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午後、広島へ到着。すぐに市電に飛び乗った。限られた午後の時間。可能な限り、ヒロシマを感じたかった。原爆ドーム前で大量に降りる人や、平和記念公園に群がる人を横目に次の駅、本山で降車。原爆ドームが見える川から一本、通りを隔てると、そこにはどこにでもある工場やガソリンスタンドがある町並みが現れ、当たり前のような規模の当たり前の見た目の小学校が現れる。【本山小学校】だった。そこの門をくぐって、事務局らしき場所を訪れると、当たり前の小学校にはない、記帳をする帳面の横に、訪問者用の名札が多数置かれていた。一声かけ、記帳をし、名札をつけ、案内の通り、体育館の裏の資料館へ。その資料館は、原爆投下当時、まだ珍しい鉄骨造りで辛うじて建物の枠組みが残った小学校の建物の一部を、父母会の想いもあって資料館として残している物だった。夏休み中の小学校の片隅。セミの声だけが激しく鳴り響く中。ひっそりと、その建物が顔をのぞかせた。辺りには誰もなく、私一人。私はそっと足を進めた。どこかで見た拡大した写真や、やはりどこかで見た説明、原爆資料館でも見られるような遺品などがあり、順路を淡々とこなしていた私の足が、どうしても動かなくなった。それは地下へと続く階段だった。階段の側面も、その奥も、明らかに原爆投下当時の建物に少し手を加えただけの代物で、足元を照らすための明かりだけが赤く、現代の色を放っていた。目を閉ざしても、私には見えた。そこを走りまわっていた子供の姿が。耳を塞いでも私には聞こえた。戦時中、次第に減っていく授業らしき授業の中、それでも絶えなかった笑い声の数々が。ベトナム、沖縄。これまでもこういった資料館は数々見てきたが、こんな経験は初めてだった。それはもしかしたら、小学校の原爆投下痕を、小学校に保管しているからなのかもしれない。体中、ガタガタ震える中、『私は物見遊山じゃないんだ』と心に繰り返し、必死な思いで歩を進めた。明かりをくぐり、地下が広がって、そこには原爆投下時のヒロシマの街を再現したミニチュアなど、現代を匂わす物が数多くあるにも関わらず、そこが現代だと思えず、原爆投下直後の本山小学校に迷いこんでしまったような錯覚に襲われた。私はそれを振り切るように、カメラのシャッターを切った。フラッシュが当たりを照らす。その光が、死者の原爆投下当時の『ピカ』を思い出させてしまったのだろうか。もう一回、シャッターを押したのだが、シャッターは全く動かなかった。『死者を惑わせ驚かせる女』と拒否された気配を感じ、私は必死で、その場から走り逃れた。その後も辛うじて順路通りには走ったが、何が展示してあったのか、どうなっていたのか、全く覚えていない。気がつくと私は建物の外にいて、しゃがみこみ、頭を両膝の間に入れて、手だけ高く合わせていた。猛烈に気持ちが悪くなっていた。繰り返して言うが、私がこんな状況になったのは初めてだし、こんなことを期待して戦地を廻っている訳ではない。それだけに、子供たちに訪れた突然の、かつ壮絶な死を、夥しい死の群団を思いやらずにはいられなかった。そのまま、原爆投下時には川面が見えない程、死体で埋めつくされた、という川を渡り、【原爆ドーム】に向かった。様々な人に注目され、写真に残してもらっているこの建物は、どこかで見たよりも現物はもっともっともっともっと荒れて、やせ細っていた。横をたゆとう川と、こちらをさえぎる柵は、何故かものすごく低くて、娘がもし、ここにいたら、容易く越えて向こうに渡ってしまえる程、低くて。橋の柵も小学生の腰ほどに低くて。その意図の真意は私などには分からないのだけれど、もしかしたらそれは、広島の人と川の距離感みたいなもので、ずっと古から、広島の『人』と『川』は、こうやってお互いの危険を分かち合いながら暮らしてきたのかもしれない、と思った。だとしたら、この川を埋めつくし、潮の満ち干きの度にギシギシと川面を動いていた死体に対する、広島の人の怒り、やるせなさ、悲しさというのは、私が考えているよりも、もっと重いのではないのかな、と勝手に推察していた。そのまま記念公園を横切って、【平和記念資料館(原爆資料館)】へ。そこには、主なき声をあげる遺品、原爆のすさまじさを証言する物品たちが、声を限りに叫んでいた。私は、その声に耳を傾け、時に涙を流しながらも悔しくてたまらなかった。何故、誰かがその惨状を写真に残しておかなかったんだろう、と。広島に原爆が投下された直後の写真は、実はほとんど残されていない。たまに我々が目にする写真も、現地の新聞社のカメラマンが、当日、たった5枚だけシャッターを押したものであった。彼は、あまりにもすさまじい惨状で、シャッターを押せなかった、と証言するが、私はそれが悔しくて悲しい。プロならば、シャッターを切るべきであった。証言は、その立場、それぞれの気持ちで行き交ってしまう。でも、写真は、少なくても切り取られた一場面だけであっても、そこで語ってくれるものは、言った言わないの水掛け論とは一味も二味も違うものになるはずだ。戦時下、学徒動員されて街の解体作業にかりだされていた、恥らう年頃のうら若き乙女たちが、服も裂け、髪は怒髪天を抜き、哀れな、露なほとんど全裸の格好で逃げまどい、死にたえ曝されていた姿を。黒こげで炭化した木工から、それがかつて人間であったことを主張するかのように、穴という穴からピンク色の内臓が飛び出していった姿を。眼球が飛び出し、下が天を打ち抜くように伸びきった、かつて人間であった我々の同士の姿を。写真に残すべきであった、と。平和記念資料館には、想像以上に多くの外国人でひしめきあっていた。それは、日本人の半分近くに、私には見えた。笑いあったり、団体行動の中、トコロテンのように押し出されている日本人の中、神妙な顔つきで足を止めている人は、外国人に多かった。それはそうだ。原爆投下当事国、アメリカでさえも、原爆で戦争が早期に終結された、という自国の武勇伝以外、原爆に対しての勉強はなされておらず、原爆資料館では、日本の資料館にあるような原爆の被害を伝える写真などは鍵付きの部屋に閉じ込めておき、人目に触れないようにされている現状。こういった展示は、唯一、被爆国たる日本にしかない、展示なのである。外国人が、目を白黒させて見入るのは道理なのである。原爆資料館の中、とある展示のとある片隅に、こんな一展示があった。『外国の教科書に学ぶ』多くの外国の教科書も展示されていたが、その説明に、『日本は原子爆弾で多くの被害を出したが、周辺諸国でも日本から多くの被害をこうむっている国がいて、その痛みを伝える教科書がある。日本はその国々のことを学んで、相互に正しい歴史認識の元、国際化にはお互いの痛みを分かちあうことが重要である』と。私はそれを読んで、冷や水をぶっかけられたように涙が引っ込んでしまった。何が相互に歴史認識だ。確かにそれは道理だ。正論だ。でも、その前に我々は、自分たちの痛みを知っているか。少なくても、このヒロシマの痛みを知っているか。非戦闘員を、つまり、母親だったり、子供だったり、年寄りだったり、を、自分たちの手を汚したり、葛藤することもないまま、十何万人の人生を一瞬で終わらせてしまえる狂気の凶器を浴びた、ヒロシマの人たちの怒りを、無念を知っているか。それは我々が、戦争をはじめなかったら。それは、もし当時の鈴木首相が黙殺などという表現を使用しなかったら。我々だって多くのアジアの民を殺してきたのだし。この原爆投下で戦争終結を早めることが出来たのだし。それはそうだ。でも、そのことと、唯一の被爆国であることと、どうして同じ計りで測れよう。自分たちの痛みも認識し、怒ることも出来ないで、どうして他の国の人々の痛みを分かり、忘れないでいることができよう。自分たちが謝って欲しいと思っていないことを、どうして他の人に謝ることが出来ようか。日本がこんなことをした、あんなことをした、と、授業のほとんどを対日本戦争史に割いている、中国、南北朝鮮国程とは言わないまでも、どうして、戦争に対する情報を、偏っていてもいいから、教えてくれないのだろう。これを読んで、嫌なことを書いているな、と読まなくなった人は多かろう。私だって書いているのが嫌だ。何故か、すごく抵抗がある。『唯一の被爆国であることを主張し、つまり被害者である自分たちの一面を押しだし、アメリカに謝罪を要求し、非核を主張し、平和を訴える。』唯一の被爆国として、こんなに当たり前のことが、どうしてこんなに恥ずかしいと思ってしまうのだろう。これが流行りの自虐史感というのか、アメリカの戦後民主主義の洗脳効果なのか、などと思ってみたりもする、が、そんな大袈裟なことではなく、ただ単に、奥ゆかしく恥じらい深い日本人気質なのではないかしら、などと思ったりもする。とまれ。将来。娘をはじめ、誰か子供とここを訪れたとき、その子が「怖い、気持ち悪い」と言ったとき、「そうだね、怖いね、気持ち悪いね、だから平和がいいよね。」では、なんの説得力もない、ただ恐怖心をあおる、お化けのような存在でしかない。そこで、どうして怖くも気持ち悪くもない人たちが、こうなったのか。どうやったらこうならないのか。という基本を、胸を張って外国人と討論出来るだけの知識を教えてあげたいと思う。最後、【袋町小学校の資料館】へ。ここも小学校だが、資料館は人通りが多い一般通りに面していて、本山小学校とは違う雰囲気だった。建物は、被爆当時、救護所として使われていた小学校の建物を残していたもので、家族の安否を知りたい人々の書き込みで当時、壁が埋められていて、その一部が今も現存して残っていて、それを見ることが出来る。改築して使っていた小学校を解体するとき、その書き込みを発掘するドキュメンタリーが残っていて、ビデオをその場で見ることが出来た。原爆で肉親を亡くした人たちは、遺骨が残っていないことが多く、行方不明、とされている人も多い。発掘された肉親の名前を手でなぞり、「確かに姉は生きていたんですね…」とつぶやく姿に、原爆という、一瞬で大量の命を吹き消す殺戮兵器の罪の深さを見たような気がした。私が経験できたヒロシマはここまで、で、後は、地元の人に人気があるという店で広島焼を食べた後(この時は『鉄板』と言わなければいけないことを知らなかった…悔しい)、広島市民球場で横浜戦を見て(あまりの小ささに、入場ゲートをくぐってすぐに、グランドに出てしまうかと思った程だった。)、私なりに今の広島を満喫できた。
2005.07.29
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戦後60年。今年の全国保育団体合同保育研究集会が、その象徴の地、広島で開催され、私も父母の身ながら参加させてもらってきた。7月30日、31日、8月1日の2泊3日。全国の保育士たちが集まって、お互いの技術向上のために、討論し、学習しあう。その営みも今年で37回を数え、全都道府県から8000人に近い保育士の参加があった。娘の保育園では、父母会から1名、参加費から宿泊費、交通費まで支給される。今年は、そこで発表(提案)することになっている娘の保育園の保育士2名と私、合わせて3名で参加してきた。娘を関西の義理の両親に預けてから参加する私は別行動で、早めの7月28日に関西入りして義理の両親の所で娘と一緒に1泊。もう1泊する予定だったが、娘がすぐに環境に馴染んでくれたので、前日の7月29日(金)に広島入りし、原爆資料館など、ヒロシマの街を廻ることにした。広島は高校の修学旅行以来、2度目である。第37回全国保育団体合同研究集会で学んだことと、ヒロシマの街から感じとったこと。自分なりにまとめていけたら、と思う。
2005.07.28
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今朝、5本目の排卵日チェッカーが陽性の赤いラインを点けた。いよいよ今宵、である。男の子を欲している彼のために、リンカルやゼリーを処方してもらいに産婦人科の門を叩こうか、とも考えた。が、止めた。私は娘に期待しすぎた。彼と私の子供なら、きっと優秀に違いない、とうぬぼれていた。その割に、顔や性格は彼一辺倒に似ている子供ばかりを夢想していた。そもそも、子供、という存在自体に期待しすぎていた。なんでも言うことを聞き、癒すだけ癒してくれ、飽きた頃に成長して、また違う顔を見せてくれる、万能ペット。そんな風に思っていたように、今となっては思える。そもそも、自然に授かったわけではなく、意図的に作ろうと思うこと自体が傲慢なのかもしれないのだ。授かった命を忠実に育てよう。そこまでの決意が出来たわけではない。今でも、もたらされる、ままにならない運命におののき、うち震えている。きっと、この日を一生忘れないだろう。どんな運命になっていったとしても。先日、さくら(仮名)教室の集まりがあった。平均年齢が高い障害児のママ友たちに、次の子供の予定はなく、ポロッと明かした私の志を、意外なほど皆が喜んでくれた。「赤ちゃんも、この会に連れてきてね。皆で抱っこしてるからね。」「服は心配しないでね。これだけのメンバーがいるから。」「うちなんて未だにハイハイしかしないから、痛んでない服、いっぱいあるわよ~」まだ授かってもいない赤ん坊の話で、これだけ盛り上がるとは思わなかった。「大丈夫。きっと元気な赤ちゃんだから。」この言葉も、ここにいるメンバーに言われると、無責任な冷たい言葉に聞こえない。温かな気持ちになってくる。「女の子がいいわよ。男は障害児率、高いから。」アスペルガーとダウン症の兄弟を育てる母親が言うと、「そうそう、男は染色体が弱いのよ。うちの子も、女だったら、こうはならなかったかも、って言われたし。」と、脳性マヒで肢体不自由の男の子の母親が請合う。空想話で花が咲いている中、3人の男の子の母親が、「こんなことまで話してたら、○○(仮名)ちゃんママのプレッシャーになっちゃうんじゃない。」と、たしなめてくれた。その言葉を聞くやいなや、私はこう言っていた。「大丈夫だよ。人生が思い通りにならないことを、この子に教えてもらったから。」自分でも意外なほど、自然と出てきた言葉だった。場の皆も、うなずいたような気がした。今宵。とにもかくにも、私は一歩を踏み出す。
2005.07.18
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障害児を保育園に入れる ~入園するためのポイント 【面接へ行く】~入所申込書提出期限締め切り直後、1月下旬。第一希望の保育園から「子供連れで来るように」と呼び出された。到着後、事務室に呼ばれ、園長はじめ2、3人の保育士と、娘の最近について、例えば食事状況や排泄状況、好きな遊び等を聞かれ、その後、娘がもし入園できたら入る予定の2歳児クラスに連れていかれ、しばらく一緒に(私も)過ごした。指定された時間が11時だったので、もしかしたら食事をさせられるのではないか、と、緊張し、そのための支度もしていったのだが、それはなかった。30分程度で終わり、帰宅の途についた。これを周囲に聞いてみると、「集団保育が可能かどうかの面接じゃないか」と地域の保健師は言っていたし、「ほぼ決まっているけど、確認のために呼んでいるんじゃないか」と言っていた療育所の保健師もいたし、「希望の欄に書いた保育園の中で、受け入れてもいい、と判断した保育園が続々と呼んでいるのではないか」という療育スタッフもいたし、真相は結局分からなかった。「3月上旬に通知が行きますよ」ということだけで、特別な内示はなかったが、他の区の他の保育園で呼ばれた人は、「入園を前提に」と言われたそうだ。娘は、「うちの保育園に何度も遊びに来てくれて馴染んでくれてる、こういう子供さんをこそ入れてあげたい」「○○(娘の名前)ちゃんのことは、前向きに考えているから」と、言われた。面接に呼ばれなくても、入園通知がきた障害児も実在する。が、面接に呼ばれたのに入園出来なかった障害児、というのは聞いたことはない。この事実をどう判断するか、だ。
2005.07.05
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障害児を保育園に入れる ~入園するためのポイント 【入所申込書を作成する】~提出時は、書類の不備を点検するだけで、内容についての話など一言もしなかった。役所の児童係によると、『口頭で説明する必要がないぐらい窮状を説明するために書き込むと良い。また、別紙を添えても構わない。』そう。前述の人によると、私の自治体では、ポイント制で機械的に判定しているわけではなく、(例えば、母子家庭10ポイント、フルタイム勤務20ポイント、等)『どれだけ困っているか』を入所申込書から判断し、皆で話し合って優先順位をつけて審査していくそうである。もちろん経済的に困窮している人が有利なのだが、そうでなくても、『どれだけ助けてくれる人がいない状態で、一人で育児を背負っているか』なども、重要なファクターになるそうだ。そういう意味でも、やはり重要なのは『保育に欠ける要件』だと思われ、人によっては、就労証明を知人に書いてもらったり、パート先に就労時間を上乗せして書いてもらったり、保育園入園にとっての山は、そこにある、といっても過言ではないだろう。【私の場合】・就労証明を書いてもらおうにも、転勤中の身でそんな知人もおらず、 また、でっち上げた就労証明はバレるらしい、という噂が、私の自治体内で流れ、 悩んだ。 児童係に相談し、そのアドバイスを受け入れ、 1年程通っている、精神科の診断書をもらって、 『保護者の療養』という要件を全面的に持ってきて なぜ病になったのか、現在の状況は、をアピールすることにした。 その他にも、治療の一環としての『求職』、 受け入れてもらえるかどうか分からないけど娘の『発達支援(障害児枠)』 この3本立てで入所申込書を作成した。・娘生誕から今までの時系列を横棒グラフに作成し、 入院中期間に赤く色をつけ、 補聴器をはじめ、家で管理しなければならないアイテムがある時期にも、 それぞれ色をつけ、 家で管理しなければならない、経管栄養や術後の傷のケアなど、 がある時期にもそれぞれ色をつけ、 通院、通園が増える度にグラフに書き込み、 その頻度を書き込んだ別紙を1枚。 どうして、自分が心のバランスを崩したか、 自分で思い当たること、を、列挙した別紙を1枚。 計、2枚の別紙を添付し、 入所申込書には、別紙を参照してほしいときは「別紙1参照」などと書き込んで、 連係させた。・双方の祖父母の指名や年齢、住所を書く欄で、 母親側の祖父、祖母の住所を書いた横に、住所が違うことが分かり易いように、 「別居中」と書き足した。 また、祖母の欄に、「介護認定3の曾祖母を介護中」(本当の話)と欄外に書き込んだ。 これによって、いかに、自分には助けてくれる身内が近くにいないか、を、暗に説明した。・仕事時間、などの欄にも、「仕事内容によって、前日の夜中12時に決定する」 と、数字の代わりに書き込み、不定期な仕事をアピールした。
2005.07.04
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障害児を保育園に入れる ~入園するためのポイント 【情報収集する】~どうやったら入園できるのか、本音と建前が渦巻いていて不透明な保育園措置の顛末を、少しでも明るく見渡せることができるようになるためには、情報収集が思いのほか大切で役にたった。私の場合、こんなことがあった。療育所で役所の人を招いての進路説明会で(時系列、11月中旬)役人から説明された詳細が間違えていた、ことが、後日の情報収集で判明した。障害児のために補助金が出るのは3歳児(年少)と説明され、更に畳み込まれるように、「だから2歳児で障害児が保育園に入ることは難しい」とまで言われたのに、実は、「3歳の誕生日から補助金が出る」のが本当だったのだ。つまり、6月生まれの娘は補助金が早く出るから、2歳児だから不利、とまでは言えず、逆に、『保育に欠ける要件』に『発達支援』も適用される可能性もある。その場合、かえって他の2歳児よりも(保育園さえ集団保育可能と判断して受け入れてくれれば)有利となる場合もある、と、役所の児童係の人に言われたのだ。(時系列、12月中旬)この情報を、療育所のスタッフが保育園に障害児を流さないために意図的に隠そうとしたのか、今年からの改革で彼らが不勉強だったのか、問い詰めなかったので分からない。が、もし、この情報を11月の時点で知っていたら、保育園に、とりあえずでも申し込みたかった人は、少なくなかろう。情報の性質として、どうしても玉石混淆になってしまい、何が必要で、何がいらなくて、何が間違えているか、という整理に大変だが、やはり、情報収集の大切さを、声を大にして言いたいと思う。以下は、私が経験した情報収集の方法である。1、療育所のスタッフに聞いてみる。 →障害児と接している経験から、やはり情報を色々知っている。 公的な療育所なら、役人と同じく公務員なので、 同じ公務員同士、裏の事情や、保育園措置の要人などとコネクトがある場合もある。 私の場合、 偶然出会った以前の療育スタッフに紹介してもらった保育園措置に詳しい知人の方に、 『措置外』ということを教えてもらった。(時系列、1月中旬) 保育園は普通、役所に『措置』されることで入園になるのだが、 私立の保育園であったら、 『措置外(自由契約、と言っている保育園もある)』で入園させることも多くある。 ただ、『措置外』は、収入に応じて月謝が決まる『措置』と違って、 自治体負担分も支払わなければならず、 『措置』で入園した場合の、最も収入が多い人の負担額と同じ額を、 支払わなければならない、ことが多い。 どうしても入園したい保育園の場合、その『措置外』で、負担が多くなってもいいから、 それでもここの保育園に入りたいんです、 という熱意と執念が必要である、と言われた。(障害児、健常児に関わりなく) 彼女自身の子供も、それで意図した保育園に、結局は『措置』で入ったそうだ。 娘の場合は、『措置外』で入ったら、保育園側に障害児としての補助金が入らないので、 それはどうかな、と思って、 「今年駄目なら、来年まで、ここで母子通園させてください」 と、付け加えた。 半分以上、本気だった(笑)2、保育園見学時に、園長先生に聞いてみる。 →「この周辺に、障害児を積極的に受け入れて下さっている、 ここのような保育園さんを、ご存知ですか」 などと聞いてみると、意外と丁寧に教えてくれる。 また、聞いた保育園が障害児に積極的ではない場合、 そちらを強く強く勧めてくる場合も(笑) また、保育園の母体や、そこの園長先生の経歴など、 資料には載っていないようなことも色々と教えてくれるので、 判断材料の一つに良いかもしれない。3、地域の保健師に聞いてみる。 →障害児に特別詳しく、情報を持っている人も少ないのだが、 地域の子供のため、ということで、 知っていそうな人に聞いてくれたり、 同じ公務員、ということもあって、裏から、児童係に結構、情報を聞いてくれた。 私の場合、 ぶっちゃけ、どの保育園に、どれだけの障害児枠を持っていて、 今年、募集しているのか、という数字を教えてもらった。4、やはり、『措置』の大元、役所の児童係に直接、聞いてみる。 →私の場合、「聞く」「相談」というよりは、 乗り込んでいった、という方が適切かもしれない。 行っていきなり聞いたことが、 「ここの自治体は、どんな要件を優先的に入園させるのか、 ポイント制なら、その点数表を見せてくれ」 だった(苦笑) 疲れてたんだな、と思う。 が、たまたまなのか、とても良い人で、 どうやったら心証良く、有利に審査を通せるか、 私の事情を聞いて、一緒に考えてくれた。 (例えば、「祖父母が近くに住んでいなかったら、そこもアピールすべし」など) 他にも、 ・どの保育園に、どれだけ来年度の空員があるか。 ・今年の募集をするか、しないか(しなければ書いても希望の欄が無駄になる)。 ・入所申込書には別紙をつけてもいいから、 それを見るだけで、口頭での説明無しでも分かるように仕上げておくべし。 など、教えてもらい、 何より、安心感を得た。
2005.07.03
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障害児を保育園に入れる ~入園するためのポイント 【保育園を見学する】~【大体の流れ】 1、保育園に電話して、入園希望者だが見学したい、旨を伝えて、アポをとる。 →・「障害児なんですけど」と、この段階で名乗っておいた方が、 行ってからスムーズなことが多かった。 (逆に、行ってから伝えて嫌な想いをした知人も少なくなかった) ・この電話段階で「障害児」と名乗った途端、 「自分で食事が食べられますか」「お着替えできますか」 などと聞いてきた保育園に、良い保育園は少なかった感がある。 2、約束した日、時間に行く →アポ日時は、全ての保育園が、園長のいる時間に指定され、 園長に案内された。 園長は平日ならいつでもいる訳ではなく、 また午前中に指定されることが多かったので、 いくつかの保育園との日程合わせが案外大変だった。 (ハシゴした日も…笑) 3、事務所で園長から説明を受ける。 4、保育園をざっと、隈なく案内してもらう。 →サラリと過ぎてしまうので、 見学のポイントや質問を決めておくと良いかもしれない。 私の場合のポイントは、 『職員自身がイキイキと楽しそうに子供と接しているか (子供は案外、どんな環境でも楽しそうなので)』 『(賃金が安く、言うことを聞いて使い易い) 若い職員ばかりを雇用していないか』 質問は、「食事のメニューを特別メニューにしてくれるか否か」 5、子供を遊ばせてから、帰る。 →何故か、どこの保育園でも、遊ばせていったら、と言われ、 なんとなくそうした方がいい気がして遊ばせて帰っていた。 この段階で、世間話をしながら情報を得られるので、 お薦めかもしれない。 また、どこの保育園でも(実際はそうでなくても)定員を聞くと、 「いっぱい、で」 「在園の方が異動になったら空くけど、分からなくて」 「(保育園側ではなく)自治体の方に入所の決定権があるので、 入れてあげたいんだけど」 と、言われた。 この話の段階で、諦めた、という知人が、障害児の有無を問わず何人もいたが、 諦めない方がいいかもしれない。【娘プロデュース】 この『見学』の段階が、入園決定(決定自体は役所の措置であるが、障害児の場合、 どんなに措置をしても、受け入れ側の保育園で集団保育不可能と判断されたら却下され、 別の保育園での再審査に入るので、 そういう意味では、保育園が最終決定権を持っていると言えるのではないか) にどう影響しているのか分からない。 が、電話の段階で「お子さんと一緒に」と指定してきた保育園も何軒かあったし、 良い印象が残ることは悪いことではないと思ったので、 娘の一番良いところを見てもらえるようにプロデュースを心がけた。 私の場合、 ・娘が1足だけ、自分で脱げる靴があったので、必ず、それを履かせていき、 出迎えに来た保育園の人の前で、自分で脱ぐような場面を演出できるようにした。 ・事務所で説明を受けている間、大人しく待てるように、お絵かき道具を持参した。 わざとらしくないように、黒のボールペンとメモ帳にしたのだが、 これには、もう一つの意味があった。 『言葉は遅くても、意思の伝達をしたり、単語を話したりは出来ますよ』 というアピールのため、 当時、絵を描いてもらうのが好きだった娘の習性を利用したものだった。 「でんしゃ(描いて)」「うん、いいよ~」 「(描いたものを指さして)でんしゃ!」「でんしゃだね~」 「くま(描いて)」「可愛いくまさん、描こうね」 などと、やり取りをしていると、 ほとんどの園長が、 「こちらの言っていることは分かっているのね」 「単語は出るのね」 と、声をかけてきた。 実際のところ当時、そんなに意思の伝達が出来ていなかったし、 コミュニケーションっぽいものも少なかったし、 単語も私が聞いてかろうじて分かるようなものがほとんど、だったのだが、 それでも、最大限、良い部分を見せてあげたい、と思っての自己満足的行動だった。どう、判断されていたかは分からない。
2005.07.02
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障害児を保育園に入れる ~入園するためのポイント 【保育園を調べる】~幼稚園のように、入園説明会などで大っぴらに宣伝してくれているわけではないので、なかなか分かりづらい。結局のところ、口コミに勝るものはないように思うが、障害児の場合、それが自分の子供の障碍内容では、必ずしもベターな選択とは限らないことも多い。自分なりのガイドラインを作って淘汰していくと良いかもしれない。また、役所が出している保育園のデータ付き一覧表やインターネットの情報などからだけでも、ある程度の推測は可能。例えば、・小規模か大規模か。・看護師や栄養士を常駐させているか。・園庭開放や未就園児の集まりを行っているか否か。・記述内容に「障害児から学べる」「障害児との交わりを大切に」など、 単なる「障害児保育も可能です」以上のコメントがあるかどうか。【すったもんだの末、ようやく出来上がった私のガイドライン】・少人数(60人程度の規模) →保育園内で補聴器がなくなっても探しやすいように。・食事を保育園内で作っている →まだ離乳食後期程度の加工を必要とするので、手を加えていただきやすいように。・0歳児から保育している →離乳食も作っている調理場があるので。・外遊び重視 →従来、保育園は養護的機能、幼稚園は教育的機能という見方があったが、 最近では、双方が双方の良さを取り入れている園が多くあり、 保育園でも、鼓笛隊や英会話などにも力を入れている園が多くある。 が、それでは、娘と他の子供の差を、 娘自身が身に染みて感じてしまう場面が増えるだけではないか、と思い、 なるべく、皆と一緒に楽しく遊べることを重視して、 そういった教育よりも、野生児のように遊ばせてくれる場所を重視した。※尚、園庭開放などがある保育園に足しげく通っていると、普段の姿を見ることが出来るし、子供の顔も覚えてもらえるし、もちろん刺激にもなるし、負担がない程度に通ってみるのも良いかもしれない。
2005.07.01
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