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●後任大臣決まる先日の日記の中で、文化観光大臣エルカン・ムムジュの辞任について軽く触れたが、後任には、21日付でアイドゥン出身の国会議員、現在69歳になるアティッラ・コチが選任された。エルカン・ムムジュが現在、41歳(トルコ式では42歳)なので、大臣職が一気に30歳近くも老化してしまったわけだ。政界に入る前、一時テキスタイル業界に居たこともあり、若いだけにファッションにも敏感で、スーツとシャツ&ネクタイの合わせ方などはエルドアン首相にも見習って欲しいと思うムムジュに対し、後任のアティッラ・コチの経歴を見ると、あまり文化・観光とは縁のないところでずっとやってきたようだ。以下に、22日付の『Hurriyet』紙の記事、およびトルコのWho's Who『Kim Kimdir?』(←新たにお気に入りに追加)によるコチの経歴を総合して、まとめてみた。■アティッラ・コチ(Atilla Koc)-------------------------------------1946年、アイドゥン生まれ。アンカラ大学政治情報学部卒業。3つの郡の郡長を経験後、シールト、ギレスンで県知事、コンヤで警察本部長を務める。一時、大アンカラ市事務長官、内務省相談役、総理大臣補佐官も務めた経験がある。既婚。3人の子供の父親。-------------------------------------------------------------→顔写真はこちら(TBMM:トルコ大国民議会オフィシャルサイトより)コチは、その最初の仕事として、『東地中海、国際観光旅行見本市2005』のオープニングを行ったが、オープニング・イベントとして催された『Anadolu Atesi』ダンサーたちによるオリエンタル・ショーが長く続いたために、途中から腕組みを始め、時々中空を見上げるというように退屈な様子を隠さなかった、と26日付けの紙面で報じられた。とりあえず、お手並み拝見というところだが、お爺様世代のコチには、近年目覚しい変化・変容を遂げているトルコの芸術・文化・ファッション界や、発展・拡大し続ける観光業界の変化とスピードに追い付いていけないのではないかと、私には危ぶまれてならない。少なくとも、今まであまり表舞台に立つことのなかったコチが、人生最後の見せ場とばかり、時代錯誤、的外れなリーダーシップを発揮しないことを願う。●国内線で、また値下げキャンペーン格安航空運賃で一躍顧客を掴んだ民間航空会社の先駆け、オヌル・エアーが、今また運賃の値下げを発表した。片道3便、往復6便を抱えるイスタンブール~イズミール間フライトのうち、イスタンブール6:30発の早朝便、およびイズミール22:45発の最終便につき、平日は69YTL(約5900円)のところを59YTL(約5000円)とすることに決定したという。50YTL台という驚きの金額は、同路線を50YTL前後で走らせている高級バス会社各社に肉薄するものでもある。現在、イスタンブール~イズミール間を走らせている高級バス会社の中で、最も高い金額で運行するのが、ウルソイ(Ulusoy)の高級バージョン、ウルソイ・ロイヤルクラスで55YTL。ついでワラン(Varan)の52YTL、ウルソイとボス(BOSS)の48YTLと続く。なお、この値下げキャンペーンは、当面2月28日月曜日から、3月26日土曜日までの期間限定であるが、競合するアトラス・ジェット等の反応次第では、引き続き継続する可能性もないわけではないと思う。悠長にバスなど乗ってられない忙しいビジネスマンには、うってつけのキャンペーンであろう。※オヌル・エアーのオフィシャル・サイトは、「お気に入り」に掲載してあります。
2005/02/27
(※工事日誌のため、関心のない方は無視されてください)●5日目4日目に続き、セメントの上にガイドラインとなる材木を打ちつけ、それに沿って木枠を立てていく作業。木枠の基本は、5本の材木を横に繋ぎ合わせたものである。それ以外に、使いまわし用として、短く切った材木を金属の枠で挟み込んだ既製の板がある。材木の長さをはかり、釘で打ったり、繋げた後でまた鋸で切ったりと、意外に手間がかかる。私の立ち会う2時間半ほどの間に、あまりはかばかしい進展は見られなかった。●6日目続けて木枠づくり。昼休憩がちょうど終わる頃、現場に私が到着すると、座って寛いでいた人足、職人たちの腰が上がった。結構、木枠が進んだなあと見ていると、おもむろに既製の板を外しだした。どうやら、高さ、長さの調整がうまくいかないらしい。それも無理はないだろう。土地の高さが、ここでは3つのレベルで構成されているので、いきおい木枠づくりも複雑になってくるのだ。表通りに面した建物は、雨水除けのために、道路高より20cm前後高くなる。庭のレベルは、オリジナル通りに、道路高より1m強下にさがる。さらに、水道管の位置する面は、道路高からは2.3mほど下になる。それでも前日に比べると、木枠で覆われた部分が増えているのが歴然であろう。●7日目現場に着いたときには、木枠の内側に、機械油?かなにかを塗っているところだった。コンクリートを流し込み、乾いた後で木枠を外す際、外しやすいのだという。なるほど、型の内側に溶かしバターや植物油を塗る、ケーキと同じ要領である。その作業が済んでいる部分には、鉄筋を組み合わせて作った梁を置くことができる。また、それと同時進行で、コンクリートの重量で木枠が倒れてこないよう、支えが取り付けられる。私は、例によってあちらに立ってみたり、こちらに立ってみたりしながら、建物の出来上がりを想像して愉しんでいたのだが、ふと振り返ったときに、あわやという場面を目にした。ローマ時代の水道管は、いたずらされたり、壊れたりすることを避けるため、木の板で保護し、その上から何もないかのように土砂や瓦礫が載せてあったのだが、まさにその上から、ひとりの人足が鉄筋を打ち込んでいたのだ。「ちょっと待って!その下には水道管があるのよ!」少し離れたところにいた現場監督も駆けよって来て、慌てて声を掛ける。「言っただろう?水道管のこと。ここは、板か何かを置いて、その上に打ちなさい」途中まで打ち込まれた鉄筋を抜く。すでに20cmばかり奥まで打ち込まれていたようだ。中に2cmくらいの厚みの板が入れてあるので大丈夫とは思うが、とにかくヒヤッとする一件だった。夫は「長く居ても仕方ない。1日1回チェックするだけでいいから」というが、こんなことが起こるのだから、そうそう放っておくわけにもいかないのだ。現場監督が新たな請求明細を持ってきた。それを見て、また頭が痛くなる。明日までにウン百YTL(1YTLは約86円)、それとは別に、遅くとも月曜までにウン百YTLだと!木枠作りと、鉄筋の梁づくりが終われば、コンクリートの充填が待っているが、支払いが終わらないと、コンクリートも流せない。トルコでは、予算が足りなくなって、途中で建築を中止した建物がゴロゴロしているが、このように前払い式の現金決済なので、無理もないなあと思う。私たちも、そうはならないことを祈りたい。●8日目本日分の支払いのため両替所に寄り、手持ちのUSドルをトルコリラに換える。このところ、1ドルが1.29台なので、痛い。いくつか回って、レートの一番良い両替所を選ぶが、1.291まで落ちていた(涙)。(←アンタルヤは、イスタンブールに比べると、随分悪い)建築家のオフィスに立ち寄って、工事責任者にお金を渡した後、現場に着く。昨日から随分と進展したようだ。さもありなん。今日は全部で7~8人もの職人、人足たちが忙しく立ち働いている。来週初めには、コンクリートの充填を予定しているので、追い込みというところだろう。木枠はほとんど完成。鉄筋の方も、一部を残して、かなり組み上がっている。それらを確認し、現場監督に今週分の職人たちの日当を計算してもらうと、私は銀行に向かうため、一足早く現場を離れた。来週は、基礎工事第1段階のハイライト、土台へのコンクリートの充填作業が待っている。夫の帰国も2週間後に決まった。それまでの間、現場での立ち会い作業をきっちりと務めていこうと思う。
2005/02/25
我が家にやってきた2匹のジャンガリアン・ハムスター。・・・と思ったら、ペットショップの話では、「ゴンザレス」という種類だという。ゴンザレス・ハムスター?そんな種類があるのだろうかと、ネット検索してみるが見当たらず、おそらくトルコ国内での呼び名だろうと勝手に解釈しておく。名前は・・・なかなか決まらなかった。ちょっと太っちょの方には、とにかく回し車が好きなので、「ドネル」(回る、の意)とか、女の子だから「ドネリー」だとか、太っちょだから「トムビッシュ」(ぽっちゃり)とか、可哀相な名前ばかり出てくる。スマートな方も似たり寄ったりで、ケージの金網に爪をかけて登るのが好きなので、「トゥルマヌジュ」(登り屋)とか、思い浮かぶのは可愛くない名前ばかり。2日ほど経ったとき、頬袋が一杯になって、上半身がモコモコに膨らんだ様を見ていて、「モコ」という名前が浮かんだ。するともう一方は?チョコマカ動くから「チョコ」とか、ピクピク身体を震わせているから「ピコ」とか、いくつか「コ」で終わる名前を挙げ、上の娘に選ばせると、「ペコ」にするという。そうして、太っちょが「モコ」、スマートさんが「ペコ」という、しごく日本的な名前で呼ばれるようになった。毎日手が空くと、ケージの前に行って2匹を観察する。すぐに分かったのは、ハムスターでも個体間のキャラクター差がはっきりしているということ。「モコ」の方は、初日の食いしん坊振りはおさまって、頬袋も小さくなったが、回し車が好きなのは相変わらず。餌箱の中に入ると、中でぐるりぐるりと回転する不思議な行動をとる。自分の臭いを餌につけようとでもしているのだろうか?やっぱり食い意地が張っている。というか餌に執着するタイプなのかもしれない。「ペコ」の方は、新鮮野菜が大好きで、野菜を新しいものに入れ替えると、すぐに寄ってきて齧りだす。働き者で、チップをくわえては巣づくりに余念がない。どうやら、こちらの方は巣に執着するタイプらしい。「巣」といえば、ケージや餌など一式を買ったときに、「巣」の存在はまったく頭になかった。勧められもしなかったので、トルコにはないのかと、気にもしていなかったのだが、2匹の行動を見るうちに、ド素人の私でさえ「巣」の必要性に気付くようになった。ケージに付属でついてきた餌箱。1日目はこの中で2匹がピッタリ寄り添って眠っていた。2日目はチップを積んで、その中に埋もれるようにして眠っていた。3日目には、野菜入れとしてロフトに置いた陶製の器に、しかも野菜をすべて外におっぽり出し、わざわざ床のチップを階段を登って運んで巣づくりをしてから眠るようになった。4日目も相変わらず。5日目には、野菜入れを下におろし、替わりの野菜入れをロフトに置いた。ところが、この新しく、一回り大きい器に、またもや下からチップを運んできて巣づくりを始めた。とうとう、もう少し「巣」らしきもの、もう少し快適な巣を用意してやる必要を感じ、今日はカレイチの工事現場に行く前に、ペットショップに立ち寄った。「巣」があるかと訊くと、ある、という。そうか、やっぱりトルコにもあったんだな。(苦笑)最初は、木の幹をかたどったものを出してきてくれたが、ちょっと大袈裟な気がしてパス。次に、切り株をかたどったものを見せてくれる。これでもまだ大きい気はしたが、身体がこれから大きくなることを考えて、それを購入することにした。お値段の方は、5YTL(約400円)。トルコにしては高い。値引き交渉するが、「輸入物だから、利益ないのよ」と言われ、ケージに吊り下げるタイプのクラッカーをおまけに付けてくれた。家に帰ると、早速チップで一杯の床の上に置いてみる。「ペコ」の方が、好奇心たっぷりに近付いてきて、中に入ったり、上の穴から顔を覗かせたりしている。ところが、気に入らなかったのか、再びチップを口にくわえるや、階段を登って上の餌箱に運ぼうとする行動を始めた。「モコ」の方は我関せずと、回し車に夢中。な~んだ。気に入らないのかあ・・・。明日もダメなら、返品しに行かなくちゃ。私は諦めてしばらく放っておくことにした。夜になり、上の娘が私のところに報告にやってきた。「一緒に中で寝ているよ」どれどれ、と覗いてみると、穴の前にうず高くチップを積み上げて、中で2匹揃って静かに眠っているではないか。やれやれ。どうやら気に入ってくれたみたいで良かった。部屋に電気が煌々と点いていても、この中は暗いし、温かいし、やっぱり落ち着くんだろうなあ。・・・・一夜明けた午前。夜じゅう遊びまくっていたせいか、まだまだ2匹は安眠をむさぼっている。すっかり新しい巣が気に入った様子。巣を求めて試行錯誤した2匹の(特にペコの)無駄な努力は、これにて一件落着なり。良かった良かった。
2005/02/24
先日は、スープの問題CMに使われたトルコ人好みのエスプリの効いた会話をご紹介したが、今日の新聞で、またもやトルコ人の喜びそうなエスプリたっぷりの会話が掲載されていた。毎日、工事日誌が続いては退屈だろうから、時には洒落た会話に「イヒヒ」と笑っていただこうと思う。(一面に載っていたそれをパッと見て、笑えてしまった私は、良い意味でも悪い意味でも、トルコ人化進行中?)・・・・・ブリュッセルで開催中のNATO首脳会議に出席中のブッシュ大統領とエルドアン首相の立ち話。ブッシュ :「息子さんは、現在アメリカで?」エルドアン:「ええ、働いています」ブッシュ :「家にパンを持ち帰れるくらい、稼いでる?」エルドアン:「ええ、稼いでます」そこに、ブレア首相も加わる。ブレア :「息子さんは、アメリカで働いてるんですか?」エルドアン:「ええ、アメリカで働いています」ブレア :「どちらで働いてるんです?」エルドアン:「世界銀行で」ブッシュ :「(笑い)そのせいで、アメリカの利率が下がったんだよ。 エルドアンの息子は、まったく頭も良いし、ハンサムな青年さ」ブレア :「つまり、父親みたいに」ブッシュ :「そう、父親みたいにね」 ―2005年2月23日付『Hurriyet』紙から・・・・・エルドアン首相の次男、ビラル・エルドアンといえば、つい昨年7月にイスタンブールで華燭の典を挙げた時の様子が記憶に新しい。その時は、まだハーバード大学の修士課程在学中だったと思うが、卒業して現在は世界銀行勤めだとは知らなかった。エリート街道まっしぐら。エルドアン首相の頭の中では、ゆくゆくは彼を後継者にという考えがあるに違いない。ふたりいる娘も、現在インディアナ大学に留学中。一方、長男アフメット・ブラク・エルドアンの方は、英国留学を終えてトルコに戻り、エルドアン首相も出資する、ある有名食品メーカーのディストリビューターで働いていたが、最近になって、ディストリビューターの切り替えに伴い職を失ったという新聞記事が載っていた。普段、あまり新聞にも名前が出てこないところを見ると、長男の方はさては不肖の息子か?と思い、ちょっと調べてみたら、イスタンブール情報大学在学中に交通死亡事故を起こしており、事故後に免許証が偽造されていたという驚くような記事を発見した。5年間の求刑にもかかわらず、当時大イスタンブール市長であった父親の力で、うやむやにされたものらしい。しかし、思い出せば首相自身も、国家治安法違反の罪により被選挙権を剥奪され、服役していた過去がある。いずれにせよ、次男ビラルがエルドアン首相の虎の子、秘蔵っ子であることには間違いなかろう。ブッシュとブレアの両頭に持ち上げられて、にやけているエルドアン首相の顔を思い浮かべるだけでも、「イヒッ」と笑ってしまうのは、私だけであろうか。
2005/02/23
先週木曜日にベレディエ(区)からのルフサット(建築許可)が下りたことで、ようやく基礎工事が本格化した。予報を裏切ってフルトゥナ(嵐)があっけなく去ってしまうと、空は青く晴れ渡るようになり、気温がぐんぐん上昇。毎日春のような陽気に恵まれている。これから控えるコンクリート工事には、願ってもない日和である。一日の休息日を置いて、翌金曜日から基礎工事が事実上スタートした。1日目は板打ち。建物のくる場所の外周に、ぐるりと木の板を貼る。木の板には、対峙する位置に同じ記号、数字が振ってあり、同じ番号同士を糸で繋ぐ。この糸が、壁の位置、柱の位置を示す指示線になる。次に、コンクリートを流す予定箇所の一番底に、モロズ・タシュ(瓦礫の石:地面を掘ったときに出てきた石を再利用するのである)を敷き詰める。2日目もモロズ・タシュの敷き詰め。横の方では、鉄筋専門の人間が、基礎に使う鉄筋を四角形に曲げている。1日目、2日目ともに、土砂や瓦礫の山がまだ残されているので、これも運び出す作業も同時進行で行っている。↓こちらは2日目の進行状況。 3日目は、モロズ・タシュを上からセメントで固める。コンクリートを流し込むための木枠を打ち付けるための準備である。午後から1時間だけ見に行った私は、古代ローマ時代のものと鑑定された水道管(→発掘リポート(2)を参照)の端から約80cm分が、両脇ギリギリまでセメントで固められているのを見てあっけにとられた。ここは博物館の指示で、公開保存が義務付けられている。わざわざ3.5×6mほどの展示スペースを設け、水道管の周囲には地中海地方ならではのチャクル・タシュ(川岸や海岸から拾い集めた丸い小石)を敷き詰めるか芝を敷き詰めて、周囲を歩けるようにしようというプランだったが、これはいったいどういうことだろうか?早速夫に聞くのだが、ちっともラチがあかない。ずっと立ち会っていたはずなのに、プランが頭に入っていないせいか、疑問にも思わなかったようだ。現場監督に確かめてくれと言っても、嫌がって聞いてくれようともしない。妻の私が直接いろいろ聞くのも失礼だから、わざわざ夫を通そうとしているのに、例によって、私が面倒を起こそうとしていると思っているのだ。何度かしつこく夫を突付いて、ようやく現場監督に声を掛け、説明してもらうことができたが、どうにも納得できない。約80cm分が、コンクリートの下に消えるというのだ。庭からの水が沁みこまないように、ペルデ(カーテンの意味だが、ここではコンクリートの壁のようなものを意味するらしい)を造る関係で、そうなるらしいが、本当にそれでいいのだろうか?第一、プロジェの立案中、そんな話は一度も出てこなかった。が、納得出来ないままに、3日目はそれで終わることとなった。↓3日目の進行状況はこちら。4日目。夫は朝の飛行機でイスタンブールへ、そして日本へと旅立った。これから最低2週間は、私ひとりで何事も対応せざるを得ない。現場のチェックは1日1回、午後からで十分と夫に言われていたので、午前中は家事を済ませ、昼休憩後の1時過ぎに現場に到着する。4日目は、乾いたセメントの上に木の板を打ち付ける作業。これが木枠を立てるためのガイドラインになるのである。鉄筋担当は、四角に曲げた鉄筋と直線のものとを組み合わせて針金で結び合わせ、角柱状の網を作っている。コンクリートの芯に当たるものなのであろう。↓4日目の進行状況はこちら。 前日から気になって仕方ない水道管の処理について、建築家に確認するためオフィスに出向く。図面を広げ、水道管の位置とコンクリートを流す位置との関係について問いただす。すぐに現場で確認しようということになり、建築家、工事責任者、設計担当と4人で現場へ。こういう時に建築家のオフィスと近いのは有り難い。結果はというと、やはり、プロジェの詳細が現場監督にまで伝わっていないために、「上に建物を建てることを前提としたやり方」で進めていたのだった。建築技師の作成した工事図面が不正確だったこともあるだろう。建築家が現場監督に「ここはこうなる」「ここはこうする」と指示してくれたおかげで、済んでのところでやり直しがきいた。水道管の脇まで塗られたセメントは、後で剥がすことが決まり、初めてホッとすることができたのだった。やはり、プロジェをよく知る人間が、現場をよく見てひとつひとつ確認することが重要だと思い知らされた。少しでも疑問に感じることがあったら、遠慮なく、しかも速やかに確認することが必要である。誰がなんと言おうと、これから毎日、現場に詰めようと思う。その場に立ち、平面が立体になっていく様を眺めるのは、なにより不思議な高揚感を伴う。図面からではなかなか想像し得なかった風景が、目の前で現実化していく。漠然と眺めるだけでなく、壁に使う石素材、木材の塗装色、壁の塗装色、鉄製の欄干のデザイン、門扉のデザイン、庭のデザイン・・・それらの要素を目の前の風景に当てはめながら、ああでもないこうでもないと想像するのも楽しい。立ち詰めで疲れると、カレイチの入り組んだ小路を散歩しながら、石の積み方はこう、木の色はこう、鎧戸は、壁の色は・・・とサンプル集めをして気分転換する。「現場」って、やっぱり好きだなあ、と思う今日この頃である。
2005/02/21
「ねえ、犬が飼いたいよう」「ねえ、ちっちゃいネコちゃんはどう?」「ねえ、カレイチの家が出来たら、犬飼ってもいいでしょう?」「ねえ、オウムならどう?オシャベリするの」今まで娘たちにどんなにせがまれても、頑として首を縦に振らなかった私。「そうねえ、すごく小さいのだったら、飼えるかもしれないけど」「インコはどう?」「じゃ、ハムスターは?」「そうねえ・・・ハムスターくらいなら、なんとかなるかも。ババが帰ってきたら、聞いてみましょう」そう言いながら、いつになくその気になっている私。実をいうと私、リスやモルモット、ハムスターなどのいわゆる齧歯(げっし)目に結構弱いのだ。帰ってきた夫に相談すると、「とりあえず、今度の週末見てみようか」と、反対する素振りもない。娘たちに極甘で、何事にも楽観的な夫は、「カレイチの家が出来たら、庭で犬を飼わせてあげる」などと、しごく気軽に娘たちに約束してしまう。「犬は朝晩散歩させないといけないのよ。いったい誰が散歩させられるの?それに、客商売なのに無理でしょう?」私の剣幕に、「そうかあ・・」と約束を取り下げざるをえない夫。ペットを飼おうという話が出ると、大体いつも私が反対して終わりとなるのが常だった。その私からの反対が出なかったことで、ハムスターを飼うことは決まったも同然だった。ハムスターに関する予備知識なんか、私たちにはまるでなかったのだが、とりあえずペットショップに行けば、なんとかなると、いつもは慎重な私も、このときばかりは妙に楽観的だった。(もしや、トルコ人化が進んでいるということかも?)土曜日。カレイチの現場に顔を出すついでに、カレイチからそう遠くないペット・ショップの並ぶパッサージ(小さいショッピング・アーケード)に出掛けてみた。1軒目。ガラスケースの中に、生まれてまだ間もないような、小さいハムスターが5~6匹固まっていた。まだ毛がしっとりと張り付いて、ピンク色の肌が毛の間から透けて見えている。あまりに小さいのだと、環境に慣れないうちに弱ってしまったり、死んでしまったりするのが怖くて、そこはパス。2軒目。ハムスターは2匹だけ。1匹は茶色で、もう1匹はグレーで大きい。娘たちに1匹ずつ、同じような大きさのを2匹で飼う予定だったので、そこもパス。3軒目。3匹がグレー、1匹が茶色の全部で4匹のハムスターが元気に動き回っていた。毛もしっかりと生え揃っていて、チョコマカ動き回る様子は、見るからに遊びたい盛りという感じ。生まれて1ヶ月ほどだという。よくよく観察していると、グレーの毛の方が可愛く見えてくる。背中に黒い線が走っていて、目もつぶらな黒い瞳だ。「ねえ、グレーのがいいんじゃない?」私の心の中では、このグレーの子たちで決まりである。娘たちが口を揃えて「女の子がいい~」と言うので、とりあえず雌雄を見てもらった。繁殖させる予定はないので、間違ってもオスとメスを同居させないよう、第1希望はメス2匹。それが無理なら、オス2匹。1匹目、オス。2匹目、メス。3匹目、メス。これで、2匹目と3匹目のメスにあっという間に決定してしまう。2匹ともたぶん姉妹だろう。片方がやや大きいが、柄はそっくり同じである。で、お値段は1匹8YTL(約640円)次にケージを選ぶ。プラスティック製で手の込んだもの、ガラス製のもの・・・何種類かあったのだが、値段も安く、普及版という感じの金網のものにする。ロフトというか、2階があって、はしごも同じ金網製である。餌箱と回し車付きで15YTL(約1200円)。色は、女の子らしく赤とピンクの組み合わせにした。それ以外の床材だの餌だのは、まったく分からないので、すべてお店の人に選んで棚から出してもらう。床材として、白い松(?)から作られたというチップの圧縮パック。先端のボールを舐めると水が出る仕組みになっている給水器。餌として、穀類、種、乾燥野菜などからできているミックス・フード。歯の伸びを抑え、カルシウムの補給も兼ねるという噛み石。ミックス・フードのような餌を棒状に固め、これをケージ内に吊るすことで運動用具にもなるというクラッカー。私も夫も、何が必要で何が不要か、まるきり取捨選択できないので、勧められるがまま、出されるがまま、購入を決める。最後にすべての値段を合計してもらうと、なんと60YTL(約4800円)にもなり、驚かされた。聞けば、床材や餌類は、すべてオランダからの輸入物だという。ペット産業のまだ十分発展していないトルコでは、仕方ないことだろうが、それにしても高い。パッケージを開けて、ケージに取り付けてしまった後だから断れなかったが、例えば噛み石ひとつが10YTL(約800円)だなんて、ビックリしてしまった。ともかく、こうしてハムスターが2匹、家族の仲間入りをすることになった。なにもかもが初めてで、予備知識もまったくないところからのスタート。まずは、餌メーカーで用意していたハムスター飼育の手引きを読む。その後で、インターネットの存在を思い出した。こんな時こそインターネットが実に役に立つ。私たちの買ったハムスターは、ジャンガリアン・ハムスターという種類で、日本でも今はこれが主流なのだそうだ。が、餌の与え方とか、ケージの掃除の頻度だとか、情報源に当たれば当たるほどかえって混乱してくる。いったいどれが正しいのだろう?そして、とりあえずは、よく観察することから始めることにした。チップを掘って、その中に籠もるようにして眠る様子。1日目は頬袋一杯に餌を溜めていたのに、2日目には巣の下に隠したのか、いつでも餌があるので安心したのか、あまり溜めなくなった。ネットで野菜もよく食べることを知ったので、ブロッコリーの茎、人参の切れ端、キュウリの皮をやったら、ブロッコリーの柔らかい部分とキュウリの皮を喜んで齧っている。2階に餌箱を置いていたが、金網で足元が不安定なせいか、あまり気に入られてない。で、ヨーグルトの四角い蓋をふたつ繋げて床とし、餌箱と野菜専用の陶器の器を置いて食事専用コーナーとしたら、足元が落ち着くのか、ずいぶん気に入ったようだ。巣の場所も決まったようだ。口でチップをくわえ、運んでチップの山を作っている。そこに埋もれるようにして、2匹が仲良く眠っている。少しずつ手に慣れて、指を突っつくようになってきた。マニュアルも参考になるが、これからひとつひとつの習性を発見しながら、我が家のハムスターの個性に合わせた環境を整えていこうと思う。なにはなくとも、見ているだけでやっぱり可愛いのだ。キーキーキーキー、カタカタカタカタ・・・キーキーキーキー、カタカタカタカタ・・・今夜も、回し車を回す音が聞こえて、すぐには眠れそうもない。この音にも、そのうち慣れて、ないと却って眠れないようになるのかも?
2005/02/20
イスラム教徒にとって、昨日2月18日の夜は、「アシューレの夜(Asure Gecesi)」、翌19日の今日は「アシューレの日(Asure Gunu)」であった。(※2005年の場合)まずは、アシューレ(Asure)の写真を見ていただこう。「アシューレ」。別名、「ノアの方舟のプディング」小麦、ヒヨコ豆、白いんげん豆、米、松の実、レーズン、干しアンズ、干しイチジク、アーモンド、ヘーゼルナッツ、クルミ、ザクロといった、ありとあらゆる穀類、乾果、ナッツを用いたトルコ風プディングの一種。砂糖と水で小麦や豆を柔らかくなるまでコトコト煮込み、そこに乾果を加え、仕上げにナッツやザクロを散らす。ほんのりとした優しい甘さと何種類もの食感と風味を同時に味わえるのが魅力で、お粥に慣れた日本人には美味しくいただけるお菓子だと思う。かくいう私も、シロップべたべたのただただ甘いトルコ菓子の多い中で、唯一好物と言えるのがアシューレである。で、このアシューレは、昨夜上の階のコムシュ(隣人)からいただいたもの。すごく上手に出来ていたので、忘れずに写真を撮っておいた。イスラム教徒でもなく、イスラムの知識をほとんど持たない私にとっては、毎年、クルバン・バイラムの1ヵ月後くらいに、こうして隣人からアシューレのおすそ分けをいただいて初めて、「ああ、今日がアシューレの日だったのか」と気付くという次第。ヘジュラ暦(イスラム暦)の1月にあたるムハッレム月(Muharrem ayi)を通称アシューレ月といい、その10日目の夜がアシューレの夜、その翌日がアシューレの日になるという。この日にはアシューレをたくさん作り、ご近所に配る習慣がある。そのおかげで、最低年に1度は、手作りの美味しいアシューレをいただく幸運に恵まれることになる。ムハッレム月は、コーランによれば、宗教的価値を与えられている4つの月のひとつだそうで、この月の最も重要な夜がアシューレの夜なのだという。例えば、アシューレの日に起こった出来事として、このようなものがあるという。・天地が創造された・アダムの懺悔が認められた・ノアが洪水から救われた・モーゼが紅海を渡った/エジプト王の悪行から救われた(モーゼの奇跡)・キリストの誕生と復活、昇天・イブラヒムが誕生した/火から救われた・スレイマンが王位を授けられた・エユップが病気から救われた・ヒュセインの殉教など。アシューレの日は宗教的に重要な日であり、イスラム教徒としては、前後1日ずつを併せて断食を行ったり、親戚を訪ね歩いて贈り物を配ったり、喜捨をしたり、礼拝を行ったりすることが奨励される。しかしながら、アシューレを煮ることは、本来マホメットの教える宗教行為には含まれていない。その起源はノアに帰せられるという。洪水がいまや終わろうという時になり、船に残っているすべての食べ物を使って作ったものが、このアシューレなのだという。後に、この日を記念するために毎年作るようになったのだという。それが、別名「ノアの方舟のプディング」とされる由縁である。・・・・玄関のチャイムが鳴ったとき、夕食の支度で忙しかった私は夫に代わりに出てもらった。「誰?」という私の問いに返事もせず、夫はふたつのスープ皿を両手でひとつずつ持ち、キッチンまで運んできた。「アシューレが来たよ~」「えっ?じゃあ、すぐにお皿を移し変えないと」と慌てたが、すでにドアは閉まってしまった後だった。私は、こんな場合の作法がいまだによく分かっていない。今までアシューレを持って来てくれた隣人は、相手がお返しの心配をしなくて済むよう、その場ですぐ空のお皿を持ち帰ってくれていた。なので、このお皿に何を入れて返そうか、咄嗟に頭に浮かんだのは、そのことだった。それにしても、4人家族にスープ皿にたっぷり2杯だなんて、多いなあとは思ったのだが・・・。夕食が済んで、いただいたアシューレを早速いただこうとした時、ハッと気付いた。「ねえ、これを持ってきたのは、誰?」「言ったじゃない。上の階の建築屋さんとこだよ」「そうじゃなくて、持ってきたのは奥さん?」「男の子だよ」「で、ふたつどうぞ、って言ったの?」「いや・・・お盆にふた皿載っかってて、どうぞって言うから、ありがとうってもらったんだよ」「えっ?じゃあ、自分でふた皿取っちゃったんだ。そういう時は、普通ひとつだけ取るものでしょう?他のお家にも順番に配ってるんだから、お盆にいくつも載ってるのが当たり前だし・・・大きいスープ皿にふたつだなんて、おすそ分けにしては多すぎだよ」「じゃあ、間違えて取っちゃったってこと?そういえば、男の子、僕が取ろうとしたとき、僕の顔をじいっと見てたんだよね。なんでじっと見てるかなあ・・って思ってたんだけど・・・」「やっぱり、そうだよ。ババが間違えてふたつも取っちゃんたんだ。きっとビックリしたんじゃない?恥ずかしいなあ~」「ねえ、今からひと皿返してきてよ」夫は私に尻拭いを押し付ける。ええっ~、恥ずかしい~と思いながら、私は仕方なく皿を持って、階段を上がった。ドアを開けたご主人に、「間違ってふたつ、いただいてしまったみたいで・・・」と訪問の目的を告げる。「いや、ふたつ差し上げましたから」と、ご主人はにこやかな顔。「本当に、うちがいただいていいんですか?てっきり、夫が誤解したものと思って、お返しにきたのですが・・・」廊下の奥にあるキッチンのドアが開いて、奥さんや親戚の女性も顔を出した。皆、不自然なくらいニコニコしている。目の前に立つご主人も、今にも笑い出しそうなほど。「いやあ、お宅に差し上げましたから。心配しないで、召し上がってください」そう言われれば、それ以上粘るのも失礼だ。私は疑惑を払拭しきれぬまま、自宅に戻った。「ふたつ差し上げたから、心配しないで、って」夫にはそう報告したが、あのご主人の、今にも笑い出さんばかりの笑顔を思い出すと、やっぱり夫の勘違いに違いないと思えてきた。「あ~恥ずかしい。きっと、男の子が帰ってから、ふたつ持ってかれちゃった~って、報告したんだよ。皆んなで食事しながら、ババの話でもしてたんじゃない?きっと」恥ずかしさもさることながら、目の前の皿を両方とも夫に持っていかれた時の男の子の表情と、あくまで暢気で単純な夫のそのときの様子を想像すると、無性に笑いがこみ上げて止まらなかった。※「方舟」をうっかり「箱舟」と打ってしまったので、訂正しておきました。
2005/02/19
ここ数日トルコ・メディアを賑わせたニュースの中で、私の関心を惹いたものがいくつかある。そのひとつに、文化観光大臣エルカン・ムムジュの辞任・離党問題もあるのだが、政治の話が苦手ということもあり、この件に関してはあまり触れたくない。親イスラム政党であるAKPの中にありながら、頭にスカーフを被らない美人の奥様と連れ立ってコンサートやファッションショーに出掛けたりするライフスタイルや、自身のスーツの着こなしなどに見る現代性。若さ。実行力。それらの印象を総合し、漠然とムムジュを買っていた私としては、残念である。新しい政党を立ち上げるとか、いろいろな話がでているらしいが、当面は様子見を決め込もうと思う。私たちにとっての気がかりは、カレイチの復興プロジェクトの理解者であり推進者となるはずだったムムジュの辞任によって、カレイチの将来にまたもや薄暗い雲がかかるだろうことである。願わくば、新任の大臣には、このプロジェクトの意味を理解し、間違いなく実行できるだけの器量のある人物が就いて欲しいものだ。・・・・ヨーロッパで放映されたあるCMが、外交問題にまで発展している。結果として、CMのスポンサー会社は、放映を中止することにしたそうだ。ドイツ、マンハイムに本社を持つトルコ企業であるB社は、食品卸業者としてヨーロッパでは有名な企業のひとつに数えられるという。自社の取り扱い製品であるインスタント・スープのCMに、ヨーロッパに住むトルコ移民たちの身に降りかかっている現実を風刺のかたちで取り込んだところ、自国の威信を傷つけるものだとして、ブルガリア政府が在アンカラ大使館を通じてトルコ外務省に通告するという事態になったそうだ。問題となったCMのシーンはこんな感じだ。・・・ヨーロッパに暮らすトルコ人夫婦が、自家用車によるトルコへの帰省途中のこと。妻は夫に声を掛ける“Okkes'im langsam(=yavas) git”(オッケシュ、ゆっくり行って)そこへ現れたユーゴスラビア、あるいはブルガリアの警官が車を停める。“Komsi(=Komsu) hizli gittin 200 yuro”(お隣さん、スピードの出しすぎだ。200ユーロだ)夫は“Yuromu alirsin.Yok yuro”(ユーロを取ろうってのかい。ユーロなんかないよ)と答える。警官は“Komsi bir corba parasi”(お隣さん、チョルバ・パラスだ)と言って、なおもお金を要求する。「チョルバ・パラス」というのは、直訳するとスープのお金、スープ代だが、実はワイロの隠語でもある。夫は警官に対し、“Parayi ne yapacan(=yapacaksin)?”(金が何になるんだい?)“Al sana corba, corbanin hasi burada”(ほらよ。スープだ。スープの本物はここだ)そう言って、5袋ほどのインスタント・スープの包みを渡し、“Hadi cuss(tschuss)”(じゃあな)と去っていく・・・このCMが流れるや、トルコ外務省は「不快だ」とするブルガリア大使館からの正式抗議を受けることになり、外務省からさらにB社へと通告が行われたらしい。B社社長はそれに対し、やや逃げ腰ながらもきっちり自己弁護している。つまり、毎夏のようにトルコ移民がワイロを要求されていることは新聞にまで掲載される事実であり、それをそのまま映像化したまでで、悪い意図はどこにもない。第一、ブルガリア警察であるとは、ひとことも表現してないし、ユーゴ警察に似ているとも言える。特定の国に見えないよう、相当努力したつもりだ、と。トルコ人好みのエスプリ(洒落)と風刺に満ちた、なかなか面白いCMだと私は思うが、ブルガリア政府と警察にしてみれば、トルコ人にとっての「お隣さん」とは自分たちのことに他ならないのだから、躍起になるのも無理はない。ところで実際に、トルコ移民たちはブルガリアの警察官から頻繁にワイロを要求されているのだろうか?実際に、そうなのだという。パスポート・コントロールや税関、道路上で、「チョルバ・パラス、もしくはハヴァ・パラス」と言って、5~10ユーロ取り上げられるというワイロ問題が、年々拡大しているのだそうだ。(ハヴァ・パラスとは、直訳すると空気代だが、成句として「ショバ代」のような意味をもつ)昨年ブルガリアでは、ワイロ問題に対する大規模なオペレーションが行われ、200名を越す役人・公務員が更迭されたそうだ。しかし、ワイロは一向になくならず、トルコから新聞記者や少数の国会議員が監査の目的でブルガリアに視察に出掛けたところ、彼らさえワイロを渡す羽目になったという。ワイロ体質改善中なんだから、事実とはいえ、CMなどで恥を喧伝されては困るというところだろう。ブルガリア警察には、これを鑑として、ワイロの習慣とワイロ警官を一掃するよう、せいぜい努力してもらおうではないか。なおこのCM、シリーズ化する予定だったらしいから、コンセプトの変更を余儀なくされたことだろう。面白CMとして、続きを見たかったなあ・・・と部外者は暢気に思うのだが・・・。
2005/02/18
早朝、空はまだ薄ぐもりだった。昨日の午後から随分と降った分、今日はこのまま降らないでくれるのでは、と淡い期待を抱いたが、どうやら甘かった。窓ガラスにポツリポツリと当たりはじめた水滴を見て、子供たちを学校に送っていく際、念のためと傘を携えたのだが、徒歩5分という短い道程の途中で突然雨脚が強まり、傘が大いに役立った。学校に駆け込むと、すでに外は土砂降り状態。そこへ、夫からの電話が入った。今しがたオトガル(バスターミナル)に着いたところで、待っててくれれば学校に迎えに行くからという。これしきの雨、どうってことないのになあ・・・と思いながら、せっかくの配慮を無駄にしないよう、夫の迎えを大人しく待つ。郷里での話し合いや手続きについて夫の報告を聞く。すべてうまく解決したのだそうだ。内心ほっとする。また、カレイチの工事現場監督ともすでに連絡が取ってあり、今日は作業は雨のためできないという。次の日曜日には夫がアンタルヤを離れるので、その前に本格的な基礎工事(木枠を巡らし、鉄筋を埋め込み、コンクリートを流し込む作業)に取り掛かっておきたかったのだが、あと少しというところで雨に祟られている。いずれにせよ、ベレディエ(区)からのルフサット(許可、ここでは建築許可)がまだ下りないので、今のところ準備しか行えないのではあるが。・・・・昨年末にミュゼ(博物館)からの許可が下りた後、予定では1月の10日過ぎにはベレディエの許可も下りるだろう、というのが建築家サイドの読みだった。しかし、例によってなかなか進展せず、1ヶ月経っても状況に変わりはなかった。1月の第1週には地盤検査も行い、検査結果はすぐ出る「はず」だったのに、これまた1ヶ月も出てこなかった。建築請負人の問題もなかなか解決しなかった。請負人資格を持つ人間が限られている上、金にならないとかいろいろな理由で、知り合いの請負人にも断られ、最終的には建築家が「このために」よく依頼する請負人に来てもらい、いわば謝礼と引き換えに名前を貸してもらったのだった。タプ(不動産権利証書)の控えや土地台帳なども、最初の提出から何ヶ月も経つと無効になるので、その度に新しい控えや書類を作ったりしないといけない。これらの書類を発行してもらうのに、いちいち農業銀行の指定支店まで手数料を払いに行かなければならないのも煩わしい。行ったり来たりするのに車で往復30分はかかるのだ。そしてなにより大きな問題は、これら諸々の法的手続きが、土地の持ち主、建築主である夫本人なしには、まったく捗らないこと。結局、夫がアンタルヤに戻ってきた今月初めになって、ベレディエの要求するすべての要件が揃ったのだった。ところが今度は、待てど暮らせどルフサットが下りない。建築家本人も、スタッフも、毎日最低1回は電話したり、窓口に詰め寄ったりしてくれるのだが、たった一人しかいない建築課の責任者がいっこうに仕事を進めてくれないらしい。日頃、温厚できわめて紳士的な建築家が、この責任者と顔を合わせると「思わずキレそうになる」というくらい、業務怠慢が明白らしい。まず、業務時間中に席にいない。あるときは外で立ち話。あるときは遅刻、あるときは早退。席に来たと思ったら、まずお茶。目の前で人を待たせておきながら、「これを飲むまで待ちなさい」などと平気で言うそうだ。ちなみに、この責任者は女性。建築面積を計算し、添付書類ともつき合わせて法律に適っていれば、すぐにも許可を下ろすことができるはず。しかし、それを簡単にはやりたくないらしい。提出した図面には、1階の面積いくら、2階の面積いくらときちんと明記されているのに、「総面積を計算して提出しなさい」などと、くだらないアラを探して時間を稼ぐらしい。アンタルヤでは名の通った売れっ子建築家の彼は、同時に何本ものプロジェを抱えているので、彼女の存在は目の上のたんこぶ以外の何者でもないという感じだ。なにしろ、ミュゼに提出する前段階のプロジェと、ミュゼから帰ってきてルフサットの申請用のプロジェと、その両方がこの建築課の責任者のサインひとつにかかっているのだ。この頃は、オフィスに夫が顔を出すと、建築家は大袈裟なゼスチャーで、赤い電話の受話器を取り上げる。「今、目の前にオーナーが来てるんだ。一体ルフサットが下りるのはいつになるんだね?」一種恒例のパフォーマンスとして、そんな風にプレッシャーをかけてくれる。なおベレディエは、個人の所有地にもかかわらず、1平方メートル当たりいくらという建築許可料?(正確な名目は不明)まで徴収するらしい。いってみれば「ショバ代」のようなものである。これでは、まるでマフィアではないか。とにかく、そんなこんなで、ルフサット申請の諸手続きに、すでに4.5ミリヤール旧TL(約36万円)もの経費がかかっているのだ。なんとかしてもらわないと、こちらが困る。・・・・午後には雲が晴れたのだが、現場には水が溜まっていて、作業ができなさそうだという。結局、終日休息日となった。それでも、建築家と工事責任者に確認したいことがあったので、午後からカレイチに出向き、建築家のオフィスに顔を出す。彼は、またもや赤電話を取り上げる・・・・。今日中にはルフサットが下りそうだ、という話だ。明日、明後日の天気さえ良ければ、この日曜日には基礎を打てるという。建築家といくつかの確認事項について打ち合わせ、オフィスを後にした。午後4時過ぎ。建築家から、夫の携帯に電話が入った。とうとう、ルフサットが下りたという。や~れやれ。。。やっと、である。ミュゼの許可が下りてから、ここにこぎつけるまで、1ヵ月半以上かかった。これから、基礎工事は「本番」に入ることができる。「工事自体は、始まれば早い」と工事責任者も太鼓判を押している。明日からは、すべての準備、作業が障害なく、迅速に進むことを願うばかりだ。あとは、フルトゥナさえ、大した事なければなあ・・・・。インシャッラー・ヤーマスン!(どうか降らないでおくれ)
2005/02/17
昨日から暴風が吹き荒れている。南西風、いわゆるロドスである。地中海上からやってくるこの風は、大抵は厚い雨雲を伴うのだが、今回は雨雲は強風に押されてトロス山脈の麓あたりまで後退しており、今のところ雨がほとんど降っていないのが有難い。気温も14~5℃はあるため、生暖かい感じがする。気象庁の発表では、この天候は10日間は続くものと予想されている。今冬のフルトゥナは、どうやら規模が小さい代わりに長期化する傾向があるらしい。夫は、昨夜8時半の夜行バスで郷里に出発した。3週間前に亡くなった義兄の財産分与の問題を兄弟全員で話し合い、必要な手続きを済ませた上で、再び今夜の夜行バスでアンタルヤに戻ってくるのである。ここ数日カレイチの掘削現場には、夫ひとりで出掛けてもらっていたが、今日は私が出向く予定だ。毎日の人足の人数やモトル(トラクター)の使用回数を確認することは、毎週末の支払い額と付き合わせるためにも必要だし、問題は発生していないか、どの作業がどこまで進んでいるか見渡すために、最低1日1回顔を出すことは、人足たちの士気や作業態度にもかかわってくる。というわけで、朝は少しゆっくりし、10時半頃になってからカレイチに出掛けた。私が現場を見るのは日曜以来だから、さすがに多少は進んだのが分かる。コンクリートの中に埋め込む鉄骨も昨日までに運び込まれ、必要な長さにカットされて準備してある。今までに溜まった土砂のかなりの部分が、運び出されている。10日以上続いた掘削も、ようやく終わりが目の前に見えてきた。それにしても、ここまで日数がかかるとは、夫も私も予想していなかった。なにしろすべてが手作業。鶴嘴で掘り、スコップで土砂を掬い、猫車に入れる。それをモトルまで運んで・・・という具合で、6人も働いているのに、なかなか終わらないのだ。それに、この効率の悪さはトルコならではだと思うが、鶴嘴担当が掘っている間、スコップ担当は横で立って見ているだけか、煙草を吸っていたりするだけ。スコップ担当が土砂を掬っている間は、その逆のことが起きている。だから、どうかすると、1日の半分以上は休憩している勘定になる。2台ある猫車が1台空いているのに、有効活用されないで放ってあり、猫車担当がモトルまで土砂を運びに行って戻る間、スコップ担当がずっと休憩しているのも、私には怠けているようにしか見えない。痺れを切らして、「1台空いてるのを放っておきたくはないので」と、私自身が猫車を押しながらスコップ担当の前に運び、暗に仕事をするよう促すと、モトルの上で運ばれた土砂を動かすだけだった人足の一人が猫車担当になってくれ、2倍は捗ることになった。これでよし、と。それ以外にも、ここトルコでは手順の悪さが何かと気になる。今日運び出している土砂・瓦礫だが、もともとそこは博物館鑑定員の立会いの下での発掘の際に開けた穴に、後から出てきた土砂を捨てたもの。次から次へと積み上げたので、大きな山になっていたのだが、今頃になって運び出すなら、どうして最初から穴を開けたままにしておかなかったのか?「とりあえず、横に積んでおこう」的なトルコ式のやりかたは、トルコ暮らし4年目にもなって随分見慣れたつもりだが、やっぱり無駄が多いのに気付く。とりあえず積んだ土砂の山を、今度はこっちに、次はあっちへと動かしていく。最後にモトルで運び出すなら、最初から丁度いい場所に積んでおけばいいのに、と思うのは日本人だけか?土砂がここにも山と積まれた庭の一角では、別のふたりが穴を掘っている。下水管の埋め込み作業だという。そういえば、夫もそんなことを言っていた。まず水道局の方から、下水設備に不備がないか点検が行われ、修繕・工事をした後でないと、建物自体の建設許可が下りないのだと。だから真っ先にやっているのは分かるのだが。山と積もった土砂を掻き分けて深さを決め、穴を掘っている。すでにセメントで固めているので、今更何を言っても無駄だろうが・・・・。その横に、高さ40cmほどにもなるコンクリート製の円筒と、その上にかぶせるのだろう蓋が準備されているのだ。しかし、重ねていったときに、いったいどうなる?私の目には庭の地面の高さより、20~30cmは突き出しているように見えるのだが・・・。後からやってきた担当者にその旨を問い質すと、後で好きな高さで切ればいいという。オーケー。外観はいいとしよう。しかし、こんな地面近くに決めてしまって、半地下にあたるトイレの排水は、うまく出来るのだろうか?うまく流れなかったり、逆流したりすることはないのだろうか?この深さは、昨日のうちに、工事責任者と夫の立ち会いの下で、水道局の人間が決めたのだという。水道局の決めたことにいまさら反対はできなかろうが、私には不安感がぬぐえなかった。今日は昼食も、ファーストフードの店でサンドイッチとコーヒーで簡単に済ませ、午後からも掘削現場に立ち会う。子供の迎えがあるので、3時過ぎにはカレイチの地所を後にした。気温がそう低いわけでもないのに、風が強いので、戸外にいるというだけで身体が冷える気がする。ミニバスに乗り、しばらくすると身体が温まって、少しずつ眠くなってきた。あと5分ほどで自宅という頃になって、私は意識を失い、夢うつつの世界へ入り込んでしまったらしい。目を覚ましたときには、一瞬どこか分からなかった。キョロキョロと窓外を眺めると、ぼんやりとした記憶が蘇った。ここは・・・前に通ったことがあるぞ。やばい!過ぎてしまった!自宅から5分ほど過ぎた住宅街をバスは走っていた。時間にして10分弱のこと。うっかりバスの中で寝過ごすなんて、トルコに来てから初めてのことであった。慌ててバスを降りると、丁度よく前方から市中に向かうミニバスがやってきた。それに乗り込み、自宅前で降りる。幸いにも、時間の余裕を見てカレイチを出ていたので、子供たちの学校の迎えには遅れないで済みそうだった。家に入ったところで、雷が鳴りはじめ、急に雨足が強まった。今回のフルトゥナは風ばかりかと思いきや、ここに来てとうとう雨も始まった。この分では、人足たちも引き上げざるをえなかろう。明日以降も天候しだいでは、どうなるか分からない。やれやれ、遅々として進まぬ工事準備。一体いつになったら本格的な工事が始められるのであろうか・・・・?
2005/02/16
3日前から始まった土砂・瓦礫の運び出しは、本日も続いているはずだった。掘削の手は休めて、今日のところはとりあえず搬出のみ。朝食を済ませると、夫はいったんカレイチに確認に行く。帰ってきた夫の車で、午前中はパザールに出掛け、しこたま野菜、果物を買い込む。昼食は、子供のリクエストでハンバーガー。その後、再びカレイチに立ち寄り、人足たちに声をかけた後、今日はボウリングに出掛けることにした。先日のmihriさんの日記を読んで、久々にボウリングもいいかも、と思い至ったというわけ。実は、アンタルヤに来てからボウリングをするのはこれが初めて。そして、私にとっては、およそ20年振りのボウリングとなる。私の小学生時代といえば空前絶後のボウリング・ブームで、日曜や祝祭日ともなると、それこそ年寄りから子供まで、家族・親戚揃ってボウリング場に出掛けたものだった。大学時代を最後に、パッタリと足が遠のいてしまっていたので、シューズを履くのもボウルに触るのも、正真正銘、20年ちょい振りのことである。娘たちもそろそろ大きくなったことだし、自分の子供の頃を思い出すと、親や親戚の人たちに混じって、軽いボウルから始めたわけだから、雰囲気を味わらせるだけでもと、娘たちも気軽に連れ出した。大学時代にしていたといっても、趣味でもサークルでもなんでもなく、体育でボウリングの授業をとっただけ(私の通っていた大学は一風変わっていて、大学というのに体育の授業があったのだ)なのだが、基礎を学んだお陰で、運動音痴の私でも150台くらいはいけていた。だから正直言うと、まだいけるのではと、半ば自信を持ってアプローチについたのだが、なかなかイメージ通りにはいかないもので、20年の歳月が身に沁みただけだった。どうしてかな、と頭を捻る。足と手の動きがどうもチグハグなのだ。つい気張って、足の方が速くなってしまう。足とフォームに気を取られて、腕の振りがおろそかになってしまう。力が入りすぎて、腕がまっすぐ振れてないようだ。最初の数回はスピードばかり一人前で、見事にガーター続き。中盤辺りからガーターは減ったが、ストライクなどひとつも取れないまま、あっという間にゲームは終わってしまった。夫の方は、とにかく数当てることだけに集中し、フォームも投げ方もお笑い一歩手前というところ。上の娘はというと、シューズの方は見つかったのに、軽くて指穴の小さいボウルが置いてなかったので、重いボウルと一生懸命格闘していた。そのほとんどはガーターに終わったが、最後の方では6本ほど倒す健闘を見せていた。下の娘は完全に見学モード。ボウルを撫で回して手の平を真っ黒にしてみたり、ボウルとボウルの間で指を挟んで泣いてみたりと、まだまだボウリングは無理そう。ようやく調子を取り戻そうという頃になって終わったので、私には消化不良の感があるが、上の娘も結構気に入ったようで、レディス・デーの水曜日にまた来ようよ、と乗り気である。学校も宿題もあるのに、一体どうする気なの?と笑い飛ばす。もっとも、大人6YTL(約480円)、子供5YTL(約400円)の利用料が、月曜日には4YTL(約320円)に、水曜日は女性はタダ!の文字通りレディス・デーになるらしい。そう聞くと、やっぱり来ようかな、なんて気になるから現金なものである。自宅に帰ってから、軸足となる左足の向こう脛のあたりが筋肉痛になりはじめているのに気付いた。一夜明けてみれば、大腿部の付け根の辺りも、なにやら痛い。情けない。やっぱり寄る年波には勝てぬということか。これしきの遊びで筋肉痛だなんて・・・。
2005/02/13
●7日目昨日に比べると、冷え込んだ朝だった。今日も9時半頃からカレイチに出掛ける。昨日に引き続き、溜まった土砂・瓦礫を動かす作業が行われている。現場監督とも打ち合わせ、午後からはモトル(トラクター)を使って、土砂・瓦礫を運び出すよう決める。ところで、例のCM撮影への車提供を依頼した担当の青年からは、なかなか連絡が入らなかった。「それ、いらねえや」なんて監督に言われて、使わないことにしたんじゃない?と夫とも話をする。12時のお昼休憩となり、カレイチをいったん後にした。昼食は自宅に帰って済ませ、その後タプ・カダストロ(土地台帳管理・登記所)に出向く予定で、私たちは車を走らせていた。そこへ、夫の携帯が鳴る。夫は「どうして、朝電話してくれないの?」なんて答えている。「わかった。じゃあマクドナルドのところね」そう言って、携帯を切ると、夫は車をUターンさせ始めた。「なんだって?今すぐ使うって?」「これから使いたいんだってさ。タプ・カダストロは、明日にするよ」撮影は、アタテュルク大通りのマクドナルドの先を右に入ったところらしい。確かに、その入り口には、進入禁止を示す赤い三角が置いてあった。それを一旦どかし、カレイチ内に入る。少し先に進むと、場所はすぐに分かった。スタッフ、野次馬含めて、およそ30人ばかりの人だかりができており、反射用のパネルやライトなどの撮影機材が置かれていたからだ。あるカットの撮影がちょうど行われていた。モデルがサッカーボールを蹴るシーンが、何度も繰り返されている。ずっと横に居るわけにもいかないので、車の鍵を預け、(なにぶん古いので)夫が動かし方のコツを教えて、とりあえず昼食をとりに行くことにした。40分ほどしてレストランを出、私たちの仕事場、つまり掘削継続中の地所に戻る途中で、撮影場所を通った。うちの車はどこかな?と見ると、ない。どこに置かれているのかは分からないが、とにかく目の前には、我が家のスカイブルーのフォルクスワーゲン・ミニバスではなく、真っ赤な旧型ベンツが置かれ、その後ろで子供たちがサッカーをしているシーンが撮影されていた。「なんだあ。赤いベンツにしたのかあ」子供たちがサッカーをするシーンで使うと聞いてたので、出番がなくなったらしいことに、ちょっとガッカリ。それでも、CM撮影なんて今まで見るチャンスはあまりなかったので、珍しさもあって、しばらくそこに留まり、同じシーンが何度も繰り返されるところを見学した。撮影用に選ばれた場所は、カレイチの中でも、特にこれといった特徴のない庶民的な小路である。ペンションや民家に挟まれたジグザグ型の路地はイスタンブールやブルサなどの旧市街にはよく見られるものだ。いつもは閑散としたその路地を、エキストラの通行人が忙しく出たり入ったりするところは、私の目には不自然でもあり、妙に脚色された空間という感じがした。そうか、アンタルヤを、カレイチを撮るのではなく、気候がいいから選ばれただけなのね。イスタンブールが雪でどうしようもないから、それでなんだ。そう結論付けると、なんだかどうでもよくなって、私たちは「自分たちの仕事場」に戻ることにした。 現場にはすでにモトルが到着していた。今日はこれから、2~3回は土砂を運び出すことができるだろう。午後からは雲が開け、太陽が燦々と照り始めたため、コートを着ていると汗ばむほどだった。人足たちが土を岩を掘る横で、朝から立ち詰めだった私は、次第に頭がぼうっとして気分が悪くなってきた。食事の後ですぐに立ち仕事をする時、大抵こんな症状が起きる。軽い貧血症状だろうか。子供たちの迎えにはまだ時間があったが、私は後をおっとにまかせ、一足早くドルムシュで帰ることにした。ドルムシュ乗り場まで行く途中で、撮影現場に差し掛かったとき、夫のオンボロワゴンが、隅のほうに戻って来ていた。それを確認すると、すぐ通り抜けるつもりだったが、踵を返し、担当の青年の肩を叩いて念のために聞いてみた。「で、うちの車、使ったんですか?」私の質問に小心者らしい青年は少しうろたえる。「いや、まだ使ってないんですけど・・・」「まだかかりそう?」「そう長くはかかりませんから。あと1時間かそこら」そう。やっぱり使わないみたいね。まあ、いいか。現場での掘削作業立会いを終え、撮影現場から車を引き取って帰ってきた夫の話では、担当の青年は「ちょっとだけ使った」と説明したという。さすがに「まったく使いませんでした」とは言えなかったんだろう。まあ、世の中こんなものよね。ひょっとしたら・・・なんて淡い期待を抱いてたけど。赤い旧型ベンツも悪くはなかったけど、我が家の真っ青なオンボロワゴンの方があの路地には合うような気がしたけどね。私は。初公開!我が家のオンボロワゴン
2005/02/10
●4日目今日も、空は真っ青に澄み渡り、北風が身を切るように冷たい。今日から、全国の小中学校、高校で後期の授業が始まる。このところ深夜の読書がすっかり癖になっている私は、前夜の夜更かしのせいで、朝7時10分前になって夫に声をかけられるまで、まったく目が開かなかった。重い身体を起こし、朝食の支度を始める。子供たちは、私たちの立てる物音で、7時過ぎには揃って起きてきた。たっぷりの朝食を摂ると、子供たちは夫の車で送られ、時間通りに登校していった。9時半には、私たちもカレイチの地所に出掛けた。すでに4人の人足は定位置につき、指定された場所を掘り進めている。今日までのところ、道路から約1m程のところまで掘り下げているところである。建物の外周、および壁、柱の予定されている線に沿って、硬い岩盤にぶつかるまで、さらに最低1mは掘り下げる必要があるらしい。この調子でいくと、まだ2~3日はかかるだろう。時間の経過とともに風向きが変わり、時おり冷たい風が吹き抜けるが、そうそう車の中でじっとしていることもできない。めったにはないが、レリーフの施された大理石の塊が出てくることもあるからだ。初日の印象でわかったところでは、新顔のふたりは、大きい石と見るとどんな石だろうとかまわず小さく割ろうとするので、大理石好き、レリーフ好きの私には気が休まらない。結局、立ち詰めで人足たちの作業を見守ってしまう。11時半頃から休憩を取り、温かい飲み物と軽食を摂った以外は、昼食もせず、3時半頃まで現場にいたせいで、私の身体はすっかり冷え切ってしまっていた。早めの夕食ともいえそうな昼食をとってからも、私の手は冷たくかじかんだまま。満腹感と疲れもあって、眠くて眠くてしかたなくなり、ベッドにもぐり込んで小一時間ほど横になった。3週間振りの授業を終えた子供たちを迎えに行った時、上の娘の担任が朝の娘の様子を報告してくれた。休暇中、何をしたか、どこに行ったか、ひとりひとり報告をさせた時、「どこにも行かないで、ずっとここにいた」と言いながら、涙をこぼしそうになったという。子供たちには、本当に可哀相なことをした。私ひとりで簡単に連れて行ける場所があれば、また天気が良かったならば・・・。義兄のことや夫の病気、工事のことがなかったならば・・・・。もう少し家族揃って、楽しい思い出が作れたかもしれない。まあ、休暇はまたやってくる。次こそは、いっぱい出掛けて、いっぱい遊ぼうね。そう娘に語りかけるしかなかった。●5日目今日も、青空に寒風が吹き抜けている。コートを羽織り、ファスナーもしっかり閉めてバルコンに出た。洗濯物を干す間にも、身体は冷え切り、手はかじかむ。家の中に入ると、反動で頭がぼうっとする。前日もすっかり身体を冷やした私は、今日はとても出掛ける気がしなかった。掘削の立会いは夫ひとりにまかせて、私は一日家に残り、溜まっている家事を済ませたり、ブラウニーを焼いたりして過ごすことにした。そして、昼食をとりにいったん戻ってくる夫のために、早くから昼食の支度を始めた。12時半にチャイムが鳴り、夫が帰ってきた。私の顔を見るなり、夫は面白いニュースを聞かせてくれた。帰りがけ、カレイチのいつも通る道を車で走り抜けている時、「ちょっとすいません!」と言って車を停める人がいたという。夫の愛車のポンコツワゴンを朝方見かけ、それが気に入って、また戻ってくるのではないかとその辺りで待っていたのだそうだ。その人はCMフィルム製作会社の人間で、Gで始まるある有名カミソリ・メーカーのコマーシャル撮影に、夫のポンコツワゴンを使わせてほしいと言ってきたという。夫の愛車は、69年製のフォルクスワーゲンのミニバス。丸みを帯びたコロンとした形と、鼻先に下がったスペアタイヤのおかげで、まるで豚の貯金箱のごとき愛嬌のある奴である。同年代のVWミニバスは、アンタルヤだけでも5~6台は見かけるのだが、夫のそれは鮮やかなスカイブルーに塗ってあり、その色を見て「これだ!」と思ったのだそうだ。夫は、お気に入りの愛車に目を留められただけでも、満更でもなさそう。イスタンブールから監督が到着する木曜日に、撮影は行われるらしい。どんなシーンに使われるのか、興味津々。道の端に停めておくだけらしいのだが、バックに映るだけでも、なんだかワクワクする。もちろん、その日はデジカメ携帯で私も見学させてもらうつもりである。まあ、撮影だけしておいて、ボツになることは十二分に考えられるので、なにも期待しないでおこうと思うのだが、ひょっとしたらひょっとして、あのポンコツワゴンの姿を繰る日もテレビ画面で目にすることになったりして?夫が言うには、時間でいうと11時頃。なにかが来るような予感があったという。もしかしたら、新しい仕事の依頼でも入るのかな、と思っていたら、このテクリフ(オファー)が来たという次第。撮影当日も、ワゴンと同じ色の、綺麗な青空が広がってくれるといいな。
2005/02/08
(これからしばらくは、この日記も、多分に「工事日記」の様相を帯びると思います。こちらをご覧の方には、退屈な記録が多くなるかもしれませんが、私にとっては工事の記録も兼ねること、あらかじめお断りしておきたいと思います。)●2日目暖かな日和だった。夫も、昨日は午後中床に就いていたお陰で、顔色も少し良くなっている。人足たちは、8時半くらいには来て、すでに掘り始めているはずだ。私たちは少し遅れてもかまわないからと、しっかり支度を整えて、9時半頃になって家を出た。カレカプスで一旦車を停め、夫はのこぎりと脚立を調達に行く。工事の邪魔になりそうな桑の枝を2~3本切った方がよいと、前日工事担当者が言ってたらしい。人足は4人。うちふたりは、見覚えがあった。確か、博物館立会いの発掘の時にも来ていたふたりだ。残りの二人は初めて見る顔である。ふたりだけで話すところを聞くと、何を話しているのか皆目見当もつかない。どうやら、クルド語のようだ。4人が2人ずつペアになり、別々の箇所を同時に掘り進めている。作業の進行状況は、鶴嘴とスコップ、鉄杭、とんかちといった原始的な道具と人力だけが頼り。なんとも手間のかかる作業だが、カレイチ内での土地の掘削には、機械の使用が禁止されているのであるから、時間がかかろうと他に方法はない。夫は脚立を広げ、桑の木に登って、大きく張り出した枝を切る作業に熱中し始めた。「無理しないで!大丈夫なの?」私は、その姿を見ながら、心配になって聞く。「大丈夫だよ、少し身体を動かさないと」夫はそう言って、精力的に枝を落としていく。「落ちたらダメよ。疲れたら、若い子に代わってもらって」少し身体が良くなったと思ったら、これだ。「働いている間は、病気のことなど忘れてしまうんだ」と夫は言うが、完全に治る前に無理したら、回復がそれだけ遅れるのになあ、と私は思う。私は夫の様子を気にかけながらも、人足たちの掘っている傍から、なかなか離れられない。掘り出される瓦礫、砂の間から、何か古いものが出てくるのではないかと、気になって仕方ないのだ。博物館からやって来た鑑定員(考古学、民俗学を修めた学芸員)たちとともに発掘の現場に立ち会った経験から、おおまかな事は私にも分かるようになっていた。この土地から出土されるのは、ほとんど陶片、ガラス片、骨片、そしてまれに大理石のかけらくらいなものであることを。それでも、オスマントルコ時代のものかと思われる陶片や、玉虫色の輝きを見せる古いガラス片が出て来ると、胸のうちが少し騒ぐ。時々、すわセルジューク時代のものかと、ドキッとして鮮やかなターコイズブルーの一片を見つけて拾い上げると、最近のタイル片だったり、ゴミとして捨てられた包装の一部だったりしてガッカリする。目が悪いのは、損である。午前中一杯、夫は、落とした枝をさらに短く切り、小路の脇に積み上げる作業を続け、私は掘り出される土くれに神経を集中させた。娘たちは、珍しく喧嘩もせず機嫌よく遊んでいる。砂山の上に転がっている石ころだのガラスの破片だの木片だの、葉っぱだのオレンジだのを拾ってきては分類して並べ、コレクションと銘打って私たちに披露したり、お店屋さんごっこに興じたりしている。12時になり、人足たちが昼食の休憩に出かけると、夫は「気持ち悪くなったから、家に帰ろう」という。だから言ったこっちゃない、と私はひとりごちる。今日は外食のつもりで家を後にしてきたのだが、今日はここで引き上げことにした。昼食をとると、夫は再び床に就き、結局夕方まで眠り続けた。私は、何年も前に読んだきりで筋を忘れていた小説を、ここにきて再び読み始めていた。突然、窓に叩きつける雨の音。裏のバルコンに干してある洗濯物を取り込みに走る。窓を開けると、ものすごい音を立ててみぞれが降りつけていた。午前中、気温が上がりすぎたせいだろう。今頃、人足たちは慌てて引き上げている頃だろう、いったい今日はどこまで進んだだろうかと、洗濯物を仕舞い込む手を忙しく動かしながら、頭の片隅で考えた。●3日目空は青く冴えわたっているが、北風が身を切るように冷たい。朝方、パンや新聞を買いにマンションを出ると、かすかに空気中に雪の匂いが混じっているほどだった。アンタルヤの背後に迫る西トロス山系の峰々に、昨夜新たに雪が降り積もったに違いない。予定では日曜の今日も、掘削は行われているはずだった。私たちは朝食を済ませると、カレイチに車を走らせた。しかし、誰一人働いている者はいない。夫を促し、そこではじめて工事担当者の携帯に電話をかけてみると、昨日疲れすぎたので、今日は休みにさせて欲しい。次の週末には土日も働かせるから。という返事だった。拍子抜けをした一方で、私は思わぬ時間ができたことを喜んだ。今日は時間さえ許せば、日曜パザールとスーパーマーケットの両方に行けたらと、願っていたのである。家族がひとり増えただけで、食料品の減りが目に見えて早い。金曜パザールでどっさり買い物をしたはずなのに、またもや両手一杯に提げきれないほど野菜や果物を購入した。昼食後は、5ツ星ホテルの温水プールに出掛けることにした。義兄のことがなければ、そして夫が病気で寝込んだりしなければ、休暇の最後の週末くらい1泊2日で温泉に出掛ける予定だった。一番可哀相なのは、子供たちだろう。バイラムから続いていた悪天候のため、毎日、退屈を重ねながら家の中で過ごしていた子供たちに、「ババが来たら、どこか行こうね。温泉でもいいし、スキーでもいいし、あなたたちの好きなところに行こう」と約束してたのに、とうとう1泊旅行すらできないままに、3週間の休暇が終わろうとしていたのだから。そういえば、アンタルヤにスケート場はなかったっけ?私は、一度でいいから子供たちにスケートを経験させてみたいと思っていたので、早速心当たりに電話してみたが、現在は使われていず、いつ再開されるかはっきりしないとのこと。ボウリングなら私も行ってもいいな、と思ったのだが、子供たちが温かいプールが良いというので、子供たちの希望を汲むことにしたのだ。私は温泉プールなら大歓迎だが、プールは特有の薬品臭が嫌いで、最初から入りたくなかった。夫も、随分良くなったとはいえ、病み上がり同然。傍から見ても「入っていいのかなあ」と思えたが、小さい子供ふたりだけにするわけにもいかず、恐る恐る一緒に入ることにした。が、温水が効いたのか、30℃に設定してある温かい空気が効いたのか、身体を動かしたのが幸いしたのか。プールで過ごした1時間半の間に、夫はダウンするどころか、ほとんど元気を取り戻していた。一方の私は、ガラス越しの見学にすっかり疲れ、あくびが出る有様。こうして子供たちを申し訳程度の遊びに連れ出して、結局どこにも遠出の出来なかった3週間という長い休暇の最後の一日を終えたのだった。
2005/02/06
※私たちがアンタルヤの旧市街カレイチで進めている建物づくりに関しては、 以下のページを参照してください。 フリーページの発掘リポート(1)(2)(3) 9月18日の日記 11月8日の日記 11月27日の日記 12月27日の日記 1月3日の日記昨日、一日中雨が降ってくれたお陰で、今日は雲ひとつない青空となった。工事(準備)初日としては、非常に縁起がいい。火曜日に建築家と打ち合わせした時点では、木曜日からという話だったのだが、夫が自分のカレンダーで「今月の運勢の良い日」を確かめ、それが4日だというので本日に変更にしたのだ。なるほど、物事のスタートを切るには素晴らしい日和である。夫の具合も、少しずつ良くなってきた。10時の約束ということで、遅めの朝食を済ませると、気が急くのか、10分、15分で着くところを30分前にはもう出掛けていった。ところが1時間ほどで、もう夫は戻ってきた。どうやら人足が集まるのは午後からになるらしい。今のうちに少しでも休息をと、夫には昼食までベッドに横になってもらった。昼食後、家族全員揃ってカレイチの地所に出掛ける。現場監督もまだで、人足が一人だけ。指図する人間がいないので、監督が来るまでの間、鶴嘴で古い壁の残骸を崩したりしてくれていたようだ。それから30分の間に、人足が二人と工事担当者も現われた。建築事務所の若い設計担当も現われた。後から、建築家も様子を見にやって来た。私は、どのような手順で基礎工事が行われるのか気になっていたが、今日は、アプリカスィヨン(実地検分?図面に従い、杭と糸とを使って建設予定の場所、柱の位置などを地面上に記す作業)のみのようだった。約1時間半ほどかかったアプリカスィヨンが終わるのを見届けると、糸に沿って内側を掘り始めた人足を残して、私たちは地所を後にした。明日は朝8時台から人足が6人やって来て、一気に土地を掘り下げる予定らしい。夫は、人前では元気に振舞っていたが、まだ本調子ではないので、現場でも解熱鎮痛剤を1錠飲み、帰る途中でも気持ち悪いと訴えた。夕食までの間、今もベッドに横になっている。明日は朝から現場に顔を出さないといけないので、早く元気になってくれればいいのだが・・・。アプリカスィヨン
2005/02/04
やっぱり来る頃だと思っていた。昨日の昼から、鼻がつまり、喉が痛み出した夫。夜からは微熱が出始め、汗を掻いては何度も寝巻きを着替えた。眠り続ける夫の顔はやや土気色を帯び、疲れが滲んでいる。無理もない。出発間際まで忙しく働き、イスタンブールに着いた途端、空港にとって帰し、郷里に着いたのが深夜2時3時。朝5時頃まで寒い戸外で過ごし、その日はほとんど横になれずに埋葬、葬儀などの勤めを果たし、たくさんの人間が慌しく出入りする中で、何日も気を張り詰めていたのだから。その後もイスタンブール~イズミール~アンタルヤの行程を1日でこなし、着いた日にすぐ、カレイチでの建築許可や様々な件での打ち合わせも行った。今日の午後は、明日からいよいよ始まる基礎工事の打ち合わせがあったのだが、この分では外出できそうにない。今日は1日、心身に溜まった疲れを汗とともに外に出し、早く回復してくれることを願うばかりだ。昨夜半から始まった雨は、ときどき小降りになりながらも、まだ振り続けている。子供たちは、ひとりで留守番しているカプジュの娘のところへ遊びに行っているので、家の中は静かなものである。昨年秋頃からよく作っているヨーグルトのタルトケーキを焼き、子供たちに半分持たせた。食欲がなく、朝食もひと口しか食べられなかった夫が、「お腹すいた」と言って起きてくるのを、静かに待っている私である。
2005/02/03
一日の間に、イスタンブールでの仕事を終え、イズミールに立ち寄り、夜11時発のバスに乗った夫が、早朝6時に我が家に辿り着いた。綱渡りのような日程を、すべてギリギリのタイミングで上手くこなし、電話で娘たちに約束した通り予定ぴったりに到着。すやすやと眠る娘たちの脇に滑り込み、添い寝をする夫。娘たちが気がつき、大喜びで首っ玉に齧りつくのを楽しみにしているのだ。子供たちへのお土産を披露し、日本食などの一杯詰まったバッグを空にすると、家族全員で朝食のテーブルを囲む。私は夫好みのメニューを用意した。昨夜作っておいたほうれん草とパンジャル(テンサイの葉)の煮物に卵を落としてユムルタル・ウスパナックにし、トマトとマッシュルームのソテーも作った。食事が一段落して子供たちがテーブルを離れると、夫は、義兄の亡くなる直前の様子、死の原因などについて、家族や親戚たちに聞いた話をもとに、ぽつりぽつりと話して聞かせてくれた。・・・・クルバン・バイラムに合わせて郷里に帰った義兄。カルカンを出た時から、すでに身体の具合は相当悪くなっていたらしく、これが最後の別れという覚悟をしていたものらしかった。しかし、なぜか母親のところにも妹のところにも顔を出さず、安ホテルや親戚宅などを泊まり歩いていたらしく、そのために母も妹も随分悲しんだという。3番目の兄のところに立ち寄っては、俺はもう終わりだからと、遺書のことを口にしたり、夫に対し過去にしてきた酷い仕打ちについても、「さんざん悪いことをした俺に対し、あいつは仕返ししたことはなかった」と自らの過去を反省するような言葉を残したという。結局、母や妹の顔も見ないまま郷里を発った義兄は、ますます具合が悪化していたにもかかわらず、病院に立ち寄りもせず、アンタルヤまでの途中で一泊して休憩することにしたらしい。ベッドに横になり、ふうっと力を抜き、手を頭の近くまで持ってきたところで、心臓が停止したのだった。(「車が滑って」というのは、私の単なる聞き間違いだった。泣きながら伝える義妹の声と私の動転もあって、「カルピ・ドゥルドゥ」(心臓が止まった)がなぜか「カイドゥ」(滑った)と聞こえたのだった)ベッドメイキングの時間になっても起きてこない義兄の部屋に入ったホテルの人間によって、義兄の遺体は発見された。車の中からは、飲みかけのラク(ブドウの蒸留酒で焼酎並みの強い酒)の瓶と紙コップが発見された。・・・・夫が郷里に着いたのは、深夜2時半は過ぎていたという。アダナの空港から長距離バスの通る国道までタクシーで行き、そこで1時間近く待ったが、1台もバスは通らない。結局タクシーを呼んで、80kmはある郷里までの道を飛ばしてもらったという。母の家の前に着いた夫は、しかしすぐには家の中に入れなかったという。横に止められた白いバンの、その中に兄が横たえられているような気がして、そこから離れられなかったという。家族にも誰にも気付かれないまま、泣きながら5時頃まで玄関先に佇んでいたのだという。母も妹も、家族全員が、夫が来たことで随分安心したに違いない。とくに妹は、夫の顔を見るまで、葬儀は一体どうなるんだろうと、心配で仕様がなかったらしい。心理的にも経済的にも、家族が一番頼りにしているのが、夫だった。訃報が入った時点で、取るものもとりあえず母の家に駆け付けた家族の面々は、葬式代どころか、帰りのバス代にまで事欠く状態だったのだ。イマーム(イスラムの僧侶)への謝礼、墓の準備、弔問客への食事代、家族の交通費・・・全てをつつがなく手配・準備できたのも、夫が間に合えばこそだった。墓穴の中に遺体を降ろす役は、夫がやったという。「重かったなあ・・・」と思い出しながら、夫がつぶやく。酒好きな兄のために、車の中から出てきたラクの瓶を棺に一緒に入れようと提案して、皆んなに反対されたと苦笑い。自分のことを、もうひとりの兄に語ったという言葉を伝える時には、涙もろい夫のこと嗚咽を押さえることができなかった。・・・・「不思議だなあ、と思うんだ。説明しても分かってもらえないかもしれないけれど・・・」夫が、兄の死にタイミングを合わせたかのように帰ってきたことも、偶然といえば偶然である。実は25日から4日間の臨時の仕事があって、それを終えて29日の便に乗ろうと考えていたという。しかし、なぜだかその4日間が無駄なものに思え、26日の便に運良く空席も出て、早く帰ってくることができた。私からの電話で兄の訃報を聞かされたとき、「やっぱりなあ~」と夫がつぶやいたのは、何かがあるという予感がしていたからだったという。このような偶然に恵まれたことのない方々には、本当の「単なる偶然」にしか思えないだろうと思うが、夫は昔からこのような「必然」のような「偶然の重なり」をよく経験している人間である。私自身は、霊感や予知能力などとは無縁の鈍感人間であるが、なぜだか子供の頃から、常ならざる現象を無条件に信じていた。「ひょっとしたら、お兄さんも、ババ(夫のこと)が来るのを待ってたんじゃないかなあ。具合が悪くていつ死んでもいいくらいだったのに、神様が何日も持たせてくれたんだよ。きっと」夫は、葬儀のための臨時出費についても説明した。私にも、そのことは気掛かりのひとつだった。夫にしても、葬儀やもろもろの準備にかかる何十万円もの大金がいつもポケットに入っているわけがない。お世話になっている取引先の会長さんが、夫の出発間際に、仕事の前払い金数十万円を、ポンと先払いしてくれたのだという。その一部を使わせてもらうことで、イマームへの謝礼も払い、300人にものぼる弔問客への食事を準備し、バス代のない家族にチケットを買ってやることができたのだという。それもまた、偶然というには不思議で有り難い巡り合わせである。人の運命を知り、人と人との巡り合わせを導き、その時々で本当に必要としているものを与えてくれる、このような超越的存在を神と呼んでいいのなら、今回の不思議な偶然にも、きっと神様の裁量が生かされていたのだと、そんな気がしてならない。
2005/02/01
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