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新学期のスタートする9月も目前。(※1年生は9月11日から。2年生以上は18日から)すでに新学期準備商戦が始まっている。昨年、上の娘エミには結局、ウィッチ(W.i.t.c.h.)のキャラクターの入ったマゼンダ色のリュックサックを、同じキャラクターのペンケースと揃えて新調してやったので、今年もそれらを続けて使わせるつもりだが、下の娘ナナには、新調しないといけないかなあ~と思っているところである。ナナは、ハズルルック・スヌフ(準備クラス)に入る際に買ってやったパワーパフ・ガールズ(POWERPUFF GIRLS)のキャラクター・リュックを、姉のエミのと色違いということもあって、2年間を通じて気に入って使っていたが、いかんせんファスナーの留め具が先に壊れてしまい、学期の最後の方では、開け閉めに苦労していたのである。実は、前回夫は、娘たちへのお土産として、ピンクとシルバーグレーの配色になるハローキティのキャリーバッグを買って帰っていた。夫は、それを通学用カバンとして使わせるつもりだったらしい。確かにキャリーバッグの流行は、最近、通学カバンの世界にまで波及して、まだ身の丈の小さい低学年児童が、大きなキャリーバックを引きずりながら登校する風景を、ここ数年父兄の立場として懸念しつつ眺めていた。後ろ手にキャリーバッグの持ち手を引きながら、肩を落として歩く姿勢を続けるうち、背骨が湾曲するのではないか?と、心配なのである。セルヴィス(通学バス)からの昇り降り、階段の昇り降りにも、いちいち持ち手を伸ばしたり縮めたりせねばならず、不便この上ない。なにより、一般的なリュックサックに比べると、キャリー・タイプは一回り大きいことが多く、キャスターなどの余計なパーツが付いている分、重量も重くなる。子供への負担と弊害が大きいのではと思うのだ。その上、我が家から学校まで、わずか5分の道のりではあるが、いまだアスファルトの敷かれていない砂利道で、そこをゴロゴロとバッグを引きずって行くのは、かなりの難業にあたる。学校に着くまでに、バッグは砂埃で鼠色になること間違いなし。学校の前の道が、池ほどの大きな水溜りになる豪雨の日、暴風雨の日は言わずもがなである。いつもながら、私や娘たちの意見と希望を一切聞かないで、スプリズ(サプライズ)的に買い物をしてくる夫。私は、夫に面と向かって「こんなの使えない」とはさすがに言えなかったが、これはこれで旅行用か物入れ用にでも残しておいて、普通のリュックサックを使わせるしかないなあ~と即座に判断した。エミもエミで、少女趣味からとうに脱却して、アディダスやナイキ、コンバースなどのスポーツブランドに関心のあるこの頃、一目見て私にだけ聞こえるように「ベベッキ・ギビ・デーィルミ?(赤ちゃんみたいじゃない?)」と気に入らないことを素直に打ち明けた。こんなわけで、「最低2年は続けて使用すること」を条件にカバンを新調してやっている我が家では、今年ナナの通学カバンのみ新調することになりそうである。さてさて、今年の流行はどうか?店頭にはどんなカバンが並んでいるか?事前調査のつもりで、先週のうちに近所のミグロス内にあるトイザラスに出掛けてみた。こちら↓が、2006年度の通学カバンの主流らしい。まずは女子用。 上段は、左右とも今年の一番人気、ウィンクス・クラブ(Winx CLUB)。下段は、左が根強い人気を誇るバービー(Barbie)。右の白い仔馬ちゃんのキャラクターが、マイリトル・ポニー(my little Pony)、その左がウィッチ(W.i.t.c.h.)。しかし、今年も見事にピンク、ぴんく、pink!昨年のW.i.t.c.h.に使われていたような濃いマゼンタ色は姿を消し、シュガーピンクというのか甘いピンク色が主流。あとは赤みがかったピンクと紺色のデニム風。次に男子用は、こちら。 左上がスポンジ・ボブ。右上には昨年来のスパイダーマンと、忍者タートル。左下バットマン、右下スーパーマンと、映画のスーパーヒーロー達が勢揃い。気になる価格の方である。女子用の一番安いもので26YTL(約2000円)というタグを見つけ、ホッと安心したら、その脇にはパール風のアクセサリー&ハートのチャーム付きのシリーズがあって、なんと、99YTL(約8000円)というタグが!!最近は、女子用のリュックは年々と派手になっていて、このように可愛いチャーム付きだのお財布・ポーチ付きだのと女の子の心をくすぐる仕掛けがタップリ。せがまれて、ついついお財布を開けてしまう親御さんも多いことだろう。もはや毎年の口癖になってしまったが、実に頭の痛い季節である。いつも応援ありがとうございます。通学カバンも自由に選べるいい時代ですね。娘たちと一緒に、ああでもないこうでもないとショッピングできるのも、女親の楽しみのひとつかもしれません。あとは安ければ文句ないのですが。。。ポチッとクリックお願いいたします♪人気blogランキングへ
2006/08/30
真夏の焼け付く太陽と青い空の下ではためくトルコ国旗。歓喜と祝祭のためのものではなく、追悼と祈りのために掲げられたものである。街を行き交う人々の動きは、いつもと同じようでいて、どこかぎこちなく見える。抑制された声で会話しあう親子。地元の人間の目撃談に耳を傾ける通行人。爆発音の静まった後の、奇妙な沈黙と静寂。警察官の多さと、進入禁止のテープが、その場所を一目瞭然に示していた。復旧作業は急ピッチで進められていた。瓦礫や割れたガラス片は、夜を徹して行われた清掃作業によってほとんどその場から姿を消していたし、バイクなどの炎上した跡は何処にも見出せなかった。何台も横付けされたガラス業者のトラックと、取り付けを急ぐガラス職人たちの姿が、一刻も早い復旧への希望を表していた。ベレディイェ(区)は、いち早く新しい看板を掲げ、その下に大きなトルコ国旗を吊り下げた。歩道の上には、ある政党によって行われた抗議行動の名残である、赤いカーネーションが残されていた。****マルマリス、イスタンブール、そしてアンタルヤと続いた連続爆発事件により、再び観光業への大打撃が懸念されている。一部の海外メディアでは、トルコへの渡航自粛を勧める論調が幅を利かせているらしい。最近トルコ国内では、この手の事件に関するニュースそのものを小さく扱おうとうする報道自粛傾向がさらに強まった。テレビ・ニュースでは、トップの扱いではない。新聞は全国紙の1面にではなく、5面、6面あたりに小さく掲載するのみ。地方版および地元テレビ局にいたっては、完全無視。まるで事件そのものが発生しなかったかのような錯覚さえ覚える。トルコ国内および地元の観光業へのダメージ回避、観光客および住民のパニック回避、業界への遠慮、・・・などいろいろな理由が考えられるだろうが、詳細情報をまっ先に知る権利のある国民や地元民のもとに情報は届かず、国際通信社を経由していち早く海外に詳細情報が流れる構造は、決して望ましいものではない。海外では一層不安が掻き立てられ、当の国内では常習化して一層危機感が弱まっているように見えるのは、気のせいだろうか。いつも応援ありがとうございます。同様の事件が引き続き起こされないこと、他の都市へ引き継がれないことを祈ります。人気blogランキングへ
2006/08/29
ブドウの季節である。日本であれば、きっと梨が美味しくなる頃だろう。梨は夏バテし火照った身体を冷ます効果があると聞いたことがある。夏の終わりに口にする梨は、いかにも瑞々しく、喉越しが冷たくて実に美味しく感じる。が、トルコで梨といえば洋ナシ(アルムット)。洋ナシには洋ナシの美味しさがあるが、日本の梨の瑞々しさや喉越しは期待できない。トルコで夏の終わりに盛りを迎える果物といったら、イチジクとブドウであろうか。イチジクは、トルコ中何処にでも植わっており、たわわに実をつけているので、もっと値が下がってもいいと思うのだが、1キロ1.5~2YTLと、なかなか安くならない。子供の頃実家の屋根に上って、イチジクの実食べ放題であった私には、なぜかイチジクを買ってまで食べようという気になれなくて、年に1度、お義理のように買ってみる程度なのだ。なので、この時期パザールから買って帰る果物は、ブドウということが多い。それも、私が選ぶのは、種なし。トルコ人は、ブドウの皮も種も一緒に噛み砕き飲み込んでしまうのだが、私には皮は飲み込めても、種がダメザクロもサボテンの実も大の苦手なのは、種だらけだからである。トルコのブドウは全般に、日本で開発されているブドウのように皮がツルリとうまく剥けてくれない。口元に持ってきて、皮を押し、チュルッと口の中に実だけ滑り込ませるなんてことができない。いちいち皮を剥いてまで食べたいと思うほど、美味しいとは思えないので、房から指先で何個かまとめてもぎ取って、皮ごと口の中に放り込んで、ムシャムシャッと食べてしまえる種なしが、一番私の性格にあっているのである。トルコにお越しになったことのある方、トルコ在住の方にはお馴染みの、こちらがトルコの種なしブドウ(cekirdeksiz uzum)。日本の種なしブドウ(デラウェア)より粒が多少大きくて、マスカットよりは小さい。皮ごと口に含むと、なかなか食べ応えがあるのだ。日本の種なしよりは断然美味しく思えるのだが、時々ジューシーで薫り高い巨峰やピオーネを思い出しては、その落差に愕然とするパザールに来る果物屋をとっつかまえては、日本のブドウはこんなもんじゃないんだよ~!と講釈しては空しくなる私。それでも、皮ごと食べても美味しい種なしなんて、日本にはないんだから。そう思っていたら、なんと。日本にもあるんだと!皮ごと食べられる種なしブドウが。まだ日本でも珍しい希少品らしいが、1箱3.6kg(※間違えて5kgと書いたのを訂正しました)で12,000円もするとは!!(トルコなら、現在1キロ1YTL=約80円)ほほう・・・と見ていくと、スゴイ!さすが日本。あの、ピオーネより大粒でマスカット色の種なしブドウがあるとは!値段も1房2800円とすごいが、大きいものはピンポン玉くらい!だなんて。つくづく日本の品種改良の進化はすごいなあ~と関心せざるをえない。それに比べたら、トルコは年がら年中同じものばかり作ってるのだ。ともあれ、所詮高級品には手の出ない庶民の私たちは、トルコの種なしブドウで我慢するしかない。種なしだから、生で食べるだけでなく、フルーツサラダにもそのまま入れられるし、ケーキに入れて焼いても美味しい。レーズンよりフレッシュな甘みで、何より季節感タップリ。ジャムにしてもなかなかイケる。真夏にオーブンを使う焼き菓子はちょっと暑苦しいのだが、私のよく作るヨーグルトケーキに、先日種なしブドウをたっぷり載せてみたら、これもなかなか美味しく出来上がった。ところがこれ、ヨーグルト大好きのはずのトルコ人に出しても、あんまり喜んでもらえない。砂糖やカラメル、バタークリームでたっぷり甘くするのがケーキと思ってるトルコ人。甘さ控えめ、ほんのり酸味のあるケーキなんて、受け入れがたいのだろう。私は気に入ってるんだけど。。。****ところで。日本の梨を懐かしがっていたら、思いが通じたのか、パザールで発見!!じゃーん!!ナフシ(nahsi)。ちょっとなまっているが、正真正銘日本の梨である。 生産地は、トルコの「果物王国」ブルサ。品種としては赤系で、おそらく幸水あたりであろう。日本だったら売り物にもならない矮小さ。が、価格はなんとキロ3.5YTL(約280円)!トルコでは高級品の部類に入る。私はどうしようか迷った挙句、味見のつもりで500gほど買うことにした。たった5個で1.75YTL(約140円)。。。。ところが、買って帰った途端、冷やす間もなく娘たちの襲撃にあい、私の口にはほんの一口しか入らなかった。。。甘み、水分、風味とも、日本の幸水に比べると劣るが、間違いなく日本の梨である。そのうちリベンジしてやらねば。早速来週、もう一度買ってみようかなあ。。。。いつも応援ありがとうございます。梨にブドウに柿。秋は実りの季節ですね。たくさん食べて、夏の疲れを一掃しましょう!クリックもどうぞよろしく♪人気blogランキングへ
2006/08/27
エレベーター内のパネル上には、緊急用ブザーとして黄色いボタンがある。が、押してもピューピューピューという気の抜けたような音が出るだけで、日本のように警備会社に通報がいくわけではない。ブザーの音を聞きつけた住人が、中で閉じ込められている人がいることを察知するためのものに過ぎない。たまたまエレベ-ターに乗ろうとホールに出ている人が気づいてくれればいいのだが、いつやってくるか分からぬ住人を待ち続けるのも、あまり効率のいいものとは思えなかった。それにしても、携帯を持っててよかった!私はまず、自宅に電話し、エレベーターに閉じ込められたからしばらく帰って来れない。心配しないで待っていてほしいと伝えようと思ったが、諦めた。エミが部屋に閉じ込められている状況では、私の窮状を知ったナナが、たったひとりでパニックに陥る可能性のほうが高かった。そして、オズレムのお母さんアイギュル夫人の携帯にかけようと試みた。しかしエレベーター内は電波がうまく届かず、携帯には繋がらなかった。そこで、祈りつつアイギュル夫人の自宅の方へかけてみると、なんとか繋がった!簡潔に、エレベーターに閉じ込められたことと、カプジュが留守なので連絡を取って欲しいことを伝える。やがて5分ほどして、私の居場所を確かめるために、各階のエレベーターの外扉をコンコンとノックしながらアイギュル夫人とオズレムが近づいてきたのが分かった。扉越しに会話を交わした後で、アイギュル夫人はカプジュに連絡をとってくれたようだった。カプジュは町の中に出ていて、至急戻ってくるが20~30分ほどかかるだろうという。エレベーターの扉を手動で開けるための鍵は、カプジュしか持っていないのであった。私は、アイギュル夫人にナナとエミの様子を伺ってくれるようお願いした。エミが自室に閉じ込められて、ナナひとりだということ。今頃、私の帰りが遅いので、ふたりとも心配してるのではないかということを訴えた。アイギュル夫人とオズレムが階段を上がっていくと、しばらくあたりは静かになった。もともとエアコンのないエレベーター内は、換気扇も止まってしまい、天井の裏に置かれたラジオの音だけが空しく鳴り続けている。エレベーター内の電気は、どういう加減か、消えては点き、消えては点きを繰り返していた。私の吐く息と滲み出る汗で、鏡はうっすらと曇り始めている。酸素に不足はないが、室内はかなり蒸し暑かった。それにしても、いったいなんてことだ!エミだけでなく、私まで閉じ込められてしまうなんて!アッラハ・バナダ・ジェザー・ヴェルミッシュ。。。(神様は私にも罰を与えなさったらしい。。。)私が、いったいどんな悪いことをしたのだろう?私は、自分の起こしたハター(間違い)について振り返ってみた。今日のこの事件のことの起こりは、あくまでエミの傲慢な態度にあったと思う。しかし、私も強硬手段に出るのが早すぎた。相手は子供だし、もう少し辛抱して、相手の話に耳を傾けることから始めるべきだった。自分の話に耳を傾けさせることに一生懸命で、エミの話は聞こうともしていなかった。エミにはエミの言い分があったに違いない。あるいは、ただ落ち着かせるだけで十分だったかもしれないのに。キレて物事を途中で放棄し、その場から逃げ出すというエミの習慣的態度は、夫の血を濃厚に引き継いでいるように見えるのだが、娘たちに反抗的な態度に出られたとき、一刀両断に始末してしまおうとする私の態度からも、影響を受けていないわけがなかった。つまり、いくら言っても聞かないなら叩く。あるいはそれに代わる何らかのジェザー(罰)を与えようという態度。私の子供の時分は、子供が親に反抗的な態度に出たとき、容赦なく木に繋がれたり、押入れや倉庫に閉じ込められていたものである。その影響が、私にも跡を深く残していた。しかし今日のこの場合、おそらく私の態度は適切ではなかったのだろう。エミが自分で散歩を放棄して家に戻ったのは、私には不可抗力だった。しかし、肝心なのはその後。電気を消すという強硬手段が、エミの態度をエスカレートさせたのだ。あそこで、もう少し忍耐強く説得を続けるべきだったのではないか・・・?そんなことをぼんやり考えている間にも、スィテの住人が代わる代わるやってきては私に声を掛けていった。「イェンゲ(奥さん)、大丈夫ですか?」「空気は来てますか?」「イェンゲ。空気は来ますか?大丈夫ですか?」「大丈夫です。大丈夫ですけど・・・この時間に来てくれる鍵屋はいるかしら・・・?娘が部屋に閉じ込められてしまったもので・・・」私は扉の向こうの人物が誰かも分からないまま、弱々しく訊いていた。「いやあ・・・今カプジュが来ますから、カプジュに訊いて下さい」そう、そうだよね。カプジュが到着してから訊けばいいことなんだから。。。アイギュル夫人とオズレムが戻ってきて、誰も電話に出ないし、チャイムを鳴らしても誰も応答しないといった。きっと、疲れてナナは眠り込んでしまったのだろう。エミはもちろん電話の音やチャイムの音に気づいたとしても、出れるわけがなかった。心配してるだろうか。泣き叫んでたりしてないだろうか。閉じ込められてから、何十分経っただろう。携帯で時刻を確認すればいいのに、その時の私にはそれすら思いつかなかった。カプジュがようやく帰宅し、鍵を取り出している音が聞こえた。やがて、鍵を回す音。扉が開き、カプジュ、アイギュル夫人とオズレム、その他5~6人のコムシュ(隣人)たちの顔が見えた。エレベーターは、1階(トルコ式の0階/Z階)に着き、さらにそこから50~60cmほど下に沈んだ位置で停止してしまったらしい。私は、段差に足を掛けて登り1階のホールに立つと、カプジュとそこに顔をそろえていた全員に、お手数を掛けたお詫びとお礼の言葉を述べた。そして、すかさずカプジュにお願いするのを忘れなかった。エミが部屋の鍵を掛けた後、開かなくなってしまったこと。もしかしたら壊れてしまったかもしれないから、見に来て欲しいということ。もし壊れていた場合、この時間でもやってきてくれる鍵屋を知っているかということ。カプジュは、エレベーターのことを片付けた後で伺うと約束してくれ、ほっとする。アイギュル夫人もオズレムも、私が10階まで上がる際、心配して同行してくれた。自宅の鍵を開け、中に入る。テレビの音を除いては、人の泣き声など一切聞こえない。ナナは案の定、テレビも電灯も点いたままのオトゥルマ・オダスで眠り込んでいた。エミの部屋の前に立つ。鍵穴から覗くと、エミの動かない足が見えた。どうやらエミも眠っているようだった。アイギュル夫人に一度鍵を試してみてくれるように頼んだが、彼女も開けられなかった。もちろんオズレムも。10階まで何往復もしてくれた彼女たちに冷たい水を振る舞い、カプジュを待つ。ほどなくしてカプジュもやってきた。鍵屋に電話しようか?と訊く。いや、その前に一度見てくれないかとお願いし、試してもらうと、さすが男性。何度か回してみた後、カチッと音がして、見事に鍵が開いたのだった!壊れたわけではなく、強く締まりすぎていただけだったのである。これで、ようやく一件落着。カプジュにも、もちろんアイギュル夫人とオズレムにも再度お礼をいい、彼らは引き取っていった。私はナナをソファーに寝かせたまま、オトゥルマ・オダスの電気とテレビを消し、次に子供部屋の電気を消し、エミが途中で目覚めたときに怖がらないよう、ドアを大きく開け放したままにしておいた。時間は、9時半を回っていた。夕食の支度はもう必要なくなったので材料を冷蔵庫にしまい、と同時に、コンロをかけてなくてよかったと心底胸を撫で下ろした。その夜、私は、夢を見てうなされ、何度か声を上げていたエミの添い寝をすることにした。肩や背中をトントンし、腕を身体に軽く回してやるだけで、子供は安心して眠れるものである。エミは、私がエレベーターに閉じ込められたことを知らない。明日の朝、エミが目覚めたら、真っ先にこのことを面白おかしく話して聞かせよう。アッラハ・サナ・ジェザー・ヴェルディ(アッラーはあなたに罰を加えなさったけど)アマ、バナダ・ヴェルディ!(だけど、私にも罰を加えなさったのよ!)そこから、昨日の一件について、落ち着いて話し合えるような気がした。いつも応援ありがとうございます。神はどこまでもお見通し、と思える不思議な事件でした。娘との相克が、これでやめばいいのですが。。。子育ては難しい。年嵩が大きくなるほどそれを実感しています。人気blogランキングへ
2006/08/26
よそ様にお話しするのも恥ずかしい母娘の攻防戦。驚く顛末が待っています。まずは読んでやってくだされ。クッキーお散歩デビューの記事を書いているうち、気づいたら午後7時20分にもなる頃。おっといけない!当のクッキーの散歩を忘れるところだった。スィテの庭で遊んでいる娘たちを呼んで上がってこさせるより、私がクッキーを下に連れて行ってやり、そのまま3人で一緒に散歩に出掛けようと考えた。タスマ(リード)を着けてエレベーターで下に降りると、ちょうど娘たちが遊び道具を片付けてスィテの玄関に入ろうとしているところ。最初にやってきたエミは、クッキーを連れた私を見て途端に激昂。「タスマを私に頂戴!」といって無理やり私の手からタスマを引っ張ってとろうとする。「慌てないで。どうして怒鳴るの?」と質すと、「これが私の性格なんだから!仕方ないでしょ!」と大変な剣幕。きっと庭で友達同士遊んでいるうち、何か気に入らないことが起こったのだろう。私は触らぬ神にたたりなしと、タスマをエミに譲り、玄関口を通って、庭へと出た。そのまま散歩に行こうとしたところで、私はふとナナとエミとの間で昨日交わされた約束を思い出した。エミはナナより2つ年上で、犬のことについて少しは勉強してきたし、一応クッキーのご主人ということになっている。だから、エミは毎日自分がクッキーのタスマを握るんだと主張する。しかし、可愛がり方は幼いなりに、負けずにクッキーのことが大好きなナナが、それでは黙っちゃいない。じゃあ、朝はエミ、夕方はナナとか。朝はナナで夕方がエミとか。いろいろ協議した結果、1日交代でやろうということになったはずだった。少なくとも、私が知っているのはそこまでである。スィテの門をくぐろうとしたところで、私はエミの行く手を阻み、こういった。「ナナとの約束はどうなった?今日はナナの番じゃなかったっけ?ナナにタスマを渡しなさい」と。すると、先ほどから虫の居所の悪かったエミは、突然タスマを手放した。慌ててタスマを引き寄せた私は、さすがにカッときてエミを叱りつけた。「タスマを突然離したりしちゃダメでしょ!クッキーが道路に飛び出したらどうするの!?」エミも負けじと「どうせクッキーは私の犬じゃないよ。アンネとナナの犬でしょ!」と捨てゼリフを残し、スィテの玄関に向かって駆け戻っていく。「そうね。自分で散歩を放棄したいのなら、そうしなさい。あなたは家に戻ってていいわ」とエミの背後から聞こえるような大声で言うと、私はナナとふたりで散歩に出た。(家に帰ったら、お仕置きしてやるんだから!エベ・ゲルディーミズデ・ジェザー・ヴェレジェイム!)さて、散歩から戻り、いざ10階の我が家に着くと、鍵穴に鍵が入らない。エミが内側から自分の合鍵を差し込んで、他の鍵を受け付けないようにしたのだった。私は、いつのまにこんな小知恵が回るようになったのかと舌を巻きながら、チャイムを鳴らし続け、ノッカーを叩き続けた。しばらくドアの前での攻防戦が続いた後、ドアの傍までやってきたエミは、きわめて不機嫌な声で「ドアは開けないからね!アンネとナナは今日は外で泊まりなさい!」と怒鳴る。私もしばらくは説得を試みたが、私の血を見事に引き継いで頑固なエミは、まったく聞く耳を持とうとしない。そこで私は作戦を変えることにした。「じゃあ、分かった。私たちはクッキーと一緒に下に降りるわ」エレベーターの中で、私は苦々しい思いで、思わず呟いていた。アッラハ・ジェザー・ヴェレジェッキ!(アラーが罰を与えるだろうよ/神様のバチがあたるよ)1階まで降りた私たちは、しばらく外で暗くなるまで待った後、玄関脇にある配電盤のスイッチを全部下ろし、エミが一切の電気を使えないようにした。以前にも立て篭もり行為に出たエミに試したことのある、燻り出し作戦である。やがてエミは怒り泣きしながら階段を下りてきて、私たちの横をものすごい勢いですり抜けると、駐車場に停めてある鍵が閉まらなくなっている夫のポンコツワゴンの中に立て篭もった。このようにカッカきているエミは、どう説得を試みても聞き耳を持たない。私はしばらく放っておき、エミが十分に心細くなったところで、話をしに車のところへ行くつもりだった。クッキーの足を洗ってやり、エサや水のチェックをして部屋に落ち着かせた。ナナはオトゥルマ・オダス(居間)でテレビに齧りついている。周囲の物事をあるべきところへ落ち着かせた後で駐車場に降り、ポンコツワゴンの中で横になってすねているエミのところへ行った。エミは「今日はここで寝る」と言い張ったが、「誰かが車を開けて入ってきたらどうするの!」と家に戻るよう説得した。そして、夕方のあの態度のわけを問いただす。しかし、いつも通り特別な理由なんかないのだった。肩をすくめてプイッと横を向くだけのエミ。私はエミでもナナでもどちらでもいいから、散歩をさせるために下に連れて降りただけで、エミに散歩をさせないと言ったわけではない。しかし、ナナとの約束がある以上、それを守らないといけないということ。タスマを急に手放すのはとても危険だということ。クッキーの散歩をさせられなかったのは、誰のせいでもなく、いきなりキレて怒鳴り、散歩を放棄するようなエミ自身の態度が原因だということ。など、なるべく客観的にあのときの状況を振り返り話して聞かせた。そして一緒に家に戻りなさいと、手を引き、無理やり自宅に連れ帰った。エミは反省するそぶりもなく、家に入るなり子供部屋に閉じこもり、中から鍵までかけてしまい、中からワーワーと怒鳴っている。私は部屋の鍵は持っていたが、いずれにせよ何らかのジェザー(罰)を考えていたので、自分から閉じこもったのをこれ幸いと、外から「夕食はなし。明日の朝までそこでそうしていなさい」と言ってキッチンに行き、遅い夕食の支度を始めた。散歩の後、エミとのいざこざがあって、時計はもう8時半にもなろうとしていた。そのうち、子供部屋からエミの叫び声と、ドアをドンドン叩く音が聞こえはじめた。様子を伺う限りでは、トイレか何かの理由で、エミが外に出たくなったらしい。しかし、鍵がなぜか開かなくなったのだった。私は落ち着いた声でエミに声をかける。「どうしたの?外に出たくなったの?」エミは半べそをかいたような声を出す。「出たいけど、カギが開かなくなったのよ~!」「トイレなら開けてあげるけど、トイレなの?」エミは口籠もってわけを言わない。やっぱりトイレなんだろう。私は鍵を持ってきて鍵穴に差込み、回してみた。しかし、何度試みても、途中で引っかかってそれ以上回らないのだった。強く回しすぎたかなにかで、締め付けすぎてしまったのだろうか。私はドライバーを持ってきて金属性のドアノブの部分を外してみたが、無駄な場所を外したことがすぐに分かった。これはたぶん、専用の道具がないと開けられない。やーれやれ。自分で閉じこもったつもりが、閉じ込められてしまったか。しかしこれは、どうかすると厄介だぞ。すでに土曜の午後8時半過ぎ。カプジュがこの時間に駆けつけてくれる鍵屋を知っていればいいのだが・・・。イシテ・アッラハ・ジェザー・ヴェルミッシュ。。。(ほらね。アラーが罰を与えたんでしょうよ。。。)私はエミを必要以上に興奮させないよう、声をかけた。「カプジュ(住み込み管理人)を呼んでくるから、そのまま待っていなさい」エレベーターで1階に降り、さらに階段を降りて地下にあるカプジュの家のドアを叩いた。家はシーンとして、ドアの前に靴ひとつ置かれていなかった。カプジュは留守だった。確か携帯番号が1階のエレベーターの横に書かれてたっけ。私は携帯をとりに10階の家に戻り、エミとナナに帰ってくるまで待つようもう一度声をかけて、エレベーターに乗った。エレベーターは、いつも通りゆっくりと降下していった後、突然ズンと軽い衝撃があって止まってしまった。いったん電気が切れた後、すぐに電気は戻ったが、ドアは開きもしないし、どのボタンを押してもピタリと止まったまま動き出す気配もない。私はエレベーターの中に閉じ込められてしまったのだった。いつも応援ありがとうございます。まるで悪夢のような悲喜劇のような展開に自分でもビックリ。続きが気になる方、クリックもよろしくお願いいたします♪人気blogランキングへ
2006/08/26
憂鬱な顔で順番を待つクッキー@ヴェテリネールにて(怖がってカフェスから出て来ない)2度目の予防接種が終わり、ようやく外出の許されたクッキー。昨日はお散歩デビュー!の日であった。クッキーの毛色に合わせて購入したばかりのオレンジ色のタスマ(リード)を着けて、まずは家の中で慣らし。次にエレベーターで下まで降り、へっぴり腰で5段ほどの階段を下りた後、スィテの庭で好きなところへ行かせてみる。あっちこっち動き回り、嗅ぎ回るクッキー。車には何度も乗ったことがあるので、駐車場の景色や車、タイヤの臭いはもう馴染みだろうと思うが、草の匂いを嗅ぐのも、柔らかくて気持ちいい草の上を走り回るのも初体験。スキップするように跳び回っているクッキーを見ると、こちらまで嬉しくなってくる。短い予行練習が済んだところで、スィテの外へ。タスマの持ち方や散歩のさせ方については、事前にネットで勉強済みである。タスマを握るのは、上の娘エミ。怖がって外に出たがらない仔犬もあると読んでいたので、クッキーはどうかと危ぶんでいたが、何の心配もなかった。実に嬉しそうに、シッポを振り振り進んでいく。初めてのお散歩ということで、コースは短くし、スィテの周囲を一周させるだけで終わりにした。これから数日かけて少しずつコースを長くしていくことになる。トイレは、まだ外でするということが分からないので、できないようだが、他の犬のオシッコの臭いを嗅いだり、コースが長くなるにつれて、できるようになるのだろうか? (至急、これについても、勉強しとかないと。。。)まあ、気長に見守っていこうと思う。ところで、エミの同じスィテの遊び友達で2歳上のオズレムは、6ヶ月になる漆黒のラブラドール・レトリバー「ノーベル(ノーベル賞から名をとった)」を飼っているのだが、クッキーと一緒に散歩させたくて仕方ないらしい。オズレムと仲がよく、ノーベルの散歩にもしばしば付き合っているエミも、一緒に連れ出したいと懇願する。体格も大きく異なるし、初日とあって様子が分からず、昨日は断ったのだが、今日は時間を同じくして、近くまでなら同行しようと許可を出した。ヴェテリネール(獣医)ではもちろん出くわしたことはあるが、実生活の中で初めて出会うよその犬。しかも、体格は何倍も大きい。他の犬に対しどういう反応をするか、気になったこともあるし、視覚的にも嗅覚的にも少しずつ他の犬に慣れさせる必要もあって、小手試しと許可したのである。スィテの庭で待ち合わせ。ノーベルを認めたあとも、事態が飲み込めないクッキーは、まだシッポを楽しそうに振り続けていたが、ノーベルがクッキーに勢いよく近寄っていこうとしたので、クッキーも急に恐れをなし、一目散に元来た方向へ、階段を駆け上がってスィテの玄関口へと逃げていった。ははは(苦笑)。ちょっと可哀相だが、シッポを巻くという表現がピッタリのクッキーであった。それからは無理強いせず、同じ道をノーベルが先に行き、その50mほど後をクッキーについて行かせることにし、途中でノーベルを置き去りにして、私たちは先に引き上げてきた。お散歩デビューの記念写真をぜひ。と思ったのだが、動きがチョコマカと細かく活動的なので、なかなかピタリと撮れなかったのが残念。とりあえず、こちらがお散歩途中のクッキーの表情。今日で生後3ヶ月と5日になり、こうして見ると、いつのまにかお姉さん?らしい顔立ちになった気がしている。 ノーベルがいるので、不安げな表情のクッキーこれから1年365日。酷暑の日も暴風雨の日も(?)、クッキーの散歩という日課が待っているんだなあ。。。娘たちが一人でも連れ出せるようになるまで、アンネは頑張らないと。いつも応援ありがとうございます。クッキーもいよいよお散歩デビュー!これから何が待ち受けているのでしょう?今後も折を見て、クッキーの最新フォトをお届けする予定です。ご覧になりたい方はポチッとクキッと、お願いいたします♪人気blogランキングへ
2006/08/26
慣れとは恐ろしいもので、この夏一番の酷暑も2日目になると、「今日は昨日よりマシじゃない?」なんて思えてくるようだ。確かに、朝は昨日より気温が低かったし、吹く風も昨日より涼しい。そんな気がしていたのだが。。。ひょっとして自分で自分を慰めていただけなのだろうか?トルコ大好きで、毎日のようにトルコのニュースに目を配ってらっしゃるアイシェさんが、昨日の記事に対して下さったコメントで、慌ててHurriyetのウェブページを覗いてみたら、本日のアンタルヤはなんと!50℃まで気温が上がっていたらしい。こちらをご覧あれ!(画像は、Hurriyetより借用)場所は、アンタルヤの中心街、ジュムフリイェット大通りに面したアンタルヤ県庁。その玄関口の上に、電光掲示板が設置してあり、現時点の気温、湿度がリアルタイムで表示されるようになっているのは、前々から私も気がついていた。バスで目の前を通り過ぎる際、必ず目をやる癖もついている。その電光掲示板が、本日午後0時39分には気温50℃・海水温30℃・湿度89%を指しているのが、写真にハッキリ写っているのだ。アンタルヤ湾の断崖の上に位置するアンタルヤのチャルシュ(商店街、繁華街)は、真夏は確かにひどく蒸し暑い。それも、異常に熱い。アスファルトに熱され、ビルとビルの間を吹き抜け、吹きつけてくる熱風は、さながら温風ファンヒーターの吹き出し口の前に立っているような錯覚を呼び起こすほど。竈の口を開けた時に吹き出る熱風のよう、といってもいいだろうか。これは、経験した人なら分かってもらえると思う。数年に1度、50℃を記録する日があるらしい。だから、50℃と聞いても、「そうか~!50℃まで行ったか」くらいで、あらためて驚いたわけではない。海風の通る私の住む地区では、もちろんそこまで上がっているわけではないと思う。来客の準備で、11時-12時の間にミグロスに買い物に出た時は、確かに焼けつくようにヒドい熱気ではあったが。(かくも、慣れとは恐ろしい。。。)ちなみに、不快指数を計算してくれるページがあり、本日この時刻の不快指数を計算してもらったら、このような結果だった。不快指数:118体感:「暑くてたまらない」暑くてたまらない?そんなの、当たり前だろうが!(語彙が貧困すぎやしないか!?)とケチをつけたくなった。ウィキペディアの「不快指数」の項によれば、体感は5ポイント刻みで、85以上は一緒くたに「暑くてたまらない」に分類されてしまっている。もともと米国で考案された指数だというし、このように100を越えるようなケースを想定していないのかもしれないが、もう少し丹念に分類してくれた方が、面白かったなあ。。。まあ、度を越した暑さの表現なんて、そうそう見つからないのだろうが。。。(猛暑とか、酷暑とか、その程度だもんね。。。)このところ毎日、私の口からも、「死にそーっ!」なんて陳腐な言葉しか出てきやしないのだし。※トルコを旅行中、特にエーゲ海岸~地中海岸~東南部を旅行されている方々。もしくは近々旅行予定の方々。日中の外出は、必要がない限り避けたほうが賢明です。ハードなスケジュールの場合は今一度見直され、天候と体調に合わせたゆったりしたスケジュールに変更された方がいいでしょう。ホテルも、もしエアコンなしの安いホテル、ペンションを予定されているなら、少し頑張って、エアコン付きのホテルを選んでください。エアコン付きの施設がまだまだ限られるトルコでは、エアコン付きのホテルの一室は、暑さからの貴重な避難所になるはずです。いつも応援ありがとうございます。記録的な暑さにみまわれているアンタルヤ。そのお陰で、ブログの更新だけは妙にはかどっております(苦笑)なにしろ、何処へも行けませんから(^^;)アンタルヤの今日の暑さにビックリした方、クリックもよろしくお願いいたします♪人気blogランキングへ
2006/08/21
昨日の日曜パザールで、私は ある野菜を狙っていた。もし見つかったら、コーンや芝エビと一緒に掻き揚げにしたり、冷や汁にしたり、色々楽しもうと思っていたのである。しかし、今週は影も形もなく、ひょっとして場所を間違えているかなあ~と、先週見たあたりを何度も行ったり来たりした。が、結局見つからなかった。ケシケ、先週買っておけば!しかし、その時は、その得体の知れない雑草のような植物が、日本でも真夏によく食べていたその野菜と同一のものだとは、全く気付かなかったのである。ふと目に留まったその野菜。初めて見るような、至るところで見る雑草のような。ざらっとした細い葉は、明るい緑色をしていて、小さな黄色い花もついている。高さ30~40cmほどの束になったそれを手に取り、鼻を近づけて臭いを嗅いでみるが、臭いは全くない。「これ、どうやって食べるの?」と農家のオバチャンに訊くと、オバチャンは脇にあったバーミヤ(オクラ)を指差して説明を始めた。「バーミヤみたいに、イェメッキ(おかず)にして食べると美味しいんだよ。バーミヤみたいに粘りが出てね」「へえ。。。」私は気乗りがしないまま、写真だけ撮り、名前を訊いた。「ムルギーヤ」「えっ?ムル。。?」「ムルギーヤ」「ムルギーヤ?ムルギーヤ、ムルギーヤ。。。」自宅に帰ったら辞書で調べるために、私は忘れまいと頭の中で繰り返した。しかし家に着いたときには、案の定すっかり忘れてしまっており、かろうじて最初の3文字M、U、L=ムルの音だけが、手掛かりとして私の耳に残っていた。私は写真をセラップにも見せて、「ムル」で始まる名前なんだけど、知らないかと訊いてみた。しかし、セラップも知らないという。そして、そのまま昨日まで、その野菜のことはすっかり忘れ去ってしまっていた。昨日、パザールに出掛ける段になって、あの先週見た野菜のことが記憶に蘇ってきた。今週もあったら、試しに買ってみようかな。オクラみたいに粘りがあるなんて、どんな感じになるんだろう?つらつらと、そんなことを考えるうち、突然閃いた。ああ!あれは!もしや!?私はインターネットですぐに調べてみた。葉の大きさに違いがあるものの、葉に入った溝状の縞といい、ざらっとした感じといいよく似ている。そして鍵は、小さな黄色い花だった。それは、こちら。(画像は、先週の日曜パザールで撮影)この写真を見ただけで、すぐに分かった方はいらっしゃるかな?日本で普通売られているものは、緑の色が濃く、葉の形ももう少し膨らんでいる。私は、1週間も気付かなかった。この野菜とは。。。 そう、モロヘイヤ!!である。モロヘイヤはエジプト原産ともいわれ、栄養価に富む、別名「王様の野菜」。私の中でも、モロヘイヤ・スープはじめエジプトを代表する野菜という位置づけであった。モロヘイヤという名は、アラビア語のムルキーヤ(mulukhiyya)という名称がなまったものらしく、エジプトあたりからそのまま種が輸入されたと思われるトルコでは、いまだ市民権を得ていないため、アラビア語の名称そのままで呼ばれているのだろう。私には、ムルキーヤが「ムルギーヤ」に聞こえてしまったというわけである。それにしても、トルコでモロヘイヤが見つかるとはなあ~。手に入らないとなると、急に食べたくなるんだから、困ったものだ。嗚呼!ケシケ、ケシケ。先週買っておけばよかった!いつも応援ありがとうございます。モロヘイヤも、いまや日本にすっかり定着しましたね。今頃、皆さんは、あのヌルヌル・ネバネバで食欲増進?しっかり食べて、夏を乗り切ってくださいね!人気blogランキングへ
2006/08/21
私の持つ「体感温度計」によれば、今日は間違いなく今年一番の「酷暑日」であった。(40℃を越える日は、本当はなんと言うんだろうか?)今年は、「過去4年で最も暑い夏」なのだそうだから、さしずめ、「過去4年で最も暑い1日」ということになるだろう。(インシャッラー!明日以降、さらに暑くなったりしませんよう。。。)私がトルコに移住してからは、2002年の夏に、アンタルヤで最高気温45℃、湿度90%を記録した日があったのだが、その夏は日本に帰国してインターネットのニュースで知ったので、私が過去5年間に経験した中でも、今日が最も暑い日のうちに数えられると思う。今日、トップページに表示されている、アンタルヤの日中の気温をご覧になった方はいらっしゃっただろうか?午前10時にはすでに39℃まで上昇し、日中の気温は、40-42℃を維持。午後6時を廻って、ようやく39℃にまで下がったのだが、いずれも測候所の気温であって、市内および海岸近くの気温を反映しているわけではないことを思えば、実際我が家の周辺では45℃前後まで上がっていたのは間違いない。しかし、この猛暑はなにも、アンタルヤだけに限ったことじゃあなかった。天気予報を見る限り、トルコ全土が燃えるように暑かったはずである。まずは、こちらをご覧あれ。トルコ時間、午前8時の予報(画像はいずれも、www.wunderground.com/global/TU.htmlより借用)トルコ時間、午後2時の予報こんな風に、真っ赤っ赤だったのである。エーゲ海~地中海、東地中海~シリア国境は、軒並み40℃前後まで上がったようだ。暑かった!とにかく暑かった!!(「暑」と書くより「熱」と書く方が相応しいが)どこに逃げようと、熱気・熱風はどこにでも侵入し、どこまでも追いかけてくる。こんな日は、窓を閉め切っていた方がかえって涼しく感じられるくらいだ。エアコンのある部屋に籠もって、特別な用事がない限り、出歩かないのが一番。戸外の猛暑のせいで、エアコンの効きが悪いのは別にしても。とはいえ、今日は近所で開かれる日曜パザールの日。ちょっと狙っているものがあるのと、切らしている野菜や果物の補充のために、仕方なく午後5時を廻ってから出掛けた。ショルダーバッグの肩紐にまで熱が籠もっているため、背中が熱い。じりじりと肌を焼く太陽と息詰まるような熱気に、着くまでにぐったりとしてしまう。しかし、ぐったりしているのは私だけではなく、肝心の野菜もであった。サラダ用に欠かせないマルル(ロメインレタス)なんか、小さくて先端が茶色く変色したものが1個1YTL。日本で一般的な丸いレタスなんか、これまた小さくて萎びているのに1個2.5YTL!である。青物屋に文句を言うと、「暑過ぎるからね~。仕方ないのさ」という。「じゃあ、いらない。トマトとキュウリでも食べるわ」と捨てゼリフを残し、ぐるっとパザール内を巡回したのだが、めぼしいものはほとんど見つからず、果物だけ何種類か買い込んで帰ってきた。行って帰ってわずか3~40分ほどなのに、40℃を越す熱気の中の外出の影響は、自宅に戻ってからも簡単には消えなかった。近所のミグロスで買い物もあるのだが、こちらは陽が完全に落ちてから出掛けることにした。本当に、暑い1日である。 皆さんは今日1日、どうやって過ごされましたか?いつも応援ありがとうございます。本当に暑い1日でした。お蔭さまで、私の方は体調万全です。皆さまも、暑い折柄、どうぞ体調にお気をつけください。人気blogランキングへ
2006/08/20
スイカにメロン。来客用に、朝食用にと、安価な上に大人数をまかなえて、なにかと大活躍するトルコの真夏の味覚。我が家でもなるべく常備するよう心掛けているのだが、8月も半ばに入り、とっくに飽きてしまったのも事実である。前回の夫の滞在中、9kgの大玉スイカを気前よく買ってしまったが、夫が日本へ発つと丸々半分が残ってしまい、娘たちにしても私にしても、いまや見るのも億劫という有様。結局、外側から腐りだし、義妹にでも見つからないうちにと、こっそりゴミ箱に捨てたりして。。。。(これは内緒!)しかも。かくもスイカやメロンを頻繁に購入すると、もれなくついてくるのは、大量の皮(kabuk/カブック)!スイカの皮(karpuz kabugu/カルプズ・カブウ)!に、メロンの皮(kavun kabugu/カヴ゙ン・カブウ)!いざぎよく捨ててゴミ箱をパンパンに膨らませたって構わないのだが、根が貧乏性で、ものを容易に捨てられない私。この皮をなんとかできないものか?と考えたとき、私の頭には即座にあるものが浮かんだ。私が陰で「貧乏人のジャム」と呼んでいるスイカの皮のジャム(karpuz kabugu receli)がそれである。トルコ全土で広く作られているかどうか知らないが、野菜と果物の宝庫、地中海沿岸地方では、青イチジクのジャムや乾燥イチジクのジャム、橙の皮のジャムなどと同様、農家や田舎の家庭で昔から作られてきたジャムのひとつになると思う。とはいえ、私がスイカの皮のジャムを実際にいただいたことがあるのは、ただ一度きり。しかも、ジャムというより「水飴漬け」という方が近い強烈な甘さに辟易して、一口食べたあと、コムシュ(隣人)か誰かに差し上げてしまったため、形、味など、ほとんど覚えていない。いくつかのレシピに共通するのは、石灰水(生石灰?消石灰?)にいったん漬けて型崩れしないようにすることと、スイカの皮そのものの香りや色がさえないために、着色剤で赤い色をつけたり、カランフィル(丁子、クローブ)で香り付けをしたりすること。しかし、石灰や着色剤、丁子などは、手に入れるのが面倒な上に、そういうもの自体、私は好きじゃない。そこで、私風のスイカの皮のジャムを、なるべく手を加えない自然なかたちで作ってみよう、ということになった。まずは、試作1回目。レシピでは、砂糖はスイカの皮の重さの1.5~2倍!!(こりゃあ~、甘いはずだ!)私は、普通の果物のジャムの場合、砂糖は果物の重量の40%を基準にしているので、とりあえず40%でいってみる。皮は、一番外側の硬い部分だけ剥ぎ、内側の薄い緑色の部分を使う。皮には、薄っすら赤い実の部分が残っていたが、削り取らないでそのまま使ってみることにした。切り方は、いくつかのレシピによれば、カボチャのように大きめの角切りにするのが普通のようだが、私は細く4~5mmくらいに刻んでみた。そして、着色料を使わない代わりに、朝食時に食べて残ったスイカの実を絞ってジュースにし、加えてみることにした。薄っすらピンク色になればいいなあ~と思って。そして、出来上がったのがこちら。写真では、シロップがトロッとして結構美味しそうに見えるのだが、実は、皮の内側に残った赤い実の部分が、まるで血のように真っ赤で、ちょっと気味悪い。酸味のない素材なので、甘みはかなり強く感じられる。しかし、以前食べたスイカの皮のジャムなんて、こんなものじゃなかったし、トルコなんだからこの程度の甘み全然大丈夫と思えば、夫も娘たちも一口食べて「甘すぎ」とのたまった。試作1回目から2日ほど後、朝食に出した残りの皮で、2度目の試作に挑戦。前回「甘すぎ」の評価をもらったので、今回は砂糖は30%に抑え、型崩れしないよう厚めに刻み、シロップを少なめにカラッと仕上げようと、ジュースは加えなかった。で、出来上がったのがこちら。甘みはちょうどいい感じだが、食感がこう・・・なんというか「瓜の奈良漬」に近くなってきた。同じウリ科なんだから、当たり前なんだが。スイカの皮はもともと味がないものだし、私としては、どう頑張ってもこの程度と思っていたのだが、先日エダ一家とセラップ一家が泊まっていった際、朝食に出したら、セラップの長女エスマは一口食べて「イ~レ~ンチ!(気持ち悪い、ヤな味)」とほざきやがった私の作る塩分控えめの食事や糖分控えめのジャムやケーキを大抵は気に入ってくれるセラップまでもが、「スイカの味がしない。どうしてこうなるの?」と驚いている。私はさすがに内心「ムッ」となったが、他にどんな工夫ができようか。やはり、石灰水に漬けたり、丁子を加えたりしないといけないのだろうか?こんなことがあってから、3度目の試作には当分乗り切れなさそうな私である。先日も、イスメットがパザールで買ったスイカの皮が厚みがあって、いかにも「ジャム向き」で、いったん取り置いていたのだが、翌日になっても気力が湧かず、結局捨ててしまった。そのうち、気を取り直したら、「決定版。スイカの皮ジャム」を発表できるかもしれない。それまで、気長にお待ちください。****さてさて、一方のメロンの皮はどうなった?甘く熟れたメロンの皮は、ほとんど使える部分は残ってないものだが、これまたセラップたちが滞在している際、朝食用に切ったメロンの皮が相当厚く、即座に何かに使えないものかと取り置いた。その時、頭に浮かんだのは、パザールで見かけたこちら。ケレッキ(kelek)。未熟な赤ちゃんメロンで、トゥルシュ(ピクルス)用である。青くて硬い赤ちゃんメロンがトゥルシュになるのなら、同様に青くて硬いメロンの皮だって、トゥルシュになるんじゃなかろうか??セラップに「ケレッキのトゥルシュってどう?美味しいの?」と訊くと、「私は食べたことないけど、美味しいらしいわ」という。それなら、とにかく一度試してみよう。セラップのアドバイスで、1.5~2cmくらいと厚めの短冊切りにし、瓶いっぱいに詰めて上からウズム・スィルケスィ(ブドウ酢)を注いだ。セラップが、硬い方がいいから、リモン・トゥズ(レモンなどから抽出した酸を結晶化したもの)を1個ずつ入れなさいとアドバイス。トゥルシュは普通、何日か室内やバルコンに出しておいて自然発酵を待つようだが、外気温があまりに高く、メロンは腐りやすいかもしれないので、室温で放置せずすぐに冷蔵庫に入れた。そして、3日経ったのがこちら。本邦初(たぶん)!メロンの皮のピクルス(kavun kabugu tursusu)。今のところ、時々取り出して味見をしてはいるのだが、酸っぱいだけで、これという特徴がない。リモン・トゥズを入れたせいか、硬いままだし。。。はっきり言えば、美味しくない。やはり、発想が失敗だったのだろうか?ハチミツや香辛料などをうまく加えたら、メロンのほのかな香りは生きてくるような気はするのだが。。。今頃になって、他に調理法、利用法がないか、ネットで調べてみている。すると、メロンの皮は、紫外線でできたシミに効果がある、というではないか!それは、まさに私にうってつけ!メラニン色素の多い私の肌には、アンタルヤ移住以来、次々にシミが出来て、困っていたのだから。そうと知っていれば、トゥルシュになんか挑戦しなかったのに。。。メロンの皮は他にも、料理を煮る時に一緒に入れると、早く煮えるのだそうだ。私は試してみる気はないが、どなたか試してご覧になった方、ご報告よろしくお願いいたします。そうそう。シミの方は早速実験してみるつもり。こちらは、そのうち経過報告をアップできるかも?乞うご期待!いつも応援ありがとうございます。けったいなことしてるなあ~と、感心された方も、貧乏な性格を気の毒に思われた方も、よろしければ、ご一緒にクリックお願いいたします♪人気blogランキングへ
2006/08/19
翌朝、娘たちの声で目が覚める。イスメットの声も。子供たちを海に連れて行こうと言っているのだった。水着とタオルを用意してやり、子供たちを送り出した後、朝食の支度。彼らが海から帰ってくる前に、セラップやエスマにはシャワーを使ってもらう。居残り組の大人4人が先に朝食をとり終わった頃、ちょうどチャイムが鳴ってイスメットと娘たちが帰ってきた。それに続き、アダナを前夜、夜行バスで出発したエダも到着。シャワーを浴びて出た娘たちとイスメットとエダに7人で一緒に朝食をとってもらう。そして。朝食を終えるか終えないかのうちに、潔癖症で掃除魔のエダの目が光った前回のウサギ事件で外して洗ったカバー以外は、昨年の夏以来娘たちの手によって汚され放題だったソファーのカバー。これを全部外して洗ってあげようというのだ。一度では洗濯機に入らないので、2度に分けて。その間に、ぬるま湯に洗剤を溶かし、外せないソファーの外枠や台座の汚れを擦り取る作業。ソファーは全部動かし、いつのまにか後ろや下に溜まってしまうゴミや埃の掃除と床のモップ拭き。壁一面を覆う棚の扉の拭き掃除。オトゥルマ・オダスが終わったところで、次は彼らが滞在中最も好んで座っているバルコンの洗い掃除。ここは、ウサギの他、ビニールプールもあるために、肝心のガーデンテーブルは隅の方で埃をかぶっていた。内装工事の点検のため自宅に戻ったセラップを除いても、エダの他にブルジュ、エスマという若い助っ人がいるので、私はキッチンの片付けに専念していた。ようやく手が空き、私は何をしようか?と訊くと、「新聞を全部まとめて、外に出して頂戴」という。私の悪い癖で、読みきれていない新聞をもう何か月分もキッチンに溜め込んでいたのを、エダが見逃すわけがなかった。しかしこれには、「今は時間がないから」と言い逃れ。そろそろ、クッキーの予防接種のためヴェテリネールに出掛けなければならなかったのである。私が出掛ける時、エダは「私が冷蔵庫の中もきれいにしておいてあげようか?古くなったもの、たくさんあるでしょう?全部捨ててあげる」とニヤッと笑った。そうなのだ。エダは、我が家の冷蔵庫の中に、賞味期限切れの食品やしなびて腐りかけた野菜が後生大事にしまわれているのをよく知っていた。私はこれにも、「後で私がやるから」と慌てて首を横に振った。エダがどこもかしこもきれいにしてあげようというのは、有難い反面、自分の日頃の怠慢、恥を晒すようなもの。また食事作りと洗濯だけで目一杯なのに、仕事は倍増、疲れが増幅するだけなのは、過去に何度も経験済み。エダは、自分がいる間に、隅から隅まできれいにしてあげようと躍起になるのだが、日頃ぐうたらな私には、かえって重荷だった。人数が増え、それでなくても家事量が2倍に増えているというのに、それ以上の家事をこなす気力が私には残っていないのだ。ヴェテリネールまで1時間半で往復し、4時に自宅に戻ると、1回目のソファーカバーの洗濯が終わって干してあり、2度目の洗濯機が廻っていた。それが終わると、通常の洗濯物。結局この日は、3度洗濯機を回した。前夜のトゥルルやピラフ、ジャジュックなどが結構残っていたので、他にサラダをたっぷり用意しただけで、遅い昼食とし、昼食後はセラップを迎えがてら、セラップの自宅近くで開かれる月曜パザールで買出しを行うことに。すでに我が家の冷蔵庫はカラッポで、夕食の支度にも困るほどだったのである。イスメットが、急に泊まることになった遠慮からか、至るところで気前よくお金を出し、さらにはバルブンヤ(ヒメジ)だといって行商人が売り歩いていたビニール袋入りの赤い魚を、中を確かめもせず2キロも購入。真夏に、身元の知れない行商人の売る魚など、間違っても買ったことのない私は、一瞬不安に狩られたが、イスメットは「目を見れば分かる。新鮮だよ」と言う。なにより魚はご馳走。あとはサラダでも用意すれば立派な夕食になるなあ~と、私も敢えて口を挟まなかった。ところが。。。。家に持ち帰ってみたら、ビニール袋の外からでも、なんだか臭う。いざ、お腹を開こうとすると、もう臭いがプンプン。出刃包丁の先を腹に当て切り込むと、とけた腸が流れ出してくるほどそれでも、身の方はまだ大丈夫そうだし、状態のいいものがいくつかあって、よく洗い、油で十分から揚げすればいけるのではないかと、鱗を打つ係りをしてくれているイスメットとふたり、ひたすら2キロ分の魚と格闘を続けた。しかし、ほとんど腹を開いたところで、食品の鮮度にも神経質なエダから、「全部捨てて」の指示が下る。子供たちが中毒でも起こすと大変だというのである。それももっとも。しかし、イスメットが20YTLも出してくれた魚がオジャンになり、同時に「お魚の夕食」も夢と消え、私はいつまでも後ろ髪引かれていたイスメットがゴミ袋に魚を詰め、通りにあるゴミ箱まで捨てに行くと同時に、私は急遽夕食の代案を考えねばならなくなり、困ってしまった冷凍庫にあるのは若干の挽肉と、鶏の腿肉。パザールから帰ってきたのが7時。魚と格闘しているうち、すでに時間は8時近くなっていた。解凍の時間を節約するため、凍った挽肉を直接フライパンに投入。結局、クイマル・マカルナ(挽肉入りのマカロニ)とサラダ、セラップのリクエストで前夜と同じジャジュックという、またも簡単な夕食と相成ってしまった食後は、同じくパザールで大量に購入したトウモロコシ。トルコのトウモロコシは、種類や土が違うからか、収穫の時期が遅いのか、日本の甘くて瑞々しいトウモロコシに比べると、恐ろしく硬い。実家で、母の育てたハニーバンタムのもぎ立て・茹で立ての味を知る私に言わせれば、ブタのエサ(失礼!)に思えるほど。なので私は、柔らかくて甘い出走りの頃にしか買わないのだが、イスメットは「美味しいよ~」と言って12本も買ってしまった。圧力鍋で茹でると、柔らかくて美味しいのだという。さて、我が家に圧力鍋はないので、普通の大鍋で茹でることにしたが、セラップのやり方を見て、オヤッと思った。トウモロコシがかぶるくらいの大量の水を注ぎ、水から入れて煮始めるのだ。そして、茹でること40分!これならどんなに硬くたって柔らかくなるはず。茹で上がったトウモロコシを味見してみると、なんだかトウモロコシという気がしない。なんだろう?と思ったら、「豆」によく似ていた。ヒヨコ豆でも食べているような味わいなのだ。トウモロコシが大好きだというエスマが早速かぶりつき、「チョック・ギュゼ~ル!!(すっごく美味しい!!)トウモロコシの味がしてる!」というのを聞いて、またもや目を丸くした私。そうか~、こういうトウモロコシしか知らないんだ。日本のトウモロコシを食べさせたら、どんな反応をするだろうと、興味が湧いた。歯ごたえのある豆やナッツ類の好きなトルコ人だから、意外に不評かもしれないが。こうして2晩目もなんとかこなし、その翌日。エミとナナのバドミントンのレッスンのある日。エレナたちが今日は発つので、一緒に海に行けるのも最後と、レッスンは休み、前日に続き子供たち全員イスメットとエダに海に連れて行ってもらった。朝食の支度の一方、1回目の洗濯機を回す。人数が多いので洗濯物の量が増えている上に、海から帰ってきた後のビーチタオルや水着、前日洗い残したソファー用の装飾用カバーまである。結局この日も、3度洗濯機を回すことになった。助かったのは、エダ自身があまりやる気を出さなかったこと。本気になったら家中のカーテンも外して洗おうと言い出していたことだろう。何ヶ月も洗っていないカーテンは薄っすらグレーに汚れていて、エダが見逃すわけはないと思ったが、時間も限られていて、目をつぶることにしたのだろう。前日同様、居残り組。海から帰ってきたイスメットとエダ。その後シャワーを終えて出てきた子供たちが順番に朝食をとり、片付けが一段落したところで、私には家中の掃除が待っていた。真夏とて、窓という窓が開け放してある上に、人数が増え、毎日掃除機+モップがけをしても、すぐにゴミだらけ、埃だらけになる我が家。前日、あれほどピカピカに掃除したオトゥルマ・オダスすら、歩くと細かいゴミと埃が足の裏にくっつき、キッチンに至っては、落としたパン屑から何から、足の裏にべったりと張り付くようで、気持ち悪くて仕方ない。そこで再び、家中の掃除機+モップがけ。これらを全部済ませていると、いつのまにか時計は1時を回っていた。セラップを自宅に送っていったイスメットが戻ったら、私たちは出発するから。セラップの娘たち3人もその時家まで送っていく。そうエダは言うのだが、イスメットは一向に戻ってくる気配もない。私は、昼食の支度をどうしようか迷っていた。3人分と10人分とでは、大きな違いがあったから。とりあえず、冷凍庫の鶏腿肉を取り出し、レンジでの解凍をはじめた。同時に、茹でて冷凍してあったクルファスリエ(白インゲン豆)を解凍し、ピヤズ(白インゲン豆のサラダ)を作ることに。さらに、冷めても美味しく食べられるズッキーニのトマト煮込みの準備も始めた。準備開始から約40分。ズッキーニとピヤズは完了したが、鶏肉はようやく完全に解凍できたところだった。そこへ、エダが顔を出した。「イスメットが来たから、私たち行くわね」私はちょっとホッとしながら、同時に、これだけ時間をかけて、いまだ食事が完成していないことに後ろめたさを感じていた。「あともう少し待ってくれれば、食事ができるんだけど・・・」するとエダは、「ううん。セラップのところでクスル(挽き割り小麦のサラダ)を作ってるっていうから、あちらで食べるわ」そう言われて、ようやく気が楽になった。車のところまで見送り、エダやブルジュ、エレナと両頬をくっつけて別れの挨拶を交わす。今度はいつ、やってくることやら。夫がいる間は遠慮して来ることはないだろうし、次回はセラップの家に滞在するはずだろうから、我が家に泊まることはもうないかもしれない。ご馳走らしいご馳走は何ひとつ用意できなかったし、もてなしらしいもてなしも何ひとつできなかった。。。私がしたことといったら、掃除と洗濯だけだったなあ。。。。車の後ろから手を振りながら、嵐のようにやって来て、再び去っていった義妹一家を、はじめて心落ち着かせて見送ることができた私であった。いつも応援ありがとうございます。掃除・洗濯ばかりの2日間に疲れました。怠け者め!とお叱りの方もあろうと思います。お疲れさま!と思ってくださる奇特なお方、よろしければ、クリックの方もお願いいたします♪人気blogランキングへ
2006/08/15
(※前回の日記の続きが残っていますが、ご容赦を。こちらの日記をアップした後で、そちらも至急仕上げる予定です)嗚呼。やっぱり疲れたなあ。。。反動で、今も身体がだるくて仕方ない。****今日の午後、一番上の義妹エダ一家と、一番下の義妹セラップ一家が引き取っていった。エシキシェヒルに住むエダ一家。イスケンデルンからこの夏アンタルヤに引っ越してきたセラップを頼ってやってきたのだが、セラップの家の内装工事がまだ終わらないため、やむなく我が家に滞在することになったのである。彼らはセラップの家にいったん立ち寄った後、オリンポス~アランヤなどでターティル(休暇)を過ごしてから、エスキシェヒルに戻る予定だという。トルコではあくまで普通。しかし、私の大の苦手な、突然の来客。ことの初めは、日曜日、午後6時45分。前回の日記の続きを仕上げようとパソコンに向かっている時、セラップから電話がかかってきた。「イスメット(エダの夫)たちが来たんだけど、エレナ(エダとイスメットの次女)がそっちに遊びに行きたいというの。私たちも一緒に来ようと思うんだけど、大丈夫かしら?」私は冷や水を浴びたようにギョッとして、訊き返した。「イスメットたちが」セラップ「そう。イスメットにブルジュ(エダとイスメットの長女)、エレナの3人」私「・・・エダは?」セラップ「明日の朝、アダナから着くのよ」私「・・・そう。。。」セラップ「で、都合はどう?うちの工事が終わってたらよかったんだけど。彼らも、工事が終わってると思ってたらしくて。私にもスプリズ(サプライズ)だったのよ」私の頭の中は、当然パニックひとつは、あまりに突然すぎて、正直、迷惑以外の何ものでもなかったし、例によって家の中は荒れ放題だったから。日頃、来客もないし、来るとしてもすでに気心の知れたセラップと娘たちくらい。掃除・整頓の苦手な私は、この日はキッチンの床掃除をしただけで、他の部屋は手付かずのまま放ってしまっていた。日曜ということで、パザールの買い出しの後、ヨーグルトと黄桃のタルトを焼いてお茶にし、あとは日記の残りでも仕上げてから簡単な夕食の準備をしようと、のんびり構えていたのである。もうひとつは、夫が実の妹エダと仲違いをしており、家には2度と入れないと宣言していたから。2005年の正月にエスキシェヒルのエダの家を訪問した後、夫からはもちろん、向こうからも連絡ひとつなかったのである。それが先々週のこと。夫のもとへイスメットから久しぶりに連絡が入ったという。アンタルヤに遊びに来るとは特に言ってなかったらしいが、連絡してくるということ自体、きっと遊びに来たいんだろうと読めた。しかしセラップの家はいまだ完成せず、他に親戚もいない。どうするんだろうね~、と夫の顔を伺うと、夫は「ノーノー。泊めたりなんかしないよ。エダだって、うちになんか来るわけない!」と首を思い切り横に振っていたのである。私は、一瞬迷った後に、覚悟を決めた。他に、どう言えるだろう?私「もちろん、おいでよ。で、何時頃になるの?」セラップ「夕方よ、夕方」私「・・・・で、食事はしてから来るの?それともこっちで食べる?」セラップ「う~ん、様子次第ね。来てから、考えましょう。じゃあね」電話が切れた後、私のパニックは収まるどころかエスカレート。何から手をつけていいのか分からなくなった「夕方あ!?もう7時だよ!夕方でしょう?朝から電話してくるならともかく、どうして今頃!?なんてこった!!」私は、彼らが夕食を済ませてから10時頃に来ることを祈りつつ、とりあえず、彼らの寝泊りすることになるだろうオトゥルマ・オダス(居間)とサロンの掃除に大至急取りかかった。掃除機を出し、娘たちの散らかした小物だのゴミだのに悪態をつきながら、手当たり次第に片付けていく。終わったところからモップがけ。しかし、サロンの掃除機がけが終わり、モップにかかったところで、チャイムが鳴った。娘たちのどちらかが帰ってきたんだとばかり思えば、なんともうセラップたちが着いてしまったのであるわずか30分の猶予。。。悲壮な顔をして掃除にかかっている私を見て、どうやらセラップもビックリしたらしい。なんと声をかけようか、という顔付きで、私の頭の先から足の先まで眺めながらサロンに入ってきたセラップは、「イスメットたちは、友達のところに会いに行っちゃったわよ」と、少し安心することを言ってくれた。とりあえず、オトゥルマ・オダス、サロン、バーニョ(バスルーム)、トルコ式トイレまで掃除が終わると、一息するまもなく、夕食の支度。まあ、急な訪問だし、近い親戚なんだから、できるもので容赦してもらうしかない。パザールに行って来たばかりというのに、娘と家族3人分しか頭になかったから、冷蔵庫にある素材は限られていた。つくづく、朝から連絡があったなら、ミグロスに行ってお肉でも仕入れてきたのに、と思う結局、セラップの手を借りて、鶏肉入りのトゥルル(野菜たっぷりの煮物)と、ピラフとジャジュック(薄めたニンニク入りヨーグルトにキュウリのみじん切り、ディルやミントを加えたもの)という簡単な食事を用意。食事の支度が整ったところで、タイミングよくイスメットとブルジュも到着した。イスメットとブルジュにとっては、我が家訪問は初めてになる。これで大人は、イスメット、大学生のブルジュ、セラップ、9月から高校生になるエスマ、私と5人。子供は、上から5年生になるエレナ、4年生になるエミ、3年生になるスリア、2年生になるナナ、1年生になるギュライと5人の娘たちが勢揃い。食卓は、大人数で一度に座れないので、最初に子供たち。その後で大人と、2回に分けて用意することになった。食後には、たまたまパザールで買ってきていた種無しブドウ、黄桃、残っていたスモモを盛り合わせて出す。その後で、もちろんチャイ。子供たちを寝させ、クッキーとウサギの食事を用意し、サロンに布団の支度を整えた後、バルコンで語り明かすイスメットやセラップたちを尻目に、私にはキッチンでまだまだ仕事が残っていた。30分しか猶予が与えられなかったので、とても手の廻らなかった、普段から物だらけのカウンター上の片付けと、1週間も磨いていなかったコンロ周辺の掃除である。11時半にようやくそれらの仕事が終わると、汗だらけになった身体をシャワーでさっぱりとさせた後、夫にメールで「イスメットたち来る」の報告。その後、子供たちがお腹を冷やさないか見て回り、クッキーの相手をし、トイレの交換などをして、床に就いたのは1時を回る頃であった。(後編につづく)いつも応援ありがとうございます。こんなわけで、しばらく更新が滞ってしまっていました。続きも順次更新していきますので、また遊びにいらしてください。クリックの方も、よろしくお願いいたします♪人気blogランキングへ
2006/08/15
(※夢に終わったターティル(休暇)たち・その2から続けてお読みください)チャーラルジャ村もまた、ゲイックバユル同様ヤズルック(夏用の家、別荘)用の小さなヴィッラが点在していた。中には石壁と鋳鉄製の門扉も美しい瀟洒なつくりのヴィッラもある。沿道に止まっている車は、もちろんトラックや耕運機ではなく、アンタルヤ・ナンバーをつけた普通の乗用車である。小さな村をあっというまに通り抜けると、ギョズレメジ(ギョズレメというトルコ風クレープを焼いて売る店)のおじさんが言ったとおり、アスファルが終わって石ころ道になり、その道は森の中へ続いていった。ここまでのあいだに「トレベンナ」を示す看板はひとつもなかった。次々現れる2差路のいったいどっちへ進むべきか。右か左か。登りか下りか。「どっちなの!?」夫が焦った声で訊く。「私だって、分かんないよ!」あてずっぽうに進路を取っていくものの、不安は募るばかり。「こんなことなら、村で誰かに案内役を頼めばよかった。。。」悔やんでも、後の祭りである。やがて道は急勾配になり、私の胸には暗い不安が押し寄せてきた。道を間違えている可能性の方が高いのに、この後切り返しもできない隘路になったら、いったいどうすればいいんだろう?「ねえ。もういいよ。今のうちに引き返そう」カーブのところで道がちょうど膨らみ、Uターンするのにちょうどいいポイントだった。夫は、ここまで無駄に車を走らせてしまった私を責めるでもなく、「じゃあ、戻るよ」といって来た道を元に戻り始めた。来るときは道を探すのに一生懸命で、眺めを楽しむどころではなかったが、ふと目をやると、右手遠くにはトレベンナのアクロポリスと思しきテーブル状の丘が見えていた。夫にお願いして車を止めてもらい、写真を撮った。トレベンナの右手にはスィヴリダー(尖山)が、しかし反対側から見るのと違って柔らかい輪郭を見せて聳えていた。トレベンナ遠望スィヴリダー遠望車を再出発させ、さきほどの湧き水のところまで戻ってきた。私たちの車を認めると、ギョズレメジのおじさんは、「おや」というような顔をして手を挙げた。私は車を降りると、まっすぐにおじさんのところに寄った。「途中で諦めたわ。道が分からなくって」そういうと、おじさんは驚くようなことを言うのだった。「ああ。それがな。あそこは実は立ち入り禁止区域なんだよ。ジャンダルマ(憲兵隊)の管轄でな。今までにも入ろうとして捕まった者が何人かおる」私はビックリしておじさんに文句を言った。「言ってくれればよかったのに!知ってたら最初から行かなかったわ」「すまん。すっかり忘れてたんだよ。あんたたちが行った後で思い出したんだ」いまだ本格的な発掘の始まっていないこの手の遺跡は、管理の目が届かないため盗掘されやすい。なので、ジャンダルマの管理下に置かれているということなのだろう。いずれにせよ、早いとこ引き返しておいて正解だった、ってことだ。私たちは、もう一度湧き水で足を冷やし、それから一路、もと来た坂道を下っていった。お肉をたらふく食べるつもりで、ギョズレメに手をつけなかった私は、お腹が急に空いてきた。目指すは、マンガル・レストラン(バーベキュー・レストラン)!目星は、来る途中でつけておいた。庭に子供用の遊具があって、遊具に目の届く場所で食事できるところ。クッキーのカフェスを横に置いても誰にも迷惑のかからない、チャルダック(あずまや)式のところ。レストランに到着した。時間はすでに3時を廻り、後で1組の家族が来たことを除けば、私たち以外に誰も客はいなかった。メニューはというと・・・超シンプルだった。クズ(ラム肉)しかないという。それにトマト、ピーマン、たまねぎを一緒に炭火で焼き、脇に添えてくれる。あとできるのはサラダくらい。私は、失敗したなあ~と思う。以前、行ったことのある他のマンガル・レストランでは、メゼ(前菜)は何種類もあったし、お肉もキョフテや鶏手羽など何種類も選べたのである。レストランの格が違うのだろうけれど・・・。自分で焼くか、どうするかと訊かれて、迷うことなく「焼いてもらう方」を選んだ。大抵のトルコ男性と違い、夫は「マンガルのできない男」。誘われてマンガルに出掛けたとしても、どっかり座ってオシャベリしながらビールばかり飲んでいるようなタイプなのである。私は、せっかくの外食なのに「焼きかた」になんか廻りたくはなかった。様子が分からないので1キロ頼んでみたが、骨付きなので食べられるところは少なく、家族4人ではさすがに少なかった。私と夫はビールとパンでお腹をようやく一杯に。久しぶりに思いっきり焼肉!と思ったのに、遠慮しながらのマンガルは妙にもの侘しかった。どこに行くにも、何をするにしても、最近の私たち一家は貧乏性がなかなか抜けないのであった。そんな中でクッキーだけは、自宅からタッパーに入れて持ってきた、鶏の胸肉と野菜をマカルナ(ショートパスタ)と一緒に煮た特別食を食べた後、木々の間を渡ってくる涼しい風に吹かれながら、カフェスの中ですやすやとよく眠っていた。それからまっすぐ自宅に戻ると、夫はビールが効いて即、昼寝。娘たちはスィテの庭に残って、暗くなるまで友だちと遊び疲れ、私も、普通のなんでもない日曜の午後に戻っていった。こうして、なんとなく不完全燃焼に終わってしまったけれど、わずか半日のささやかな休暇は、ちょっぴりのマジェラ(冒険)気分と、気分転換をもたらしてくれた。本格的な休暇と、本物のマジェラを体験できるのは、私たちにはまだまだ先のことになりそうである。いつも応援ありがとうございます。そのうち、オンボロワゴンを買い換えたら、ヤイラに再挑戦だもんね!焼肉だって、自宅でリベンジだーっ!(涙)私の願いが叶うよう、クリックでの応援もよろしくお願いいたします♪人気blogランキングへ
2006/08/11
(※遡ること、6日日曜日の日記です)夫と、父親と過ごす最後の日曜日。2週間もあったのに、一緒に出掛けた先は、カレイチの地所かヴェテリネール(獣医)か海しかなかったなあ。そういえば、今回は外食も1度きりだった。せめて今日くらいは、昼食を外でとっても、罰はあたらないだろう。先日、ヒュリイェット紙金曜版の第1面に掲載されていた、「海の幸トップ10」つまり海鮮料理の美味しいレストラン上位10店をまとめた記事の写真を見て、しばらく食べてなかったイカが無性に食べたくなった。炭焼きでもフライでもいい、食べた~い!このトップ10に唯一アンタルヤからランクインした「UGURCAN BALIK」は、いつも車で前を通りながら気にかかっていたレストラン。いいなあ~、魚料理食べたいなあ。。。。あのレストラン、まだ行ったことないし。いや、でも私たちには高嶺の花だしなあ。。。(タメ息)そこで、次に思い出したのが、チャクルラル(Cakirlar)の沿道に並ぶマンガル・レストラン(バーベキュー・レストラン)。最近、自宅では野菜中心のヘルシーな料理ばかり作っているので、久しぶりに思いっきりお肉が、それも自宅ではなかなかできない炭焼きで食べたくなってきた。マンガル・レストランの広い庭なら、足元にクッキーのカフェスを置くこともできるだろうから、ヴェテルネールに連れていった後、自宅でひとり留守番させずとも、一緒に連れて行ける。そこまで考えたところで、ついでにチャクルラルから山を登って行った先にあるゲイックバユル(Geyikbayiri)あたりまで涼をとりに出掛けるアイデアが浮かんだ。さらにゲイックバユルから上に登れば、毎年夏に大規模なヤイラ・シェンリイ(高原祭り)の開催される、地元アンタルヤのヤイラ(高原)として有名なフェスリカン・ヤイラス(Feslikan Yaylasi)に至る。果たして夫のオンボロワゴンでどこまで辿りつけるか分からないが、マジェラ(冒険)気分を味わうのが好きな私は、早速夫に「ヤイヤに行こう!ヤイラに!」と宣言した。あらためてルートと距離を地図で確認し始めた私の目に、ゲイックバユルのすぐ南にハラベ(遺跡)を示すシンボルが描かれているのが留まった。トレベンナ(Trebenna)とある。どこかで名前を見かけたことはあったが、こんなところにあったのか。早速資料を引っくり返し、概要を調べてみる。行き方は、ゲイックバユルを通り抜け、さらに南1kmにあるチャーラルジャ村(Caglarca Koyu)の中を通り抜けて辿り着けるとある。チャーラルジャから先は、地図ではっきりと道が描かれていないので、そこまで車で行けるものかどうか分からないが、ゲイックバユルまでは以前、友人の車で行ったことがあったから、とりあえず現地に着いてから訊いてみることにした。クッキーの通院も今日が最終日。日曜日なので、診療時間は11時から1時までの間のみ。私たちは11時前に自宅を出発し、繁華街にあるヴェテリネールでクッキーの診療を済ませると、まっすぐチャクルラル方面に向かって車を走らせた。まだお腹も空いていなかったので、昼食は帰路にとることにし、チャクルラル道を通り抜け、ゲイックバユル方面に折れる。沿道にはウチワサボテンの群落。農家の人が道端で黄色く色付いたサボテンの実を売っている。前方には名前の通り尖ったかたちの山、スィヴリダー(Sivridag)が聳えている。日曜パザールで賑わう3差路を右に折れ、どんどん山道をあがっていく。夫のオンボロワゴンは、この程度の坂道でも、かなり辛そうである。これまでにも散々酷使してきたので、そろそろ寿命が尽きようとしているのを、ここ数ヶ月私たちは感じていた。やがて娘たちの「煙が出てきたよ~!」という叫び声で、車を脇に止めざるをえなくなった。煙は、以前にも同様のことがあったが、外気温の高さのためにいっこうに冷却されないエンジン(空冷式なので)の熱によって、漏れた油が熱されたために起こったものだった。小休憩の後、車の状態にいっそう気を配りながら、ゆっくり坂道を登っていく。やがて、前方にゲイックバユルの有名な断崖絶壁の岩々が見え、以前にも訪れたことのある清水の湧く空き地に到着した。周囲を緑の山々に囲まれ、遠くにはアンタルヤ平野をはるかに望むゲイックバユルは、ヤズルック(夏の家、別荘)の集まるアンタルヤ市民の避暑地となっている。最近では、定年退職したアンタルヤ市民が、暑くてごみごみとした市内を脱出し、自分の庭で野菜や果物を育てながらゆったりと生活したいと、ゲイックバユルに家を構えるケースも多い。ちなみにゲイックバユルは、世界大会すら開かれるロッククライミングのメッカとしても知られている。ゲイックバユルから、遠くアンタルヤ平野を望む(画像はwww.elbertltd.com/より借用)ゲイックバユルはロッククライミングのメッカ(画像は4点ともwww.goryonline.com/より借用) 岩の割れ目から湧き出してくる清水を飲料水として持ち帰るため、地元の人が車で乗り付けポリタンクを提げて次から次へとやってくる。訪問客をあてこんで、湧水の周りではギョズレメジ(ギョズレメ=トルコ風クレープを焼いて食べさせる店)が店を構えている。私はそんな店のひとつで、チャーラルジャ村と、トレベンナへの道を訊いた。このまままっすぐ進み、分かれ道で左に入ればチャーラルジャ村。あとは村の中を通るので、聞いてくれという。距離にして7~8kmくらいだろうといいながら、谷の向こうを指差す。まるで船の舳先のようなかたちで張り出した峰の先端近くに、テーブル状の台地が見えた。遠目にも、人工的に作り上げられた町の残骸であることが分かった。フェスリカン・ヤイラス右は、ヤズ・シェンリイ(夏祭り)のメインイベントのひとつ、オイルレスリング大会(画像はwww.ukclimbing.comおよびwww.antalyagazetem.comより借用) 一方、フェスリカン・ヤイラスは、そこからまだ17kmも先だという。しかも、フェスリカン・ヤイラスは、標高2000mを越す高原である。ここまで来るのにも息切れしながらようやくといった風情のオンボロワゴンに、これから先1000mもの標高差を乗り越えさせることは到底不可能に思えた。ヤイラはとうに諦めた私たちは、小腹が空いた時のためにギョズレメを何枚か焼いてもらい、まっすぐチャーラルジャ村へ向かった。途中、左手に開けた斜面には、ヤズルックとして建てられた3階建てくらいのヴィッラが多く点在していた。「売りヴィッラ」の看板も多い。やがて道路右手に、先ほどと同じような清水の湧く岩場が登場した。車を止め、岩や石原の隙間から湧き出る清水に足を浸してみると、さっきの湧き水より、一段と冷たい。夫と娘たちは、空いたペットボトルに湧き水を詰めている。清水の湧き出る岩場 私はここでも、ギョズレメを焼く店を出しているおじさんに、トレベンナについて尋ねてみた。すぐ先で左に入るとチャーラルジャ村。中を通り抜けて、大体15分くらいで着くんじゃないか、という。私が、こんな古い車でも行けるか尋ねると、道はアスファルトじゃないが、全然大丈夫だよ、と太鼓判を押す。それなら、やっぱり行くっきゃない!私たちは車に乗り込み、目と鼻の先に迫ったチャーラルジャ村目指して出発した。(その3につづく)いつも応援ありがとうございます。わずか半日の休暇。またしても裏切られるのでしょうか?続きが気になる方、クリックもよろしくお願いいたします♪人気blogランキングへ
2006/08/11
アンタルヤの自宅に2週間滞在した夫が、今日早朝、イスタンブール、そして日本へ向けて発った。「今回帰ってきたら、2泊3日くらいでどこかへ遊びに行こう。あなたの好きなところでいいから、プランを立てておいて」夫のいつも通りの言い回し。私は、またダメだろうなあ~と思いながらも、いそいそと候補地を選んでいた。行きたい場所は星の数ほどある。しかし毎度毎度、最後には夫の用事が押せ押せになって、完全に私たちに空けてもらえるのは1日かせいぜい2日というのが現実である。なので、アンタルヤから1泊2日程度で行って帰れる、実現可能範囲内で絞るしかなかった。そこで今回私の考えたのは、アドラサン(Adrasan)+アリカンダ(Arykanda)という組み合わせ。アンタルヤの南75km、クムルジャ半島の南端にあり、オリンポスの南7kmに位置するアドラサンは、いまだマス・トゥーリズムに陵辱されていない静かなリゾート地である。2kmに及ぶ弓なりを描く砂浜沿いに、部屋数も10~20程度の家族経営の小さなホテルが20軒ほどあるきり。アドラサン湾の眺望(画像はwww.onotel.comより借用)海もプールも両方好きな娘たちのために、プール付きで砂浜になるべく近いホテルに2泊ほどし、そのうち1日は、私の趣味である遺跡めぐりにあてる。互いに30kmほど離れたアリカンダとリミラ(Limyra)を一度に見て廻り、時間が許せば、クムルジャの北4kmに位置し、アクデニズ大学によって現在発掘中のローディアポリス(Rhodiapolis)も見学したい。こうして、娘たちの希望も私の希望も両方叶えるようなかたちで、プランをつくろうとしていたのだが・・・。アリカンダの劇場(画像はwww.tgeyacht.com/より借用)リミラのリキア式石棺(画像はwww.shoretechnology.com/より借用) ローディアポリス(画像はwww.oeaw.ac.at/klasia/rhodia/より借用)ある晩、夕食時。何を思いついたのか、夫がこんな提案をしてきた。「ひょっとして、エルカン(夫の義弟)と一緒に日本に来る?エミレーツのキャンペーンが安いからさあ。子供も安くなるなら、行けるんじゃないかと思って」日本の大学院で研究員になれるかもしれないという話があり、エルカンはこの8日にエミレーツ航空を利用して日本に発つことになっていた。当然、子供たちは大喜びである。日本に行ったら、おばあちゃん家で、あれも食べたいこれも食べたい。従兄弟のタケシ君たちと遊びたいと、目を輝かせて。私にしても、行ける可能性が出てきた途端、急に日本が懐かしくなってきた。実家の広々とした畳の上でゴロンと横になって、蝉の鳴き声を聞きながらうたた寝。母親の声で起こされて、スイカやカキ氷を食べるひと時。冷奴やトコロテン、もずくの喉越し。鰻や秋刀魚や豚肉を焼く香ばしい匂い。きっと遠い目をしていたことだろうと思う。そのとき私の脳裏には、日本の情景が次から次へと浮かんで、一瞬にしてもクッキーのことを忘れてしまうほどであった。ところがその夜遅く、ふと思い出した。ナナのパスポートが切れていることを。今からアンカラの日本大使館に行っても、再発行までに1週間はかかるだろう。本人か親戚など代理人が受け取れるだけで、郵送はしていないそうだから、再度取りにいくことを考えても、絶対間に合わない!ショック。。。翌朝、夫にそのことを告げると、夫は、トルコのパスポートなら一両日で取れるから大丈夫じゃない?という。私は半信半疑ながら、また少し希望の光を見た気がした。しかし、夫が旅行代理店に確認すると、エミレーツ航空のキャンペーンには子供料金というのはなく、大人と同じ料金になるという。それを聞いて、夫はさっさと諦めてしまったのである。ケシケ、そんなアイデア、思いつきで言わないでくれたらよかったのに!わずか半日。つかの間の夢を見た私たちであった。ところで。実は、夫は今回、カレイチで建設の終わった建物のイスカン(定住許可、使用許可のようなもの)を取るために帰国したようなものだったが、例によって、名だたるトルコのビューロクラシー(官僚主義)のため、日一日と手続きが増えてイスカン取得が先送りされていた。連日、このために駆けずり回っている夫の時間の空くのを、私たちは家でじっと待っているしかなかった。そうこうするうち今度は夫自身が、用事のためイスタンブールやアダナへの出張日程を入れてしまったのである。それでも最初は、アンタルヤ滞在の最後の週末となるこの週末を使って、希望通りアドラサンへの小旅行へ出かけようと言ってくれていたのだが、悪条件が重なって、土曜日にしか帰ってこれなくなってしまった。月曜の朝には、夫はイスタンブールを経由して日本へと発つのだから、当然、旅行はイプタル(キャンセル)となった。「9月。9月には絶対行こう!」夫は、代案として「9月説」を持ち出してきた。例年夫は、学校の始業に合わせて必ず帰国してくる。昨年もそのおかげで、夏休み最後の日々を利用して、フェティエ&オリュデニズへの小旅行が実現したのだが、今年も本当に信用していいんだろうか?「でも、夏休みが終わる前に、アンカラにも行っておかなくちゃ。パスポートはいつ何時必要になるか分からないんだから」私は解決すべきことは、先に解決しておかないと、と自分自身を現実に引き戻した。アンカラとアドラサンの両方は無理だ。すると諦めるのはアドラサンということになる。こうして、アドラサンとアリカンダの夢も、あえなく2週間で立ち消えた。「アンカラ」と聞けば、娘たちはもっと喜ぶものと思っていた。かねてから、アヌット・カビル(アタトュルク廟)に行きたいと訴えていたからである。ところが、予想に反してあまり嬉しくない表情。「アンカラにプールはある?どこか泳げるところはあるの?」とエミが訊く。そうか。1週間に1~2回は海に通い、父親にアクアランドにも連れて行ってもらったのだが、まだまだ「プールが足りなかった」らしい。「じゃあ、行きか帰りに、アフィヨンで温泉プールに入ればいいじゃない?」すかさず私が提案する。温泉好き、プール好きの娘たちは、もちろん小躍りして喜んでいる。「エキメッキ(アフィヨン・エキメイ=アフィヨン独特の大きな田舎パン)もあるし、カイマク(クロテッド・クリーム)もある。お~お!」と喜んだのはエミ。子供ながら、よく知っている。「じゃあ。。。アフィヨンを出たあと、フリーグ・ヴァディスィ(フリギアの谷=フリギア人の手になる岩を彫ったモニュメントが多数点在する一帯)に行きましょうよ。前から行ってみたかったのよ」と、しっかり私もリクエスト。ルート作りは私に一任されているから、日数さえ足りればこっちのものだ。「フリギアの谷」に点在するモニュメントの一部(画像はwww.aduybim.gov.tr/およびwww.frigvadisi.org/より借用) 今年の学校始業日は、9月18日。制服や学用品の調達などに数日を割かなければならないし、夫の仕事上の用事も多い。最低2週間は滞在してくれるといいのだが。。。。いずれにしても、まだあと1ヶ月先の話。例によって期待などほとんどできないのに、夢だけはたっぷり描くことになりそうだ。いつも応援ありがとうございます。私と一緒に、日本帰国の夢を見られた方、ささやかなバカンスの夢を見られた方、クリックもよろしくお願いいたします♪人気blogランキングへ
2006/08/07
連日、動物ばなしが続き恐縮である。が、今日はどうか聞いてやってくだされ。クッキーが我が家にやってきて、一番美味しい思いをしたのは、実はウサギかもしれない。。。バルコンとバルコンに通じる小さい方の子供部屋をクッキーに明け渡すと同時に、それまでこの小部屋で飼っていた我が家のもう1羽?の家族、ウサギが実は居場所を失ってしまった。どこかへ移す、といっても、ウサギのチシ(オシッコ)はとても臭う。おまけに、専用のカフェス(檻)でなくカゴ状の衣装ケースを代用しているために、ウサギの撒き散らすカカ(ウンチ)がカフェスの周辺にまで撒き散って、ポロポロと粒状で拾いやすいとはいえ、毎日の掃除がそれなりに大変なのである。ちなみに皆さんは、ご存知だろうか?ウサギが大変な大食らいなことを。毎日2食、ウサギの体と同じくらいの嵩のエサを、ムシャムシャムシャムシャ・・・休みもせず食べ続け食べ尽くして、それでもまだ足りないかのように、人の足音が聞こえればたちまちカフェスの端に寄ってくるし、お腹をすかせるとエサ・ハンティングのために、カフェスの外に出よう出ようとする。上記の簡易カフェスの上には板が載せてあり、その上に重石もしてあるというのに、外に出たいばかりにジャンプ&頭突きを繰り返し、できた隙間からカフェスの外に逃げ出し、子供たちの撒き散らした粘土くずを口に入れようとしていたこともあった。私はこの大食らいの家族のために、調理の際に出るトマト、キュウリ、人参の皮やパセリの茎、マルル(長レタス)の汚い外葉部分など忘れずに取っておいてやるのはもちろん、毎週パザールの青物屋でゴミ箱行きのマルルなどの外葉を袋一杯もらって帰るのだが、3日もすれば尽き、次のパザールがやってくるまでは、自分たちのサラダ用のマルルやパセリなどを泣く泣く供出するはめになっているのである。それだけ大食らいだから、当然のように排泄量もすごいのだ(涙)。というわけで、サロンやオトゥルマ・オダス(居間)、ムトゥファク(キッチン)は論外だった。結局、すでにハムスター部屋となっている大きい方の子供部屋に同居させることになったのだった。しかし、毎日カフェスを掃除しているのにも関わらず、ウサギのチシの臭いは部屋に籠もる一方。今まで小部屋に住まわせていた時は、バルコンの扉が常に開いていたから、臭いがそれほど気にならなかったのだ。ある晩、クッキーが2段ベッドの下段にまで上がってきて眠れないと訴えるナナを、大きい子供部屋にあるソファーベッドで寝るよう勧めたのだが、ウサギのチシの臭いがきつくてとても眠れないという。といっても、ウサギを他に移す場所があるだろうか?選択の余地はなかった。その晩のうちに、ウサギは風通し抜群の表側のバルコンに移すことにしたのだった。ちなみにトルコでは、夏のバルコンは立派な接客スペースのひとつである。毎日水洗いして、オープンなオトゥルマ・オダスのような使われ方をすることが多いのだが、普段来客のほとんどない我が家では完全に子供の水遊び用のスペースになっていたので、条件的には問題がなかった。こうしてウサギのカフェスは、常時日陰になっているバルコンの片隅に置かれることになった。しかし、バルコンに引越ししてからここ数日も、ウサギがカフェスから出てバルコンを徘徊していたり、開け放した扉からオトゥルマ・オダスにまで入り込んでいるのを発見して、慌ててカフェスに戻すようなことが続いた。今から思えば、板が決して動かないよう、もっと厳重に処置しておけばよかったのだが・・・・。昨夜もまた。クッキーと遊んでやった後、小部屋を出ると、廊下の真ん中にしゃがんでいるウサギと目が合った。慌ててカフェスに戻し、蓋をして、もうひとつ重石を載せた。一夜明けた今朝7時前、ナナの大声で目が覚めた。「ウサギがキッチンにいるよ~!!」ええっ、また逃げたの!?早速キッチンに駆けつけると、エミとナナによる捕り物の真っ最中だった。私は、キッチンの入り口脇に置かれてあったビニール袋に異変が起こっているのに気付いた。そこには、昨日の木曜パザールで買って帰ったものの、冷蔵庫が満杯で、一夜くらいと外に出しっ放しにしてあった野菜が入っていたのである。トマトにキュウリ、ズッキーニと茄子。見れば、トマトとキュウリのうちのいくつかが、見事にウサギに齧られていたのである。1本のキュウリは大部分が食われ、2本目にも齧った跡が残る。3個のトマトもそれぞれ半分ほどが食われてしまっていた。娘たちに代わってウサギをとっ捕まえてカフェスに戻し、もうひとつ重石を載せ、夜間は2度とバルコンの扉を開け放しておくまいと心に誓った。オトゥルマ・オダスに戻り、ふっとソファーの方に目をやった私は、思わず叫び声を上げていた。うわーーーあああああああああああーっあああああああーーーーーーーーーーっうわああああああーーーーーーーーーっエミとナナが何事だろうと駆けつけたが、私はかまわず叫び続けていた。エミが私の驚愕の表情と叫び声に喜んで、カラカラと笑い続ける。エミの笑い転げるさまを横目にしながらも、私の開いた口はそれからしばらく塞がらなかったのである。なんと。生成り色のソファーの上じゅうに、ウサギの奴は大量のカカ(ウンチ)をばら撒いていたのである。さらにご丁寧にも、背もたれの近く2箇所には、大量のチシ(オシッコ)の跡。チシは、クッションの間から下に伝わって、台座の方まで濡らしてしまっていた。よりによって、よりによって!なぜにソファーの上に!!床の上ならまだしも、わざわざソファーの上に登ってしやがるとは!人間様の座る場所を、トイレにしてしまうとは!何たる無作法者よ!!あああーーー!許せーん!「もうこうなったら、皮をはいで、焼いて煮て、食ってやるぞ!」などと悪態をつきながら、私はコロコロと乾いた黒い粒状のカカをホウキとチリトリで集めて捨てた。チシで濡れたソファーのクッション部分は、カバーのみはがしてバスルームに持って行き、バスタブの中に水を張って浸けた。カバーの外せない台座部分には、スプレー式の洗剤をかけ、上から雑巾でこすってみた。臭いやシミがどこまで取れるか分からないが・・・・。今頃になって、昔話や映画やアニメで、ウサギが決していい動物として描かれない理由が分かってきた。つい最近の映画では、『ウォレスとグローミット』という作品があったっけ。その中でウサギは、市民が丹精込めて育てている野菜畑の野菜たちを次々食い尽くしてしまう困った厄介者だった。こうして育ててみると、あらためてよく理解できる。かようにウサギは大食らいで、あくなき食欲を満たすために、ひたすら人間の手から逃げまどう動物なのである。唯一、トイレの作法に関しては、映画でも知り得ない事実であったが・・・。トホホ。お食事中の皆様は、ここからはご遠慮ください。ソファーの上に残る、ウサギのまぎれもなき痕跡と、無残に食い散らされたトマトとキュウリ。 こいつが犯人。我が家の大食らいウサギ。いつも応援ありがとうございます。ウサギの生態に驚かれた方、私の素っ頓狂な叫び声を想像して大笑いされた方、よろしければクリックもお願いいたします♪人気blogランキングへ
2006/08/04
10日前に我が家にやってきたコッカー・スパニエルの仔犬クッキー。すぐに嘔吐と下痢(血液混じり)の症状が始まったため、それから6日間、ヴェテリネール(獣医)に毎日通い、点滴まで受けて、ようやく4日前に「もう大丈夫」と通院を免れたはずだった。エサも、ドクトルに勧められた病犬食(?)である鶏の胸肉入り白飯を中心に、その中に市販のドッグフードを少しずつ混ぜるようにしてリハビリに努めていたつもりである。ウンチも少しずつ形を成し、もう1日2日もすれば完治。そう思っていた。ところが、一昨日の夜から、再び下痢が再発した。翌朝には、前回同様、血液の混じった粘液状の下痢便をするに至り、今やすっかり馴染みとなったヴェテリネールの元へ駆けつけることになった。今度の下痢の原因は、発熱。それで、あっと思った。あの寒さでお腹を壊し、風邪を引いたのだろうかと。クッキーには、山側に面した裏側のバルコンとバルコンに続く小さい子供部屋をあてがっている。トイレの必要性のため、ドアは常に開け放してあったが、一昨夜は、山側から吹いてくる夜風が冷たくて、同じ部屋で休んだエミも、翌朝起きてくると寒くて凍えそうだったと訴えたのだった。いくら毛皮を着ている犬とはいえ、身体も小さいし、体温調整がうまくできないに違いなかった。クッキーには専用のベッドも用意してあって、そこで丸まって寝れば温かいだろうと思ったのだが、甘かった。エミにしても、じきに喉が痛い、痛くてものが飲み込めないと訴えてきたほどである。クッキーもエミも、あの夜すっかり身体を冷やしてしまったらしかった。クッキーは、ペニシリンや下痢止めなど3本の注射を打たれ、自宅に戻った。薬の効果で、下痢はぱったりと止まり、夕方以降は食欲も出て、夜、今朝と少量ながら食事も出来るようになった。今日は、確認のためヴェテリネールに連れていったが、念のためともう2本注射を打たれることになった。私とクッキーがヴェテリネールから戻ってまもなく、エミの方も、喉が痛い、耳が痛いと訴えながらバドミントンのレッスンから帰ってきた。額を触ると、少し熱がある。明日、様態が悪化するようなら、エミは近くのサールック・オジャウ(保健所)に連れて行き、クッキーの方も最終確認でヴェテリネールに連れて行かねばならない。気配りが足らなかったばかりに、ふたりの「娘」を病気にさせてしまうとは。トホホなアンネ(母)である。こちらは、注射のお陰で元気になったクッキー。ちょっと恥ずかしい、クッキーのあられもないポーズ。カメラ目線と上目遣いにもご注目。 いつも応援ありがとうございます。レンズの前で妙にリラックスしているクッキーに驚くアンネです。ひょっとして、タレント犬の素質あり?親バカだなあ~と思われた方、クリックもよろしくお願いいたします♪人気blogランキングへ
2006/08/03
毎年、同じネタを取り上げて恐縮だが、8月の風物詩としてお許しあれ。地元の日曜パザールに、先週から登場しだしたのがこちら、サボテンの実。初物ウチワサボテンの実ウチワサボテンの実。トルコ語で、Hint inciri(インド・イチジク)、Frenk inciri(西ヨーロッパ・イチジク)、kaktus inciri(サボテン・イチジク)などと呼ばれる。熟すにつれ、色はピンクオレンジに変わるので、こちらはまだまだ熟していない様子。ウチワサボテンに実がなり始める頃の様子はこちら。5月末に、アスペンドスにある古代の水道橋脇で撮ったものである。 盛夏の果物といえば、まずスイカやメロンが頭に浮かぶが、ふんだんに穫れるここトルコでは、夏の間じゅう何ヶ月間も市場を占拠し、8月にもなるとかえって見飽きて、存在に気付かず前を通り過ぎてしまうほど。(ホント)値段も安く、トルコではスイカやメロンを朝食のテーブルに載せてしまうのも一般的。我が家の冷蔵庫にも、いつもどちらかが常備されている。いつでもどこでも手に入るスイカやメロンと違って、こちらウチワサボテンの実は流通量が断然少ないので、パザールや街中で見かけると、なんだか嬉しくなってしまう。8月に入らないと出回らないだけに、見ると、ああ。真夏なんだなあ~と思う。ちなみに昨年は、8月23日付けの日記で、街中で見かけたリヤカーを引いたサボテンの実売りをご紹介した。あと、半月~1ヶ月待てば、これくらいのピンクオレンジ色にまで色付いてくることだろう。 昨年、10年振りくらいにチャレンジしてみようかと書いたみたいだが、やっぱり手が出ず、結局果たせずじまいだった。毎年のようにサボテンの実を紹介しているのだから、今年こそは、覚悟して試してみるとするかなあ。。。いつも応援ありがとうございます。サボテンの実、美味しそうに見えるかな。味見してみたくなった方、クリックもよろしくお願いいたします♪人気blogランキングへ
2006/08/01
夏は保存食づくりのシーズン。料理は特別、得意でも趣味でもない。おまけに面倒なことは大嫌い、という私だが、何故かときどき保存食づくりに凝ってしまうことがある。とはいえ、一度試してみれば十分というタイプだから、後が続かないという欠点はあるのだが・・・。ブログのネタにしただけでも、例えば一昨年は、★メロン・ジャムとブドウ・ジャム★赤玉葱のジャム(1)(2)★マルメロのジャム昨年はというと、★トマトのコンセルヴェ(瓶詰め)(1)(2)★コルニション(1)(2)(3)(4)★ドライトマト(1)(2)(3)今年に入ってからは、まだ★サクランボのジャム★サワーチェリーのジャムくらいなものであるが、挑戦したいものはまだ色々あるのだ。例えば、昨年チャレンジしたトマトのコンセルヴェが重宝だったので、今年はもっとたくさん作りたい。それと、昨年、塩が足りなくてカビさせてしまったドライトマトのリベンジ。さらに、今年はいっちょ試しに、トルコ料理の「黄金の調味料」サルチャ(トマトペースト)を完熟トマトで作ってみたいと考えていたのだが。。。。残念なことに今年はトマトが異常に高く、なかなか腰が上がらない。トマトの値段が今後下がらない限り、実現はかなり無理そうだ。(私の場合は、失敗する確率も想定しなければいけないのである・・・涙)****毎年初夏になると、パザールでフェスレーエン(バジル、バジリコ)の苗を買ってきて鉢植えにし、夏の間ちびりちびりと葉をちぎっては香り付けに使ってきた。しかし今年は、そのタイミングをいつのまにか逃してしまった。なので、バジルが欲しい時は、パザールの青物屋で束で買ってくることになるのだが、大葉と同じで、冷蔵庫に入れておくとすぐに斑点が出始め、2~3日も経つと、やがて真っ黒に変色してしまう。ロボット(フードプロセッサー)をいまだ持たない私は、ジェノヴェーゼ・ソースを作ることもできないし、料理にバジルを大量に使うことがないので、残って変色したバジルはこれまではゴミ箱行きになっていたのである。そこで今年は、残ったバジルが古くなる前に乾燥させて、ドライ・バジルにすることを考え付いた。取り立てて言うまでもなく、バジルがふんだんに採れる土地にお住まいだったり、畑をお持ちで、毎年そうしてらっしゃる方も多いとは思うが、私の場合、自分でドライ・ハーブを作ることなどこれまでにない経験なのである。トルコでもっとも利用頻度の高いドライ・ハーブは、ナーネ(ミント)だと思うが、ナーネやダー・ケキッキ(タイム)は、アンネ(義母)が手作りのものを送ってきてくれるし、ケキッキ(オレガノ)も、どこのスーパーやパザールでも袋詰めのものが見つかるので、心配したことはなかった。ああ。唯一の例外はローズマリー。庭木として植えられていることの多いトルコでは、ハーブとしてはめったに流通しない。私が外出の際に一枝、二枝失敬して帰ったりするのを知った義妹が、田舎から送ってくれたのが自然に乾燥して、ドライ・ローズマリーになったのだったっけ。フレッシュ・バジルの手に入らない冬場、今まで私は日本から買ってきてもらった業務用のドライ・バジルや、それを切らしてしまった後は、地元で買ったドライ・バジルを仕方なく用いていたが、地元で売られているものは色も香りも極端に落ちるのだ。おそらく、買う人が少ないので、古くなっているのだろうと思う。さて。パザールで購入した新鮮で瑞々しいバジル。ターゼ(新鮮)なうちにスパゲッティなどに使った後、残った葉は冷蔵庫にしまわず、きれいに洗って水を切った後、オーブン用のテプスィ(トレイ)に広げた。乾いた熱風が十分当たるよう、キッチンの窓を全開にし、その前に置いた椅子の上にテプスィを置いた。 それから丸2日。熱くてカラカラに乾いた風のおかげで、あっというまに乾いてしまったバジル。手の平をすり合わせて撚るようにし、細かく砕いていくと、バジル特有の爽やかな芳香が立ち上ってきた。 香りは予想以上に強かった。市販のドライ・バジルなんか目じゃない、素晴らしい香り。こんなに簡単に成功するなんて。今まで試してみようともしなかった私がバカだった。家事の合間に、負担にならない量のバジルをちょこっと干しておくだけで、香り高いドライ・バジルが出来上がるのである。アンタルヤに乾燥した熱風の吹きつけるこの季節。身体には堪えるこの熱風を逆手にとって、もうしばらくは超簡単なドライ・バジル作りを継続してみることに決めた。いつも応援ありがとうございます。ドライバジルの爽やかな香りをモニター越しに感じた方、クリックもよろしくお願いいたします♪人気blogランキングへ
2006/07/30
元気のないクッキークッキーは、誕生パーティーのあった夜から下痢をはじめ、未消化なエサを吐き戻し始めた。翌朝になっても、元気はまるでない。鼻水も出ている。何度かこみ上げては、胃の中のものを全部吐き出そうとするようだった。まるで胃腸風邪のような症状。初回の予防注射を行ったヴェテリネールに、まずは電話相談してみた。やはり連れてきた方がいいとのこと。用事で出掛けた夫に訴えると、最初は、明日まで様子を見れば?とクッキーの様態を軽視していたが、私が断固として連れて行くことを主張したため、義弟のエルカンを迎えに来させてくれた。カレイチ(アンタルヤの旧市街)から目と鼻の先にあるウシュックラール通りにヴェテリネールはあった。ドクトルは、クッキーの口を開け、扁桃腺が腫れていることを教えてくれた。病気の原因としては、あらゆることが考えられた。ペットショップで移った可能性。環境の急激な変化。暑さ。ストレスと疲労。クッキーは抗生物質を含む注射を2本打たれ、3日間続けて通院するよう申し渡された。自宅に帰った頃には薬の効き目が現れ、活動的になったクッキーだったが、それはやはり一時的なものだったらしい。下痢・嘔吐は止まり、病時の食事としてヴェテリネールに勧められた鶏の胸肉入りご飯を、食事用スプーンで2杯くらいは食べるようになった様子を見てほっとした私たちは、水曜日の夜には、娘たちが前々から観に行きたいといっていた『LARA SAND CITY』に、クッキーも抱っこして連れて行ったが、まだ完治していないクッキーに、この外出は堪えたようだった。月齢の小さい仔犬は、とくに車酔いしやすいらしい。現地を見学し、一休憩ついたところで、午後に食べさせたエサを吐き戻してしまったのである。そして、私たちが寝静まったその夜半、血の混じった下痢を2~3度繰り返したことを朝になって私たちは知ったのであった。娘たちをバドミントンのレッスンに送った後、まっすぐヴェテリネールに連れて行くと、症状から判断して早速、点滴となった。 点滴中のクッキー木、金、土曜と、それから3日間。毎日点滴に通い、ようやく今日、針を抜いてもらうことが出来たクッキー。昨日からは食欲も出てきたらしく、朝、昼、夕方、夜と、少量ずつに分けて食事もきちんと摂れるようになった。後は明日。コントロールのためにヴェテリネールに連れて行くだけ。それでも完治とまでは行かないだろう。もうしばらく、車までの外出や、やたらと触りたがって困る子供たちには十分配慮しなければならない。実を言うと、夫の短いアンタルヤ滞在中、近場でいいから1~2泊程度の家族旅行をと考えていた。しかし、クッキーが我が家にやって来た今となっては、旅行どころか、クッキーをひとり置いての日中の外出も、当分は難しそうである。鳴いたり吼えたりすることなく、部屋でひとりきりで留守番できるよう、現在は躾の真っ最中なのだから。仔犬を飼うということを、実に気軽に考えていた夫は、クッキーを可愛がりながらも、今頃になって驚き青くなっている。繊細でちょっとしたことで病気になりやすいし、ヴェテリネールに診せるのにもいちいちお金がかかる。世話の焼ける赤ちゃん同然なのだなあと、あらためて思う。初めこそ反対だったが、今クッキーに接するたび、流産で生まれることのなかった三番目の子供(娘だったと思っている)を育てているかのような、あたたかな気持ちを抱かずにはいられない私なのである。いつもクリックありがとうございます。クッキーの元気な姿を1日でも早く見ることができるよう、クリックお願いいたします♪人気blogランキングへ
2006/07/29
将来、ヴェテリネール(獣医)になりたいという上の娘のエミは、昨年来、犬を飼いたいと繰り返し私たちに訴えていた。実は、私はそれに猛反対だった。・まずは、娘たちが犬の面倒を自分だけで見られる年齢に達していないこと。エサの準備やトイレの後始末、躾、散歩・・・・それらの面倒は、間違いなく私の仕事になるだろうこと。・今年、もしくは来年、カレイチ(アンタルヤの旧市街)の事業所がオープンした後、私はともすれば早朝から夜遅くまで仕事場に詰めることになる。そうなった時、犬の世話はいったい誰がみるのか。・犬を飼い始めたら、好きな時に好きな場所へ出掛けるということは難しくなる。日本に長期間帰国する際、また国内にしろ旅行する場合、どこに預けるのか。・病気になれば獣医に診せ、きちんと看病をしてやらねばならない。普段の健康管理にも気を配り、寿命が尽きるまできちんと育ててやる覚悟があるのか。妊娠させないための手術。あるいは仔犬が産まれた場合の世話・手続き。それらはどうするのか。経済的にも時間的にも、それを支えられる余裕があるのか。などなど、反対理由はいくらでもあげられた。しかし、トルコ人の夫は、いつもながらの馬耳東風。私のいうことを「細かすぎ」「心配しすぎ」「問題ない」「なんとかなる」と言って片付け、エミに早々に約束してしまったのである。10歳(トルコ式なので、日本では満9歳)の誕生日にプレゼントとして買ってやろうと。私はそんな夫と娘に対し、我ながら相当渋い顔をしていたと思う。しかし、父と娘の間でなされた約束については、決定的な干渉はしないことにしている私は、憂慮しつつも成り行きを見守るしかなかったのである。そしてエミの10歳の誕生日がやってきた。誕生日から3日遅れでアンタルヤの自宅に戻った夫と一緒に、先週金曜のこと、ペットショップの集まっているチャルシュ(商店街)に出掛けた。まずは、どんな犬がいいか、値段はどれくらいか、周辺グッズにはどんなものが必要で値段はいくらくらいか、事前調査をするつもりで。アンタルヤで手に入る犬種は普段でも少ない上、暑い夏の時期はさらに少なくなる。ラブラドール・リトリバー、ゴールデン・リトリバー、ロットワイラー、ドーベルマン、テリア系(正確には不明)。時にチワワやチャウチャウも見る。映画の影響で、春頃にはシベリアン・ハスキーの仔犬が相当出回っていたが、今は影を潜め、代わりにパグが多くなった。私自身は、小型で毛足の短いウェルッシュ・コーギーやビーグルなどが好み。肝心のエミは、コムシュ・クズ(隣人の娘)で仲のいいオズレムが黒いオスのラブラドールを飼っていて、一緒にトイレを掃除したり散歩に出掛けたりしているため、ラブラドールが気になっている。ゆくゆくは繁殖させようと、イエローのラブラドールかゴールデンのメスを、とまで考えていた。ペットショップを端からゆっくりと見て廻る。ゴールデンなんかも可愛いのだが、今ひとつピンとくる仔犬に出会えない。一番最後に、ハムスターの飼いはじめ以来馴染みになったペットショップで、ふと足がとまった。ケージの中に、2匹のコッカー・スパニエル。起きて動いていた仔犬は、鼻が赤いために皮が剥けたように見え、ちょっとコミック。私はその横で眠っていた一回り大きな仔犬が気になって仕方なかった。店主が仔犬を起こし、ケージから出してくれる。顔を見た途端、私も娘たちも一目で気に入ってしまった。つややかな毛並み。愛らしい顔立ち。胸に抱き寄せると、つぶらな黒い瞳でひたっと見つめてくる。この時点で、もうこの仔犬に決まったようなものだった。最初は下見だけのつもりだったのだが、あれよあれよと話が決まった。前金を置き、首輪をつけてもらい、自宅の準備や予防接種(ペットショップが獣医を呼んで最初の1回目はやってくれる)のために余裕を見て、3~4日後に引き取りにくることにした。エミはペットショップから帰るなり、オズレムから仕入れた知恵を運用し、自分ひとりで仔犬を迎える準備を始めた。バルコンに新聞紙を敷いてトイレとし、使わないオモチャ入れとして放置されていたプラスティック製の3段ボックスを仔犬の世話用グッズ入れとして用意。電気のケーブルは子犬が齧るので危ないからと取り外し、同時にテレビも部屋から運び出した。3段ボックスには、ティッシュやゴミ箱用のビニール袋、トイレ用の新聞紙、犬用オモチャなどを詰めてあらかじめ準備。後ほどペットショップで買い込む予定のエサやブラシもここに入るはずだ。最後に、インターネットでコッカーの特長を調べ、名前の候補リストからクッキーという名前を選び出した。半日でこうした準備を終えてしまったエミは、待ちきれず翌土曜日にペットショップに会いに行くほど興奮していた。エミの誕生パーティーは翌週の月曜日、つまり24日に行うことになった。そして、パーティーが終わった翌日か翌々日くらいに迎えに行こうという私たちの提案をよそに、パーティーの時には仔犬にもぜひ居て欲しいと、エミが頑として譲らなかったのである。招待するのは、同じスィテ(共同住宅)の仲良し友達と、義妹セラップの家族くらいなものではあるが、たくさんの子供たちに手当たり次第に触られ、可愛がられすぎた場合、いったいどういうことになるか。私の懸念していたことが、すぐに結果となって現れてしまった。月齢の小さな仔犬は、人間の子供以上に繊細だということを、私はそのときになって初めて実感したのである。クリックでの応援、いつもありがとうございます。クッキーのその後が気になる方、クリックよろしくお願いいたします♪人気blogランキングへ
2006/07/28
私には現在、これだけの家族がいる。満40ウン歳になる成人(♂)1人と、満9歳と6歳になる子供(♀)2人、満1歳3ヶ月のハムスター(♂)1匹、生後3ヶ月くらいの性別不明(たぶん♂だと思う)のウサギ1羽。この月曜日、そこに新たな家族が加わった。私にとっての3番目の娘。といっても、もちろん出産したわけではない。 (上ふたりの娘を出産した時、すでに高齢出産だったんだからネ)養女にもらったのである。 **** 生後2ヶ月。メスのコッカー・スパニエル。名前は、クッキー(cookie)と付けた。これから1~2回に分けて、彼女が我が家に来るまでと、現在の様子をご紹介してみたいと思う。(実をいうと、途中まで書いたところで突如停電になり、大半が消えてしまったので、書き直す時間をいただきたいのである)クリックでの応援、いつもありがとうございます。クッキーのつぶらな瞳にマイッタ!という方、クリックよろしくお願いいたします♪人気blogランキングへ
2006/07/28
今年の夏も日本へは帰れなかった。2004年の夏に一時帰国したので、たかだか丸2年のことではあるが。日本への郷愁を普段ほとんど意識していない私だが、何かをきっかけとして日本のものがふいに懐かしくなることがある。例えばそれは、匂い。皆さんもきっと心当たりがあると思う。先週の日曜パザールで、珍しいものを見つけた。 そう。何の変哲もない、生姜(ゼンジェフィル/zencefil)である。日本にお住まいの皆さんには、珍しくもなんともない食材。だが、アンタルヤに4年9ヶ月住み、毎週パザール通いをしている私でも、生の生姜を見つけたのは初めてのこと!なのだ。今まで、料理に生姜の風味を加えたい時は、日本から夫に買って帰ってもらったチューブのおろし生姜を、ちびりちびりと使っていたのである。賞味期限なんて、煩いことは当然言わない。なので、もう珍しさと懐かしさとで、果たして料理にどれくらい使えるか考えもせず、即刻購入してしまった。アフリカ産で、1キロ15YTL(約1300円)。写真の塊で、1YTL(約87円)分。自宅に持ち帰り、早速何に使うか考える。皮を剥き、鼻を近づけて匂いをかぐ。ツーンと、清涼感ある生姜独特の香り。その途端、冷奴が脳裏に浮かんだ。そう。冷やした豆腐の上に、おろし生姜と浅葱をのせて。。。。ああ。もうたまらーん!絹ごしだの木綿だのにこだわってるどころじゃない。豆腐さえ手に入ればなあ。。。アンタルヤでは、もちろん豆腐なんか市販されていない。こうなったら、アンカラの豆腐メーカーから送ってもらうしかないか。。。とりあえずその夜は、手羽先を使った残りで、冷凍庫に保存してあった鶏の手羽元を醤油と砂糖でで甘辛く煮るのに加えてみた。その後は、牛肉のそぼろや、棒々鶏用の鶏肉を茹でるために。揚げ茄子に添えてもいいし、鶏のつくね団子に加えてもいいなあ。。。冷奴こそ、いまだにありつけていないが、食卓に和食や中華の乗る回数が急増中のturkuvaz家なのである。夏にピッタリの生姜の香り、せっかくだから目一杯味わおうと思う。****夏は花火のシーズン。ここアンタルヤでも、夏になると海岸沿いで毎週末のように花火(havai fisek/ハヴァイ・フィシェッキ)が打ち上げられる。日本でも、今頃は全国各地で大規模な花火大会が開催されていることであろうが、アンタルヤのしょぼくれた花火を眺めながら私が思い出すのは、決まってふるさとの小さな花火大会である。日本海岸に面した港町の近くに生まれ育った私は、毎年7月の終わりに港で開催される花火大会を幼心に非常に楽しみにしていた。娯楽などのあまりない時代である。花火の絶好の鑑賞ポイントになる埠頭までの道には夜店が並び、花火のお土産には必ず馥郁とした香りを漂わせる白桃を買って帰ったことも、甘い記憶となって残っている。トルコに移住してから、日本の実家へは、娘たちの学校の休みを利用して2002年と2004年に帰省した。私の生まれ育ったふるさとで、娘たちにぜひとも経験させたかったのが、地元の花火大会であった。地元の商業・漁業関係者の出資によるものなので、規模は大したものではないが、ほんの目と鼻の先で打ち上げられるために、あたかも頭上から星が降ってくるような、流れ星の大群を目の前にするような迫力と臨場感に溢れているのが、私の密かな自慢なのだった。物心ついた頃から、大学入学と同時にふるさとを離れるまで見続けた日本の花火の魅力を、日本よりトルコでの生活の方がすでに長くなってしまった娘たちにぜひとも知って欲しくて、2度とも花火大会に合わせて帰省したのであった。娘たちは、ひょっとしたら私ほど興奮していなかったかもしれない。きっとそうだろう。高校卒業後、ふるさとの花火を観るのは、私にとって20数年振りのことだった。 私と同じように、日本の夏を懐かしく思い出した方、クリックよろしくお願いいたします♪人気blogランキングへ
2006/07/23
2日前に我が家に拾われてやってきた海の星(ヒトデ)。来た日の夕方には、見事な水中ダンスを披露してくれたのだが、その後の衰弱振りは目に余るものがあった。エサに関する知識としては、大学で海洋生物学を学んだという夫の義弟エルカンを頼りにしたのだが、貝だけでなくタコも食べると聞いて、冷凍庫に後生大事にしまっておいた「高級品」のタコを思い切って解凍し、足の先端を与えてみたのに、なぜか全く無視されてしまった。冷凍もので、活きが悪かったから、いけなかったのだろうか?それとも、好物は貝だけで、タコはやっぱり食べないのだろうか?口の肥えたヤツめ。何度か口(たぶん)の近くにまで持って行ってやったのだが、管足で器用に払いのけてしまった。他にエサになりそうな魚介類も手に入らず、また少ない海水も汚れる一方。ヒトデの動きは見る見る衰えてきた。せめて、一刻も早く海に行って新しい海水を持ち帰ってこなければ。でなければ、海に返しに行くか。逡巡しながらも、なかなか機会がつかめず、今日になってしまう。そして、昨日までただの目の錯覚だと思っていたものが、今日はもう疑いようがない事実として現れてきた。海から持ち帰ってきた時点では、写真でもご覧いただけるよう、完璧な星型をしていたヒトデ。昨日、足といっていいのか、星の5つある尖がりの一部が欠けているのに気付いたいたのだが、今日外出から帰ってみたら、それとは別の足が途中からポッキリとちぎれてしまっていたのである!もしや、自分で自分の体を食べようとしたのであろうか?とっくに食べてしまったのであろうか?どんよりと砂利の上に横たわって伸びてしまっているヒトデを、恐々覗き込む。まさか、死んでしまったのであろうか?時々、管足をゆらゆらと動かしているところを見る限りでは、まだ息絶えてはないようだったが、虫の息であることには間違いないと思った。ところが、一昨日、昨日と同じことが起こった。夕方5時頃になるや、息も絶え絶えと思っていたヒトデが、ちぎれた体でまたもやダンスを始めたのである。不思議なものである。マンションの10階にいながらにして、潮の満ち引きでも鋭く感じ取っているのであろうか?「まだ、生きてるよーーっ!」私は昨夜アンタルヤの自宅に帰ったばかりの夫と、娘ふたりを呼んだ。やっぱり、海に返しに行こう!私は、ヒトデの入ったガラス・ボウルを腕に抱え、娘ふたりと一緒に夫の車に乗り込んだ。およそ5分。「私たちの海」コンヤアルトゥ海岸に着く。海風が吹いて涼しくなる夕方。浜辺は涼を求める市民・リゾート客で一杯だった。その間をガラス・ボウルを抱えて進む私の姿は、少々奇異に映ったらしい。何を抱えているんだろうと透かして見る人もいる。波打ち際には、大きな波が次々と打ち寄せていた。ショートパンツ姿の夫に頼んで、海の中まで入ってもらい、ボウルの中にあった砂利と海水と一緒にヒトデを静かに水の中に放してもらった。ジーンズの裾が濡れるのもかまわず、傷ついたヒトデを見送る娘たち。「ヒトデ、行ったーっ?」「ヒトデ、行ったのーーっ!?」海風に向かって叫ぶ私の声は、かき消されてなかなか娘たちに届かない。ヒトデの生還をしかと確認したくて、娘たちに繰り返し訊いてしまう。最初は娘たちの足元に沈んでいたヒトデだが、やがて高い波に掬われて見えなくなってしまったようだ。よかった、これで。生物の自己再生力には目覚しいものがある。きっとすぐにきれいな星型を取り戻してくれることだろう。美味しいもの、一杯食べてね。たった2日間だったが、ヒトデは私たちに小さな夏の記憶を残してくれた。胸元に光るピンブローチのように、ちっちゃい星の記憶を。そして、星が海に帰るのと入れ替わりに、私たちの元には、新たな家族がやってくることになったのである。私と一緒に、ヒトデの無事の生還を祈ってくださる方、クリックよろしくお願いいたします♪人気blogランキングへ
2006/07/21
要注意:足の多い生物が苦手な方は、今のうちにご遠慮ください。 また、食事時はお避けください。なんだか・・・これから数日は、「海の星」(=ヒトデ)の観察日記になりそうな気配濃厚である。もっとも、ヒトデが食べるのは貝やタコだということを聞いたので、早々に海に返しに行かざるをない気はしているが。トルコでは高級品のうちに分類されるだろうミディエ(ムール貝)やタコ(しかも、冷凍ものしか手に入らない)。人様の口にも入らないのに、ヒトデ様に食わせてやるほどの余裕は、我が家にはないのであった。夕方になって、突然活動を開始した「海の星」。やっぱり昼間、砂利の中に深く埋もれてピクリともしなかったのは、眠っていたのであろう。いったい、ヒトデは夜行性なんだろうか?日暮れ時になって、急に活発に動き出したとは。ヒトデを入れたガラスのボウルは、娘たちが覗きやすいよう、とりあえずダイニングテーブルの上に載せてあったのだが、あまりの興味深さに食い入るように観察してしまい、見れば見るほど気味悪くなって、夕食時には目に入らない棚の上に隔離させることになってしまった。さあ、皆さんにもご覧いただきましょう!これがヒトデによる1人シンクロナイズド・スイミングです。動画でないのが残念だが、脚の動きにご注目!(食欲減退効果の可能性があるため、サイズは小さくしておきました) スタート!→ ↓← ↓→ ↓ ← ↓→ フィニッシュ! ちなみに、前回の日記で「触手」と書いてしまったが、裏にある無数の突起は正確には「管足」というそうで、この管足をにょろにょろと動かしながら、泳いだり動いたりしているのである。体をしきりに折り曲げたり水面上に突き出したりするところが、どうしても「1人シンクロ」に見えちゃうのだが、この演技は、実際には何百本もある管足による見事な「シンクロナイズド・スイミング」の賜物なのであった。ブログ・ランキングの参加を始めました。ヒトデのシンクロナイズド・スイミングを初めてご覧になった方、クリックよろしくお願いいたします♪人気blogランキングへ
2006/07/20
娘たちのバドミントンのレッスンが(待ちぼうけを食いながらも)始まって以来、海に出掛ける日は、月曜、水曜、金曜、土曜のうち週1~2日というサイクルに収まってきた。昨年までは週に3回ということも多かったが、寄る年波には勝てない。私の体力が続かないので、雑多な理由があるのをいいことに、今年はずっとこの線でいこうと思っている。海に出掛けるのは絶対に午前中と決めている。早ければ早いほどいいのだが、そうそう早起きも出来ないので、朝食を大急ぎで準備して、せいぜい8時くらいに家を出られればいい方だ。真夏の早朝の海は、本当に心地良い。特に、風がほとんどない朝。あるいは山側からわずかに微風が吹く程度の朝。水面は鏡のように真っ平らで、湖のように静まっている。水は澄み、微風になでられた水面がモアレ模様を描き出している。それは、例えばこんな具合である。(写真はオリュデニズの海)時々、小さい魚がふくらはぎを突っつきに来ることもある。くすぐったくて、ちょっと痛い。水温は冷たさをまったく感じさせない。ぬるい温泉に浸かっているような気持ちよさである。顔だけ出して水面にぽっかりと浮かび漂っていると、地球の胎内で漂っているような気になる。こんな快感と開放感は、朝しか得られない。だから、風向きが変わって波が立ち、海の泡が岸辺に打ち寄せるようになる正午までには立ち上がり、帰途につく。と。。。これが私たちの理想なのだが、実際にはいつも思い通りというわけにはいかないわけで。先週金曜日も今日も、朝から海風が吹き付け、まだ8時半、9時だというのに、さざ波というには立派な波に身体がふわりふわりと持ち上げられて、波の苦手な私にはあまり面白くない。こんな時は、着いて真っ先に水に入り、身体を一通り冷ました後は、娘たちも呼んで朝食にする。最近のパターンは、バッカルで買ってきたポアチャ、アチマ、スィミットと、切ってタッパーに入れたトマトとキュウリ、白チーズ。スィミット用にクリームチーズをパックごと。ゆで卵を殻ごと。時々サラミやフルーツ。大きいポットに冷水。小さいポットに私用のドリップコーヒー。水の空きペットに娘たち用のジュース。朝食後は寝椅子に転がってひたすら新聞を読み、隅から隅まで新聞に目を通した後は、娘たちの様子をぼんやり眺めたり、目をつぶって海風で十分に涼む。 今日もそんな調子で、浜辺で探し物をしている娘たちを眺めていたら、下の娘ナナが「デニズ・ユルドゥズ・ブルドゥ~~ム!(ヒトデ、見~つけた!)」といって、手に大きなヒトデを持って私のところへ駆け戻ってきた。ナナの手には、体長10cmほどの大きなヒトデ。乾き死んでいるかと思えば、なんだか生っぽい。ナナが私のひざの上にヒトデを投げるように置くと、ヒトデは裏返しになり白い腹の上でたくさんの触手が動いているのが分かった。「生きてるよ~っ!」上の娘エミも、ナナも私ももちろん興奮。日本の浜辺と違い、ヤドカリや蟹のような海辺の生き物を今までほとんど見たことのない(とっても小さい蟹は以前見たことある)コンヤアルトゥ海岸で、波に打ち上げられたお陰とはいえ、生きたヒトデ、しかも体長10cmにもなる「大物」を見つけるとは。でかしたぞ!ナナ。娘たちが自宅で観察したいというので、それもいい機会かと思い、ビニール袋に海水とヒトデを入れ、もう一つ別のビニール袋に砂利と海水を入れて、自宅までそうっと持ち帰った。帰るや否や、ガラス鉢に砂利と海水を空け、その上にヒトデを降ろしてやる。娘たちに、静かにしてそうっと見ているように言うと、息をひそめひそひそ声で話す娘たち。そのうち、「アンネ~!来て」と小さい声で私を呼んだ。ヒトデは、たくさんの触手で砂利を掻き分け、やがて砂利の中にもぐって動かなくなった。眠ってしまったのだろうか? 写真を撮ろうと砂利の下からヒトデを引っ張り出し、砂利の上に置いてやったが、今度はピクリともしなかった。警戒しているのか、それとも砂利の外に出てしまったことも気付かないほど深く眠っているのか。いったん水の外に出してやると、触手を再び動かしだす。そこで砂利の上に降ろしてやると、今度はすぐに砂利の中にもぐって完全に隠れてしまった。これは、海中生物の観察という、娘たちの夏休みの自由研究(もちろん、トルコの学校にはそんな宿題はないが)にピッタリの素材が見つかったわい。問題は、海水だなあ。。。毎日、海水を汲みに行かなければならないんだろうか・・・?エサは、海中の微生物、つまり特別なものは何もやらなくてもいいんだろうか?それとも、海草や貝類?これから、いろいろとネットで調べてみなくっちゃ。いや、エミに調べさせてみよう。せっかくの「自由研究」なんだからね。こちらが、ナナの見つけたヒトデ。トルコ語でデニズ・ユルドゥス(海の星) 。できるだけ長生きしてくれるといいな。 ブログ・ランキングに参加を始めました。アンタルヤの浜辺で生きたヒトデを見つけたことにビックリした方、クリックよろしくお願いします♪人気blogランキングへ
2006/07/19
何種類もの旬の果物に恵まれたこの季節。パザールには、初夏から初秋までの果物が勢揃い。サクランボ、黒桑、スモモ、黄桃、ネクタリン、杏、メロン、スイカ、それに白イチジクやブドウも出回り始めた。キラズ(サクランボ)はそろそろ旬も過ぎ、先週からはヴィシネ(サワーチェリー)が登場。価格も、キロ1.5YTL(約100円)とお手頃である。サクランボは、6月の始めに送ってもらった夫の畑のサクランボで一度ジャムを作ったのだが、翌週もう一度送ってもらった時には、半分ほどお裾分けした後、そのまま食べるのも飽きたし、ジャムにするのも面倒くさくて、結局腐らせてしまったのだった。 (夫にも、送ってくれた義妹にも、これは内緒!)なので、もう今年は面倒な種取りともオサラバ!と思っていたが、ギリシャのごはんのsalahiさんが、ヴィシネのコンポスト(シロップ煮)について書かれた日記の中で、ヘアピンを使った種取り方法を紹介されていたのに刺激され、今年初めてヴィシネのジャムに挑戦することにした。実は、酸っぱい物が全般に苦手な私。ヴィシネも、本当いうとかなーり苦手である。トルコの食べ物で何が気に入ったって、サクランボやヴィシネ・スユ(サワーチェリー・ジュース)が一番という父親にまるきり似ず、ヴィシネ・スユは私の一番苦手なジュース。そんな私が、ヘアピンでどこまで種取りが楽になるか。これを試したいばかりに、日曜パザールでヴィシネを2キロも買ってしまったのだ。こちらが、トルコのサワーチェリー=ヴィシネ。トルコ在住のジャポン・ゲリン(日本人嫁)の皆さんは、ちなみに普段キラズやヴィシネの種取りには、何を使われてるのだろう?お恥ずかしいことに、今まで私は、ペティナイフで無残にも真っ二つに切り分けたりしていたのである。もっとも、十分に熟れていないサクランボは、それ以外に種を取り出す方法はないようにも思えるのだが。ところが。salahiさんの日記を拝見してすぐ、冷蔵庫にあった熟れたサクランボで試してみたら、あらら本当!簡単に種を取り出すことが出来るじゃないか。これなら、面倒な種取りの苦労も半減するかも?というわけで、パザールで購入してすぐ作業に取り掛かり、昨日は半日もジャム作りに費やすことになってしまった。まずは新聞の上で茎や葉を取り除く作業。次いで、水を替えながら汚れをきれいに洗い落とし、いよいよヘアピンでの種抜き作業にかかる。おっと、その前に。トルコ製のヘアピンは、使っているうちに黒い塗料が簡単に剥がれてくるのが分かったので、ジャムの中に混入しないよう前もってタワシで塗料を剥がしておいた。ヘアピンのカーブした背の方を、茎を抜いた後の穴に差しこむ。よく熟れたものだと、背で種を引っ掛けるようにするだけで、ピョンと種が自分から跳び出てくる。熟れがあまいものでも、ヘアピンの背で種の周りをぐるりと一周掻き回すようにすると、比較的簡単に外れてくれる。もちろん中には、きれいに外れず、潰れてしまうものも出たが。次々滲み出してくる紫色の果汁を服につけないよう注意しつつ、黙々と作業。ある程度溜まったら、その都度秤(1キロまでしか測れないので)にかけて測り、砂糖の量を決め、大鍋に入れておく。トルコではジャムの砂糖は、果物1キロに対し砂糖1キロ、1対1にするのが常識のようだが、甘さ控えめの好きな私は、大抵4割程度に留めている。今回も最初は4割で始めたが、やっぱりヴィシネは酸味が強いので足りなかった。途中でいったん火から降ろした後、さらに砂糖を加えたので、最終的に5割程度に収まったのではないだろうか。約半分くらいに減るまで煮詰まったところで火を止め、すぐに空き瓶に移して逆さにし冷ます。出来上がりは、500g入りの瓶で、わずか2本強。いつもながら、苦労する割にはジャムは実りが少ないなあ。。。こちらが、早速、今朝の朝食に出したヴィシネ・レチェリ。 うちの家族は、私がするのを真似て、今ではクリームチーズを塗った上にジャムを載せる食べ方がすっかり気に入っている。そこで同じようにクリームチーズと一緒にいただいてみたのだが、私にはサクランボのジャムの方がやっぱり美味しく思えた。この、ヴィシネ独特の酸っぱい匂いが、どうもダメなんだなあ。。。。夫もサクランボのジャムは、デザート代わりにそのまま口に運ぶくらいだけど、ヴィシネは果たしてどうだろうか・・・?ヴィシネのジャムを味見して、すでに残り少なくなったサクランボのジャムが惜しくなってきた。今では種取りの技も心得たことだし、もう一度、今年最後のサクランボのジャムでも作ることにしようかな。。。。* * * *ところで。。。最近すっかり澱んできたような感のある自分のブログに新しい風を取り込み、多少の気分転換を試みようと、ブログ・ランキングに参加してみることにしました。今までランキングにはほとんど関心も知識もなかったのですが、同じトルコ在住のyukacanさんやmusmulaさん、mikiさん、ギリシャ在住のchottocafeさんやsalahiさんなど、たくさんのブログ友達の方々もこのランキングに参加してらっしゃることを知り、また新しいブログ友達と知り合いになるきっかけにもなるだろうと、今ではなんとなく楽しみにしています。(ランキングに参加すると、訪問客も増えるのでしょうか??)よろしければ、どうぞお付き合いくださいませ。今日のヴィシネのジャムが美味しそうだと思われた方は、クリックよろしくお願いいたします♪人気blogランキングへ
2006/07/17
これまでの経緯をご存じない方は、まずこちらをお読みください。案の定!コーチ不在のサマースクール・その1案の定!コーチ不在のサマースクール・その2案の定!コーチ不在のサマースクール・その3今回もドキドキ・ハラハラを期待していらした方々。懲りずに闘い続けるturkuvaz像を思い描いてらした方、申し分けない。なんだか気が抜けてしまって。。。書けなかったのである。そう。4度目の正直!ようやくコーチがやってきたのであーる!(あらあ~、ガッカリ?)それも、私たちも知っているホジャ(先生・師匠)、ハサン・ベイ(氏)。エミの学校のバドミントンの練習にも何度か顔を出して指導してくれたことがあるし、大会にも必ず姿を見せている。大柄で頼りがいがあって、ユーモアに富み、子供たちを楽しませるのが得意。ほぼ理想的なコーチなのだ。実は私たちも、ハサン・ホジャだったらいいのになあ~と思っていたのだが、ハサン・ホジャが、青少年スポーツ局に登録された3人のコーチのうちの1人だとは知らなかったのである。願ったり、叶ったりではないか!過去3度、裏切られた身としては、こんなにすんなりコーチが登場して、ほんとうに大丈夫信じていいの?あとで、また裏切られるんじゃないのと不安がないでもないのだが。。。(奥さん、もうじき出産予定日だっていうし・・・)とりあえず、ホッ♪力が抜けてしまった。。。とりあえず皆様には、ここまでの慰めと励まし、本当にありがとうございました~。m(_ _)m
2006/07/13
まさか。その3を書くことになろうとは。。。月曜日。忘れちゃあいけない。今日は県青少年スポーツ局に出向き、支局長に直談判すること。そして、明日火曜日のレッスンには必ずコーチを派遣するよう約束してもらうこと。子供たちは家に残し、銀行に行く前に県青少年スポーツ局に立ち寄る。サマースクールの担当になるスポーツサービス課の扉を開けると、すでに何度も見たことのある女性職員がふたり。「支局長にお会いしたいんですが」と用を告げると、「今日はまだヨズガット(アンカラの東200kmに位置するヨズガット県の県庁所在地)で、いないんですよ」とのこと。「もう大会は終わったんじゃあないんですか?」と訊くと、「大会は終わって皆帰ってきたんですが、支局長はまだ残ってるんですよ。何ですか?バドミントンのことですか?」と問い返された。きっと、木曜日のあの電話の後、「怒りっぽい日本人」のことはこの部屋で話題になったことだろう。支局長と会うことは諦めた私は、「ええ。明日は必ずコーチに来てもらいたいので、直接お話したいのですが・・・・コーチの電話番号はこちらにはないとかおっしゃってましたよね?」女性職員は薄いファイルを取り出して2~3枚ページをめくり、「コーチの名前は、セライ・ババジャンというんですけどね。本人の番号はないんですが、ここにご主人のムラット・ババジャンのがありますから、こちらをお教えしますよ」そういって、サラサラッとコーチとそのご主人の名前、ご主人の携帯番号をメモ用紙に書いて、手渡してくれた。私は少しホッとしていた。ここトルコでは、直接押しかけると電話とでは、対応がしばしば違うのである。コーチの番号さえ手に入れば、あとはレッスンに来るにしても来ないにしても、電話でその都度確認することができる。とかくドタキャン件数の多いトルコでは、相手の携帯の番号を知らないのは致命傷。番号があって、それが正しいものなら、そのうち必ず連絡がつく。銀行から自宅に戻って落ち着いた私は、コーチのご主人ムラット氏に電話してセライ夫人の携帯番号を教えてもらった。早速セライ・コーチにかける。私は県青少年スポーツ局主催のバドミントン・スクールに登録した娘の親だと名乗った上で、単刀直入に訊いてみた。「先週は、大会があったそうでいらっしゃいませんでしたが、明日の火曜日にはいらっしゃるんですよね?」彼女は「ええ、ほら。火曜日に子供たちを教えたでしょう?その後で、ヨズガットに向けて出発したのよ。でも私はもうコーチは降りました。代わりにバシャックという友達にお願いしてありますから、明日は彼女が来ますよ」私は、意外な発言に混乱しながらも、忘れまいと訊き返した。「そのバシャックさんの携帯の番号をいただけませんか?」彼女は教えるつもりがないらしく、「私からちゃんと言ってありますから、明日は来るはずです」それ以上粘ることも出来ず仕方なく携帯を切った後で、私は落ち着いて頭を整理することにした。では、先週火曜日に偶然来たような素振りで娘たちにレッスンを授けて帰っていった夫婦のうち、奥さんが、娘たちの本来のコーチだった というわけ?でも、ご主人は「僕たちはコーチじゃない。本当はスポーツ局の方がコーチを送ってこなくちゃいけない」と言ってなかった?そうだよ!あの会話になにか不自然なものを感じたのは、それだったんだ。スポーツ局なんて言葉が出るところが、裏を知っている証拠だ。あの火曜日の時点では、彼女はもうコーチを辞退していたということになる。そうだよね。支局長に電話した時、支局長は「コーチに連絡するのを忘れた」と言っていた。彼女が大会に出るからコーチを受けられないのを支局長は知りながら、代わりのコーチを手配するのを忘れてしまったに違いない。そりゃあ、そうだよね。大会のスケジュールなんて、随分前から分かってるはずなんだから!それにしても、あの夫婦!単なるボランティアだと思って、感謝して損した。「もともと私がコーチだったんですが、大会があって教えられないので、支局長に頼んで他の人をコーチとして派遣してもらうようになってるはず」くらいの説明、どうしてできないんだろう!?元々コーチの予定で支局長とは顔見知りなんだから、支局長にその場で電話して、確認するくらいのことはできたはず。私が支局長にクレームの電話をした後、「何だって?」と知らん顔して私に訊いてくる程度の無関心ぶりだった。。。ネイセ(とにかく)。終わりよければ全てよし、というではないか。明日、代わりのコーチがちゃんと来さえすればいいのだから。****そして、本日火曜日。今日も見学のオズレムと一緒に、アイギュル夫人の車でサバンジュ・スポル・サロンへ。今日は、果たしてコーチは来てるだろうか・・・?サロンにいたのは、先週2回とも参加していた小学生のムスタファ。それと、初参加の小学生の女の子。この子は第1回目のレッスンの時に参加していた高校生の男の子の妹らしい。と思ったら、高校生の男の子はセリムという名で、実はこの6月に大学も卒業したばかりという成人だと分かった! (トルコ人も、時々は実年齢より若く見えるんだね・・・)そして、今日来るはずのコーチ、バシャックとも友達同士だという。(と言うことは、バシャックも、この青年セリムと同じくらい若いのか?もしや、第1回目の時に来ていた女の子のうちの一人?)その後、中学生のトゥーバも、従姉妹だという若い娘ベットゥルと一緒に到着した。が、9時半を過ぎても、バシャック「コーチ」は姿を見せない。この青年は、子供たちに柔軟体操やゲームを始めさせていたが、バシャックの番号を持っているというので、電話して訊いてもらうことにした。すると、「父親と喧嘩したから来れない」と言ったとか。なんだ!それはっ!?親子喧嘩がレッスンと何の関係があるのよ~っ!?来たくないがための、ただの言い訳!?そんな娘に、コーチの資格なんかないぞっ!自らも陸上競技を続けてきたというスポーツウーマンの従姉妹ベットゥルは、トゥーバから過去2回の困った状況を聞かされていたらしく、それを聞いてすぐに立ち上がり、青少年スポーツ局に行こう!あなたも一緒に、と言い出した。(さすが、スターティングが早い!)確かに。「3度目の正直」にも裏切られたのである。もうこうなったら、殴り込み乗り込んでいくしかないじゃないか!私たちは、子供たちのレッスンをセリム青年に託し、べットゥルの車で5分ほど離れた県青少年スポーツ局へ駆け込んだ。まずは勝手知ったスポーツサービス課に顔を出し、かくかくしかじかと説明すると、それならムドゥル(県局長)に直接話した方がいいでしょうという。ベットゥルは私の子供といってもいいくらいの若い娘であるが、身長も高くて押しがあるし、テキパキして切れ目なく話す。やはり、ヤバンジュ(ガイジン)の私が何度顔を出して文句を垂れたところで効果は薄いが、トルコ人と一緒に乗り込むと、物事は意外とすんなり展開するものである。ムドゥルの秘書室に入り、簡単に事情を説明し、ムドゥルと会いたい旨を告げて待たせてもらう。座ってすぐ職員たちの仕事振りが目に付いた。やっぱりメームル(公務員)、暇そうである。2人が新聞を読みふけり、1人は新聞のクロスワードパズルに集中している。およそ30分ほど待っただろうか。前の来客が退出し、私たちは中に招き入れられた。ベットゥルは、私の方をちらっと見て、先に口火を切り、私が時々補足説明をする。・サマースクール開始以来、コーチが来ていないこと。・バドミントンの腕を伸ばしたくて申し込んだはずなのに、こういう状態が続いて子供たちがすっかりやる気を失ってきていること。・1回目はコーチの手配を忘れたと言われ、2回目は遊ばせとけと言われ、今日コーチとして来るはずのバシャックは喧嘩したから来れないという。とりあえず今日はセリムが子供たちに練習させているが、もともと正規のコーチでないバシャックやセリムでは、コーチとして十分でないこと。プロのコーチ不在で、バドミントンの上達は無理というもの。・2ヶ月間、きちんとレッスンを授けてくれる正規のコーチを望んでいるということ。ムドゥルはすぐに支局長に電話して問い質してくれた。「バドミントンのコーチは誰なんだ?今日は誰が来ることになってるんだ?」電話のやり取りの中で、「ムラット」という名前が出てくる。セライ・コーチのご主人だ。ムドゥルは支局長とスポーツサービス課の職員を部屋に呼び、横にかけさせた。私とベットゥルはもう一度、簡単に事情を説明し、不満を訴えた。「どうしてそういうことになるんだ。大会があるのは確かだが、代わりの者はいなかったのか?」とムドゥルが彼らを問い詰める。職員は、ムドゥルの前ではぐうの音も出ない。支局長も、大人しく座っているだけ。セライ・コーチが開始早々辞任していることは、どうやらムドゥルには全く伝わっていなかったらしい。青少年スポーツ局に登録してある人間でなければコーチの資格はないそうで、セライ・コーチが勝手に自分の判断で他の人間をアレンジしようとしたことにも、ムドゥルは腹を立てていた。「とにかく、大至急バドミントンのコーチを手配し、レッスンさせること!」ムドゥルが最後にこう厳命したことによって、ようやく片が付いた格好になった。私とベットゥルはムドゥルの部屋を出、ムドゥルに叱責された職員に「気を悪くしないでね」と声をかけた。「いいえ、あなたたちの言い分は正しいですよ」と、女性職員も返す。局の建物を出た私たちは互いに顔を見合わせて、「良かったね、上手くいったみたい」と喜んだ。さすがにムドゥルの命令では、今度こそ彼らも無視できまい。果たして。次回木曜日には正規のコーチが登場するのだろうか!?
2006/07/11
昨晩は、遅くなってから義妹セラップ親子5人が泊まりに来て、軽い食べ物を出したりオシャベリしたりで、就寝は1時。おまけに久しぶりの濃いチャイ(トルコ風紅茶)が効いたのか、それとも義妹夫婦の真ん中の娘スリアが私とナナが寝ているダブルベッドに潜りこんできて、途中寝ぼけてナナを平手打ちしたり、脚を乗せてきたりするのを阻むためにか、私は3時頃までなかなか寝付けなかったのである。7時過ぎにエミが私の枕元にやって来て目が覚めたが、頭は朦朧としていた。エミはとっくに着替えを済ませており、髪の毛を私にまとめてもらうためにやってきたのである。スリアと末娘ギュライは、1月の滞在時に比べると少しは落ち着いた様子が見えたが、相変わらず何時だろうが食べたいものを食べ(食べさせてもらい)、寝たい時が来るまで親に小言一つ言われないで遊び呆けている。なので、夏休みに入ってからも10時には床につくエミとナナまでが、スリアとギュライに邪魔されて、昨夜は11時過ぎるまで寝付けなかったのである。ナナはギリギリまで寝させてやろうとそっと起きたつもりが、興奮状態のスリアに先に目を覚まされ、やがてギュライまで起き出してくる始末。セラップも父親のエルカンも、長女のエスマも揃って寝坊だから、まだ当分は起きてこないだろう。彼らは後で朝食を自分たちで用意してもらうとして、私はエミとナナと一緒に先に朝食を済ませ、外出の支度を済ませた。今日木曜日は、バドミントンのレッスンのある日。予定通りなら、今日こそは正式なコーチが来て、ちゃんとレッスンをしてくれるはずである。エミの仲の良い遊び友達であるふたつ年上のコムシュクズ(隣人の娘)オズレムが、エミと一緒にスクールに通いたくなったらしく、今日は見学のつもりでレッスンに同行することになった。お母さんのアイギュル夫人は車を運転するので、ラッキーなことに今日はバスを待ったり歩く必要がない。8時55分に出発し、9時ちょっと過ぎにサバンジュ・スポルサロンに到着。来ていたのは、エミと大体同い年くらいの男の子ひとりだけ。今回もまだラケットを用意していないらしく、手ぶらでポツンと彼だけが座っていた。それから30分。誰一人やって来ない。35分。中学生の女の子が、息せき切ってやってきた。ところが、またしてもコーチの陰も形もない。私はイライラしながら、県青少年スポーツセンターに電話してみた。すると職員は、「前回も話があったので、今日は来なくちゃいけないはずですが。もうじき来ると思います」という。その言葉に少々安心はしたものの、他の参加者は来ないのだろうか。コーチはいったいいつ来るのか。私は半信半疑で入り口付近で待ち続けていた。まもなく、警備員室の男性職員が私に近寄り、「今日はコーチは来ませんよ。大会があるので、子供たちは遊ばせときなさいと言ってきました」と言うではないか!なっに~!?なんだって!?私の頭は瞬時に沸騰。すぐにスポーツセンターに電話する。電話に出た女性職員に言い訳などさせまいとするように、私は一気にまくし立てた。「コーチは大会があるから来れない。子供たちは遊ばせとけって連絡があったようですが、コーチが来れないなら、代わりの人間を来させるべきでしょう?(私たちは)勝手に遊ぶために来てるんじゃないんですよ。レッスンを受けるために来てるんですよ。少ないにしてもお金だって払ってる。レッスンを受ける権利がある。中止にするなら、事前に連絡するべきでしょう?私たちは、前回も今日も無駄にここに来たっていうわけですか?」職員は私の話が終わるか終わらぬかのうちに、言葉を遮るようにして話し始めた。「あなたのお話は聞きましたから、今度は私たちの話を聞いてください。コーチから来れないという連絡もないのに、私たちがどうやってあなた方に連絡が出来ます?」私「連絡って・・・コーチの電話番号リストくらいあるでしょう?あなた方は前もって各コーチに連絡はつけないんですか?例えば前日までに、いつの何時から何時まで、どこでレッスンがありますからとか、コーチと連絡はとらないんですか?」職員「コーチのリストなんて、ここにはありません」私「ないですって!?信じられない!」職員「いや、支局長のところにはあります。コーチの手配は支局長がやってますから」私「じゃあ、支局長はいますか?」職員「今日はアンタルヤの外に出ています」私「では、支局長に訊いてください。代わりのコーチは今日は来るのか来ないのか」職員「支局長にどうやって訊けっていうんですか?」私「携帯がないんですか?あるでしょう?携帯に電話してください」職員「・・・では、電話番号を申し上げます・・・」私「ちょっと待って!それは私の仕事じゃあないでしょう!?あなた方のやる仕事でしょう?支局長に電話して、コーチに確認してもらってください。後でまたかけますから、それまでに訊いておいてくださいね!」職員「・・・・私たちの仕事まで教えていただき、ありがとうございました」ガッチャン!!なんだよ~、この言い草!頭にくる。皮肉まで言いやがって!どうなってるんだよ~一体!こんなシステムありうるかい!?日本だったら絶対ありえないぞ~!私はエネルギーをすっかり使い果たした気分になり、頭を振り振りサロンの中へ戻った。今日はもう代わりのコーチなんか来るわけないし、電話し直す気もすっかり失せていた。こいつらに何言っても無駄だ。後で支局長に直接電話してやろう。成り行きを気にしていたアイギュル夫人にも事の次第を説明し、諦めて適当に遊んで帰るしかないことを告げた。警備員室の職員が、ネットやシャトルなどの備品を出してくれ、ネットを一緒に張ってくれた。幸いにも、中学生の女の子がキャリア4年。基本は出来上がっていたから、お願いして引き止め、バドミントンが初めてのオズレムやナナ、男の子に手ほどきをしてもらうことになった。アイギュル夫人は11時半に迎えに来るといって帰っていった。30分ほど付き合って指導してくれた中学生の女の子が引き取ると、ラケットを彼女から借りていた男の子もすることがなくなり帰っていった。あとに残ったのは、エミとナナ、オズレムと私の4人。エミとオズレムは適当に打ち合いをはじめ、私はナナの「俄かコーチ」となるしかなかった。ナナには、前回の「借り物コーチ」から習ったバックハンド・サービスのおさらいをさせ、その後で、真正面から手で放ったシャトルをどれだけ打ち返せるか、簡単なレシーブの練習をさせてみた。最初は、10個放ったうちの1~2個返せればいいくらいだったのに、そのうちどんどん上手になって、7~8個まで返せるようになった。正面が終わったら、今度はフォアハンド方向に放ってみる。それが終わったら正面とフォアハンドのミックスで。10個中何個得点できるか、というゲーム形式にしたのがナナの心を捉えたようで、もっともっとと一向に終わりにさせてくれない。とうとう、私の方が先にギブアップ。睡眠不足もあってすっかり疲れきってしまった。11時半になるのが待ち遠しく、早めにシャトルを集め、ネットを片付け、警備員室に返しに行き、アイギュル夫人の到着を待つ。ふと頭に浮かんで警備員室の職員に訊いてみると、朝「子供たちは遊ばせとけ」と連絡してきたのは支局長本人だという。電話番号もあるというのでもらってかけてみたが、繋がらなかった。大方、試合中か何かなんだろう。次回火曜日には、どんな言い訳も許さないぞ~!必ずコーチを送り込んでもらうんだから。前日の月曜日に念押しの電話をかけてやろう!こうして、スポーツセンター職員との議論といい、俄かコーチといい、エネルギーを消耗した半日だった。来週の火曜日。願わくば、「その3」を書かなくて済みますように。。。。
2006/07/06
今日から、エミとナナのバドミントンのレッスンが始まる。9時からのスタートだから、8時半頃には家を出ることになる。最近寝坊気味のところ、気になって7時前には目が覚めた私と、7時半に目を覚ますや否や、すぐにTシャツ+ショーツというバドミントン用のスタイルに身を包んだエミ。昨日まで「私、バドミントン知らないよ~」とメソメソしていたナナも、8時には起きてきて、私に促されつつもお揃いのTシャツとショーツに着替えてくれた。ふたりとも長い髪の毛はポニーテールにまとめてピンク系のシュシュでとめ、カルネ(通知表)のご褒美として買ってあったお揃いのスポーツシューズで、ピンク&ホワイトのコーディネート完了である。(ふたりとも、コーディネートに異常にこだわるのだ)残っていた昨日のパンでフレンチトーストを焼き、あとはメロンという簡単な朝食。会場の近所にはバッカルはないので、冷蔵庫&冷凍庫であらかじめキンキンに冷やしておいた水を合計4本と、待ってる間の私の暇つぶし用に新聞。これらを袋に詰めて、家を出る。会場となっているサバンジュ・スポル・サロンは、車だったら5分もかからない場所にあるが、徒歩なら15~20分はかかる。私たちは、運良くスポル・サロンのまん前を通るミニビュスを捕まえ、9時5分前には会場に到着した。しかし、案の定まだ誰も来ていなかった。5分ほどすると、エミの顔見知りの女の子がやって来た。その後、ひとりふたりと集まり、最終的にエミ、ナナを含めて7人が集まった。少ないなあ~。しかも、皆大きい子ばかり。3人が高校生。1人が中学生。そしてエミより一学年くらい大きい男の子。心配していたのはナナの同年輩の子供がいるかどうかだったが、結局初心者で学年の小さいのはナナひとりきりだった。トルコ人が時間ピッタリに来ることはないとは思ったが、9時半過ぎても、肝心のコーチが現れない。私は、入り口の掲示板に貼ってあったポスターの中に、県青少年スポーツセンターの電話番号を見つけ、問い合わせをしてみることにした。オペレーターがサマースクールの係に繋いでくれたが、電話に出た女性は「支局長がいないから、分からない。後でかけなおしてください」としか言わない。諦めて携帯を切ったところへ、タクシーで乗り付けた家族連れの姿が見えた。高校生の参加者たちはどうやら顔見知りらしく、すぐに近くに駆け寄り、「ホジャム(お師匠さん、先生)」と迎え入れている。なんだ、来たんじゃないの。この「コーチ」は夫婦で、横に小さい子供を二人連れている。子供連れで仕事場に行くこともよくあるトルコ人だが、さすがにスポーツのレッスンにまで子供連れとはすごいなあ~と感心する。まもなくランニングからトレーニングが開始された。ランニングと柔軟体操の後、すでにかなりの腕を持つ高校生たちは、男性コーチと一緒に試合形式でトレーニングを始める。一方、エミ、ナナ他2名は、女性コーチからラケットの持ち方に始まり、バックハンド・サービスの仕方までの基本をまずおさらい。やることなすこと初めてのナナだが、持続力があるところが彼女の良いところ。ラケットをきちんと握るのも今日が初めてだというのに、何度も何度も繰り返すうちに、7~8回に1回から3~4回に1回くらいの割合でサービスが入るようになった。その後、ナナには休憩が言い渡されたが、私のところに帰ってきたナナは、「チョ~ク・セヴィンディム!(すっごく気に入っちゃった!)」と嬉しさを隠しきれない様子。まだまだ遊び足りなさそうなナナに、それではと私が課題を与えることにした。よくある、シャトルを落とさずに何回まで打てるか、一人でできるトレーニング法である。最初ナナは、1回も続けることが出来なかったが、私が「座って少し休憩しなさい」というのも聞かず、飽きずに何十回も挑戦するうち、こちらも最高で7回まで打ち続けることができるようになった。案ずるより生むが易し。初回にしてナナはすっかりバドミントンの虜になってしまったようだ。11時になり、ネットが片付けられ始めた。あれっ?12時までじゃあなかったっけ?女性コーチのもとに寄って尋ねてみると、ご主人である男性コーチの方がこう答えた。「本当はスポーツセンターの方で(コーチを)送り込むはずなんだよね。僕たち、出掛けるところで、ちょっと汗を流そうかって寄ってみただけなんだ」ええーっ!?コーチじゃあなかったの~!?でも、ちゃんと教えてくれたよ!?いや、それは失礼いたしましたーっ!m(_ _)mしかし、てことは、結局コーチは来てないってことじゃないの!私は、途端に頭に血が上って、すぐにスポーツセンターに電話をかけた。オペレーターからサマースクール担当へ。担当は私の剣幕に慌てながらも、「少々お待ちください。支局長に代わりますから」といい、私を待たせた。やがて男性の声が。私は「今日はバドミントンのレッスンのため7人ほどが待ってましたが、結局コーチを送ってこられませんでしたね。志のあるご夫婦が来て、その方々からレッスンを受けましたけど、次の木曜日には、必ずやコーチを送っていただけるんでしょうね!?」男性は私の名前を訊いた。エミの名前や学校の名前まで覚えていたところをみると、おそらく大会で会ったことがある人だろう。「オズル・ディレリム(申し訳ありません)。こちらのミスです。コーチに連絡するのを忘れてしまったんです」なんとまあ、珍しい。言い訳せずにストレートに謝られたので、私もそれ以上拘るのをやめ、「では、木曜日の9時に、コーチをお待ちしていますからね」と念を押して携帯を切った。や~れやれ。やっぱりだね~。初日からそんなにすんなり行くわけがないと思ったけど。。。私は、ボランティアでレッスンを授けてくれたご夫婦に丁寧にお礼を言って、スポルサロンの外に出た。まあ、ナナもバドミントンが気に入ったことだし、1日で随分と進歩して上出来だったんじゃないかな。あの夫婦が来てくれたお陰で、無駄に時間を潰さないですんだんだし。ここまで念を押したんだから、次回は少なくとも正式なコーチが来ることだろうし。エミとナナのすっきりした顔を見比べながら、意外にも晴れ晴れとした気分で家路についた私であった。
2006/07/04
朝8時過ぎ。ビニールプールに水を張ろうとバルコンに出た私は、すぐ近くで聞こえる虫の鳴き声に気がついた。あれっ?この鳴き声・・・鳴き声の出所を探して、バルコンの端に置かれた鉢に近づいてみる。そこにはブーゲンビリアの鉢がふたつ、隣同士に置かれているのだが、鳴き声はそのあたりから聞こえているのだった。そっと近づき、音のするあたりに目を凝らしてみる。いたっ!蝉だ~っ!トルコでも、盛夏になると蝉の声がどこからともなく聞こえてくるのだが、目の前で見たのは初めてのこと。体長、わずか1.5cm。とっても小さい蝉である。(ちなみに蝉のことをトルコでは、アウストスボジェイ=8月の虫と呼ぶ)蝉は、はじめジッ、ジッ、ジッ、ジッと間隔を置きながら、練習をするような音を出していたが、やがて、ジーッ、ジーッ、ジーーーーッ、ジーーーーーーーーーーーーッと例の特徴的な鳴き声を立て始めた。水道の栓を捻って、いったん家の中に入った私は、すでに起きていたエミにも「見てごらん」といって蝉を見せた後、写真を撮り、その後蝉のことは忘れてしまった。30分ほどして再びバルコンに出たときには、蝉の姿はもうどこにもなかった。10階の我が家まで、いったいどこから飛んできたのだろう?どこに飛んでいったんだろう?あっというまに旅立ってしまった、小さな小さな夏の朝のお客さまであった。(とっくにいなくなったと思ったら、午後3時過ぎ、再びバルコンから鳴き声が。我が家のブーゲンビリアが気に入ったのだろうか・・・・?)
2006/07/03
最近、トップページにアンタルヤの現在の気温・天候が表示されるようになっているのだが、昨日の気温をご覧になった方はいらっしゃるだろうか?自分で載せていながら、なんなのだが・・・アンタルヤでの観測ポイントがどこなのか知らない(空港だという説もあり)が、普通、繁華街の気温や体感温度はここには反映されない。ここに表示されている温度より、繁華街の気温は少なくとも4~5℃は高いはずなのだ。ところが、これでさえ、昨日の気温は39℃を表していた! (これはシチリア並である)つまり、市中・繁華街の気温は45℃はいっていただろう。それだけ昨日は本当に「熱」かった~!!ちなみに、この1~2週間、熱風が吹き荒れた日でも、せいぜい36~7℃までしか表示しなかった(今日も37℃どまり)のに、昨日はなんと39℃!アランヤの39.7℃、ボドルムの38℃と並んで、トルコで昨日最も気温が上がった都市がアンタルヤであった。。。ここまで熱いと、休みだからといってどこにも行きたくなくなるのが人情。地元の人々が出掛けるとすれば、冷房の効いたショッピングセンターか、でなけりゃ海しかなかろう。今日は日曜日だし、きっとメチャ込みに違いない。怖れつつも、先週の体調不良でしばらくご無沙汰していた子供たちにせがまれて、行って来ました。ちょうど1ヶ月前は、こんなに静かだったのに・・・・今日は、芋の子を洗うような状態のコンヤアルトゥ海岸。右を見ても。。。左を見ても。。。オバちゃんと子供ばっかり! (←一応、うちもそうなんだけど・・・)なぜか、トルコのオバチャマ方。浜辺で腰まで水に浸かるようなかたちでどっしりと構えて動かないのである。寝椅子に横になり、薄目を開けてふっと娘たちの方に目を遣ったとき・・・おおおーーーっ!トドが浜辺に打ち上げられてるっ!?と、錯覚したことがある。大袈裟でなく。その時は皆さん水着姿だったのだが、狭い水際でのっそりと寝そべったり腰まで浸かったりして、ゆっくりと水浴びを楽しんでいる姿は、そのものだった。今日のオバチャマ方は、皆さん着の身着のままなので、まるで川岸に集団で水浴びしにやってきた象かカバのよう。。。いや、失敬。今日は口が少々すべり過ぎ。娘たちが黙々と海で遊ぶ姿を尻目に、7月に入るまではと、これまで海に入らないできた私も、今日からは解禁!娘たちに邪魔されながらも、泳ぎましたーっ! (って、ほんのちょっとだけだけど)そして案の定、焼けてしまった。。。でも、せっかく夏休みなんだから、これからは空いてる平日に来なければ。それだけは心に決めて帰った日曜日であった。
2006/07/02
私の住む新興住宅地は、つい10年ほど前までは、石灰岩質の岩だらけの土地に低い潅木や高山植物が自生する、マキ(maki)といわれる地中海地方特有の風景が広がっていたそうだ。その名残は、アパルトマンや高級スィテに凌駕されつつあるこの一帯にも、いまだに残っている。下の娘が小さい頃は、上の娘の学校の送り迎えの前後、そんな潅木の広がる空き地を娘と散歩しては、野生のアネモネや珍しい高山植物や陸ガメを発見するのがただ楽しかった。下の娘が就学し、送り迎えにさえギリギリ間に合うような慌しい生活が始まってからは、ゆっくり空き地を散歩する時間など、すっかり生活から抜け落ちてしまっていた。なので今日、学校に用事があって出掛けたあと、大通りのバス停に出るため久しぶりに空き地の中を通りぬけた時、思わぬ風景に出会って目が覚める思いがした。 夏。アナトリアの野山をドライブすると、至るところで見かけることのできるアザミの一種。しかし、我が家の近所の空き地でも見られるなんて。この4年半、まったく気付かずに過ごしていたのだ。高さは1m前後から、2m前後にまで及ぶ。花全体が堅い棘で覆われていて、容易には人を寄せ付けない花である。夏の終わりに枯れて茶色く変色してなお、鋭い棘で人を刺す、矍鑠とした花である。このアザミの正式名称を調べてみたが、見つからず断念した。アザミのトルコ語としては、エシェッキディケニ(Esekdikeni=ロバの棘)、デヴェディケニ(Devedikeni=ラクダの棘)、メリエムアナディケニ(Meryemana dikeni=聖母マリアの棘)などが見つかったが、画像・イラスト等で確認すると、いずれもこのアザミとはまた別の種類であった。日本語(+学名ラテン語)では、膨大な植物を画像とともにまとめた優秀なサイトがあり、アザミだけでも何十種類も網羅してあったのだが、今度はあまりに膨大すぎて確認が追いつかなかった。このアザミの名称等をご存知の方はいらっしゃるでしょうか。あるいは、このアザミが載っているページを見かけられた方がいらしたら、ご教示いただけると助かります。
2006/06/30
アンタルヤ県青少年スポーツ局主催の夏期スポーツクラブの開会式があり、エミとナナを連れてサバンジュ・スポル・サロンに出掛けた。7歳以上が基本条件のこのスポーツクラブに、エミとナナは今年初めて参加するのである。3ヶ月という長い夏休み。日本帰国の予定もなく、またどこにも遊びに行くあてのない娘たちにとって、きちんとしたスポーツのレッスンを受けるまたとないチャンスである。当初、昨年の夏に自力で泳ぎを覚えたエミにも、姉を見習って見よう見まねで泳ぎを体得しようとしているナナにも、今年こそはきちんとした水泳のレッスンを受けさせようと考えていた。しかし、昨年9月以来、学校のバドミントン・クラブで週3回放課後に練習を重ね、新生クラブながら地元の大会にも参加して本格的なスポーツ活動を経験したエミには、青少年スポーツ局主催のスポーツクラブにバドミントンのコースが出来ると聞いて、迷うことなくバドミントンのレッスンを受けさせることにしたのである。一方ナナは、学校の授業に週1回組み込まれているクラブ活動で、リトミック・ジムナスティック(リズム体操。新体操のこともこういう)&モダンダンスに参加しているので、その系統でレッスンをと思っていた。同じ青少年スポーツ局のクラブでジムナスティック(体操)のコースがあり、ナナはそちらを希望していたのだが、曜日、場所の関係で泣く泣く諦めてもらい、その代わり、ナナにも姉と一緒にバドミントンを経験させてみることになった。夏休みが3ヶ月と長いので、この期間に子供たちにさまざまな経験をさせ、同時に親の面倒を軽減するため、どこでも有料のサマースクールが開校されている。チョジュッククルブ(子供クラブ、子供教室)、スポーツクラブ、サッカークラブ、プールやテニスコート付きの4~5つ星ホテル、ターティルキョユ(休暇村)から、各区主催のスポーツクラブまで。週5日。朝から夕方まで、朝食・昼食付きでさまざまなプログラムを用意しているヤズ・オクル(サマースクール)になると、月謝は300~400YTL以上?になるらしい。が、当面緊縮財政を強いられている我が家にとっては、県青少年スポーツ局主催のスポーツクラブは有り難い存在だった。なにしろ、週2日行われるバドミントン・コースの参加費は、7月初め~8月末の2ヶ月間で、たったの30YTL(約2200円)!人気コースの水泳やテニスでも、2ヶ月間で100YTL(約7200円)と、普通のスポーツクラブのほぼ半額である。さらに、無料!のコースもたくさんある。陸上、自転車、ボクシング、登山、レスリング、民族舞踊、ハンドボール、卓球、アーチェリー、チェス、ヨット、野球&ソフトボール、重量挙げなどなど。学校の体育施設・体育教育が貧困なトルコでは、スポーツは学校外で有料で教えてもらい、やらせてもらうもの。経済的な理由でスポーツ経験をなかなか持てない庶民・貧困層の子供にもスポーツを経験させ、青少年のスポーツ人口を増やし、未来のスポーツ選手を育成・発掘することを目的としている青少年スポーツ局ならでは政策であろう。ちなみに、すでにバドミントンのラケットを持っているエミ&ナナであるが、夏休み前に開催されたバドミントン連盟主催のレッスンでは、ドイツ製のラケットが無料で配布されたほどである。スポーツへの梃入れが盛んなトルコなのだ。朝9時半から開催された開会式には、一部とはいえかなりの人数の父兄が集まってきた。(参加申し込み者は、最終的に35部門で750人にのぼったという)マイクで案内があり、クラブに参加する子供たちだけが集合させられた。ほどなくして、エミが目を真っ赤にしてプンプン怒りながら観客席に戻ってきた。「バドミントンなんか、どこにもないじゃない!」どうやら、各部門ごとに子供たちが集められていたようなのだが、バドミントンがどうしても見つからなかったらしい。私は混雑を極める出入り口付近で、係りの人間らしい人にたらい回しにされながら、バドミントンはあるのかないのか、どこで集まっているのか訊き回った。こういうところがまったくトルコ的なのだが、インフォメーションも、会場整理をするスタッフも不在で、カユット(登録手続き)と書いてあるデスクに詰め寄っても要領を得ない無能が座っているだけ。最後に「バドミントン」と書かれたプラカードが見つかり、それをナナに持たせての入場となった。つまり、バドミントンは不人気だったのか、エミ&ナナ以外に誰も、担当コーチさえも!来ていなかったのである。実は、トルコではバドミントンはまだまだ知られていないスポーツなのである。ラケットを持っていると「テニス?」と訊かれる。「バドミントンよ」と答えると「何それ?」という反応が返ってくる。羽のついたボール(シャトルのこと)があって、ネットを挟んでそれを落とさないようラケットで打ち合うのよと説明するのだが、ピンと来ない人が多い。大卒の学歴のある人々でもそれは同じである。ふたりきりの「選手団」はさも所在無さげ。プラカードを抱えてしゃんと立っているナナに比べ、エミなんか遠目にも不機嫌極まりない顔でそっぽを向いている。やがて大会などで顔見知りのふたりの女の子が後ろに並び、エミの顔にもようやく安心した表情が浮かんだ。会場にいる全員が起立、直立不動の姿勢で国歌斉唱を待つ静寂の時、ちょっとしたアクシデントが。水泳の選手団の先頭にいたわずか5歳の男の子が、静寂を突き破り突然泣き声で「チシム・ゲルディ~(オシッコ~)!チシム・ゲルディ~(オシッコ~)!ワアアーーー」といって泣き出してしまったのだ。会場には微笑み、苦笑が広がる。「ババ~(パパ~)!チシム・ゲルディ~!」泣きながら父親の元に男の子が駆け寄り、慌ててトイレに連れ去られると、待ってましたとばかりスピーカーから『イスティクラル・マルシュ(独立行進曲)』が流れ出した。そんな「事件」があって、この男の子は一躍開会式の人気者に。入れ替わり立ち替わり記者、カメラマンたちにマイクを突きつけられたりカメラを向けられたりしていた。その後、キックボクシングのデモンストレーションや民族舞踊の披露(練習着のままなのが残念)もあって、開会式はなかなか大掛かりなものに終わった。娘たちのバドミントン・コースは、来週火曜から始まる。火曜・木曜の週2回、1回が3時間というレッスンである。最初バドミントンに難色を示していたナナが、初回からレッスン拒否という態度に出るのではないかと少々心配ではあるが・・・・ナナがバドミントンを気に入ってくれれば、行く末は、「ジャポン・バドミントンジュ・カルデシレル(日本人バドミントン選手姉妹)」として注目を浴びたりして・・・・なんて、夢想しないでもない私であった。
2006/06/29
完璧に、夏バテ、である。たぶん、夏バテだと思う。いや。もしかして軽い熱中症(熱疲労)かな・・・?今週に入って、ナナ、私、エミの順に体調を崩している我が一家。ナナは日曜の夜から39度5分の熱を出し、死んだかと思うほど深く眠った翌月曜、夕方までには37度に下がり、今はピンピンして毎日バフチェ(庭)遊びに熱を入れている。ホッとしたのもつかの間、昨夕から私がダウン。身体がダルく、頭痛がして、食欲は皆無。子供たちにも「お腹が空いたら、残ってるクスル(挽き割り小麦のサラダ)を食べてね」と言いおいて、早々にベッドに入った。今朝もまだ身体がダルく、さっぱりするかとシャワーを浴びたら逆効果。気持ちが悪くなって再びベッドに直行。娘たちは、自分たちでスジュックや卵を焼き、昨日のパンと一緒に朝食を食べてくれた。その後、娘たちはコムシュ(隣人)のプール付きヤズルック(夏用の家、別荘)に招待されて遊びに行ってくれ、夕方まで寝たり起きたりを繰り返したおかげで、身体も少しは軽くなってきた。ところが今度は、コムシュに送り届けられて帰ってきたエミが、熱があるという。たぶんプールで長居して熱に当たってしまったんだろう。コムシュが早々に熱さましのシロップと抗生物質(とにかくすぐに薬を飲ませてしまうのは、私は絶対反対だけど)を飲ませたらしいが、熱を測れば38度3分。これから深夜にかけてもう少し熱が上がることだろう。 (実際上がったのは、39度2分までだった)アンタルヤの熱暑にもすっかり慣れたような気がしていたが、油断は禁物。気温の最も上がる日中に、拷問バス&ミニビュスを使って出掛けざるをえない私と、浜辺やバフチェで長時間遊ぶことの多い娘たち。ついつい水を持たずに出掛け、「喉が渇いた~!」と思ったら要注意である。熱が体内にこもったまま、身体が火照った感じが続いたときも。これからは、もう少し自分にも娘たちにも配慮してやらないと。。。アンタルヤの7月8月は、こんなものじゃないんだから。これからの季節。皆さんも、十分にお気をつけあれ!
2006/06/24
娘たちの学校、コレジ(私立学校)が閉鎖の危機に立たされていることを、3回に渡って紹介したと思う。学校閉鎖の危機と、私立学校裏事情(前編)学校閉鎖の危機と、私立学校裏事情(中編)学校閉鎖の危機と、私立学校裏事情(後編)それから1週間。私はアンタルヤ在住の友人で、ふたりのお子さんをデブレット・オクル(国立学校)に通わせてらっしゃるmehtapさんのアドバイスを受け、カレイチから車で5分ほどのデヴレット・オクルも見学に行った。アンタルヤ市内のデヴレット・オクルの中でも評判の高いこの学校には、父兄の寄付によると思われるが、クリマ(エアコン)や学級文庫なども各クラスに備わっているし、一クラスあたりの生徒数が40~45人というのを聞いて、悪くない印象を抱いて帰った。もう一つ、この学校に関心を持った理由は、バドミントンがアンタルヤ一だということ。昨年バドミントンのクラブができたばかりのうちのコレジは、2度の試合を通じてコテンパンに打ち負かされてしまったのである。もし、デブレット・オクルに通わせるとしても、エミのバドミントンはどうにか続けさせてやりたい。コーチを外から呼んでクラブを開いてもらうなど、私に出来ることは何でもするつもりだったから、優秀なコーチがいて実績のあるこの学校には、それだけの魅力があった。もし、学区制がかなり厳密なもので、居住しているマハッレ(地区)に対応する学校しか選択できないなら、もう行き先は決まっている。なんらかの手立ての余地があれば、この学校は有力候補に思えた。しかし、ナキル(転入)のカユット(登録手続き)は7月中旬からと、他のどの学校よりも早かった。コレジの動向がはっきりするのをギリギリまで待ちながらも、今から必要な書類の準備や根回しをする必要があった。カレイチの建物のイスカン(居住許可)手続きに奔走しながらも、私の頭の中は学校のことで一杯だった。それこそ学校をテーマに夜な夜な夢を見るほど。それから、コレジがデブレット・オクルになるかもというガセネタがあった以外は、学校の売買に関する新しい確実情報はなく、父兄の不安と緊張感ばかりが高まっていった。他のコレジのカユット締め切りまで残すところわずか。顔を見合わせれば、話題は一つしかなかった。私の中では、デヴレット・オクルに行かせる覚悟ができあがりつつあった。私は娘たちに対しても、コレジに別れを告げ、デヴレット・オクルに移る覚悟をさせておくつもりだった。学期の終了まで1週間を切り、すでに学校に出てこない生徒や、私服で登校する生徒が多い中、娘たちには最後まで制服を着させ休まず登校させるつもりだった。「あと1週間で、先生とも友達とも離れ離れになるかもしれないんだよ。だから先生や友達と最後の日までなるべく一緒に過ごしましょうよ」「その制服を着るのも、もしかしたら最後かもしれないのよ。だから最後まで制服で行きましょう」と、そういって。しかし、そんなセンチメンタルなことを考えるのは、私たちくらいのものなのかもしれない。この木曜日に企画されていたターティル・キョイ(休暇村)へのピクニックは、エミのクラスは、参加希望者はたったエミだけ!ナナのクラスも、ナナを入れてたった2人しかおらず、1年生と3年生だけが学校居残りという残念な結果になってしまった。1週間前からこれを心待ちにしていたエミは、ヤケになってしまうほど失望。一方の私も、子供が行きたくないからと、もう学校は終わったようなものと、きちんと最終日まで学校に通わせない父兄に失望していた。学校が閉校になるかもしれないという時に、最後の日々を、慣れ親しんだ友達同士で思いっきり遊ばせてやれる機会を放棄してしまうとは。私はここ1週間、送り迎えの度に校舎を見上げ、花の終わってしまった蔓バラの棚の下をくぐりながら、校庭のそこここに植えられた緑の美しさに目を細め、思わず涙ぐんだりした。アンタルヤに引越しするや否やエミを5歳児クラスに入学させ、それ以来5年間毎日ナナと通い続けた学校である。日本人として見れば不満はあったが、あらためて客観的に見れば不自由の少ない素晴らしい学校だった。私は、この学校への愛着が娘たち以上に強かったことを発見して、我ながら驚いたのだった。****昨日、木曜日。朝、学校に娘たちを送って行くと、ナナの担任教師が私の元に近づき、満面の笑みで吉報を知らせてくれた。前日水曜日の午後、学校が売れた!こと。買ったのは、地中海地方全域で公共事業など大きな建設事業を手掛ける大手の建設会社。私も、コンクリート・ミキサー車の脇などに入っている赤いロゴで、その会社の名前は知っていた。建設会社だが、以前にもAコレジが経営危機に陥った時、経営を立ち直らせるため援助した実績があるほど、資金が潤沢で慈善意識も高いらしい。つまり、学校はこのまま存続し、今まで以上に良くなる可能性が高いこと。すでに前日のうちにサインを済ませており、今日(木曜)はノーテル(公証人役場)で必要な手続きを済ませ、一両日中には完全に売買契約が完了するだろうこと。契約が済み次第、カンパニヤ(キャンペーン)を開始し、カユットも始まるだろうこと。失われた生徒を呼び戻すため、おそらく学費は昨年と同額程度になるだろうこと。学校の存続を信じ、このドタバタ劇の間もどっしりと構えていたナナの担任教師と、すでに涙目の私はひしと抱き合って喜びを分かち合った。学校の中は、喜びに満ち溢れていた。どの教師も、廊下のそこここで集まっては明るい会話を交わしていた。階段を下りて1階に行くと、ちょうどそこにエミのバドミントンの顧問である体育の先生がいて、すぐに私の元に駆け寄ってきた。彼女の顔も満開の花のように輝いている。彼女ともひしと抱き合って学校の存続を喜び合い、今日まで娘たちにどのように話して聞かせ、どのように一緒に覚悟を決めてきたか打ち明けるうち、私の目はみるみる涙で一杯になった。夫にもすぐにメールで報告。資金繰りが厳しいのは承知しているが、どうか娘たちをコレジに通わせて欲しいとお願いした。夫からも返事が届く。デブレット・オクルに決定したような素振りだった夫だが、コレジの存続を彼も素直に喜んでくれた。娘たちの幸せを一番に(妻の私より!)考える夫のこと、きっと何とかしてでも今のコレジに通わせてくれることだろう。エミは、「今日は、人生で一番幸せな日♪」といった。昨日午後、学校にて弁護士を挟んでの売買契約が無事成立したらしい。本日金曜日。新しいオーナーにより、学校の全教師を集めてのトプラントゥ(集まり)が開かれ、そこで正式に挨拶があったという。学校は今まで通り存続し、新しく生まれ変わること。今まで以上に良くなること。さらに、教師たちにお金の心配なく生徒の教育に専念してもらうよう、こんな言葉をかけたそうだ。「教育はあなたたちが。お金は私たちが」その言葉を伝え聞き、私は再び先生方と抱き合って喜びを分かち合った。もう2度と、学校が転売されたり競売にかけられたりしないことを。そして、コレジがかつての評判を取り戻し、生徒たちも父兄たちも、胸を張ってコレジの名前を言える日の近いことを心から祈りたい。
2006/06/16
ため息ものの愚痴ばかりじゃない。たまにはこんな軽いノリの愚痴でも。(ブログの面汚し?ものではあるが、黙ってられないので・・・)周りの人の汗の臭いの気になる季節。繁華街から帰るミニビュスの中でのお話である。窓側(といってもガラスだけで窓は開かない)に座る私のまん前、こちらは半開きになった窓の横に座っていた女性が降りたあと、その隣にいたオバチャンが即座に窓側に移動した。ノースリーブのブラウスを着た彼女は、すぐに窓を全開にし、あろうことか、手を頭の後ろにのせ、肘を思い切り上げて、脇の下に風を当てて汗を乾かし始めたのである!これがどんなことかお分かりだろう。窓から大量に吹き込む風とともに、汗の臭いが、真後ろにいる私の鼻腔を直撃しはじめたのである。グエッ!ゲホゲホ!も~う。たまらん!!普段なら、近くに座った人の汗の臭いや体臭がどんなにキツくても、知らん顔しながら息を止め我慢する私だが、今日はさすがにその臭いにも、彼女のテルビエスィズ(無作法)な行為にも我慢できなかった。思わず鼻先で手を振ってしまったあと、もう我慢するもんかと、鼻をつまみ口を手で覆い(ケシケ、ハンカチでもあったなら!)、それから15分ほど自宅近くのバス停に着くまで我慢して座り続けるしかなかった。私の横、通路側にはふたり座っていたので、彼女たちに断ってバス停でもない場所で急に席を立つのも、あまりに不自然だったから。熱い、狭い、臭いと三拍子揃ったミニビュスは、とかくイシケンジェ(拷問)に例えられるけど、逃げられないところへきて、このようなキツい汗の臭いを嗅がされるとは、まさに拷問のよう。オバチャンは、腕が疲れるのか、時々下げるので、そのたびに私はこれで終わりか?とホッとするのだが、またすぐ腕を上げて脇の下に風を当て始める。腕を上げた途端、風とともにモワッと押し寄せる臭い。。。。自分の汗の臭いや体臭に対する羞恥心が欠如していると思われるトルコ女性の中でも、こんな傍迷惑なオバチャンははじめて。もう、こんな迷惑行為は二度と勘弁してくれ~~~!皆さんの周囲にも、「自分さえ良ければ」というこんな人、居ますか?(居ますよね?ね?)
2006/06/14
私たちは、過去に一度も見学に行ったことのないコレジの中で、自宅から今のコレジの次に近いコレジを見に行くことにした。目と鼻の先にコレジがあるというのに、我が家の近所からわざわざ通っている子供もいるくらいなので、それほど酷いものだろうとは予期していなかったのだが・・・車窓からその校舎が見えた時、そのまま引き返そうかと思ったくらい、ショックを受けた。これが・・・コレジ?普通の4階建てのアパルトマンほどしかないそこは、隣にある運動場も猫の額ほどしかなかった。まさにアパルトマンを改造して作られたことが歴然。夫に「入ってみないの?」と訊かれたが、私は近づくのも嫌で車に残った。夫に促されて仕方なしに門をくぐり中に入ったが、外から見るよりさらに印象は悪かった。薄暗くて狭い廊下。廊下の向こうに小さいトイレが丸見え。一階分が一ダイレ(フラット)の広さしかない狭い校内。地下に設けられたイェメッキハーネに至っては、天井近くに明かり取りの窓が一つあるきりで暗く、昼間から電灯の下で食事を取ることになる。校長は、開口一番「うちはビナー(建物)ではなく教育内容を重視してます」と先手を打とうとしたが、それこそが施設の悲惨さを自覚している証拠だった。家庭的な雰囲気?生徒一人一人の役割分担が大きい?それはひとつの理屈ではあるが、環境が子供の心理に及ぼす影響は大きいはず。日中から電灯を燈さなければいけない薄暗く狭い教室に、走り回ったりふざけることもできない狭い廊下。真っ暗なイェメッキハーネ。何も言う必要のないことだろう。それで学費の方は、私たちのコレジの今期のそれより1千YTL安い程度である。「これならデヴレット・オクルに行かせた方がまだまし」その一言を口にした途端、そのアイデアが急に私たちの中で現実味を帯びてきたのである。私たちは、自宅の周辺地区と、カレイチの事業所周辺地区にあるデヴレット・オクルを、この金曜日に4つまとめて見学して廻った。カレイチ内にある唯一のデヴレット・オクルは、創立1929年と77年の伝統を持つ古い学校だが、建物の方も相当古く、小さく狭い。最悪なのはトイレで、戸外にあり、頭をぶつけそうなくらい丈の低い古い木の扉で閉ざされた空間には、電灯すらなさそうだった。3つ並んだ扉の前を小蝿がプンプンと飛び回っている。日本でいえば昭和30~40年代の風景だろうか。4つのデヴレット・オクルの中では最も混雑度が低く、クラスあたりの生徒数45人前後ではあるが、ここに娘たちを通わせることなど、到底考えられなかった。ふたつめに訪問したデヴレット・オクルは、カレイチから車で2~3分。徒歩なら10分くらいの距離にある、比較的規模の大きい学校で、きちんと管理されている印象を受けた。しかし、クラスあたりの生徒数も大変なもので、平均50~55人。一番多いクラスになると、68人!である。今のコレジでは、最大時36人になったことはあるが、大体15~25人という少人数クラスを経験してきた娘たちが、長机ひとつに3人4人とすし詰めで座ることに果たして耐えられるであろうか。その点が大いに不安だった。3つめのデヴレット・オクルは、自宅とカレイチとの中間地点で閑静な住宅街に位置する。他の3つの学校は、午前・午後の2部制だが、ここは朝から午後3時までの1部制であるのがいい。ただし、生徒数はやはり50~60人となる。4つ目のデヴレット・オクルは、自宅の校区内にある学校で、市の中心からは遠ざかる方面にある。近年に建設されたらしく校舎は比較的新しい。生徒数は45~50人程度。ある程度は予想していたとはいえ、デヴレット・オクルの混雑振りは想像を超えるもので、正直ショックだった。県外や郡部からの人口流入の激しいアンタルヤの学校不足は顕著。建築ラッシュの続く新興住宅地に国の対策は追いつかず、我が地区をはじめ地区内に1校も存在していないところも少なくなく、近隣区の学校へと押し寄せる結果となるわけである。その結果、1部制の学校は激減し、多くの学校が2部制へ移行。そしてクラスあたりの生徒数も50人前後かそれ以上というのが平均となってきたようだ。夫は、コレジが完全に閉鎖になるかどうか、まだ分からないというのに、娘たちをデヴレット・オクルに入れることを早々に決断してしまったようだ。4つ目の学校を一緒に見学に行き、父親の考えを聞かされたエミは、悲しそうな、憮然としたような、納得がいかないような複雑な表情を浮かべながら、「デヴレット・オクルなんて行きたくない。コレジに残りたい」と訴えた。娘に弱い夫は、「もちろんコレジが閉鎖にならなければ、そのまま残るだろうけど・・・」と最終決定でないことを匂わせた上で、「1年くらい、デヴレット・オクルも経験してみるのもいいんじゃないの?皆が通ってるんだから、悪いってことないでしょ。子供のうちに色んな経験をするのも大事なことだよ」と説得しにかかった。夫の考えにも一理ある。しかし、1年が決して1年では終わらないだろうことは分かっている。学費にお金をかけない状態に慣れてしまえば、余分な出費を何より嫌う夫のことである、年間100~200万円ものお金を新たに工面することが馬鹿らしくなるのではないだろうか。それよりなにより、私は娘たちの経験するであろうカルチャー・ショックの方が心配だった。コレジでの生活を通して、学校とはそういうもの、と学んでしまった娘たちが、デヴレット・オクルで出会う風景や人々をことごとく否定的に見て、溶け込もうとしないのではないか、疎外感を感じたりするのではないか、と。さらには、トイレに神経質なナナは、掃除の行き届いていない、トイレットペーパーの準備のないアラトゥルカ(トルコ式)のトイレに入れなくて、我慢し続けて失敗するかもしれない。人に邪魔されて集中力を失うのが大嫌いなエミが、ひとつの長机に3人4人とくっつきあって座ることに反発するのではないか。そんな余計な心配が、頭に浮かんでは消えた。子供の適応能力からすれば、あっというまに慣れて、案ずるより産むが易しとなるかもしれないが。そんな時、また新たな情報が耳に入った。ナナの担任教師、エミのバドミントンの顧問になる体育教師、リセ(高等部)の英語教師など何人かの教師が異句同音に言うことには、「学校はそんなに簡単には閉鎖できない。最低1年の猶予が与えられなければならないよう決まっている」というものだった。さらに、イスタンブールはバフチェリエヴレリにあるAコレジと現在話し合いが行われていて、もしかしたらAコレジが買い取って運営する可能性があるという。そしてさらに衝撃的なこんな話も。早々にBコレジへのトランスフェルの決まった校長が、副校長やレフベルリッキ・オーレトメン(ガイダンス教師)を含む多数の教師をごっそり、Bコレジに引き連れて行くというのだ。しかも、毎夜毎夜さまざまな父兄を集めて食事会を開き、Bコレジへの勧誘までしているとか。父兄から「学費が高い」の声が出れば、3割の値引きまで約束して勧誘に努めているという。校長はじめトップ陣が、今やまったく職務を放棄し、必要な連絡事項すら教師に流してくれないので、教師が自分たちで学校を運営しているというのだ。いったい、校長のそんな職務怠慢、自己保身が許されるだろうか。自分の利益を最優先し、自分の下にいる何百人もの教師、生徒の保護を完全放棄するとは!今のコレジの存続も、私たちがそこに残れる可能性も、今やはかない夢のような、ぼんやりとした現実味しか帯びていないのを私は感じていた。イスタンブールのAコレジ?もしAコレジが買い取ったら、今のコレジは校舎や校庭だけ残して消滅し、まったく新たなコレジが生まれるだけである。教師数も生徒数も半減し、規模は縮小。一方、学費は今までのようなわけにはいかない。おそらくイスタンブールの相場に合わせ、またブランド校に習って一気に高くするはずである。現在のような良心的な学費では採算が取れなくなっているのが、最近のアンタルヤのコレジ事情なのだから。コレジ間の熾烈な競争は激化するばかり。全国展開を狙うブランド校が、トゥリズムを中心に発展を続け、富裕層が急激に拡大しているアンタルヤを、受け入れ土壌も十分と見て、今後も次々と進出してくることが考えられる。小さく名もないコレジは、次第に淘汰されていくことだろう。そして、より優秀な教師や生徒、より裕福な父兄の争奪合戦。同じアンタルヤ市内で、このような限られたパイの取り合いが行われているのである。教師は給与の高さに、父兄は豪華な施設に惹かれ、我も我もとブランド校へ流れていく。クオリティを保つために当然学費は跳ね上がる。しかし、高すぎては思ったほど生徒は集まらない。今になって、B校が学費を3割、A校が2割下げたのも、すべて熾烈なレカーベット(競争)のためである。デヴレット・オクルへのナクリ(転入)手続きは、早い学校で8月下旬から、最も遅い学校で新学期の始まる直前である9月第1週、第2週あたりだという。それまでに、さらにアラシュトゥルマを重ねながら、コレジ間の動向にギリギリまで耳をそばだてていくしかない。猶予はまだある。ギリギリでもどうにかなるのがトルコだから。デヴレット・オクルであれば、クラスの人数がなるべく少なく、トイレをはじめとした施設が合格点を出せるもので、スポーツ活動や社会参加の機会の多い学校を選びたい。そのためには、もう少し走り回り、聞き込み調査を行わねばならないだろう。今年の夏も、私たちの日本行きは完璧に不可能となった。
2006/06/10
実は、今のコレジは、2002年にも経営者が変わっている。その時はすんなりと転売が行われた上に、新しく来た今の経営陣は、前の経営者時代に落ち込んだ学校を建て直し、若くやる気のある教師を積極採用したり、トイレや給食、セルヴィス(通学バス)の質を向上させたりして、なかなか検討していた。以前にそんな経験があったために、今回の件もすんなり新しい経営者が登場して一件落着となるような、淡い期待を抱いていたのである。しかし、なかなか決着せず、話が二転三転する状況を見て、さすがの私も強い不安に襲われるようになった。多くのトルコ人父兄のようには、それまで学校や教師に関してほとんどアラシュトゥルマ(調査)やデディコドゥ(噂話)をしたりしない私だったが、娘のクラス友達の母親と出会ったりした時、今回の件に関して思わず訊いてみるようになった。その多くは、「成り行きを待っている」という返事だったが、建前と本音の大きく違う、そしてまた土壇場で180度意見と態度を変えてしまうトルコ人のこと、裏で何を考えているか、どう行動しているかは窺い知れなかった。私は、4年生の娘を同じコレジに通わせている仲のいい友だちユリにどうするか訊いてみた。彼女だけは本音で話し合える数少ないトルコ人の友だちだった。彼女は、昨年開校した有名ブランド校Tコレジに転校させることを希望していたのだが、編入試験に落ちたのか、あるいは高い学費のためか断念し、今のコレジに留まり、昨年学校の近所に引越しまで済ませていた。ブランド好きの傾向がある彼女は、やはり今年9月に開校となるブランド校Bコレジに関心をかなり示していたが、学費が高いので難しい、「もし学校が閉鎖になれば」今のコレジと同様伝統のあるAコレジにするだろうと言った。そんな話を電話でした30分後、彼女から嬉しい一報が入った。例の、最初の競売でいったん購入を決めた実業家が、オルタック(共同経営)で買うことに決まったらしいと、友達から連絡が入ったというのだ。「これでほとんど決まりらしいわよ」彼女がきっぱりと明るい声でそう言うので、なにかと懐疑的な私も初めて安堵のため息をついたのだった。翌朝、副校長と校庭で出会った私は、この件について早速尋ねてみた。彼女も「今よりずっと良くなりますよ。1~2週間後には新聞にも発表されるでしょう」と太鼓判を押していたのだが・・・・。それから待てど暮らせど、公式発表はなかった。その間にも、エミはクラスの友達から聞いた噂話を自宅によく持ち帰ってくるようになった。「学校が閉鎖になるかもしれないって。そうなったら、誰々くんはデヴレット・オクル(国立学校)に行くんだって。誰々くんは、ベレキに新しく開校するコレジに行くって言うし」「売店のおばさんがやめたんだって。給料を3か月分もらってなかったんだって」などなど。恐ろしいことだが、父兄間のデディコドゥが子供の耳に入るのはあっという間なのである。中には、学校の事情を包み隠さず子供に説明している父兄もいるのだろう。それにしても、状況はいったいどうなっているのだろう?今週アンタルヤの自宅に戻った夫に、ムハセベジにきっちり訊いてもらったところ、衝撃的なことを言われたという。十中八九、学校は閉鎖されるだろうこと。今年はもうカユットも難しいから、諦めて他の学校を探した方がいいこと。そして、これまでの裏事情も・・・その裏事情とは、こうだ。現在のオーナー、実は購入予定の実業家から借金をしており、借金が返せないので学校をその人に売ることで借金を帳消しにしようとしていた。ところが、後になって借金先は自分だけではないことを知った実業家が、購入を断念する。その後、この実業家は再度オルタック(共同経営者)を見つけ売買契約の話合いに入ったが、現オーナーが、売っても借金返済で手元に残らないのが分かったか、もっと高く売れると欲を出したか、売り渋り出したというのだ。このような足踏み状態はまだ何ヶ月も続くだろうから、来期の開校はかなり難しい。少なくとも1年間は他の学校に通わせることを考えた方がいい。というのがムハセベジの意見だった。これを聞いて、私たちはすぐ上の娘エミの担任トゥーチェ先生に訊いてみることにした。エミともども、トゥーチェ先生を大いに慕っている私たちは、競売の話が公になって以来、彼女の動向も常に気にしていたのである。昨年Tコレジが開校した際には、トランスフェル(移籍)する先生を追いかけて(というより引っぱられて)クラス全員で転校していった例もあるので、もし本当に学校が閉鎖となるなら、彼女の行き先次第では一緒に転校するということも十分ありえる話だった。トゥーチェ先生の教えてくれた内容は、予想はついたが多少驚いた。今のコレジの小学部の校長は、もうすでに辞職を申し出ており、今年開校するBコレジにトランスフェルすることが決まっていること。この校長が一緒に連れて行く教師を何人も集めており、その中にトゥーチェ先生も入っていること。そのためトゥーチェ先生もBコレジとの面接を進めていること。そして、トゥーチェ先生の元には、私たち同様彼女の動向を気にして来ている父兄がいるので、近々外で集まりましょうという話だった。転校先として、Bコレジはとうに不可能と諦めている私たちは、ため息をつくしかなかった。昨年開校のTコレジに並び、今年開校予定のBコレジも、年間学費は給食費、セルヴィス(通学バス)含めて約1万3千YTL(今のレートで約100万円)だと聞いている。娘ふたりを通わせると、200万円!現在のコレジには、娘ふたり分の年間学費として、給食費込みで約1万3千YTL払っているが、建設資金のためにクレディ(信用貸付)まで受け、毎月の返済に追われている私たちには、学費が2倍になる学校になどとても通わせられない。Aコレジとて、学費、セルヴィス、給食費を合わせると、約1万YTL(約75万円)だというので、今のコレジの5割増である。他の中小コレジを当たってみるか、さもなくば、思い切ってデヴレット・オクルに入れるか。夫は来週早々帰ってしまい、9月まで戻らない。夫の留守中、学校に関する情報収集と準備は、私に残された仕事となる。のんびりと構えた夫を急かせ、「もしも」の場合に備えて、私たちは遅まきながらアラシュトゥルマ(調査)を開始したのであった。(後編につづく)
2006/06/09
ここ2ヶ月近く、私たち家族の頭を悩ませている問題がある。現在、ふたりの娘が通っているコレジ(私立学校)が、いつ何どき閉校となってもおかしくない状況に陥っているのである。現在の経営者は、2004年に私たちのコレジを買い取ったカイセリ出身の実業家であるが、学校経営を含む諸事業のために多額の借金を重ね、とうとう差し押さえ、競売という道を辿ることになってしまったのだ。予兆は4月半ばを過ぎてから、娘たちの口を突いて出た言葉に表れた。「今日、お昼ご飯何にもなかったんだよ~!」私はビックリして聞き返した。普段、チョルバ(スープ)、ピラフかマカルナ(パスタ類)、アナイェメッキ(主となるおかず、メインコース)の他に、イェメッキハーネ(食堂)の真ん中に設置された大きなテーブルにアチュックビュフェ(オープンバフェ)が用意されていて、何種類ものソークメゼ(冷菜)やサラダ類、デザートが並び、小学生には勿体ないほどの豪華な給食が提供されていたのだが、娘たちが言うには、チョルバとハンバーガーとフライドポテトだけで、サラダも何もなかったというのだ。私は、どうしたのだろう?と訝りながらも、なんとなく経営難の匂いを嗅ぎ取っていた。毎日の習慣として、娘たちが帰ってくると「今日はお昼に何が出たの?」と聞いていた私だが、それ以来、アチュックビュフェが復活することはなかった。チョルバ+ピラフ+クルファスリエ(白インゲンの煮物)などという簡素な食事で、新鮮な野菜や肉がほとんど登場しないのだ。いくらなんでも栄養のバランスに欠けている。ムハセベ(会計)に問い質しに行かねばならないなあ~と思っていた矢先だった。新聞のアクデニズ(地中海)版1面に、私たちのコレジが売却されたという記事が載ったのである。購入したのは、進学校アナドル・リセスィ(アナドル高校)のひとつに寄付によって家族の名前を冠した実業家で、私たち父兄の心配はすぐに期待感に変わった。この人物が、同じように亡くなった家族の名前を冠した小学校を欲しがっているという話で、彼が買い取ってくれれば、今以上に素晴らしい学校に生まれ変わるのではないかという期待が膨れていったのも当然だろう。彼が10日以内に指定のお金を支払えば、学校は彼のものになり、噂どおりであれば、新たな経営陣が連れてこられて、学校は継続するはずだった。しかし、彼はお金を払うのを断念し、売却は無効となってしまった。私たち父兄は、再び不安の渦の中に突き落とされた。次の競売は5月の半ば過ぎだった。私は、毎日を不安の中で過ごし、競売の行われた日、すぐにムハセベに確認しに行った。しかし、誰も購入する人物は現れず、流れてしまったという。次の競売がいつなのか、それすらはっきりと分からない状態が続いた。もし。もし学校が、単に金儲け目的の人物の手に渡ったら、学校は閉校、校舎は解体され、約1ヘクタールの土地は、周辺同様、住宅建設用土地に転用されてしまうことだろう。閉校に至らず学校が無事継続したとしても、経営陣が変われば軌道に乗るまでなにかとガタつくことは必至だし、いつまた転売という話が起こるか分からない。中には、最初の競売の段階でさっさと子供を他の学校に転校させてしまった機敏すぎる父兄もいた。今期も残すところ1ヵ月半で、授業は6月16日まで継続して行われるというのに。しかし実際、各コレジともすでにカユット(登録申し込み)の時期が始まろうとしていた。中には、4月中に面接・転入試験・クジ引きなどを経て来期の新入生・転入生を選び終えているコレジもある。今のコレジに未練のない、また子供の学費に糸目をつけない裕福な父兄は、早々に他のブランド・コレジへの転入手続きを始めていた。そんな中で、私たちもそうだが、今のコレジを気に入り、あるいは諸般の事情から今のコレジが最も都合がよく、ギリギリまで結果を待とうという父兄・教師ももちろんいる。娘たちの通うコレジは、創立26年。アンタルヤでも最も伝統のあるコレジのひとつで、当初は本当に素晴らしい教育が行われていたと、今でも地元の人に聞かされる。つい数年前まで、CHP党首デニズ・バイカル(アンタルヤ出身)の孫が通っていたのをはじめ、地元の有力者の師弟が多く通っていた時代もあったのだ。その歴史を惜しむ者。ここの卒業生で、大学卒業後教師として母校に戻ってきた者。担任教師が気に入っている者。学校の規模や雰囲気、学費等さまざまな条件が合う者などである。2001年秋にトルコに引っ越してすぐ、エミを5歳児(満4歳)クラスに入れた私たちにとって、とくに娘たちと私にとっては、5年間朝夕通い詰めた愛着ある学校である。自宅から徒歩3分。娘が忘れ物をすればすぐに届けてやり、学校からの手紙の内容が分からなかったり、子供たちに何かあればすぐに先生に聞きに行き、学校の雰囲気や設備の不備や変更など、些細な変化はすぐに目に入り、クラスの友達や他の生徒たちの様子が手に取るように分かり・・・・トルコの学校システムに不案内だったヤバンジュ(外国人)の私にとって、学校が自宅の近くにあるということは、この上ないアヴァンタージ(アドバンテージ)だった。今更、他の学校への転校を考えることは、なかなか受け入れがたかったのである。(中編につづく)
2006/06/09
キラズ(サクランボ)の季節。我が家でも、旬の味覚を味わいたくて、何週間か前からパザールで500gずつほど購入しては少しずついただいてきた。たぶん今年は、田舎から送ってこないことだろうし・・・・と。夫の郷里のキョイ(村)にあるアンネのヤズルック(夏の家)の隣の敷地には、夫が数年前に苗木を植えたばかりのサクランボ畑があって、ようやく実を結ぶようになった2年前から、この時期になると義妹や義兄が収穫してくれ、アンタルヤの我が家まで送ってくれていた。一昨年には4kgほどだったのが、昨年は19kgにもなって、かなり往生した苦い思い出がある。わざわざ19kg分も収穫してカゴに詰め、カルゴ(貨物便)で送り出してくれた義妹に文句を言えた義理はないが、受け取る方も相応の苦労をしたのである。まずは、義妹がカルゴ会社に持ち込んだのが金曜日。義妹はすぐに「発送したから、明日には受け取って」と連絡してくれたのだが、翌土曜日、自宅で待てど暮らせどやって来る気配もない。夕方になって痺れを切らしカルゴ会社に連絡してみると、「今日はまだ着いていません。アンタルヤまでは大体2日はみていただかないと。明日は日曜日で閉店ですが、月曜日には間違いなく受け取れるでしょう」という。昨年も同じように暑い日々が続いていた。金曜に収穫したばかりとはいえ、トラックの中や、クーラーもあるかどうか分からぬカルゴ会社の営業所で丸々3日置きっぱなしにされては、大方腐ってしまうに違いない!ここでは、日本と違ってクール宅急便なんて発達してないんだから。月曜日、朝10時頃だったろうか。カルゴ会社の営業所に、何時頃の配達になりそうか確認の電話を入れたところ、「これは宅配じゃなく、営業所留めになってますね~」というではないか!ゲゲッ!どうして、宅配にしてくれなかったの~!?「今から配達の車に載せてもらえませんか?」とお願いしたが、すでに配達の車は出た後とのこと。「朝一番で連絡してくれれば載せられたのに」と言われるも、後の祭り。仕方がないから、諦めてミニビュスに乗り、営業所へ。義妹がどれくらいの量を送ってくれたのか、あらかじめ訊いてもいなかったので、営業所の床の上に置かれているふたつのプラスティック製のカゴを見てドッキリした。なんと、あわせて19kg。料金着払いにしてあるので、しめて49ミリオンTL(当時)ほどを支払う。カゴは、義妹の配慮か持ち手付きだったので、19kgなら何とか持ち帰れるだろうと両手に提げ、営業所を後にしたまでは良かった。しかし、50mも行かぬうちに断念。細くて、断面が長方形になった持ち手が手に食い込み、痛くて我慢できないのだ。私は営業所に取って返し、友達のユリ(トルコ人)のところに電話して窮状を訴えた。ユリは、ご主人のヒロさん(トルコ人)に連絡してくれ、ヒロさんが車で拾ってくれ自宅まで送り届けてくれることになった。ヒロさんには、お礼としてカゴをひとつ丸ごと差し上げた。「もしかしたら、半分くらい悪くなってるかもしれないですけど」と、言い添えて。自宅に帰り、上に被せてあった新聞紙を破り取る。案の定、4割くらいがとうに腐っており、下の方には潰れた実から染み出た果汁が溜まって、サクランボの甘酸っぱい匂いが広がっていた。私は、腐ったものは捨て、痛みかけたものはジャム用に、きれいなものは生食用にと一粒一粒選別し、その作業ですっかり疲れ果ててしまった。それでも、生食用は2~3kgはあっただろうか。一方ジャムの方は、痛んだ部分をナイフで削り取り、2つに割って種を出す作業が面倒だった。種をえぐり取るうちに、爪の中まで真っ赤に染まってしまうのだ。フランスにはサクランボの種抜き器まであるそうだが、これだけジャム文化の発達したトルコで、なぜその手の便利な道具が販売されてないのか、無性に腹が立った。手間のかかった割には、ジャムはわずか一瓶と半分に収まるほどしかできなかった。ちゃんと手元に届いたかどうか電話してきた義妹に、営業所留めにした理由を尋ねると、「その方が早く取りに行けると思って」と答えた。車も持たない私が、19kgの荷物を営業所まで取りに行く方が早いと思ったなんて・・・。着払いの費用を考えると、結局パザールで買うのと金額的には変わらない。それに、せっかく送ってもらっても、腐っていては元も子もない。夫の畑のサクランボは、それは見事なナポレオンだけれど、わざわざ送ってもらうまでもない気がした。「もう来年はサクランボは送ってもらわなくていい。売って小遣い稼ぎにするなり食べるなりしてもらって」私は夫に事の顛末を話して聞かせ、夫も「そうだよなあ~」と、私の意見に同調。一度はズベイデに、「来年は必要ない」旨を伝えたはずだった。先週月曜日、アンタルヤに戻った夫が、急に思い出したように呟いた。「サクランボはもう出来てるだろうなあ。送ってもらわないと」去年、妹のズベイデに宣言したことを、夫はちっとも覚えてなんかいなかった。「送らなくていいって言ったと思うけど?ズベイデにそう言ってたわよ、あなたが自分で」私の言葉なんかまるで聞こえなかったように、さっさとズベイデに電話し、週末にはキョイに行って収穫し、アンタルヤまで送ってくれるよう頼んでいた夫。結局のところ夫も、自分の畑のサクランボの今年の出来具合を見てみたいのであった。しかし、今年は昨年の轍を踏まないよう、カルゴでなく夜行バスに載せてもらうことにした。夜8時半発のバスで、翌朝アンタルヤに到着する。今朝、夫は早めにオトガルに出掛けていったが、バスが着いたのは10時頃だったという。ダンボール一箱分。開けてみると、まだ色付きが浅いが、十分見事なサクランボたちである。大粒で、パザールならキロ3YTLはくだらないだろう。体重計に載せてみると、13kgあった。電話で義妹に無事受け取ったことを知らせた夫は、来週もう一度送ってもらうよう頼んでいた。まだ生りはじめたばかりで、本番はまだこれからなのだそうだ。こちらが、ババ(パパ)の畑で収穫されたサクランボ。熟すと赤黒い色になるのだが、色付きはまだまだ。早速口に含んだ夫も、「う~~ん、ちょっとまだ酸っぱいね~」と眉をしかめていた。
2006/06/04
連日、最高気温30℃を軽く上回るアンタルヤ。これだけ暑くなると、自然に冷たい飲み物が欲しくなるわけで、工事現場に毎日詰めていた昨年のこの時期はアイスティーが外出先での私のお気に入りだった。一方、自宅ではコーヒーが手放せない私は、自宅にいる間はもっぱらアイスコーヒーを飲む。それがなぜか、今年。この1週間というもの、リモナタ(レモネード)に凝っている私。きっかけは、先週のヒュリエット紙金曜版。“リモナタの最も美味しい店トップ10”を漠然と眺めていて、驚かされた。今まで、お店で出してるリモナタなんて、きっと濃縮リモナタやインスタントを水で薄めてるだけだろうと軽んじていたのだが、とんでもなかった。どのお店も当然のように自家製で、しかもオレンジを混ぜたりミントを混ぜたりと、オリジナルな工夫を重ねているらしい。中には、製法は秘密、というお店まである。パザールで黄色く輝いている巨大レモンが脳裏にちらついた。レモンの旬も少しずつ終わりに近づいている。この後は、もぎたてレモンは少しずつ姿を消し、保冷用倉庫で長期保存されている小型レモンがそれにとって代わる。いわば、今がリモナタ作りのチャンス!皮が厚くて果汁が少なく、レモン果汁をとるためには適さないかもしれないが、新鮮な香りといい皮のきれいな点といい、柔らかい酸味といい、値段の安さといい、今出回ってるレモンこそ、リモナタ作りにはピッタリではないだろうか?というわけで、思い立ったら即実行。先週の日曜パザールで、皮のきれいな大型レモンを1キロ強購入。さて、これをどのようにして漬け込むか?くだんの“トップ10”の、それぞれのお店の工夫も読みつつ、まずは私にとって一番手っ取り早い方法を試みることにした。皮を黄色い部分のみ薄く剥き、千切りにする。皮のすぐ内側の苦味の強い白い部分は剥いて捨て、中身をザク切りか適当なスライスにする。皮と実を合わせた重量の40~50%の砂糖を加えて、おたまの背などで押しつぶしながら掻き混ぜ、最低12時間くらい冷蔵庫で寝かす。時々、冷蔵庫から取り出して、つぶすようにして掻き混ぜておく。長時間寝かせたリモナタの材料を、粗い布(布巾など)で包んで汁を絞りとる。冷水で2倍くらいに薄めて、できあがり。さて、肝心のお味の方はどうか?簡単なのに意外に美味しくでき感心したのだが、色が薄くて風味がやや弱く、砂糖甘い感じに不満が残った。そこで、2度目のチャレンジ。昨日の木曜パザールで、同じように大型で皮のきれいなレモンばかり選んで1キロ強、1YTL分(約75円)を購入。自宅に戻り、早速仕込みにかかる。色と風味を増すために、今回は皮の黄色い部分を大根おろしでおろして加えることにした。中身は前回と同じザク切り。皮と中身をあわせ、重量の40%の砂糖を加えて、前回同様実をつぶしながらよく掻き混ぜた後、冷蔵庫で12時間以上寝かした。そして今日は、外出から戻って、絞り作業開始。今回のは黄色い色がよく出ているし、風味もたっぷり。なかなかいいぞ~!冷水で2倍強に薄めて・・・さて今度こそ、お味の方は?我ながら、今度は美味しくできた♪皮をおろして加えたので、皮そのものの自然な苦味も出て、砂糖とのバランスもちょうどいい。出来上がりは、こんな感じ。 (光線の具合で、あまりきれいな色が出てないのが残念だけど・・・) これでもう十分美味しいのだが、実はあともう一回くらいチャレンジしてみるつもり。完全に濁ってしまったのが、ちょっと気に入らないのだ。次回は、大根おろしではなく、もうすこし粗いおろし金を使ってみるか、それとも実を絞って果汁のみ漬け込んでみるか・・・・。どうやら、私の自家製リモナタ開発は、来週も続きそうである。* * * *こちらは、先週日曜日のコンヤアルトゥ海岸。朝9時頃から出掛けたので、人出も少なく、波のない静かな海だった。トマト+キュウリ+レタス+白チーズ、トマト+キュウリ+レタス+ツナという2種類の簡単サンドイッチを作り、ポットに自分用のコーヒーも用意して出掛け、パラソルと寝椅子をふたつ借りて(1台1.5YTL=約110円)、またもや3時間以上浜辺で過ごすことに。娘たちが水の中でたっぷり遊ぶ間、私はコーヒーを片手に、新聞に隅から隅まで目を通し、時間が余れば本を読むことにしている。寝椅子に転がって、ゆっくりと活字を追うこんな休日の朝が、私にとっては最高に贅沢なひとときなのである。
2006/06/02
この作品のDVDは、前回の急なアンカラ行きで、私が唯一自分への手土産にしたものである。ごく最近ようやくDVD化されたばかりというのに、アンタルヤの小さなDVDショップでは簡単に見つからなかったからである。2004年冬、新聞で紹介されたこの映画の存在が心に留まり、アンタルヤでの公開を楽しみにしていた私は、年が明けると毎週新聞の地中海版に載る映画館上映情報に眼を凝らしていた。しかし、マイナー作品のなかなかやってこないアンタルヤで公開されることはなく、いつかDVDせめてVCDになるのをひたすら心待ちにしていたのである。アンカラから帰った翌日、早速夫と一緒に観てみることにした。このような作品は、原則独りきりで鑑賞するのを旨としている私だが、夫が帰宅中ゆえ、「あなたは観ない方がいい」とも言えない。「黒海地方のルムをテーマとしているらしいよ」「暗いと思うけど」とあらかじめ夫に釘を刺しておいてからVCDをセットした。およそ芸術作品とか映像美とかに関心のない夫。好きな映画はアクションものやマフィアもの。一番のお気に入りが『ババ(ゴッドファーザー)』という夫にとって、この手の小作品が気に入るとは間違っても思えなかった。夫の反応ばかり始終気にかかり、映像に没頭できない私。「暗い」「面白くない」「政治的な作品だよ、これは」そんな言葉が夫の口から漏れる度に、身がすくむ。さらに途中で知人から電話がかかってきたために、映画の後半をほとんど見逃してしまったのだった。終わった後で夫に感想を訊くと、案の定、肯定的な言葉は聞けなかった。「なぜ、今頃になってこんな昔の話を掘り起こさなければならないんだ」「トルコは毎日暗くて、ギリシャに行くと青空だっていうのが、トルコの印象を悪くしている」「なにか政治的な意図があるんじゃないか」夫に遠慮しながらでは作品に没頭もできず、弱い印象しか残らなかった初めての鑑賞後、ほぼ3週間の間、再びこのディスクをセットすることはなかった。ところが、ギリシャにお住まいのchottocafeさんのブログで、「黒海地方に住むギリシャ人の末裔(※ルムのことと思われる)」に関する記事を拝見したことで、俄然この作品をもう一度じっくり鑑賞してみる気になったのである。すると、夫と一緒に、横で色々言われながら観たときとはまるきり異なり、2度目にして、私の心は激しく揺さぶられた。会話が少なく、シンボリックな表現を得意とする彼女の作品は、私に多くの意味を与え、何事かを感じる余地を与えるのである。しかし、2度の鑑賞では、まだ不十分だった。ルム語、ギリシャ語が分からなければ、主人公アイシェの苦渋の理由すら掴めない。私は英語の字幕を選択し、3度目の鑑賞を試みた。****イェシム・ウスタオール監督は、トルコ人青年のクルドの青年との交流や心の軌跡、自身のキムリック(アイデンティティ)を探し求める内面的=外面的旅路を描いた前作『太陽への旅路(GUNESE YOLCULUK)』 (日本では『遥かなるクルディスタン』という題名で公開)もそうであるように、トルコにおけるマイノリティの存在に心を寄せ、彼らの心の葛藤や苦渋をシンボリックな表現を借りて隠喩的に表現することに常に心を砕いているように思える。しかし、彼女は、なぜ繰り返しマイノリティに照明を当てようとするのだろうか?ここからは、あくまで私の推論であるが、それは、彼女自身がトルコにおけるマイノリティに他ならないからではないだろうか?トルコ国籍とトルコ人の名前を持っている彼女だが、容貌からスラブ系に見ることもできる。両親、祖父母の時代に、トルコへ移民(あるいは難民、亡命者)としてやってきたスラブ系家族の生まれなのではないだろうか?あるいは鼻梁の張った高い鼻を持つ横顔から、ラズ人と見ることもできる。メガホンを握る彼女の、常に寂しげで苦労の跡を滲ませるような、しかし断固とした表情を見るたびに、そう思えて仕方ないのだ。真実は、彼女と彼女の家族しか知らないことであり、作品の出来とは何の関わりもないことではあるが。●監督:イェシム・ウスタオール(Yesim Ustaoglu) 1960年11月18日、カルス県サルカムシュ(sarkamis)市生まれ。小中高校時代をトラブゾンで過ごし、同じくトランブゾンにあるカラデニズ工科大学建築学科を卒業。その後、イスタンブール・ユルドゥス工科大学修復学科で修士課程を修了。この間、通信社の特派員を務める。最初に撮った短編作品『一瞬を捕まえる(Bir Ani Yakalamak)』によって、1984年にIFSAK短編映画コンテストで賞を獲得したウスタオールは、2本目の短編作品『マグナファンターニャ(Magnafantagna)』を携えて、オーバーハウゼン映画祭およびシカゴ映画祭に参加した。『二重奏(Duet)』は1991年にユヌス・ナーディ短編映画コンテストにおいて1位を獲得。1992年には『ホテル(Otel)』という名の短編映画を脚本・監督した。『ホテル』は第14回地中海モンペリエ映画祭で大賞を受賞し、脚光を浴びた。1994年に製作した初めての長編映画『軌跡(Iz)』は同年、第4回ケルン・トルコ映画祭で最優秀作品賞。翌95年に第14回国際イスタンブール映画祭で最優秀作品賞を受賞。1999年には『太陽への旅路(Gunese Yolculuk)』で、第18回イスタンブール映画祭最優秀トルコ人監督賞と、第11回アンカラ映画祭最優秀監督賞および最優秀脚本家賞を受賞。2003年製作の本作品『雲を待つとき(Bulutlari Beklerken)』は、黒海地方出身で1930年にギリシャへの移民を余儀なくされたルムの家庭に生まれたヨルゴ・アンドレアディス(Yorgo Andreadis)の著作『タママ(Tamama)』を題材に脚本を起こしたものである。この脚本はサンダンス映画祭で最優秀脚本賞を受賞し、早々に放映権を獲得したNHKはじめ様々な団体の資金提供により製作が実現。2004年、第23回イスタンブール映画祭で特別審査員賞を受賞した。****なおこの作品は、つい先日(5月14日)日本でも、NHKBS映画劇場サンダンス映画祭特集上映作品として、『雲が出るまで』というタイトルで放映されたという。日本でご覧になられた方もいらっしゃるのではないだろうか。
2006/05/28
●『BULUTLARI BEKLERKEN (雲を待つとき/WATING FOR THE CLOUD)』(監督:イェシム・ウスタオール(Yesim Ustaoglu)/2004年トルコ・ギリシャ・フランス合作/87分) 水分を湛えた緑濃い森林。脇を、足元を音を立てて流れていく滝や清流。緑なす高原に点在する石造りの家々。聞こえるのは牛の鈴の音と、水と風の音と、雷鳴。そして、谷底から絶え間なく沸き上がり、いつ切れるとも知れぬ雲、雲、雲・・・・。****時は、1975年。 舞台はトルコ黒海沿岸の小さな港町ティレボル(Tilebolu)から、ティレボルの人々が毎夏登り続けるヤイラ(高原)、そしてギリシャ・テッサロニキ(セラーニック)へと移っていく。ティレボル。5年に一度の国勢調査が行われることをニュースが伝えている。「言語と宗教などの項目について調査が行われる。これに応じない者は・・・」年老いて介護の必要な「姉」セルマと、ふたりきりで暮らす老女アイシェの家にも国勢調査員がやってくる。IDカードの提出が求められ、聞き取り調査が始まる。生まれはメルスィン。同居人のセルマは「姉」。「なぜメルスィンからここへやってきたのか?」「それは・・・」そこでセルマが倒れ、病院に運ばれるが帰らぬ人となる。セルマが亡くなって以来アイシェの「家族」は、隣人ファトマの息子で、毎日彼女の家に遊びに来るメフメットだけになってしまった。アイシェを実の祖母のように慕うメフメット。ある日、納戸にしまわれてあった古い包みの中から、昔の写真を見つけ出したアイシェは、その中の一枚を大切に布にくるみ、肌身離さず身につけるようになる。やがて、ヤイラに登る季節がやってきた。拡声器で出発の日が伝えられる。村の人々は背に背に荷物をくくりつけ、牛や山羊と一緒に町からヤイラへと出発する。足元の覚束ぬ険しい山道。一歩足を踏み外せば谷底に落ちる。山を越え、急流を越え、辿り着いたヤイラには、彼らの夏の家となる石造りの堅牢な家々が彼らを待っている。アイシェは、ヤイラを包み込む深い霧、雲の中に何かを見出だし、何かを聞いたようだった。一晩中家の外で過ごし高熱を出したアイシェは、メフメットの耳元で思わず「ニコ、行かないで!」と声に出していた。―ニコとは誰なのか?―自分が「ニコ」という名前を口にしたことに、アイシェ自身がショックを受けた。それを契機に、アイシェは急速に内省的になっていく。誰とも話そうとせず、悪魔祓いをしようとする隣人たちに「あなたたちに私の心のうちの何が分かる!?」と怒鳴るアイシェ。彼女の懐に入れるのは、唯一メフメットだけになった。メフメットは、母親に叱られてもなお、アイシェの元に通い続ける。村人全員がヤイラを下り村に戻った後も、アイシェは高台に座り、雲を見つめ続けるのだった。アイシェが雲の中に見ていたのは、遠い過去の自分と、失った家族の姿であった。心の奥底に封印した彼女の辛い過去の記憶が、少しずつ蘇る。50年以上口にすることのなかった自分自身の言葉でアイシェは、ルムの女性エレーニとして語り始めていた・・・。****アイシェの過去を知るには、英語の字幕に頼らねば分からない。なぜなら、彼女はルムの言葉で語っているからである。(※ルム=トルコ国内に住むギリシャ系の人々、もしくはギリシャ正教徒)彼女の子供の頃の記憶は、最も悲惨なある一時期で留まっていた。母親の背中で凍死した妹ソフィアの姿。母親が妹を雪の中へ埋める情景。何週間も何週間も歩き続けた疲労と苦痛。そして弟ニコが孤児として連れて行かれるのを、窓ガラス越しに見届けることしかできなかった自分への激しい後悔の念。時は第一次大戦中の1916年。ロシア軍はルムの人々を利用しながら、黒海沿岸地方を次々に占領していくことに成功する。ロシアは同じ「正教徒」という名目をかざし、ルムの人々を結集させ、武器弾薬を配布するなどして扇動していたのである。ロシアが東側からなら、西側からはイギリスが別の形でルムの人たちのアイデンティティを煽り、「汎ギリシャ人思想」を植えつけることに成功していた。ルムの人々はオスマントルコ軍に従わず、反旗を翻すような行動をとるようになる。ルムの人々は、かねてから南下を目論んでいたロシアの侵略目的のため、イギリスに代表される西欧列強によるオスマン帝国の内部からの解体という目的のために、いわば利用されていたのである。(このあたりの経緯については、もうひとつのブログの方で後日詳しく紹介する予定)オスマン帝国軍は、ゲリラの温床となっていたルムの村々から住民を追放し、村を空っぽにする手段に出る。黒海地方を追放されたルムの人々は、西へ、あるいは南へと流罪となっていった。長い長い移動の途中で、一家離散し、家族を亡くし孤児になった者も出た。アイシェ(エレーニ)が思い出した記憶は、そんな一家離散の記憶であった。****哀愁あるメロディーが、耳の奥で響く。水分を含んだ深い緑色が目に眩しい。涙が溢れてきたのは、その眩しさのせいだろうか。それとも・・・。映画本編も素晴らしい秀作だと思うが、私を心から感動させたのは、本編の製作以前に撮られたと推測される40分近い短編作品『Sirtlarindaki Hayat(背中の上の人生)』であった。カチュカル山脈に位置する、標高3500mに達するヤイラと村との間を毎年のように往復しながら暮らす黒海地方のある村人たち。彼らは黒海地方に多いラズ人(コーカサス系の人々で、黒海東部に多く住む)であり、牧畜を主に生活の手段としている。毎年夏、2ヶ月から2ヵ月半をヤイラで過ごす彼らは、必要なすべての道具をその背中に背負って運ぶ。背に背に重い荷をくくりつけ、幼な児を肩車するのは、決まって女性である。身体への負担と厳しい気候条件の影響で、坐骨神経痛、ヘルニア、リューマチ、腎臓を患う者もある。赤ん坊も、重病人も、そして遺体も、すべてその背中によって麓の村まで運ばれるのである。驟雨の中、ぬかるみに足を取られながら、牛や山羊を追い立てながら、険しい山道を登り続ける強行軍からは、健康である限り高齢者さえ逃れることはできない。昔から連綿と続いてきた習慣であり、それが彼らの人生だからだ。ヤイラでの素朴な暮らし。牛の乳を搾り、薪を集めてコンロに火をつけ、煮立てた牛乳からチーズを作り、集めた野草を料理する。麦を石臼で挽き、オーブンでとうもろこしパンを焼く。若者の口からは自然に土地の唱(うた)が流れ出る。木を削り、笛を作る者もいる。男たちが集まれば、踊りが始まり、唄が口を突いて出る。娘たちはボール遊びに興じる。若者の目は娘たちに注がれ、娘たちの目もまた若者たちに向く。村とヤイラとの往復の中で、彼らは若くして結婚し家庭を作り、子供を産み育てていくのである。村人たちの憂い、寂しい微笑み、諦めの表情が目に焼きつき、口から漏れるため息までが、唄の一部であるかのように耳に響く。自分で選択のできない、自らの出自に運命付けられた人生。伝統や習慣、偏見に抗うことのできない人々とその心の葛藤・遍歴。心の旅路が現実の旅へとつながる過程での心の変化などを、抑制された筆致で描くのを得意とするウスタオール監督の真骨頂は、このようなドキュメンタリー作品にこそあるように思えた。
2006/05/28
ただいま、次の日記を執筆中。(遅筆のため、もう少々お待ちを)それまでのお目汚し、もとい目の保養として、清涼感溢れるトルコの初夏のお花をご覧ください。 2006年5月25日撮影(左右に見えるキュウリやレモンはご愛嬌) こちらは、ニリュフェル(Nilufer)。蓮の花。アンタルヤではこのように切花にされて、1年に1回かせいぜい2回、パザールに顔を出すのみ。初夏のごく一時期だけの花である。蓮の花を売る農家の人は、ある川縁から採集してくるというのだが、もちろんどこの川だなんてこと教えちゃくれない。川辺に真っ白の蓮の花が咲き乱れる風景は、まさに極楽浄土のようだろう。一度でいいから、その風景を見てみたいものだ。蓮の花を買ったのは、3年ほど前だろうか。一度きりで、それ以後は見つけても前を通り過ぎるだけとなった。たぶん、香りがあまり好きになれないからだろう。祖母の鏡台の中に仕舞われていた古い香水のような、濃厚でクラシックな香りである。ちなみに値段は、一束1YTL。なお、ニリュフェルという名前は、女性の名前としても比較的ポピュラーである。(女性歌手にもいる)蓮の花そのもののように、すっと背筋の伸びた、高貴で上品な女性を想起させる、とても美しい名前だと思う。発音は、ちょっと舌を噛みそうだけどね。(苦笑)
2006/05/25
今週後半から、気温が28~9℃まで一気に上昇し始めたアンタルヤ。ついこの間まで、晴れていても吹く風がヒンヤリと涼しく、薄手のセーターやカーディガンが手放せなかったというのに、昨日今日は日中ノースリーブでも気持ちいいくらいの暑い一日となった。5月も後半に入り、さすがに初夏から夏へと移行しつつあるのを感じる。コンヤアルトゥ・ビーチまで直線距離にして800mほどの場所に住む私たちが、陽気に恵まれれば毎週末のように海岸まで散歩に出かけるのが、この季節。先週末も同じように海に出かけたのだが、まだまだ冷たい海で泳いでいるのは、子供と若い男の子、おじさんばかり。娘たちは石投げを、私は石を拾ったり愛でたりしながら30分ほど過ごし、海辺を後にした。それから1週間で、ここまで暑くなるとは。朝、バッカルに買い物に行く時、もやもやと肌に纏わりつく夏らしい熱気を感じて、ピンときた。これなら、きっと海に入れる!このところ、娘たちに海行きをせがまれていたことだし、今日は娘たちを海に連れて行ってやろう。今日は娘たちにとっての「海開き」の日だ!エミのスヌフ・ギュニュ用のドレスの仮縫いから帰るや否や、娘たちは服を脱ぎ捨てるのももどかしく水着に着替えた。私は水温が上がり波の静かになる7月まで海には入らない主義なので、着の身着のまま。自宅を出て道すがら、軽食用にボレキ、アイスティー、水などを購入。コンヤアルトゥ・ビーチは、いまだシーズン前の趣。それでも、人出は随分と増えていた。外国人の姿より、地元の家族連れ、カップル、若者たちの姿が目立つ。これからの季節、地元の人にとっても最も手近な行楽地はビーチなのである。いつも腰を落ち着ける区画には、寝椅子もビーチパラソルの準備も何もできていなかったので、敷物ひとつ持ってこなかったことをちょっと後悔したが、日差しも夏本番のそれではないことだし、どうせ1時間ほどですぐ帰るんだからと、適当なところに腰を下ろした。ボレキで腹ごしらえした後、娘たちは大喜びで海に突進していった。足をつけてすぐは「冷たい!」と唸っていたが、すぐに慣れたらしく、それからは一向に海から出ようとしない。私は横になって帽子を顔に載せ、潮騒の音を聞くうちに、うつらうつらとし始め、浅い夢まで見る始末。時々「疲れたよ~」「そろそろ帰ろうよ~」と声をかけても、なかなか帰る気にならないらしい。結局、当初の見込みを大きくオーバーし、3時間ほど海辺で過ごすことになってしまった。娘たちも大満足。すっかり味をしめて「明日も来よう!」と言い出すんじゃないかとひやひやしたけど、遅かれ早かれ、これから毎週のように連れて来なくちゃいけなくなるんだろうなあ。。。。地元の人で賑わい始めたコンヤアルトゥ・ビーチ (左)娘たちのハシャギっぷり(右)パラセーリングをする人もいよいよ夏到来!は、食生活においてもひしひしと感じられるところである。メロンやスイカが店頭に並び始め、茄子やズッキーニの料理が食べたくなってきた。料理に合わせて、生のフェスレーエン(バジリコ)やナーネ(ミント)もついつい買ってしまう。大抵使い切れなくて、最後は腐らせてしまうというのに。(毎年、フェスレーエンは苗を買って鉢に植えているのだが、今年は気持ちの余裕がなく、まだ準備できていない)しかし、なんといっても、夏をもっとも実感するのは、トマト!であろう。1年中食卓にトマトの欠かせない我が家にとっては、嬉しい季節の始まりである。トルコ式の朝食には切らすことができない他、サンドイッチ、サラダ、前菜、煮物、パスタソース・・・トマトの味がよければそれだけ料理の味もよくなる。太陽の光に恵まれたアンタルヤでは、セラ(ハウス)のお陰で冬でもなかなか立派なトマトが収穫され市場に出回るが、やっぱり見せかけだけで香りと味はないに等しい。ホルモンが使われているのだろう、色はピンク色なのに妙にモチッとしていたり、中はガリガリに硬かったり、種ができていず空洞になっていたりする。なので朝食の際は塩を振って、煮物やパスタソースにはサルチャ(トマトペースト)を加えて味を誤魔化している。ここ数回のパザールで、毎週のようにトマトの味がよくなっているのを感じていたが、先週木曜のパザールのオバチャン・エリア(自分の畑でとれた野菜や卵、手作りのサルチャなどを持ってきて売る村のオバチャンばかり並んでいる一角)で、ほぼ完熟の美味しいトマトを見つけて喜んだ。鼻を近づければ、トマトらしい青くさい臭いがプンプンしているのに、ナイフで半分に切り分けると、熟したトマト特有の香りがプーンと立ち上ってくる。中もぎっしり。厚めにスライスして朝食のテーブルに載せると、娘たちは先を争うようにして、白チーズやキュウリと一緒にパンに挟んでサンドイッチにして平らげた。冬の間は「イーレ~ンチ!(気持ち悪い)」といってトマトに手をつけようとしなかったナナが、トマト好きのエミ以上のトマト好きに豹変したのには、さすがに驚いた。皆さんにも、一足早い夏の気分を少々お裾分け。トルコのトマト、どアップでどうぞ!(本当はもっと赤いのだが、色が出なかった・・・)
2006/05/20
私たちは無駄に5ヶ月も待たされていたのである。もうそれさえ前々から分かっていれば、こんな大嘘つきの詐欺師シェノール(もう、「氏」なんてつけてられるものか!)からはさっさと手を引いて、他のターキプチに乗り換えていたのに!私たちはすぐに夫に報告。夫からシェノールに電話してもらい、750YTLと過去に渡した書類一切を返してくれるよう強く言ってもらうことになった。ところが、「保険申請はもう行ったので、お金は返せない」「仕事はやる」とまで言ったらしい。根が単純な夫は、「やると言うなら、やってもらうしかない」と彼を使い続ける決断をしたのか、もう何ヶ月も顔を拝むことすらできなかったシェノールが、それから2日ほどしてのこのこ現場に顔を出した。シェノールは、今まで必要な手続きや書類について何のアドバイスもしようとしなかったのに、急にプロジェを広げて中を検めたり、「あれとこれ。これも必要」と列挙し始めた。そして、保険料も大体5,500YTL(約50万円)くらいかかること。私たちの場合、イスカンはゲネル(一般)・イスカンとフェルディ(個人)・イスカンの両方を取得せねばならず、それには合わせて1万3千YTL(約120万円)くらいかかること、などを次々に説明した。今まで具体的な数字を聞かされてなかった私たちは、その額にビックリ。シェノールは「法律が変わったから、ここまで下がった。でなければ9~10千YTL(8~90万円)はかかっていただろう。このために私は待ってたんですよ」という。シェノールの打ち出した数字があまりに膨大なため、やっぱり怪しいと睨んだ私たちは、すぐに別のターキプチのオフィスに出かけて情報を提供してもらい、シェノールの今までの振る舞いや、彼の出した数字を検証したのだった。保険申請手続きを行うムハセベジをも兼業するそのターキプチの話によると、職人一人当たり月額約550YTL(約5万円)。4人だと約2,200YTL(約20万円)。大体2ヶ月半くらい継続されたことが証明できればいいから、保険料は確かに5,500YTL(約50万円)前後になるという。が、イスカンにはそれほどかかるとは思えない。第一、保険申請を始めたのなら、SSKから保険認証番号が渡されるはず。その資料を見せもしないし番号を教えないのは、申請すらやっていない証拠。また「法律の変更」などまったくのデタラメで、そんな話は聞いたことがない。そう言われてようやく、私たちの抱いた疑念が裏付けられたのだった。私たちは夫とも話し合った結果、大至急シェノールからお金と資料一切を返してもらい、遅れを一気に取り戻すために、新しいムハセベジ&ターキプチに保険申請とイスカン手続きを始めてもらうことに決めた。早速エルカンに電話をさせたところ、「申請をしてしまったから、それを取り消さなければならない。これからムハセベジに取り消してもらいに行く。今までの手続き費用のファトゥラ(請求書)も持っていくから」と言ったという。なんだってえ!!ファトゥラとはなんだ!今まで何ヶ月も待たせながら、何一つ仕事をしないで、請求する権利がどこにある。「返すお金を少しでも少なくしようと企んでるんじゃないか」とエルカンが言う。私もそういう手に出るだろうことは予測していた。なんだかんだと言い訳をして、750YTLは着服してしまうつもりだな、と。私はエルカンに、「もしファトゥラを持ってきてても、それは夫に直接渡すようにいって絶対に受け取らないで。お金と資料だけ返してもらって」と言いおき、もしその場に居合わせることができたら(なぜなら、私をわざと避けたような時間帯にやってくるのだ)、「この5~6ヶ月間であなたが唯一やった仕事が、ファトゥラを切ることだったとはね」と精一杯皮肉を言ってやろうと考えた。ところが、シェノールからの連絡がまた途切れた。電話をすれど、切ってあるか、応答しない。とりわけ、私が苦手なのかどうか、私の携帯番号にはまったく応答しようとしない。自宅の番号からかけて、ようやく応答。相変わらずしゃあしゃあと、「ムハセベジで取り消しの手続きをしてたんですよ」という。「本当に取り消ししたんですか?」と訊くと、「当然」と答える。「結構。それなら、今日は何時に現場に来れるんですか?」と訊くと、「いつ来れるかハッキリした時間は言えない。用事が済んで来れる時間が分かったらエルカンに教えるから」という。そして結局その日もシェノールは来なかったらしい。夕方になってエルカンに「ムハセベジに何度電話しても連絡がつかないんだ。こうなったら明日か、最悪月曜になる」と言ったとか。それももちろん嘘に決まっている。今週月曜日の朝一番。雨でも降るのではないか?シェノールから私の携帯に電話がかかってきた。「エルカンにお金を渡したいのだが、電話に出ない。連絡しといてくれないか」という伝言。エルカンの電話はチャージ切れで連絡はつかなかったが、この電話の後どうやらすぐに現場を訪れ、750YTLを耳をそろえて返して去っていったらしい。ファトゥラもなし。以前手渡した資料もなし。資料の悪用を恐れたが、新しいターキプチに聞いたところ、その程度の資料では何もできないといわれ、安心した。こうして、のらりくらりシェノールとの6ヶ月近くに及ぶ腐れ縁を、ようやく断ち切ることができた私たち。もっと早く彼の嘘に気付き、他のムハセベジやターキプチからの情報を得ていれば、無駄に何ヶ月も待つことはありえなかったのだが・・・・ひとつには忙しかったこと。実質イスカン申請できる段階ではなかったため、焦っていなかったこと。そして、悪名高きギュルスン夫人の紹介とはいえ、彼女の仕事はちゃんとやっていたんだから、やってくれるに違いないと信用していたのだった。今まで彼女の取り持つ縁でやってきた人物は、ことごとく私たちに不利なように働いていたというのに!それを忘れたわけではないが、何度だまされても、やっぱり簡単に人を信用してしまう私たちは、1年の工事経験を経てもまだ素人同然だった。私たちは今、1年遅れの保険申請手続きと、それに続くイスカン申請に向けて活発に準備をしているところである。リストアップされた必要書類は、初めて聞く内容ばかり。いかにシェノールが情報提供を怠っていたか、明白である。ギュルスン夫人とは、もうこれ以上関わりあいたくないと心から願っているのだが、実はこの2~3ヶ月来、彼女から「強硬に」提案されているある事項がある。今のところ夫の留守を理由にその話題からは逃げているのだが、やがてこの件にも真正面から対峙しなければならなくなるだろう。憂鬱は尽きない。 気温も26~7℃まで上がり、初夏らしくなったこの頃アンタルヤのシンボル、イヴリ・ミナーレはいつも変わらない姿を見せている
2006/05/18
もう何日か、いや何週間、何ヶ月か、朝の時間帯がとても辛くなっている。普段どおり、娘たちに朝食を食べさせ、学校に送って行き、自宅に戻る。さて、今日やらなければならないことは・・・今日は・・・今日こそは・・・胸が重苦しくなり、このまま自宅で1日のんびりできれば、どんなにかいいかと思う。「家事があるから、用事があるから、今日は現場には行けないかも」そんな言い訳作りをしたくて、洗濯機を回したり、掃除機を掛けたりしてみる。罪悪感で胸が一杯になりながら。「いや、施主たるもの。とたえ仕事がなくとも1日1回は顔を出すべき」胸を塞ぐ雲を少しばかり追い払って、カレイチの地所まで出掛ける、そんな毎日。建築の方の進捗状況を書こうにも書けない。書くことは、あるといえば相変わらずありすぎるが、とても書ける精神状態にない。順を追って書こうとすればするほど、これまでの経緯と度重なる失敗、不運。夫と繰り返した諍いなどを思い出して、胸に鉛が詰まったようになる。でも今日は久し振りに、ふりだしに戻り、そのお陰で心に小さな晴れ間がのぞいたある件について、込み入った内容ではあるが、なるべく簡潔に(インシャッラー)書いてみようと思う。トルコ在住でない方には聞きなれない言葉ばかりだと思うので、疲れるかもしれない。読める方だけどうぞ。****建物の外殻工事を終えた私たちがまず行うべきは、「イスカン」手続きである。「イスカン」とは「居住・定住(許可)」というような意味で、建築の終わった建物が法的に適し、またプロジェ通りに完成しているかどうかが審査され、クリアしているとみなされれて初めて、建物の使用許可が下りるもの。イスカン申請のためには、様々な条件と書類が揃ってなければならない。例えば、電気設備を証明するエレクトリック・ラポル、下水設備を証明するカナリザスィヨン・ラポル、火災時対策用のアラームや消火器の証明写真、構造検査業者による業務終了報告書などなど。私たちには、プロジェ上の大きなミスを補うために、イスカン取得後さらに部分的に改造する仕事が待っていた。「プロジェ通りであらねばならない」イスカンというハードルを飛び越えれば、それが可能になる。なので、外殻工事が終わり次第、イスカン手続きの申請に移りたかった。イスカンの手続きは、もう昨年秋からターキプチに頼んであった。ターキプチとは、直訳すれば「追跡者」で、日本でいえば行政書士にあたる職種だろうか。電気や水道の開設申請、タプ(不動産権利証書)の「追跡」や、イスカン申請などの仕事を主に手掛ける。私たちの依頼したターキプチは、実はコムシュ(隣人)である悪名高きギュルスン夫人の建物のイスカンを担当した人物。ギュルスン夫人の家に来ていた彼を夫が呼びとめ、例によって後先考えず、「では、あなたにお願いします。よろしく」といってさっさとお願いしてしまったのだった。イスカン申請をするにあたって、まず問題となったのは「保険」のことだった。建築現場で働く職人たちが、間違いなく保険(SSK/社会保険組合)に入っていることを証明する必要があるのである。これについては、日本の方なら首を捻られるのではないだろうか。現場で働く職人たちは、一般には工務店や建築会社に所属する人間。保険は会社側が用意するものであって、施主にその負担義務はないと思う。が、業者を通さず自前でやろうとした私たちは、自ら「雇用主」として職人たちを保険に入れてやる―実際は名前だけ借りて、数ヶ月間保険料を払ったことを証明すればいい―必要があった。が、実はこの保険の件については、基礎工事を始める際に聞かされて知っていた。そして、法律で決まっていて逃げられないことならば、早速始めよう、ということで、その頃現場で働いていた4人の人足のIDカードのコピーなどを集めて、建築家とつるんでいるの元で働く手配師オズギュルに保険手続きを始めてもらったはずだった。保険料がいくらか出してもらうのだと、そのあたりまで私は夫から聞いていたので、とっくにこの手続きは終わっていると私は思っていた。が、手続きなんか何ひとつ行われてなかったのだった!夫を問い詰めると、「保険料を払った覚えもないから、何もやってないでしょう」とのうのうとのたまう。まあ、過ぎてしまったことは仕方ない。今から始めても4~5月頃までかかるだろうから、すぐにでも始めようというわけで、このターキプチ、シェノール氏に保険申請からお願いすることになったのが、昨年の11月末頃のことである。シェノール氏は、保険の申し込みにまず750YTL(約6万8千円)が必要で、ムハセベジ(会計士)に至急渡さねばならないといって、このお金をかなり急ぎで私たちに請求してきた。 このとき申し込みが行われていたとしたら、1ヵ月後から毎月決まった額の保険料を払い込まねばならないはず。毎月の保険料がいくらになるか、私たちは間をおいて何度もシェノール氏に確かめようとした。彼は、「まだ出ていない。来週には出る」などと答える。翌週電話すると、「まだ出ていない。あと2~3日」などという。2~3日後に電話すると、「法律が変わるかもしれないから、その結果が出るのを待ってる」などという。私たちも、他にいくらでも懸案事項があったので、ついつい「思い出せば電話する」程度になっていた。年が明け、2月になり3月になった。さすがに「これはおかしい」と感じ始めた私たち。今年の事業スタートは諦めざるをえないことも、その頃決断した。なので、「大至急」というわけではないが、イスカンを取った後にしなければならない仕事がたくさんあるので、そうそう悠長にもしていられない。なによりルフサット(建築許可)を取得してからイスカンを取得するまでに許されている期間は2年間。こんな風にズルズル引き伸ばされているうちに間に合わなくなっては大変。そして同時に、間抜けなことに気付いた。750YTLのマクブス(受け取り)をもらってなかったことに!さてそれから、シェノール氏への電話攻撃を私たちは始めた。まずは750YTLのマクブス。そして保険の件はどうなったかを催促するために。ところがシェノール氏は、「持ってくる」「明日伺う」「今日立ち寄ったけど、誰もいなかった」「葬式があって来れない」「どこどこだから、アンタルヤに帰るのはいついつになる」そんな言葉を使い分けながら、ジリジリと先延ばしにし続けた。電話すれど、切ってあったり、応答しない日も続出。私たちは遅まきながら戦法を変え、「では、あなたはお忙しそうですから、私たちが直接ムハセベジに聞きましょう。住所、電話番号、名前を教えてください」とムハセベジの連絡先聞き出し作戦に出たが、これにはシェノール氏が怒って拒否し、「ご主人に電話してもらってください。そうじゃなければ教えられない」と言い出す始末。ある日、ギュルスン夫人のところへ来たと思われるシェノール氏を見つけたエルカンが、すかさず呼びとめ問い詰めてくれた。すると、やっぱり!推測したとおり、保険手続きは何一つ始めてなかったのだった!
2006/05/18
今年も桑の実の季節がやってきた。パザールにはもう何週間も前から、大切にパック詰めされた桑の実が出回り始めていたが、初夏らしい燦々とした太陽の下で、ここにきて一気に旬を迎えたようだ。今日の木曜パザールでは、白桑と並んで黒桑も豊富に、そしてタス(金だらい)に入れられて量り売りされるほどになっていた。タスの底には、黒桑から滲み出した濃い紫色の果汁が溜まっている。ああ、旬なのだなあ~としみじみ眺める。昨年の5月、カレイチの地所にある1本の雌の桑の木を眺めては、これをどうすべきか悩んでいた私。桑の木のすぐ脇には、トラベルテン(トラバーチン)を敷き詰めたテラスがあり、毎日根気よく掃いて水で洗い流したとしても、桑の実の残す汚れはトラベルテンの細かい穴の中に入って染みとなり容易には落ちないであろう。心配する私に、周囲の人間は様々なアドバイスをしてくれた。「やれ根っこから切ってしまえ。この木はザラル(害)以外の何ものでもない」「やれ、雄の木を接木すればいいじゃないか」「どうしても桑の木がないといけないのなら、切ってしまって、もういちど雄の木を植えてもいいんだよ。すぐに育つから」しかし私は、どうしても根っこから切ってしまうような気持ちにはなれなかった。接木も、定着するまで何年もかかるのではないだろうか?悩んでいたある日、我が家の前を農業技術者だという人が通りかかったという。私の逡巡を知るエルカンと夫がその人に相談してくれたところ、枝だけを切れば、葉っぱはすぐに茂っても、実は少なくとも2~3年は結ばない、と教えてくれたそうだ。ようやく解決法が見つかって安堵した私は、心を決め、エルカンに頼んで枝を切り落としてもらうことにした。冬のうちに枝を切り落としておくのは、ごく普通の処置ではあるが、ほとんどの枝を切り落とされた裸の桑の木は、さすがに寒々しく痛々しく見えたものだった。しかし今では、ノコギリの痕も鮮やかに裸そのものだった我が家の桑の木に、艶々とした若葉がいくつも開いている。これから夏に向かって、もっともっと葉を茂らせ、枝を伸ばすことだろう。否応なく、植物の生命力に感心させられる。一方、地所のすぐ隣にあるケスィッキ・ミナーレの裏庭では、白1本、黒3本。計4本の桑の木が見事な枝を広げ、毎日少しずつ実が熟しているところである。管理者の逗留していない、常に放置された状態のケスィッキ・ミナーレの庭は、木々と名も知らぬ野の花々と雑草の楽園なのだった。私のこのところの日課は、壊れた柵の隙間から中に入り、桑の実をもいで熟し度合いを確かめること。日陰になっていることが多く、他所の桑の木に比べると随分と晩熟で、黒い方はまだようやく紫色になりかけているところ。白い方がやや早熟で、大きく膨らんだ実をつまんで口に入れると、ほのかな甘みが口に広がる。桑の木の明るい緑の木陰が、とても心地よい。ここの桑の木たちを、まるで我が家の桑の木のように愛でている、今日この頃なのである。白桑の実。完熟は、もう少し先かな。(やけに厚ぼったい手の平が恥ずかしい。。。)
2006/05/17
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