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特に、この1カ月の間、日記の中で自分自身について、かなり深く見つめてきたように思います。自分の価値観と、他人から得た価値観を整理する時間でもありました。そして、大きな気づきがありました。自分の触れたくない部分、避けてきた部分を見つめることは、自己否定のように感じ、ちょっと勇気が必要でした。でも、見つめて良かった。なぜなら、自分の嫌な部分、認めたくない部分というのもまた、自分の一部であって、それから目を背けるのは、いつまでも自分を否定することであることに気づいたからです。初めは、「自分らしく生きたい」というこだわりがあったのですが、この言葉に、思いを込めれば込めるほど、だんだんとストレスを感じてくるようになりました。「自分らしく生きるためには、どうすればいいか?」このように自分に問いかけたことで、私には別の思考が生まれました。「もしかして、今の時点で、私は自分らしくないんだという、 “こだわり”を持っているのではないか?」、と。こだわっていたから、「自分らしくないな」と感じたときに、いつも自己嫌悪していたのかもしれません。自分の価値観を大切にしてきたつもりだったけれど、実はそれにしばられていた自分が見えました。自分の価値観にこだわりすぎずに、もっと自由に、リラックスして、楽しく人生を歩むこと。それに、私は、もうすでに自分なんだ!こう思えたことが、本当にうれしかったです。明日から、4月。なんだかいい予感がします。
2005.03.31
自分の気持ちに素直になれない時、エゴ(自我)が、自分を必死で守ろうとしている。素直になることは、そのままの自分を見せる、ということ。でも、もし他人に、素の自分を見られてしまったら、「大変なこと」、「都合の悪いこと」が起きると思ってる。今まで築いてきた自分のイメージが、崩れてしまうかも。大切に守ってきた関係が、壊れてしまうかも。大好きな人が、私から去ってしまうかも。・・・結局、自分が傷つくのが、怖いだけなのかもしれない。だから、そうやって、正当化して、必死で自分が壊れないように守ってる。そうやって、本当の思いを隠してる。心の奥で、こんな声が聞こえる。「それじゃあウソの自分を、いつまで演じるつもり?」「自分じゃない自分で、本当に幸せ?」自分の気持ちに素直になれないと、本当の感情が、味わえなくなる。無反応で、無愛想で、冷たい感じの私になる。自分を守りすぎて、本当に味気ない、つまらない人生になる。周りに壁をつくりすぎると、いつも壁ばかり見て暮らすことになる。そして、誰も入って来れなくなる。自分の気持ちに素直になれると、いろんな感情が味わえる。思いっきり笑える、思いっきり泣ける、思いっきり怒る、そんな素直な私。なんだか、ぶきっちょで、人間臭くて、カッコ悪いけど。でも実は、それが本当の私。素直に、内に感じだエネルギーを、外にどんどん出して、そのエネルギーが循環して、周りのエネルギーと合流して、大きな、大きなエネルギーになる。その時に、こう思う。 「素直でいると、 なんて気持ちがいいんだろう! なんて楽なんだろう! なんて幸せなんだろう!」私は、いつも自分らしく、素直でいたいと思う。
2005.03.30
毎日が同じ日のくりかえしのような気がするとき、ネガティブな感情が次から次へとでてくるとき、素直な気持ちになれないとき、心が枯渇していると感じるとき、そんな時が、ときどき、ある。この満たされない気持ち、イライラする気持ち、やる気のなさは、一体どこからくるんだろう?こうして悩んだら、100%自分自身と向き合ってみよう。しおれた花に、水と肥料をやるように、自分に十分な愛情と注目を注いであげよう。「自分という花」が瞬く間に美しく復活するだろう。この花を最後まで育てられる人は、この世に一人しかいない。それは、自分。自分以外の誰かが、この花を咲かせることはできない。自分以外のことに時間をずっと取られていると、知らぬ間に「花」は枯れてしまう。時間をかけて愛情を注いであげよう。一度思い切って全部のことをストップして、自分のために時間をつくってあげよう。朝、好きな時間に起きて、ちょっとリッチな朝食をつくって、好きな人と公園に散歩にでかけて、お気に入りの本を好きなだけ読んで、大好きな食べ物を食べて・・・ほら、もうゴキゲンな自分になっている。自分に焦点を合わせることができる。自分が今どこに立っているかが見える。今、何をすればいいのかが見えてくる。他人の気持ちが良く分かる。何に対しても感謝と愛情が自然と湧いてくる。やっぱり、そうなんだ。自分が自分らしくなくなると、自分が何をしているかが分からなくなる。それで不満やイライラした気持ちになってたんだ。そんなときは、自分と一緒に楽しい時間を過ごせばいいんだ。なんてシンプルで簡単なんだろう。自分という花が枯れて死んでしまって、他人の花を見ながら、一生過ごさなくちゃいけないなんて。こんな悲しいことはない。私は死ぬまで「自分の花」を精一杯に咲かせよう。私の周りの人たちが、いつも心地良い気持ちでいられるように、いつも元気になるように。希望を与えられるように。
2005.03.29
何をするにも、まず自分が健康な体でなくては、とつくづく思う。健康は、本当に、本当に、大切なことだと思う。体の調子が悪くなると、突然に、何もできなくなってしまう。今まで簡単でできたことが、全然できなくなる。気力があっても、体力が追いつかない。そして、他人に迷惑をかけてしまう。自分が健康な時に忘れているのが「健康」とよく言うけれど、健康な時というのは、健康を意識しない時なのかもしれない。「健康が当たり前」と思っているのかもしれない。病気やケガは、他人事だと思っているのかもしれない。「自分の体は自分が好きなように使っていいんだ」と、大きく自惚れているのかもしれない。「私の体と命は、どうなってもいいんだ。」と無言で公表しているようなもの。かけがえのない、自分の大切な体のこと。体がなくちゃ、自分は何もできないのに、自分の体を愛し、いたわることを忘れてしまうなんて。体を酷使して、夜更かしをして、体に悪い食べ物を食べて、体に悪い製品を使って、ずっとテレビを見て、一日中、PCの前に座って、・・・なぜ?楽だから、美味しいから、安いから、簡単だから、面白いから、ヒマだから・・・その気持ちの奥に「エゴ」が潜んでいる。楽をして、いいものを得ようとする気持ち。私の体は、きっとこう言ってるだろう。「これ以上、体に良くない食べ物や、行為をとり続けると、病気やケガというメッセージを送ることになりますよ。」自分らしく生きているとき、自分を愛しているとき、自分が本当に欲しいものしか欲しくなくなるんじゃないかな。体に良いものと悪いものを、自然に分別できるんじゃないかな。自然に自分の体を愛して、いたわることができて、いつも「自分らしく生きる」ことができるんじゃないかな。
2005.03.28
私が「無償の愛」を感じるのはどんな人に対してだろう?私のパートナー私の両親私の兄弟、甥っ子と姪っ子たち私の友人と恩師・・顔を思い浮かべるだけで、微笑みになる。何の損得勘定もなく、簡単に、自然に、愛情を注ぐことができる。相手も私に、何の条件もなく、何の惜しげもなく、愛情や友情を注いでくれる。無償の愛を与える時、そこには何の理由も条件も存在しない。自分がただ、そうしたいから。見返りや期待もなく、そこにはただ「愛」が存在するだけ。なんて素晴らしいんだろう。なんて幸せなことだろう。なんて平和なんだろう。もし、無償の愛を与えることも、与えられることもなかったら、こんな不幸なことはない。自分が得をしたときにだけに成り立つ関係。お互いを利用する、ギブアンドテイクの関係。悲しいけれど、そこにいつも「計算」が入っている。「計算」が入ると、その人の価値を純粋に見ることができない。そこには「期待」や「自惚れ」や「恐れ」や「不安」などのネガティブな感情がたくさん入っている。また、自分を愛することができない時、自分の価値を認めることができない時、命の大切さが分からない時、そこに「無償の愛」は、存在しない。心の中に「愛」が入り込む余地はない。愛を味わうことなどできない。幸せや平和というものは、与えられるもの、いつかやってくるものと思っている限り、永遠にそれは得られないと思う。幸せや、平和というものは、実はとてもシンプルなもの。自分を愛すること。人を愛すること。自分を無条件に愛すること。人を無条件で愛すること。損得勘定ぬきで、ただ、ただ、愛すること。人生で一番大切なものは、実はとてもシンプルなのかもしれない。今すぐ、手の届くところにあるのかもしれない。
2005.03.26
そんなある日、彼女は思い切って仕事を休んだ。そこで見えたもの- それは家族の絆だった。今まで満たされなかったものが「満たされた」そこには「平和」と「愛」があった。幸せは自分の一番身近なところにあった。Aちゃんは、とてもうれしそうだった。色々あったけれど、辛いこともあったけど、それは全部、家族の大切さや愛情を思い知るためのシナリオだったんだね。それまで何も言わなかった夫がこう言った。「それでいいんだよ。何でもやって学んでいったらいいんだよ。」と。妻、Aちゃんへの愛情を感じた。
2005.03.23
エネルギーが余りに余って、家庭の平凡なことだけでは、ガマンできない主婦Aちゃんは、家事の合間に、色々なことをやっていた。ある日、「自分にピッタリ」と思える仕事に出会った。楽しくて、楽しくて、その仕事にどんどん無我夢中になっていった。朝から晩まで一生懸命に働いた。だんだんと、家のことは、ニの次になっていった。ますます仕事の方を優先するようになっていった。家に帰ると心身ともに体は疲れ果て、家族とのコミュニケーションもおろそかになっていった。そのうちに、彼女なしでは経営が成り立たなくなるほど、その職場では重要な人材になっていった。彼女はとてもうれしかった。彼女のがんばりは、周囲から賞賛された。家族も応援してくれた。やがてだんだんと彼女の仕事ぶりは「当たり前なもの」になっていった。やってもやっても当たり前。彼女は不満を感じ始めた。「何のために私はこれをやっているんだろう?」そのうち、家にいても職場にいても心が満たされなくなった。イライラと悩みがどんどん大きくなっていった。
2005.03.22
先日は、朝起きると青空が一面に広がっていました。春の気配と、とても良いフィーリングを感じました。この日は、とても爽やかで穏やかで優しく見える中にも、奥に熱いエネルギーと情熱をもつ、素敵な男性とお話をしました。礼儀正しく、相手への気遣い、心配りができる、なかなか今どき見かけないとっても「良い意味での」まじめな男性です。なぜかその場にいるだけで、爽やかでホッとする空気が流れます。きっとこれは、この方が持つ独特の心地よいエネルギーなんだろうなと思います。この方は、英語がとても出来る方なので、TOSHもうれしくっなって話がはずんで話が止まらなくなってしまいました。 おおーーい!! (^^;)/という私も、話が止まらなくなってしまいました。 えーん!! (^^;)>とっても美味しいケーキを戴きながら、将来の夢のお話をたくさんしてるうちに、この方の希望がどんどん広がってくるのを感じました。私というフィルターからみる彼は、可能性のかたまりに見えます。彼が「そうなりたい自分」というのは「本来の自分のすがた」なんだと感じました。私が、彼くらいの年齢の時は、愚痴、不満、不安のかたまりで、出来ない自分を社会のシステムのせいにするのが精一杯でした。そうやって自分を守ることしかできませんでした。でも結局は、自己嫌悪に陥り、人と自分を比較して、ますます自信を失うばかり。「所詮、人生なんてこんなもんだ」と、半ば諦めていたように思います。もしあの時、私に誰かが自然な形で優しく「そのままで自分は良いんだ」ということを教えてくれたなら、どれだけ助かっただろう、とつくづく思います。当時の私が得たアドバイスと言えば、「あの人のようにもっと頑張らないと将来はないぞ」「特に秀でた才能もないんだから、資格をとって人と差をつけないと」という、不安になるような言葉や、脅しにも似た励ましばかりで、私はどうしてもやる気になれなかったから。不安からの動機では、私は「本気で」動けなかったから。人を動かす、感動させる、動機付ける、ということは、その人が心から望んでいることを気づかせてあげたり、見せてあげたりすることじゃないかな、と思う。皆がそうじゃないかも知れないけれど、強いプレッシャーや、上手なスピーチ、命令、ご褒美では、人は「その時だけ」しか動かないと思う。だって心から本当に「そうだ」って感じないから。自分がやりたいこと、好きなことをして、自分の素直な気持ちと向き合えた時、「これが自分に必要だったんだ!」という環境に自分の身を置いたとき、なりたかった自分を発見できるんじゃないかと思う。それは一度発見してしまったら、早かれ遅かれ、どんな手段であっても無意識に「その場所」に向かっていくんじゃないか、と思う。お話が終わって、彼は「自分の好きなこと」をするために出かけていきました。まだまだ、青空はどこまでも広がっていました。
2005.03.20
「自分が変わる」ってどういう意味だろう?「あの人とてもいい感じに変わったな~」って感じるとき、それは、その人の表情や行動で分かるもの。相手に自然と伝わっていくもの。一体何が起こってるんだろう?外見はそんなに変わらないのに、でも、明らかにその人は変わったと感じる。それは「オーラ」のようなエネルギー。エネルギーがうまく循環している感じ。イキイキしている感じ。未来が輝いている感じ。一番その人らしい感じ。もしかして「変わる」のではなくて、「本来の自分にもっと近づいた」と言ったほうが近いのかもしれない。この世には、不満や不安を抱えて生きている人たちが本当にたくさんいる。人の悪口、会社の愚痴、責任転嫁、ネガティブな思考や感情に振り回されストレスのはけ口を探し続ける人たち。他人を傷つけ、自分を傷つけながら。心は、こう叫んでいる。「これは本当の自分じゃない。」これは自分の求めている人生じゃない。」大丈夫ですよ。大丈夫ですよ。外に答えを求めるのをやめて、自分と向き合えれば、きっとなりたい自分、本当の自分が、見えてくる。未来の自分が見えてくる希望が見えてくる。それが見えた時、こう言われるようになる。「あなた変わったわね」って。
2005.03.18
私が悩む時、一つのあるパターンがある。それは、「自分じゃない自分を演じるとき」「自分以上の人間を演じるとき」「自分以外の人間を演じるとき」これをすると、とてもエネルギーを使う。表情も暗くなっている。「やっぱし、私はわたしらしくなくちゃ!」と思う!^^
2005.03.17
私は昨日こんな質問をされました。「今、もしあなたが子どもの頃に戻ったとします。誰からも何の制限もされず、どこにでも行けて、何でもできるとしたら、あなたは何をしますか?」私は、川でお魚をつかまえる野原でお花を摘む海で貝殻をひろうビーチを走る絵の具で大きく絵を描く夕焼けを見に行く・・・まだまだあります。考えると、なんだかとても楽しくなってきました。でも、実際には何一つやっていないことばかり・・・。そうだ、今日は夕日を見に公園に行こうっと。
2005.03.16
私の大切な友人に「別れの手紙」を書きました。なかなか「別れ」を言い出せず、勇気が出せずに、先延ばしにしたため、これを書くまでに、とうとう丸一年かかってしまいました。私の頭の中は、そうとう混乱していたみたいです。こんな経験は初めてでした。自分に正直に向き合って、想いを書きはじめてから約6時間。やっと自分の言いたいことを、A4用紙3枚にまとめあげました。途中で泣きながら、怒り、反省し、そして最後はすっきりと、心が軽くなりました。このプロセスはちょうど「セルフ・カウンセリング」のようでした。大切な友人となぜ別れる必要があるんだろう?今までと何が違うんだろう?なぜこのままじゃいけないのだろう?だんだんと問題の核心に迫っていきました。それで出た結論は、「これから、もっと自分らしく生きるために別れる」 -です。別れると言っても、恋人が憎しみあってケンカ別れをするのとは違います。引越しなどの、物理的な別れでもありません。これは、お互いの成長を望むための別離です。お互いの成長を望みながら、別々の道を生きる選択をするということです。今の私たちは、将来ビジョンが共有できずに、そのために長年、お互いが辛い思いをしていました。「無理に価値観を合わせる必要はない、別の道を行くという選択をしてもいいんだ。」このように考えると、とても気持ちが楽になったのです。そして、友人にする素直な感謝と尊敬の念がでてくるのを感じました。「こうあるべきだ」というこだわりが消えると、その時点で悩みは悩みでなくなるものですね。不思議なもので、こうすると、自然に次へのステップが見えてきます。ストレスカウンセリング効果なのかな・・?考え過ぎたので、ちょっと頭が疲れています。ちょっと一休み、一休み。
2005.03.15
smilewindさんのストレスカウンセリング勉強会を受講しました。この講座は本当にシンプルで素晴らしいです!もし、私がここで得た学びを一言で言うなら、「人は本来、悩みなどもっていない」 ということです。悩むのは、自分のエゴ(自我)の部分で、自分のエゴで、つくった”悩み”というものは、自分でしか、それを開放することができないということ。そして、エゴ自体は、良いものでも悪いものでもなく、それが一人一人の個性になっている。そして個性はみんな一人一人違っている。こんなにシンプルなことを、私たちはなかなか気づかないでいるんだということです。「答えは自分の中にある。」というのは、このことだったんだと思いました。これに気づいた時、私の中にあったこだわりが消え、カウンセリングすることに対するストレスがなくなりました。これは私にとって、本当に素晴らしい体験でした。自分を見失ってしまった人、自信を失っている人、迷っている人をサポートしたい。私は本気でそう願っているんだ、ということを再確認しました。心から本当にわくわくする感じです。私はカウンセリングが本当にしたいんだって。私にとってカウンセリングとは、その人が100%自分に向き合うチャンスを提供することであり、その人の求めている答えは、外側ではなく自分の内側にあることを、安全で、自然な形で、楽しく、女性らしい方法で、お手伝いすること。そして、「お手伝いする」「サポートする」というのは、その人を100%信頼すること。そして自分はその人のために、何ができるのかといつも自分に問いかけること。「これが私のカウンセリングなんだ!」と、思いました。その人に、「こうなって欲しい」と思うのはなく、「その人がその人になる」ように、サポートをする。これが私のしたいカウンセリング、私らしいカウンセリングなんだと思いました。カウンセリングをすることに対して、もっと自信がもてるようになりました。そのきっかけとなった、この講座(勉強会)に心から感謝します。
2005.03.14
自分が本当に望む人生を手に入れるためには、毎日の行動の一つ一つの「選択」がとても大切だとつくづく思う。「でも、どうやって正しく選択したらいいんだろう?」デビー・フォードの著書に、「自分への10の質問」が紹介されていた。人生で迷った時、自分の行動を振り返るときのヒントとして、次の10の質問をしてみよう。きっと後悔のない選択ができ、また早期に人生の軌道修正ができると思う。私流、名づけて、【 自分の人生を手に入れるための10の質問 】1.この選択は、希望にあふれた未来へとわたしを導くものか、それともわたしを過去にしばりつけるものか2.この選択は、長期的な達成感をもたらすものか、それとも短期の満足をもたらすものか3.わたしは意思を貫こうとしているのか、それともだれかを喜ばせようとしているのか4.わたしは正しいものを見つけようとしているのか、それともまちがったものを見つけようとしているのか5.この選択は、わたしの生命力を強めるものか、それともわたしのエネルギーを奪い取るものか6.わたしはこの状況を自分の成長と発展の促進剤として使おうとしているのか、それとも自分を痛めつけるために使おうとしているのか7.この選択は、わたしに力を与えるのか、それともわたしを無力にするか8.これは自己愛の行動か、それとも自己妨害の行動か9.これは信念の行動か、それとも不安からの行動か10.わたしは神性から選択しようとしているのか、それとも人間性から選択しようとしているのか(デビー・フォード 「選択の瞬間」より)-----------------------------結局、私のすべての行動は、私の責任だと思う。どんな言い訳をしても、環境や人の責任にはできない。誰も責任はとってくれない。自分の望む、自分らしい生き方がしたいのなら、一つ一つの行動を責任をもって「選択」しよう。それが「自分の人生を生きる」ということなのかもしれない。----------------------------------土日はストレスカウンセリングの勉強会のため東京へ行ってきます。日記はその間お休みさせていただきま~す♪
2005.03.11
自分に愛を伝える。ちょっと恥ずかしいけれど。ちょっとバカみたいだけど。そんなことやっても、何の意味がないって思うけど。理由や理屈はちょっとワキに置いて、ほんのちょっとだけバカになってみよう。本当に、それは感動的な 『魔法』 がかかるから。誰も聞いていない所で、そっと目を閉じて、自分の胸に手を置いて。世界で一番愛している人に話しかけるみたいに、ゆっくりと、言う。「○○○、大好き」「○○○、ありがとう。」「○○○、愛してるよ」・・・初めは、ちょっとくすぐったいような、照れくさいような気持ち。もう一度、「○○○、大好き」「○○○、ありがとう。」「○○○、愛してるよ」・・・・だんだんと、うれしくなってくるのに気づく。そしてもう一度、「○○○、大好き。」「○○○、ありがとう。」「○○○、愛してるよ」・・・・胸がキュンと熱くなってくる。。自分への感謝と愛情が溢れてくるのを感じる。そうか、私は・・「この言葉」を、ずっと心から待ち望んでいたんだ。自分を認めて欲しかったんだ。自分をいつも愛して欲しかったんだ。ごめんね、気づかなくて。ごめんね、忙しくしすぎてて。ごめんね、外側のことばかり見てて。もっと、もっと毎日、自分を愛してあげよう。この世でたった一人の、かけがえのない大切な私だから。
2005.03.10
私の祖母は、自分の一生をほとんど祖父の奴隷として尽くした。祖母は、自分を妻として、人間として尊重しない夫のもとで、50年間以上、文句一つ言わずに、同じ家で一緒に暮らした。最後には、祖父は突然倒れ、意識不明となった。あんなにいじめられた祖父なのに、祖母は毎日ほとんど徹夜で看病をした。最後の最後まで、祖父から祖母に対するお礼や謝罪の言葉は一言もなかった。そして祖父は亡くなった。祖母はあっけらかんと、こう言った。「もう私がおじいちゃんにできることは全部した。自分はもういつ死んでも後悔はない。」と。(・・おばあちゃん、ス、スゴイ! スゴ過ぎる!!と思った。)そんな祖母の生き方を見て、私の母は育った。「自己犠牲」という生き方。それが母の価値観だ。私は以前まで、母のそんな価値観は全く理解できなかった。自分を犠牲にして、一度きりの自分の一生を終るなんて絶対にいやだ!そう思っていた。その価値観を押し付けてくる母の態度が理解できなかった。でも、今は分かる。祖母も母も、それが「出来る」人だった。「自己犠牲」が自分の生き方だと認めた人だった。私にはそれが「出来ない」から、母に反発していただけ。それだけのことだった。「そうか、そんな生き方もあるんだ。」そう母を認めたら、自分の心が楽になった。「自分らしく生きる」のが、私の生き方。私にはこっちの方が合っている。全く正反対の価値観、生き方だけど、私は自分の母と祖母を心から尊敬している。私がどうしても「出来ないこと」をやり遂げた人だから。そして、私の生き方を気づかせてくれた人だから。私も母や祖母の生き方に負けないように、自分の人生を、生き抜きたいと思う。
2005.03.09
10年前まで、私は毎日眠ったように生きていた。「安心」「安定」という名の心地良いベッドに横たわり、毎日眠りつづけた。私は「現実」など、見たくもなかった。「現実」は、私にとって「退屈」と「悪夢」でしかなかった。だから、いつもそのベッドの上で、「夢」を見ていたかった。そうすれば、その間は「現実」を忘れることができた。私が「現実」で持っていたものは、「必要なもの」ではあったけれど、「本当に欲しいもの」ではなかった。その日私は、ある夢をみた。私は、心から楽しく笑っていた。私は、本当に手に入れたいものを持っていた。「そう、これなんだ!私が欲しいのは!」・・・そう思った瞬間、その夢から覚めた。私はまた「現実」に戻った。そして、まだ「安心」という名のベッドの上にいた。「夢」だったんだ、「現実」じゃなかったんだ。心の中の私が、「この現実は、私の人生じゃない」と、泣いていた。そして、私は決心した。「現実」で「夢」を実現させよう。そして私は、「安心」という名のベッドから飛び降りた。ひらり・・・♪本当は、大ケガをすると思って、とても怖かったけれど、今もこうしてちゃんと生きている。着地点で私が出会ったのは、やっと体と心と思考が一つにつながった「本来の自分」。長年忘れていた、本当の感情や情熱を、私はついに取り戻した。一番会いたかった自分だった。また会えて良かった。心地よいベッドでの眠りから早く目覚めて本当に良かった。あのまま心地よいベッドから起き上がれていなかったら、今の私は、存在しないのだから。
2005.03.08
「自分をまるごと認める」ためには、自分の「負」の部分を、知る必要がある。ここは、なかなか難しい部分でもある。「負」の部分は、自分が見たくない、見られたくない部分なので、その部分はいつもベールでおおわれている。他人が見ても、分からない。自分でベールをかぶせたことすら忘れていることもある。自分の「負」の部分を知るということは、「自分が気づいていない本当の部分」に、気づくこと。そして、それを認めること。そのままでいいんだと認めること。実は私自身、ここが「一番の課題」だと感じている。両親から好かれるために、学校や社会でうまく適応するために、友人や同僚とうまくやっていくために、今まで私は、たくさんの仮面をもち、「負」の部分を隠し、上手に使い分けてきた。うまく切り抜けてきた、と自負したこともあった。対人関係スキルがあるかも、と自惚れたこともあった。こうやって、自分で仕掛けた「ワナ」に見事にはまってしまった。仮面なしで生きることは、無理だと信じた。周りの人もみんな「そうだ」と同意した。それに、もしこれらの仮面を取り去れば、私は、「本当のただの私」になってしまう。「本当の私」など、一体誰が受け入れてくれるだろう?・・・拒絶されるにきまっている!今までずっとそうだった。「負」の部分を見せるくらいなら、無難に人生を送った方がいい。「善い人」「善い子」「善い社会人」でいよう。自分が傷つくくらいなら、他人がそれで喜ぶならば、私は仮面のままでいい。その方が全部うまくいくのだから。本当にそれで良いと信じた。でも、今私には分かる。私はあの時、「自分の人生を生きることを諦めた」のだ。それは、自分が選択した大きな思い込みであり、頑固さだった。言い換えれば、自分の弱さ、臆病さ、自信のなさを、言い訳しているに過ぎなかった。表面では、「自分のことをまるごと認めたい」「自分らしく生きたい」と願っていても、本当は、「認めたくない部分」があったのだ。それは、自分の弱さ、臆病さ、自信のなさなのだ、と気づいた。自分の嫌な部分が認められない。だから仮面の自分の方が、本当の自分だと思いたいのだ。でもやっぱり、それは、「本当の自分」ではない。いくらうまくごまかしても、「本当の自分」は、こんな時にひょっこり顔を出す。時々、意味もなく悲しかったり、不安になったり、突然、絶えられないほどの怒りを感じたり、急に意地悪になったり、ぶっきらぼうになったり、焦って何も手に付かなくなったり、何に対しても怒りを感じず、無気力になって、感情が素直に表現できなくなって、そして病気になる・・・。一体なぜだろう。これでいいはずなのに、自分はどうしたんだろう。この気持ちの中に、「本当の自分」が隠れている。「早く私に気づいて!」、と叫んでる。本気で本当に「自分の人生」を生きたかったら、本当の自分を認めてあげよう。「ただそうなんだ」と、認めてあげたらいい。全部まるごと、許して、認めてあげるといい。隠していた悪い部分も、弱い部分も、嫌いな部分も、全部含めて、「自分」なのだから。もし、弱く、臆病で、自信がない本当の自分と向き合えば、これから何をすれば良いのかが自ずと分かる。本当の自分に向き合うのを避けていると、何をしていいのかが分からない。良い悪い、好き嫌いで、物事を判断すると、本当の自分は永遠に見えてこない。欲望からは、本当の答えはでてこない。「ただ自分をまるごと認める」ことができるだけ。悩んだ時は、自分に問いかけてみよう。「悩んでいるのは、仮面の自分? それとも、本当の自分?」
2005.03.07
自分には、「善いところ」と「悪いところ」がある。そして、親、友達、恋人、そして社会、学校から「善い人」と思われたくて、好きになってもらいたくて、自分の「悪いところ」を必死で隠そうとする。-ウソをつけばいい!ウソをつけば、誰も本当の自分の悪い部分は見えない、分からない。その代わり、本当の自分も見てもらえない、分かってもらえない。これを繰り返していると、自分が何者なのかがさっぱり分からなくなる。やがて、この行為は後に大きな代償となる。「本当の自分」を殺すことは、自分を欺くこと。それは、自分の心と体に大きな傷を残す。ある日、この苦痛と痛みに耐え切れなくなり悲鳴をあげる。「もうこれ以上、自分にウソをつくことはできない!」・・・一体なぜこんなことになったんだろう、と考える。「自分をまるごと受け入れたい」「自分をまるごと認めたい」こんなメッセージが聴こえたら、それに従えばいい。遅すぎることなどない。気づいたときが、自分にとってベストのタイミングだと思う。-自分をまるごと認めること。それは、子どものころからずっと出来なかったこと。少しずつ、少しずつ、できるところから自分を取り戻していけばいい。それは、素晴らしいプロセスになるだろう。「自分らしい人生」を歩み始める。もう何も「隠す」必要はない。もう何も「待つ」必要はない。ありのままの自分をさらけだそう。イキイキと自分が輝き始めるのが見えてくる。
2005.03.06
10年前の理想の自分は、今の自分の姿だ、と言いました。思い出せば、10年前は、私の人生の中で一番混乱していた時。何を信じていのか全く分からなかった。この苦しみから逃れられるのであれば、何かの怪しい宗教団体にも入ってたかもしれない。そのくらい悩んでいた。自分が何者なのか、何を求めているのか、何になりたいのかがさっぱり分からなかった。だからと言って、その場しのぎの楽しみなど欲しくなかった。表面だけのつきあいなどしたくなかった。私は本当の「生きがい」「心の安らぎ」「満足感」を求めていた。そんな時、信用していた人に裏切られ大金を取られた。とうとうお金もなくなってしまった。仕事も人間関係に疲れてやめてしまった。私の周囲の人たち全てが私に冷たい仕打ちをしているようだった。こんなまで来ると、私は自分がとてもコッケイに見えてきた。私は、思った。「もういいやん。私はやるだけのことはやってんから。」その時、あたたかい風を感じて空を見上げた。なんと、青空に浮かんだ雲と若葉を茂らせた樹木が私を見下ろしていた。「わぁー。なんて、美しいんだろう・・・」「自然って、全部それぞれが精一杯に、自分自身を表現しているんだ。空も、雲も、花も、葉っぱも、みんな自分らしく、自分の人生を生きてるんだ。だからこんなに美しくて人の心を打つんだ・・・。」私は涙がこぼれてきた。自分を哀れむ涙でもない。災難を悲しむ涙でもない。裏切られたくやしさからの涙でもない。それは、自分からのメッセージだった。「自分らしく生きれば、それでいい。」・・・そうか。やっぱり、自分のままでいいんだ!それは、初めて自分を認めた瞬間だった。それがうれしくて涙がでたのだ。・・もう10年前のことなのに、昨日のことのように良く覚えている。自然というフィルターを通じた自分自身からのメッセージだった。当時の私の夢・理想は、「自分の生き方」を見つけることだった。「自分の本当にやりたいこと」を見つけることだった。これがないために、私はあちこちとさ迷った。10年後、私はとうとう見つけた。希望を捨てなくて良かった。自分をあきらめなくて良かった。本当の自分に出会えて良かった。心からそう思う。10年前の私のように、苦しみ、悩んでいる人にこのことを伝えたい。この深い想いは、私の「ライフワーク」となり、今それが実現しつつある。なんと有り難いことだろう!!!
2005.03.05
ラッキーや偶然が次から次へと起こると、もはや「ラッキー」とか「偶然」という言葉の概念を超えたものが存在しているとしか思えなくなってきます。「全ての出来事は、ベストのタイミングで起こる」今はそう信じています。私はこれを信じるようになってから、とても素晴らしい「物ごとの捉えかた」ができるようになりました。それは、悪いこと、良いこと、幸運なこと、不運なこと、出会う人、別れる人、健康な時、病気の時、得した時、損した時成功した時、失敗した時・・・・と、ものごとを二分化し、比較しないことです。すべての出来事は、良い悪いで判断するのではなく、ただ、ピッタリのタイミングで起こるべくして起きるという考え方です。もちろん、どうしても納得がいかないこともあります。「なぜこれが起こったのだろう?」って考えこむことがあります。分かりやすい例は、自分に何かの災難が起きた時です。「なんで私がこんな仕打ちを受けなければならないの?」と嘆きます。この場合、自分が何かを「間違った」のではなく、その結果となるようなシナリオを自分が作った。ただそれだけのことだと思います。自分が出来事をどのように受け止めるのか、受け止めかた、捉えかたで、世界は一瞬にして180度変化するのだと思います。これは、とてもシンプルだと思います。つまり、望むような出来事や、なりたい自分像があれば、それにふさわしいことの行動や考え方をすれば、ベストのタイミングが来た時に、それは起きる。ということです。そして、気づかぬうちに、無意識のうちに、願ってもいない形で求めていたもの、願っていたものが、なんと、自分の手元にあることに「気づき」ます。あまりにも自然な形で自分でもびっくりすることもあります。「今の自分」がそうです。10年前の私の理想は「今の私」なんです。そして「今の自分」は「未来の自分」に話しかけます。「早くあなたのようになりたいので、どうぞ力を貸してください。」そのために、私は未来の自分にふさわしい考え方や行動をとる必要があるでしょうね。^^
2005.03.04
成長したいという切望があるにも関わらず、全然変化しない、何も変わらないと嘆く。でも実際は、「自分で見えていない」のだと思う。そして「見えないから」という理由で、それを諦めてしまう。ちょうど一時停止ボタンを押すみたいに。・・・ピタッ。これで本当に「自分に必要な変化」は起こらないでしょう。そりゃそうですよね。でもそのうちに、体がムズムズしてきて、また再生スイッチを入れることになる。「やらなくちゃ、やらなくちゃ」義務感に似たこのムズムズ感は何でしょう?きっと、自分の心の声なのでしょうね。これだけは、どうしても無視できないのです。「自分が本当にやりたいことだ」と分かっているから。そもそも成長というのは、自分では気がつかないもの、目に見えないものだから。自分は変わってない、成長していないと思っても、実は毎日、毎時間、毎分、すごい速さで変化してるんだと思います。その時間の流れで、無意識下にある深い思いは、不思議にも、さまざまな人とのご縁や、役立つ情報、願ってもないチャンスなどを引き寄せます。初め私もはこのことに半信半疑でした。「たまたまそうなった」「運が良かった」「ラッキーだった」初めはそう思っていたのですが・・・。(つづく)
2005.03.03
これは体験した人にしか分からないかもしれないが、「自分の生き方」が見つかると、もう後には戻れなくなる。元の場所にはもう引き返せないと、自分で痛いほど良く分かっている。そして、自分に本当に必要なものと不要なものが、ハッキリとしてくる。イエスかノーかが、はっきりする。「これは、自分の生き方に本当に必要なもの?」「この人間関係は、自分に本当に必要なもの?」「これは、自分の生き方に合っていること?」ちょっと迷ったときにこんな風に自分に質問すると、即答で、その「答え」が返ってくる。「やっぱり!」自分は答えを知っている。今までは「知らんぷり」もできた。他人や環境のせいにできた。そっちの方が簡単で楽だった。自分は、正直で、素直で、そして厳しい。何しろ、自分のことを一番良く知っている。自分のことがあんなに知りたかったのに、自分が何をしたいのかを知りたかったのに、自分の求めているものを知ったとたんに、それから逃げてしまうのはなぜ?自分の生き方が決まったのに、その地点までまっすぐに動けないことがある。1歩すすんでは、ひと休み。もう1歩進んでは、また1歩下がる。時には3歩進むこともある。時にはスタート地点に戻ることもある。すぐにゴールに行きたくて、イライラすることもある。他人に追い越されたと思って焦ることもある。そしてもう1歩・・・ある日気がつくと・・10歩も進んいることもある。そして、こう言われるようになる。「すごく成長したね!」「ものすごい進歩だね!」「よくここまでがんばったね!」「どうもありがとう!」こんな風に褒めれたり、感謝されたりするようになる。自分では、「がんばりが足りない」とさんざん落ち込んでいたのに、「あれっ??」って感じ。どうやら無意識のうちに、「自分大改革シナリオ」がちゃんと進行されていたみたいなのです。
2005.03.02
「本当にやりたいことが見つかりさえすれば・・」と、さんざん悩んでいた人が、とうとう 「これだ!」という人生の目的(ライフワーク)に出会うとバンザーイ!という歓喜よりも、どちらかと言えば「ホッ」としたような気持ちになる。内側からジワっと喜びを感じるのに似ている。「とうとう見つかった・・!」そして、次の気持ちが生まれる。「でも実際どうするの?」「どこから何をすれば?」「お金は?時間は?」たくさんの疑問が沸き起こる。夢のような未来が待っていると思ったのに、やっぱり人生そんなに甘くないかも・・・。そう思うかもしれない。でも、実はここから全てが始まっているのだ。
2005.03.01
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