連についての検討。 冷静に文献をたどった場合、確かにこの作品に、強い政治性はなく、死を美化するかのような弟の手紙 晶子「産屋日記」(次男、秀の妊娠中)1904,6,24 「宇品立ちし弟、今日も波の上の上にや。一週間ばかり前広島より、死と云ふことの美しく嬉しき由あまた書きこせし」 これに対する返歌というのが、「君死にたまふことなかれ」の第一義であるというの確かだと思われるし、その他残された母や、妻、そして姉たる自分の心情が中心であるというのも確かである。ただそれだけなら天皇(および戦局)に言及する必要があったのか、という問題がどうしても残る。大町の違和感はここに始まっているのであり、同じく個人的な厭戦感を表現した大塚楠緒子「お百度詣」は是とする、大町の評価には一貫性がある。参考 大塚楠緒子「お百度詣」 ひとあし踏みて夫(つま)思ひ、 ふたあし国を思へども、 三足ふたゝび夫おもふ、 女心に咎ありや。 朝日に匂ふ日の本の 国は世界に唯一つ。 妻と呼ばれて契りてし、 人も此世に唯ひとり。 かくて御国と我夫と いづれ重しととはれれば たゞ答へずに泣かんのみ お百度まうであゝ咎ありや ――『太陽・第11巻第1号・1905年』 以下、原文と大町の解釈、新詩社の解釈。★原文(『恋衣』版=初版形態) 君死にたまふことなかれ、 すめらみことは、戦ひに おほみづからは出でまさね、 かたみに人の血を流し、 獣の道に死ねよとは、 死ぬるを人のほまれとは、 大みこゝろの深ければ もとよりいかで思おぼされむ。 ★大町桂月による解釈 天皇親(この親の部分は、自の誤植のようにも思われる*大野注)からは、危うき戦場には、臨み給はずして、宮中に安座して居り給ひながら、死ぬるが名誉なりとおだてて、人の子を駆りて、人の血を流さしめ、獣の道に陥らしめ給ふ。残虐無慈悲なる御心根哉 ★与謝野鉄幹、平出修の解釈 天皇陛下は九重の深きにおはしまして、親しく戦争の光景を御覧じ給はねど、固より慈仁の御心深き陛下にましませば、将卒の死に就て人生至極の惨事ぞと御悲歎遊ばさぬ筈は有らせれるまい。 必ず大御心の内には泣かせ給ふべけれど、然も陛下すらこの戦争を制止し給ふことの難く、已むを得ず陛下の赤子を戦場に立たしめ給ふとは、何と云ふ悲しきあさましき今の世のありさまぞや 大町の解釈は嫌味に過ぎるのであり、いくらなんでもそこまでは言っていない。だが逆に鉄幹の二、三行目の解釈はいかにも逃げ腰である。 2、3行は「天皇陛下は戦場に、ご自身からは御出でにならない」と訳すほかなく、そのあとのフォローこそあるが、この詩で最も衝撃的な部分はここである。それはそもそも戦とは無縁であった平安朝の皇室に対して、近代天皇制が持ってしまった統帥権の問題を糾弾しているようにすら思える。 1990年時点の調査であるが、高校の歴史教科書20社のうち、「君死にたまふことなかれ」に言及しているのが半数の10社。一部でも引用しているのが7社。第3連を引用しているのは2社だけのようである。一番議論になる部分を外すというのは、なんとも日本らしい感じではある。5.結論
Apr 21, 2013
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大塚楠緒子「お百度詣」 ひとあし踏みて夫(つま)思ひ、 ふたあし国を思へども、 三足ふたゝび夫おもふ、 女心に咎ありや。 朝日に匂ふ日の本の 国は世界に唯一つ。 妻と呼ばれて契りてし、 人も此世に唯ひとり。 かくて御国と我夫と(*) いづれ重しととはれれば たゞ答へずに泣かんのみ お百度まうであゝ咎ありや――『太陽・第11巻第1号・1905年』
Apr 21, 2013
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与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」 2013.4.22 大野隆之 テキスト 0.書誌 1.報告のテーマ 2.報告の方法。 3.データ 3.1.時代状況、年表。これは必要ないなら、必ずしも入れなくて良い。 3.2. 4.考察 テキスト、今回は一篇の詩がテキストのため、レジュメに掲載した。通常は各自読んでくること。 君死にたまふことなかれ 旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて 與 謝 野 晶 子 あゝをとうとよ、君を泣く、 君死にたまふことなかれ、 末に生れし君なれば 親のなさけはまさりしも、 親は刃(やいば)をにぎらせて 人を殺せとをしへしや、 人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや。 堺(さかひ)の街のあきびとの 舊家(きうか)をほこるあるじにて 親の名を繼ぐ君なれば、 君死にたまふことなかれ、 旅順の城はほろぶとも、 ほろびずとても、何事ぞ、 君は知らじな、あきびとの 家のおきてに無かりけり。 君死にたまふことなかれ、 すめらみことは、戰ひに おほみづからは出でまさね、 かたみに人の血を流し、 獸(けもの)の道に死ねよとは、 死ぬるを人のほまれとは、 大みこゝろの深ければ もとよりいかで思(おぼ)されむ。 あゝをとうとよ、戰ひに 君死にたまふことなかれ、 すぎにし秋を父ぎみに おくれたまへる母ぎみは、 なげきの中に、いたましく わが子を召され、家を守(も)り、 安(やす)しと聞ける大御代も 母のしら髮はまさりぬる。 暖簾(のれん)のかげに伏して泣く あえかにわかき新妻(にひづま)を、 君わするるや、思へるや、 十月(とつき)も添はでわかれたる 少女ごころを思ひみよ、 この世ひとりの君ならで あゝまた誰をたのむべき、 君死にたまふことなかれ。 0.書誌 若干の異同のあるテキストが3種類ある。 初出『明星』明治37年9月号で、初出の題は「君死にたまふこと勿れ」 初版『戀衣』版明治38年1月、本郷書院 通常この形態が引用されることが多いため、これをテキストとして用いる。 『定本 與謝野晶子全集 第九巻』版 上記3種類のテキストについては補足資料1。ただし今回は微妙な異同については問題としなかった。1.報告のテーマ ここが最重要。結局直前になっちゃう・・・・2.報告の方法。3.データ3.1.時代状況、年表。1862鴎外1867漱石1872 一葉誕生1873 鐵幹誕生 5歳上1878(明11年)晶子誕生1880 鳳籌三郎(弟)誕生。これが本名だが、父親の鳳宗七を襲名したため詩の副題は宗七になっている。1894 日清戦争1896 18歳、このころから和歌を始めた。1898(明治31)与謝野鉄幹「血写歌」日清戦争を批判した詩とみられる。補足資料21900 『明星』創刊。 義和団事件→ロシア満州進出。1901 『みだれ髪』発刊。鐵幹と結婚。1902 長男 与謝野光を出産。日英同盟。1903 二代目宗七(晶子の実父、死去)。 三代目宗七(弟)が駿河屋を継ぐ。1904(明37)2月8日 - 1905年9月5日日露戦争 5月弟出征。 7月7日、次男秀(しげる)出産。外交官、最近引退した与謝野馨のお父さん。1905 1月『恋衣』与謝野晶子、山川登美子、増田雅子共著の詩歌集に「君死にたまふことな かれ」収録。あえて批判に妥協しなかったとみられる。 5月27日 日本海海戦(宮古の久松五勇士はこの時の出来事)。 9月5日 ポーツマス条約。
Apr 20, 2013
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与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」 2013.4.22 大野隆之テキスト0.書誌1.報告のテーマ2.報告の方法。3.データ 3.1. 3.2.4.考察テキスト、今回は一篇の滋賀テキストのため、レジュメに掲載した。通常は各自読んでくること。君死にたまふことなかれ 旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて 與 謝 野 晶 子 あゝをとうとよ、君を泣く、君死にたまふことなかれ、末に生れし君なれば親のなさけはまさりしも、親は刃(やいば)をにぎらせて人を殺せとをしへしや、人を殺して死ねよとて二十四までをそだてしや。堺(さかひ)の街のあきびとの舊家(きうか)をほこるあるじにて親の名を繼ぐ君なれば、君死にたまふことなかれ、旅順の城はほろぶとも、ほろびずとても、何事ぞ、君は知らじな、あきびとの家のおきてに無かりけり。君死にたまふことなかれ、すめらみことは、戰ひにおほみづからは出でまさね、かたみに人の血を流し、獸(けもの)の道に死ねよとは、死ぬるを人のほまれとは、大みこゝろの深ければもとよりいかで思(おぼ)されむ。あゝをとうとよ、戰ひに君死にたまふことなかれ、すぎにし秋を父ぎみにおくれたまへる母ぎみは、なげきの中に、いたましくわが子を召され、家を守(も)り、安(やす)しと聞ける大御代も母のしら髮はまさりぬる。暖簾(のれん)のかげに伏して泣くあえかにわかき新妻(にひづま)を、君わするるや、思へるや、十月(とつき)も添はでわかれたる少女ごころを思ひみよ、この世ひとりの君ならであゝまた誰をたのむべき、君死にたまふことなかれ。0.書誌若干の異同のあるテキストが3種類ある。初出『明星』明治37年9月号で、初出の題は「君死にたまふこと勿れ」初版『戀衣』版明治38年1月、本郷書院通常この形態が引用されることが多いため、これをテキストとして用いる。『定本 與謝野晶子全集 第九巻』版上記3種類のテキストについては補足資料1。ただし今回は微妙な異同については問題としなかった。
Apr 20, 2013
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作者「タイトル」 2013.4.22 大野隆之 0.書誌1.報告のテーマ2.報告の方法。3.データ 3.1. 3.2.4.考察 0.書誌:
Apr 20, 2013
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なんという事だ。あと二日しかない。というわけで反省というか学んだこと。 著名な作家の著名な作品、特に明治の作品は、背景や研究史をおさえるだけであっという間に2週間ぐらいたってしまう! よく考えれば昔鏡花について何年も調べていたのにw しかし今回のお題「君死にたまふことなかれ」は非常に個性的な問題作であり、大変勉強になった。 ひとつはこの作品は多くの場合、国語・文学領域よりも、社会、歴史学、思想史の領域の問題であった、ということである。 例えばこの作品は、昭和8年(1933)から昭和54年(1979)まで、全集未収録作品であった。文学者の晶子受容としては、それでもさしつかえなかったのである。というのは文学的に見た場合「君死にたまふことなかれ」は、例えばさほど政治意識が強いものではなかった、という立場で行くと代表的な評価は次のようなものになる。「晶子に「君死にたまふこと勿れ」を書かせたバックボーンの一つとして考えられるのは、処女歌集『みだれ髪』に象徴される、やはり晶子のなかの強い自我解放の願いであったろう」(お世話になった中村文雄氏の見解) だがこの観点から「君死にたまふことなかれ」をとらえてしまうと、『みだれ髪』所収の短歌と比べると特にどうということのない作品ということになりかねない。つまりこの作品は「反戦」という要素を考えない限り、晶子の文学的営為の中では特に水準の高い作品とは言いがたいと思われる。 この二重性がその後多くの論者を惹きつけ、様々な議論が展開したが、構造的には案外単純なので、これについては整理しようと思う。 その他現状不可解な問題点をいくつか。1、やはり第3連の天皇の問題はもう一度考えるべき。2、1904,6,24の日記 「宇品立ちし弟、今日も波の上の上にや。一週間ばかり前広島より、死と云ふことの美しく嬉しき由あまた書きこせし」 の死を美化した表現とはどのようなものだったのか。昭和期の伊東静雄のような表現はよく見るが、日露戦争期の、とくに死を美化する表現群についてはいつか調べたい(今回は時間切れ)。3、島本久恵『明治の女性たち』みすず書房1966,9,30の批判は興味深い。 島本氏は実際に与謝野家とも交流があり、全般的には晶子を尊敬しているため、この詩に対する批判は手厳しい。身勝手な私情に基づくもので、「弟」が日本の青年たち全員に広がっていかない、という批判。 確かに読み用によっては、お前は名家のぼんぼんなんだから、他人がどうなってもお前だけはなんとか助かってくれ、と読めなくもない。この身勝手さは戦後の再評価の中で忘れられがちである。 このうち実際に多少考察できるの1ぐらいだろうか。もう時間切れなので、今回は作品の背景と研究史、批評史をまとめる、を中心にレジュメ作りになります。
Apr 20, 2013
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正義とは悪魔が被ぶる仮面にて 死をよろこばす魔術かなおなじ世界に生れ出でて 親もあり 妻もある子を 名をつけて 勇ましき名のチャンピオン かわいやないくさにやれり遥々と 見もしらず なれもせぬ 万里の空のひとの国かしこしと誇れる人の西にありひがしにもありなにほどのかしこき人ぞむかしより魔に魅入られて今もなおまよいはさめずあはれやな人を殺して涙なくおそろしや生き血に飽きて懺悔せず英雄とわれから誇り豪傑と一世を愚にす骨を積んで花はかをる金殿玉楼血を塗って星はかがやく勲章宝綬あゝ百千の罪悪をそこに一部の文明史いたはしきかなちゝ母は老いてたよりの子にはなれあわれなるかなたをやめは二世のをっとにわかれつついぢらしきかな乳のみ子はまだ父親の顔しらず「忠義には猶かえがたし あっぱれ手柄したぞ」とは あゝあゝ人を殺せよと えせ聖人のおしえかな
Apr 19, 2013
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晶子「産屋日記」(次男、秀の妊娠中)1904,6,24「宇品立ちし弟、今日も波の上の上にや。一週間ばかり前広島より、死と云ふことの美しく嬉しき由あまた書きこせし」 死の美化というと昭和の浪漫派あたりが意識されるが、この時期にも既にあったこと、そして弟がその気持ちにとらわれていることがわかる。与謝野鉄幹「血写歌」1898(明治31)日清戦争を批判した詩とみられる。一部のみ。正義とは悪魔が被ぶる仮面にて 死をよろこばす魔術かなおなじ世界に生れ出でて 親もあり 妻もある子を 名をつけて 勇ましき名のチャンピオン かわいやないくさにやれり遥々と 見もしらず なれもせぬ 万里の空のひとの国(中略)「忠義には猶かえがたし あっぱれ手柄したぞ」とは あゝあゝ人を殺せよと えせ聖人のおしえかな1862鴎外1867漱石1872 一葉誕生1873 鐵幹誕生 5歳上1878(明11年)晶子誕生1880 鳳籌三郎(弟)誕生。1894 日清戦争1898 20歳、このころから和歌を始めた。1900 『明星』創刊。 義和団事件→ロシア満州進出。1901 『みだれ髪』発刊。鐵幹と結婚。1902 長男 与謝野光を出産。日英同盟。1903 二代目宗七(晶子の実父、死去)。 三代目宗七(弟)が駿河屋を継ぐ。1904(明37)2月8日 - 1905年9月5日日露戦争 5月弟出征。 7月7日、次男秀(しげる)出産。外交官、最近引退した与謝野馨のお父さん。1905 1月『恋衣』与謝野晶子、山川登美子、増田雅子共著の詩歌集に「君死にたまふことな かれ」収録。あえて批判に妥協しなかったとみられる。 5月27日 日本海海戦(宮古の久松五勇士はこの時の出来事)。 9月5日 ポーツマス条約。トルストイ「日露戦争論」
Apr 18, 2013
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今頃メモとは・・・・与謝野晶子「ひらきぶみ」http://www.aozora.gr.jp/cards/000885/files/3629_48834.html黒島伝治「反戦文学論」http://www.aozora.gr.jp/cards/000037/files/1424_20337.html宮本百合子「婦人作家」http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/3028_10173.html島本久恵『明治の女性たち』大学図書館に有り。明治女性の立場から、晶子を批判した特異な例らしい。トルストイ「日露戦争論」 ただで印刷可能・・・・http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/871597
Apr 18, 2013
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残りあと4日しかないのに、事実上研究史の整理しかやっていない・・・ それだけ明治の著名人の研究は分厚いということである。 私の学生時代も存命中の作家の研究をするなど、邪道という見方があった。近代文学研究の大半が実質明治から大正文学であった。それが何十年も続き、分厚い研究史が築かれている。 今主に頼りにしている中村文雄氏の『「君死にたまふこと勿れ」』には200を超える参考文献が上がっている(エッセイ、論文、単行本ののべ数)。当然中村氏は全部読んでいると思われ、かつ誠実に誤解せずに記述されているというのを前提としてやっているのだが、卒論など長期スパンの作業ではこれは本来やってはいけない。かならず原典に触れなくてはダメである。 ていうかこの企画自体がかなり邪道である。あくまでも課題を出されて2週間でがんばるには、ということであり、その意味で明治・メジャー系の壁は分厚い。去年やった谷川俊太郎などは現代詩人であり、かつ存命中であるため、知名度のわりには研究史はしょぼかった。これに対して、与謝野晶子は近代文学の大スターである。 このような場合、もちろんフォルマリズムやニュークリティシズムのような手法もないわけではない。作品の歴史的背景を度外視して、純粋に言語的な構築物として批評するというスタイルである。しかし「君死にたまふことなかれ」でなんぼなんでもそれはないだろうと思われる。
Apr 16, 2013
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当時としてはクソミソに叩かれたと思っていたが、実際に「君死にたまふこと勿れ」を強く叩いているのは事実上大町桂月のみだと言って良い。 他に田岡嶺雲はこの詩に政治性がないことを認めた上で、所詮は利己主義であり(弟が助かればそれでいい)、「其私情は之を犠牲としてさらに大なる或公義に殉ずることあるによって、始めて没我の美はしき詩想に化し得らるべきのみ」(田岡嶺雲『霹靂鞭』日高有倫堂 1907年10月 即時発禁) それほど強い批判とは言えない。そもそも嶺雲は最終的に国家そのものをなくし世界共同体を作ろうとしており、もっと過激である。 大町桂月「文芸時評欄雑評録」『太陽』1904年10月の批判の骨子。(全般)戦争を非とするもの、夙に社会主義を唱ふるものゝ連中ありしが、今又之を韻文に言ひあらはしたるものあり。晶子の「君死にたまふこと勿れ」の一篇、是也。(第五連「暖炉のかげに伏して泣く」について)こは実況にして可憐也。(第三連について)さすがに放縦にして思ひ切った事いふ人も、筆大にしぶりたり。されど草奔の一女子「義勇公に奉ずべし」とのたまへる 教育勅語、さては宣戦詔勅を非議す。大胆なるわざ也。問題の第三連とその解釈(重要資料)原文(『恋衣』版=初版形態)君死にたまふことなかれ、すめらみことは、戦ひにおほみづからは出でまさね、かたみに人の血を流し、獣の道に死ねよとは、死ぬるを人のほまれとは、大みこゝろの深ければもとよりいかで思おぼされむ。(大意)あなたは死んではなりません、天皇陛下は、戦場にご本人は、御出になることはありません、その一方で他の人の血を流し、獣の道で死ねよとは死ぬことが人の名誉だとは、陛下のお心は深いので、そもそもそのようことをお思いなるでしょうか。(お思いなるはずありません)。*あんまりよくないが、なるべく中立的に訳した。大町桂月による解釈天皇親(この親の部分は、自の誤植のようにも思われる*大野注)からは、危うき戦場には、臨み給はずして、宮中に安座して居り給ひながら、死ぬるが名誉なりとおだてて、人の子を駆りて、人の血を流さしめ、獣の道に陥らしめ給ふ。残虐無慈悲なる御心根哉与謝野鉄幹、平出修の解釈天皇陛下は九重の深きにおはしまして、親しく戦争の光景を御覧じ給はねど、固より慈仁の御心深き陛下にましませば、将卒の死に就て人生至極の惨事ぞと御悲歎遊ばさぬ筈は有らせれるまい。必ず大御心の内には泣かせ給ふべけれど、然も陛下すらこの戦争を制止し給ふことの難く、已むを得ず陛下の赤子を戦場に立たしめ給ふとは、何と云ふ悲しきあさましき今の世のありさまぞや
Apr 15, 2013
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昨日県立で借りてきた 中村文雄『「君死にたまふこと勿れ」』和泉書院 1994,2を読んでいる。「君死にたまふこと勿れ」というタイトルは象徴的な意味ではなく、文字通り一冊全て「君死にたまふこと勿れ」という一篇の詩についてのみ書かれたものである。芥川「河童」の注釈本など、小説の場合はこういうケースも結構あるが、単一の詩について一冊の単行本が出るというのは前代未聞かもしれない。 大胆な仮説など一切なく、地道に事実を積み重ねる手法は、基礎研究の基本であり、その意味で非常に価値ある一冊である。この本を見ずに 「君死にたまふこと勿れ」を語りたまふこと勿れ、という感じである。ものすごく大ざっぱな読解メモ。この詩に関する反響として中村氏がチェックできていないものはほとんどないと思われるし、それをこれから発見するのは至難の業である。したがってこの本に紹介されている反響が主な分析対象となる。それは数多いが、基本的に2×2の4種類の累計があるようである。1、政治性について。ないor ある2、評価 評価できるor 批判すべき 本人の釈明である「ひらきぶみ」やそれを受けて擁護した剣南(角田勤一郎)など、最初期からこの作品は「とにかく弟に死なないで欲しい」という個人的な感情を吐露したものであり、政治性がないというもの。 この点はそれゆえ率直な感情を単純に評価すべき、という方向と、反戦詩歌というのは過大評価であり、所詮は個人の感情にすぎないと否定的に読まれる場合とがある。 一方政治性があるというのは、最初の批判者大町桂月に始まる批判的な立場と、それとは正反対に反戦主義の初期的な表現として評価する立場がある。社会科の教科書に載せるのは政治性を評価する立場だと思われる。大町桂月「文芸時評欄雑評録」『太陽』1904年10月 戦争を非とするもの、夙に社会主義を唱ふるものゝ連中ありしが、今又之を韻文に言ひあらはしたるものあり。晶子の「君死にたまふこと勿れ」の一篇、是也。(中略)(第五連「暖炉のかげに伏して泣く」について)こは実況にして可憐也。(第三連について)さすがに放縦にして思ひ切った事いふ人も、筆大にしぶりたり。されど草奔の一女子「義勇公に奉ずべし」とのたまへる 教育勅語、さては宣戦詔勅を非議す。大胆なるわざ也。
Apr 15, 2013
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あらかじめ読んできて下さい。口語訳だけでいいです。 日露戦争開戦詔書天佑ヲ保有シ、万世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本国皇帝ハ、忠実勇武ナル汝有衆ニ示ス。朕茲ニ露国ニ対シテ戦ヲ宣ス。朕カ陸海軍ハ、宜ク全力ヲ極メテ露国ト交戦ノ事ニ従フヘク、朕カ百僚有司ハ宜ク各々其ノ職務ニ率ヒ、其ノ権能ニ応シテ国家ノ目的ヲ達スルニ努力スヘシ。凡ソ国際条規ノ範囲ニ於テ、一切ノ手段ヲ尽シ、遺算ナカラムコトヲ期セヨ。惟フニ文明ヲ平和ニ求メ、列国ト友誼ヲ篤クシテ、以テ東洋ノ治安ヲ永遠ニ維持シ、各国ノ権利利益ヲ損傷セスシテ、永ク帝国ノ安全ヲ将来ニ保障スヘキ事態ヲ確立スルハ、朕、夙ニ以テ国交ノ要義ト為シ、旦暮敢テ違ハサラムコトヲ期ス。朕カ有司モ亦能ク朕カ意ヲ体シテ事ニ従ヒ列国トノ関係年ヲ逐フテ益々親厚ニ赴クヲ見ル。今、不幸ニシテ露国ト釁端ヲ開クニ至ル、豈朕カ志ナラムヤ。帝国ノ重ヲ韓国ノ保全ニ置クヤ、一日ノ故ニ非ス、是レ両国累世ノ関係ニ因ルノミナラス、韓国ノ存亡ハ帝国安危ノ繋ル所タレハナリ。然ルニ露国ハ、其ノ清国トノ盟約及列国ニ対スル累次ノ宣言ニ拘ハラス依然満洲ニ占拠シ、益々其ノ地歩ヲ鞏固ニシテ、終ニ之ヲ併呑セムトス。若シ満洲ニシテ露国ノ領有ニ帰セン乎、韓国ノ保全ハ支持スルニ由ナク、極東ノ平和亦素ヨリ望ムヘカラス。故ニ朕ハ此ノ機ニ際シ、切ニ妥協ニ由テ時局ヲ解決シ、以テ平和ヲ恆久ニ維持セムコトヲ期シ、有司ヲシテ露国ニ提議シ、半歳ノ久シキニ亙リテ屡次折衝ヲ重ネセシメタルモ、露国ハ一モ交譲ノ精神ヲ以テ之ヲ迎ヘス、曠日彌久徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメ、陽ニ平和ヲ唱道シ、陰ニ海陸ノ軍備ヲ増大シ、以テ我ヲ屈従セシメムトス。凡ソ露国カ始ヨリ平和ヲ好愛スルノ誠意ナルモノ毫モ認ムルニ由ナシ。露国ハス既ニ帝国ノ提議ヲ容レス、韓国ノ安全ハ方ニ危急ニ瀕シ、帝国ノ国利ハ将ニ侵迫セラレムトス。事既ニ茲ニ至ル、帝国カ平和ノ交渉ニ依リ求メムトシタル将来ノ保障ハ、今日之ヲ旗鼓ノ間ニ求ムルノ外ナシ。朕ハ汝有衆ノ忠実勇武ナルニ倚頼シ、速ニ平和ヲ永遠ニ克復シ、以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス。 御名御璽 明治三十七年ニ月十日 大意 天に守られ万世一系の天皇の位を継いだ大日本帝国皇帝は、忠実で勇敢な、君たち民衆に示す。 私はここにロシアに対して戦いを宣言する。私の陸海軍はぜひとも各自の職務に従い、各自の権限におうじて、国家の目的を達するように努力しなさい。およそ国際法の範囲の中ですべての手段をつくし、見込み違いないようにしなさい。 考えてみると、文明を平和に求め、列国は友好をあつくして、それによって東洋の治安を永遠に維持し、各国の権利や利益をそこなわず、ながく日本の安全を保障する状態を確立するのは、私は以前から外交の一番大切なことであるとし、朝から晩までこれと異なることの無いようにと考えてきた。私の官僚たちも私の考えをよく体現して、列国との関係も年々親しくなってきたのをみている。今不幸にしてロシアとの不和がはじまってしまった。どうして私の志であろうか。 日本の重点を韓国に置いているのは最近の話ではない。これは日韓の長い間の関係によるだけではなく、韓国の存亡は実に日本の安否に関係するところだからである。しかしロシアは清国との条約、列国に対して何度も重ねた宣言にもかかわらず、依然満州を占領し、その立場を強くし、ついにはこれを飲み込もうとしている。もし満州がロシアの領土になったら、韓国の独立を支える方法はなく、極東の平和を望むことも不可能である。 故に私はこの状況に直面し、なんとか妥協によって時局を解決し、平和を永久に維持しようと考え、外交官を通じてロシアに提案し、半年にわたり何度も折衝を重ねたのだが、ロシアは全く譲り合いの気持ちで迎えることなく、無駄に時間を費やし、時局の解決を引き延ばし、表では平和を口にしながら、裏では陸海の軍備を増大し、それにより日本を屈従させようとしている。およそロシアは最初から、平和をめざす誠意はいささかも認めることができない。ロシアは既に日本の提案をうけいれず、韓国の安全はまさに危機に瀕し、日本の国益は侵害されようとしている。事態は既にここに至ってしまった。日本が平和交渉により求めようとした、将来の保障は軍事的に求める他なくなった。私は君たち民衆の忠実で勇敢であることに頼り、速やかに平和をとりもどし、それにより日本の栄光を守ることを期待する。
Apr 15, 2013
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『與謝野晶子に学ぶ - 幸福になる女性とジェンダ-の拒絶』はアマゾンはプレミアだったが、紀伊国屋には定価であったので購入。 それ以外にも『君死にたまふことなかれ』と題された書籍が結構あることがわかった。「サクラ大戦2君死にたまふことなかれ」は無関係だと思われるが、茨木のり子による評伝や戦争と流行歌関係の図書など結構ある。やっぱ2週間にはきつい対象だったかも。 また「君死にたまふことなかれ」は合唱曲になっていることもわかった。http://www.youtube.com/watch?v=Om8b__CcudU異様に重い・・・・。作曲者は80年代生まれの人なので、最近のものである。 それ以外にもシャンソンバージョンとかもある。まあこの音楽の問題は今回はいいだろう。 ネットで落とせる学術論文。松井貴子「「君死にたまふことなかれ」とその後ー与謝野晶子と戦争」『比較文学・文化論集』1996,10,15。 タイトルはズバリど真ん中だが、当たり障りのない内容で、残念。これといった新味はない。☆学部生も引用する場合、すばらしい。イマイチ。だめ。等の評価をするように心がけてください。関礼子「斎藤緑雨と日露戦争言説ー文体・メディア・ジェンダーを視座として」『経済学紀要』2005,1.亜細亜大学。 タイトル通り斎藤緑雨が中心だが、さすが関先生、この時代の反戦論の空気がわかる大変参考になる論文である。その他トルストイの日露戦争の反対論と「君死にたまふことなかれ」との関係をあつかた先駆的研究。http://akikotorusutoi.blog28.fc2.com/blog-entry-1.html貴重な先駆的研究であるが、とにかく冗長なのがきつい。執筆者の人生論と研究の報告は分けていただきたい。日曜は県立図書館。中村文雄『「君死にたまふこと勿れ」』和泉書院 1994,2確かにこれまでの研究の決定版という感じがする必読書。松村由利子『与謝野晶子』中公叢書 2009,2晶子とキリスト教、晶子と科学思想など、独自の切り口。
Apr 12, 2013
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楫野政子の論考は全体的に参考になるものだが、特にレファランスは助かった。中村文雄『君死にたまふこと勿れ』 (和泉選書1994/2) 一冊丸ごとこの問題のようである。中村氏は他に大逆事件の著書などもあるので、左派系の知識人かと思われる。中川八洋 『与謝野晶子に学ぶ』(グラフ社 2005/03) 中川氏は私の知る限りもっとも右よりの文化人の一人であり、実は愛国主義者だった与謝野晶子を賞揚するという趣旨のようである。わくてかである。 楫野氏が信頼に足るのは、こういうバランスの取れた位置取りである。イデオロギーに飲まれると研究者は終わりである。さて特に三年生は次のURLはコピペである。http://www2.library.pref.okinawa.jp/wo/crs/ちなみにこのページは、デフォルトだと大学図書館は検索しないので、沖国だけでもチェックをつけとくとよい。この検索機能を用いると中村文雄氏のほうはいくつかの図書館にあることがわかる。一方中川八洋氏のものは名護図書館だけか。 楫野氏によれば中川氏の著作の重要性は、問題となる「すめらみことは、戦ひに おほみづからは出でまさね」の部分が、トルストイの『なんじら、悔いあらためよ』(爾曹悔改めよ)に由来していると指摘している部分である。 定価1500円だったのにプレミアで3000円か。それとも名護まで行くのか・・・難しいところである。その他大町桂月は、県内ダントツでうちの図書館が収集しているのであとでコピーにいこう。
Apr 11, 2013
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今日もネット。イデオロギー的な動機もあり、「君死にたまふことなかれ」に関するページは無数である。http://www.geocities.jp/torikai007/bio/yosano.html「与謝野晶子を巡る戦争文学」と題されており、テキスト部分だけ印刷してみたら、57ページもあった。ただ制作者の鳥飼行博氏は「環境平和学」の専門家であり、注意が必要であろう。 資料は多いが、配置等は散漫な感じ。http://www.vega.or.jp/~toshio/kimi.htm「君まちがうことなかれ」と題された典型的なイデオロギー系のページ。「ひらきぶみ」の弁明などを根拠に、晶子の作品は真の反戦平和主義とはほど遠いことを主張している。http://ishibashi.hippy.jp/bunkahihyo/kajino.htm日露戦争下の「女性反戦詩歌」あれこれ 楫野政子 タイトルは平凡だが本日最大の収穫。楫野氏は与謝野晶子を専門とする若い研究者であり、非常に参考になる。当面実質論文ともいえるこのエッセーが考察の基本となりそう。ネットから簡単にわかる事項。問題点。1,この作品については、早くから「反戦平和」の作品という見方と、親族に対する個人的な思いである、という見方があった。2,明治期においては昭和などと違い、反戦平和、非戦の思想というのは必ずしも珍しいものではなかった。3,作品に対する批判としては大町桂月が有名。大町の批判は「明治の厭戦歌」『太陽』明37年10月。これはネット上ではまだ見つけていない。これに対する晶子の反論が「ひらきぶみ」『明星』。こちらはあちらこちらに落ちている。両者の主張を掲載すべきだと思われるが、どうしても大町は悪役扱い。 1862鴎外1867漱石1872 一葉誕生1873 鐵幹誕生 5歳上1878(明11年)晶子誕生1880 鳳籌三郎(弟)誕生。1894日清戦争1898 20歳、このころから和歌を始めた。1900 『明星』創刊。義和団事件。1901 『みだれ髪』発刊。鐵幹と結婚。1902 長男 与謝野光を出産。日英同盟。1904(明37)2月8日 - 1905年9月5日 日露戦争 次男出産。 トルストイ「日露戦争論」
Apr 10, 2013
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今年も4月冒頭。2週間で調査からレジュメ作成までの実践例である。今年はやや元気がないが、講義は大幅に減らしてもらっているのでがんばろう。 お題は与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」であり、学生が選んだ。渋い選択である。非常に有名な作品であるが、文学というより歴史の教科書の素材としてよく知られるという奇妙な作品である。 作品としてどうよ?ということなのかもしれない。 で、初日。日頃から「ネットからの切り貼りで、レジュメを作るんじゃない」とかいってるのであるが、いきなりピンチである。というのはさすが著名な作品だけにネット情報だけでもかなり充実している。 まずwikiだけでもかなりのものであり、「君死にたまふことなかれ」にかなりの記述を割いている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8E%E8%AC%9D%E9%87%8E%E6%99%B6%E5%AD%90 また検索すると上位にある http://www.geocities.jp/sybrma/62yosanoakiko.shi.htmlはかなり気合いの入ったものであり、もうこれでいいんじゃないか、という気がしてくる。というわけでオリジナリティーが出せるのかどうか大いに不安であるが、とりあえず大枠を確認した。 初出 『明星』明治37(1904)年9月号、初出の題は「君死にたまふこと勿れ」、また、初出では句読点が全くなく、副題「旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて」は、括弧内に記されている。おおざっぱな関係年表。1862鴎外1867漱石1872 一葉誕生1873 鐵幹誕生 5歳上1878(明11年)晶子誕生1880 籌三郎(弟)誕生。1894日清戦争(戦死 1,132 戦傷死 285 病死 11,894戦傷病 3,758 日本サイドのみ)1898 20歳、このころから和歌を始めた。1900 『明星』創刊。1901 『みだれ髪』発刊。鐵幹と結婚。1902 長男 与謝野光を出産。1904(明37)2月8日 - 1905年9月5日 日露戦争 (戦没88,429人,うち戦死戦傷死は55,655人病死27,192人 負傷者153,584人 日本サイドのみ)後の戦争がむごすぎるためあまり意識されないが、日露戦争というのは相当大規模な戦争だったことがわかる。同年(1904)次男 与謝野秀が誕生している。1904前後の文学状況。子規以降の詩歌改良運動、藤村らのロマン主義詩歌。気になるのは1903、児玉花外の『社会主義詩集』。小説はゾライズムから自然主義への流れ。初日はこんなところか。
Apr 9, 2013
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一番最初は喉にひっかるなあ、で病院に行った。胃カメラを入れるとこれはでかいとひと目でわかる腫瘍があった。こんなになるまで、気づかないものなのか・・・。ちなみ前回胃カメラをやったのは4年前であり、その時点では無かった。仮に一年おきに検査していれば、とかいろいろ考えるところはある。 ただし現状隣接しているリンパ腺に僅かに湿潤している程度であり、主治医の先生は十分に根治可能であるとおっしゃってくれている。 今後は食道癌治療としては現在最もスタンダードな、FP(抗がん剤治療)2セットから手術という流れになるようである。 既にFPの一回目は終了した。抗がん剤自体はフルオロウラシル(5-FU)を中心とするスタンダードなものである。24時間×5日間点滴つなぎっぱなしと、文字にするとキツそうだが、終わってみるとそれほどつらいという感覚はなかった。というのも現在副作用に対する研究が日夜進歩しており、ほとんど副作用の自覚症状がなかったからであろう。 私の場合比較的新しい「イメンド」という吐き気をおさえる薬がドンピシャであり、地獄のようなと形容されることすらある吐き気が全く無かった。薬品会社の毎日新しい薬を考えていますとかいうCMがあり、これまではほとんど気にしていなかったが、本当に感謝である。 一方抗がん剤の威力はすさまじく、あんなに大きかった腫瘍は現時点では素人にはよくわからないほど小さくなっている。いけるんじゃないか、という感じである。これなら130人の文学史もOKという感じであるが、もちろん大教室は自粛。前期はゼミと卒論、大学院だけにしてもらった。 今後連休中に抗がん剤2回目。その後夏休みに手術。後期はすっかり元気という意気込みであるw。
Apr 5, 2013
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ガン告知を受けたときには、思いのほか平静だった。食道がん「喫煙、度数の高い酒(代表あわもりw)辛い食べ物」・・・全部好きなんですがw まあこれは自業自得と言わざるを得ない。したがって私一人死ぬのはやむを得ないのであるが、問題は子供である。一番下が4歳。発病する前にかなり太めの生命保険に入っているので、なんとかなりそうであるが、父無しはかわいそうである。 それから私の生そのもの。まずまず感はあるが、研究業績とか、これで終わりだとなんともしょぼい気がする。特に「人生の密度」というものが40代以降低くないかね。 教育もそう。なかなか優秀な卒業生も増えてきたけど、やっぱ現状しょぼいだろ。今年の新4年はなかなかの素材が揃っているので、これがもしかすると最後の教え子かもしれないと考えればもっと頑張れないかな? まあとにかく仮に死ぬとしても、よく生きた、と自己満足したいものである(続く)。
Apr 4, 2013
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