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前日夜としてはこんな感じか。明日もうちょい頑張ります。


与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」         2013.4.22  大野隆之

テキスト
0.書誌
1.報告のテーマ
2.報告の方法。
3.データ
 3.1時代状況、年表。これは必要ないなら、必ずしも入れなくて良い。
3.2批評の四類型。

 4.1 批評誌の検討。
 4.2 第3連についての検討。
 4.3 表現としての「君死にたまふことなかれ」

5.結論

テキスト、今回は一篇の詩がテキストのため、レジュメに掲載した。通常は各自読んでくること。

君死にたまふことなかれ   
     旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて

   與 謝 野 晶 子



あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、

親のなさけはまさりしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。


舊家(きうか)をほこるあるじにて
親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。

君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戰ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獸(けもの)の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されむ。

あゝをとうとよ、戰ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守(も)り、
安(やす)しと聞ける大御代も
母のしら髮はまさりぬる。

暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻(にひづま)を、
君わするるや、思へるや、
十月(とつき)も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。


0.書誌
若干の異同のあるテキストが3種類ある。


初出『明星』明治37年9月号で、初出の題は「君死にたまふこと勿れ」


初版『戀衣』版明治38年1月、本郷書院
通常この形態が引用されることが多いため、これをテキストとして用いる。


『定本 與謝野晶子全集 第九巻』版

上記3種類のテキストについては補足資料1。ただし今回は微妙な異同については問題としなかった。


1.報告のテーマ ここが最重要。結局直前になっちゃう・・・・
2.報告の方法。

3.データ
3.1.時代状況、年表。
1862鴎外1867漱石
1872 一葉誕生
1873 鐵幹誕生 5歳上
1878(明11年)晶子誕生
1880 鳳籌三郎(弟)誕生。これが本名だが、父親の鳳宗七を襲名したため詩の副題は宗七になっている。
1894 日清戦争
1896 18歳、このころから和歌を始めた。
1898(明治31)与謝野鉄幹「血写歌」日清戦争を批判した詩とみられる。補足資料2
1900 『明星』創刊。
    義和団事件→ロシア満州進出。
1901 『みだれ髪』発刊。鐵幹と結婚。
1902 長男 与謝野光を出産。日英同盟。
1903 二代目宗七(晶子の実父、死去)。
   三代目宗七(弟)が駿河屋を継ぐ。
1904(明37)2月8日 - 1905年9月5日日露戦争
   5月弟出征。
   7月7日、次男秀(しげる)出産。外交官、最近引退した与謝野馨のお父さん。
   9月「君死にたまふこと勿れ」『明星』
   11月「ひらきぶみ」『明星』    
1905 1月『恋衣』与謝野晶子、山川登美子、増田雅子共著の詩歌集に「君死にたまふことな  かれ」収録。あえて批判に妥協しなかったとみられる。
   5月27日 日本海海戦(宮古の久松五勇士はこの時の出来事)。
   9月5日 ポーツマス条約。


3.2 批評の四類型。
3.2.1 政治的な詩とみなし、批判的。

 明瞭な文章として残っているのは大町桂月のみ。ただし悪口、家に投石などさまざまな嫌がらせがあったとされる。その他文部省文芸委員の受賞を逃したり、生涯文化勲章など公的な栄誉が得られなかったのは、この作品のためだとされている。

大町桂月「文芸時評欄雑評録」『太陽』1904年10月
戦争を非とするもの、夙に社会主義を唱ふるものゝ連中ありしが、今又之を韻文に言ひあらはしたるものあり。晶子の「君死にたまふこと勿れ」の一篇、是也。(中略)
(第三連について)さすがに放縦にして思ひ切った事いふ人も、筆大にしぶりたり。されど草奔の一女子「義勇公に奉ずべし」とのたまへる 教育勅語、さては宣戦詔勅を非議す。大胆なるわざ也。(中略)
 (第二連について)家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦うべき義務なしといふは、あまりに大胆すぐる言葉也。

3.2.2 政治的な詩とみなし、肯定的。

 現在支配的な認識ではないかと思われる。
 例えば日本ペンクラブの見解。
 「此処に掲載の詩編は、名高い「君死にたまふこと勿れ」が明治三十七年(1904)九月「明星」初出。忠君愛国の日露戦争時代に果然反響を巻き起こしたが、毅然として退くことなかった晶子反戦の真意は、「あきびと=商人」の自立心とともに、今にして露堂々と受け取れる。

http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/poem/yosanoakiko.html


 NHKの見解。
「日露戦争(にちろせんそう)の最中に発表された詩、「君死にたまふことなかれ」。書いたのは、歌人の与謝野晶子(よさの・あきこ)。晶子は、戦争に反対する気持ちを、この詩に表しました。」
http://cgi2.nhk.or.jp/school/movie/clipbox.cgi?das_id=D0005310132_00000&keepThis=true&TB_iframe=true&width=920&height=480

受験産業
「歌人の与謝野晶子は、戦場にいる弟を思いやる詩を発表して戦争に反対する気持ちを表した」(新小学問題集社会、奥付なし)。


3.2.3 政治性、思想性は低いとみなし、批判的。

同時代。
田岡嶺雲はこの詩に政治性がないことを認めた上で、所詮は利己主義であり(弟が助かればそれでいい)、「其私情は之を犠牲としてさらに大なる或公義に殉ずることあるによって、始めて没我の美はしき詩想に化し得らるべきのみ」(田岡嶺雲『霹靂鞭』日高有倫堂 1907年10月)
 この田岡に始まる利己主義、エゴイズムという批判はその後も数多くある。

戦後。
 反戦・平和主義のサイドから、反戦歌としては不十分、という批判が多い。
 平和教育で知られる家永三郎は、この詩をあくまでも個人的な厭戦感を表現したものに過ぎず、反戦表現としては二流としている。

3.2.4 政治性、思想性は低いとみなし、肯定的もしく擁護的。

 同時代では本人の書いた「ひらきぶみ」およびそれを受けて晶子を擁護した鉄幹、剣南、平出修らの立場。この場合率直に個人的な感情を吐露した作品ということになる。
 「ひらきぶみ」については補助資料2

 この作品について、今のところ最も網羅的な研究書と言って良い『「君死にたまふこと勿れ」』の著者、中村文雄氏が基本的にこの立場に立っている。
 ある意味非常に穏健な立場である。


4.考察

4.1 批評史の検討。
 データに提示したとおり、「君死にたまふことなかれ」の評価は2×2の四通りに分けられるわけだが、実質的に反戦詩として忌避される状況から、忘却。そして戦後になると、戦前を代表する反戦詩として再評価されることになった。つまり政治的・思想的な作品として世俗的大衆的には把握され、一方より詳細に作品およびその背景を検討する側からは、個人的な感情表現である(に過ぎない)という見方が主流である。

 大町と鉄幹ら新詩社サイドとの議論は実質的には、撤回こそしないものの、大町が引くかのような決着になっている。この議論関連の文章は『大町桂月全集』には収められていない。これは必ずしも大町の分が悪いからということではなく、全集の大半は「美文」と分類される紀行文が占めており、すなわち大町にとってはこの議論は大したものではなかった、ということになるのだろう。また新詩社としては絶対に引くことができない、というわけで大町が引くほかなかったように思うが、大町サイドに立った場合、もう少し頑張れたようにも思う。

4.2 第3連についての検討。
 冷静に文献をたどった場合、確かにこの作品に、強い政治性はなく、死を美化するかのような弟の手紙

 晶子「産屋日記」(次男、秀の妊娠中)1904,6,24
「宇品立ちし弟、今日も波の上の上にや。一週間ばかり前広島より、死と云ふことの美しく嬉しき由あまた書きこせし」

 これに対する返歌というのが、「君死にたまふことなかれ」の第一義であるというの確かだと思われるし、その他残された母や、妻、そして姉たる自分の心情が中心であるというのも確かである。ただそれだけなら天皇(および戦局)に言及する必要があったのか、という問題がどうしても残る。大町の違和感はここに始まっているのであり、同じく個人的な厭戦感を表現した大塚楠緒子「お百度詣」は是とする、大町の評価には一貫性がある。

参考  大塚楠緒子「お百度詣」

   ひとあし踏みて夫(つま)思ひ、
   ふたあし国を思へども、
   三足ふたゝび夫おもふ、
   女心に咎ありや。

   朝日に匂ふ日の本の    
   国は世界に唯一つ。
   妻と呼ばれて契りてし、
   人も此世に唯ひとり。

   かくて御国と我夫と
   いづれ重しととはれれば
   たゞ答へずに泣かんのみ
   お百度まうであゝ咎ありや

――『太陽・第11巻第1号・1905年』


以下、原文と大町の解釈、新詩社の解釈。


★原文(『恋衣』版=初版形態)

君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戦ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獣の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思おぼされむ。


★大町桂月による解釈

天皇親(この親の部分は、自の誤植のようにも思われる*大野注)からは、危うき戦場には、臨み給はずして、宮中に安座して居り給ひながら、死ぬるが名誉なりとおだてて、人の子を駆りて、人の血を流さしめ、獣の道に陥らしめ給ふ。残虐無慈悲なる御心根哉


★与謝野鉄幹、平出修の解釈

天皇陛下は九重の深きにおはしまして、親しく戦争の光景を御覧じ給はねど、固より慈仁の御心深き陛下にましませば、将卒の死に就て人生至極の惨事ぞと御悲歎遊ばさぬ筈は有らせれるまい。
必ず大御心の内には泣かせ給ふべけれど、然も陛下すらこの戦争を制止し給ふことの難く、已むを得ず陛下の赤子を戦場に立たしめ給ふとは、何と云ふ悲しきあさましき今の世のありさまぞや

 大町の解釈は嫌味に過ぎるのであり、いくらなんでもそこまでは言っていない。だが逆に鉄幹の二、三行目の解釈はいかにも逃げ腰である。 2、3行は「天皇陛下は戦場に、ご自身からは御出でにならない」と訳すほかなく、そのあとのフォローこそあるが、この詩で最も衝撃的な部分はここである。それはそもそも戦とは無縁であった平安朝の皇室に対して、近代天皇制が持ってしまった統帥権の問題を糾弾しているようにすら思える。

 1990年時点の調査であるが、高校の歴史教科書20社のうち、「君死にたまふことなかれ」に言及しているのが半数の10社。一部でも引用しているのが7社。第3連を引用しているのは2社だけのようである。一番議論になる部分を外すというのは、なんとも日本らしい感じではある。







5.結論
















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Last updated  Apr 21, 2013 10:52:53 PM
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