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日一日と気分が軽くなっている。久し振りに太陽が顔をのぞかせた今日は、まるで春のように生暖かい陽気。肩が凝るほどパザールで買い物をして、汗をかいた。洗濯物もいっぱい干した。チョコレート・ケーキは焼かなかったが、トルコ版チョコパイを買ってきて、子供たちと一緒に全部食べ尽くした。ネットで注文した本が来るのを、今か今かと待っている。4日以内には着くというので、早ければ明日には届くかも。・・・・オンライン書店で本を購入するのは、実はこれが初めて。日本国内であれば楽天ブックスのお世話になることもあるかもしれないが、海外在住の身では、利用できるオンライン・ショップも限られる。海外発送となると、場合によっては書籍の値段を発送料が上回る。日本の住所にという手もあるが、国内出張の多い夫が無事に受け取れるとは限らない。というわけで、私がオンライン書店を利用するのは、専ら検索目的に限られていた。急にその気になったのは、トルコのオンライン書店の存在を知ったから。いや、ここまでインターネットの普及しているトルコで、ないわけがないのだが、必要もないので本気で探したこともなかったのだ。なにしろ本は、内容を仔細に検討してからでないと、なかなか買えない人間である。日本の作家のものなら、大体内容の想像がついても、トルコ語の本となると、まずは手にとってみないと判断がつかない。今回は、欲しい本があらかじめ決まっていたから、その点での迷いはなかった。つい最近、ストラボンの『Geography(Geographika/地理学、地誌)』を読んでみたくて、日本の代表的書店のオンライン部門を徘徊してみたのだが、日本語で読めるものといえば、飯尾都人氏の訳になる『ギリシア・ローマ世界地誌(全2巻)』(龍渓書舎)のみらしく、これがなんと35000円という高価(豪華?)本。では英語版でと思い、いろいろあたってみると、ハーヴァード大学出版会の『LOEB CLASSICAL LIBRARY』シリーズで7巻の分冊で出版されていることを知った。これなら1巻が20ドル少々で、しかも私の読みたいアナトリアに関わる巻だけに絞って購入が可能。これだけは例外的に、日本の住所宛に宅配してもらおうかと考えていたところ、幸いにもこの分野での専門家artaxerxesさんから、トルコ語版を紹介していただくことができた。先週の金曜日。支払いの関係で繁華街まで出掛け、ついでに行きつけの書店を覗いて、早速この本のことを聞いてみた。すると、聞いたことがないという。ストラボンの名も知らないというので、古代の地理学者で著作は「古典」に相当すると説明すると、「世界の古典」という棚に案内してくれたのだが、そこにあるのはゲーテなどの文学作品のみだった。書名と出版社が分かれば取り寄せするよと言うが、手の届かない値段だったら困るので、とりあえず辞退する。その書店の階下にある大学書籍専門書店にも立ち寄って聞いてみるが、結果は同じ。地元アクデニズ大学の人文科学部には歴史学科もあるはずなのに、歴史を学ぼうという学生たちは一体何を読まされているのだろうと、書店のオヤジ相手にしらふで管を巻いた。自宅に戻るとすぐ、トルコ語の検索エンジンでその本『ANTIK ANADOLU COGRAFYASI』を探してみたところ、ヒットしたのが、今回利用したオンライン書店である。住所から察するに書籍問屋らしく、20YTL(約1550円)という値段も結構安く感じたが、それが30%オフで14YTL(約1100円)。配送料の4YTLを足しても18YTL(約1400円)というお買い得価格。偶然といえば偶然だが、この注文を済ませた翌日の『Hurriyet』紙金曜版に、トルコのあるネットショップ創業者の物語が載っていた。この会社Ideefixeは、記事の中で“トルコのAmazon”と表現されていたが、書籍からスタートして現在はミュージックCD、DVD、パソコン関連用品、携帯電話、健康器具まで取り扱うトルコのネットショップ界の草分け的存在らしい。ただし、私が目を惹かれたのは、ネットショップ業界の裏話や創業者の成功譚なんかではなく、金曜版のトップに掲載されていた、この地図である。(2005年1月29日付『Hurriyet』金曜版より転載)この地図は、この会社の書籍販売実績を県(地方)別に表わした「読書成績表」なるものらしい。写真ではよく見えないかもしれないが、ブルーが「星付き優」、紫が「優」、淡い紫が「良」、クリーム色が「中」、オレンジが「可」、濃いオレンジが「不可」である。ご覧いただければ分かるように、経済格差地図にも見まごう、完全なる「西高東低」型の「読書地図」となっている。例えば、イスタンブールは「星付き優」県、アンカラが「優」県、アンタルヤはイズミールやブルサ、エディルネ、キュタヒヤ、エスキシェヒルなどと並ぶ「良」県に含まれる。一方アナトリア中東部は、ほとんど「可」県と「不可」県から成り立っている。この結果は、家庭でのインターネットの普及率やクレジットカードの保持率との関係にも左右されるだろうから、そのまま読書人口や読書量を表わすものではなかろうが、ひとつの興味深い統計ではある。まあ、トルコのことを少しでもご存知の方にとっては、とりたてて意外性はないかもしれないが。常日頃、アンタルヤを文化後進都市と断じている私は、アンタルヤの位置がクリーム色かオレンジ色にでも色塗られていたならば、快哉を叫んでいただろうに。「ほ~らね。やっぱり!(ザマアミロ?)」と。・・・・ちなみに、楽天ブックスでトルコの書籍は扱ってなかろうから、紹介しても楽天さんの不利益にはならないだろうと思う。私の利用したオンライン書店は、www.kitap-net.com“トルコのアマゾン”ことIdeefixeは、www.ideefixe.comである。とはいえ・・・・ちゃんと届けてもらえるか、クレジットカード・ナンバーが途中で盗まれたりしないか、それがちょっと心配。トルコのオンライン・ショップをよく利用しているという方、信用度はいかほどに?・・・・その2日後(火曜日)。朝メールを確認したら、当の会社から「発送しました」の連絡が来ていた。では明日ごろかな、と思っていたら、午後になってカーゴが到着。無事に受け取り!早速今日は外出にも持って出掛け、夫の用事が終わる間、あちらこちらのページを開いて拾い読み。原文が英語版なのかギリシャ語版なのか、それとも他の言語なのかは分からないが、私にもすらすら読める(もちろん、多少分からない単語はあるが、それは飛ばして)口語調の文体が意外。格調高い雰囲気があまりなく、庶民的とさえ思える言葉使いは、原文に忠実なのか、あるいは訳者の語彙不足からくるものか?古代の地名、都市名、人名ばかり(当たり前だが)なので、分からない名前が続くと少々辛い。訳者からの添付資料として、一部表紙に使われている古代アナトリアの地図を完全な形で載せてくれるとありがたいのだが、贅沢だろうか・・・。しかし、言語や政体などの他に、時おり植生や当時の栽培作物などにも触れてあるのが、地理好きな私には嬉しい。しばらくは、これで愉しめそうだ。
2005/01/30
この3~4日、いったい何度ため息をついたことだろう。何をするにも身が入らず、ちょっとした鬱状態である。果たせなかったこと、そこに居ないことをいつまでも悔やんでも仕方ないのだが、胸に窒息性のガスが溜まったような気分になり、時おりフゥーーーッと大きなため息をついて気を抜かないと苦しくて仕様がなくなる。夫は、私のこの「フゥーーーッ」が大嫌いだ。「やめてよ。そんなため息!」周りの人間を不快にし、やる気を失くすんだという。それもそうかもしれない。が、胸がつかえるような気分の時は、つかえたものをこうして上手く抜いてやらないと、背中から肩から、次第にカチンコチンに凝ってきてしまう。埋葬から3日後に食事が供される(初七日のようなものだろうか?)とのことで、いまだ郷里に留まっている夫から、今日も電話が入った。「どうしたの?そんな声して。大丈夫なの?」夫に心配されるほど、私は暗い声をしていたのだろうか?これでは、いけない。親族の心の痛みを思い遣り、喪に服すのもいいけれど、いつまでも喪の気分を引きずったままでは、日常生活すべてが停滞する。夫が帰ってくるまでには、鬱から脱出しておかなければ。手始めに、昨夜は読みかけの『ローマ人の物語』を手にとってみたが、古代ローマの世界にすんなりとは没頭することができず、やがて眠気に襲われて本を伏せた。今日は今日で、子供にせがまれてショッピングセンターにハンバーガーを食べさせに出掛けたが、さすがに映画を観ようという気にはなれなかった。子供たち(選ぶのはいつも上の娘の方だが)の観たがっているジム・キャリー主演の最新作『ターリヒスィズ・セリュヴェンレル・ディズィスィ(レモニー・スニケットの世にも不幸な出来事シリーズ)』は、もう少し気分が晴れた頃、来週に入ってからでも観に来ることにしよう。買い物でもすれば気分が変わるのかもしれないが、生憎欲しいものは何もない。冬物のバーゲン開催中で、50%オフだ70%オフだと大書してあるのだが、ざっと眺めては店を出る。夕食には、久し振りにご飯(夫が日本から買ってきてくれた「こしひかり」である)を炊いて、おかずには子供たちの大好きな鶏手羽の甘辛煮と和風サラダを作った。お腹は一杯になるが、なぜか無性にチョコレートなどの甘いものが食べたくなってきた。必要もないのにPCの前に腰掛けて、憑かれたように色々な人の日記を訪ねてみる。必要もないのに、思いついたキーワードを入れて検索エンジンにかけてみる。コメントへの返事を考えるのも気が滅入るのに、なぜかPCの前から離れられない。挙句、普段ネット・ショッピングはしない私が、オンライン・ブックショップで本を買うことにした。しかし、最も気持ちを落ち着けるのは、こうして心のままに日記を書く行為かもしれない。胸の内の暗い影も、心の襞に溜まった澱も、言葉にのせる作業過程で光が当てられたり、優しく掃きだされるようになる。思わぬ心のあやに気付かされるのもそんな時だ。今こうして書いているだけでも、胸の重石が少し軽くなったような気がする。明日からは気を入れて、今まで通りの日常生活に復帰しよう。2週間ぶりにパザールにも出掛け、冷蔵庫の中を一杯にしよう。雨が上がったら、洗濯物をバルコンに干して、きれいに乾かそう。気が向いたら、皆んなの好きなチョコレート・ケーキでも焼こう。そして、メールにも日記コメントにもきちんと返事を出そう。うん。そう決めただけで、さっきより随分と気分が晴れてきた。
2005/01/29
水曜の午後、夫の郷里に住む2番目の義妹から電話が入った。様子がおかしい。どうやら電話口で泣いているようだった。「アービイ(兄)を失ったよ!」私はことの次第をすぐには飲み込めず、「ええ!?どういうこと?」と聞き返す。「アービイを失ったんだよ!雨の中、アンタルヤに向かう途中で車がスリップして・・・」思わず息を飲む。義妹は泣きながら続ける。「アービー(夫のこと)はいつ帰ってくるの?」私は狼狽しながら、返答する。「今日か、明日には。いや、今日の夜着くから」「すぐにこっちに向かうように伝えて!」義妹はそれだけ言うと、電話は切れた。呆然とするより他なかった。車がスリップした・・・衝突したんだろうか、それとも海に・・・?まさか!?なんてことだろう。どうすべきか考えるのだが、なにひとつ考えはまとまらない。今夜の夜行バスで私たちもすぐに発つべきではなかろうか?しかし、オトガルから、どこにどうやって行けばいい?いつも車で連れて行ってもらうだけ。義妹の家も義母の家も、住所すら知らない。夫と連絡がつけばいいのだが、夫の到着と入れ違いにバスに乗ってしまったら、うまく連絡がつくだろうか?第一、夫がどう言うか分からない。「あなたたちは行かなくていい」というかも知れない。・・・・夫と一番上の兄とは、兄弟仲が悪かった。過去に起こった様々な経緯から、「あいつとはもう終わりだ。2度と会わない」と夫は宣言していた。それでもこの2~3年の間に、何度か仲直りした時期もあって、義兄がアンタルヤの我が家にも2度ほど訪れたこともある。肝臓やらどこやら、内臓を悪くしている義兄は、何ヶ月に1度か、大学病院での検査を必要とする身体だった。カルカンで土産物屋を営む義兄は、いつもこっそりアンタルヤに来ては、大学病院の近くの安宿に泊まるらしく、我が家に立ち寄った際も、絶対に泊まろうとはしなかった。夫の方も、泊まっていけと勧めることもなかった。それでも、3年前に妻と娘を同時に亡くした義兄にとっては、我が家の娘たちの顔を見るのが気休めになるらしく、チョコレートだのなんだのといった駄菓子を届けるためにだけ、夫の留守中に顔を出したこともあった。私にとってそんな義兄は、哀れでもあったが、その一方でただ気難しく、身体を悪くしているにもかかわらず、煙草と酒のやめられない少々自堕落な人物と映っていた。義兄が妻と娘を亡くしたのは、ちょうど3年前の正月のことだった。聖ニコラウスの町として有名なデムレの町で新年を迎え、カルカンへと帰る途中のこと。折からの大雨で増水し、すっかり川と化した道路を行くうち、真っ暗闇の中、池と道路との境を見失い、そのまま池に落ちてしまったという。義兄はどうやら酒を飲んでいたらしい。その事故を耳にしたとき、どうして自分ひとりが助かって、妻や娘を助け出そうとしなかったのか、私はどうしても腑に落ちないものを感じていた。義兄の心の痛みがどれほどのものか伺いしれない私は、義兄だけが怪我ひとつなく生還したことがどうにも納得いかず、心の中では彼のことを責めていた。そして3年後の今。再び自動車事故で、それも同じような雨の中で自らの命を失うとは、いったいどんな神の導きなのか。妻と娘を無駄に死なせてしまった責任は、きっと義兄の心にも重い十字架としてのしかかっていただろうとは思う。今までに増して酒の量が増え、朝からラクの瓶を抱えるような生活が、それを物語っている。すでに自分の人生を諦め、捨ててしまったような義兄の態度から、遅かれ早かれこういうことが起きるのは見えていたような気がする。私は、窓ガラスに時折激しく打ち付ける雨の軌跡を見つめながら、繰り返しため息をつくことしかできなかった。義妹として、形だけでも駆けつけるべきだろうことは分かっている。しかし、3度か4度会ったというだけで義兄との思い出がほとんどない私に、義母や義兄弟たちと悲しみを共有することができるだろうか。傍にいて、黙って背中をさすってやることくらいしか出来ない私に、他に何ができるだろう。こんな親族の喪に際して、何を言えばいいのか、私に何が言えるのか。私は、とりあえず夫の到着を待つことにした。夫が「あなたもすぐに発って」と言えば、大急ぎでタクシーに飛び乗り、オトガル(バスターミナル)に向かう心の準備だけはしていたつもりだった。空港に着いてすぐに携帯のスイッチを入れたら連絡をもらえるようにと、メッセージも送っておいた。一度だけ、姪から翌朝の埋葬の予定を告げる電話を受け取ったが、その他は、成すすべもなく悄然として座りながら、私は夫からの連絡を待った。・・・・夫が電話をしてきたのは夜9時半にもなる頃だった。そろそろ着いた頃じゃないかと、何度も携帯に電話してみたのだが、支払いを忘れたのか使用停止となっており、夫が電話を掛けてきたのはイスタンブールのオフィスからだった。「今着いたよ~」という、疲れたようなのんびりした声。私は咳き込んで伝える。「すぐにズベイデ(義妹、仮名)のところに電話して!カルカンのお兄さんが亡くなったのよ!」夫は、さして驚いた風でもなく「ええ~!?嘘!どうしたの?」と聞き返す。「アンタルヤに帰る途中で車がスリップしたんだって。その後は知らない」「やっぱりね~。そんなこともあると思ってたよ」と、夫の反応は冷静だ。「埋葬は明日の朝一番、8時半とか9時って言ってたから、今からすぐに空港に行って。今だったらアダナ行きの最終にまだ間に合うから」疲れた声の夫は、「いいよ、明日の朝にするよ」とつれない。「とりあえず、ズベイデのところに電話して相談して。後で電話ちょうだい」そう言って、私は電話を切った。私たちもすぐに発つべきかどうか、聞き忘れたことを思い出し、オフィスに掛けてみるが、ずっと話し中だった。5分ほどして掛けてみたときには、すでにオフィスを出た後らしく、応答はなかった。私は、夫がなんだかんだ言いながらも、結局は兄弟としての勤めを果たしてくれることを信じていたし、長時間フライトの後の疲れた身体で空港に向かってくれたことを知って安心もした。私たちが駆けつけなくたって、夫が無事に間に合ってくれれば、とりあえずそれでいい。結局、出発しそびれた私は、夫が深夜遅くに実家に着くまでの道中を案じて、その夜はなかなか眠ることができなかった。・・・・翌朝9時だった。夫からの電話を受けたのは。「無事に着いたのね。お疲れさま。大丈夫?」夫の声はくぐもって、さすがに泣いているようだった。「これからお墓に向かうから。後で電話するよ」「分かった。気をつけてね」前夜、アダナからさらに1時間はかかる郷里に着いたのは、どんなに早くても深夜2時、2時半にはなっただろう。多少の無理をしても、埋葬に間に合ったのは幸いだった。でなければ、夫はいつかどこかで後悔することになったかもしれない。それまでどんなにいがみ合っていたとしても、遺体を、墓を前にすれば、わだかまりは消えて相手を許し、自分をも許して欲しいと願えるものではないだろうか。一時小止みになったかと思われた雨が、再び強さを増してきた。今頃は、義母のヤズルック(夏の家)のある山の中腹のあの村の、義父も、義兄の3年前に亡くなった家族も眠るあの墓地に向かう車の中で、全員が打ちひしがれて、悲しみを共有しているのだろうか。今頃は、家族全員が雨にそぼ濡れながら、家族の一員の埋葬を見守っているのだろうか。時間の経過と共に、私は罪悪感に悩まされ始めた。アンタルヤを一歩も動かなかった私が、ひどく冷血で薄情な人間に思えて、次第にたまらなくなってきた。どんなに遅れようとも、行き違いになっても、とりあえず駆けつければ、近くまで辿り着けば、後はなんとかなったのではないか。やっぱりあの嫁は外国人だから、冷たい。義理人情に欠ける。そう言われているのではないか。私は、沈鬱な気分で昨日一日を過ごした。夫からの連絡はなかった。もしや、義母や夫になにかあったのではないか。家族間の揉め事が起きるたび、発作のような状態になる義母や、睡眠不足や疲労、冷えの続いた後、必ず血圧が急上昇する夫のことも心配になってきた。義母や義妹の家の電話番号を教えられたことはなかったが、もしかしたらどこかに書いてあるかもしれないと、電話帳に使っているノートをめくってみた。あった。義母と義妹の電話番号が。夫がちゃんと書いてくれていたのだ。義妹の家にかけると姪のひとりが出て、全員義母の家だという。義母の家にかけてみると、話し中が続いていた。一定の時間をおいてかけなおしてみても同じ。最後には「便りのないのは無事の証拠」とばかりに、諦めて夫からの連絡を待つことにした。様々な考えが波のように押し寄せては返し、妙な夢ばかり見てろくろく眠れない2晩目が過ぎた。・・・・今朝、夫からの電話があった時には、正直ホッとした。電話をかけたが話し中が続いていたことを告げると、「昨日はとにかくすごい人で、混んでたからね」と、疲れた声でいう。この後、葬式を済ませると、到着後すぐの予定だった仕事を片付けるためにイスタンブールに戻り、アンタルヤに来るのは来週の火曜日頃になるという。夫が帰ってきたら、溜まった疲れとストレス、心の丈を吐きだしてもらい、私たちが行けなかった分まで精一杯ねぎらおうと思っている。
2005/01/28
日曜の深夜、例によってVCDで映画を観ていたところへ、その揺れは始まった。私の目の前にあった鉢植えのグリーンや木製ブラインドが大きくゆらりゆらりと揺れ始め、いつもの地震より少しばかり大きい揺れだと分かる。地震になると、10階(日本式でいうと11階)にある我が家では、建物全体が大きくゆっくりと揺さぶられるような感じがする。この揺れがどこまで大きいものか。身じろぎもせず自分の身体で確かめる。真夜中とあって、子供たちはぐっすり眠っている。これ以上大きくなった時、どうするべきかと瞬時に考える。まもなく揺れはおさまり、ホッとして映画の画面に目を戻した。震度は2、ないし3くらいだろう。翌日、義妹からお見舞いの電話をもらった時、テレビでは2.5(アンタルヤ)と報道していたと聞いた。また、本日の新聞記事によれば、揺れたのは時間にしてたった20秒のこと。震源地は、カシュ(アンタルヤの南西にある町。直線距離にして約100km)の32km沖の海底で、マグニチュードは5.5、地中海沿岸地方を震源地とする地震としては史上3番目に大きい地震であったという。実は、アンタルヤは小さい地震なら頻繁にある方だと思う。昨年も、アンタルヤ沖を震源地とするマグニチュード4.5くらいの地震があり、町の中心にある県庁の特別管理局の高層ビルの柱や大学付属専門学校の壁、アパルトマンの壁などに亀裂が生じたりして、大きな問題となった。小さな渓流の多く走る岩だらけの土地に、15階建て以上の高い建物を建てること自体が、トルコの建築技術から言えば危険なことだが、実際には我がマンションも含めて10階建て以上、15~6階建てにもなるマンションがゴロゴロしているのだから。今回の地震はマグニチュード5.5とはいえ、日本と計測の機械や基準も異なるだろうから、実際にはもっと規模が小さい可能性は高い。が、スマトラ沖地震における津波の映像やその甚大な被害の記憶がまだ生々しいうちに起きただけに、周辺住民の間ではかなりのパニックが生じたのだそうだ。家を飛び出した住民たちの多くが、津波が来るのではという恐怖感から、後ろに控える山地へと車で逃げたという。山へ向かわなかった人々も、家屋倒壊の恐怖から、戸外や車の中で夜を明かしたりしたという。幸い、この地震による死傷者はひとりも無し。倒壊した建物もなかったようだ。他国で起きた災害とそれへの対応から学び、地震や津波への心の準備ができるようになったことは良いことだが、パニックに陥らないこと、そしてそれ以前に、耐震性の高い建築技術を導入することがトルコの場合は先決だろうとは思うが・・・。それにしても・・・・我が家もそろそろ本格的に避難袋を用意しておくべきだろうか。いざ大きな地震が襲えば、10階から降りて逃げのびるまでに建物の方が倒壊してしまいそうではあるが・・・。建物の下敷きになることをあらかじめ想定して必要なものを用意するなんて、楽観的な私には、なかなか想像するのも難しい。こちらをご覧の皆さんは、避難する場合、被災した場合の準備、何かされてらっしゃるのだろうか・・・?
2005/01/25
4日間のバイラム休暇が終わり、会社勤めの方々には再び忙しい日常が戻ったことだろう。一方、我が家の面々ときたら、すっかり怠けモードから抜け出せないでいる。いや、怠けムードを醸し出しているのは、なにより私自身だ。なにひとつ予定が入ってなかったのが最大の原因だが、バイラム中天気が不安定だったのもいけない。朝は晴れ間が見えて、「お、今日こそは晴れか?」というもぬか喜び。次第に雲が増え、やがてポツポツ、最後には雷雨に変わる。そのせいで洗濯にも身が入らず、吊られて家事全般に身が入らない。PCに向かうも、日記に書くこともない。挙句は、近所のバッカルの2階にあるレンタルVCDショップで借りるロマンティック・コメディものの映画などを、夜な夜な子供が寝付いた後で観るという不摂生な生活。すっかり夜更かし朝寝坊が身に付いてしまった。バイラムの明けた今日は、雲ひとつない晴天だったが、またしてもバッカル以外どこにも出掛けずに済ましてしまった。これでは、いけない。まずはリハビリとして、本日の新聞記事のご紹介から始めてみようと思う。(記事はいずれも、1月24日付『Hurriyet』紙から採用)【ワン湖が死にかけている!?】トルコ最大の湖であるワン湖の汚染が、日を追って危険な局面に達しようとしているという。湖周辺の異なる18箇所から採取した水質サンプルを検査したワン・ユズンジュユル大学、人文科学部地理学科の副助教授オルハン・デニズ博士によれば、湖の汚染の割合は40%に及ぶこと、この状態が続けば、湖の寿命は25年しか残されていないという。塩と炭酸ナトリウムを含有し、3900ヘクタールの面積と周囲538kmに及ぶ湖岸を有するワン湖には、集落から流れ込む下水をはじめとする汚水と廃棄物から一切免れていない。湖の汚染は、この地域への人口移動と平行するように高まっていることに注目する博士は、こう語る。「ワンの人口は、人口移動に伴って15万人から40万人に達した。秩序なく性急に行われた人口移動が、現在ある下水網と浄水施設の不足状態をもたらした。この人々の今日住む地域には、下水設備はない。廃棄物は渓流にのって湖に届く。人間の健康のためには、100ミリメートルで700であるべき大腸菌の割合が、ワンの湖岸では2100、ビトリスのタトゥヴァン地区の岸では5300にも達している。防止策が講じられず、汚染がこのように続けば、ワン湖の寿命は25年しかもたない。25年後には、湖畔にさえ近づくことはできなくなるだろう。鹹(かん)湖(流出河川のない閉じた湖)であるワン湖は、全ての集落に下水道が引かれ、防止策がとられた状態において、50年後にようやく清潔な状態に戻ることができる」ワン湖を汚染から守り、周辺の集落に下水道システムを建設するために、公共事業省が48兆リラ(約38億円)の予算を組むことを表明したという。・・・今まで汚水も産業廃棄物も全て垂れ流しだったということが、想像できたことながら恐ろしい。【F1サーキットの60%が完了】F1ワールド・チャンピオンシップのホスト都市となるイスタンブールが、F1サーキットの建設を猛スピードで続けている。トゥズラ(Tuzla)-テペオェーレン(Tepeoren)地区に位置する巨大サーキットの60%が終了し、アスファルト処理の最初の段階も完了した。サーキットの最終段階で最も重要な最表部のアスファルトに関しては、5月に着手される。時計方向と反対回りとなるイスタンブル・サーキットは、専門家によれば難度の最も高いコースのひとつと見られている。敷地221万5千平方メートルの土地に建設中のサーキット。コースの外周には12万4千個のタイヤでバリヤが築かれ、サーキットの幅は12.5mから21.5mの間に設定されている。6つの右回りカーヴ、7つの左回りカーヴ、4箇所のストレート、4箇所のアンダー・パス、3箇所のオーバー・パスが設けられている。観客収容人数は15万5千人。観戦料は20ユーロから350ユーロの間で設定されている。なお、交通の大混乱を避けるために、高速道路からサーキットへの接続も急ぎ建設中である。8月21日には、世界203カ国150万人の人々が、イスタンブール・グランプリをいちどきに観戦することになるだろう。・・・トルコの一般道の、質の悪いアスファルト道路を知っているだけに、繊細なコンディショニングが要求されるF1に耐えうるアスファルトが出来上がるか心配である。
2005/01/24
●3年目(2004年) 夫とともに迎えるクルバン・バイラムは初めてのこと。といっても、実家に戻って親戚めぐりをするのでもなければ、クルバンを切るわけでもなく、まるで外国人のように周囲の浮き立つ様子を傍観しているだけの私たち。 天気も良く、朝から後ろのアパルトマンでクルバンを切る様子を見学させてもらった。 毎年のように羊やヤギを切っている彼らは、肉屋並みの器用さで皮を剥ぎ、解体していく。私は後でルポルタージュでも仕上げるようなつもりで、その様子を写真に収める。 その後で、近所に開設されているクルバンの販売所、兼屠殺場の見学に赴いた。 アンタルヤの各地区にひとつは、このような販売所兼屠殺場が設けられていて、クルバンを切るのはこのような指定の場所と決められている。 新興住宅地であるこの地区には、今年新設されたものらしい。 屋根付き市場のような仮設の建物が2棟続きで建てられており、建物の周囲には、囲いの中にクルバン用の羊やヤギが集められている。 申込所の方へと足を向けると、デジカメを手にした私の姿を見て、なぜか日本からの取材の人間と思ったらしく、この施設の責任者から挨拶され、色々と説明を受けることになってしまった。子供連れの取材もないだろうと思うのだが、日本人というだけでお客さま扱いである。(しかし、残念ながら、説明された内容については、まったく思い出せない) まるで屋根付き市場だなあ、という第一印象は、そう間違ったものでもなかった。 ふた棟に分かれているのは、ふたつのチームに手際のよさや、技術などを競わせて、施設全体のモラル・アップを図るためのものらしく、まるでロンドンの証券取引場のように、ユニフォームの色分けがされているのである。 自動でゆっくりと動いていくフックに吊り下げられたクルバンたちが、熟練した肉屋たちの手によって、見る見るうちに裸にされていく。そこには断末魔の叫び声や、血の臭いはほとんど見られなかった。オープン・スタイルの食肉工場のようなものである。 私は、参考資料として何枚もの写真を撮りながら、裏手の方にも回ってみる。裏手には、剥がされた皮や角などが、それぞれ分別されて集められていた。 一周して戻ると、先ほど挨拶された屠殺場の責任者に、別の人物を紹介された。施設の裏に隣接して建っている学生寮の責任者だという。 精力的に写真を撮る私の姿に、こちらも取材して欲しいと思ったのか、「よろしければ案内しましょう」とおっしゃる。トルコの学生寮を見るチャンスも早々ないと思ったので、有り難く見学させていただいた。 ゆったりとしたエントランス周りには椰子の木が植えられ、まるでお役所のような立派な外観。 中に入ると、当番になっている学生がスリッパを出してくれ、私たちは父兄との面会室、自習室、図書室、トイレなど順番に部屋を案内された。これら共有の空間は、なかなか贅沢に作られていて、見事な絨毯まで敷かれているのに対し、最後に案内された学生の寝室は、まるで兵舎並み(といっても、実物は見たことはないのだが・・・)の簡素さなのに驚かされた。細長く薄暗い部屋に10台ほどの2段ベッドが並んでいて、私物を入れるロッカーが申し訳程度に添えられている。勉強や宿題は、自習室で行うのだそうだ。 豪華なシャンデリアの下がる立派な会議室でお茶をいただきながら、日本について質問を受けたりした後、学生寮を辞退し、付属の庭などを見学させていただいてから、帰ることにした。 なんと、ここには自前のオレンジ畑や小さな動物園(ラクダやダチョウ、鹿などの飼育が行われている)まであった。動物園から更に階段を下りていくと、そこは公園になっていて、豊富な湧き水が川となって流れ出ている。小川には鴨や白鳥まで羽を休めている。我が家から目と鼻の先に、このような空間があることに私たちは驚いた。 それに、公園のあちこちに置かれたガーデン・テーブルでは、上の屠殺場で切り分けた肉を持ってきて、早速マンガル(バーベキュー)をしている家族連れの姿もある。 捌いたばかりの新鮮な肉でカヴルマ(細切れにした肉を塩やコショウなどで炒めたもの)でも作るのだろう、寮の関係者らしき人間が巨大な鍋を持って現れたのを合図に、私たちは帰途についた。 後で聞いたところによれば、この広大な土地を有する学生寮は、さるイスラム原理主義団体の運営になるものだとのこと。成績優秀ながら、貧しいために勉学の機会に恵まれない学生に、寮費と学費の面倒を見ることで機会を与え、同時に団体の幹部候補生を養成する狙いもあるのだろう。* * * * * * テレビでは毎年のように、各地の海、川が血に染まった様子、暴れる牛の角で傷ついたり、打ちどころが悪くて亡くなった人のニュース、逃げ出した牛の捕り物帳など、バイラム時期特有の光景が片や面白おかしく、片や嘆きの声と共に報道されている。 その一方で、現代的なクルバン屠殺、解体場では、まるでオートメーション工場のように、最初から最後まで自らの手を下さずとも、クルバンを屠ることができるようになっている。 一見、清潔でより簡単に思えるこのシステムであるが、ここまでくると、「神への生贄」という意味がその行為に介在しているのか、疑問に思えてくる。生贄を神に捧げる。それは本来、自らの手を血で汚すことで、自らの信仰を神の前で証明する行為ではなかったか? 私はクルバンを屠る伝統的習慣には賛成も反対もしない。しかし、ただ残酷で野蛮な伝統と非難する立場に対しては、疑問を呈したい。動物愛護派の人々にとっては、許しがたい動物虐待と映るかもしれないが、そんな人々の一体何%が、完全なるベジタリアンであろうか?自ら手を下すのは野蛮で受け入れ難くとも、プロの手で一から十まで処理してもらうならオーケーなのか?おすそ分けだけなら、大歓迎なのか? 私はむしろ、イスラム伝統のこの宗教祭事が、本来の宗教的意味を失って形骸化している、商業目的化していることの方を危ぶむ。 マーチャンダイズ化、オートメーション化が進むことで、クルバンとして屠られる動物の絶対数は年々増加しているに違いない。さらに、クルバン・バイラム時期だけの飽食状況はどうなっているのか?お祭り、祭事なのだから、気前よく、ケチなことは言わない方がよいのだろうか? 問題は、伝統そのものではない。それを継承する人々の意識や手段にあると思う。残酷で野蛮なのは、クルバンを切る行為そのものではない。倫理感と知識、熟練の手を失った人間が、お金と腕力にものを言わせて、本来の儀礼に則らない暴力的なかたちで動物を殺そうとするところにある。 かつては、五穀豊穣を神に感謝しながら餅をつき酒を造り、神に捧げていた日本人が、今では工場で作った餅は黴させ、残った酒は劣化させてゴミとしているのだから、人のことを言えた義理ではないのだが・・・。
2005/01/21
トルコへ移住して、4度目のクルバン・バイラムが巡ってきた。いまだかつてクルバン(犠牲動物)を屠ったことのない我が家では、幸か不幸か、地元住民ならではの生々しい経験を身をもってしたことがない。しかし、周囲の人間の、クルバン・バイラム時期ならではの行動や反応を見聞きするだけでも、毎年のように新たな発見があるものだ。 今日は、過去3年間のクルバン・バイラムを通して見聞きしたこと、感じたことを思い出しながら、書き綴ってみたい。●1年目(2002年) 私たちの住むスィテ(専用の庭や子供用の遊び場、バスケットボール・コートなどを有するマンションの総称)の住人は、私たちを除くと、ほとんど医師や弁護士、教師、ホテル・オーナーなどなど、教育程度も高い(はずの)中~上流階級の人たちである。 一方、この辺りは新興住宅地で、次々建設される今風のスィテやアパルトマンと隣り合わせに、昔からこの地に住む農家が残っていたりする。庭には鶏が放し飼いにされ、家の前を通りかかると家畜の臭いが漂ってくる。 そして、この辺りのスィテ、アパルトマンのもともとの土地のオーナーは、そんな農民たちである。土地を提供する代わりに、数戸の家を譲り受け、親戚も呼んで今では優雅なマンション暮らしであるが、肌に染み付いた感覚や子供の頃から受け継いできた習慣は、一朝一夕に排除できるものではない。わがスィテの同じ棟の住人の約半分も、土地のオーナー一家とその親戚である。自ずと、住人同士の付き合いも、いつのまにか真っ二つに分かれるようになっていた。 わがスィテのすぐ後ろにあるアパルトマンの庭に、バイラム直前、合わせて3頭ほどの羊、ヤギが繋がれていた。バイラム初日、子供たちが垣根(といっても鉄製だが)越しに見守る中、クルバンたちは順々に、手馴れた人たちの手で大人しく屠られていった。私は初めてということもあって、怖いもの見たさ。途中から怖々見学に行ったが、すでに皮を剥がれるまでになったクルバンたちは、あくまで家畜としての運命をまっとうしているに過ぎず、哀れみは感じても、大抵の日本人の方が想像されるようなおぞましい恐怖感や残酷さは私は感じられなかった。 というのも、私自身、幼い頃から、家畜を食用にまわすという行為、家畜を捌く風景に見慣れていたせいもある。鶏と羊という違いはあろうが、この仕事はいつも母親が務めていたため、私はその横で、鶏が足を縛られて紐で逆さまに釣られ、首を切って血を抜かれ、次には羽をむしられ・・・・という一連の作業を経て食肉に変わるところを、つぶさに見てきた。最後には、頭や足、羽を除くあらゆる部位が、食用になった。首や骨はガラ・スープに。内臓は煮物に。 大小の違いはあれど、初めて見る気がせず、そしてほとんど衝撃を受けなかったと聞けば、ここを訪れてくださる方々に「信じられない」と愛想をつかれそうだが、それが正直なところである。 ところが、クルバンを捌く風景を見慣れているはずのトルコ人の中にも、この習慣を毛嫌いし、野蛮だと非難する人たちが結構いることを知って、私は驚いた。わが隣人。同じスィテに住む教育程度の高い(はずの)住人たちである。バイラムの挨拶に行った隣人宅に、ちょうど何組かの隣人が集まっていた。話題は自ずとクルバンの話へ。 「一体、この習慣はいつ始まったの?こんな野蛮な習慣、やめるべきなのに!」 「後ろのアパルトマンで切ってるでしょう?あの人たちは田舎者だからねえ」 「知ってる?4階のおばあさん。階段の踊り場で、クルバンの肉を焼いてたのよ。バルコンだと寒いからって」 「ひどいわねえ。ここのオーナーの親戚でしょう?田舎者だから」 その頃はまだ、隣人たちの話すトルコ語を完全に聞き取れたわけではなかったが、大体そんな会話が繰り広げられていた。当時は、ただ横に座って耳を傾けることしかできなかった私だが、イスラムの伝統で宗教的な意味を持つこの習慣を、ただ野蛮な田舎の習慣と片付けることには、さすがに反対したい気分だった。 イスラム的伝統・習慣を重視しない(したくない)、都会派を自認する人たちにとっては、自分を「田舎者」と切り離して見せるためにも、少なくとも「野蛮」とうそぶいて見せる必要があるのだろう。とりわけ、我が家のカルシュ・コムシュ(お向かいさん)である正義さん(仮名)夫妻は、その時の会話でも、さも嫌そうに眉をしかめつつ、クルバンを切る習慣と、アパルトマンの庭などでそれを行う人々を唾棄に付していたものだ。 それでもこの年には、さすがに我がスィテ共有の庭でクルバンを切るような住人がいないことを知って、私もホッとしていたのだが・・・。●2年目(2003年) クルバン・バイラム初日。まるで元旦の朝のようにひっそりとして、人の動きもまだない。連休になることから、親戚の家に出掛けたり、旅行に出かける人も多いので、駐車場の車も半分くらいに減っている。クルバン・バイラムになると、カプジュ(住み込み管理人)だって暇を取って郷里に帰ってしまうのだ。 前年同様、後ろのアパルトマンには2頭ほどのクルバンが繋がれていた。なんとなく気になってバルコンに出て、後ろの様子を見ていた。すると、我がスィテのバスケットボール・コートの入り口に3人の人影。よくよく目を凝らしてみると、コートの入り口に、クルバンらしきものがぶら下げてあるではないか! 「まさか!」こんな光景を目にすると放っておけない私は、デジカメを手にすると、すぐにエレベーターに乗り込んで階下へ。3人の男性のうちふたりは白い服をつけていて、すぐに肉屋だということが分かった。残るひとりは・・・振り向いて私の顔を見た彼は、一瞬「まずい人間に見られた」というようにばつの悪い顔をしていたが、すぐにいつもの偉そうな勿体つけた表情を取り戻し、ブツブツと言い訳とも独り言ともつかないような言葉をつぶやいた。 それは、前年、あれだけクルバンを切る人間を野蛮だ、田舎者だとけなしていたお向かいの正義さんだった!そしてクルバンの羊は、私たちの目の前、バスケットボール・コートの入り口を囲む鉄製の框からぶら下げてあり、とっくに皮を剥がれ、その下には血溜まりまでできていた。 開いた口が塞がらないとは、このこと。私はひとことも言えず、彼らの様子を見守った。肉屋は、バケツに水を汲んできて、コートのコンクリートの床に溜まった血を一応洗い流したが、ピンク色の染みは、それから数日して雨が完全に洗い流すまで、なかなか消えなかった。私は、後先のことは考えず、「証拠写真」として、クルバンの前でポーズを取る正義さんと肉屋をカメラに収め、自宅に戻った。 わがスィテの庭で、しかもバスケットボール・コートなどでクルバンを屠った隣人は、後にも先にも、田舎者が大嫌いで、弁護士という職にある自称「アンタルヤ育ちの都会人」正義氏だけだった。
2005/01/20
昨夜は一晩中、稲光と雷鳴が続き、夢うつつにみぞれの降る音を聞いて過ごした。一夜明けた今日も、まだ冷たい雨が降り続いている。こんな日にはどこにも行かず、家でのんびり本を読んだり、PCをいじったりしていたいのだが、先週末からの約束を果たし、子供たちを映画に連れて行くことにした。* * * * * *『イナヌルマズ・アイレ』とは、日本語に訳せば『信じられない一家』となり、原題『THE INCREDIBLES』のほぼ直訳である。カルメンチカさんのお勧めでもあったが、予備知識もなく、例によってまったく期待しないで出掛け、予想以上に愉しみ、満足して帰ってきた。すでに日本でも公開されており、たくさんの方がすでにご覧になってると思うので、ストーリーはいちいち追わないでおこう。アニメ作品であるがゆえに、トルコではともすれば子供向けのように思われがちだが、青少年や大人にこそ観て欲しい、観て分かる作品だと思う。実写では表現しきれないスーパー・ヒーローたちの「インクレディブル」な活躍を十二分に表現できるのは、なによりアニメならでは。だからといって、白々しさやわざとらしさは微塵も感じられない。アニメの限界に限りなく迫る質感表現と、あまりに人間臭いキャラクターづくりのおかげで、観る者の感情移入をどこまでも可能にしてしまうのだ。引退して15年も経ち、今ではすっかりお腹の出た3児の父親ボブ・バー(Mr.インクレディブル)。保険会社のクレーム担当という、しがないサラリーマンの身に甘んじている彼だが、世のため人のためになりたいという思いは、彼の中で健在だ。週に1度、ボーリングの日と偽って、旧友のフロゾーンと人助けに出かけたり、社長に大怪我を負わせて会社を首になったことも、得体の知れない任務を受けて家を留守にすることも、こっそりユニフォームを新調して現役に復活したことも、妻にはとても言い出せない。朝、今まで同様に家を出ると、電車の操車場などで、筋力トレーニングに精を出し、夕方には家に戻る生活。妻ヘレン(イラスティック・ガール)は、そんなこととは露知らず、コンフェランスにまで参加できるようになった夫の昇進を喜び、毎日をいきいきと過ごし、身体も締まってきた夫に満足そうだ。ヘレンはというと、反抗期に入った内気な長女ヴィオレットや、学校の問題児で長男のダッシュ、まだ赤ん坊の次男ジャック・ジャックの世話で精一杯。イラスティック・ガールというスーパー・ヒロイン時代に未練はない。家族にも、スーパー・パワーを使わないで人並みに暮らすことを求め、ダッシュにもスポーツ・クラブや大会への参加を許そうとしない。ヴィオレットは、同じ学校の男の子に恋する普通の女の子でありたいのに、特殊な能力を知られたくないばかりに、ついつい内気になってしまう。そんな日常的な悩みを抱える、どこにでもありそうな家族のかたちが、父親ボブ救出への途中で次第に変化し、家族が一つにまとまっていく。いまや、家族ひとりひとりの持つ「インクレディブル」なパワーを、隠す必要はない。家族それぞれの持つ特殊能力が最大限に発揮されることで、お互いを危機の瀬戸際から救い、ついには最強の敵をも倒してしまう・・・・。なにより、主人公たちがなかなかに魅力的なのだ。ミスター・インクレディブルは、人の良い正義感溢れる父親で、とにかく怪力とタフネスさが自慢だ。ミセス・インクレディブル(イラスティック・ガール)は、夫を愛し、家族をしっかり掌握している良妻賢母で、危機に瀕しても、伸縮自在の身体をフルに生かして気丈に立ち向かう。ヴィオレットは、バリアを張ったり、身体を透明にする力を自由に使えるようになるにつれ、自信に満ちた明るい少女へと変身していく。ダッシュも、ただのイタズラ少年ではなくなった。高速で走る力を、家族の命を救うため、敵から逃れるために生かすことで、勇気と精神力を身につけるようになる。そして、何の特殊能力もないと思われていた赤ん坊のジャック・ジャックも、最後の危機にその力を発揮する!共感できる人間ドラマを随所に織り交ぜながら、テンポの速い展開で最後まで息をつかせない。日本でヒットしているというのは後で知ったことだが、日本語版への吹き替えも好評らしい。さまざまな角度から楽しめる、家族向けの一作である。特に、志半ばにして自分の夢を諦めた30~40代の方々には、胸の詰まるシーンもある。ボブの書斎の壁一杯に飾られた、栄光の証。それを眺めながら、目を輝かせる彼の姿・・・。しかしながら、激しいアクション・シーンも多いので、あまり小さいお子さんにはどうかと思う。おそらく理解できない部分も多かろう。ちなみに、うちの下の娘(満5歳)は、途中何度か怖がっていた。お子さんとご一緒なら、私がお勧めするのは、最低小学校2~3年以上からである。* * * * * *ところで、チケットを買う時に、ちゃんと「子供2枚、大人1枚」と言ってるのに、「学生3枚にしておきますね」って、一体どういう意味なんだろう?安くしてもらえるから喜ぶべきなんだけど、子供を連れている時まで学生に見られるって、私は何者・・・?親戚のお姉さんとでも思ってるんだろうか・・?それでなくても、バスの中などで年配の女性に席を譲るのが普通のここトルコで、子供を連れていてさえなかなか席を譲ってもらえない私は、またまた複雑な気持ちに陥ったのだった。。。
2005/01/17
昨日、14日金曜日をもって前期の授業が終了し、カルネ(通知表)をもらった娘たち。下の娘にとっては、初めてもらう通知表でもある。トルコの小中学校、高校では、毎年1月の20日頃から、前期と後期を隔てる2週間の休暇に入るが、これをシュバット・ターティリ(2月休暇)とかヤルユル・ターティリ(半年休暇)と呼んでいる。今年はクルバン・バイラム(犠牲祭)が20日から始まるため、当初は19日水曜日がカルネ・ギュニュと聞いていたのだが、週半ばで中途半端なことと、トルコ東部では厳しい寒さが続いていることなどに鑑み、国民教育省が休暇の開始を早めるよう急遽決断を下した。お陰で、今年はなんと2月6日まで丸々3週間の長期休暇となった。といっても、急に休暇の開始を宣言された親たちの方は、そうそう穏やかではいられないのではなかろうか?仕事を持たない私でさえ、休暇が始まる前に「子供抜きで」済ませておかねばならない用事がいくつかあったのだが、「カルネ・ギュニュが14日になるかもしれない」と聞かされたのはつい前日のことで、正直戸惑った。3週間もの長い休暇、どうやって過ごそうか、どこに出掛けようか。どうやって子供たちの相手をしたりご機嫌を取ったり、勉強や手伝いをさせるか。用事がある時に子どもたちをどうするか、隣人に預けるか、親戚に来てもらうか、用事先にまで連れて行くか。共働き家庭ならば、どうやっても誰か面倒を見れる人間を探さなければならない。どの親御さんも、置かれた条件に多少の違いはあれ、そんな悩みを抱えているに違いない。毎年、父親が不在のため遠出もできず、なんとなく毎日を過ごして終わることの多い私たちだが、今年は幸いなことに27日には夫が帰ってくるので、10日ほどを一緒に過ごすことができそうだ。カレイチの地所での基礎工事が始まるので、遠出はしたくともできぬが、父親が居るというだけで、娘たちには「ハレ」の日々になる。それに、週末を使っての1泊温泉旅行くらいはできるかもしれないと、今から娘たちは期待している。とりあえず休暇第1日目の今日は、約束通り「ご褒美」を買いに、いつものミグロス・ショッピングセンターまで出掛けることにした。私の子供の頃など、良い成績を取って帰ったからといって、なにひとつ褒美などもらった覚えはないが、少なくともこの辺りでは、カルネをもらって帰ると「半年よく頑張ったね」という意味を込めてか、「ご褒美」をもらう子供たちが多いのだ。昨日だって、まだ授業が終わっていないのに、さっさとカルネだけもらって、その足でミグロスに行って欲しい物を買ってもらったり、映画を観させてもらったり、ハンバーガーを食べさせてもらったりという子供たちが結構居た。時代変われば、所変われば、である。「全部5だったら、ご褒美買ってもらえるんでしょ?」上の娘も、1週間ほど前から、そんな打診をし始めた。1年生の時は確かに5をもらってきていたが、2年になってから算数に結構苦労していたので、「算数は4、もしかしたら3かもよ」と娘に正直に言うと、娘もそうかもしれないと頷く。「まあね。全部5ならね」そう曖昧にほのめかしておいたのだが、意外にも全部5で、結局約束を果たさねばいけない羽目になった。上の娘に買ってやるなら、当然下の娘にも必要。記述式の通知表をもらっている下の娘も、思っていたより良い評価が書かれていたので、結局のところ、ふたり揃ってのご褒美である。つい木曜まで汗ばむような陽気の続いていたアンタルヤだが、今日は一転氷雨のそぼふる寒い1日となった。気温も10℃も下がり、吐く息が白い。まずはトイザラスで、ふたりともオシャレ・グッズを選ぶ。ピンク&ロマンティック大好きの下の娘はピンクのパーティーバッグ。カッコ付けるのが好きな上の娘はドゥーメ(刺青用シール)入りの化粧グッズである。その後で、前から上の娘には約束していた日記帳も買ってやる。最後に、マクドナルドのハンバーガーで終わり。プレゼント&ハンバーガーのダブル・サービスは、今ではすっかり、こどもの日とか、こんな日の定番になってしまった。さて、来週は映画にでも連れて行くか。金曜からトルコでも『イナヌルマズ・アイレ(Mr.インクレディブル)』の公開が始まっていて、娘たちからせがまれているのだ。個人的には、どちらかというと『ポーラー・エクスプレス』の方が好みなのだが・・・。
2005/01/15
昼間っからチャイムが鳴りドアを開けてみると、カプジュ(マンションの住み込み管理人)が郵便物を届けにきてくれたところだった。最近、郵便物の紛失が多いので、大事をとってすぐに届けに来てくれたのだろう。いつぞやも、買い物に出掛けるところで、我が家の郵便受けにミグロス・クラブカード会員宛の封筒が入っているのを確認したのだが、手荷物になるからとそのままにして出掛けたところ、40分後に戻った時には見事紛失していたことがある。表玄関のドアが開けっぱなしになっていることが多いので、カプジュには郵便物に注意してくれるよう、また大きな郵便物は取り置いてくれるよう頼んでおいたのだった。封筒はOSYM(学生選抜・配分センター)からのものだった。(→2004年12月13日の日記参照)早速、封を開けてみる。YOS(外国籍学生試験)の案内書と、マークシート式の願書用紙。案内書にざっと目を通し、巻末にある受け入れ大学一覧に目を走らせると、まず第1のハードルにぶつかった。私の第1希望である考古学科の「特殊条件」の欄に、ある数字が記載されている。その数字の意味するところはというと、「希望する学生には、定員内で1年間のドイツ語準備プログラムが適用される。準備プログラムの期間は教育期間には含まれない」というもの。通常入学した年は準備期間として、英語の授業ばかりを受けさせられると聞いているが、考古学科の学生にはドイツ語の選択も許されるという意味であろう。確かに、考古学徒たるもの、必ずやドイツ語の論文のお世話になることだろうから、「希望する学生には」とあるが、実質的には「必須」と考えた方が良さそうだ。迂闊にもこの問題が私の頭をよぎったことなど、今まで一度たりとなかった。実を言うと、私にとって、ドイツ語だけは勉強したくない、関わりたくない外国語の筆頭にあげられる。今だってトルコ語で四苦八苦している上に、トルコ語でドイツ語を、それこそまったくのゼロから(ちなみに、大学での第2外国語は中国語だった)習うなんて・・・。イヤだ~、イヤだ~、イヤだぁ~~!!さらに、その右の欄に目を向けると、「定数2」の文字が・・・。ええっ~~!?たった2名!?考古学科だけではない。人文科学部の受け入れ定員は、各科とも2名ずつ。第2希望の歴史学科も、もちろん同じである。ハァ~~ッ。。。。。(タメイキ)この2件だけでも、どよ~~んと暗くなった私。その後で、願書用紙の陰から試験問題のサンプルが出てきたことで、もう私の気分は真っ暗闇。一目見て、もう「お手上げ」である。いったい、この問題は何なんだ???知能テスト?それとも数学??見たことのない記号。こんな数学記号、あったっけ??それでも気を取り直して問題に取り組むと、5問のうち2問は、図形と数を認知する知能テストのようなもので、まもなく解けた。3問目。一見、数式のように見える。が、丸の中にプラス記号。これって、トルコ独自の数学記号?それとも、架空の記号だろうか?とにかく、与えられた3つの式を、当てはめやすいよう置き換えたり、代入したりしているうち、なんとか回答に行き着いた。4問目。ひゃあ~~!もう。こんなの、見たことないよお~。f(x)=In(cosx) ・・・・これ、なに?df π l π― ( ― )= f ( ― ) = ? ・・・・fのl乗って、なに?dx 4 45問目。ゲゲッ・・三角形の面積を求める問題?でも、なんだか違うような・・・。ABCを頂点とする三角形の、B角が60℃、ABの長さが6cm、BCの長さが10cm。で、A(ABC)=?cm(2乗)平方cmとあるからには、面積を求めているのだろうと思うが、A(ABC)なんていう書き方の意味が分からない。おまけに選択項には、すべて√3がつく。 ・・・・・・・・(無言)・・・・・・・・こんなん、分っかんないよう~~!!(悲鳴)数学なんて、大学入試以来。もう20ウン年も離れていれば、忘れもするだろうが、それにしても、こんな数式、あったっけ?トルコ・オリジナル?それとも、日本でも今じゃあこんな数式、普通に使ってるのかなあ・・・。一気に落ち込みのドン底。5問中、ギリギリ3問。こんな訳分かんない問題ばっかり20問も30問も出された日にゃあ、頭おかしくなりそう・・・(涙)。大体、知能テスト程度のものならいいけど、志望が理系でもないのに、なぜ数学的思考を見るような問題しか出されないんだろうか・・・?地理や歴史はなぜ出ない?泣きそう・・・。一応、言い訳しておくが、私は高校まで数学は得意だった。大学入試共通一時試験(古すぎ?)でも、自慢じゃないが数学は(自己採点)200点満点だった。でも、今の私に、4問目、5問目はお手上げである。どなたか、分かる方、教えていただきたい。ちなみに、正答は、4問目が-1で、5問目が15√3である。基礎学力テストがこれじゃあ、裏面のトルコ語がいくら全問正解でも、何の慰めにもならない。願書を提出する前から、もう落ちたような気分。もうやめとこうかなあ・・・・そんな弱気にもなる。願書提出の締め切りは3月11日。それまでゆっくり考えるしかない。あ~あ。。。
2005/01/12
満7歳半になる上の娘は、歯の生え変わり時期の真っ最中。クラスの中でも小さいほうから2番目くらいの娘は、クラスのお友達に比べても、もちろんトルコの子供の平均よりも生え変わりが遅いほうだと思う。自分の子供の頃を振り返ると、顎の小さかった私自身、生え変わりが遅く、永久歯が生えてきても、乳歯がグラッともせず、いつも歯医者に連れて行かれ、麻酔注射をされて乳歯を抜かれていたものだ。(それが嫌で、永久歯が生えてきたことが親に気付かれないよう、笑う時も口をいつも隠してたっけ)娘の歯は、今のところ下の前歯が2本生え変わったところ。その横が固く膨らんでいるので、3本目がこれから生えるところである。娘には、「生え変わりが遅くても、心配しないで。母親の私が遅かったのだから、たぶん私に似て遅いのよ」と言ってある。それに、今までのところ、永久歯が十分に伸びる頃には乳歯も自然とグラついてきて、自然な生え変わりができているので、まったく心配はいらない。少なくとも私にはそう見える。ところが夫の方は、娘の口の中を覗くたび、心配でたまらなくなるらしい。私がいくら説明しても、「永久歯が生えてきているのに、乳歯が抜けてないのはオカシイ」とか「永久歯が傾いて生えてるのはオカシイ」「医者に見せよう」と、まことにウルサイ。私が、「生え変わりが終わったら、矯正すればいいのよ。この辺の子供たちも皆そうしてるんだから」「永久歯が生える時に乳歯があるのは当たり前。乳歯は永久歯が生えるときのガイド役をするから、乳歯が揃ってるのがいいって言うし」と説明しても、まるきり納得できないらしい。夫に「家庭の医学」の基本的な知識が欠けているのは知っていたが、ここまで無知というのも却って困りものである。しかし、まさか専門家であるべき歯科医師においてまで、乳歯の管理と生え変わりに関する常識が、日本の常識とそうまで異なっているとは思っていなかった。もう1年半以上も前のことになるが、夫の歯の詰め物が取れたか何かで、歯医者に行くことになった時、前々から気になっていた娘の奥歯の虫歯をついでに治してもらってと、夫に歯医者に連れて行ってもらったことがある。しかし、夫は自分の歯だけ治してもらって、娘の歯は治さないまま連れ帰ってきた。「これくらいなら、治さなくってもいいって言ってたよ」と。それから半年近く経った頃、前年夏に日本の歯医者で治してもらった娘の奥歯の詰め物が取れ、反対側のやや進行したように見える虫歯も一緒に治してもらうべく、前回と同じ歯医者に出向いた。詰め物が取れた箇所には、あらたに虫歯ができていたので、そちらは治してくれたのだが、反対側の虫歯は治さなくてもいいと医者は言い張る。「いずれ生え変わるんですから、このままでいいんですよ。精一杯揺らしなさい。半年経ってもグラグラしはじめないようなら、もう一度連れて来てください」と。私は「日本では、乳歯が一番大事だから、虫歯は治すのが常識ですけど」と食い下がったが、必要ない。どうせ生え変わるの繰り返しだった。すぐに他の歯医者に鞍替えしてもよかったのだが、そんな不毛な会話は2度と繰り返したくなくて、諦めてしまった。半年後に予定していた日本への一時帰国で、真っ先に歯医者に行くことに決め、もうトルコの歯医者は信用ならないとばかりに見限ってしまった。昨年夏、待望の日本帰国で、予定通りまず歯医者への予約を入れた。実家の近くのただの町の歯医者なのに、2年振りに見ると、まずその最新設備に驚かされた。トルコの町の歯医者とは当然だが雲泥の差がある。レントゲン写真を写すためのモニターは、いまやケーブルテレビまで映るようになっていた。「へえ~、これなら子供用にアニメまで見せられますね」と感心すると、「まだそこまでは・・・」と申し訳なさそうに言われたが。で、肝心の娘の虫歯だが、やはりかなり進行していた。最初にアンタルヤの歯医者に連れて行った頃から、すでに1年以上経っているのだから、当然と言えば当然である。私は、トルコの医者に「どうせ生え変わるんだから必要ない」と言われたことを持ち出して、精一杯言い訳を試みたが、まだまだ現役バリバリのお爺ちゃん先生には、しっかり諭されてしまった。「あなたねえ。乳歯がすべて生え変わるには6年くらいかかるの。前歯から始まって、奥歯は一番最後」「虫歯は半年、1年で相当進行するんだから、治しておかないと大変なことになるでしょ」私は、しゅんとなって声も小さくなる。「そうですよね。私もそう思ったんですが・・・」「医者には治してほしいって、繰り返したんですが、どうせ生え変わるの繰り返しで・・・・」ともかく、無事に奥歯2箇所を治してもらい、娘の奥歯は銀色に輝くことになった。そうそう、例のアンタルヤの歯医者だけなのか、他の歯医者も同じかどうか分からないのだが、娘が虫歯を詰めてもらった時の材料は、日本で仮詰めに使われるような、見るからに弱そうな白いセメント状のものだった。ともかくも、トルコでいかに乳歯が重要視されていないか、私の場合はこのアンタルヤの歯科医師の方針・言葉でまず認識させられた。今まで以上に、娘たちに歯磨きを徹底させるようになったのは、もちろんである。* * * * * *トルコ人の歯の健康に関して、こんな興味深い記事が、2004年12月25日付けの『Hurriyet』紙に載っていて、読んだときには目を疑った。―イェディテペ大学歯学部の調査で、若者たちの間で虫歯になる割合が、トルコは世界でも一位になることが明らかになった。ヨーロッパとアメリカでは、1年間に一人平均4本の歯ブラシを使うのに対し、トルコでは1年間に4人で1本の割り合いになることが判明した。―学部長で教授のトゥルケール・サンダルル医師は、行った調査の結果に自分たちがまず驚いたという。「トルコ東部と南東部の寄宿学校や、イスタンブール近郊の寄宿学校で、生徒4~5人で1本の歯ブラシを使っているのを残念な思いで眺めた」「7人家族の家庭でさえ、たった1本の歯ブラシを皆で使っていた」―サンダルル医師は、イスタンブールのような大都市においてさえ、1本の歯ブラシを全員で使っており、肝炎や、歯や歯肉の病気が広がる原因となる、と語る。「虫歯の原因であるバクテリアは、口から口へ、家族から、母親や父親から子供に移ることが分かっている」「このような原因によって、調査では若い人口の虫歯にかかる割合は90%になることが分かった。世界におけるこの割合は、40~60%の間である」なんともはや・・・思わず口をアングリと開けてしまう。トルコの田舎の方に行くと、実際、洗面所や手洗い場に歯ブラシが立ててなかったり、泊まった先の人たちが歯を磨いているところを見たことがない、という経験はよくする。義母の家の洗面所にも、歯ブラシがあるのを見たことはない。そういえば、昨年のシェケル・バイラムで夫の実家に泊まった時、一緒に泊まった義妹の子供たちは、夜寝る前までキャンディーだのなんだのを食べながら、3晩続けて歯みがきはさせられてなかった。義妹に「歯みがき、しなくていいの?」と聞くと、「歯ブラシは忘れた」だと。いいのかなあ~、あんなに甘いもの一杯食べてるのに。忘れたら、買ってくればいいじゃないの?どこかへ泊りがけで出掛ける時は、まず歯ブラシや歯磨き剤を用意する私たちには、信じられないことだった。時々、年端もいかない幼児で、前歯が虫歯で真っ黒とか、あちこち欠けている子供を見るが、こんな調査結果を聞くと、さもありなんと思う。ただし、この結果から、トルコ人に清潔志向がないとか、歯磨きの習慣がないと、一刀両断に結論づけることは避けたい。歯ブラシや歯磨き剤がどんなにテレビCMなどで宣伝されていても、トルコ全土にまで普及しないのは、トルコ国内の経済格差と、歯ブラシや歯磨き剤が高級品であることに原因があると思うからである。調査で名前の挙がったトルコ東部や東南部は、失業と貧困に苦しめられている地域である。例えば、こんな暮らしぶりをしている家庭がごまんとあるのだ。ふた間しかない小さい家には、壊れたテレビと冷蔵庫が置物として飾ってある。洗濯機はない。父親は不定期の日雇い仕事の収入でなんとか家族の口を養うのに精一杯。子供たちは義務教育である小・中学校までは行かせてあげられるが、高校まで行かせるだけのお金がない。シャンプーや歯ブラシの存在はテレビで見て知っているが、使ったことはない。頭は固形石鹸で洗う。あるいは、シャンプーや歯ブラシを生まれてこの方見たことがない。そのような貧しい地方から仕事を求めて大都会に出て、周辺部の貧困地区に住みついている人たちの生活スタイルは、田舎にいた頃とそう変わりがなかったりする。しかし、テレビなどの影響で、歯磨きをするものだと聞けば、とりあえず1本は必要か、となる。7人家族で1本の歯ブラシの例など、そのようなケースではないか、と思うのだ。上記のイェディテペ大学歯学部では、「全ての子供に1本ずつの歯ブラシ」キャンペーンを始めたという。「これまでに10万本の歯ブラシを学部の努力で用意した。必要のある子供たち全員に配るためには、さらに200万本の歯ブラシが必要なのだ」「1本か何本かの歯ブラシを学部宛に送ってくだされば、必要のある学校に私たちが送ります」サンダルル教授はそう呼びかけているという。
2005/01/11
本日2005年1月10日付の『Hurriyet』紙から、目に付いた興味深い記事を3つご紹介。【ネムルート・ダーにロープウエー】 アドゥヤマン県庁は、ユネスコの世界文化遺産リストに登録されている ネムルート・ダー(山)にロープウエーを建設する作業をスタートしたとい う。 ネムルート・ダーには昨年12万人の観光客が訪れたが、ロープウエーが 建設された暁には、観光客が殺到するであろうと見られている。 アドゥヤマン県知事は、ロープウエーのために準備されているプロジェクト の試験作業がすでに始まっていることを明らかにしたという。いったい・・・ユネスコはこの事実を知っているのだろうか?人類共通の遺産として、保護・保存に努めていくよう条約にも謳ってあるはずなのに、観光客の誘致を目的としたロープウエーなどが建設されたら、有名な石像群の風化を早めるだけなのではないのか・・・?これって・・・世界遺産条約違反にはならないのだろうか・・・・?【ボブ・ディランの祖先はトルコ人】 これまでの人生と40年に渡る経歴を筆に託して3巻からなる本を書き 綴ったボブ・ディランが、その1巻目において、祖母はクルグズ(Kirgiz)と いう姓を持つトラブゾン出身のトルコ女性であると書いているそうだ。 自らのルーツに関して、ディランはこう書いているという。 「ロシア南部の港町であるオデッサから(祖母たちは)アメリカに渡った のだが、もともとオデッサにもトルコのトラブゾンという港町から移住した のだそうだ」 「祖母一家は、元はアルメニア国境にある小さい村キャウズマン (kagizman)出身で、姓はクルグズである。祖父一家も、同じ地方出身で、 皮なめしと靴作りの仕事をしていた。祖母の祖先は、イスタンブールから この地方に移ってきたそうだ」 「(ネリー・ターク(Turk)という名前でトルコ人の友達もいた母親は)家から 一歩も出なかった。 私もその頃は、誰もがラ・バンバ(La Bamba)という名の歌で知っている リッチー・ヴァレンスの、神秘的なトルコの人々と大空に輝く遠い星々を歌詞 にしたインナ・ターキッシュ・タウン(In a Turkish Town)を歌ってたもんさ」 ここにも一人、トルコ移民の子孫がいた。「移民」として生きる人々の息遣いが、こんな小さい記事にも感じ取れる。とはいえ移民で構成されているアメリカ。祖先がトルコ人であっても、とりわけ驚くことでもないのだが・・・・。この話は、ボブ・ディランの祖先の地であるトルコ東部、カルスとその一地方であるキャウズマンで熱狂的に歓迎されたようだ。早速、クルグズという姓を頼りに、ディランの親戚が生存していないか調査が行われた。残念ながら、その姓を持つ人間を発見することはできなかったようだが。キャウズマン市長は、世界的に有名な歌手の祖先が住んでいたということ、いわば同郷人であることを非常に光栄に思い、1日も早く本人を招待し、コンサートを開きたい。祖先を見つけるためにも最大限の協力は惜しまないと、語る。「本人がここにやって来てコンサートを開けば、貧困と闘うキャウズマンの町を再生できる。不幸な歴史を一転させることができる」また、ディランの文章ではひと言も触れられていないカルスの市長までも、「必ずや本人とカルスでお会いしたい」と意気込みを見せている。やれやれ・・・結局、町起こしのネタにされてしまうのか・・・。そのうちカルス周辺の市町村に、ボブ・ディラン通りとか、ボブ・ディラン広場とか、銅像や記念館まで建てられたりしてね。* * * * * *なお、翌日付の『Hurriyet』紙の記事によれば、トラブゾンに住むクルグズ一家が親戚ではないかと名乗りを上げたようだ。トラブゾンで、自分たち以外にクルグズの姓を持つ家族は聞いたことがないと、息子は語る。母親は、テレビで見たボブ・ディランの顔が、25年前に亡くなった夫によく似ていると語る。(確かに写真を見比べてみると、骨格、鼻の形など似ている)息子は早速、祖母の親戚筋から情報を得ようとしたが、バイブルトのトマラ村から移住してきたという祖父以前のことまでは分からなかったそうだ。・・・・ここしばらくは、ボブ・ディランの親戚を名乗る人たちが、次から次へと登場してくるに違いない。【ケバブ(焼肉)大食いチャンピオン】 スィワス(Sivas)で開催された大食い大会(大会名は不明)で、 シャンルウルファ出身の男性が、なんと25人分!のカルシュック(ミックス)・ ケバブと10リットル!のアイラン(ヨーグルト・ドリンク)を1時間半を かけて見事に平らげたという。 この男性、以前にも52人前!のドネルを食べてギネスブックに載った ことがあるそうだが、普段から1日に10個から15個のエキメッキ (トルコのバゲットで、長さは30cmにもなる)を食べ、50杯のチャイ (トルコ風紅茶)を飲むという。 ちなみに、この男性の体重は122kgだそうだ。ううっ~~。もう読んだだけでお腹一杯。(気持ち悪くなってきた・・・)世に大食漢は数々あろうが、この人すごすぎる・・・・。
2005/01/10
結局、人数が集まらずにキャンセルになったという前回の懇親会から早3ヶ月。下の娘のクラスでは、発表会やら何やらで頻繁に親同士が顔を合わせているので、「今さら」の感がないではないものの、とかくおしゃべり好きなトルコ女性たち。学校という公の空間を離れた場所で、担任教師も含めて打ち解けてゆっくり話す機会を作ろうというのが、この集まりの目的。今週になって急に連絡が届いた。日時は、本日8日土曜日。学校前に10時に集合。手紙には行き先は一切書いてなかったが、娘の話では牧場とのことだったので、以前スヌフ・アンネスィ(クラス・マザー)であるSちゃんのお母さんが口にしていた、新しい乗馬センターのことだろうと分かった。娘たちの学校からなら、車で約10分。オレンジ畑の間に、自家で肉を解体し、捌いた新鮮な肉をテーブルの端で焼いて食べさせてくれるオジャクバシュ・スタイルの大型ケバブ・レストランが数多く点在する地域がある。チャクルラルと呼ばれるその地域のボーア・チャイ(川)沿いに、目指す『エヴェレスト乗馬センター(EVEREST BINICILIK MERKEZI)』はある。アンタルヤ郊外とベレッキ、ケメルなどの周辺地域では、ここ1~2年の間に、一気に牧場トゥーリズム・ブームとでもいうべき新たなブームが湧き起こり、広大な土地を利用して、馬場と小さな動物園、レストランなどを組み合わせたレクリエーション施設が数多く作られるようになった。昨年末に朝食をと出掛けた『オルフェ・チフトゥリッキ(ORFE CIFTLIK)』もその一つだが、エヴェレスト乗馬センターは今日が始めて。 元々オレンジ畑であったところを切り開いて厩舎や馬場、レストランが作ってあるらしく、オレンジの木々の間に設けられたチャルダック(あずまや)やハンモックも気持ち良さそう。おまけに、そんなオレンジの木々の下をアヒルや鴨、鶏、七面鳥などが自由に駆け回っていて、子供たちの格好の遊び相手になる。(追いかけられているのは、可哀相だったが・・・)遥か遠くには雪を抱いた山々も見え、なぜかこの辺り一帯は、風も吹きつけず、晴れ渡った青空の下、日差しがジリジリと額を焼いて、暑いほどだった。ここで提供される朝食セットやハンバーガーなどは、ごく普通のものだったが、全体につけられている値段もお手頃で、なにより近いのが有り難い。ギョズレメ屋(ギョズレメを食べさせる場所)と、牧場レストランの良いところをミックスさせたようなアンタルヤの新スポットなのであった。
2005/01/08
イェシム・ウスタオール(Yesim Ustaoglu)監督の『雲を待つとき』が、いよいよ本日7日から公開されていると聞いた。いつも私たち家族の行く映画館は、近所のミグロス・ショッピングセンターの中にあるシネマ・サロンだが、ここでこの種のマイナーな作品を上映しているとは、考えにくかった。念のため覗いてみたが、案の定。当然、今後の上映作品の中にも見つからない。ふと思いついて隣のCD&ブック・ショップに入り、VCDの棚を探してみると、やっぱりあった。監督の前作にあたる『太陽への旅(GUNESE YOLCULUK/JOURNEY TO THE SUN)』(1999)が。値段は11.25YTL(約870円)で、即決である。(国内のマイナー作品の価格は、大体こんなものである)最新作を観る前に、まず彼女の出世作を観ておきたかったのだ。 クルド問題という非常にデリケートなテーマを扱ったために、「状況がそれを許さない」とばかりに、配給の名乗りを上げる会社はひとつとしてなく、その年のベルリン国際映画祭で最優秀ヨーロッパ映画賞と平和賞に同時に選ばれるという栄誉を獲得したにもかかわらず、1年の間配給会社を探して歩いたというこの作品。結局、自分たち自身の努力で公開にこぎつけたのが2000年3月。入場者は10万人を越えたという。それから5年近くも経って、このような作品を鑑賞できるのもVCDがあるおかげ。今日は子供たちが寝静まってから、早速『太陽への旅』をプレーヤーにかけてみた。* * * * * *たくさんの物売りで溢れるエミノニュ。そこでカセットの行商をするベルザンは、トルコ南東部イラク国境に近いゾルドゥッチ(Zorduc)という村出身のクルド人である。古ぼけた恋人の写真と恋人の名前を彫ったプレートをお守りにしながら、今日もエミノニュの波止場に立つ。一方、イズミール近郊ティレ(Tire)の出身であるメフメットは、長いロート状の杖を使って漏水箇所を見つけ出すという少々変わった仕事についている。スルタナーメットの洗濯屋に勤めるアルズという恋人がある。ベルザンとメフメットは、ある夜、サッカーの試合後に起きた喧嘩に巻き込まれたお陰で友達になる。トルコの最南東部から来たクルド出身の男と、トルコの最南西部から来た、どんなクルド人よりクルド人らしい顔立ちをした青年との付き合いが始まる。ベルザンは父親のことをメフメットに話して聞かせる。ある晩、警察に連れて行かれ、そして2度と戻らなかったと。なぜか?と問うメフメットにベルザンはこともなげに答える。そんなものなんだ。皆、連れて行かれ、2度と戻ってこない、と。時代は、いまだクルド独立過激派とトルコ軍との闘いが続けられている頃。毎日のように、テレビには小競り合いの模様が映し出され、ベルザンも一度警察に連行されたことがある。クルド人と分かればテロリストと見なされるような、そんな時代だった。ある夜、メフメットが自宅へ戻るために乗ったミニバスに一人の男が乗ってきて、メフメットの隣に座る。警察の検問を察知した男は、銃をメフメットの座る場所に残して慌てて降りていく。おそらくクルド独立派かなにかだったのだろう。しかし、嫌疑はメフメットにかけられることになる。彼はどこから見てもクルド人に見えるし、彼のかばんの中からは、ベルザンにもらったクルドのミュージック・テープが出て来たからだ。メフメットの容貌を見て、取調官ははなからクルド人であることを疑ってかかる。「お前さんは、母親に似てるのかい、それとも父親に似てるのかい?ええ?」取調官は、尋問するたびメフメットが答えるたび、いちいち彼の顔を打つ。メフメットは、クルドでもテロリストでもないし、イズミールのティレ出身だと訴える。「ほう~、トルコの地理をよく知ってるんだなあ」とからかってはいたぶる。警察による尋問はやがて拷問にかわる。数日後、釈放されたメフメットを待ち受けていたのは、厳しい現実だった。何人もの同居人と一緒に住んでいた、騒音溢れる町工場の一角からも追い出され、仕事場からも解雇される。ベルザンの紹介で駐車場の夜番に雇ってもらうが、そこもすぐに出て行かざるを得なくなる。ドアに赤いペンキで書かれた大きなバツ印。まるでユダヤ人狩りの頃のようだが、おそらく「ここにクルド人がいる」「クルド人は出て行け」というサインになるのであろう赤いバツ印が、その後もずっとメフメットについて回ることになる。メフメットは自分の顔を鏡に映してみる。頬のこけた細長く精悍な顔立ち。先の尖った高い鼻。浅黒い肌に黒々とした髪の毛や眉。金になりそうなガラクタを集めるために通っていたゴミ集積場で、ペンキのスプレー缶を見つけた彼は、居候させてもらっているベルザンの家に持ち帰り、そのペンキで髪の毛を黄色に染める。少しでも自分の容貌をクルドの特徴から遠ざけたくて。まもなくベルザンは、クルド人と警官隊との抗争で帰らぬ人となる。メフメットは、ベルザンの遺体とわずかな遺品を無理を言って譲り受け、故郷のゾルドゥッチまで送り届けることを決心する。かつて働いた駐車場から、1台のトラックを盗み、ベルザンの棺を積み込むと、夜明け間近かのイスタンブールを後にして、東へと、太陽の登る方角へと、クルディスタン(クルド人の土地)へと向かう長い旅に出発する・・・・。* * * * * *映画の中には、いくつかのキーワードが繰り返し登場する。そのうち最も印象的なものが、私には「キムリック(身元、素性、あるいは身分証明書)」であった。自分の身元を証明できる唯一の書類(例えば、パスポート)を日常的に持ち歩く習慣のない日本人にとっては、キムリックの重要性、その効力を想像することは難しい。しかし、トルコ人にとってのキムリックは、社会生活をする上で、まず第1に位置づけられるものである。キムリックの提出は至るところで求められ、そして、そこに書かれた出身地によっては、トルコ人ならそれがどのような地域で、持ち主が大体どの民族に属するのかも分かるほどである。映画でも、人々は常にキムリックを問われ、キムリックの提出を求められる。その容貌から常にクルド人に間違われるメフメットも、キムリック、つまり自分自身が何者なのか、という問いをいつのまにか自らに問うようになったのだと思う。ベルザンの亡骸を送り届ける旅は、実は自身のキムリックを探す旅でもあったのではないだろうか。彼がクルドの土地へ、その最深部へと近づいていくにつれ、自身がクルド人であるかのようにさえ感じ始めたように見えるのだ。少なくとも、自分の黒髪をもはや隠す必要のなくなった彼は、黄色いペンキをそこで初めて洗い落とす。同時に、生まれながらにクルド人というキムリックを与えられた人々の現実と、クルドの土地に与えられた運命も、映画の最終章に向かって、抑えた筆致ながら次第しだいにつまびらかにされていく・・・・。素晴らしい作品である。一見して女性監督の手になるとは思えない、辛く苦い社会派の作品である。取り上げたテーマや表現方法から、ユルマズ・ギュネイの影響を云々することもできるだろう。しかし、ユルマズ・ギュネイ以降、この難しいテーマを取り上げた作品が他にたくさんあるとしても、この作品はぜひ一度観ていただきたいと思う。最新作『雲を待つとき』が楽しみである。* * * * * *ところで、この映画『太陽への旅』は、以前日本でも公開されたことがある。『遥かなるクルディスタン』というのが、そのタイトルである。なんと、日本でもDVDで発売されているとのこと。レンタル・ショップで見つかるかどうか分からないが、機会があったらぜひ観ていただきたいと思う。
2005/01/07
アンタルヤの旧市街カレイチ(城塞内、の意)は、建都以来のアンタルヤの地理的中心であり、同時にアンタルヤ市民にとっての精神的「中心」でもある。観光産業の中心が市の郊外へと移ってしまい、現代生活を送るには適合しなくなった古い家を見放して、多くの住民がカレイチを出てしまった現在でも、カレイチがアンタルヤの象徴であることには変わらず、廃れるに任されるべき存在ではない。カレイチを一度でも訪れたことのある方なら気付かれたことだろう。絨毯屋、土産物屋、レストラン、カフェ、ホテル、ペンションなどの並ぶ表通りから一歩裏道に入れば、崩れかけ、打ち捨てられた廃墟同然の民家が、あちらこちらに残されている。持ち主は当然いる。地元の住民だけではなく、アンタルヤを出て今では他の都市に住み着いている、元アンタルヤの住民、そして市外、中には国外からやってきて、投資や商売、住居のために、その土地を家屋ごと購入した人間である。残念ながら、やって来る人間より、出て行く人間の方が多く、廃屋が減ることはまずない。 そんなカレイチの惨状はもちろん知りながら、カレイチに土地を購入した私たち。「腐っても鯛」ではないが、どんなに廃れようとも、カレイチにはカレイチならではの魅力―例えば、オスマン様式の家々が軒を並べる独特の景観、歴史的重層性、小路が複雑に入り組んだ迷路的空間、わずかに開いた門や高い塀越しに伺えるオレンジやレモン、椰子やバナナといった植物の醸し出す南国的雰囲気―があるし、どんなに光を失ってもアンタルヤの“真珠”であり続けると思う。私たちが今始めている建物づくりは、カレイチの独特な景観と雰囲気は壊さないままに、周囲の景観、文化的環境、雰囲気を多少なりとも向上させる効果をもたらすだろうと自負している。自分たちの目標も実現しつつ、カレイチ全体へのわずかな貢献もできるのではないかと思うのだ。私たちに、もしふんだんに資金があったら、現在打ち捨てられている古い民家を次々と買い取って修復したいところである。おそらくそう望んでいる人は少なくないと思う。なにより、持ち主自身が修復や建て替えを望んでいるに違いないのだ。それを簡単にさせないのは、第1に法律、第2に資金と時間の問題である。カレイチの町並みを特徴付ける張り出し窓を持つ古い民家は、オスマン帝国時代末期に建てられたものが多く、古いものは築120年くらい、新しいもので築80年くらいのアンティーク建築である。それ以降の「新しい」建物に関しては建て替えも可能だが、これらアンティークの建て替えは禁止されており、修復しか道が残されていない。修復にはたいへんなお金と時間がかかる。中に人が住みながらできることではない。新しい住居に移り、中を空にしたものの、修復のめどがつかず、手放すか放置せざるをえなかったケースも多々あると思う。こうした建て替えしか認められていない古い民家の売値だが、そのままでは人がとうてい住めないような廃屋が、占有面積、老朽度、立地条件はまちまちにしても、最低700万円くらいから、上は2千万、3千万、5千万円もする。さらに修復には、購入金額と同じくらいの費用がかかるといわれる。もちろん修復も、かならず博物館の管理・査察を受ける。私たちの建築予定の場所には、築40年くらいの「新しい」家屋しか建っていなかったので、これを壊して新たに建物を建てることが許されたが、この時も、建築プランを作るより以前に博物館の立会いによる「発掘」(発掘リポート参照)が行われた。修復にあたるケースでも発掘は必ず行われる。発掘の結果、その上に建物を建設したり人が居住しては差し支える重要な遺跡、歴史的遺物がないことが証明されてはじめて、博物館側から建築・修復可との判断が下され、設計をスタートさせることができる。もし、自分の土地から大きな遺跡が発見されれば、そこに建物を建設したり、居住することは不可能になる。中には、私有地の自由な利用を求めて、博物館側に対し訴訟を起こそうとする人もでてくる。出来上がった建築プランに対する文化的尺度から、博物館側の建築・修復許可が下りたとしても、実質の建築・修復許可はベレディエ(区)から得なければならない。私たちのケースでは、博物館への発掘申請からここに至るまでに、すでに10ヶ月近くかかっている。これまでは、資金調達が無事にできたからこそ順調に来れたのだが、もし資金が底を付けば、建設は中断せざるを得ない。いくら時間に余裕があっても、資金のめどなしに建築も修復も不可能である。こうして、さまざまな理由から、カレイチ内の古い民家の多くは、修復もされないで放置されているのが現状である。* * * * * *前置きが長くなったが、こうしたカレイチの窮状に対し、この度ようやく政府からの手が差し伸べられることが決まった。昨年の最後にもたれた内閣決定において、カレイチを「文化と観光の保護・発展地域」とすることが正式承認され、文化観光省の直接の管理下に置かれることが、2004年12月31日付けの官報で公示されたという。具体的にどう運営され、どのような成果が表れるのか、いまだ海のものとも山のものとも分からないが、現在進行中、そして今後計画されるさまざまなプロジェクトが、今までよりは数段早く承認され、実現を見るのではないかと期待されている。4日にアンタルヤ入りした文化観光大臣エルカン・ムムジュは、早くも高まる期待に対し、「プロジェクトの準備には最低1年はかかる」と釘を刺した。実はこの件に関しては、昨年末に材木を購入した木材業者からすでに聞かされていた。木材業者の話では、カレイチ内のあらゆるプロジェクトに対し、国庫から低金利での資金貸付が行われるとの話だった。「それ、本当かなあ~」と疑りつつも、その場を盛り上げるために私は叫んだ。「ヤシャスン!バカヌムズ・ムムジュ!(バンザイ!我らが大臣、ムムジュよ!)」「セブギリム・バカヌム、テッシェキュル・エデリム!(愛する我が大臣、どうもありがとう)!」実際、エルドアン首相と並び、文化観光相ムムジュは、このところずっとアンタルヤの観光開発にご執心で、次々に開発プロジェクトを立ち上げているのである。というわけで・・・・朗報であることには間違いないが、一方で不安がないわけではない。現在、基礎工事を目前にしている私たちの土地が、文化観光省のプロジェクトによって、別の目的のために割り当てられた区画に含まれたとしたら、どうなるだろう。建設も終わり、建物の使用が開始した後で、プロジェクトに沿わないとして、改築を迫られたとしたら・・・。あるいは、他の区画に移動せよと、移転を求められたら・・・・。カレイチ全体のルネッサンス(再生)のためには、政府の援助は非常に心強いが、お仕着せのプロジェクトに従わざるをえないとしたら、私たち一家にとっては目の上のたんこぶか、ただの足枷に過ぎなくなってしまう。少なくとも私たちに不利益をもたらすものでないことを祈りたい。私たちの今後の人生は、カレイチ次第なのだから・・・・。
2005/01/05
気が付くと、財布の中に60ミリオンTL(約4600円)しか残っていない。というわけで、本日は町の中心にあるDOVIZ(両替商)に、手持ちのドルを両替しに出掛けた。2005年1月1日をもって、トルコリラ(TL)の0(ゼロ)が6つ排除された新トルコリラ(YTL)の流通が始まっているのは、トルコ在住の皆さんがすでに書いてらっしゃるので、ここでは詳しくは触れない。私の関心は、いったいいつ自分の手元に新トルコリラがやってくるかということだった。特に、旧札では20ミリオンTL札(新札では20YTL札)が最高券額であったが、今回新トルコリラへの切り替えに伴い、50YTL、100YTLの2種類の高額紙幣が誕生したので、この新紙幣がいつ手に入るかが、ひそかな関心事だったのだ。そして、いよいよチャンス到来!300ドルを出し、404.4YTLを受け取る。(本日のDOVIZレート、1USD=1.348YTL)おおっ!これが新トルコリラかあ~。しかし、なんとも枚数が多くて、財布が閉まらない。それもそのはず。50YTL、100YTLなど、アンタルヤでは流通量がもともと少ないのか、とっくに出払ってしまっていて、手元に来たのは10YTLと旧10ミリオンTLのミックスで40枚、1YTLが4枚、計44枚もの紙幣の束なのだから。なんだか、新トルコリラになって却って不便だなあ~と、ブツクサ言いながら、膨れて閉まらない財布を無理やりポーチの中に押し込んだ。というわけで、とりあえず手に入れた10YTL札と、1YTL札をご紹介。現在流通している紙幣の画像を公開するのが、法に触れることがどうか分からないのだが・・・。(ご存知の方、どなたかご指摘くださいませ)いずれも、上の紙幣が新トルコリラ(YTL)、下のヨレヨレ紙幣が従来のトルコリラ(TL)である。見比べてみて、どう思われるかは皆さまの自由。個人的には、言われているほど安っぽくは見えないと思っているが、数字の周囲にずいぶん空間が空いたので、そこをデザイン的にもう少し上手く処理した方が良かったのではないか、と思うだけである。数字の後に「ミリオン」をつける癖はそうそう直らないと思うが、デザインが同じだけに、支払い・受け取りに新旧が混じっても、そう大きな混乱はしなくて済みそうである。願わくば、高額紙幣の流通量を早く増やして欲しいところだが・・・。* * * * * *それから3日後・・・・支払いのために銀行に出掛け、ついに50YTL札と100YTL札を手にすることができた。それだって、全部20YTL札でくれようとしたところを、お願いして交換してもらったのである。ところが・・・50YTL札を、間違って支払いに使ってしまったのである。(バカ)今手元に残っているのは、100YTL札が2枚。50YTL札がないのは片手落ちだが、一応100YTL札だけでもご紹介しようと思う。表は、20YTL(旧札の20ミリオンTLも同じ)以下に使われている写真よりおそらく若い頃のアタテュルク。裏はドウバヤズットにあるイサク・パシャ宮殿である。サイズだが、20YTL以下の紙幣より長さは5mm短く、幅は5mm長くなっている。手元にユーロ札がないので分からないが、ユーロのサイズに合わせたものだろうか?なお、ブルーが基調の100YTL札に対し、50YTL札の色は黄色になっている。
2005/01/04
※私たち夫婦の進めているプロジェ(プロジェクト)に関しては、 以下のページに経緯が書いてあります。 フリーページの発掘リポート(1)(2)(3) 9月18日の日記 11月8日の日記 11月27日の日記 12月27日の日記待ちに待ったミュゼ(博物館)側からの建築許可が下り、当面ベレディエ(区)からの建築許可取得が私たちの課題となった。そのための第2段階として、建築用地の耐震性を判断するための地盤検査が必要だという。昨年中に掘削業者は手配してあったので、正月明けの今日から、さっそくスタートしているはずだ。 午前中のうちに、私たちはカレイチ内にある地所に出向いた。業者はすでに仕事に取り掛かっていた。地所内の1箇所を選び、深さ6mまで掘り下げるのである。細長いシリンダー状の掘削機が、くるくる回りながら、地中深くにまで穴を開けていく。私たちはその様子を確認した上で、今後のプロセスを確認するために建築家のオフィスに出向いた。本日始まった地盤検査が今週中に終わると、ようやくベレディエへの建築許可申請が可能になる。建築家の話では、来週中には許可が下りるだろうとの予測である。許可さえ下りれば、いよいよ基礎工事のスタート。唯一の問題といえば、資金繰り、であろうか。ベレディエの許可を得るための必要経費は、数ミリヤール(※1ミリヤール=1000新トルコリラ=約7万7千円)。基礎工事に必要な鉄筋とセメントの購入に、同じく数ミリヤールがかかる。いったん工事がスタートすれば、職人たちへの日々の支払いが、否応なく発生する。新年早々、頭が痛い。今年の我が家のお財布事情からいえば、家計上の目標は、無駄な出費は避けること、であるはずだ。それなのに、夫が愛車のオンボロワゴンを塗装に出すという。私はすかさず喝を入れ、自動車屋にいまにも預けようとしていた夫を、一歩手前で思いとどまらせた。それくらい我慢しないと、とても建物なんか、建てられやしないんだよ、ババ(=パパ)。建築家との打ち合わせを最後に、日本へと戻っていった夫だが、きっと今頃はクシャミでもしていることだろう。
2005/01/03
学生の群衆に紛れて新年を迎えた私たちは、帰るとシャンパンの瓶を開けて乾杯し、結局2時頃までオシャベリに花を咲かせた。初めての夜更かしに加え、寒さと疲れから、帰り着くまでに我が家の下の娘は夫の腕の中で寝入ってしまい、上の娘も寒さで耳や頭の痛みを訴え、疲れ果てて戻るなりベッドに直行した。実は、耳管狭窄で蓄膿症(副鼻腔炎)の気のある上の娘には、この夜の外出があだとなったのである。前夜の夜更かしと疲れに関わらず、9時過ぎには全員が起きてきたのだが、上の娘だけがなかなか目を覚まさない。夫が様子を見に行くと、熱が出始めていた。測ると38度。蓄膿のせいで軽い熱でもすぐに頭痛と耳の痛みを訴える娘は、すでに38度で涙を溜めながらオイオイ泣いている。普段なら、38度くらいの熱で解熱剤を与えるのは渋る私だが、頭痛や耳の痛みを和らげるために、義妹の家に常備してある解熱・鎮痛剤をもらって与えることにした。実は、元旦には市内か、キュタヒヤ近郊にある温泉での初湯を考えていた。温泉プールが大好きな娘たちが、エダ叔母さんとエレナの家に来るのに乗り気だったのも、「温泉もあるよ」と教えた夫のひと言が大きく効いたからだと思っている。「わあ~い!温泉だあ~」と、いち早く水着を取り出して試着してみたり、忘れないよう真っ先にかばんにしまい込んだ娘たちの様子を思い出すにつけ、温泉行きがキャンセルになったら、どんなにか残念がるだろうと思ったが、病気となれば致し方ない。今日は一日、家の中でゆっくり過ごすことにするかと、いったんは諦めさせるつもりだった。しかし、効き目の強いトルコの薬のお陰か、娘の顔は1時間ほどで随分と楽そうな表情になり、温泉行きにも意欲を見せているほど。熱があるのに入浴させるなんて、頭がおかしいと思われる方もいらっしゃるかもしれないが、全身の冷えから始まった発熱だし、ゆっくりと温かいお湯に浸かりながら温かな蒸気を吸うことは、耳管を開いて頭痛の原因のひとつを取り除くためにも、かえって効くのではないかという気がしてきた。そこで夫と義兄弟に頼んで、市内の温泉ハマムに念のため下見に行ってもらうことにした。エスキシェヒルは、観光客にとっては何より、メアシャム・パイプの材料として有名な海泡石(マグネシウムの含水珪酸塩)の産地として知られていると思うが、実は市内中心部で温泉の湧出する温泉町でもある。ハマムというと、通常は浴槽のない、大理石で覆われた蒸し風呂のことを指すのだが、エスキシェヒルのハマムの多くには、浴槽やプールがある(らしい)。エスキシェヒル訪問も3度目になる私たちは、今度こそ大きなプール付きの温泉ハマムに入ってみたいと考えていたのである。しかし妹の話では、大きなプールのある温泉ハマムは、男性用は毎日でも開いているのだが、女性用となると週1回火曜日にしか営業してないという。他のハマムとなると、家族用の小さい浴槽を持つところしかないのだそうだ。(ちなみに、プールのある温泉ハマムの名は、『ハス・ハマム』というそうだ)小1時間ほどして戻ったふたりの話でも、市内のハマムはダメだと首を振る。結局、エスキシェヒルから車で1時間ほど走らせたキュタヒヤ近郊ヨンジャル温泉まで、ドライブがてら足を伸ばすこととなった。エスキシェヒルから陶器産業で有名な町キュタヒヤまでは、約70km。キュタヒヤの町に入る手前でバルケスィル方面に折れ、さらに10kmほど西に進むと、ヨンジャル(Yoncali)の看板がある。そこを南に入ると、やがてヨンジャルの集落が現れる。ヨンジャル温泉(Yoncali kaplicalari)にある最高級ホテルが、4ツ星ホテルの『TUTAV TERMAL OTEL ve KUR MERKEZI』である。ホテルの名前から分かるように、キュル・メルケズィ、つまりクア・センター(クア・ハウス)を抱える温泉ホテルで、もちろん宿泊せずとも入浴だけの利用も可能。大人ひとりの入湯料は10ミリオンTL(=10新TL、約770円)、子供が5ミリオンTL(=5新TL、約380円)。 実はこのホテル、まだ上の娘がお腹の中にいる頃だから、8年ほど前にも来たことがあったのを思い出した。長旅の疲れと妊娠中ということもあって、その時は温泉プールには入らなかったのだが、ホテルの外観には確かに見覚えがあった。ちなみに、TUTAVとはTURK TANITMA VAKFI(トルコ奨励基金)の略で、トルコの商工業や観光、文化、歴史的価値を海外に知らしめるために設立された組織で、一種の政府の外郭団体のようなものである。アンタルヤはカレイチ内にある、古い民家を修復して作られたプチホテル『TUTAV TURK EVI』も、今思えば同じ系列に違いない。周囲がガラス張りで、明るい日差しの入るプールは、大体8m四方くらいの四角形。水深は、どこの温泉プールでもほとんど同じ150cmで、私だとつま先立って、ようやく顔を出していられるくらい。お湯の温度は、最初に入ったときはぬるいくらいに感じたが、30分、1時間と経つうちに身体がポカポカ暖まって、熱いくらいに感じられる。体温とほぼ同じか、やや低いくらいなので、36~7度というところだと思う。子供たちは浮き輪や腕につける浮き輪の助けを借りて、自由に愉しんでいる。心配した上の娘には、体温と同じくらいの湯温のせいで、のぼせるまでには至らず、却って身体を内臓から温める効果はあったように思う。私はというと、少々泳いでは、階段の途中に座って腰から下だけお湯に浸かり、しばらくしてはまた泳ぐという具合に、全身を温かいお湯に浸せる喜びを感じながら、のんびりと出たり入ったりを繰り返した。私たちは一行7人は、こうして約1時間半ほど温泉プールで寛いだ後、再び1時間ほどかけてエスキシェヒルに戻った。娘はその夜、再び38度近くまで体温が上昇。同時に頭痛を訴えて眠れないと泣くので、解熱・鎮痛剤を飲ませる。翌朝、まだ身体がだるいらしく、横になったままではあったが、熱は一応下がっていた。私たちは朝食をいただいた後、エダ夫妻とかわるがわる頬をつけて別れの挨拶を交わし、エレナのホッペにもキスをして、一路車をアンタルヤへ向けて出発させた。新年2日目は、暖かだった大晦日、元旦と打って変わって、冷たい風の吹く1日となった。私たちは、途中2回休憩しただけで、往路より半時間早く、7時間をかけてアンタルヤへと帰り着いた。その夜、普段の日と変わらぬ7時頃、夕食のテーブルを囲んでいると、夫がこうつぶやいた。「まるで、エスキシェヒルまで行って帰ったという気がしないね」私もまさに同じように感じていた。「暖かかったし、行きも帰りも楽だったからね。しっかりパザールで買い物もして、夕食も家でちゃんと作って食べてるし」私はそう答えておいた。* * * * * *・新年早々、我が家のオンボロワゴンにも何ひとつ問題は起こらず、快適なドライブをすることができた。・娘は発熱したものの、大事に至らず、大好きな温泉をたっぷり愉しむことができた。・義妹夫妻と過ごした2日間は、親しみと温か味に満ち溢れた、充実した時間だった。・久し振りに100%トルコ語が要求されたが、自分でも意外なほど、トルコ語のボキャブラリーが増えていた。今年は春からなんだか幸先がいい。この予感が、ずっと続いてくれるといいな。そう神様に祈らずにはいられない、2005年の年明けだった。
2005/01/02
年末年始、アンタルヤの北450kmに位置するエスキシェヒルまで、往復14時間半をかけて出掛けてきた。夫の3人いる妹たちの、一番上にあたるエダ(仮名)一家のもとで、2005年の幕開けを祝うためである。あらかじめ用意しておいたユルバシュ・ヘディエスィ(ニューイヤー・プレゼント)に、シャンパン(といっても、シャンパーニュ地方産の本物ではもちろんない。トルコ製の発泡ワインである)の瓶も忘れず車に積み込んだ。我が家の長距離ドライブには欠かすことのできないコーヒーのポット、水のペットボトル、家にあったリンゴやオレンジ、バッカルで買い込んだガムやお菓子。小腹が空いた時、喉が渇いたときのための用意も万端。朝9時半ちょうどに自宅を出発、途中アフィヨンで昼食のために休憩をした他、2回のトイレ・ストップを含めて、ちょうど7時半後の夕方5時に、エスキシェヒルに到着した。エスキシェヒルはアナトリア内陸部に位置するため、比較的寒冷な地である。エダにも子供たちが風邪を引かないか、行く前からさんざん心配されていたが、幸い出発した31日は暖かな一日となり、すきま風の入るオンボロワゴンには、暖かな日差しが燦々と入り込んで暑いくらいだった。エスキシェヒルの繁華街にあるアパートに、エダ一家は住んでいる。エダ夫妻の長女は今年から大学1年生となって自宅を離れたので、今は次女のエレナ(仮名)と3人暮らし。お正月もどこにもいかず、家族でひっそりと過ごす予定だったらしく、私たちの来訪にとても喜んでくれた。特に、小学校3年生になるエレナには、従姉妹にあたる我が家の娘たちがいい遊び相手になるはずだった。あらかじめ到着は夕方5時頃になると告げてあったので、エダは私たちがお腹を空かせて着いてもすぐに食べられるよう、早めに夕食を用意してくれていた。豪華な料理ではない、家庭の普通のトルコ料理である。キョフテ(ミートボール)の煮込みとカルヌヤルック(揚げた茄子のお腹に切り目を入れ、挽肉などを詰めて煮込んだ料理)、ノフット(エジプトマメ)入りのピラフ、人参のサラダ、赤ピーマンのマリネ、そしてデザートは人参を甘く煮てボール状にまとめ、ココナッツをまぶしたお菓子である。今でこそ、欧米から輸入されたクリスマス文化の影響で、大晦日にチキンや七面鳥を食べる家庭も出てきたトルコだが、ほとんどのトルコ人は、大晦日、新年だからといって、特別な料理を用意したりする訳ではないと思う。だから、エダの作ってくれた料理にも、私は十分に満足だったし、有り難くまた美味しくいただいたのだが、アンタルヤに戻ってから、「ユルバシュ(新年)なのに普通の料理だった。ビールすら用意してなかったし」と夫が愚痴をこぼしたので、正直ビックリした。2週間も前から行くことは告げてあったので、もう少し華やかな食卓を期待していたというのである。夫の歯に衣着せぬ発言は、実の兄だからなんとか許せるにしても、私は義姉として、また客をもてなすことの大変さを知る主婦のひとりとして、エダのことをかばわずにはいられなかった。* * * * * *食後にナッツ類やフルーツをつまみながら、11時半になるのを気長に待った。子供たち3人とも、今日ばかりは夜更かしが許されている。実を言うと、後で外に出かけるからと、眠らないように次から次へと遊びに興じさせて、この時間まで持たせたようなものである。全員が厚着をし、子供たちには帽子とマフラーも身に付けさせる。私たち一家は、行き先も分からないままに、エダ一家と一緒に冷え冷えとした夜の町に繰り出した。およそ15分ほど歩いたあたりから、人の出が急に多くなっていった。銀行には電気が点り、入り口の前をポリスが見張っていたりする。ATMにおけるトルコリラから新トルコリラへの交換が今まさに行われているためであろう。人の出を見込んで、バッカルもまだまだ店を開けている。夫と、義妹の夫はそのひとつでこっそり缶ビールを仕入れる。警察に禁止されているというので、新聞紙で見えないよう包んでくれる。町の中心を流れるポルスック川は、一定間隔おきに2005年の訪れを祝う電飾文字で彩られ、川沿いの木々は、赤や黄、緑に点滅するランプで色鮮やかにドレスアップされている。やがて、太鼓橋の向こうに、大変な数の若者たちが集まっているのが見えた。私たちの足も、自然にそちらへと向かう。2005年1月1日午前0時まで、残すところおよそ5分。若者たちの群集は、歌をうたったり叫び声をあげながらピョンピョン飛び跳ねたり、踊ったりしている。花火売りの前にも人だかり。手持ち花火にライターで火を点け、皆で輪になって花火を振ったり、高く掲げたりしている。私たちも1箱買い求め、ライターで次々に火を点ける。カウントダウンの声が高まっていく。気付いた時には、いつのまにか0時を越えていた。友達同士抱き合ったり、恋人同士キスしあう若者たち。私たち一行も遅れじと抱き合ったり、子供のホッペにキスしたりして、新年の訪れを喜び合う。まだまだ繰り出してくる若者たちとすれ違いながら、名残を惜しみながらも、子供たちを抱える私たちにこれ以上夜更かしは厳禁と、早々に帰途についた。それにしても、たくさんの若者たち(学生たち)の姿とその熱気に驚きながら、久し振りに自分も若返ったような気分になった一夜であった。エスキシェヒルは、実は学生の町として知られている。市の人口およそ49万人のうちの約12%にあたる5万5千~6万人が学生なのだそうだ。人口50万人弱の中都市ながら、アナドル大学とオスマンガーズィ大学というふたつの大学を抱えている大学都市なのである。エスキ(古い)シェヒル(都市)という名前に反して、市の中心部はヨーロッパに範を取りモダンに整備されているのに驚く。歩道はオシャレな緑色の欄干で飾られ、12時も近いというのに、町の中心をヨーロッパ風の最新型トラムが行き交っている。ポルスック川畔には、若者向けのカフェやパブ、レストランが軒を並べ、夏の間は遊歩道一杯にパラソルの花が咲く。コミュニケーション学科で有名なアナドル大学があるせいか、町の中に文化センターのような施設が多いのも目に付く。もし私が、日本からの留学生としてトルコに初めてやって来るとしたら、イスタンブールは別格として、この町なら学生として暮らしやすそうな、暮らしてみたいと思わせる、そんな町なのである。
2005/01/01
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