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アンタルヤに暮らし始めて3年半。カレイチに頻繁に通うようになってからも1~2年になると思う。が、カラタイ・メドレッセを見たのは、実は今日が初めて。それもわざわざ見に出掛けたのではない。今日の散策中に偶然ある小路を通りかかったら、「そこにあった」のだ。アンタルヤ・カレイチのシンボル的景観として、ガイドブックの口絵写真や絵葉書に必ず採用されるイヴリ・ミナーレ(トップページの写真参照)から程遠くない場所に、カラタイ・メドレッセという歴史建造物の一部が残っていることは何かの本で読んでいた。しかし、普通のガイドブックにはまず紹介されていないので、正確な位置はまるで把握していなかったのだ。1250年セルジューク朝時代に、宰相たちのひとりカラタイによって建造されたとされるが、現在見ることができるのは、左右対称に星状装飾の施された装飾門のみ。それでも、セルジューク時代特有のレリーフ装飾がしっかりと残っていたのは、レリーフ好きの私としては嬉しかった。そしてもうひとつの嬉しい発見は、カラタイ・メドレッセの真向かいに、新しく移転してきたばかりの「アンタルヤ・カレイチ基金」の事務所があったこと。カレイチの歴史的・文化的遺産等の保護・発展に取り組んでいる市民団体のひとつとして名前は聞いたことがあったし、前々からこのような団体に関心があった私は、いずれ会合等に参加しつつ、カレイチの歴史的景観の保護活動に少しでも役割を果たしたいと、飛び込みで話を聞いてみた。カレイチに私たちが現在建築中の建物の話。周囲の環境に対して抱いている不満や感想。TEDAS(トルコ電気配給株式会社)とベレディエ・サイドで進められている電灯設置や今後の舗道敷設計画などに関しざっくばらんに質問すれば、おそらく広報担当と思われる青年もまた好意的に語ってくれた。そして、私の携帯ナンバーを登録し、次に会合のあるときはメッセージで知らせてくれることになった。まずはオブザーバーとして、会の運営方法や会員の様子などを観察させてもらい、基金の活動に賛意できそうであれば、会員になるのも良いだろうと思う。なおアンタルヤ・カレイチ基金では、カレイチの歴史散策ツアーも運営しており、毎週日曜日、15名以上集まれば催行となる。こんなウォーキング・ツアーが実は大好きな私は、ぜひ一度こちらの方も参加してみたいと思った。15名以上というのが、なかなか難しいが・・・・。
2005/05/31
昨夜は、まるで流星群でも落ちてきたか、と思わされるようなものすごい大音声の雷鳴がいくつもいくつも轟き、続いて久方振りのまとまった雨となったアンタルヤ。一夜明けた今日も、引き続き小雨が降ったり止んだりのはっきりしない空模様である。私がカレイチの工事現場に着くと、ネジャットがすぐ報告した。水が漏れてるよ、と。太陽熱温水器のパネルとタンク、エアコンの室外機を極力隠すため、屋根の一部を削ってテラス状に開け、そこに設置するところまでこぎつけたのは良かった。(実は、この太陽熱温水器の件では一騒動あった。いずれ手が空いたらアップするかも)雨水が隅に設けた排水孔に上手く流れるよう、傾斜をつけながらコンクリートを敷きつめ防水シートを貼りこんだのだが、パネルを設置するための鉄製の台の根元から雨水が下に漏れたのではないかという。雨漏り対策を完全にするため、いずれテラス部分に水を溜めて試験をする予定だったということだが、早くも不具合が発覚し、ネジャットはそれ用の防水材料を探しにさっそく工業団地に向かった。今日は打ち合わせもなく、ポッと時間の空いた私は、石壁や石壁と塗り壁との境目の処理、庇の下の処理等のサンプル採取のため、散策に出掛けることにした。その途中で出会った花がこちら。―2005年5月31日撮影―石壁に張り付くようにして上へ上へと伸びていて、葉の形はマメ科に似ている。合歓の木を髣髴とさせるが、こんな紫色の合歓の木ってあるんだろうか?藤、ライラック、鉄線・・・・初夏の湿り気を帯びた空気の中で見る紫色の花には、きりっとした清涼感とどこか気品がある。この日記をご覧の方で、花の名前をご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひご教示くださいませ。
2005/05/31
しばらくご無沙汰してしまいました。留守中も続けて訪問してくださった皆様には、お礼とお詫びを申し上げます。まずは、元気で毎日工事現場に通っているということ、ご報告させていただきます。ここ3週間分の日記が溜まりに溜まっているのですが、今更、何からどう書いていいのか分りません。工事関係については、最も複雑で日々異なる問題が発生しているので、順を追って書こうにも簡単に思い出せそうにありません。一応メモは取ってはいるのですが・・・・。10日の夜には夫がアンタルヤ入り、突然の来客や、16日からは従兄弟ネジャットの奥さんメリエムと息子ナーズムがアンカラから到着、入れ替わりに夫が出発、20日にはメリエムとナーズムが帰途につき・・・。というように、工事関係での外出に加えて、人の出入りも激しく、家に居ても食事作りや片付け・掃除で、PCの前に座る時間さえ取れませんでした。今夜こそはとPCに向かえば、ADSLが不通。それから丸々1週間というもの毎日隙を見ては試してみるのですが、ダメ。日記をしたためる時間もないし、まあいいか、そのうち戻るさと諦めていたのですが、さすがに1週間となると長すぎる。さてはADSLではなく、PCに問題あり?と思い至り、とうとう昨日、いつもお願いしている“パソコンのドクトル(ドクター)”に電話して今日の夕方、自宅に来てもらうことになりました。約束の時間まで30分というとき、念のためもう一度試してみようとPCに触ったら、あ~ら不思議、嘘のように元に戻っているじゃあありませんか。慌てて“パソコンのドクトル(ドクター)”には、もう来てもらう必要がなくなったことを知らせました。このように、しばしばADSLに翻弄されてしまいます。とりあえず今日のところは復活のお知らせまで。本当に何から書いていいのか・・・という具合なので、日記の更新の方はまたもや気長にお待ちいただけると助かります。書き残しておきたいこと、お知らせしたいことは山ほどあるのですが、追々に・・・・。
2005/05/26
【ハサンケイフ/Hasankeyf】トルコ南東部の都市バットマン(Batman)の南東約50kmに位置する、ティグリス河畔の町。地域一帯にはビザンチン時代に帰する6000の洞窟住居跡、300近い教会・モスク・メドレッセ(神学校)が点在し、そして中世期の最も見事な建築物の名残として、あの有名な「橋」の橋脚があり、渓谷を見渡す素晴らしい眺望を誇るカレ(城砦)がある。●歴史概略ローマ人の建設した要塞都市として、当時はCephaと呼ばれていた。(※シリア語で「岩」を意味するKifoに由来するとも)ビザンチン時代には主教区が置かれ、悩ましきペルシャとの国境に立つ前哨地点でもあった。AD640年、アラブ人がやってくると、名前はギリシャ語のKephasからアラビア語のHisn Kayfaへと変わり、時の流れとともにHasankeyfへと変化した。1101年から1世紀以上に亘りアルトゥーク朝(Artuklular/Artukids)の首都として栄え、随所に重要な建造物を残した。その代表がティグリス河にかかる橋だが、ビザンチン時代にすでに存在していた古い橋を、AD1116年にアルトゥーク朝の首長ファフレッディン・カラ・アスラン(Fafreddin Kara Aslan)が大掛かりに修復したものである。1232年には、アルトゥーク朝はアイユーブ朝によって引き継がれた。1268年にモンゴルに攻略され衰退が始まると、そのまま復興することなく、1515年、オスマン朝に取り込まれた。・・・・・・今年、ハサンケイフの発掘調査は、6月1日の発掘開始を目前に例年より早く事前調査がすでにスタートした。アブドゥスセラム・ウルチャム(Abdusselam Ulucam)教授を団長とし、6大学出身の20人の専門家と80人の学生、120人の作業員から構成される発掘団は、1兆4170億リラ(約1億1200万円)の予算をもとに、今年は極めて広範囲の発掘調査を予定していると発表した。なぜなら・・・ハサンケイフの余命が、とうとう宣告されたのだ。ティグリス河に建設予定のウルス・ダムの着工が、いよいよ今年の10月に決定されたのである。ウルス・ダムが完成した暁には、1万2千年も続く定住の歴史を持つといわれるハサンケイフの町は、ダムの下に完全に水没することになる。ウルス・ダム建設計画は、50年も前から存在していたらしい。このダムから得られると予想されている電力量は、38億キロワットと膨大なもので、トルコ全国の水力発電能力の10%を保証するものと見込まれている。が、このウルス・ダムも、寿命はせいぜい50年ほどだそうだ。1978年には、文化省により、この地域一帯は第1級SIT(特別保護地区)に認定されている。近年は、時代遅れともいえるこのダム建設計画を白紙に戻そうという世論が、主流を占めていた。世界遺産への登録申請をしようという動きもそのひとつである。現エルドアン首相も、「ハサンケイフを水の下に沈めることはしない」「ハサンケイフは救われる」と、3度も公言したと聞く。それなのに・・・・ウルス・ダムの完成によって水の下の沈むのはハサンケイフだけではない。バットマン、マルディン、シイルト、シュルナック、ディヤルバクル地域で合計187にものぼる集落が姿を消し、7万から8万人にのぼる住人が移住を余儀なくされるという。DSI(国家水道局)は、工事がもっとも迅速に進んだとして、ダムの完成は2012年になるとみている。文化観光省では、現在も継続されている発掘調査のスピードを早め、同時に別のどこかへ移転させることを計画中だと発表した。しかし、ティグリス河に開けた渓谷、無数の洞窟住居群・・・・この景勝の地をそっくり移転することなど無論不可能である。そして、残り7年で発掘を完了させることも・・・。・・・・・・ハサンケイフ。いずれ水の下に沈む町と言われて久しいが、とうとう秒読み段階に入ったのだ。今のうち。そう、今のうちに、一度ハサンケイフを訪問してみたい。シャンルウルファから東へ足を伸ばしたことのない私は、ハサンケイフを組み込んだ東南部への旅を、今ひそかに目論んでいるところである。
2005/05/22
夫の従兄弟ネジャットが我が家に逗留するようになってから、早3週間以上が経つ。アンカラに本社のある建築会社の受注次第で、これまでにもトルコ各地やドイツの工事現場で監督をしてきたネジャットにとっては、数ヶ月間、家族と離れ離れで暮らすのも慣れてはいるだろうが、そこは親戚宅。互いに紹介するという意味もあって、月曜日から奥さんのメリエムと一人息子のナーズムをアンタルヤに呼び寄せたのだった。ナーズムの通う学校は、今日19日から始まる4連休を前に18日も休日にしたらしく、2日分だけ欠席願いを出せばよかったそうだ。生後6ヶ月にして、早プールで泳いでいたというナーズムは、もう毎日「海!海!」と騒いでいる。 父親のネジャットがカレイチの現場からそうそうは離れられない関係で、着いた月曜日には我慢させたのだが、さすがに父親。息子との約束を果たし、昨日、一昨日と午後からの2時間ほどをどうにか捻出して、海に連れて行った。が、それを聞いたうちの娘たちが黙っているわけがない。「私も海に行きた~い!」とかわるがわる私に揺さぶりをかける。そこでメリエムと相談して、祭日の今日は皆で揃って朝早くから海辺へ繰り出し、浜辺で朝食を摂ろうという風に話が決まったのだった。まだまだ5月の中旬で、さすがに朝食には早いかな、とは思ったが、わざわざアンカラからやって来たメリエムとナーズムのためにも、これは良いアイデアと思えた。ネジャットは朝食を済ませてからまっすぐカレイチに向かえばいい。食べ終わったタッパーなどは車に積んでおいて、私たちは昼前頃まで海でのんびりしてから、歩いて帰ろうと。ここアンタルヤでは、夏本番ともなると「浜辺で朝ごはん」の風景が一般的に見られる。夫が留守続きの我が家などは、あらかじめ自宅でおにぎりやサンドイッチ、コーヒーなどを拵えておき、なるべく荷物を最小限に抑え、浜辺では食べるだけにするよう心掛けているが、周囲の家族の朝ごはん風景を見ていると、もうピクニックそのものである。敷物やビーチパラソルはもちろん、ガスボンベ、チャイダンルック(チャイ専用の2段式ポット)、チャイグラスやスプーン、スイカ丸ごと、フォーク&ナイフ、トマトやキュウリ丸ごと、パン丸ごと、タッパーに入ったチーズやオリーブ、塩や砂糖・・・普段使っているものを新聞紙にくるんだりして、そのまま持参している家族が結構多い。で、まずコンロに火をつけチャイダンルックをかけてから、ゆっくりと海に入ったり新聞を読んだり、寝そべったりする。やがてチャイが出来上がる頃に、トマトやキュウリを切ったり、ゆで卵の殻を剥いたりして、おもむろに朝食の準備を整えるのだ。が、私たちは当然自宅で全部用意していくことにした。前夜から、手伝うよ、と言っていたメリエムだが、朝が弱いらしく寝坊気味なことは分っていたので、6時半に目が覚めると、私一人でさっさと準備を始めた。準備の時間を短縮するため、今日はチャイではなくドリップコーヒーを用意。これを大型のポット一杯に満たし、別のポットには水も用意する。トマト、キュウリのスライス。ゆで卵。チーズは切らしていたのでオリーブだけ。あと先日作ったばかりのイチゴジャム。これらを別々のタッパーに詰める。フォークやペーパーナプキン、ウェットティッシュなどを揃えると、一見抜かりはないように見えた。実はコーヒー用の砂糖や、ゆで卵用の塩を忘れてしまったのだが。朝7時半頃、出発。全員揃ってネジャットの運転する夫の車に乗り込む。私は途中のバッカルで、スィミットやポアチャ、子供たちのためにフルーツジュースの小さいパック、ポテトチップス、新聞を買い込む。今日は絶好の海日和。ここ数日の中でも最も気温が上がりそうな気配すらある。8時過ぎには浜辺に着いた私たちだが、すでにちらほらと家族連れの姿があり、中には朝食を摂っている家族もあって、ちょっと安心した。一昨日はネジャットやナーズムと一緒に海に入ったメリエムだが、午後からなので風が結構あったらしい。今朝の静かで澄み切った海を見て、「チョック・ギュゼル!(とってもきれい)」と感嘆していた。朝食後すぐに場所を離れるつもりで、水着を用意してこなかったネジャットも、ちょっと後悔した様子。子供たちは、すぐにでも海に入りたそうにしていたが、まずは朝食をしっかり摂らせてから。ビーチパラソルと寝椅子2台を借り、すぐに環境を整えた。ちゃんと食べたのやら。子供たちは、すばやく朝食を終えると、ナーズムは自宅から用意してきた水中メガネと足ひれで、娘たちは前夜から膨らませておいた浮き輪をつけて、さっさと海に繰り出していった。今年初めて海に入る娘たちからは、最初「冷た~い!」と声が上がる。が、やがて水温にも慣れ、3人で近寄ったり離れたりしながら嬉々として遊んだり泳いだりし始めた。ネジャットは車に戻り、カレイチの現場へ向かった。が、やがてメリエムの携帯に電話が入る。車が入れないので、自宅に戻って駐車場に停め、ミニバスで向かうと。ああ、そうだった。今日5月19日は「青年とスポーツの祭典」で国民の祭日。ジュムフリイェット広場を中心とした目抜き通りでは、パレード開催のため車の進入が禁止されているのだった。休日で絶好の海日和とあって、私たちの後からも、続々と家族連れがやってくる。まだ夏本番の混雑はないが、泳ぐ人の姿も多い。―2005年5月19日撮影―寒がりだし、もともと海があまり好きではない私は、水が温む7月以降しか海には入らない。一応水着を着てはきたが、入る予定は最初からほとんどなかった。メリエムが子供たちと一緒に戯れているのを尻目に、寝椅子にころがって新聞にゆっくりと目を通す。肌を撫でるぬるい風が眠気を誘う。その後、海には2度ほど足をつけてはみたが、鳥肌が立つのを感じ、やっぱり入るのは諦めた。そうして私たちは3時間ほど浜辺で過ごすと、三々五々繰り出してくる家族連れとすれ違いながら、自宅へと歩いて戻ったのだった。
2005/05/19
(私の日記には珍しく、今日は18禁?です)3度目の出産の後、9匹もいた子ハムたちをペットショップに引き渡すと、母ハム・ペコは毎日泥のように眠るようになった。最初は、今までの睡眠不足を一気に解消しようとしているのだろうと思っていたが、ケージの手入れや餌の交換のために私が手を入れると、ようやく起き出して虚ろな目を私に向ける。これではまるで、子供が一人立ちした後、人生の目的と生き甲斐を失って、日々を無為に過ごすだけの老女のようではないか?餌もあまり食べず、水の減りも減った。やはり、子を産み繁殖するのがハムスターの使命なのかもしれないと、なんとなく思い始めていた頃だった。ネジャットの奥さんメリエムは、ハジェテペ大学の医学部を出た才媛だが、大学時代、実験用に飼育されていたハムスターの生態を思い出しつつ、私にアドバイスしてくれた。いわく、過去に出産していたメスのハムスターが子を産まなくなると、自らを罰するようになる。餌を食べる量を減らしたり、自らを傷つけるようになることもあると。だから、オスと一緒にするのが一番良い方法であると。私が、出産が続けば寿命が縮まるのではと心配したと白状すると、メリエムは反対に、出産しなくなると老化が早まると教えてくれた。私が、突然のペコの憔悴振りから嗅ぎ取っていたことを、はっきりとメリエムに指摘され、私はペコを再びモコのケージに戻すことを決めた。モコのケージには、1ヶ月前にケージから逃亡したためにペットショップに引渡しそびれた黒ハムが仲良く同居していた。この黒ハムがメスだったら困るなあ~と恐れていたが、行動様式を見ている限りではオスのようである。時々は、下腹の辺りに探りをいれてみるが、素人にはオス・メスの判別がつきにくいのだ。いまだに名前すらつけていない黒ハムをいったん外に出し、そこへペコを入れる。妊娠・出産・子育て期を通して、隙あらば噛み付くことをやめなかったペコが、噛み付きもしないでなすがままにまかされている。それだけ憔悴してしまったのだろう。空になったケージに黒ハムを入れれば、仕事は完了。すると、ドラマはすぐに起こった。ロフト部分にそっと下ろしてやったペコのもとに、すぐさまモコが駆け上がって、なんと口先でペコの口先を2回3回突付くようにしてキスしたのである。いや、動物の本能として、ただ臭いを嗅いだだけなのかもしれない。が、私の目にはまぎれもなくキスに見えた。餌箱に逃げ込んだペコを追って、モコも餌箱に飛び込む。仰向けになって足を開いたペコの下腹部の臭いをモコが嗅ぐ。目をつぶり、うっとりと身を任せているペコ。(←これほんと!)と思えば、今度は身体を起こして、イヤイヤイヤイヤというようにモコを突き放したりしている。このペコの「うっとり」と「イヤイヤ」の繰り返しとともに、2匹の格闘は果てしなく続いた。狭いロフトの上で、逃げるペコを追いかけてなんとかお尻に乗ろうとするモコは、可哀相なほど必死。モコが諦めず10回以上もトライしているところをみると、なかなかうまくいかないらしい。私は2匹を、楽に走り回れるよう下につまみ降ろしてやった。それから5~6回は格闘が繰り返されただろうか。最後のトライでどうやら成功したらしく、モコは静かにペコから離れた。長い時間のように感じられたが、おそらくものの5分かそこらだっただろう。この2匹の間に繰り広げられた激しい求愛のドラマを、私は思わず固唾を呑んで見守ってしまった。ハムスターが、まるで人間の男女のような行動を見せたことに、私は驚きを禁じえなかった。そして、モコとペコがちゃんと互いのことを覚えていたし、モコがとりわけペコを待ち焦がれていたことにも。少なくとも2匹の行動から、私はそんな印象を受けた。たぶん今日から2週間ちょっとで、ペコはまた4度目の出産を迎えることになるだろう。モコは、さっさと巣をペコに譲り、野菜用の器を自分の寝床に変えてしまった。ペコは何事もなかったかのように、モコと一緒に回し車を回して遊んだりしているが、餌を追加すると、待ちかねたようにすっ飛んできて、餌箱からなかなか出ようとしない。餌を頬袋にたっぷりと溜めるようになったところを見ると、妊娠は確実である。以前同様、私を威嚇しに飛んでくるペコに目の輝きが戻ったのを確かめ、「これで良かった」と私は心から安心できるようになった。唯一の心配といえば、今まで複数でしか飼われたことのない黒ハムが、1匹になってから以前のモコのように元気を失い、餌もろくろく食べなくなってしまったこと。基本的に単独飼いが望ましいと言われるハムスターだが、モコと喧嘩すらせず仲良くやってきた黒ハムには、寂しすぎる環境なのかもしれない。いっそのこと、お嫁さんを連れてこようか・・・?そうなると、我が家は再びハムスター屋敷への道、まっしぐらだが・・・・。ハムスターの飼育ひとつにも、かくも心配と苦労が絶えないのであった。
2005/05/18
一昨日の日暮れ、庭で遊んでいた娘たちに夕食が準備できたことを知らせて呼び戻すと、帰ってきた上の娘が開口一番こう言った。「アイギュル・テイゼ(小母さん)が、頭にシラミがいるから、薬局でシャンプーと櫛を買って使えって」またそんなこと言ってる!私は途端に気分が悪くなってきた。以前にも、オズレムの母親で6階に住む隣人のアイギュル夫人には、「エミの頭にはシラミがいる。あの髪についた白いのが卵。私はよく知ってるから、医者に行く必要はない。薬局でシラミ専用のシャンプーを買って使え」と言われたことがあった。子供時代の私に似て髪の量が驚くほど多く、またこれだけは私に似ず一本一本が絹糸のように細くて絡まりやすいエミの髪の毛は、シャンプーやドライヤーを使う時には一苦労する。特に、一人で頭を洗うことの出来るようになった最近は、途中でチェックしてやらないと、シャンプーやリンスが残って翌日にはひどいフケが出ることも多い。目に入るのを恐れてきちんと流さなかったりする額近くの生え際など、特にそうだった。だから、そうアイギュル夫人に言われた時も、私はどうせフケだからと相手にもしなかった。地元の大学の生物学のラボで働いているアイギュル夫人は、以前に頭皮や髪の健康に関する特別講義を受けたことがあるそうで、「私はよく知っているから、これは間違いなくシラミ」と言い切った。そんな彼女の自信満々の物言いが、かえって信用できなかったとも言えるが、なによりシラミと言われても、シラミらしき生物の影も形もないし、同じベッドにくっついて寝たり、同じブラシを使っている私やナナにそれらしい症状が何も出ていないということは移っていないんだから、アホらしいと思ったのが正直なところだ。しかし、それにしてもしつこい。また同じことを言い出したとは。私はエミを傍らに呼んで、頭髪をよくあらためてみた。前の夜にシャンプーしたばかりだったが、ドライヤーの途中で疲れたといって、私に完全に乾かさせなかったから、細かいフケがたくさん出ているのが見えた。ほんのわずかだが、髪の毛に張り付いた1mmほどの白い帯も見える。アイギュル夫人にとっては、これが「間違いなくシラミの卵」だそうだが、私にはどうしても信じられなかった。丸くない、髪に薄く巻きついた帯のようなものが、本当に卵だというのだろうか?ほどなくして、アイギュル夫人からはご丁寧にも電話が入った。「ナナの髪にはほとんどないけれど、エミの髪には結構シラミがついてるから、薬局でシャンプーと目の細かい櫛を買って、それを使いなさい。今、この地域の子供たちの間でシラミが流行っているらしいから、エミだけじゃなくてファトマ(カプジュの娘)にもたくさんついてるのよ」なんとももっともらしい話である。そこまで言われて少し心配になった私は、エミを連れて近所の薬局に出掛けてみたが、すでに店じまいした後だった。シラミだったら必ず増えるはずだし、第一、虫が発生しなければおかしい。もう一度よくシャンプーして様子を見てみよう。前回もよく洗ったら、白い帯のようなものはほとんどなくなったし・・・。そう思って、昨夜は私が手伝って丁寧に洗い流してやると、フケはもちろん白い帯もほとんど見えなくなった。それでも、朝学校に送っていく途中、気になって薬局に立ち寄り、そこの薬剤師さんにエミの頭を見せてみた。まだ若い彼女は、「シラミではなく、フケのように見えますが・・」とだけ言ったが、私にはそれで十分、「ほらね、やっぱり」とホッとして娘たちを学校に送り届けたのだった。学校から帰って1時間ほどすると、ナナと同じクラスに通う記子ちゃんの母親、波江さんから電話が入った。こんな時間に何の用だろうと思えば、早くも見舞い(!)の電話だった。「まあ、ゲチミッシュ・オルスン(お大事にしてね)!エミとナナにシラミが付いたって聞いてもう・・・・」私は唖然とするよりなかった。あのアイギュル夫人も口が軽すぎる。まだシラミだともなんとも分らないのに、自分ひとりの勝手な判断でシラミだと言いふらしているんだろうか?第一、昨日の今日で早すぎるし、偶然会って立ち話をするような話題でもなかろう。さては、わざわざ電話でもかけて教えたんだろうか?私は心のうちで憤慨しながらも、冷静に彼女に伝えた。「アイギュル夫人はそう言うんだけど、薬局で見せたらフケだって。今度、一応医者に連れて行くつもりだから」と、まだシラミと決まったわけではないということを強調したつもりだった。しかし、噂はここで留まっていたわけではなかった。午後4時、娘たちを学校に迎えに行った私は、ナナのクラスの前で記子ちゃんの言葉を聞いて愕然とした。「ねえ、ナナ。エミには近付かないようにしようね~。私とナナにはシラミがないけれど、エミの頭にはシラミがあるんだって~」私は、相手がナナと同じ幼い子供であることを承知しながらも、厳しい表情で記子ちゃんを戒めた。「あのね。シラミじゃあなくてフケなのよ。だから、そういう言い方は2度としないように」ナナを引き取り、エミのクラスに向かった私たちの後ろから、記子ちゃんはまだ付いて来ていた。そして、教室から出てきたエミの顔を見て、またもやこう言ったのだ。「ほら、エミから離れようね~。エミの頭にはシラミがいるから」と。私はすぐにエミの反応が気になったが、エミはちょっと怒ったような素振りを見せはしたものの、後は無視してくれたので、少し気が楽になった。それにしても、記子ちゃんがあんなことを言うとは・・・・。アイギュル夫人が、記子ちゃんがすぐ横にいる場所で波江さんにしゃべったか、波江さんが記子ちゃんに、「エミの頭にはシラミがいるから、近付かないようにね」と言い含めたかの、どちらかしか考えられなかった。まだはっきりしないうちからシラミと断定され心外という気持ちと、エミの心のうちをいたわる気持ちと、小さい子供にこのような言葉を言わせた大人の態度を嘆く気持ちとで、私の心はもやもやと揺れていた。アイギュル夫人にも波江さんにも何か言おうかとも思ったが、その気はすぐに失せた。一度アイギュル夫人の中で凝り固まってしまった考えは簡単に翻せないし、波江さんに伝えられた言葉も記子ちゃんが口にした言葉も口の中に押し戻すことはできないのだ。私はただ、エミに噂なんかに惑わされず心を強く持っていて欲しいと、彼女を傍らに呼び、「あなたの髪についてるこの白いのはフケだから、誰がなんと言おうと気にしちゃあダメよ」と励ました。一夜明けた今日、同じ薬局の前を通りかかったので、念を入れてもう一度訊いてみることにした。昨日と違う、年配の女性が丹念に見ていく。普通シラミは耳の後ろとか首の後ろの生え際などに卵を産みつけ、その辺りが痒くてたまらないはずだが、エミの頭は耳の後ろも首の後ろも全くきれいなものだった。が、髪の毛の何本かにわずかに残る白い帯を見つけると、「ああ、これは卵ね」と言うではないか。そして、抗生物質の入ったシラミ駆除専用のシャンプーを出してきた。私は、たくさんのシラミを見てきただろう年配の女性が言うんなら、もしかしたら本当かもしれないと、半信半疑ながら、念のためにそのシャンプーを試してみることにした。それからは、シャンプーは必ずシラミ専用シャンプーを使っているが、白い帯は、消えたり復活したりである。一方、アイギュル夫人も波江さんも記子ちゃんも、その後は何も言わなくなった。一度だけ、学校に娘を送っていった帰り、バッタリ波江さんと一緒になったとき、「医者には連れて行った?」と訊かれたが、「まだよ」と答えて終わりになった。・・・・その後ずいぶん経って、インターネットで「シラミ」を一度も検索してみなかったことにハタと気付いた。隣人たちの言動に振り回されるなんて馬鹿げている。さっさと医者に行ってもよかったのだが、まずはインターネットで調べてみるという手を、私はすっかり忘れていた。早速調べてみると、エミの髪の毛に見られる白い帯は、シラミの卵なんかじゃなく「ヘアーキャスト」というフケと脂肪の混ざって固まったものだということが分った。毛髪の根元に溜まった脂肪分などが、毛髪の成長とともに毛の表面に固着したもので、髪の毛をひっつめたりすることが多い人によく見られるとか。ポニーテールにしていることの多いエミに、ピッタリ該当する症状であった。これでもうアイギュル夫人になんと言われようと、薬剤師がなんと言おうと、フケだと胸を張って弁明できる。私は、パソコンの前にエミを呼んで、目の前に並んだ写真を見せて説明した。「これがあなたの髪に付いているもので、フケの一種なのよ」と。一騒動起こった娘のシラミ疑惑は、こうして一件落着した。
2005/05/11
トルコの初夏を飾る果物たち。まずは、チレッキ(イチゴ)やキラス(サクランボ)が筆頭に挙げられるだろうけれど、他にもイェニドゥンヤ(ビワ)や、まだまだ青いエリッキ(欧州スモモ)、出走りのカヴン(メロン)やカルプス(スイカ)・・・と、色とりどりの果物が揃うこれからの季節は、果物好きにはきっと堪えられないだろうと思う。そんな色鮮やかな果物の並ぶパザールの一角で、昔懐かしいドゥットゥ(桑の実)も、目立たないながらもちゃんと存在を主張している。トルコの桑の実には白と黒と2種類あるけれど、リタイア後、畑作りに精を出す叔父によれば、トルコの白桑の種は日本にも輸出されているんだとか。新しい種を積極的に試している叔父のこと、早速種を植えてみたらしい。昨年夏に両親がアンタルヤを訪れた時は、アスペンドス近くの民家で、大きく甘く実った白桑を味見させていただいたこともあったっけ。同じく畑作りが趣味(といっても、年季が入っているので玄人はだしだが)の両親が欲しがる土産といえば、トルコの野菜や果物の種(!)。よく熟れた美味いものだけ、上手に種を残し、乾燥させてひそかに(内緒♪)日本に持ち帰っている。この白桑の種も持ち帰ったのだが、その後どうなったのやら。私自身の桑の実の思い出といえば、まだ幼い子供の頃、口の周りを紫色に染めながら、幼馴染たちと桑の実を摘み取っては食べていたこと。かつて一帯で養蚕の行われていた名残で、実家の周囲、あちこちの畑や道端にたくさんの桑の木が植わっていた。葉を摘み取るのにちょうどいいように低く抑えられていたのだろう、丈はそれほどもなかったので、実の方が目当ての子供にとってもそれは好都合だった。子供の頃に食べ飽きるほど食べたせいだろうか。トルコで初めて桑の実を発見した時は、懐かしい感動を覚えはしたが、買って食べるまでもないような気がした。この3年半に、実際に買って味を試してみたのは、わずか2~3回だろうか?それなりに甘いのだが、完熟の実を直接枝から摘み取って食べる醍醐味には、当然ながらかなわない。・・・・カレイチの地所の庭には、表小路に面して、1本の桑の木が植わっている。熟し始めるやいなや、ポトポトと音を立てながら実を落とし地面を汚すので、土地を買った後も、この桑の木だけは本当いうと切ってしまうか、誰かに売ってしまいたいと思ってきた。しかし、カレイチ内の樹木の伐採は、自然・文化の保護の見地から一切禁止されている。好むと好まざるとにかかわらず、実りの季節になれば、毎日、それも一日に何度となく、道路の清掃に精を出さざるを得なくなるだろう。ハイ・シーズンには、観光客がこの道を散策しながら、立ち止まって写真を取ったり、ときには小路に出したテーブル席で休憩したりすることだろう。そんな時に、観光客や通行人の足元を滑らせたり、舗道に張り付いて汚い染みをつくる潰れた桑の実の存在は、迷惑以上のなにものでもない。ああ、この桑の木さえなければと、今でも心の底では憎々しく思っている。冬の間に枯れきった枝のしょげ加減を見ながら、このまま枝が張り出さなければいいなあと願っていたが、5月に入って急速に青々とした葉を茂らせ始め、いよいよ大粒の実を結び始めた。 ―2005年5月9日撮影―始めの頃は、2階建ての建物の屋根にまで届く大きく茂った桑の木を見上げては、ため息をついていた。ある日、出入りの職人に勧められ、日当たりの良い工事現場の屋根に上がって、ひと粒ふた粒と摘み取り口に含んでみたところ、ほんのりと甘みがのりはじめているのに気付いた。桑の木のすぐ脇にある部屋では、窓を開けて手を伸ばせば、桑の実が食べ放題(!)。私の頭は急速に回転し始めた。いっそのこと、この桑の実を逆手にとって、この施設の名物にするという手もある。例えば、ジャムやペクメズ(汁を煮詰めたシロップ)に。トレードマークに利用することも可能だ。こうして、楽しいアイデアばかり考え付いているうち、迷惑者の桑の木とも、なんだかうまく付き合えるような気がしてきたこの頃である。
2005/05/09
5月8日の「母の日」、アンネレル・ギュニュを前に、下の娘の通う準備クラスでは一足早く発表会が催された。今回、娘の与えられた役は妖精で、他4~5人の女の子たちと一緒に、背中に蜉蝣のような薄い羽根をつけ杖を持つことになっている。衣装は火曜日に直しから帰ってきた、シャンパン色のドレス。細いストラップ付きの繊細で上品なデザインで、胸元、腰、一番上がチュールになっているスカートの何箇所かに淡いピンク色のバラの蕾が付けられている。一度も着たことのないファスナーが壊れ、接着剤で貼り付けただけの蕾が2箇所も取れて失くなっていたので、同じお針子さんを探して託したのだが、何度も足を運ばせて悪かったといって、残っているバラの蕾を一緒に添えてくれたのが嬉しかった。これでカチューシャか、頭の上に軽く載せられるよう花の冠でも作ろうかと思ったが、美容室に相談したら、編んだ上からそのまま挿せばいいと言われ、敢えて手を加えないことにした。発表会は午後2時からだが、午前中に予行練習があるというので、普段通り8時半には登校しなければならない。行きつけの美容室には昨日のうちに話をしておき、朝8時からセットをしてもらいに出掛けた。娘の薄い髪の毛を苦労しながら編み込みにし、編んだ部分に上手に蕾を刺して止めていく。生え際のあたりに等間隔に挿された6つのバラの蕾はカチューシャのようで、幼い娘の顔を可憐に見せてくれた。今まで発表会だ、ダンスパーティーだといっても、髪の毛はいつも適当にアレンジしてやっていただけに、初めて美容室でセットしてもらった娘は、鏡を見ながら満足そう。普段から変身願望の強い下の娘のこと。5YTL(約400円)を払い美容室を出るときも、首をまっすぐに立て、髪形が崩れないよう、しゃなりしゃなりと歩いていくところが微笑ましい。・・・発表会の演目は、私には馴染みといってよい。なにしろ、上の娘だけでも5歳児クラス、準備クラスと経験しているので、都合3回目くらいにはなる。何曲かのコーラスの後、劇があり、その後PCを使ってスクリーンに母子の写真を順番に映し出しながら、母親に感謝の言葉を述べるという時間が設けられている。スクリーンに写真が映し出されると、子供が中央に進み出て、マイク越しに母親に語りかける。「アンネ(お母さん)、立っていただけますか?」母親が座席から立ち上がると、各自があらかじめ用意した言葉を贈る。「いつも美味しい料理を作ってくれて、美味しいボレキやドーナツを作ってくれて、きれいな服や靴を買ってくれてありがとう」という具合に。お母さん方の中には、立ち上がった時からすでに感無量で、頬の涙をしきりにぬぐいながら子供の言葉を受け止めている方もいる。一方私はというと、この趣向も初めて経験するものではないし、どうも他の子供の真似をして、事実から反れたようなことを言う娘の言葉にガックリきて、感激するというまでには至らなかった。娘は後で「アンネ~。なんでアンネは泣かなかったの?」と不思議そうに訊いてきたが、本当のことじゃないし、自分で一生懸命考えた心のこもった言葉じゃないと、心は動かないんだよ、と説明した。きっと娘には理解できなかったと思うが。そんな冷めた私だが、唯一グッときて涙が溢れたシーンがあった。自閉症児の涼ちゃんの番。言葉の不自由な涼ちゃんがマイクの前に進み出て、「アン、アヤウン、アン、アヤウン、アヤウン・・・」と一生懸命繰り返している姿を見て、思わず目頭が熱くなった。私だけではない。涼ちゃんのご両親はもちろんのこと、日頃クールな表情を崩さない音楽教師のセルカン先生までが、涼ちゃんの舞台に男泣きしたのであった。皆と同じ行動を取るどころか、一箇所にじっとしていることさえできない涼ちゃんが、ここまで参加できるようになったのも、普通児と同じクラスで学ばせることを決断したご両親と、その意思を尊重し、涼ちゃんの授業や行事への参加を最大限にサポートしてきた担任のベットゥル先生のお陰だろう。この日の発表会で最も感謝の言葉に値するのが、涼ちゃんのお母さんとベットゥル先生なのかもしれないと、涙ながらに思わずにはいられなかった。
2005/05/06
下の娘ナナのクラスにいる響くん。色白に額縁メガネ、育ちの良さを滲ませた笑顔に、行儀の良い立ち居振る舞い。ハリーポッターを幼くして、優等生にしたようなタイプである。私は、響くんのことを密かに「小さな紳士」と呼んでいる。この響くんは、学校から我が家までの道の途中にあるスィテ(共有の庭やプール、駐車場などを持つマンション)に住んでいるのだが、毎日一番にベビーシッターに連れられて帰ると、しばらくの間、庭で遊びつつ、私たちの通りかかるのを待っている。私たちが見えると、響くんは塀まで近付き、フェンス越しに娘のナナに庭で摘み取った花を手渡してくれるのだ。響くんが近付いてくると、上の娘や、一緒に下校することの多いオズレムは、すぐに顔を見合わせてニヤニヤとする。響くんはナナのことが好きなんではないか、というのが私たちの一致した意見だが、同じマンションの隣人で、ナナと同じクラスの記子ちゃんにも手渡しているところを見ると、単に女の子に優しくしたいだけなのかもしれない。いずれにせよ、娘の下校が遅れない限り、ほぼ毎日のように繰り返される響くんのプレゼントに、ナナも照れつつもまんざらでもない様子。「で、ナナは響くんのこと、好きなの?」そう振ってみるが、笑いながら「ハ~ユル(ううん)」と首を横に振るだけ。好きになった男の子には、結構積極的にアプローチしたり、ああしたこうしたと報告するナナのことだから、やっぱり響くんのことは、ミツグ君(古い!)程度にしか考えてないのかもしれない。ところが、響くんが記子ちゃんのお家に招待されたと聞いた日から、「うちにはどうしてこないの?」「響くん、うちに来てもいいでしょ?」とおねだりするようになったのだ。客人を招待するのが苦手な私は、「そのうちにね」「まずは響くんのお母さんに都合のいい日を聞いてからでないと」と言って、うまく逃げおおせたつもりだった。・・・今日、娘たちを学校に迎えに行くと、上階から下りてきたオズレムが私に報告した。「ナナが今晩、響くんを招待したんだって」私は思わず「ええっ~!」と顔をしかめる。また、ナナってヤツは~!私に聞かないで勝手にそんなことを!どうしよう?本当にやってくるのかなあ・・・?私は、響くんに会ったら、なんと言われるかとビクビクしていたが、この日は響くんはとっくに連れて帰られたらしく、顔を見ることもなかった。「ねえ、ナナ。響くんを招待したって、本当?」ナナに真偽を確かめると、無邪気に「うん!来るって」と言う。が、考えてみれば、向こうは子供。一人で来られるわけもなし、ご両親に報告したら、きっと日を改めてと諭されるに違いない。少なくとも、「息子がこんなことを言ってるんですが、どうしましょう?」と相談の電話くらい入るだろう。私はそう楽観的に構えながらも、家に戻ると居間と玄関周りだけは大急ぎで掃除と片付けを済ませておいた。果たしてそれから、夕食の時間になっても響くんのご両親からは何の連絡もなかった。夕食も終わり、私はすっかり寛いで、この一件もほとんど忘れていたのだが・・・。午後8時半。チャイムが鳴った。インターフォンで「キモ~?(誰?)」と聞くと、なんと響くんのお母さんの声。ゲゲッ~!直接来てしまったの~?とりあえず表玄関ドアを開けるボタンを押しながら、子供たちに大声で指示を飛ばす。「お~い!響くんが来たぞ~!早く片付けて~!」例によって、子供部屋はおもちゃ、学用品、脱いだ洋服類が渾然一体となった惨憺たる有様。日頃どんなに叱ってもなかなか自分たちで片付けをしない娘たちも、この時ばかりは大慌て。床やソファーの上に散らかったおもちゃや服を、手当たり次第にソファーの後ろに突っ込んでいる。私はスリッパの用意をする一方で、見苦しい部分を少しでも隠すよう努めた。エレベーターが止まり、響くんがご両親と一緒に現れた。学校でお会いする時のご両親はいつもキリッとした現代的な装いだが、意外にも今夜は気を遣わない服装で、特にお父様の方はTシャツに短パンという軽装だったので、私の気もかなり楽になった。「こんな時間から申し訳ありません。今日はプールに出掛けてたんですよ。夕食を済ませて、さあ帰ろうという時、響がナナちゃんのところに行くといってきかなくて・・・。ナナちゃんに約束したから、それを破るわけにはいかないって言うんですよ」ご両親は、申し訳なさそうな顔で、響くんだけ30分ほど置かせてもらって、後で迎えに来ましょうかという。私は、「とんでもない。どうぞどうぞ」と中へ招きいれ、ネジャットの寝室と化しているサロンではなく、居間に案内した。ご両親は、もう一度事情を説明して、突然の来訪のわけを話した。「もう遅いから、別の日にしましょうって言ったんですが、響がこう言うんですよ。ナナちゃんはクラスで一番礼儀正しい女の子だって。その彼女にした約束を破るのは、礼儀に反することだって。そう言われたら、私たちもそれ以上反対できなくて」さすが真面目でひときわ賢い響くんのこと、言うことも立派だなあと驚きながら、一方でナナのことが過大評価されていることに、苦笑を禁じえなかった。家に帰れば悪魔か怪物並みに暴れまわる甘えん坊で我が儘なナナだが、一歩外にでれば天使かプリンセスのような淑女ぶりを見せることは、私たち家族が一番よく知っている。ナナの二面性には舌を巻くこともしばしばだが、それにしても響くんに「クラスで一番礼儀正しく上品」と思われているとは、ナナも罪深いことよ。どうりで、「小さな紳士」響くんが花を贈ろうという気にもなるはずだ。私が、揃ってお医者さまであるご両親と世間話を交わしている頃、子供部屋では、どうやら上の娘エミが響くんを問い詰めていたらしい。いわく「ナナと記子ちゃんと、どっちが好きか?」と。やっぱり子供。ストレートによく訊けるわ。で、響くんは「ナナちゃんの方が好き。記子ちゃんはコミック」と答えたらしい。やれやれ。やっぱりナナ、少しは思われているのか。響くんのことを、父兄の中には、「学者」と呼ぶ人もいる。ご両親の情操教育が素晴らしいのだろうが、6歳児(日本でいえば、満5歳)とは思えぬ言葉遣いと知識に驚かされることもある。例えば、「“土”と聞いた時、何を連想するか?」というブレインストーミングで、ナナをはじめ他の子供たちが、草とか花、木なんて答えているのに、響くんときたら、「植物を育てるのに必要な物質のひとつで・・・ウンヌン」なんて答えるんだからスゴイ。ちょっと見、カッコイイ男の子に弱くて、日頃「今日は、丈夫くんのホッペに4回もキスしちゃったあ~」とか「強くんには2回キスしちゃった」なんて無邪気に告白するナナだが、アンネ(お母さん)としては響くんみたいな男の子の方が将来的に頼もしく思えてしまうなあ~。丈夫くんや強くんなんかどうでもいい、アンネは響くんの方を大切にして欲しい・・・なんて。いざとなると姑根性まるだしで男の子を眺めている自分を発見してしまった一夜であった。
2005/05/04
このところ、新しく知り合ったアンタルヤ在住日本人の方々と立て続けにお会いしている。ちょうど1週間前にはチエさんとお会いして、楽しいおしゃべりの時間を過ごしたが、彼女からは昨日また電話をもらい、昼食を一緒にすることにした。私にとっては「超」がつくほど久し振りになる中華レストラン。イスタンブール在住の友人で先輩でもあるmadamkaseさんが、コーディネーターの仕事でアンタルヤにいらしたとき、撮影隊の方々の計らいで私たち家族も一緒に夕食のテーブルを囲ませていただいたことがあった。なので、もう2年も経つだろうか。餃子や焼きそば、チャーハンという、いかにも日本人好みのメニュー。特別美味しいというわけではないが、なんとなくほっとする味だった。ビールがあれば、言うことはなかったが・・・。そして今日は今日で、チエさん同様昨年の9月からアンタルヤにお住まいで、トルコ全般に関する充実した総合情報サイトを運営してらっしゃるチューリップさんと初めてお会いすることになっていた。チエさんにそのことを話すと、彼女のサイトを見たことがあるというチエさんも、よろしければ一緒にお会いしたいという。電話でチューリップさんに一応確認すると、喜んでという返事。というわけで、10時半にカラアリオール公園入り口の交番前で待ち合わせとなった。チューリップさんは満5歳になったばかりのお嬢さんを伴ってらっしゃるはずだから、公園内の遊具エリアでお嬢さんを遊ばせながら、私たちはベンチにでも座っておしゃべりする予定にしていた。「何か飲み物や食べ物でも買って、ピクニックみたいにしようと思ってます」考えなしの私は、チエさんに思わず言わずもがなのひとことを言ってしまったことで、後で後悔した。途中で喉が渇けばチャイでも飲みに行くか、スタンドで缶入りアイスティーでも買えばいいやとのんきに構えていた私に対し、チエさんは気を利かせてパザールでイチゴを買ってきてくれたのだ。おまけに、私とチューリップさんがおしゃべりに興じている隙に、イチゴを洗いに行ってくれて・・・・。(チエさん、どうもごめんなさ~い。ご馳走さまでした)チューリップさんとお嬢さんは、瓜二つといっていいほどよく似た母娘で驚かされた。しかも、関西出身のチューリップさんとおばあちゃまの影響で、「しっかり関西弁」なのが微笑ましい。おばあちゃまが1ヶ月ほど滞在してらしたそうで、その間に「一服しよか~」なんていう5歳児と思えぬ渋~い言葉使いを覚えたという話を聞いて、腹を抱えて笑った。昨年9月にアンタルヤに越してきたばかりの頃は、まだメルハバ(こんにちは)くらいしか言えなかったというお嬢さんだが、今では日本語と同じくらいのレベルでトルコ語を使い分けることができ、たいそう感心させられた。一方、我が家の娘たちときたら、昨年夏日本の実家に1ヵ月半ほどお世話になっている間に、かなり日本語が上達したが、トルコに戻ってくれば元の木阿弥。私が日本語を強制しないのをいいことに、日本語で話しかけても返事はトルコ語、という状態である。言葉がようやく形成される年頃でトルコに連れてこられ、すぐに2歳の誕生日をアンタルヤで迎えた下の娘など、自宅とマンション周辺だけで過ごした最初の1年間は日本語も中途半端、トルコ語は聞けば分るが話せないという状態だったっけ。上の娘はといえば、引っ越してすぐ学校に入れ、1日8時間、強制的にトルコ語のシャワーを浴びさせられたお陰で、1ヶ月もすればすっかりトルコ語に馴染んだが、反対に日本語の方は急速に忘れていった。今ではふたりとも、子供特有の汚い罵詈雑言からアンタルヤの方言まで使いこなす、トルコの子供になりきってしまっている。チエさんが引き上げた後、チューリップさん母娘と、途中でバッタリ一緒になった従兄弟のネジャットと4人で食事をしつつも、日本語(関西弁?)と日本の子供らしい愛らしい表情を失わず、かつトルコ語もきちんと使い分けることの出来るチューリップさんのお嬢さんから私は目が離せなかった。理想的なバイリンガルの形を見るような思いがしたのである。我が家でも、もっと日本語を話さないとね・・・・。母親として、ちょっぴり反省させられた半日であった。
2005/05/04
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