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邦楽特集追悼 高橋幸宏/坂本龍一高橋幸宏と坂本龍一の音楽 をどうぞ・・・70年~90年代を中心に、子供の頃、若かりし頃、耳にして来た音楽をご紹介する邦楽特集『~どうぞ』シリーズ 今回は・・・20世紀を代表するアーティストの訃報が続きますYMOのメンバーとして知られるアーティスト高橋幸宏氏が1月11日誤嚥性肺炎で亡くなりました。70歳でした。そして後を追う様に坂本龍一氏が3月28日直腸がんで亡くなりました。71歳でした。高橋幸宏氏は2020年に脳腫瘍の手術を受けて以降復帰に向けてのリハビリを続けてTwitterでは 状態は好転しているという旨のコメントを残していた所の突然の悲報でした坂本龍一氏は2014年に中咽頭がん治療が寛解した後2020年に直腸がんと診断され闘病生活を続ける中近年は全世界配信のピアノコンサートや6年ぶりとなる最新アルバム「12」のリリースと全身全霊で音楽活動を続け最期まで音楽に情熱を捧げた静かな死去でした今回は最期までドラマーとしての復帰を切望し、ピアニストとして音楽家として最期まで音楽に捧げた、ミュージシャン高橋幸宏/坂本龍一を偲んでドラマーとしてキーボディストとして作曲家としてアレンジャーとして 二人が参加した楽曲を特にYMOの仲間達との共演作にスポットを当ててドラマー高橋幸宏、キーボーディスト坂本龍一の功績を振り返ってみたいと思います-----------------------------------------------------------------------------------■ もくじ ■M1 (1981)『GIGI, LA DANSEUSE』M2 (1980)『Aino Sono』M3 (1975)『Time To Noodle/Suki Suki Suki』M4 (1979)『KILYN』M5 (1980)『RADIO JUNK』M6 (1983)『City of Beauty』M7 (1981)『Last Pretender』M8 (1978)『Jikanyo Tomare』M9 (1985)『Imadakara』M10 (1978)『This Could Be The Night』------------------------------------------------------------------------------------ 音楽解説 ------------------------------------------------------------------------------------▲目次へ▲△▼ △▼ △▼加藤和彦 - 浮気なGigi (1981)Kazuhiko Katō - GIGI, LA DANSEUSE収録アルバム『ベル・エキセントリック』この時期のドラミングをフィル・コリンズがパクったらしいフォーク全盛の60年代からフォークの造りでロックを感じる楽曲を制作し歌謡界に於いても歌謡曲とロックとの橋渡し役を果たし日本の音楽にロックの精神を根ざす事に貢献したアーティスト加藤和彦の80年代テクノブームを牽引してきたYMOが全面参加し欧州音楽を歌謡曲に落とし込みながらロックの言語で演奏する実験的精神の一つの成果の現れとした作品からの坂本龍一による先進と退廃が同居する「世界系」な乾いたサウンドに高橋ユキヒロらしい独特のフィルインを効かせながら斬りつけるYMOのテクノサウンドとは又違った坂本龍一と高橋幸宏のプレイを聴くことが出来るナンバーです■加藤和彦本曲制作時 YMOは「BGM」発表の時期に当たりYMOが牽引したテクノポップが過渡期にあった時期もありYMO自身もマンネリから脱却する様に短い繰り返しを音楽に落とし込むミニマム・ミュージックに活路を見出そうとしつつ実験的な音楽を追求していた事も加わりこの時期テクノに傾倒していた加藤和彦もその風潮を察知して加藤和彦の持ち味のロックをベースにしたシンセサウンドという形でYMOには無かった「闇」の面を浮かび上がらせる様な退廃的空間系が得意な坂本龍一の全体的に重めのサウンドを効かせた摩訶不思議な世界観のYMO系では余り耳にしない個性的な音でレコーディングしております前作『うたかたのオペラ』では急病で不参加だった坂本龍一はラストナンバーの『ジュ・トゥ・ヴー』で加藤の作品では無いエリック・サティ-のピアノ曲を演奏するなどもはや加藤和彦のソロ・アルバムという意義を越えた所の欧州三部作となった「コンセプト・アルバム」としての音楽制作に対して存在を見せ付けた参加となりました高橋幸宏は3枚目のソロ『ニウロマンティック』をロンドンで録音中でもあり加藤和彦のパリでのレコーディングには中断しての参加でした高橋幸宏が使っていたスタジオはビートルズのプロデューサージョージ・マーティンが作った「エアー・スタジオ」でしたがそれを押さえた状態で参加するという日米貿易摩擦が起きる程の経済大国となっていた当時の日本の音楽界の金に糸目をつけない贅沢な采配だったと言えます高橋幸宏がロンドンで録音していたのは加藤和彦から受けた「その場所に行かないと自分がやりたい音楽は作れない」というアドバイスからでロンドンは湿気が多くドラムの様な楽器はチューニングが狂い安く音が大きく鳴り響きやすいドライな環境のアメリカとは大きく異なりその為アメリカではナチュラルに録る事に対してイギリスでは音を調整して加工する傾向が生まれて音楽の方もイギリスでは加工されたものが流行るという事が実感して分かったそうですこのアルバムでの高橋幸宏のドラムはタム類の上面のみにヘッドを張ったエッジを効かせたサウンドで独特のタイミングの斬り込む様なフィルインを随所に入れた特徴的なドラミングを演奏し楽曲のアレンジの一端を担っております▲目次へ▲△▼ △▼ △▼西城秀樹 - 愛の園(1980)Hideki Saijyo - Aino Sono収録アルバム『ベスト・ヒット/西城秀樹』他「眠れぬ夜」にも「おどるポンポコリン」にも無い意外性パワフルな歌唱が特徴の昭和を代表するTOPアイドルの一人で『傷だらけのローラ』『ヤングマン』などの数々の大ヒット曲を持つ2018年に63歳で惜しくもこの世を去った国民的シンガー西城秀樹のパワフルな歌唱とは異なるささやく様な歌唱のアプローチで全編シンセサイザーの演奏によるキャリア中 非常に珍しい楽曲となりながらもオリコン7位の大ヒットとなったシングル曲です■西城秀樹本曲は西城秀樹の32枚目のシングルとしてリリースされスティービー・ワンダーの1979年に発表された映画音楽『シークレット・ライフ』の収録曲のカバーとして制作されたオリジナルも日本語歌詞で作られているという洋楽のカバー曲としては非常に珍しいタイプのメッセージソングとなっています1973年の『情熱の嵐』から始まり『YOUNG MAN(Y.M.C.A.)』『 ホップ・ステップ・ジャンプ』までの国民的大ヒットを飛ばしてきた西城秀樹に取っては80年代に入り英国発の新たな音楽ムーブメントニュー・ウェイヴ・ミュージックが日本に上陸し折しも新たな表現を求めていたフォーク・ミュージックが「ニュー・ミュージック」へと様変わりをした時期と重なった事もあって前年度の国際児童年宣言で制作されたゴダイゴの『ビューティフル・ネーム』の大ヒットなど日本経済の世界的大躍進を受けて日本の音楽界が世界を視野に入れた動きを意識した次のフェーズに至る一環とした72年のデビュー・アルバム『ワイルドな17才』でポール・サイモンの『母と子の絆』のカバーをする程元々がバンド志向で洋楽に精通している事を兼ねた世界平和や人種問題に関心の深いアーティストとして知られるスティービー・ワンダーのバラード曲の中でもメッセージ性が強くボーダーレスな宗教心を感じる本曲を「世界平和」への関心の高まった当時の世相を考慮してシングル曲に選んだ理由があったと言えます又、本曲は当時の音楽番組でのパフォーマンスでは珍しい間奏パートをカットしないで放送し本曲の持つエモーショナルな側面が削がれる事無く演奏された数少ない楽曲でもありました■松武秀樹本曲は編曲を坂本龍一が担当しシンセサイザーの巨匠冨田勲に師事しYMOの世界ツアーでも同行したシンセサイザープログラマー松武秀樹がシンセのプログラミングを担当したこれは当時のオリコン大ヒット曲となった歌謡曲としてはおそらく初となった唄以外は、冒頭の鳥のさえずりの効果音を含めた全編シンセサイザーのみで作られた楽曲となりました本曲の最たる特徴としては礼拝堂で賛美歌を唄っている様な印象の多分に「宗教的」イメージが強い事でも異色で教会堂のパイプオルガンを思わせるシンセにより荘厳な礼拝を思わせる演奏を再現しています坂本龍一は東京芸術大学音楽部の学生だった当時クラシック音楽には発展性は無いと考えて民族音楽に傾倒し宗教を含めた人間学に興味を持ちその後の音楽活動へ影響を与えた事から賛美歌が礼拝をより豊かにして会衆を一つにする様に主を褒め称える聖書の詩篇の様な歌詞で作られた本曲を「愛」というワードで 聴く人々を一つにする為のある種の「儀式」を思わせる音を意識しながら本曲の編曲を仕上げたと言えます▲目次へ▲△▼ △▼ △▼サディスティック・ミカ・バンド- WA-KAH!CHOCO/塀までひとっとび(1975)Sadistic Mika Band - Time To Noodle/Suki Suki Suki収録アルバム『ホット・メニュー/黒船』今にしてみれば3代目ミカが木村カエラだったという不思議先程の加藤和彦が率いる伝説的バンドサディスティック・ミカ・バンドがピンク・フロイドのエンジニアリングでも知られるクリス・トーマスをプロデューサーに迎えて制作された『黒船』『ホットメニュー』リリース時のイギリスのTVに出演した時の貴重な映像からの非常に卓越しハイクオリティーなパフォーマンスになります■サディスティック・ミカ・バンド学生時代からスタジオ・ミュージシャンとして活動して来た高橋幸宏は『学生街の喫茶店』で知られるフォークグループ「ガロ」のバックバンドを経て同じくバックバンドでベースの小原礼と共に20歳の頃 加藤和彦に誘われてミカ・バンドに加入しますミカバンドには後に80年代のフュージョンブームを牽引するギタリスト高中正義小原礼が脱退した後は沢田研二の「TOKIO」のアレンジャーとしても作曲家としても知られるベーシスト後藤次利が在籍し当時の日本のロックバンドとしては非常に高度な演奏力を誇る集団でもありましたミカバンドは当時欧米で流行だったグラムロックを日本の音楽に落とし込みファンクのリズムを日本の祭り囃子と掛け合わせながら日本語によるロックの可能性を拡げたバンドで加えて欧米の人気フュージョン系グループ『ウェザー・リポート』『マハビシュヌ・オーケストラ』の様な高度でテクニカルなフュージョン楽曲もこなす日本人ミュージシャンが欧米に引けを取らない演奏で音楽を演れる事を世界に証明したバンドとしても日本の音楽史に名を残す歴史的ロックバンドとして現在も語り継がれる唯一無二な音楽集団でしたしかしミカバンドが活躍した70年代当時の日本は折しも時代が「大学紛争」での騒乱にロックが関わっているという誤った認識と偏見がまかり通っていた事から「ロックは不良」「ロックは反抗」というロックミュージックに反社会的イメージが付いていた時期でロックがまだ一般リスナーにまでは浸透していなかった為にミカバンドがどれ程の高いクオリティーで音楽を演っているのかという事が殆ど理解されて無く日本国内での評価は海外での反響に対して非常に低いものがありました例えば今回紹介している英国の音楽番組に出演した時の演奏には一曲目の演奏中ボーカルのミカがポラロイドカメラでメンバーの撮影をしている所が映っていますこれは現在であればバンドのビジュアルをファッショナブルに演出する為の「パフォーマンス」という言葉で説明できるこの行為の主旨も70年代当時の一般の日本人がこの映像を観たとして「あのドレスの女は演奏中一体何をやっているんだ?」とおそらく誰一人理解出来る者は居なかったと思いますこの様な音楽とビジュアルをファッショナブルに演出する試みは全米公演で赤い人民服風コスチュームで演奏し東洋と電子音楽を思想的文脈でビジュアルに落とし込みセンセーショナルな世界デビューを飾る事に成功したYMOへと受け継がれるまで今しばらくの時間が必要でしたしたがって日本でのミカバンドの評価は欧米での人気が高まった事で逆輸入する形でようやく注目される様になったという経緯があり日本でのロックの定着がヘビーメタルブームからの80年代以降からという歴史があった事からもミカバンドの評価が低かったのは理解されない音楽性にあるのでもましてロックが不良の音楽だと嫉まれていたからでも無くそもそも日本にロックが受け入れられる土壌が無かった所に理由がありました故に日本においてミカバンドとは登場が10年早かったバンドであったと共に逆に10年早くミカバンドがあった事が80年代に起こるロックブームを一足先に道を拡げていた形で爆発的に広がる事に繋げるという日本の音楽を次のフェーズに移す事に貢献したバンドでもあったと言えました■ミカバンドが画期的だったのは当時の日本の音楽界が曲の編曲を全て譜面におこして譜面に書かれた通りの演奏をしていた時代に現在では当たり前となっているスタジオにメンバーが籠もって曲を作る「ヘッドアレンジ」を既に行っていた所やデビュー当時メンバー全員でロンドンの雰囲気を味わうというただそれだけの為に2、3ヶ月滞在しに渡英したりと各メンバーの音楽性を高める事に努め高橋幸宏は従来のロックドラマーにあった体育会系体型で無骨なイメージを払拭し線が細くイヴ・サンローランの靴を履きドラムを叩くファッショナブルなイメージを音楽界にもたらすなどそれまでの日本の音楽界の常識を覆してサウンドだけでは無く行動やファッションまでも音楽へと昇華し日本の音楽をスタイリッシュな方向に導いたミカバンドの功績は計り知れないものがあったと言えます▲目次へ▲△▼ △▼ △▼渡辺香津美 - KILYN (1979)Kazumi Watanabe- KILYN収録アルバム『KILYN』清水ミチコのユーミンネタでギターを弾いてました日本を代表するジャズギタリスト渡辺香津美の、坂本龍一を共同プロデュースに高橋幸宏、矢野顕子、小原礼、村上(ポン太)秀一、マライアの清水靖晃他錚々たるメンバーによって制作された「ジャズ」と「テクノ」という2つのジャンルを前半後半に振り分けて2つのジャンルをまたいで演奏する渡辺香津美のギターを堪能できる多分に実験的傾向が強いフュージョン系アルバムでの当時スポットを浴びていた「レゲエ」のラテン系音楽の硬めのリズムをマーチングバンドなどで演奏されるスネアドラムにスティックを細かい跳ねでロールする「パラディドル」奏法で流麗に演奏し土臭いラテン系音楽に気品と知性をもたらしたコチラも「ラテン」と「ジャズ」をまたいで華麗に演奏するフュージョンドラマー高橋幸宏のプレイが光るナンバーになっております■渡辺香津美 (画像参照: wikimedia)高橋幸宏はYMOが1978年にデビューした後も自身が加入するバンド「サディスティックス」での活動を続けながら並行してセッションの仕事も行っていたというそんな非常に多忙な時期のレコーディングの一つが渡辺香津美のアルバムの「テクノサイド」での参加でした渡辺香津美の特徴は正確なピッキングでなめらかなフレージングを奏でるクリアながらも流麗で粘りのあるギターサウンドにあります渡辺香津美の代表作 (80)『TO CHI KA』の一曲目の「リキッド・フィンガー」というタイトルが現している様に割りと硬めのリズムとキーボードをバックにウォームでキレのあるギターでサウンドに拡がりを与えてギターの存在感をアピールするスタイルで日本の「フュージョンギター」を決定付けたギタリストだと言えます渡辺香津美は元々細野晴臣のファンで細野のセッションにはまだYMOが無かった頃から度々参加しておりそれがきっかけでYMOが世界ツアーに出る時に矢野顕子と共にサポートメンバーとして誘われる事になります当時のシンセは「MIDI」企画以前の複数のキーボードを同時演奏する技術がまだ無かった為YMOがライブをするには坂本龍一以外の演奏者にもキーボードパートを演奏して貰う必要があった事とシンセの音色を瞬時に変更出来る技術も未発達だった事もありレコードと同じ音での演奏が困難だった事からサウンドの欠落を物理的に埋める為のキーボードよりも柔軟な対応が出来る楽器を要していた事で「テクノ」というジャンルがまだ馴染みが無かった欧米でグローバルな楽器である「ギター」がその橋渡しになるという期待から思いっきりアドリブでソロを取って欲しいと言われた事で参加を決定します渡辺香津美は「テクノ」のシンセ音との「ギャップ」を埋める為ウェーブ系や空間系のエフェクターを駆使してライブで違和感無く浮かないギターを目指しながらギターの存在感を観客にアピールして演奏しましたこの時の演奏は後日ライブ盤としてリリースされるのですが渡辺香津美がYMOとは異なるレーベルに所属していた関係からギターの演奏を使用出来なくなり代わりに坂本龍一のキーボードに置き換えられたものが『パブリック・プレッシャー』というタイトルでリリースされましたその後、坂本龍一がDJを担当していたFMラジオ番組「NHK サウンドストリート」内で『ライディーン』他、ギター入り演奏がオンエアされた事がありましたが1990年に入って資本会社が変更し販売元がYMOと同じになった事で91年に2枚組CDで『フェイカーホリック』というタイトルで渡辺香津美ギター版がめでたく日の目を見る事となりました▲目次へ▲△▼ △▼ △▼シーナ&ザ・ロケッツ - RADIO JUNK (1980)SHEENA & THE ROKKETS - RADIO JUNK収録アルバム『真空パック』シナロケのアルバムと言うよりほぼYMOとのコラボ1979年のアメリカ公演から凱旋帰国したYMOの日本公演でオープニングアクトを務めた事でも知られる九州福岡出身のギタリスト鮎川誠とシーナとの夫婦デュオシーナ&ザ・ロケッツのYMOとの共演作となった代表作的アルバムからの高橋幸宏が手掛け YMOのライブ人気曲としても知られるナンバーです■シーナ&ザ・ロケッツ70年代後半、九州から上京して出演したステージが演歌レーベルの「エルボンレコード」の社長に気に入られたという変わった経緯でレコードデビューした「シーナ&ザ・ロケッツ」は当時イギリスの音楽シーンでウィルコ・ジョンソンなどが牽引したパブ・ロック・ムーブメントの新たな騎手として見出されたエルビス・コステロのオープニングアクトを務めた事で東京公演を観に来ていた高橋幸宏の目に留まりそれがきっかけでYMOのアルファレコードへの移籍となりYMOのプロデュースで代表作となる『真空パック』のリリースへと繋がる事になりますここでのYMOはプロデュースに加えて「参加」となっていますが事実上の「コラボレーション」であり実際には「シーナ&ザ・ロケッツ」を素材とした細野晴臣の作品と言っても良い程シナロケには無い「テクノ色」が強い作品となりましたコステロとのツアーでも音楽性に付いて楽屋でコステロとやり合う様なシナロケの様なパンクなロックバンドが他人の手によってバンドのサウンドが変わってしまう事に抵抗を感じたのではと思われる所ですがリーダーの鮎川誠は「真空パック」制作時に細野晴臣から「楽曲を素材に料理させてほしい」という要望を受け入れて自分たちの楽曲が「YMO」のエッセンスが入って行く事に面白みを感じたと言いますこれに付いて面白く感じなかったのはむしろロックファンの方だった様で反響が大きかった分 大きな論争にも発展しました一方、鮎川にとって音楽は「アーティスト活動」というよりは「生活の一部」で次のステージがあるかどうか、生き残れるかが重要でありリリースするアルバムの成績やライブでの周りの反応を気にするよりも子供が通う学校の同級生の親達にロックファンが居て鮎川夫婦がレコーディングで忙しいのを察して子供の面倒を代わりに見てくれたりと音楽を演る上での日常生活を家族や手伝ってくれる友人仲間達で乗り切る事の方に大きな意味を感じている様でした最近のインタビューでも鮎川は誰かが経験したことを皆で共有し違う人間が同じパターンの人生を送る世の中になり皆萎えてしまっている と語りロックとは正解を見せる事では無く 息が合う瞬間を生むことだと答えています好きなアーティストの曲に似るのは誇らしい事でありコードなんて借り物だと開き直ってギターを弾く上の世代から受け継いだものに自分たちの思いを重ねるだけというそれが鮎川が感じる音楽であり細野晴臣にどれだけ料理されようともYMOの音楽的実験台にされたと揶揄されようとも『RADIO JUNK』に至っては演奏がYMOでほとんど高橋幸宏の作品だと言われようとも誰の手が入ろうとも自然体がそのままロックとなる鮎川の揺るがない圧倒的存在感があったからこそ「真空パック」がシナロケの代表作となった大きな理由があるのだと思うのでした鮎川誠1948 - 2023▲目次へ▲△▼ △▼ △▼郷ひろみ - 美貌の都 (1983)hiromi go - city of beauty収録アルバム『比呂魅卿の犯罪』当時YMOが郷ひろみと組んだらしいという噂は知ってました50年ものキャリアを持ち現在も現役で活躍する大スター郷ひろみがデビューから11年となる83年に坂本龍一をプロデューサーに迎えて高橋幸宏を始めとするYMOファミリーが総出演する楽曲提供に忌野清志郎、中島みゆき、矢野顕子、糸井重里、筒美京平という錚々たるメンバーによる大ヒット異色アルバムからの作詞 中島みゆき 作曲 筒美京平 演奏 YMO の豪華共演となった大ヒットシングル曲です■本曲は坂本龍一が好みとするデカダンス的ロマン主義を感じるサウンドに高橋幸宏の硬めのラテンリズムに太くうねる細野晴臣のベースが絡み艶のある郷ひろみのボーカルを引き立てる事に専念した作品でシナロケの時の様な「オーバープロデュース」は止めて高音でよく伸びてリズムに乗りキレのある特徴的な郷ひろみの唄の良さを引き出す事に徹しいつものテクノサウンドは鳴りを潜め「歌謡曲」の様式に務めるプロフェッショナルな側面を持ったYMOの演奏が聴ける貴重なナンバーとなっております■郷ひろみこの時期の郷ひろみは 90年代にバラード歌手として再ブレイクする前のデビューから10年が過ぎた歌手としては過渡期に当る節目の時期にこれまでにも西城秀樹や前川清、桑江知子やサーカスなどに編曲、楽曲提供をして日本の歌謡界に新風を巻き起こしてきた坂本龍一を始めとするYMOファミリーに白羽の矢を立て音楽的にもキャリアとしても新たな飛躍を目指し話題性に溢れる異色作としてリリースされました本アルバムは坂本龍一が好む欧州デカダンス満載のそれまでの歌謡曲には無い浮遊感溢れる個性的なサウンドで占められたクオリティーの高いシティーポップな仕上りとなったという点ではYMOの面々は最高の仕事をしたと言えますが規制のジャンルを破壊して再構築しながら「遊び」の精神を忘れない奔放で予測不能でパンクより過激なYMO音楽の良さは封印された様な郷ひろみの更なる飛躍を目論みながら大胆な変化は求めない当時の歌謡界の保守的な体質へ忖度した内容と捉えても興味深いアルバムだったと言えます▲目次へ▲△▼ △▼ △▼ピンク・レディー - ラスト・プリテンダー (1981)PINK LADY - Last Pretender収録アルバム『PINK LADY』ケイちゃんの中ではこの曲は抹消だったそうですミーチャン、ケイチャンの愛称で知られる伝説的アイドルユニットピンクレディーが解散宣言後にリリースした21枚目のシングルとなった楽曲です本曲は作詞 糸井重里、作曲 高橋幸宏によるこれまでにないテクノポップサウンドでリリースされた意欲作で硬質なテクノサウンドに加工された歌声でダイヤの様に映るガラス玉の様な想い出を捨て偽りの愛にピリオドを打ち未練を残さず去って行くヒロインを描いたピンクレディーの解散を予見する衝撃的な内容の話題性の高い楽曲としてリリースされましたしかし解散後ソロになった未唯mieが今もステージで本曲を歌っている事に対してケイこと増田恵子にとって本曲は、なぜ今この曲なのかという自身の境遇に当て付けられたかの内容に感じられたのか受け入れられない「抹消」した曲となった様でコンビ間での温度差が顕著となった知られざるシングル曲となりました事実本曲はピンクレディーとしてライブで唄われる事は無くオリコンチャートでも85位と全く振るわずセカンドシングル以降オリコンラン1位を独占して来た大人気女性アイドルだったとは思えない寂しい最終章となりました■ピンクレディーリアルタイムでピンクレディーの快進撃を観て来た熱狂的ファン以外の一般視聴者が持つピンクレディーに対して持つ「感覚」はどこかの時点でピンクレディーが消えてしまったという「空白」だと思いますこれはおそらく「カメレオン・アーミー」を堺にその後のヒット曲が思い出せない感覚を指し「カメレオン・アーミー」がリリースされたのが1978年12月でピンクレディーが米国のTV局でレギュラー出演する為に渡米するアメリカ進出と共にピンクレディーが日本のTVから消えたと感じたその様な「空白」だと言えます実際には79年の3月に『ジパング』がヒットしており続く5月は『波乗りパイレーツ』をリリースB面のUSAサイドにはビーチボーイズがコーラスで参加するという超豪華な楽曲となり同年5月に全米進出となった「KISS IN THE DARK」が9月に発売されているので間断なくリリースはされている様に見えますしかし『ジパング』を堺に子供達が唄って踊れるあの愉しいピンクレディーは全米で活躍中の9月に子供のニーズ路線を中止した事で消滅しますその後70年代後期に全米でブームとなっていたディスコミュージックを導入した「大人路線」へ切り替えピンクレディーの2人も納得となった『マンデー・モナリザ・クラブ』をリリースしますが「KISS IN THE DARK」の全米チャート37位という日本音楽界にとっての快挙を成し遂げた事とは裏腹に従来のファン層だった日本の「家族層」には耳慣れないディスコミュージックは不評だった事と子供が観るには相応しくない本来の「セクシー路線」に戻った事で主な購買層だった「家族層」の全て失った事に加えて渡米した事で日本国内でのTV番組から消えた事などそれら全米進出に纏わる「路線変更」の全てが裏目となり人気は急激に下降します実際は79年4月の「東映まんがまつり」内での『ピンクレディーと春休み』と題した短編映画公開の時点でファン層だった子供達の心が既に離れ始めていたという証言もあり折しもピンクレディーがTVから消えた後様々なアイドルがお茶の間のTVを賑わせる様になり世間の関心がそちらに向かって行った事で1980年5月にピンクレディーが帰国した頃には完全に忘れ去られた存在となる事で決定的となるのでした帰国後リリースしたシングル曲は大きく順位を落とし再び日本のメインストリームへ返り咲く事は叶わないままピンクレディーは日本の音楽界の居場所を失い9月には引退を余儀なくされる事になるのでした当初見積もった半数以下の1万5千人の動員止まりとなったみぞれ混じりの雨の中で決行された後楽園での引退コンサートは「旬を過ぎた」タレントの末路を見る様な後に、ブームが衰退してまるで捨てられた人形が雨ざらしになって必死に踊っていると評される様に悪夢の様な出来事として歌謡史に刻まれる事となるのでした■ピンクレディーのブームが去ってしまった要因は世の中のニーズを悪い意味で裏切った結果だと言えますが引退した後度々復活を繰り返して2010年の解散やめ宣言の後は全盛期と変わらないシェイプを保ったスタイルで唄って踊るピンクレディーが完全復活し往年のファンを湧かせます従ってデビューから追いかけてきたファンの目から見れば「引退コンサートは終わりでは無く新たな始まりだった」という言葉もうなずけるものがありピンクレディーの二人にとって「引退」とはこの先ずっと無理のない形の活動を続ける為の「ブーム」という余計なしがらみを捨て去る「リセット」だったという見方もあるのかもしれません■本曲の高橋幸宏作の楽曲が起用された経緯は知る由もありませんが元々は元ポニーテールのRAJIE (ラジ)に提供した「偽りの瞳」を原曲としたものに人気コピーライター糸井重里が新たに歌詞を付けテクノサウンドにアレンジしたテクノ歌謡となったもので当時ブームとなっていた「テクノ」に目を付けた事務所の棚ぼたヒットを目論む一環の中でのダメ元のリリースだった事は想像に難くなく、おそらくそうだと思います81年当時のYMOは飛ぶ鳥を落とす勢いでブーム真っ只中の時の人となっていた時期でしたが一介のミュージシャンからスターとなり自宅から出るだけでファンに注目されこれまでの「自由な生活」が破壊された事にストレスを感じていた坂本龍一の「毒気」が創作に影を落としていた時期でもあり世間の高まる人気とは裏腹にメンバー間がギクシャクした中でのタイミングの悪いオファーだったと言えますその「毒気」を作品やパフォーマンスに投影して「スネークマンショー」の様な企画が生まれて武道館公演では自称「プール」と呼ばれた水溜りを作り観客が水遊びをしながらコンサートを観て愉しむと称してお笑いの演目を続けてYMOが最期まで登場しない「過激な悪戯」を世の中に仕掛けていた頃に当たりそんな悪ノリをしていた当時のYMOのプロダクションにその様なオファーがあったのなら当然センセーショナルな仕掛けを求めていると捉えて高橋幸宏の過去楽曲に敢えて「引退」をほのめかすセンセーショナルな歌詞を付けてピンクレディーの楽曲提供を行った可能性もありそんな楽曲に対するピンクレディー側の温度差と楽曲提供に対しての思惑が噛み合っていない様がレコードとなった様なチグハグさが音になった様な仕上がりになったと言えます本曲を封印では無く抹消と言ったケイこと増田恵子の真意は後に語られるスキャンダルからの実にありがちな人間関係のもつれが引き金となり信じていた「芸能界の親」となった人物に切り捨てられそうして「ピンクレディー」に居場所を失った疎外感が言わせた業界への不信感の現れであった様な印象がありましたが「飛躍」だと思い込んだ「渡米」が本来ピンクレディーが歩まなければならなかった「道」から「大きく踏み外す」結果を生んだのもピンクレディーとは当時の芸能界が生み出した「虚像」のひとつで「セクシーなお姉さんが楽しく歌って踊る」子供のアイドルだったのも本来スキャンダラスなセクシータレントが上手に世の中に中和されて見える様芸能界が企画演出する「TV」が「受け皿」として機能していた日本のTV無しでは存在し得ないものだったからと言えますそうしてピンクレディーが日本の社会に居場所を失ったのは渡米後に「大人向けのセクシータレント」へと大きく路線を変更させた「受け皿」を捨てた本来のピンクレディーを受け入れる居場所が当時の日本の社会に無かった事が大きな要因だったと思われ人間関係のもつれでピンクレディーにしか居場所が無くなった増田恵子がそのピンクレディーでの居場所を失った事で二重に居場所を失いピンクレディーをおもちゃにされた様な「Last Pretender」にはいつもの様なデュエットパートは無くケイのセリフがフィーチャーされた未唯mieが単体で唄う事実上の未唯mieのソロ曲となった事で本曲を聴く度ピンクレディーに居場所を失った事を思い知らさせる悪い思い出しか無い曲となった事がケイが本曲を抹消しなければならない理由なのかもしれません■▲目次へ▲△▼ △▼ △▼矢沢永吉 - 時間よ止まれ (1978)Eikichi Yazawa – Jikanyo Tomare収録アルバム『ゴールドラッシュ』このセッションが後のYMOに繋がる事になるのでした70年代の日本の音楽シーンにロックを根付かせる立役者となった一人で既に50年ものキャリアを持ち70歳を越えた現在もトップアーティストとして日本の音楽シーンを牽引する大スター矢沢永吉のキャロル時代からのトレードマークだった「リーゼント族」「革ジャン」「バイク族」という「不良」のイメージを払拭させ一般リスナーに「アーティスト矢沢永吉」を認識させた矢沢永吉にとってもターニングポイントとなった大ヒットシングル曲です現在でこそ矢沢永吉は社会的にも支持される程の日本を代表するトップアーティストの一人となりましたがデビュー当時はロックに理解の無い社会の中で偏見という洗礼を受けながら独自の道を進むという社会が矢沢永吉の音楽に追い付くまでは「いばらの道」を進む様な決して平坦な道のりでは無かったと言えます70年代当時、矢沢永吉率いる「キャロル」の登場はロックが一部音楽ファンが好むマニアックなものからメジャーなものへと引き上げるだけで無く日本語によるロックの一つの形を提示しこの後訪れる空前のロックブームをも予見する様な鮮烈な印象を与えるものでした一方キャロルの評判は音楽ファンと世間との間には大きなギャップがありイギリスのリバプール発信の本格ロックバンドが日本に誕生したという評価から熱狂的なブームとなって行った音楽ファン層の盛り上がりに対して革ジャンにリーゼント姿で激しいロックを演奏する反抗的なイメージから「不良の音楽」のレッテルを貼られ当時激化して社会問題となっていた「学生運動」で過激派の学生達が好んで聴いていたのが「ロックミュージック」だったという理由で「学生運動」と「ロック」が同一視された事で「社会の敵」扱いにされる事になりますその様な「キャロル」に対して世間が下した評価は多くは偏見によるものではありましたがコンサート会場ではバイク族が親衛隊に付いた事で喧嘩や騒乱が絶えずキャロル周辺で過激なファンが実際に引き起こした数々のトラブルは当時問題視されそれによって世間と音楽ファンとの間の温度差が天と地程の差があった事でも当時の日本に「ロック」が「不良」のイメージが先行しブルースから派生した伝統的音楽ジャンルとして欧米の様に正しく社会に根付いて行かなかった様を物語るものがありますそれ故にキャロル時代は不良の代名詞の様に語られながらも攻める姿勢を崩さない矢沢永吉の音楽は見た目で判断する当時の社会の世相に斬り込む様な力強さを持ち音楽に思想を投影していたフォークムーブメントの延長にあった様な日本語でロックを演る事に限界を感じていた当時の日本の音楽界で不良のビジュアルでアメリカン・ロックをカヴァーしていたハンブルグ時代のビートルズの様に登場しメッセージ性や思想を投影せずに、音楽に乗る歌詞を感覚的にチョイスして日本語のロックを目指し「不良」という要素をロックに投影させた刺激的なビジュアルで暴走族など「アウトロー」を自称する当時の若者層に絶大な支持を得るだけで無く女性層、子供層を含めた一般層の支持を得た事で日本でのロック層の幅を広げる事に努めましたやがて社会にもロックが浸透して行くに連れ矢沢永吉の音楽の激しさが決して反社会的なものでは無くストイックで繊細な神経質な性質が投影された怒りと悲しさを秘めた激しさにある事が見えて来る様になるとこれまで過激なファンが起こして来た問題もロックを敵視して来た社会をも甘んじて受け入れ包み込む矢沢永吉の大きな人間的魅力と優しさの存在に気付きそんな矢沢の音楽に人々は魅了されて行くのでした■矢沢永吉矢沢永吉は誰もが認める日本でも屈指のカリスマ性のあるアーティストとして知られていますが激動の半生を送ってきた自身の人生観から生まれる歯に衣着せぬ様々な言動による独特の持論が「伝説」として残っている事でも良く知られていますそれらの多くは世に物申す様な心に刺さるものの他熱烈なファンによって話が過剰に盛られて行った正確な語録では無くなってしまっているものや真意が定かではない殆ど「都市伝説」と化した様なものも含まれるなど情報が錯綜している事でも有名だと言えます例えば『赤いポルシェで迷子』の話ではコンサートツアーの移動で矢沢が赤いポルシェに乗ってスタッフが乗るツアートラックの前を先導する形で走っていたら飛ばしすぎてトラックとはぐれた時に地元の暴走族に声をかけ矢沢のポルシェを先導して国道まで案内してもらったという地元ファンとのややヤンチャではあった当時ならではの豪快な触れ合いのエピソードがいつの間にか『赤いポルシェで暴走族を先導』に変わっていたり良く知られる『矢沢の2秒』発言などは「お前の年収矢沢の2秒」だったり「お前の人生矢沢の2秒」だったりと人によって言う事が異なり、元々の話が高学歴を鼻にかけ高い地位を笠に着てマウントを取って話をする音楽関係者の高飛車な言動にキレた言葉という様な言動に至る「真意」があってもその切り取られ方次第で「批判」を生む様な言動に受け取られてしまう事もしばしばある事でも知られています■「時間よ止まれ秘話」に付いて■本曲の制作秘話に付いてもCMプロデューサー大森昭男の話と音楽プロデューサー関口直人の話と歌謡曲愛好家の濱口英樹の著書「ヒットソングを創った男たち~歌謡曲黄金時代の仕掛人」を元にしたwikiの解説とは食い違いがありどれが本当の話なのか判断に困るものがあります資生堂のCMプロデューサーだった大森昭男の話では送られてきたデモテープはギター一本で仮歌の英語の歌詞を弾き語りで唄ったものと作詞のイメージを語ったメッセージが加えられていて「パシフィック」と言うワードも入ってこんな感じで唄いたいという山川啓介に向けたプロデューサー視点のものだったそうで後日山川啓介は難しかったが愉しい仕事だったと語る程のクリエイティブなものだったとの事です音楽ディレクターの関口直人の話ではスタッフとの合同打ち合わせの席で矢沢がギターを持ち込み生で弾き語りをしてそれを録音したものを作詞家の山川啓介に送ったとなっておりデモテープの話が生歌に変わっています一方の濱口英樹の著書によれば音楽プロデューサー酒井政利の談として完成した歌詞に対して「人の詞は歌いたくない」と断ったとしておりいきなり話のトーンが変わっております更に担当者が何度も説得してようやく矢沢が「条件がある。矢沢、この歌は一生歌わないよ」と条件付きでOKしたとなっているので話が根底から覆っている印象があります矢沢永吉本人はと言いますと2022年6月のインタビュー記事で「いい鍵盤弾きがいるよって教えてもらったら、面白い詞を書くヤツいるよって聞いたら、すぐに飛びつく。それが当時まだ世間的には無名だった坂本龍一であり、5年前に他界された作詞家の山川啓介さんだった。」とし「デモテープには曲だけじゃなく、僕が求めるイメージや気持ちまで吹き込んで、まだ会ったこともなかった山川さんに送ったんだ。」と本曲制作の時点で山川啓介とは会っていない事や山川啓介を信頼しきって依頼している様が受け取れて矢沢本人の話が真実だとしたら一体どこから「歌いたくない」という話が出てきたのか一方で実名を出して語っているエピソードの真意を確かめる術も無し と関係者によって本人によっても話が違う所が悩ましい所ではありますw45年も前の出来事の為にそれぞれの記憶違いという可能性もありますがこれはおそらく人によって話が違うのではなくて、話の順番が人によって違う為に起こった錯綜なのでは無いかという印象がありますつまり関口直人が最初に会議の席での矢沢の生歌を聴いてその模様を録音したテープが大森昭男に渡りそのテープが送られてきた山川啓介が歌詞を書いたというのが正しい時系列なのではと思われます矢沢の「まだ会ったことも無い」発言に付いては本曲のシングル盤B面「チャイナタウン」の作詞も山川啓介でこちらは1977年4月21日にリリースされた3rdアルバム『ドアを開けろ』の収録曲という本曲よりも半年も前に作られた楽曲になるので「まだ会ったこともなかった」はおかしな印象がありますがこれも文字通り捉えれば実際に会っても会わなくても依頼に応えてくれる山川啓介とのクリエイティブな関係を語った「実際の出会い」があったかどうかを語っている訳では無い言葉だと捉える事が出来ます一方、濱口英樹の著書のwikiの解説に付いては著者が当事者では無く一介のライターによるものという性質から先程の「まだ会ったこともなかった」という切り口で山川啓介をリスペクトした矢沢永吉の口調からも上がってきた歌詞に対して「人の詞は歌いたくない」とひと揉めあったエピソードはいわゆる「矢沢伝説的」過ぎますし実際には「チャイナタウン」で既に山川啓介を起用しておりますので辻褄が合わない印象は拭えません更にこの著書ではこの件に付いて「ところが、2009年の紅白歌合戦に特別出演した際彼はこの歌(時間よ止まれ)を歌いましたね。ファンの要望が一番多かったようです」とまるで2009年に封印が解けたかの様な文脈で書いておりますので実際には本曲がリリースされた1978年の全国ツアー「GOLD RUSH '78/'79 CONCERT TOUR」でも83年の「EIKICHI YAZAWA I AM A MODEL CONCERT TOUR」でも86年の「FEELIN' COME HA~HA EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR '86」でもその後も数多くのコンサートで「時間よ止まれ」は唄われている事や「チャイナタウン」も同様に78年のライブから唄われている事からも「人の歌は歌いたくない」という話は道理としておかしい事になりそもそも「攻め」を信条に「弱み」を持つ事を嫌い有言実行する「あの」矢沢永吉が、貫けない様な事を口にするのは考えにくいものがあります又この話が実話だとしても信憑性に欠ける印象があるのはおそらくこの語録だけでは重要な要素が欠けていて話が「不正確」だからだと言えます・・・これは想像、というかお得意の「妄想」になりますがw「人の歌は歌いたくない」「矢沢、この歌は一生歌わないよ」というのは事実で本当にあった事であれば「説得した」「条件がある」というくだりに説明が足りない「不正確」さがある様な印象がありますこれは山川啓介の歌詞が自分がとても書けない様なくやしい位に良い出来だった事をこの様なひねくれた形で「称賛」したという話だと 想像して・・・これは矢沢永吉に取ってみれば歌詞は素晴らしい出来のものが上がってきたものの今回の仕事は広く世に出る千載一遇の好機だと言う事もありそんな楽曲ならやっぱり自分で歌詞を書くべきかもしれないと土壇場で思い留まって一旦保留を口にした・・・そんな可能性が考えられますそれは矢沢永吉にしてみれば「(やっぱり)人の歌は唄わない(方が良いかもしれない)」という方向で一度「考慮」してみようとした程度のニュアンスで口にしたアーティストとしての「性(さが)」による単なる「一考」だったのかもしれません一方で、一分一秒のスケジュールで動いている関係者からしてみれば矢沢の言葉はそのまま「人の歌は(やっぱり)唄わない(唄いたく無くなった)」という一大事に映ったと思われ「スターのワガママを何とかしなければ仕事が崩壊する」という思考で必死に「説得」する流れへ繋がったと捉える事が出来ます関係者がその様な尋常ではない空気を出したのならば矢沢永吉が軽く思い付いたひらめきに対してのリアクションとしては余りにも温度差があり過ぎると言えますその場合は矢沢永吉はそんな関係者から感じた「異変」に対しその程度の創作上の「機転」も与えられない「不自由さ」を感じて若干の「不信感」を持った可能性が考えられるので「ボクは良いけど矢沢はどうかな」エピソードでのホテルの指定した部屋を取りそこねた関係者に対しての自分に対しての扱いを「試す」言葉の様なニュアンスで「ファンが望むなら応えるが矢沢からは唄わない」というまだまだアーティストの扱いを心得ない当時の関係者に向けてのある種の「洗礼」と「線引」を行ったのが「矢沢この唄は一生唄わない」発言の真意だと思われその真意が人伝に行くに従って話が変わって行ったというのが真相という印象があります従ってなぜこの様に矢沢永吉のエピソードが人によって話が変わり錯綜するのかというのはまず矢沢永吉自身がこの様な話が出ても否定も肯定もしない所にあると言えますただ、この様に自身の語録やエピソードが一人歩きをして話が大きくなる様な現象に付いては必ず新聞を読み情報収集に余念のない矢沢永吉自身が一番気に留めているのでは無いかという印象があります従ってこれらの話に付いての言及をする事が殆ど無かったのは全ては自身が招いた事として静かに受け止めている証でもある様なそんな印象があります本曲に付いては芸能生活50周年となった節目として自身のナンバーワンヒットとなり転機にもなった事で近年のインタビューでは成功に至った秘訣を「怖がり」という言葉で表し「怖いから必死で探る、調べる、計算する。臆病はある種、俺にとってはレーダーなんだ」と語っている事からその「勘」に基づいた感性で坂本龍一を見出し、山川啓介と出会い高橋幸宏がメンバーだったミカバンドのアレンジ術に衝撃を受け本曲が誕生し真のビックスター矢沢永吉が覚醒したという「全てを受け入れる」真摯な姿勢に矢沢永吉がトップアーティストであり続ける真の理由があるのかもしれません■高橋幸宏と矢沢永吉との関係は73年頃ミカバンド時代に日比谷野音や西武劇場などのイベントでキャロルと共演して以来74年にはジョイントツアーとしてキャロルと共に全国を周った旧知の仲で矢沢永吉がソロに転向した時は1976年にリリースした初のライブ版『THE STAR IN HIBIYA』でサディスティックスのメンバーとしてライブをサポートし矢沢永吉の3枚目のアルバム77年にリリースされた『ドアを開けろ』ではレコーディングにも参加高橋幸宏は初期の矢沢永吉作品のサウンドを支えたドラマーの一人であり盟友でもありました高橋幸宏はキャロルに付いて各地をミカバンドで一緒に周った思い出深いバンドだと語りリバプールを思わせるリーゼントに革の衣装でカッコ良く「ルイジアナ」「ヘイ・タクシー」などの初期の時代が好きだとコメントしております本曲では坂本龍一も参加しており高橋幸宏はこの後の1978年2月19日に77年に制作された細野晴臣のアルバム『はらいそ』での参加がきっかけで細野に呼び出され、こたつを囲んで細野からYMOの構想を聴かされた事で『イエローマジックオーケストラ』が始動する事になるのでその誕生前夜となるレコーディングだったという意味でもこれまでスタジオミュージシャンとして「裏方」だった高橋幸宏、坂本龍一にとっても表舞台に出る直前の重要なレコーディングとなったと言えるのかもしれません▲目次へ▲△▼ △▼ △▼松任谷由実 小田和正 財津和夫 - 今だから (1985)Sadistic Yumi Band - imadakara収録アルバム『ユーミン乾杯!!~松任谷由実50周年記念コラボベストアルバム~』トリは「はっぴいえんど」でした■本曲はニュー・ミュージックの大物 松任谷由実、小田和正、財津和夫が1985年に東芝EMI 、EXPRESS、ファンハウスというレーベルの壁を超えてコラボしリリースした楽曲でニュー・ミュージックからJ-popへのムーブメントに向かう当時の日本の音楽界で国連が提唱した「国際青年年」を記念した音楽イベント『ALL TOGETHER NOW』に繋がる話題作となった楽曲です■作詞と作曲は三人の共作ですが実際の作業はユーミンと小田和正で進められ財津和夫のタッチは無かったと聞きますこの楽曲の編曲とキーボード演奏を坂本龍一が行いドラムが高橋幸宏、ベースに後藤次利、ギターが高中正義と「サディスティックス」の3人が担当『ALL TOGETHER NOW』ではこの楽曲を唄う三人に加藤和彦を加えた「Sadistic Yumi Band」 が 一つの呼び物となりました本曲のアレンジはどこからともなく響いてくる空間系サウンドと意図的に隙間を生む硬質な音を同居させて新しさを感じさせながら古いものが消えていく中でのひだまりにいる温もりを体現した様な坂本龍一らしいシンセ音に重めのサウンドにゲートを効かせて響きを切り捨てるシンプルな高橋幸宏のドラムがリズムを刻み終わってしまった恋を友人同士で語り合う様な全体的に力の抜けた大人のムードのリラックスした雰囲気の演奏を聴くことが出来ますこの楽曲が披露された『ALL TOGETHER NOW』というイベントを深読みすればこの時代の歌謡界で主流だったニューミュージックが日米貿易摩擦が生んだ内需拡大路線を音楽で体現した様な日本の音楽に洋楽の要素を加えた「J-POP」に取って代わられ過去のものへと押しやられる様を描いた様な加えてこの時代特有の「チャリティー」の機運が多分に政治的背景が濃くあり司会の吉田拓郎が開会を宣言する様はオリンピックそのもので音楽への関心がそのまま与党の支持へと若者層を取り込むという様な音楽が最も政治に近かった時代を思わせるものがこのイベントから感じられるものがあった事は否めなかったと言えます■松任谷由実高橋幸宏とユーミンとの関係は中学生時代まで遡る程の旧知の仲で高橋幸宏の父親は会社経営者で軽井沢に別荘を持つ程の資産家でもあった事から常日頃から色々な人が集まる環境にあってユーミンは高橋幸宏の実の兄で音楽プロデューサーの高橋信之がミュージシャン時代に結成していたフィンガーズのファンという理由で高橋幸宏が高校生の時には気がついたら家に中学生のユーミンが普通に居たという家族的な付き合いがある間柄でしたユーミンとの共演は高橋幸宏が高校2年生の時若者向けTV情報番組『ヤング720』での出演が最初でボーカルは「ケンとメリーのスカイライン」のCM曲で知られる『ケンとメリー〜愛と風のように〜』の東郷昌和が担当しまだ中学3年生でデビュー前だったユーミンはピアノを弾き14歳の時に作ったという「マホガニーの部屋」という曲をTVで演奏しましたこの曲は後に全面的に歌詞を書き換えて後にユーミンの夫となる松任谷正隆が編曲し76年に荒井由実7枚目のシングル「翳りゆく部屋」として発表されますユーミンは17歳で作曲家デビューした後18歳の1972年に「返事はいらない」でシンガーソングライター荒井由実としてデビューしその時も高橋幸宏はドラマーとして参加しました天才少女として謳われてきたユーミンのメジャーデビュー作としてはこのデビューシングルは全く売れずデビューアルバム『ひこうき雲』では松任谷正隆率いるキャラメル・ママで再録されたいわゆる「テコ入れ」されたものが収録されこの鳴り物入りでリリースされたアルバムはオリコン年間チャートで11位の好成績を弾き出すのでした2年後の81年リリース『昨晩お会いしましょう』ではシングル『守ってあげたい』の大ヒットを受けてオリコンアルバムチャート1位を記録1997年『Cowgirl Dreamin'』までの17年間17枚連続でオリコンアルバムチャート連続1位を獲得するという快挙を成し遂げる事になります再びユーミンのアルバムに高橋幸宏が参加するのは初シングル発表から7年後の1979年『OLIVE』まで待つ事になりますがその後ドラマーとしてユーミンの音楽を支えるのは林立夫を始めとする他のミュージシャンが務め家族的な付き合いのある高橋幸宏でしたが意外にもユーミン作品には余り参加していなかったのでした■高橋幸宏が語ったユーミンとの思い出話の中にユーミンがプロデビューを果たした時のスタジオでの作業での事簡単で単純な作業が続きまだ若かったユーミンはそれに飽きたのか「疲れたからもうやめたい」と口にした時「誰のためにやってると思ってるんだ」と高橋幸宏が怒ってユーミンはそれをずっと覚えていてその事をすっかり忘れていた高橋幸宏に「私が叱られたのは後にも先にも幸宏一人だけ」と言った事やユーミンの曲に付いて89年にリリースされたユーミン21作目のアルバム『LOVE WARS』に収録された大ヒット曲『ANNIVERSARY』に付いてその曲の行間に含まれた信じられない人をそれでも信じようとする切なさを読み取って高橋幸宏90年のシングル『1%の関係』で「夢に開く穴に落ちないで」と唄いユーミンの曲のアンサーソングを作っていた話などこれらを思い出として語る高橋幸宏はドラマーとしてユーミン作品に参加しなくてもユーミンとの間にある特別な繋がりと強い信頼関係と非常に近い距離感を感じさせるものがありましたそれは学生の頃から家族の様に過ごしてきた「兄妹」の様な関係からその様な印象を受けるものがありますが多くは高橋幸宏が人との間に築く「絆」にある様に思われます■高橋幸宏はYMOに於いても坂本龍一と細野晴臣とを繋ぐ役割を果たして強い信頼関係を築いて来ましたミュージシャン界隈で有名になっても一般人は知らない「無名」のままで前に出たく無いスターになりたくなかった坂本が全米ツアー後に有名人となりそれによって一般人にも名前と顔が知られて街を歩いていても名前を呼ばれる事がストレスとなっていた時期に世間が望むYMOを強いられる事と自由な采配で音楽をやれない不満から度々細野と衝突し険悪なムードになっていた時も「まあまあ・・・w」と仲を取り持つのが高橋幸宏の役目でした「前に出たくない」という意味では高橋も「サディスティックス」でフュージョン音楽を経験し派手にテクニックを見せるドラマーに惹かれた体験を通して音楽はサーカスでは無く難しい技をプレイする、テクニックを見せ付ける事よりもポップ・ミュージックの中でドラマーはメロディーを聴いて プレイしある程度のスキルが身に付いたら誰が聴いても分かる様な「スタイル」を身に付ける事を目指すのが重要でテクニックを見せ付けてまで前に出る必要は無くても後方に居ても自分である事が分からなければならないと言う様な「表現」する事による「責任」を負う覚悟が音楽を演る上で必要な事だと語り音楽家としては「天才」でもまだまだワガママお嬢様だったユーミンをミュージシャンとして名を馳せても社会人としての覚悟が足り無かった若き坂本を時には叱り時には諭して音楽へと繋ぎ止め「見た目」も「人付き合い」も「表現」の一つだと捉え身なりにも人間関係にも気を使いジョージ・ハリスンを理想の音楽家と敬い「目立たない主役」「目立つ脇役」を目指した高橋幸宏は自分にとって音楽にとって何が大事なのかを感覚として身に付けて自分が自分らしくありながら人とのあり方を捉える「繋がり」を大切にする人物だったと言う事なのでしょう☆▲目次へ▲△▼ △▼ △▼山下達郎 - ディス・クッド・ビー・ザ・ナイト (1978)Tatsuro Yamashita - This Could Be The Night収録アルバム『GO AHEAD!/Big Wave』坂本龍一の言う所この頃の仕事は「アルバイト」だったそうです先程の矢沢が50年ものキャリアを誇る西を代表するアーティストであるならこちらの達郎も50年ものキャリアを誇る東を代表するアーティストで洋楽に精通しポップス、ロック、オールディーズを網羅しドゥーワップ歌唱に於いては多重録音を駆使し一人アカペラをこなし世界にも類を見ない唯一無二のサウンドを誇る日本を代表するシンガー・ソングライター山下達郎の自身の転機となった代表的アルバムからのライフワークとして取り組む洋楽カバーからハリー・ニルソンの隠れた名曲で84年の記録映画『ビッグウェイブ』のサントラとしても使用された達郎作品中でもコアな人気曲です■山下達郎この作品は、当時山下達郎がレコード会社からソングライターとしては技術もあり優秀と評価されながら歌手としては売れないと判断を下されていた時期に今後は作曲家プロデューサーとして活動しようと本作を最後のリリースと決めて時間も予算もきっちり決められただけの中で使いその代わり好きに作ったアルバムとなった歌手引退作という経緯で制作されたもので制作期間内で可能な限り作曲されたオリジナル数曲と後は人に書いた過去作と本曲のカヴァーという達郎にとってこれが代表作となるとは思いもよらない中コンセプトも曲調もサウンドも揃っていないある意味バラエティーに富んだラインナップでレコーディングされました■本曲の演奏は予算の関係からか山下達郎一人で行われ達郎サウンドの代名詞の「一人多重コーラス」に加えドラム、ベース、ギター、ピアノ、コーラスの全てを担当そのパートの上に坂本龍一のシンセを被せて完成させたというほぼ手作りの楽曲となりました本曲の原曲のプロデュースをしたのはビートルズの『レット・イット・ビー』のプロデュースで知られる音の魔術師の異名を持つフィル・スペクターで重厚なサウンドに巨大空間を思わせる遠鳴りのリバーブが特徴の「ウォール・オブ・サウンド」が有名のサウンドクリエイターでした山下達郎は本曲で音圧のある生楽器の演奏に加えて坂本龍一による当時最先端となるポリムーグシンセによる綺羅びやかなストリングスサウンドの広がりを得た自分なりのこだわりで作った「ウォール・オブ・サウンド」を再現しましたPolymoog Synthesizer (画像参照: wikimedia)本曲は後に86年の記録映画『ビッグウェイブ』でボーカルとソロを新録し『GO AHEAD!』とは若干サウンドが異なったリミックスヴァージョンとして再リリースされるのでアルバムによってその違いを愉しむことが出来ますエアーブラシイラストで一世を風靡したペーター佐藤の手による3日で描いてもらったイラストをジャケットカバーに添えた『GO AHEAD!』は78年12月20日のクリスマス・シーズンにリリースされ立っている者は親でも使えと担当ディレクターまでもが演奏に参加してセールスに繋げる為にやるだけの事はやり尽くした正に総力を挙げてのアルバム制作となりましたそうして年が明けた春のある日の事、「大阪のディスコでアルバム収録曲の『BOMBER』がブレイクしている」という噂が達郎の耳に入り、元々シングル「LET'S DANCE BABY」のB面だった「BOMBER」を急遽A面にしたジャケットで再発し半信半疑でバンドを率いて大阪に向かったのが6月。関東出身の達郎にとってはかつてシュガーベイブ時代に体験した「関西の厚い壁」を思い知る東京に対する反感と言う「洗礼」を受けていただけに苦手意識のあった関西圏のコンサートでしたがこれまでの客層とは全く異なるオーディエンスで埋め尽くされた大阪サンケイホールでの意外な盛り上がりでステージは大成功となりそれが転機となって次作の79年発表の『MOON GLOW』はオリコンアルバムチャート20位ランクインの大ヒットを遂げそれまでサブカルチャー系なコアな音楽ファン御用達のマニアックな音楽に傾倒するミュージシャンだった山下達郎が新たなファン層を獲得した事でメインストリームで時代の空気を感じる音楽を自ら牽引する事に興味を持つ様になりそれが80年のオリコンアルバムチャート1位に輝く大ヒット作『RIDE ON TIME』への足がかりとなり現在に至るまで低予算、短時間、手作業で作られたアルバム『GO AHEAD!』は達郎の思わぬ 代表作 となるのでした■山下達郎はTVなどに顔出し出演しない事で有名で例外的に第33回レコード大賞で『アルチザン』がアルバム部門を受賞した時に『さよなら夏の日』をマイクに向かって唄う映像を公開した以外知る限り、奥さんの竹内まりやと結婚した時のTVのニュースで奥様をどう思われるかというキャスターのインタビューに「八頭身美人」とノロケて答えていた映像以外TVでの顔出しは無い事を徹底している事でも知られておりますが近年映画館での”シアターライブ”形式での公開やコロナの影響で配信によるコンサートが増えた時期に高音質動画配信サービス”MUSIC/SLASH”でライブ映像での顔出しステージをこなすなど時代の要求に応じてそのスタンスは代わりつつある様です山下達郎がなぜその他のアーティストの様にDVDを出したりTV出演をしたりしないのかという理由は一つは、「音響」に付いて地上波TV、DVD、Blu-rayの「圧縮音声」が納得できるものでは無い事を挙げておりアリーナクラスの会場でコンサートを行わないのも上記の「音響」が納得できるものでは無くなる事で高いクオリティーで音楽を届ける事を最優先するポリシーからそれらを行わない理由としている様ですが「GO AHEAD!」の時にレコード会社上層部から指摘された「トータルキャラクターとして捉えると数字が取れない」という判断を「タレント性に欠ける」とおそらくそう捉えた達郎が他のミュージシャン仲間が音楽活動以外の日常でTVを観たファンに追われ平穏な生活が失われている様を観て元々向いていないタレント活動で顔出しをしてもTVの影響力はリスキーなだけで自分には得はないと判断しメディアへの露出はラジオ、雑誌インタービューに留めてやらない様にしていると思われる所があります■坂本龍一の誤算となったYMOでの顔出し出演■坂本龍一が達郎のレコーディングに参加したきっかけは大学時代に小劇場の音楽を担当した事で演劇関係の人達と新宿歌舞伎町にある「新宿ゴールデン街」に出入りする様になり演劇関係と音楽関係の人脈が広がって行った頃に共通の友人を通して親しくなった事からと言います当時坂本龍一は70年代安保を引きずった様な中央線沿線に集まっていたフォークや元活動家などが混在した制度の解体や資本主義に管理された音楽の開放や人民解放に倣って音楽を労働者に開放させる事を本気で論議し「表現」とはある種「闘争」でもあるとしていた当時のカルチャーにどっぷりと浸かった青春時代を送っていましたYMOでスタイリッシュな出で立ちで世に出たとは思えない長髪にジーンズで素足に草履という昭和の若者そのものの姿で演劇の舞台に立ったり、和製ボブ・ディランと謳われた友部正人と知り合ったりする中で「演劇」と「音楽」を「シンクロ」させたり嫌いだったフォークミュージックの知らざる側面に触れ友部正人の全国ツアーでピアニストとして日本中を旅したりと音楽が本業という自覚が無いまま音楽が中心の生活を送っていたそんな頃、坂本は荻窪のライブハウスで初めて山下達郎と会い自身が音大で何年もかけて勉強した現代音楽のハーモニーを洋楽のロックポップスから正確に吸収し既に自分のものとしていてそれらの音楽的知識を共通の言語にして突っ込んだ話をする事が出来た山下達郎とすぐに意気投合しますその後山下達郎のレコーディングやライブに参加した後「はっぽいえんど」のボーカルで山下達郎の師匠とも言える大瀧詠一を紹介されて大滝詠一のスタジオで細野晴臣と出会う事になります坂本は細野が達郎同様にアカデミックな音楽教育無しに自身が勉強してきた音楽の話も出来る事に驚いてこの二人が傾倒しているロック、ポップスに対しての興味が湧き先のない西洋音楽を勉強する為音楽大学に入学し時には美術学生を率いてデモのリーダーとして闘争に参加し学生結婚して子供が出来て結婚生活は上手く行かずに直ぐに破綻しその責任から音楽を本業にして稼ぐ為に働き音楽が本業という自覚の無いまま音楽で稼ぐ事に明け暮れてきた無軌道で目的の無いこれまでの生活の事を思えばやり甲斐があるものを見つけた事を確信したこれらは全て人生の転機となる出会いだったと言えます■山下達郎はインタビューの中で60年代安保は物書きを輩出し、70代安保はミュージシャンを輩出したと語った事がありました当時は山下達郎と同年代ミュージシャンが大勢居てその中には坂本龍一が青山のデモの参加で車をひっくり返していた頃同じ青山でダンスパーティーに参加していた山下達郎、坂本龍一とは全く異なる青春時代を送っていた高橋幸宏 が居ました高橋幸宏は坂本龍一が知る中央線沿線のヒッピー族のコミューンとは全く異なるアールデコ調の屋敷に住みKENZOのファッションで身を包みファッショナブルな出で立ちでドラムを叩く達郎、細野とは異なる「別の人種がロックを演っている驚き」があったと言います時代は70年代半ばとなり、メンズビギが登場し様々なファッションブランドが立ち上がりカフェバーにはファッショナブルな大人達が立ち寄り経済が高度成長期を迎える新たな時代を迎える中にあり大島渚監督の『日本の夜と霧』に出てくる様な白いワイシャツに黒ズボンを履いて難しい議論をし学生がバンカラでデモ闘争していた時代は過ぎ去ろうとしていました。1978年2月には細野宅で「テクノバンドの構想」を細野から提案される伝説の「こたつ集会」が行われ当時尖っていた坂本は「時間があったらやりますよ」とわざと飛びつかずやぶさかでないという態度で答え高橋幸宏はその場でやりましょうと二つ返事をしてYMOが結成される事になりますそうして制作されたフランスの監督ジャン・リュック・ゴダールの映画のタイトルを楽曲のタイトルにして並べた最初のアルバム「イエローマジックオーケストラ」では坂本が「東風」を高橋が「中国女」を細野が「マッドピエロ」を選び各々が作った楽曲を持ち寄って皆でレコーディングして行きます「中国女」のフランス語パートは当時のアルファレコードの秘書の女性に頼みボーカルパートは細野のアイデアで高橋が担当しようという事になりYMOリードボーカル高橋ユキヒロが誕生します高橋幸宏は音程があるのかないのか分からない様な唱法で唄いそれを更にエフェクターで加工して仕上げる「フー・マンチュー唱法」と呼ばれる独特の唄い方をYMOのレコーディングで行っていますがこれには「メンバー」が「バンド」の顔となって全員が「スター」となるのが通例な所をメンバーの素顔が見えない様にする「匿名性」をYMOに導入して「ミステリアス」をトレンド化させるという細野の考えからでもある様でしたそれは「無名でいたい前に出たくない」坂本の考えを体現したものでもあった訳でこの「何者が演奏しているのか分からない」がコンセプトのテクノバンドは思惑通り日本では謎のバンドとしてデビューを飾りメンバーをプッシュしなかった事でセールスも振るいませんでしたしかしアメリカ公演以降状況は急転し凱旋帰国後YMO人気が国内で高まりYMOの三人は時の人となって行きますやがてTVやラジオ雑誌などでのメディアの露出が増えタレント活動も仕事の一部になるに連れてバンカラで出歩き一般人に紛れて普通に生活して来た坂本も家を出た所で指を差されて名前を呼ばれるまでに日本中に顔を知られる程の有名人となりどこに行っても名前を呼ばれ誰もが自分の顔を知っているという状況からもはや普通の生活が出来なくなった坂本はそのストレスから何ヶ月も部屋に引きこもる生活を続ける事になりますそうして普通の生活が失われた事への憎悪が坂本の中で次第に高まってそれがYMOへの憎悪に結び付いて行きます生活が激変してストレスに晒されたのは細野も高橋も同様でしたが坂本の毒が細野にあてられ高橋がなだめるという図式でYMOの仲は険悪なムードになって行きます最もメンバーが荒れていた時期に制作されたとされる『BGM』は人気が落ちる事を目論んでワザとマニアックな楽曲を並べたと言われておりそれが乗じてその時期の活動は『スネークマンショー』を始めとする当時はYMOらしいと思われた人気絶頂期にYMOが笑いのネタになる様なある意味「悪フザケ」が活動の「コンセプト」となって行きますこの時期にYMOを陥れる様な様々な「企画」が立ち上がったのはその様な背景があっての事でした1980年4月に行われた「スネークマンショーin武道館」はそんなYMOの思惑を知らない招待客の前でYMOがフォークソングを唄いスネークマンが延々とコントを演り最後の最後にYMOがカーテン裏に隠れたバンドセットを出して演奏を演るという趣向の客をからかう事が目的のステージとなりました主旨を分かっていない客の一部はいつまで経ってもYMOの演奏が始まらない事に本当に怒り出し女装して出てきた坂本が本気かネタか分からない様なテンションで客に怒鳴り返すやり取りに場内はざわつき呆れて帰り出す者も居たと言いますその時期世間が求めていた「期待」を裏切り全て「破壊」してしまおうとしたこれらの行為は折しも漫才ブームが加熱して「どつき漫才」がお茶の間に浸透していた時期と重なっていた事からその様な「表現」に繋がった事で逆に世間に評価される事になります結果としてYMOの過激なコメディー化は「企画」として世間一般に受け入れられる事になりますがそれ位危ない橋を渡る様な突き抜けた事をしないと忙しさで息もできない程のストレスを抱えていた事を物語っていましたそれは先程のピンクレディーの「ラストプリテンダー」の例の様にそんな悪フザケな「コンセプト」がYMOの新たなカラーに加わり世間がその様なノリを望んでいると捉えて「解散」を匂わせる過激ワードの楽曲で話題を提供しようと努めた事でそれが相手のデリケートな所を「逆撫で」してしまう「シャレが通じない」ケースを生み出す事にもなりましたそんな、意図せず人気絶頂期となったYMOの不満の火の粉が思わぬ人気が下降し始めた周りが被るという図式に図らずも当時の日本の音楽界での浮き沈みの顛末を見るものがありそれまで歌手をレコード会社の商品として使い倒してきた「歌謡界」に荒井由実、山下達郎、矢沢永吉、桑田佳祐、タケカワユキヒデ、加藤和彦、他70年安保組が次々と音楽界に参入した事でかつて制度の解体と資本主義的音楽の開放を目指した気概で歌謡界に「闘争」を仕掛ける様な表現で音楽界を席巻して行き確実に何かが終わり何かが始まろうとしていた85年の『ALL TOGETHER NOW』までに至る昭和の音楽界に「引導」を渡す 終わりの始まりを見るものがYMOの活動の中に投影されていたのでは無いかと考えると「YMO」とは知られざる当時の日本の音楽界の「鏡」の様な存在だったと言えるものがあったのかもしれません■山下達郎はこれまでこの様な知人友人達の「有名税」で支払われるストレスに晒されるという「リスク」を嫌という程目の当たりにして来ただけにメディアへの露出をラジオ雑誌のみに控えて純粋に音楽制作に集中できる生活を維持して音楽に政治を持ち込まず坂本龍一のリベラルな申し出もハッキリと断ってそれで関係が崩れる事も無い友情を大事にし映像作品やTV出演をしないのでは無いかと思うのでした☆△▼ △▼ △▼という所で今回は終了です御観覧ありがとうございました高橋幸宏1952 - 2023■坂本龍一1952 - 2023【楽天ブログ】邦楽特集 追悼 高橋幸宏/坂本龍一 - 楽天ブログ(Blog)https://t.co/ak28v1FDeu #r_blog 6万文字もの いつもの「出版クラス」の更新で若き 高橋幸宏、坂本龍一 が「ミュージシャン」として関わった楽曲を特集します— Voyager6434 (@voyager6434) April 14, 2023■【電子書籍】心に訊く音楽、心に効く音楽 [ 高橋幸宏 ]私的名曲ガイドブック価格:721円 (2023/4/15時点)■【電子書籍】音楽は自由にする(新潮文庫)[ 坂本龍一 ]価格:1,100円 (2023/4/15時点)■【CD】12 [ 坂本龍一 ]価格:3,410円(税込、送料無料) (2023/4/15時点)■【CD】ベル・エキセントリック [ 加藤和彦 ]価格:1,894円(税込、送料無料) (2023/4/15時点)■【CD】ゴールデン☆ベスト デラックス 西城秀樹 [ 西城秀樹 ]価格:3,325円(税込、送料無料) (2023/4/15時点)■【CD】黒船 [ サディスティック・ミカ・バンド ]価格:1,936円(税込、送料無料) (2023/4/15時点)■【CD】KYLYN [ 渡辺香津美 ]価格:1,717円(税込、送料無料) (2023/4/15時点)■【CD】真空パック [ シーナ&ザ・ロケッツ ]価格:2,198円(税込、送料無料) 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2023年04月15日
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京阪600系 痛電車 (画像参照:wikipedia)邦楽特集 第6回春の陽気に見たこと無い音楽 をどうぞ・・・冬季オリンピックで日本選手の快挙の報に湧く2月中旬の折に日本中が熱気で盛り上がる最中にも身も凍る様な寒さが続いた今年の寒冬に対し布団には電気アンカを、椅子には電気マットを、居間には電気こたつにファンヒーターの暖房機器の重装備で備えて残りの寒さを乗り越えようとした途端20度を超える陽気と突然の春一番の嵐に吹き飛ばされる様に文明の利器の恩恵にあやかろうとした浅知恵は見事に出鼻を挫かれる突然の春の陽気となりまるで真夏日の様な例年通りのGWをお見舞いされる今日この頃を、いかがお過ごしでしょうかさて70年~90年代を中心に、子供の頃、若かりし頃、耳にして来た音楽をご紹介する邦楽特集『~どうぞ』シリーズ 今回は第6回今回は水道管も固まる程の寒冬を吹き飛ばした春一番の陽気の様なアーティストの固まったイメージを吹き飛ばす楽曲をお送りします。-----------------------------------------------------------------------------------■ もくじ ■- 音楽解説編 -M1 (1980)『Rock and Roll Widow』M2 (1983)『Sweet Memories』M3 (1985)『Finding Each Other』M4 (1980)『Sweetest Music』M5 (2017)『You'd Be so Nice to Come Home to』M6 (1997)『The Other Side of Love』M7 (2009)『My love is like a stapler』- 音楽コラム編 -『歌謡曲からJ-POPへの流れに見る邦楽の多様性』■ライブイベントの盛況による音楽単体販売の不振■■時代の流れを受け入れる欧米の潔さ■■J-POPとCD販売激減の関係性■■「J-POPが後にJ-POPを殺した」という仮説■------------------------------------------------------------------------------------ 音楽解説編 ------------------------------------------------------------------------------------▲目次へ▲△▼ △▼ △▼Porsche 924S (画像参照:wikimedia.org)山口百恵 - ロックンロール・ウィドウ (1980)Momoe Yamaguchi - Rock and Roll Widow収録アルバム『メビウス・ゲーム』こんな百恵ちゃん見たこと無い歌謡界のレジェンドとして今もなお語り継がれる不世出の歌姫山口百恵の引退間近にリリースされ、作曲家 宇崎竜童 の本来の持ち味である「ロック」を全面に押し出した山口百恵の持ち歌の中でも最もロック色の強い異色のヒットナンバーです。■本曲は引退コンサートの最後に唄われたオリコン週間売り上げランキング第4位となった『さよならの向う側』を凌ぐ第3位という代表的なヒット曲ながらもこれまで山口百恵がある種の闇を秘めて清楚さを兼ね備えた「青い性」路線で人気を獲得し大人びたアイドルというイメージで活躍してきた事に対して引退間近のタイミングでこれまでの路線とは又違った性質の開き直った山口百恵の姿を押し出したセンセーショナルな楽曲となりジェニファー・ロペス『Ain't Your MAMA』などにも見られ現代のメインストリームとなる洋楽シーンに於いてもしばしば使われるR&Rの定番フレーズ「アナタのママじゃない」というフェミニズム的手法を女性の地位向上が日本でも叫ばれ始めたタイミングで導入し異色作でありながらリアルタイムな山口百恵の姿をさらけ出した山口百恵のキャリア中最後にして最初のターニング・ポイントとなった非常に興味深い作品となりました■山口百恵を語る時、数年置きの様に良く話にのぼるのが「引退の真実」なのですが幾度となく復帰説を立てるマスコミや「結婚の為」という理由に満足しない熱烈なファンたちによる現在よりも不透明で魍魎とした当時の芸能界に於いてのドル箱スターを容易く引退させるのには何か理由がある などの疑惑から憶測が憶測を呼んで、果ては陰謀説が生まれた後結局一周して やはり結婚の為となりまるで堂々巡りの様な結論に達するという未だ数年置きに起こる「山口百恵ブーム」ひとつ取ってみてもその周期となる節目からも「時代と寝た女」と称されるまさに時代を築いたレジェンドとしての圧倒的存在感を感じるものがあります同時代に活躍した多くのアイドル達が居る中で取り分け山口百恵が芸能界のレジェンドとして語られるのは引退後一度として表舞台に立たなかった事が最も大きな理由だと思われますが引退時の年齢が21歳と若く14歳のデビューから数えても 僅か8年の芸能活動で当時のアイドル歌手の活動期間が10代の間というのが定番だった事を考えてみても類まれな歌唱力の持ち主だった同期の森昌子の様にアイドル活動後も本格女性歌手として転身する例とは異なり歌唱力では無く表現力で勝負していた人物としてむしろ二十歳を越えても人気が衰えず第一線で活動を続ける事が出来た異例のアイドルだった事が人々の記憶に強く印象に残り世紀世代を越えてレジェンドとして語られる理由となっていったのかもしれませんその様な世間一般の、一部神格化された様な評価は差し置き、思うに山口百恵という人物は、十代から二十歳までの間を「青春時代」と捉え結婚し家庭を持ってからは家庭人としての人生が始まると感じる多くの一般人と同じ普通の感覚を持った大人の女性だったのであり「独立に失敗した為に結婚引退したのでは」 などの様々な憶測が飛び交ってきた「引退の真相」も山口百恵本人著による芸能界に入る事は真の「夢」では無く未練は無いという印象を受ける一連の記述を鵜呑みにするなら本格女性歌手に転身するのは現実的では無いという大人の判断をした勇退が理由だったと言う事になり結婚引退後一度は復帰した南沙織などが居る中、なぜ復帰しないのかという理由も、複雑な生い立ちを乗り越えて家庭人としての今があるという彼女の本当の「夢」が叶った事が大きな理由となったのかもしれません▲目次へ▲△▼ △▼ △▼松田聖子 - スウィート・メモリーズ (1983)Seiko Matsuda - SWEET MEMORIES収録アルバム『ペンギンズメモリー幸福物語』ほかこんな神田沙也加のお母さん見たこと無い80年代を代表するアイドルでJ-POPが誕生する以前の日本の歌謡界の音楽スタイルを継承しつつ2012年にはジャズの巨匠ボブ・ジェームスとの共演を果たすなどのジャンルを超えた活動など現在も第一線で活躍する永遠のアイドル松田聖子のアイドル歌手としての域を軽く越えた歌手松田聖子を決定付けた 代表曲的ナンバーです■本曲は、今でこそ松田聖子のマストソングの一曲として語られるナンバーですが83年当時ノスタルジックなペンギンのアニメをキャラクターにしたバーの女性シンガーが唄う曲を聴いていた客が涙するという内容のサントリービールのCM曲として使用された企画曲で当初 英詩の部分だけのノンクレジットでの覆面放送だった事からあのCMの曲はどのJAZZシンガーが唄う何という曲なのかという問い合わせが殺到し 大きな話題となった楽曲でもあり後に松田聖子と分かった時には更なる驚きと共にその高い歌唱力に女性アイドルに対しての再評価の機運が高まり松田聖子にとってもターニングポイントとなったヒット曲でもあります。■松田聖子は山口百恵の引退と入れ替わる様に「裸足の季節」でデビューし「ぶりっ子」「聖子ちゃんカット」などの流行語が生まれる程アイドルらしい可愛い仕草と容姿が話題を呼び透明感ある伸びやかな唄声の高い歌唱力で人気を博し数多くの名曲ヒット曲をリリースしてタレントとしてもお茶の間の人気者となり昭和のアイドル最盛期となる80年代を代表するアイドル歌手タレントとして活躍しましたアイドル時代の松田聖子は「日本のアイドルの源泉」から派生した71年デビューの新三人娘小柳ルミ子・南沙織・天地真理 達が源流と言われる「日本のアイドルの流れ」から始まりやがてそれらの流れとは異なる、素人路線シーンから派生した「おニャン子クラブ」などに代表される「バラエティー・アイドル」が人気を博す様になるまでの日本の伝統的「アイドルの源泉」が事実上断ち切られる80年代前半に昭和から続いてきた「アイドルの源泉」の流れの中にあった正統派アイドルの1人で更にその流れを進化させた最終型となる当時日本のアイドルのひとつの完成形まで到達した唯一無二の人物でありトップアイドルとして活躍し八十年代アイドルの黄金時代を築き「AKB48」を始めとする現在のアイドルにも多大な影響を与えた日本の歌謡史にとっても特別な存在だったと言えます■84年の秋の映画『カリブ・愛のシンフォニー』では、共演をきっかけに85年6月24日俳優 神田正輝 とのスピード結婚で世間を驚かせますが当時の夫神田正輝の理解もあり引き続き芸能活動を行う事となります同年8月にはマンハッタン・ジャズ・クインテットのキーボーディストデビッド・マシューズと米国音楽界の大物プロデューサーフィル・ラモーンを招いて本格女性シンガーへと転身を果たすべく全編英詩のアルバムに挑戦しており86年6月1日『アナと雪の女王』の吹き替えで再ブレイクした娘、神田沙也加 の出産を経た後 歌手業を本格的に再開芸能界復帰後は 元祖「ママドル」と呼ばれる存在となり「永遠のアイドル」のイメージを決定付けます88年には目黒の自由が丘で営業するブティック「フローレスセイコ」の出店で実業家としての実績を積み始め同年4月には米国の音楽プロデューサー デヴィッド・フォスター を招き話題曲『抱いて』を収録したアルバム『Citron』のリリース89年には芸術家ゴヤの生涯を歌でつづるミュージカル・コンセプト・アルバム『ゴヤ・・・歌で綴る生涯』に参加しクラシックオペラ界の巨匠 プラシド・ドミンゴ とのデュエットを果たすなど世界に焦点を定めた一連の活動の橋頭堡を築きますが90年のアルバムでゲストに米国アーティストを多数招いて制作された意欲作『SEIKO』は日本での成功は果たしても米国での評価は辛辣なものとなり「世界の壁」を痛感する日本人歌手の一人として数えられる事となりますこの直後、バブル経済に触発されたハイエンド志向が高まった時流の到来によりCD文化が後押ししたJ-POP誕生と洋楽志向が強まった音楽リスナーの要求からこれまで培われてきた海外へ向けの取り組みを内需拡大路線へと舵を切り替え国内に向けて存在をアピールして風向きを変えていく事になります■ちなみに、『抱いて』収録アルバム『Citron』世界のドミンゴとの共演となった話題曲『愛を知るまでは』のプロデュースをしたデヴィッド・フォスターは1979年の アース・ウィンド・アンド・ファイアー の大ヒット曲『アフター・ザ・ラヴ・ハズ・ゴーン』他実に15回ものグラミー賞を受賞した超大物プロデューサーで映画(92)『ボディガード』の挿入歌で2012年に急死した大スター ホイットニー・ヒューストン の『I Have Nothing』の作曲や88年 カルガリーオリンピックの公式テーマ曲『Winter Games』の作曲でも知られる米国を代表する作曲家兼アレンジャーでもあります特に、世界のドミンゴとの共演となった『愛を知るまでは』ではドミンゴの専門となる「オペラ」としての共演では無くデヴィッド・フォスターが得意とするAORミュージックのアーバン・ポップの括りとなる定番のジャズやR&Bをベースとしたコンテンポラリー・アーバンポップスなラブ・バラード・デュエット曲でデヴィッド・フォスターのもう一つの顔となるピアニストとしてのキャリアを支えて来た西洋音楽のアカデミックな流れの中にあるメロディーラインで作られた楽曲だったという所が音楽界の事件とも言える、クラシック界と日本の歌謡界の共演を可能にした大きな要因になったと思われ特にこれらの曲が当時この様なAORな作風が音楽関係者から注目を浴び耳の肥えた洋楽ファンに人気があった作風による共に話題性の高い楽曲だった事は本格歌手に転身した松田聖子のイメージを強固なものにする為に立てられた企画作という性質の作品でもあるような印象を受けるものがありました。■松田聖子 のイメージを語る時、良い意味でも逆の意味でも「カワイコぶりっ子」「計算高い人物」として良く語られてきましたが先輩歌手にして男性顔負けな姉御肌でも知られる芸能界の大物タレント和田アキ子 が舞台で泣くのはプロでは無いという厳しい一面を見せながら強固で男勝りなタレント「和田アキ子」を演じ続ける反動の様に私生活では号泣する等身大な人物としても語られる事に対し過去公の舞台で泣いた松田聖子は舞台でも私生活でも「松田聖子」を演じ続ける人物というよりは女性シンガーに転身して元祖「ママドル」と言われる様になった時も起業して実業家になった時もこれまでのキャリアとは待ったく違うジャンルとなる「ジャズ」に挑戦した時も無理をして自分以外の何かになるのでは無く娘 神田沙也加が出演した『アナ雪』のテーマさながらの「ありのままで居られる」術を肌で感じ取る事が出来た人物だと思われその時代時代に呼応した自分自身で居られる人物であった所に自然に「松田聖子」を維持しながら今もなおトップであり続ける理由がある様に感じるものがありました▲目次へ▲△▼ △▼ △▼河合奈保子 - Finding Each Other (1985)Noako Kawai- Finding Each Other収録アルバム『9 1/2 NINE HALF』こんなHIDEKIの妹見たこと無い日本に洋楽の波が訪れる直前の芸能界にデビューし日本の歌謡界が ニュー・ミュージック などのムーブメントを経てJ-POP へと流れていく その最中の70年代アイドル歌謡が終焉しニューミュージックや洋楽を意識した「ネオ・アイドル」 とも言うべき楽曲が登場し始めた歌謡界で中心的な存在としてアイドル活動を続けた後は積極的に洋楽を楽曲に取り入れたアルバム作りを行う様になりアイドルからアーティストへと本格的に転身を遂げた、80年代歌謡界最後の正統派アイドル歌手 河合奈保子 のアーバンポップの雄、TOTO のギタリストにしてボーカリストのスティーブ・ルカサーと共演したデュエット・ナンバーです■本曲は、同時期、松田聖子のプロデュースも担当したAORの旗手デヴィッド・フォスター をプロデューサーに迎えた脱アイドルを目指した80年中期に制作された話題作でカシオペア、T-SQUARE などのフュージョン・ミュージックが人気の時期に共演に当時全米トップ・アーティストだったシカゴの ピーター・セテラ とのデュエット他ドラムにTOTOのジェフ・ポーカロにベースがマイク・ポーカロ、ギターがマイケル・ランドウというLAのトップミュージシャンを結集しフュージョンミュージックを意識し完成度の高い作品作りを目指したアルバムでのまるでシカゴの大ヒット曲の再現と見紛うばかりの本曲ではドラマティックな展開もそのままの、邦楽のスケールを軽く凌駕し来たるべく日本のバブル経済の勢いを予見させるアーティスト河合奈保子を決定付けた意欲作となりました■河合奈保子がデビュー5年目にして本格ボーカリストに転身し歌謡史にも残る程の本格AORサウンド作品をリリースしたのは一つは、河合奈保子が高い歌唱力の持ち主だった事ともう一つはこの時期音楽リスナーの関心が洋楽に向いていた事などの好条件が重なり実現した企画という背景の他に、何よりも河合奈保子自身がどの様な仕事にも意欲的に取り組む人物であった事が大きな理由と思われこの時代のアイドル歌手がグラビアの仕事を兼任し誰もが水着になる事に難色を示す中でも積極的に取り組み「健康美アイドル」をトレードマークとして獲得するなどその後の「グラビアアイドル」と呼ばれるジャンルの道筋を作ったり81年『レッツゴーヤング』NHKホールでのリハーサル中に誤って4m下の奈落に転落し2ヶ月の重症を負った事故の時も自分の身体よりも仕事に穴を開けた事を気に病む仕事重視の姿勢などどの様な仕事が来ても嫌がらずにこなす、仕事に真摯に向き合う姿勢と音楽畑の人物が良く持つ特徴の、明るくて真面目で体育会系な基質があった所に日本のアイドル史にとって人跡未踏となる本格洋楽サウンドの作品に挑んだ、ひとつの理由があった様に思われます。その一方で、松田聖子の様に、常に世の中の風潮を読み取り、その都度自分らしく自然で居られる形を取りながら息の長い芸能活動を続けるタイプとは異なり「アイドル活動は十代までで、その後は本格歌手へ転身するのが通例」などの世の中が求める要求を真摯に受け止め時には自分を殺してまでも使命感を持ってその通りに実行する頑なで真面目過ぎる基質のあった河合奈保子はバラエティーでもグラビアでも80年代アイドルを代表する存在にはなりましたがその後は松田聖子の様にタレントとしても歌手としても「永遠のアイドル」として長く語られる様な「カリスマ・タレント」として突き抜ける様な存在には至らなかった所に時代に翻弄され、時には迷走しながら、ひとつの時代を鮮やかに駆け抜けた後は通例通り静かに芸能界を去るという数多くのアイドル達と同じ道を選んだ理由になった印象を受けるものがありました。▲目次へ▲△▼ △▼ △▼竹内まりや - Sweetest Music (1980)Mariya Takeuchi - Sweetest Music収録アルバム『Miss M』こんな山下達郎の奥さん見たこと無い日本人離れした卓越した英語で英語の楽曲を歌い上げ学生時代には杉真理、鈴木慶一などと共に密度の高い音楽的環境での活動を経て「アイドル冬の時代」と言われた70年代後半に歌手としてデビューし加藤和彦や浜田省吾、伊藤銀次、細野晴臣の他後の人生のパートナーとなる山下達郎など日本を代表する錚々たるアーティスト達による楽曲と演奏で占められる本格的なポップス系女性ボーカリストの先駆けとして活躍しその後のJ-Popの流れを作る存在の一人としても私生活では結婚して専業主婦となる 多くの女性の一人としても常に等身大な女性の目線に立って作品作りを続け現在も寡作ながら自身の作詞作曲作を発表し続けるカリスマアーティスト竹内まりやの英語楽曲ならではのキレとグルーブが光る邦楽のスケールを越えるダンサブルなヒットナンバーです■本曲は、様々な日本のアーティストをプロデュースして来たAORの巨匠 デヴィッド・フォスター プロデュースながらそれまでの日本の歌謡界の様に洋楽の力を借りてアーティストイメージをアップするのでは無く完全に洋楽の楽曲で占められた作品を唄いこなす本格女性ボーカリストのアルバムとして制作された日本の歌謡史の中でも重要な位置を占めるアルバムのオープニングを飾る、衝撃的ダンス・チューンでドラム ジェフ・ポーカロ、ギター スティーブ・ルカサー などの超一流LAミュージシャンの極上のプレイにも全く物怖じせずネイティブで英語を話せる 竹内まりや ならではの次々と連なる英語の歌詞を余裕でリズムに乗せてキレのあるパワフルなボーカルで歌い上げる邦楽のスケールでは測れない、海外で勝負が出来る他の追随を許さないアーティスト竹内まりやを決定付けた強力なボーカルナンバーに仕上がっております■竹内まりやは本作発表後、後に大ヒット作となる『不思議なピーチパイ』でJ-POPの前身とも言える 歌謡ポップス路線へと進んで行った後現在の夫の山下達郎との結婚、休業、出産を経た後に、復帰作となったアルバム『VARIETY』でシンガー・ソングライターとして再ブレイクし現在も第一線で活動する日本を代表するアーティストとへと成長を遂げますが個人的にも交流のある、先程の 河合奈保子 の様に脱アイドルを見据えて本格ボーカリストを目指し転身を遂げながら芸能活動を中心に音楽活動を続ける事 とは異なりむしろ松田聖子に近い、その時代時代の空気を自然のままで受け止めて結婚した一女性の等身大な目線で感じ取った様々な景色や印象をその都度作品に投影しながら息の長い音楽活動を続けているアーティストであり音楽活動は主婦業同様に竹内まりやの人生の一部ではあっても、全てでは無かった所に結婚して主婦となった多くの女性達の代弁者の様な立場としても自然体で音楽活動を続けられる、大きな理由となった様に思うのでした。▲目次へ▲△▼ △▼ △▼八代亜紀 - 帰ってくれたら嬉しいわ (2017)Aki Yashiro - You'd Be so Nice to Come Home to収録アルバム『夜のつづき』こんな舟歌の人見たこと無い十代で上京しクラブ歌手を経て71年に歌手デビューして以来「演歌の女王」として日本の歌謡界を牽引してきた日本を代表する演歌歌手八代亜紀が2012年に自らのルーツとなるジャズ・シンガーとしてのアルバムを制作し13年にはニューヨークのジャズクラブの名門「バードランド」でのライブを行い自身が敬愛し「ニューヨークの溜息」の異名を持つジャズシンガーヘレン・メリルとの共演を果たし同年には「第12回東京ジャズ」でジャズシンガーとして出演近年はJUN SKY WAKER(S)の寺岡呼人をプロデューサーに迎えブルースアルバムに挑戦するなど半世紀もの長いキャリアを持つ大物歌手ながら未だ進化を続け、「演歌ミーツJAZZ」なエポックメイキングな作品ながら自身の原点回帰作となる話題作となった元ピチカート・ファイヴの小西康陽をプロデューサーに迎え制作され大ヒットした2012年のジャズ・アルバム「夜のアルバム」の続編となるジャズレコード誕生から100周年の節目となった2017年に制作された「夜のつづき」から自身が敬愛するヘレン・メリルの代表曲でジャズのスタンダードとして日本でも馴染みの深いサラ・ボーンやエラ・フィッツジェラルド、アニタ・オデイなどのナンバーとしても知られるジャズ・ファンにはおなじみの コール・ポーター のヒットナンバーです■71年のデビューから始まった長いキャリアの中演歌歌手として常に第一線で活躍してきた八代亜紀が演歌の女王というイメージを一新するようなジャズアルバムを制作し世のジャズファンを驚かせ唸らせたのは記憶に新しいですがそれは唄を始めるきっかけとなりクラブ歌手時代のレパートリーとしても唄っていたジャズミュージックに立ち返るという実に半世紀をかけての邂逅となった演歌の女王八代亜紀の原点回帰となる会心の作品となる日本の歌謡史に於ける音楽的事件とも言えるリリースでもあるのでした■本曲は日本未公開の1942年のミュージカル映画映画「サムシング・トゥ・シャウト・アバウト」の主題歌で日本ではジャズボーカルの大家ヘレン・メリルが唄うジャズのスタンダード曲として知られる「アナタが待っている家に帰れたら嬉しいのに」という戦場で愛する女性を想う兵士の心情を唄った歌で昭和の大物タレント大橋巨泉が訳したと言われる『帰ってくれたら嬉しいわ』のタイトルでも知られる曲でもあるのですが稀代のマルチタレントが付けたタイトルに難色を示したのか「サッサと帰ってくれるとセイセイする」という真逆の意味にも取れる所に混乱を招いたからなのかジャズ・ファンの間では原題の方で広く知られる曲となっております■本曲での八代亜紀の歌唱は歌詞の内容に合わせて情感を込めるというよりは本家のヘレン・メリル同様に満面の笑みで語りかける様に歌い上げているのが印象的で、これは、唄に魂を込める分、身を切る様な思いで自分をさらけ出す という唄に全てを捧げるタイプのアーティストやお客様は神様と讃えて自分の芸を精魂込めて披露し宴席でおひねりを得るという日本のタレント歌手に良く見みられる営業スタンスとは 異なり父親譲りの、社会的に弱い立場に置かれている人達への眼差しに、まるで少女がそのまま大人になった様な飾らない明るい人柄と、十代で上京して世間の荒波に晒されても生意気な位に自分を持ち続ける事を忘れない持ち前の逞しさとクラブ時代に人々とのふれあいを通して学んで行った優しさと暖かさを感じる人との接し方 など歌詞にある様な境遇の人達を癒やして元気を出して貰いたいという常に代弁者で居たいという願いから自然と出てくる歌手八代亜紀の真骨頂とも言える歌唱スタイルである様に思われます■震えている人がいたら背中をさすりだからといって感極まる位に感情移入は禁物という人としてと表現者としてとのバランスをしっかりと持ちポップスやロック、ブルースや絵画に至るまで様々なジャンルに挑戦しながらどんなときでも自然体で決しておごらない唄う事の楽しさ、人生の素晴らしさを忘れずに演歌を唄っても、ジャズを唄ってもありのままの自分で居られるというそんな自然体な明るい人柄があったからこそ、長年演歌の女王として支持され続けた様に思われ松田聖子が芸能活動を続ける上でありのままで居られる為の環境作りに余念が無かったスタンスを通して見透かされた様に「ぶりっ子」と世間に称された磨かれて生まれる「自然体な造り」とは異なり八代亜紀には、唄にもタレント活動にも雨風を受けても健気に咲き続ける野に咲く花の様な強さに裏付けられた「自然な姿」の素晴らしさを感じさせるものがありその様な自然体なままの姿に人々がいつまでも惹きつけられ魅了される理由がある様に思うのでした。▲目次へ▲△▼ △▼ △▼中谷美紀 - 砂の果実 (1997)Miki Nakatani - The Other Side of Love収録アルバム『cure』こんなエルメス見たことない93年のデビュー以来数多くのドラマ映画に出演し99年には『ケイゾク』で初主演を果たし、以降『壬生義士伝』『電車男』『JIN-仁』など 様々な話題作に出演し2006年の『嫌われ松子の一生』では日本アカデミー最優秀女優賞を受賞するなど日本を代表する女優の一人として活躍する中谷美紀の女優デビュー以前に行っていた音楽活動を坂本龍一をプロデューサーに迎えて再開した時期に制作された楽曲からの話題となったヒットナンバーです■元々邦画、ドラマ界では主演俳優が歌を唄うのは慣例であり珍しい事では無く織田裕二、反町隆史、江口洋介、広末涼子、松たか子 をはじめ古くは高倉健、鶴田浩二、吉永小百合 などの大スター俳優は勿論の事ジャニーズ系、EXILE系、AKB系などのタレント俳優や加山雄三、小林旭、中村雅俊、薬師丸ひろ子 の様に歌手としても知られる俳優に加え吉岡秀隆、玉木宏、菅野美穂 の様に歌手を演じた延長線としてアーティスト活動を行なう俳優や『KISSして』KOH+こと柴咲コウ『恋しさと せつなさと 心強さと』篠原涼子の例の様にオリコンチャートを賑わせるアーティスト活動をしていた俳優も居るなど昔より数多くの俳優が音楽活動を行って来ました又その逆に吉川晃司、福山雅治、GACKT、今井美樹、中島美嘉、星野源の様な歌手が俳優を演るケースも多く現在大物と呼ばれる俳優の中にも浅野ゆう子、片平なぎさ、浅田美代子、風吹ジュン陣内孝則、ピエール瀧、白竜、石橋凌、高橋克典 などの歌手から転身した人物や世良公則、大友康平、小泉今日子などトップテンスターだった人物が俳優としてブレイクするなど共にエンターテインメントの世界で活躍するスター達が、別の舞台でもマルチな才能を発揮して来た事は昔も今も変わらず同じと言えます中谷美紀は『ひとつ屋根の下』で女優デビュー98年に大ヒット作『リング』の出演で話題となり99年の『ケイゾク』の主演でスターの仲間入りを果たした後は現在まで数々の話題作ヒット作に出演をし邦画、ドラマ界に多大なる貢献をしてきた日本を代表する女優の一人として知られる人物ですが元々は菅野美穂も在籍していた「桜っ子クラブさくら組」のメンバーの一人としてアイドル歌手としてデビューしてキャリアをスタートした人物でもあり96年に坂本龍一プロデュースで音楽活動を再開し「中谷美紀 with 坂本龍一」名義でリリースし初のオリコントップテンにチャートインした本曲の他99年の『ケイゾク』でも主題歌を担当し音楽活動も行う俳優の一人としても知られる人物でもあります■本曲は元々97年『ストーカー逃げ切れぬ愛』の主題歌で坂本龍一の実の娘坂本美雨が唄う『The Other Side of Love』に日本語の歌詞を付け中谷美紀が音楽活動を再開した直後の97年にリリースした大ヒット曲で歌謡曲には異色となるワードを多用したカフカやコクトーに代表される欧州的な ある種のデカダンス性を感じる自虐的世界観で描かれた内容の歌詞を坂本龍一らしい欧州ロマンを感じさせる内省的な音世界で纏められたドラマティックなポップナンバーです本曲の非常にインパクトを感じる特徴的な作風は多くは作詞家 売野雅勇が坂本の指示から閃きを感じて書いたと言われる秀逸な歌詞によるものが大きいですが脱歌謡を目指したJ-POPが定着した97年当時にTV出演時には、不思議な色で染めたショートヘアに黒装束というマニッシュな出で立ちでまるでミュージカルの演目を演じる女優が歌詞を台詞の様に歌い上げる様なパフォーマンスで楽曲の持つ独特の世界を再現し話題となり歌唱力のある歌手の持つものとは違った表現を目指した様な純文学から派生した歌詞をピアノメインのシンプルなアレンジで奏でて、J-POPの括りとは異なる「ネオ歌謡曲」とも言うべきサウンドの仕上がりを目指した所に本曲のひとつの狙いがあった様な印象がありこれは、ミュージカル俳優の様な卓越した歌唱力とは違った演劇の世界で培われた、女優らしい印象に残る素直で真っ直ぐな声を持ち歌手の持つものとは違った表現力を持っていた中谷美紀が映画音楽家としての成功で既に世界的名声を獲得し次のステージを模索していた当時の坂本龍一の目にとまり表現者でもある中谷の提案を坂本が受け入れて作品作りにも大きく反映させた所に本曲が日本の純文学ベースの邦楽でありながら欧州浪漫を感じJ-POPとも歌謡曲とも違う独特の雰囲気を持った楽曲となった様に感じるのでした。▲目次へ▲△▼ △▼ △▼放課後ティータイム - 私の恋はホッチキス (2009)Tea time after school - My love is like a stapler収録アルバム『放課後ティータイム』こんなオリコン1位見たことない『涼宮ハルヒの憂鬱』『CLANNAD』で知られる京都アニメーション制作の女子高校の軽音部を舞台に部員達の学園生活をほのぼのとしたタッチで描いた大ヒットアニメ『けいおん!』から劇中のバンド名「放課後ティータイム」名義で劇中で使用される歌曲を収録してリリースされオリコンチャート1位という快挙を成し遂げた大ヒットアルバムからのジャパニメーションならではの軽快な劇中ナンバーです■本曲は主人公達4人からなる軽音部で組まれたバンド「放課後ティータイム」名義で劇中の登場人物を演じる声優ユニットによって唄われるアルバムからの劇中歌で登場人物たちが演奏し唄うという設定でリリースされた企画曲でもあります本曲の実際の演奏はプロのミュージシャンによるもので実際の高校生が軽音部で演奏されるレベルを遥かに超える非常にクオリティーの高いテイクにはなっていますがこれは、高校生レベルのリアルな演奏に現れる拙さに気を取られて本編の唄に集中出来なくなる事を避ける、劇伴制作上の措置ではあってもドラムのフィルインがロックレジェンドのコージー・パウエル や キース・ムーン を思わせる点やギターが ヴァン・ヘイレン や ジミ・ヘンドリックス を思わせるラウドでロック色の強い演奏をしていたり全体の演奏がいわゆる「横揺れ」を感じさせるルーズなグルーブ感などドラマ内で言及される各キャラクターの音楽性や性格を意識した音楽制作者のこだわりが感じられる演奏になっておりある種のコンセプトアルバムを制作する作りの楽曲になった所に一つの特徴のある通常制作される劇中歌のサウンドトラック盤とは性質の異なる作品集になっている所にバンドを経験した事のある耳の肥えた音楽リスナーも納得するアニソンと呼ばれる理由となった様に思われこの辺りに本アルバムがオリコンチャートインする程の話題作となった一つの理由がある様に思われましたその一方で、名立たる音楽番組でもアニメの楽曲が紹介される様になり番組内でチャートインが告げられる様になっても次々と人気のアーティストのランクインに湧いていたスタジオ観覧者が聞いた事の無い漫画のCDのタイトルに興味のないスパムまがいのメルマガでも眺める様な目をしながらあからさまなまでに無反応を示して来た歌番組での一幕を幾度となく目撃しCD不況と同時に求心力を無くしつつあるJ-POPが歌謡曲とは異なるムーブメントで誕生し邦楽の中でも独自のマーケットを展開してきた事で歌謡曲の復活の兆しが見える現在の邦楽界の風潮に合わず歌謡曲とは個別化してきた事が仇となっているのと同様に今や数兆円規模となった現在のアニソン界が独自の客層を持ち独自のビジネスを展開しながらも一般ユーザーの目から見れば異質の世界という印象は拭えず他の音楽ジャンル、ムーブメントと共有できない程に個別化しそもそもの発生元となる歌謡曲の名のもとに統合出来ずにいるガラパゴス的発展を遂げる邦楽の実態を見る様で興味深いものがあります。△▼ △▼ △▼▲目次へ▲- 音楽コラム編 ------------------------------------------------------------------------------------『歌謡曲からJ-POPへの流れに見る邦楽の多様性』-----------------------------------------------------------------------------------タワーレコード 渋谷店 (画像参照: wikimedia)■ライブイベントの盛況による音楽単体販売の不振■これまで音楽市場の中心となっていたCD音楽アルバム販売は近年売上を最盛期の半分以下へと激減させその一方で有料ダウンロードによるデータ販売市場は順調に売上を伸ばして今や音楽市場の主流へと取って代わるまでになりましたこれは、世の中が音楽を物品として所有せず、音楽データのみの所有を求める傾向へと変化し近年 音楽の愉しみ方も「音楽」そのものでは無く実際にアーティストが眼の前で演奏する「ライブステージ」に求める傾向へと変わり業界にとってもリスナーにとっても世界の音楽市場は大きく様変わりした事を意味する現れと思われるものがありますが当初日本の音楽業界は世の中が世界的にもその様な流れにある事を察知しようとしなかったのか音楽アルバムの販売の落ち込みをネットに於ける違法ダウンロードによる弊害であると断定しこれまで通りの利回りの高いCDパッケージ販売にこだわり続けた事で結果として欧米に比べてデータ販売への環境整備を遅らせる事となり一時日本の音楽市場を混乱させた事がありましたこれは単に販売形態がCDメディアからデータ販売へと移行する中での日本の音楽事情ならではの混沌という理由だけでは語れない山下達郎程のトップミュージシャンにして「音楽の持つ力が弱くなった」と言わしめる程のレコード時代から音楽に関わって来た者と新世紀のネット世代との音楽環境の激変による業界と消費者との間に生じた価値観の偏差が顕著となった事に対しての自然な流れの中での感覚のズレの最たる現れでもあった様に感じられるものがありました一方、80年代に世界が平和の元に音楽によって一つになる事を訴えブームタウン・ラッツ の ボブ・ゲルドフ と共に巨大チャリティーイベント「LIVE AIDE」を実現させたウルトラボックス の ミッジ・ユーロ は かつて音楽が人の心や考えを左右させ、変えて、従わせてしまう様な「音楽そのものに力があってはならない」と発言し音楽とは人の心の支えや、人の心の依り何処となったり人に希望や元気を与え、人の行動を支えるあくまで人の力になるものであるべきと提唱した事がありその事から捉えてみますと現代の世の中に於いて音楽に力が無くなったと言わしめるものは音楽そのものに力が無くなった事を指すと言うよりも多くの人が音楽を聴く力が無くなっている事を指している様な印象がありますこれは、全てのジャンルに於いて新たな人物が現れる度新たな音楽が生まれてきた旧世紀の音楽界に対し全てに於いて先人達による「手本」となるべき音が既にある様なモノが溢れ過ぎた中で新規開拓する意義を音楽に見出す事が困難という中で話題になるネタを音楽の要素にした様なほぼ一発芸に近い一発屋の様な音楽が乱立されてきた実態がある一方で音楽リスナーの新しさを求める傾向が、エンタテイメント性のある音楽への興味へと移行する流れを生み巨大ライブ・フェスの様なイベント環境の中で音楽を愉しむ事が主流になって行く風潮を呼びその様な愉しみ方をする人々の中で音楽というものが、ライブやイベントなどの事象の中の構成の一要素に過ぎないという認識に変わっている様な印象が強く良く言われる様に「現代の消費者は付随する何かがないと購買意欲が沸かなくなっている」といった「CDに付く特典」を目当てにしている様な類の事とは違い万年不況と言われる現代の世の中に於いて質素な暮らしを望む傾向が強くなり写真に電話にネットに動画に音楽といった嗜好のものにもそれぞれ単体で所有する「手間」と「散財」を嫌いスマホの様に全てが兼ね備えられて手軽でお得に一つになったアイテムという様な「多彩」で「シンプル」なものにしか消費の主旨が向かない風潮の中で音楽を取り巻く状況も激変しリスナーが音楽に多様性を求める傾向が強くなった事により音楽が単体で成り立たなくなった事が音楽に求心力を失わせた大きな理由の様な印象がありそれによって多くの若者が音楽そのものへの興味を持たなくなり音楽の聴き方が分からなくなくなっている事が大きな理由なのではないかと思えるものがありました加えて近年、映画ドラマ、アニメーションにおいての音楽の扱いが映像ソフトの特典扱いになる程、著しく低くなった事から考えて見ても過去、唄の無い演奏主体の音楽が売れなかった時代、その様な音楽は殆ど映画、ドラマを中心に使用されレコード化もされず、その様な劇中使用音楽「BGM」は「劇伴」と呼ばれて、制作作業が一番最後の後回しにされていたという昭和の時代の映画ドラマテレビ漫画制作現場の状況へ逆行したと言っても過言ではない様に思える程音楽の持つ価値観が大きく変化したと言わざる負えない状況になっているという印象があります△▼ △▼ △▼▲目次へ▲■時流の流れを受け入れる欧米の潔さ■アメリカ・ワシントンD.C.にある店内のショーケースに陳列されたドーナツ(画像参照: wikimedia) 欧米の音楽業界は早い段階でCDアルバム販売に見切りを付けダウンロード販売に移行した事はよく知られていますがこれはCDの様な石油製品を排出しないECOの見地からの取り組みからの様に良く言われて来ました実態は、日本の様にCDや本の販売に「再販売価格維持」の取り組みを行っていない欧米でCD販売がディスカウントショップの台頭によって大きな価格割れを起こして大手CDショップが閉店に追い込まれるなどの過去音楽業界が大打撃を受けて来た事に対しての対抗処置として音楽の流通販売を止め、データー販売で固定価格化する事による価格割れ防止処置としての移行だった事が大きな理由と思われるものがありその後も、いち早くライブイベント興行を業界の主流に持って行けたのも常に物事に拘りの無い現実的視点で捉える欧米ならではのフットワークの軽さを感じる取り組みだったと思えるものがあります近年ハリウッドでもこれらの多様性を求める世の流れに呼応した様に当たらないという定説からこれまで敬遠されてきた「ミュージカル映画」が大規模に制作される様になり『ラ・ラ・ランド』『グレイテスト・ショーマン』などの話題作が大ヒットしてますがこれはハリウッドエンタテイメント映画が『アナと雪の女王』の様な大ヒットディズニー作品の作りを倣って『美女と野獣』『イントゥ・ザ・ウッズ』などの実写ミュージカル映画を制作する流れの一環でミュージカル映画というよりはどちらかと言うとエンタテイメント映画に唄と踊りの要素を加えるという創りの、日本でも大ヒットした『ムトゥ 踊るマハラジャ』の様なあたかもハリウッドがインド映画を目指した様なある意味潔い程の形振り構わぬ形で時流の変化を受け入れるという、常に一歩も二歩も遅れを取り続けいよいよ駄目になりかけてから重い腰を上げる様な慣れ親しんだ環境から抜け出せない日本の取り組みとは違った常に生き残りをかけた真剣勝負の取り組みが行われてきた現実主義の現れという印象がある様にも思われるものがあります。△▼ △▼ △▼▲目次へ▲■J-POPとCD販売激減との関係性■J-WAVEけやき坂スタジオ (画像参照: wikimedia)さて、歌謡曲やニューミュージックなどのジャンルとは異なるムーブメントして80年代の終りに登場し90年代中期に定着した日本のポップスを目指す「J-POP」が登場し早四半世紀以上が経とうとしていますこの、日本の伝統音楽の一つと言えるまでになった「J-POP」が近年の「歌謡曲復活」の兆しの前に陰りを見せ始めた様な印象を受けるものがありました。元々日本の多くの音楽は欧米の模倣から入ったという経緯から小田和正が在籍した「オフコース」の場合は「日本のカーペンターズ」財津和夫が在籍した「チューリップ」の場合「日本のビートルズ」森山良子の場合は「日本のジョーン・バエズ」といった本場の音楽を手本に本場と遜色なく聴こえる音楽を目指す上で常に「日本の〇〇」という言葉で括られて来たという歴史がありともすれば欧米の音楽をマネるだけで成り立つ様な時代が長い間続きました80年代に入ると ゴダイゴ、矢沢永吉の様に世界展開を念頭に置いて活動をするアーティストや後に世界展開を目指したオフコースなど当時様々なミュージシャンが世界を目指した時期がありましたがこれは先程の「ライブ・エイド」開催のきっかけとなる世界的なチャリティー・ブームが呼び水となり人種を越えて世界が平和の元に音楽で一つに繋がる事を目指す風潮が世界的に拡がった事で日本人ミュージシャンが世界へ出ていく機運が高まった事が、ひとつと当時の日本経済がプラザ合意以前の世界展開で大躍進した事を受けて音楽業界でも世界展開に向けて躍進する様を国内向けにアピールする一環となった事などが理由となった様な印象があります又、ヤマハ音楽振興会が日本の歌謡曲の世界的な地位向上と発展を目指した音楽コンテスト「世界歌謡祭」を主催するなど80年代の終わりまで日本の音楽界は音楽界全体の発展の為様々な取り組みを行ってきましたが当時の日本の音楽の知名度が欧米では殆ど無かった事や海外のミュージシャンを起用したり世界へ挑戦する事自体を世界展開と捉えて事の成否よりもそれらをひとつのステイタスとして重視していた風潮の方が大きかった事などから日本の歌謡曲が世界に進出しても、その殆どが海外で通用する事は無く日本の音楽界が改めて世界の壁の高さを思い知らされる時代でもありましたこの様な経緯もあって、88年に開設されたFMラジオ局「J-WAVE」が提案し歌謡曲、やフォーク、演歌、その後派生したニューミュージックなどのコレまでの日本の音楽のスタイルを廃した全く新しい日本の音楽カテゴリーとして日本のポップスを目指し誕生したとされる「J-POP」が日本のミュージシャン、音楽関係者、リスナーの間でムーブメントとして拡がって行く事となる土壌が出来上がっていった様に思われるものがありました。このJ-POPがその後90年代初頭の僅か2~3年の期間でこれまでの歌謡曲に取って代わり日本の音楽のメインストリームとして定着する様になるのですが日本経済が大躍進し空前のバブル経済へと導き世界に出ること無く国際規模の需要と供給を実現させた「内需拡大路線」を当時の日本の音楽界が倣って、国内でポップスを制作する「音楽の内需拡大路線」を目指した所に当時の風潮が合致した所に大きな背景があったように思われますつまり『J-POP』とは当時の日本の音楽界を指すメインストリームそのものの総称であり「歌謡曲」「フォーク」の様なジャンルの呼称では無い事が分かります『J-POP』はWikipediaの解説によりますと・・・「歌謡曲」や「フォーク」「ニューミュージック」などのジャンルを殺し、「J-POP歌謡」「J-POPフォーク」の様に成り代わったもので日本の音楽の新たなカテゴリーの総称となるもの(Wikipedia J-POPより抜粋と意訳)・・・との事ですがJ-POPが定着した後に「演歌」の事を「歌謡曲」として捉える風潮があったのは「歌謡曲」の特徴が「歌番組の出演」を一つのステイタスとするテレビ時代の音楽を意味する所に理由があった様に思われTUBE、ZARD、相川七瀬、DEEN、B.B.クイーンズなどの「織田哲郎ファミリー(※ビーイングブームとも言う)」hitomi、trf、華原朋美、安室奈美恵、globe、などの「小室ファミリー」などと呼ばれる自社系アーティストのみを使ってドラマ、番組、映画、などの様々な系列の音楽を担当し独占する戦略を立ててテレビの露出に関係なくCDセールスに繋げていたJ-POPとの大きな違いでありそれは「歌謡曲」と呼ばれた昭和の時代から続いてきたテレビ番組の出演がチャートインに繋がるというテレビ時代を背景としたビジネスケースとしての日本の音楽の一つの形態がJ-POPの台頭によって消滅した事を意味するものでもある様に思われるものがありました■所で、このJ-POPというカテゴリーがCD不況になる事を堺に下火となりそれに伴ってかつての歌謡曲を思わせる曲調の楽曲が再評価されたりJ-POPのカテゴリーである筈の新人アーティストが井上陽水や吉田拓郎そのままの切り口の様な70年代フォークを思わせる造りの楽曲をヒットさせ又、J-POPの枠組から外れた楽曲を制作する多くのアーティストの登場によりJ-ROCK、J-RAP、J-SOULなどの派生語が登場し 錯綜するなど90年代に発祥されたJ-POPの定義が近年大きくゆらいでいる印象があります。これは先程解説した歌謡曲、ニューミュージックのレコードセールスがTVの普及に呼応したものであった様にJ-POPの誕生が、誰もがセレブに憧れた90年代のバブル経済を投影しハイエンド志向の現れでもあったノイズレス高音質サウンドが瞬く間にアナログレコードと取って代わり高音質サウンドに相応しい洋楽志向のJ-POPの楽曲へのニーズに応えたCDの普及に呼応したものであり、バブルでセレブな大人の恋を提唱するアダルト・コンテンポラリーや自分探しの自己啓発を促す、世の価値観を問うアジテイト・ソングなど大量消費時代を象徴させる楽曲で占められたカテゴリーとして90代邦楽のメインストリームとなった経緯から、現在のシンプルで質素な暮らしを望む若者のライフスタイルとはかけ離れたものとなり、近年支持を得られなくなったと思われJ-POPの牙城を切り崩してでも現代の若者の支持を得る為のJ-POPを糧としたカテゴリーの分散化を始めた現れと捉える事が出来ますしかし元々J-POPが日本国内販売を念頭に置いた「洋楽志向」「本物志向」と呼ばれるある意味「洋楽の亜流」とも言える性質のもので占められていた事と、ライブで演奏する事は一切考慮せずに新しい音を模索するスタジオ内で構築される事をデフォルトとした「サウンド志向」と呼ばれる 別名「一発屋」の様な性質のものであった事により2000年辺りから派生した、楽器を使わずにデジタル音源を使ってコンピューターで打ち込みPC内のみで帰結するDTM系音楽をもって限界点を極めた後はバブルが弾ける様にライブ感の無い 造り物の音楽は求心力を失い加えてCD物品販売からデジタル音源ダウンロード販売へと移行する世の中の動きと同時にライブイベントが音楽リスナーにとっての主流となった現在の音楽界に於いてJ-POPがメインストリームの枠組みから外れ通用しなくなった事で既に過去のものとなった事が錯綜し求心力を失う事となった原因ではないかという印象があります△▼ △▼ △▼▲目次へ▲■「J-POPがJ-POP自身を殺した」という仮説■Utada Hikaru (画像参照:wikimedia)・・・ここからの解説はブログ主の若干妄想の入った辛口な偏った見解が多分に加わるので日本の音楽界全体の性質を詳細なリサーチの元に看破した類のものとは全く性質が異なる仮説となる事をまずはご理解いただきたく・・・と言うわけで先程のWikipediaの解説にあった様な「J-POPが歌謡曲を殺したと」いう90年代音楽ジャーナリストの見解は90年代の状況とは大きく変わった現在に於いては既に過去の見立てのものとなりJ-POPが単にバブル時代に歌謡曲の代わりに主流になった音楽というよりは日本経済が大躍進を遂げた様に感じさせたバブル経済の様に日本の音楽リスナーを洋楽通に感じさせるバブル音楽というのがJ-POPの実態だった という印象があった事から近年音楽の顧客として新たに加わった「ミレニアム生まれの若者達」がいち早くその事に気付いた後遅れて世間がその事にようやく気付き始めてJ-POPが下火になり始めたという印象がありますつまり、J-POPの側から捉えた90年代音楽ジャーナリストの言葉にある様に「従来のジャンルを取り込みハイエンド志向に再構築した」というJ-POPの音楽が「J-POP系歌謡曲」の様に呼ばれるほどには「歌謡曲」を含んだカテゴリーなどではなく日本の歌謡曲が世界を目指した時期を通して欧米の音楽の様な本物を目差した「本物志向」のカテゴリーとして生まれた経緯がある事から逆に言えば「本物ではないもの」が「J-POP」のベースに常にあった事になり常識的に考えれば純粋に日本の流行歌から派生した「本物」の日本の音楽の「歌謡曲」が洋楽の亜流に取り込まれるのは考えにくく実は「歌謡曲」の方が「J-POP」を内包していたのではないかという真の事実が見えて来ます更には、世界を目指しながらも「本物になれ無なかった」過去の邦楽のシンガーソングライター達が辛酸を舐め続けてきた黒歴史をバブリーな逆転の発想で「本物志向」という言葉で総括して「洋楽志向」という風潮へと転換して世界へ向かうイメージを国内へ向かわせる事で帰結させ内需拡大路線を音楽に適応させた当時の音楽業界の智謀に乗った形で派生した経緯から「本物」では無くあくまで「本物志向」を柱とする日本国内のみでしか通用しない「亜流」なものというJ-POPの真の正体が浮かび上がって来るのが分かりますこれは、昭和の激動の時代を象徴させながら全ての日本人の琴線に触れる様な音楽的に幅も深みもあった「歌謡曲」というジャンルが平成の日本の大躍進でバブル経済を引き起こし誰もが頂点に立ち世界を制した様な気分に酔いしれた錯覚の中でJ-WAVEが提唱しバブルの象徴とも言うべき「J-POP」誕生の為にある種高揚感で麻痺した感覚で細かくバラバラに解体され使えるものと使えないものに細かく仕分けされた後洋楽志向なハイエンドサウンドに再構築された様な言わば砂上の楼閣の様な造りとなったJ-POPに歌謡曲が取って代わられたと捉えると過去良く言われた様に「J-POPに歌謡曲が(バラバラにされ)殺された」というあくまでJ-POP側から見た見解では無く音楽界全体から捉えてみれば単にリスナーが「J-POPによって歌謡曲が見えなくなった」だけなのであり近年、歌謡曲復活の兆しありとの意見が聞かれるのも一方の消滅によって隠れていたものが見えて来ただけの事と捉えるのが正しい様な印象があります■■近年、音楽が求心力を失い音楽の力が無くなって来たと言われている状況とはあくまで音楽業界視点で語られるCD物品販売不振と先程のJ-POP人気の陰りに起因した音楽単体販売の落ち込みを意味するものでありライブイベントなどを含む音楽ビジネス全般の話を指している訳では無く、この辺りはあの山下達郎をして常に音楽中心業界ベースで語られてしまう情報の齟齬を感じるものとして最たるものがある様に思うものがあります。例えば「ロック」というジャンル一つ取ってみても近年CD不況と共に日本のロック系のアルバムが売れ行きを落としたと聞きますがロックが元々特定のリスナーが聴くマニアックなジャンルだった事やむしろ現代の若者が聴く音楽ジャンルですら無くなっているという「ジャズ」「ブルース」の様な括りという意見もある事からもこれは、ロックがロックファン以外に売れなかった平成以前の状態に戻っただけで極めて当たり前な事なのではないかと思えるものも ありますつまり近年の音楽の不振とはネットの普及に伴ってCD不況なるものが起こって違法ダウンロードによってそれに拍車が掛かった為の状況などでは無く、これまで邦楽の中心となって作られてきたセレブでバブルなハイエンド志向の反映という経緯で誕生したJ-POPが新世紀に入り多様性が求められる時代に入ったと同時に求心力を失い実直で質素な暮らしを好む現在の若者達の琴線に届かなくなった為それを考慮せずあくまで利回りの高いCD物品販売のロジックに固執した時代に合わないJ-POPベースで創られた数多くの邦楽のCDが販売数を激減させた結果なのではないか と言う理由ともう一つは・・・造詣の深い音楽ファンであればともかくとして山下達郎レベルの高いアーティスト目線で創られて非常にクオリティーの高い楽曲の中に込められた普通の耳で聴いただけではその良さが分からない程の「音楽の力」「音楽の良さ」なるものを音楽を知らない一般人ユーザーに理解しろと言われてもそれは無理な話でありつまりそれ位 バブル時代のJ-POP世代の一般ユーザーが音楽に精通しいわゆる「耳が良かった」のであってそうでは無くなった現代のユーザーの場合は平成以前の「普通の状態」に戻っただけの事であり単に業界全体が現在欧米諸国のエンターテインメント映画、音楽作品がなぜに「稚拙」さを感じる程に分かりやすい出来になっているのかを考慮もせずバブル時代の一般人ユーザーがハイエンド志向で音楽にも精通し耳が良かった事を 今だに忘れない でいて現代のユーザーも同じだと思い込み、ハイエンド志向満載なクオリティーの高い楽曲を輩出し続け余りにも現代人の音楽嗜好を過大評価している事を忘れている為なのでは と思うものがあるのでした。・・・ちなみに、これらとは異なった市場で現在も物品販売を伸ばし今や数兆円規模にまで成長した「アニソン市場」があるのですがコチラの話は、又の機会にでも・・・■思うに、「買いたくないものは欲しくないものはタダでも要らない」という消費者のごく単純な心情を汲めずテレビ局大手フジテレビはJ-POPが流行っていた時代そのままのバブルな番組を輩出し続け視聴率低迷にあえぎ電気メーカー大手東芝はバブルの発想で必要な事業と切り捨てる事業を見誤り経営危機に陥り旧体質な角界は相次ぐ不祥事に揺れ旧体質から逃れられない野球界はジャイアンツが遂にBクラスに落ち入り とどの世界でも同じタイミングで不振不祥事が起こるのも新世紀に入り多様性が求められる時代になっても未だ旧世紀な旧体質を続け現代人の感覚や志向を見誤った事への同時多発的に現れた結果なのであって音楽業界に至っては行政を動かし無許可なアップロードを違法化する見当違いなフットワークの良さを見せながら物品販売に固執し時代の潮流を見誤るのはJ-POPというカテゴリーの衰退 そのものの姿を見る思いがし故に、J-POPがよりJ-POPであればあるほど己を殺して行く事になり延いてはそれが、日本の音楽が歌謡曲へ帰結する動きの一環を示唆するものなのかもしれません。とかくこの世は「目」が曇りがちになるものでありこと「耳」に至っては、言うまでもないというお話なのでしょう☆という所で今回は終了ですそれでは本日も 素敵な一日をお過ごし下さい。-----------------------------------------------------------------------------------【CD】ゴールデン☆ベスト 山口百恵コンプリート・シングルコレクション(初回限定2CD)価格:3352円(税込、送料無料) (2023/2/16時点)【CD】SEIKO STORY~80's HITS COLLECTION~(2CD) [ 松田聖子 ]価格:3666円(税込、送料無料) (2023/2/16時点)【中古CD】 9 1/2(NINE HALF)/河合奈保子価格:2178円(税込、送料別) (2023/2/16時点)【CD】Miss M (リマスタリング盤) [ 竹内まりや ]価格:1799円(税込、送料無料) (2023/2/16時点)【CD】夜のつづき [ 八代亜紀 ]価格:3300円(税込、送料無料) (2023/2/16時点)【CD】cure [ 中谷美紀 ]価格:2883円(税込、送料無料) (2023/2/16時点)【中古CD】「けいおん!」劇中歌アルバム 放課後ティータイム価格:890円(税込、送料別) (2023/2/16時点)【CD】黙示録 [ アース・ウインド&ファイアー ]価格:1100円(税込、送料無料) (2023/2/16時点)【書籍】蒼い時 (集英社文庫) [ 山口百惠 ]価格:462円(税込、送料無料) (2023/2/16時点)【電子書籍】 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2018年05月01日
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邦楽特集 第5回変わった 音楽 をどうぞ・・・ 80年代を中心に、子供の頃、若かりし頃、耳にして来た音楽をご紹介するシリーズ。巷では 我が 東北楽天ゴールデンイーグルスが10月21日 Kスタ宮城で行われたパ・リーグCSファイナルステージ第4戦を楽天8―5ロッテ でロッテを下し、日本シリーズ進出を果たし楽天サイトは お祭りムード一杯となっておりますが今回は、変わった音楽 と題しまして(爆)唯一無二の作風が話題となった 日本の曲をご紹介致します古今、何かの節目に 一風変わった曲がチャートを賑わせる事がありますが主に 脱力系や 退廃的な雰囲気を持っている所に 共通点がある様です多くは 社会不和や経済不振が原因になっていると思われますがアーティストにとっては、そんなネガティブ要素も 素材の一つとして名曲を誕生させる刺激となるのでしょうという訳で そんな音楽をあなたは何曲ご存知でしょうか それではスタート!△▼ △▼ △▼沢田研二 - 6番目のユ・ウ・ウ・ツ (1982)収録アルバム『沢田研二 A面コレクション』■ジュリーこと 沢田研二の 最も脂が乗っていた頃の大ヒット曲です昭和の名司会者 高橋圭三(※多分) のイントロが時代を感じさせますがwそんな時代に 歌謡曲とJ-Pop の分水嶺に居たのが 沢田研二だった様に思います高田みづえ『硝子坂』 の作者とは思えないシュールな作風の曲をベース 渡辺健、 ドラム上原祐 他 最高のスタジオミュージシャンを従えて当時欧州で流行していた ニュー・ロマンティック なアレンジの楽曲に乗せて幾分 演劇的でファッショナブルな趣向を交えてのパフォーマンスを繰り広げるのは大スター ジュリーの 正に独壇場でした長髪の今風の若者を地で行く ヒョウヒョウとした面とユニークさを合わせ持つ人物でしたが初の ジュリー作曲のシングル 『渚のラブレター』 では音楽界の御大 宮川泰 から 「曲がイマイチ」 との評価を受けたことに対して「売れたら勝ち」 と大家に対して シニカル さで 切り返す骨のある一面を持った人物でもありましたもはやこの様な人物は、今のお行儀の良くなった歌謡界には見られなくなり寂しさを感じると共に 日本の歌謡界の行く末を案じずにはいられないユ・ウ・ウ・ツ な 今日このごろでしたw△▼ △▼ △▼井上陽水 - 夢寝見 (1990)収録アルバム『ハンサムボーイ』■『少年時代』 でのジュブナイル路線が 揚水独特の艶のある美声にマッチして新境地を向かえ大ヒットした 井上陽水 のアルバムからの 一曲です88年には 「皆さんお元気ですか」 が流行語にもなった日産セフィーロ の 90年のCM曲としても使用されました本曲の作曲の経緯についてタモリ が司会する 『ミュージックステーション』 出演の際「コードが一つしか無い曲を作りたかった」 と語る揚水に対してタモリは「この男とコードとか音楽用語の話をしたのは初めてだ」 と返しその場を沸かせた事を よく覚えておりますw△▼ △▼ △▼奥田民生 - マシマロ (2000)収録アルバム『GOLDBLEND』■先程のジュリーが 歌謡曲とJ-Pop の分水嶺に居たとしたならJ-Pop の立役者になったのは 間違いなく この奥田民生でしょう最初に 「マシマロ」 というタイトルを考えてから初めに演奏ありきで作曲をした為に、途中で歌詞が破綻してタイトルとは全く関係ない曲になったとの事でコーダに マシマロはタイトルとは関係無い という意向の前代未聞の歌詞を挿入し結果その自然体の作風がウケて、大ヒットを飛ばしたという経緯の有る曲です脱力系であるとともに 力強いロック系の曲を作る日本の音楽界では 唯一無二の 作家性を持つアーティストと言えると思います△▼ △▼ △▼Mr.Children - 優しい歌 (2001)収録アルバム『It's a wonderful world』■J-Popの もう一人の立役者として活躍したミスチルの 10年の節目に作曲されたヒット曲ですそれまで自己啓発系ソングを独特の語り口の歌詞に乗せて発表してきたミスチルがベスト盤発表後のタイミングで 音楽性を大きく変える為の 宣言とも言える この様な 不安定な印象のアレンジ曲を シングルに採用したのは当時は興味深い出来事に思いました洋楽16回 で紹介した ポール・マッカトニー『ソー・バッド』 の時と同様にある種の優しさの様な デリケートさを表現する場合一度崩してみるという精神からこの曲を捉えてみるとこの曲のなんとも言い様のない 音痴 さの表現は優しいだけ の裏側にある 駄目 さを表している様にも取れこの曲を普通にボイシングされたコードのアレンジで演奏する様な 硬さ に対してそれを 不協和音 を使い 崩して 柔らかくする事で 優しい を表現した歌謡曲史上 歴史に残る ユニークな作品と言えると思います△▼ △▼ △▼ORIGINAL LOVE - STARS (1999)オリジナル・ラブ - スターズ収録アルバム『ベストアルバム / 変身』■田島貴男 率いるオリジナル・ラブの鈴木光司の大ベストセラー『リング』のテレビドラマ版『リング最終章』 主題歌です楽曲は 原作小説のイメージに則った 退廃さが現れてタイトルの 『STARS』 も その年話題となったしし座流星群 からインスパイアされたこれまでのオリジナル・ラブ の アダルト・ポップ路線 とは大きく異なる世紀末 を思わせる 壮大な作品に仕上がっております『接吻』『朝日の当たる道』 などのホワイト・ソウル系でブレイクしたバンドではありますがこれについて 小沢健二(※確か) は 田島との対談で「田島さんはアルバムに必ず変な曲を入れる」 と語っており山下達郎 と同様に、スーツ姿でギターを弾く 正統派ミュージシャンとして名の通った人物の底知れぬ偏狭な作家性を持つ側面を看破した 言葉として興味深く感じた事を 覚えております△▼ △▼ △▼と言う所で終了です。それではみなさん、ごきげんよう!
2013年10月23日
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Ryuichi Sakamoto(画像参照: wikimedia)- 邦楽特集 SPECIAL -春真っ盛り。「坂本龍一の音楽2」をどうぞ・・・夏の様な陽気の中いかがお過ごしでしょうかさて70年~90年代を中心に、子供の頃、若かりし頃、耳にして来た音楽をご紹介する音楽特集 『~どうぞ』 シリーズ 今回もSPです爽やかな青空の元 真紅に染め上げた薔薇も鮮やかに硬質で耽美な坂本龍一の音楽がよく似合う季節となりました(※私情)今回も 今や世界のマエストロとなった坂本龍一の曲 にスポットを当てて ご紹介致しますそれではスタート!△▼△▼△▼YMO - 体操 (1981)収録アルバム『YMO - テクノデリック』■イエロー・マジック・オーケストラ 4枚目のアルバムからテクノミュージックとは異なるアプローチで制作された新たな切り口でサンプリングを使用した作品として 評判でしたがこの曲を録音した時には まだサンプリングマシンが無かったので繰り返しの部分は テープを繋いで ループしたものを使用したとの事です同じパターンを繰り返す ジョン・ケージ のミニマル・ミュージック を意識した造りですが細野晴臣は 『挑戦して YMO中 唯一発展し損ねた』とコメントしております△▼△▼△▼アニメーション映画 『オネアミスの翼』~メインテーマ~ (1987)収録アルバム『坂本龍一 - オネアミスの翼』 ■『新世紀エヴァンゲリオン』 で有名なアニメ制作会社GAINAX が87年に制作した アニメーション映画の主題曲です『戦場のメリークリスマス』 以降のオファーで坂本龍一 が劇伴を担当した 唯一のアニメーション作品です本作の音楽では 坂本は全体の音楽監督として参加し基本テーマを幾つか作ったものを上野耕路、野見祐二、窪田晴男 各氏に再アレンジさせBGM制作を進めました当時 『アニメーション』 は充分認知されていましたが参加した作曲家3名は 単なる漫画のBGMに過ぎないと 軽んじていたらしく坂本の制作した主題を聴いた時は 焦って本気になったと 語っておりました△▼△▼△▼坂本龍一 - 1919 (1996)収録アルバム『1996』■本作は 坂本龍一 の作品を ピアノ、ヴァイオリン、チェロによるトリオ編成で 再録音したアルバムの中からの 唯一の新曲ですタイトルの 『1919』 とは、曲のバックで流れる 『スピーチ』 を旧ソ連の政治家 ウラジーミル・イリイチ・レーニン が行った年として付けられたものですレーニンの肉声を使った事は 坂本的には 『ラップ』 だそうですが常日頃 左派な政治的発言が多い事からも、坂本龍一らしいアイデアと言えます左派的行動については学生時代、生前の日本の音楽の巨匠 武満徹 を批判するビラを撒いた事件は有名で何でも、『権力の象徴を弾劾した』 かったらしく逆に 武満徹 の興味を引き 知り合う事に繋がったとコメントしておりましたが本作に関しては、坂本 一流の『ブラックなジョーク』 だったのかもしれません。△▼△▼△▼坂本龍一 - Asience (original) (2004)収録アルバム『04』■チャン・ツィイーが主演した 花王 『アジエンス』 のCM曲キャッチコピーが 『アジアンビューティー世界が嫉妬する髪へ』 だった為か坂本には 『YMOの東風の様な曲を』 という要望があったそうです曲調は ラスト・エンペラーの 『Rain』 の様な欧州寄りな アジア的楽曲に仕上がっております△▼△▼△▼坂本龍一 - Energy Flow (1999)収録アルバム『BTTB -20th Anniversary Edition-』■三共、 現:第一三共ヘルスケア 『リゲインEB錠』 のCM曲リリース当時、インストゥルメンタル曲としては初のオリコンチャート1位を記録した事でも 有名です当時の 音楽番組出演では『一連の音楽作曲依頼の中で作曲したものに過ぎず、 他の依頼と一緒に、締め切りに合わせて 数分で作曲した』 と本曲には 何の思い入れも無かった事をコメントしておりなぜこの曲が話題になり チャートに上ったのか坂本自身 不思議で仕方が無いとの事でしたその一方で ヒットを狙って取り組んだポップミュージックの成績が振るわず本曲の様な ずっと取り組んできたクラシック音楽の手法で作った音楽が大ヒットした事でこれまでやって来た事は間違っていなかったとも語っていました△▼△▼△▼YMO - Perspective (1983)収録アルバム『YMO - SERVICE』■YMOの7枚目にして 解散記念として制作されたアルバムからの坂本龍一が ボーカルを取ったナンバーです歌詞の 『♪Everyday』 は 『日付絵画"Today"シリーズ』 で有名な画家河原 温 からの影響を受けたとの事で時間と空間をテーマに 人生の全体と、日々の部分を描いた退廃的なムードが多かった坂本の 現実視な面が出てきた時期の傑作です坂本自身も 本曲を気に入っているとの言及がありアルバム 『/40』 では ピアノバージョンで再録をしております△▼△▼△▼YMO - SOLID STATE SURVIVOR (79 LIVE)収録アルバム『YMO - ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』■坂本は 冒頭のテーマを忘れたのか、明らかにアサッテなメロディを弾き高橋幸宏に 何だ? という顔をしておりますがwYMO セカンド・アルバムの 表題曲 から 79年11月 ニューヨークの通称 『第一回ワールドツアー』 でのステージです(※多分)矢野顕子 - バックボーカル、キーボード渡辺香津美 - ギター松武秀樹 - シンセサイザー・プログラマーという豪華サポートでしたがライブアルバムの 『パブリック・プレッシャー』 では契約の関係で 渡辺香津美 のギターパートが使用できず後に坂本がシンセをかぶせてリリースした経緯があり当時 かなりの騒動になりました後にNHK-FM 『サウンド・ストリート』 の自身の番組で渡辺香津美入りのテープを公開しましたが91年にリリースしたライブ・アルバム 『フェイカー・ホリック』 では諸問題が解決され 晴れて、渡辺香津美のギターパートが解禁されました 渡辺香津美はYMOのツアーのオファーを受けた時テクノの中でのギターの役割が想像できなくて疑問を懐いたそうですがアメリカではテクノはまだ浸透していない為ギターの様なオールマイティーな楽器が入る事で観客の理解に繋がるから大いに弾きまくって欲しいと言われたことで吹っ切れたそうです△▼ △▼ △▼という所で今回は終了ですそれでは本日も 素敵な一日をお過ごし下さい。
2013年05月26日
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RyuichiSakamoto2007 (画像参照: wikimedia)- 邦楽特集 SPECIAL -春真っ盛り。「坂本龍一の音楽」をどうぞ・・・カーディガンを羽織るにはやや暑く脱ぐにはやや肌寒い春真っ盛りの陽気を いかがおすごしでしょうかさて70年~90年代を中心に、子供の頃、若かりし頃、耳にして来た音楽をご紹介する音楽特集 『~どうぞ』 シリーズ青空の元 春色に染め上げた草花が鮮やかで柔らかで硬質な 坂本龍一の音楽がよく似合う陽気となりました(※私情)今回は 今や世界のマエストロとなった坂本龍一の 唄モノ 曲 にスポットを当てて海外アーティストとのコラボなど 他を ご紹介致します本ブログは映画のレビューが本分でありますが音楽は何かと映画と密接に関係したものですので気にせず進めようと思います。 それではスタート!△▼△▼△▼坂本 龍一 - Sayonara (1991)収録アルバム『グルッポ・ムジカーレ2』91年のアルバム 『ハートビート』 と同時発売された シングルです作詞はムーンライダーズの鈴木慶一で 唄は坂本 本人です曲名の 『さよなら』 は、最も外国人に知られた日本語と言う理由で付けられたものです作詞は当初 若手に依頼するつもりでしたが最終的には 『青い』 印象のある 鈴木氏の 歌詞を採用したとか決して上手くはない唄声で語る さよなら と言う聞き慣れた言葉から日々の挨拶から 人生の別れまで、肌で感じさせるとても人間味溢れる 名曲だと思います△▼△▼△▼忌野清志郎 & 坂本龍一 - い・け・な・い ルージュマジック (1982)収録アルバム『忌野清志郎 - 入門編』 09年5月2日に 惜しくもこの世を去った 忌野 清志郎 とのコラボです交互にボーカルを取るデュエット曲では無く、清志郎がリード・ボーカルとなり実質の 忌野清志郎 初ソロデビュー曲となりましたギターは 清志郎のバンド RCサクセションの 仲井戸(チャボ)麗市でドラムは 坂本龍一が叩いています共に化粧をし 一万円札の札束を放り投げ 男同士でキスするスキャンダラスな PVが 当時話題になりました今聴いても 唄と共に常に一貫していた清志郎の音世界は新鮮で日本を代表する 大きな才能の存在を改めて感じる一曲となりました△▼△▼△▼Ryuichi Sakamoto & Thomas Dolby - Field Work (1985)坂本龍一&トーマス・ドルビー - フィールド・ワーク収録アルバム『Field Work + Steppin』80年台に活躍したイギリスのミュージシャントーマス・ドルビーとのコラボです同じパターンを繰り返す 『ミニマル』 音楽をベースに当時流行の ダンサブルなアレンジが施されておりますPVは この撮影の為にモヒカン刈りをしたトーマス・ドルビー演じる 謎のストーキング男が坂本演じる 終戦を知らずに島に潜伏していた所を発見された日本の退役軍人の日常を探るというサスペンスな内容になっておりますが分かりにくいので 最後のオチを説明しますとモヒカン男は 日本の退役軍人に魅せられた 単なる戦争マニアでラストで 『アナタのファンですサインを下さい』 とカメラを向けて言い寄ると坂本に殴られる という内容でしたがこの退役軍人の 心の孤独は 平和な世の中の今となっては誰も理解する事は無い という近代化した世の中で 失われる魂への鎮魂歌の様にも聴こえる曲でした△▼△▼△▼Eric Clapton - BEHIND THE MASK (1986)エリック・クラプトン - ビハインド・ザ・マスク収録アルバム『Eric Clapton - August』YMOの曲をマイケル・ジャクソンが82年の大ヒットアルバム『スリラー』でのカバー収録をボツにしてそのバージョンを マイケルのキーボード奏者でエリック・クラプトンのバックでもあるグレッグ・フィリンゲインズが 84年にソロで発表しその後 そのバージョンを クラプトンがカバーしたという経緯の曲です更に86年には 坂本自身がソロに収録しております映像は 87年に行われた『プリンストラストコンサート』 からキーボードに 英国での大スター音楽家ジュールズ・ホランドをはじめベースはレベル42の マーク・キング ドラムに フィル・コリンズ、という錚々たるメンバーで演奏されたものですドラムはおなじみの キレッキレのフィル・コリンズ節ですがよく聴くと高橋幸宏のプレイのコピーである事に気付きますフィル・コリンズの元々のドラム・スタイルはこうでは無くジェネシスでも、フュージョン寄りなテクニカルなドラムをプレイしておりましたこうなったのは YMOが79年に出した 『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』 以降でジェネシス81年のアルバム 『アバカブ』 ではそれまでのドラムのプレイが 大きく変化しておりました楽曲も全曲がほぼ テクノ化していた事でポップスター フィル・コリンズの誕生はYMOの影響が大きかったのではと 思えてなりません△▼△▼△▼坂本龍一 featuring Sister M - The Other Side of Love (1997)読売テレビ系ドラマ『ストーカー 逃げきれぬ愛』主題歌収録アルバム「ストーカー 逃げきれぬ愛」オリジナル・サウンドトラック日本テレビ系ドラマ 『ストーカー 逃げきれぬ愛』 の主題歌でfeaturing Sister M とは 坂本龍一の実の娘 坂本 美雨 の事でこれがきっかけで歌手デビューとなりました話題作りもあって当初は 『Sister M』 とだけ表示され一切の素性は 分からず 取り沙汰されましたが坂本龍一の当時のラジオ番組での出演で アッサリ明かされました当初は 中谷美紀 の為に書かれたものとの事で後に 『砂の果実』 として リリースされました△▼△▼△▼中谷美紀 - クロニック・ラブ (1979)TBS系ドラマ 『ケイゾク』 主題歌収録アルバム『中谷美紀 - 私生活』中谷美紀が主演した TBS系ドラマ 『ケイゾク』 の主題歌で中谷本人が 作詞して唄った曲です本ドラマは 98年の『リング』出演で話題となった中谷にとってこれが初主演作となりました坂本は 95年から2000年までの間 他のアーティストよりも率先して 中谷 美紀への楽曲提供をしており『砂の果実』 『いばらの冠』 の 大ヒットを出しております本曲は元々 坂本の 『Ballet Mecanique』 のカバーで更には 岡田有希子の 『Wonder Trip Lover』 が原曲のものです△▼ △▼ △▼という所で今回は終了ですそれでは本日も 素敵な一日をお過ごし下さい。
2013年05月09日
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レアアース スカンジウム (画像参照:wikimedia.org)初笑い音楽特集かなり【アレ】な【レア】な音楽をどうぞ・・・コードネーム Ω の登場ですw雑煮を喰い おせちを喰い 酒を飲み スイーツを喰い嵐のような平日の日々がウソのように思えるマッタリとした年始が続きますがいかがお過ごしでしょうか?この安穏感を断ち切る様な 過度な腹筋の活用が期待されるナンバーをご用意してみました戦いの日々でこそ生き甲斐を感じるつかの間の 休息 を取る貴方にとって休みの中ですら 機敏にトラブルに対応出来る様常に牙を研ぐのを怠らない一年となるのでしょうそれではスタート・・・△▼△▼△▼嘉門達夫 - 新・鼻から牛乳 (2006)ゴールデン☆ベスト 嘉門達夫2,249 円【送料無料】バッハの『トッカータとフーガ』の重々しいイントロが唄が始まるとなぜかロシア民謡的になるという今やチビッ子達の大スター嘉門達夫の 代表作ですギター一本による、いわゆる あるあるネタ で観客の心を掴んで離さないライブで光る 非常に息の長いタレントの大ヒットコミックソングです△▼△▼△▼伊武雅刀 - 子供達を責めないで (1983)伊武のすべて2,835 円【送料無料】深夜ラジオの『スネークマン・ショー』から派生した企画モノとして誕生した俳優 伊武 雅刀 の 一人芝居的パフォーマンスですサミー・デイヴィスJrの原曲の歌詞の内容の『子供の非行は大人のセイ』 という社会性のあるメッセージ曲を曲解させたものを全部子供が悪いという真逆の意味でのブラックネタでヒネり当時日本で大ヒットしました音楽が盛り上がって行くに連れて口調もエスカレートし最後は「子どもが嫌いだあああっつ!!!」と絶叫する若き伊武雅刀の熱演が聴き所の一曲となっています今なら色々問題がある内容ですがwむしろ今よりも世の中に偏見が横行していた時代でもあったので『スネークマンショー』のコントの一環としてのリリースという事を理解してこの様なシュールな内容のレコードを受け入れるのはありのままに受け入れて余り深く掘り下げて考えない意外な寛容な所があった現れだったと言えますバブル時代到来直前の不思議な時代でした△▼△▼△▼左卜全と ひまわりキティーズ - 老人と子供のポルカ (1970)青春歌年鑑1970 Best 302,683 円【送料無料】さて ここからが本番です意味不明の歌詞と年齢差の激しいユニットで話題となり当時オリコン10位という快挙を成し遂げた、日本歌謡史に残る怪作となった曲です『やめてけ~れ ジコジコ!』で笑ってしまいますが 調べてみるとゲバは学生運動、ジコは交通事故、ストはストライキの意味で70年の社会不和を象徴したキーワードで歌詞が作られたメッセージ・ソングだったらしくこれらの社会問題に巻き込まれるのは社会的にも弱い立場の 老人と子供であるという意味が込められた70年代 ピカソ的発想の 企画レコードという事でした俳優の 左卜全氏は TV出演では生で唄う事を強く要望したのですが何度唄っても 伴奏とズレてしまうので数カ所 レコードの唄声を使用して重ねたとか所々 唄にディレイ効果が掛かった様に聴こえるのは その為でした△▼△▼△▼ソルティー・シュガー - ハナゲの唄(ハナゲの伸長度に関する社会科学的考察) (1970)ソルティー・シュガー茶歌集 <走れコウタロー>『走れコウタロー』『岬めぐり』で有名な山本コウタロー 率いるコミックバンドソルティー・シュガーの隠れたヒット曲です実際はカレッジ・フォークに当たるらしくて森山良子や 最近また活動を始めた小沢健二みたいな立ち位置だったのでしょうかこれが仕事中ラジオで掛かった時に『チュわっチュわっ・・・伸び~る~』の所で誰かが作業の手を休めずに『切りゃいいだろ・・・』と小声で語り『そういう問題じゃないだろ』とすかさずレスが付いたのを聞き物議を醸すとはこういう事を言うのだと思ったものでしたW△▼△▼△▼杉良太郎 - 君は人のために死ねるか (1980)君は人のために死ねるか1,782 円【送料別】『昨日ひとりの男が死んだああ・・・』 の出だしの時点で誰か止める奴は居なかったのかと誰もが思う時代劇の大スター 杉良太郎の現代劇 『大捜査線』 の主題歌です他にも小堺一機と関根勤のラジオでも取り上げられた事があった『マイ・ウェイ ライブ・バージョン』 というのがあって本人は熱唱しているつもりがサビになればなるほど 声がドンドン細くなって行くというトンデモ歌唱が 一時話題となりました杉良太郎は芸への拘りが並外れたものを持っている不世出の舞台役者であると同時に時代劇ファンの私ですら擁護する事が出来ない程恐ろしくズレたものを持っている困った所がある人物でもあります時代劇での立ち回りでは 相手を切る瞬間溜めて『ゆるせねえっつ』という流し目を残してズバっと抜くというドラマティックに演じ舞台の定番『死んだ身内を抱きかかえて優しく語りかける』という芸では既に 事切れた仲間に『ここを切られたのか?』など アドリブを交えて無念の思いを延々と演じ誰もが共感できる人の感情に訴える演技を持ち味とする役者なのですが舞台でも回を追うごとに溜めが多くなる事でねちっこさが際立つ様になったり熱が入り過ぎるとオーバーアクト気味になり泣ける場面でクドさが増して滑稽にすら写ったりと相当マニアックな芸をする役者でもありました思い込みも激しいらしく新聞に連載(※多分)していた自伝での辛い下積み時代のカレー屋住み込みバイトのエピソードでは『朝昼晩3食カレーの生活の為 身体から黄色い汗が吹き出し白いTシャツが黄色く染まった・・・』と、壮絶な極貧生活を赤裸々に語っていましたが単に 店中に充満したカレーの湯気の色素が付いて黄色く染まったダケなのではという言葉を飲み込みながら読んだ記憶がありました。△▼△▼△▼アラン・ドロン & ダリダ - 甘い囁き (1972)ボン・ボン・フレンチ[オムニバス]価格:2,339円(税込、送料込)人によっては こちらで既にツボかもしれませんがフランスの大俳優 アラン・ドロンの甘い語りが話題となった曲です細川俊之 & 中村晃子 - 甘い囁き (1972)決定版 中村晃子価格:2,879円(税込、送料込さあ、それでは存分にお聴きください『不思議だあ・・・』と切り出された時点で私はもうギブアップですWこの人物の頭のネジは どれだけ緩んでいるんだと思わせる歯の浮く様な言葉にメインの中村晃子の唄が耳に入らない程の今は亡き細川俊之の絶妙な相の手を堪能できます△▼△▼△▼という所で今回は終了です笑う門には福来る楽曲の数々にあなたは何を感じましたでしょうかそれでは本日も 素敵な一日をお過ごし下さい。
2013年01月02日
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邦楽特集 第3回日本語で聴きましょう日本の唄 JAPANESE POPお盆も過ぎ8月も後半を迎える中、まだまだ暑い日が続いております。そこで 夏の電力不足をみんなで乗り切ろう と題し80年代を中心に、子供の頃、若かりし頃、耳にして来た音楽をご紹介する邦楽特集 『日本の唄』今回お送りするのは 『夏の終わりの唄』 です。それではお聴き下さい・・・△▼ △▼ △▼山下 達郎 - さよなら夏の日 (1991)収録アルバム『ARTISAN』その名の通り、夏の終わりにぴったりのノスタルジックに満ちた山下達郎 会心のバラード・ナンバーです洋楽ポップス、特にオールディーズに造詣が深く音楽コレクターとしての側面を持つ音に対しての拘りが非情に強い自らを「アーティスト」では無く「職人」であると明言する気難しい玄人好みで通った人物ですがCMソング、TV主題歌を多数制作してきた商業ポップとしてのコマーシャリズムに則った音作りも得意とする柔軟な音楽性を持ったミュージシャンであり本作の様なノスタルジックに少年性を描く作家性を持った文学的側面を持つ楽曲に定評のあるシンガー・ソングライターでもあります。どんな良い事にも終りがあり、それが新たな始まりでもあると唄う本曲は誰もが経験する少年少女時代との訣別をノスタルジックに描いたバラード曲に仕上がっていますこれまで洋楽を意識した楽曲を発表し続けてきた達郎にとっては珍しい童謡曲タイプの正統派バラード曲でこの曲のヒットの後、方々からこのタイプの曲のオファーが殺到したと言いますアルバムタイトルの『アルチザン』とは職人を意味しテレビ出演は一切行わない、一ミュージシャンの立場を崩さない達郎の頑なまでの頑固さを現したようなネーミングでしたが第33回レコード大賞の授賞式では、唄う姿を収録したPVを披露しておりヘッドフォンを付けマイクに向かって祈る様に手を合わせて熱唱する姿は後にも先にも『唄う達郎』をTVで見ることが出来る唯一の機会となりました。△▼ △▼稲垣潤一 - 夏のクラクション (1983)収録アルバム『J.I.稲垣潤一』西武球場恒例のコンサート会場なのは 前回ご紹介した渡辺美里だとしたらこちらは苗場プリンスホテルが恒例のコンサート会場の数々のヒット曲を持つ歌手で日本屈指のミュージシャンである。元はドラマーで、米軍回りをするなどの筋金入りのキャリアを持つデビュー時の謳い文句は『スーパー・ポップ・ボーカル』横浜タイヤのCMにもなった 『ドラマティックレイン』 で火が付き以後、演奏重視のクオリティーの高い楽曲をリリースするアーティストとして人気となる。紹介するミュージシャンの中では珍しく作曲をしないミュージシャンで数々のヒット曲を作曲したのは歌謡界の重鎮 筒見京平によるもの。△▼ △▼ △▼CHARA - Swallowtail Butterfly ~あいのうた~ (1996)収録アルバム『MONTAGE - YEN TOWN BAND』岩井俊二監督作 『スワロウテイル』 サントラの主題歌で劇中のバンドYEN TOWN BAND 名義の オリコンチャート1位を獲得した 大ヒット曲。劇中バンドのオリコン一位の記録は、アニメ『けいおん』が「放課後ティタイム」名義でチャートインするまで、実に12年間破られる事は無かった。Charaは、岩井俊二監督作は本作で2度目となり、その年の日本アカデミー主演女優賞に輝いた。本曲では地に足が着かない様な浮遊感溢れる楽曲を リリカルな雰囲気の中囁きと叫びが同居した独特のボーカルで 祈る様に歌い上げている。△▼ △▼ △▼井上 陽水 - 少年時代 (1990)収録アルバム『ハンサムボーイ』藤子不二雄A原作、篠田正浩監督作 映画 『少年時代』 主題歌。本曲は映画化が決まり、藤子不二雄Aが陽水に依頼したもの。陽水は本曲のレコーディングに際し、ピアノを 『夢の途中』 の来生たかおに依頼。陽水によると、未完成で発展途上な少年のような感性のピアノ を狙っていたらしくレコーディングでは正に思い通りの演奏をしてくれたと語っている。そんな 来生たかお がピアノを弾き始めたのは20歳の時。ビートルズの 『レット・イット・ビー』 なら弾けるだろうと言うのが理由。△▼ △▼ △▼松任 谷由実 - Hello, my friend (1994)収録アルバム『THE DANCING SUN』月9ドラマ 『君がいた夏』 主題歌。 オリコンチャート一位の大ヒット曲。夏の終わりの切なさを、情感を込めて歌い上げるバラードの名曲。元々、今は亡きF1レーサーのアイルトン・セナの追悼として作られた曲でタイトルも 『 Good-bye friend 』 と、曲もサビ以外全く違ったものだった。曲調もパット・メセニーのアメリカン・ガレージの様な楽曲でユーミンの趣味が大きく反映されたものであった。当初ドラマ用に予定されていたのは『Good-bye friend』の方でドラマのイメージと違う為にサビの他は全て作り直し『Hello, my friend』 として世に出たものである。△▼ △▼ △▼大滝詠一 - Bachelor Girl (1984)収録アルバム『EACH TIME 40th Anniversary Edition』本曲は稲垣潤一のシングル用に作られた曲で、セルフ・カバーしたもの。当初は84年発表のアルバム 『EACH TIME』 には収録されずベスト版 『B-EACH TIME L-ONG』 に収録された後、89年に再発した『EACH TIME』で曲を入れ替え2曲加えた中でようやく収録された。本バージョンは、『B-EACH TIME L-ONG』版で、前半オーケストラのインストが付いたアレンジになっている。本曲は知る限り3バージョンあり、シングルと 『B-EACH TIME L-ONG』版と 89年に再発した『EACH TIME』 版である。オーケストラが前半付いた『BTL』版以外の違いはコーダにあり、エンディングのテナー・サックスが途中でフェード・アウトするシングル・アルバム版に対して最後まで演奏しているのが『BTL』版であり、今回ご紹介するのも本曲である。大雨を浴びて演奏しているイメージの テナーの響きが胸に迫る大瀧詠一の天才的な楽器のチョイスが光る 歌謡史に残る名曲である。△▼ △▼ △▼サザン・オールスターズ - 真夏の果実 (1990)収録アルバム『稲村ジェーン』いかがでしたでしょうか?更新した2012年当時は サザンの真夏の果実 が見つからなかったのでオマケとしてこちらの カバー・バージョン? を紹介しお茶を濁したものですが高音の声に胸に迫るものがありチョット感動しまして意外でした初音ミク ・・・侮りがたし・・・wという所で今回は終了ですそれでは本日も 素敵な一日をお過ごし下さい。
2012年08月20日
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(出典:wikipedia)邦楽特集 第2回日本語で聴きましょう日本の唄 JAPANESE POP今年も梅雨明けとともに 猛暑が襲う 熱い夏が到来しましたそこで 夏の電力不足をみんなで乗り切ろう と題し80年代を中心に、子供の頃、若かりし頃、耳にして来た音楽をご紹介する邦楽特集 『日本の唄』今回お送りするのは 『メッセージ・ソング』 です。それではお聴き下さい△▼ △▼ △▼平原 綾香 - Jupiter (2003)収録アルバム 『オデッセイ』(出典:wikipedia)エモーショナルな唄声を持ち、音楽一家に生まれ父同様サックス奏者でもあるシンガー平原 綾香のデビュー曲にして代表曲となったミリオンセラーソング非常に壮大なクラシックの楽曲 ホルスト 『惑星』 に日本語の詩を乗せるという大胆な試みでCDデビューを果たしたどの世代にも通じるメッセージ色の強い歌詞は 元々 平原綾香の提案によるもの。最もつらい時期を通ってきた日本での 多くの人々を勇気づける曲として長い間支持され続けてきた 息の長い曲である。△▼ △▼ △▼佐野 元春 - SOMEDAY (1981)収録アルバム『SOMEDAY』(出典:wikipedia)常に若者に対して熱いメッセージを送り続ける 恐らく メッセージ性 という言葉を最初に使ったアーティスト 佐野元春の代表曲歌詞がメロディからはみ出しそうになる程のメッセージ性の強い内容の詩の世界がアーバンポップとは違った都会に住む子供から大人になる若者の為の音楽として絶大な支持を集める。本曲大ヒット後単身ニューヨークへ渡り、そこで流行り始めていたヒップホップと出会い大きな影響を受ける。そのアートフォームに日本語を使っての表現の可能性に打ち込んで行く事になるSOMEDAYについては佐野元春も特別な思いがあると語っている。少年から大人に変わる心情を描いたこの曲は 人々の希望について 同時にその裏側にある絶望についてをテーマに曲を書いてみたいと思ったことがきっかけとなったと言う2000年に入ると CCCD問題で大手レーベルと対立し 自主レーベルと立ち上げ音楽を大手CDメーカーが管理する時代の終焉に対してアーティスト主体のメジャーインディペントな考えを実践し成功した最初の日本のアーティストと言われてる△▼ △▼ △▼渡辺 美里 - My Revolution (1986)収録アルバム『Lovin' you』(出典:wikipedia)アイドルとは違った ガールズポップの先駆者として活躍する女性シンガー渡辺美里の 小室哲哉作曲によるメッセージソングTVドラマ 『セーラー服通り』 主題歌として大ヒットしたまだ無名だった小室のこの曲を初めて聴いた時 渡辺は鳥肌が立ったと語る印象的なイントロのコーラスは 渡辺が唄った鼻歌を採用したものだと言う事曲中3度もピッチが上る転調は日本では珍しく、小室サウンドの特徴とも言える手法である。松任谷由実が曲中で幾度と無く転調しても全く意識させ無いものとは真逆の行為と言えるこの特徴的なメロディーに寂しさを背負った、一人で夜の街を走り抜けるような強い女の子 をイメージしたメッセージ色の強い歌詞を得た事で時代を超えて支持される 現在でも根強い人気を持つ曲である△▼ △▼ △▼今井 美樹 - Piece of my wish (1991)収録アルバム『Ivory II』(出典:wikipedia)本曲は今井美樹主演のTVドラマ 『あしたがあるから』 の主題歌。ミリオンセラーを記録する、『PRIDE』に次ぐ 今井美樹の大ヒット曲しなやかな品の良さと満面の笑みがトレードマークの今井であるがその女性的なルックスとは裏腹な とても男っぽいタフな内面を合わせ持つ人柄が女性からの圧倒的な支持を受け続ける大きな理由の一つであるだろうモデルデビューで芸能界入りした今井はその後女優業を経て86年に『黄昏のモノローグ』で歌手デビューを果たすジャズ好きの父親の影響を受け、ユーミンに熱中し、黒人女性シンガーのタフな唄声に憧れ初録音では迫力のあるソウル・シンガーの様に振る舞い唄ったつもりの今井であったが意に反して出てきた唄声はこの上ない女の子の声であった事を非常に落胆したと後に語っている。唯一無二のファンタスティックボイスは、得たい唄声とはかけ離れた意に反した落胆の中から誕生したものであった△▼ △▼ △▼吉田拓郎 - 永遠の嘘をついてくれ (1995)収録アルバム『吉田拓郎/Long time no see』『中島みゆき/パラダイス・カフェ』(出典:wikipedia)本曲は吉田拓郎作と思える程拓郎に馴染んだ 中島みゆき 作詞作曲の楽曲。拓郎が人に楽曲を頼むのは過去無い、異例の事であった大スターであった拓郎の席が埋まらないコンサートもあったという、人気に陰りが出た90年台初頭。拓郎の創作にたいする自信の喪失と意欲低下が 何よりの問題点であったそれは中島みゆきの 『ファイト』 を唄った時にハッキリと意識したというその後、中島みゆきを食事に誘い 『遺言のような曲を』 と依頼した曲が本曲であった曲が上がったのはレコーディング前日。 一睡も出来なかった拓郎の元に届いた外部のライターに曲を依頼する様な事は無かった拓郎に以前の覇気が無く無くなり 老けた事を認めたくないという様な現実を突きつける 辛辣な内容にも取れる歌詞に聴こえる96年にKinki Kidsのバラエティ番組 『LOVE LOVEあいしてる』 で完全復活する拓郎の蘇生する前夜の出来事であった△▼ △▼ △▼ASKA - 晴天を誉めるなら夕暮れを待て (1995)収録アルバム『NEVER END』(出典:wikipedia)本曲はASKA名義で出した初のオリコン一位に輝いた楽曲嘘をついてくれ と唄う 吉田拓郎に対して嘘を守りたい と答える ASKA の歌詞は偶然なのか、こうして並べると 先程の 『永遠の嘘をついてくれ』 に呼応したアンサー・ソングの様な内容に聴こえるのが興味深い曲名の意味は『物事とは終わってみるまで見えない事がある、最後まで気を抜くな』というメッセージが込められている。97年に初のソロツアーを敢行し エンディングのMCでは 『次回は隣に相棒が』のリップサービスをしてみせたASKAであったが、ツアーは年を開けても続けられそのまま次回作 『Kiks』 の製作へと流れて行った。相棒との再会を果たせぬまま 本曲を作曲したASKAの頭をよぎる『夕暮れ』とはいつかは終焉を迎える 相棒との決別を意味するものだったかどうかはまだ答えは出ていない。△▼ △▼ △▼井上陽水 - 最後のニュース (1989)収録アルバム『ハンサムボーイ』(出典:wikipedia)本作は親交のあった故 筑紫哲也氏に依頼され独自の視点で書かれたバラード『筑紫哲也 NEWS23』のエンディングテーマ様々な問題定義を立てて、最後はGood Night一言で締める歌詞のアイディアは『Subterranean Homesick Blues』 『風に吹かれて』 などの歌詞に見られるボブ・ディランの影響が強いと語る陽水はこれまでも時代を見つめ、社会の背後に潜むものや未来に対しての不安を作品に描いてきたが本曲は今、発表された時以上の衝撃を世に与えていると思う2000年以降、歌詞の 『フロンガス』 を 『二酸化炭素』 に差し替えて唄うようになった △▼ △▼ △▼という所で今回は終了ですそれでは本日も 素敵な一日をお過ごし下さい。
2012年07月26日
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邦楽特集 第1回日本語で聴きましょう日本の唄 JAPANESE POP今年も梅雨明けとともに 猛暑が襲う 熱い夏が到来しましたそこで 夏の電力不足をみんなで乗り切ろう と題し80年代を中心に、子供の頃、若かりし頃、耳にして来た音楽をご紹介する邦楽特集 『日本の唄』今回お送りするのは 『夏の到来の唄』 ですそれではお聴き下さい△▼ △▼ △▼山下達郎 - LOVELAND,ISLAND (1982)収録アルバム『フォー・ユー』音に妥協をしない鉄壁のミュージシャンにて自らを 『職人』 と語る日本屈指のシンガー・ソングライター 山下達郎の前作「RIDE ON TIME」の大ヒットを受けて満を持してリリースされた「夏だ海だタツローだ」の代名詞となった代表曲的楽曲です作曲から歌詞、編曲、演奏に至るまで自らプロデュースし多重録音での一人アカペラの荘厳なサウンドは代表曲 『クリスマスイプ』 で聴かれる様に他の追随を許さない脅威のクオリティーを誇ります。本曲は79年製作 『For You』 収録曲で02年には窪塚洋介、常盤貴子主演 『ロング・ラブレター漂流教室』 の主題歌として四半世紀近く経ってのシングルカットとなりました。後に制作されたPVではパラソルの少女のステップに負けじと踊り始める紳士こと少年隊の東山紀之の踊りに思わず釘付けになります。『10年若返ります』のキャッチコピーは初リリースから四半世紀経った2002年当時リバイバルヒットを狙うレーベルが ファン層へ向けた販売戦略の一環として立てたもの というだけでは無く時代を世代を超えて支持され続けるタツローサウンドがあって成り立つ言葉だと言えます△▼ △▼ △▼大滝詠一 - カナリア諸島にて (1981)収録アルバム『A LONG VACATION』音楽界の重鎮、大プロデューサーでCMの王様でもあるシンガー・ソングライター大瀧詠一の 自身初のミリオンセラーとなったアルバムからの代表曲的楽曲松田聖子『風立ちぬ』 小林旭『熱き心に』 森進一『冬のリヴィエラ』 など各界を代表するのスターに楽曲を提供する事で話題を呼んだアーティストですがそれまでマニアックな音楽を追求する活動を続けて来た売れない音楽家だった大瀧詠一が70年代の終わりに周りの音楽仲間が次々とブレイクして行く事に触発されて一念発起して制作した本アルバムで一躍時の人となったという一風変わった経歴のアーティストでもありますその大瀧詠一が69年に細野晴臣、松本隆らと 結成したはっぴいえんど は日本語によるポップスを目指した数少ない成功したバンドとして現在も評価されドラムの松本隆はその後 作詞家に転向して活躍し以後、大瀧詠一との黄金コンビで 数々の名曲を発表して行きますその黄金コンビで作られた「夏、海」をイメージする本曲は流麗で揺蕩う様な癒やしのサウンドが特徴の大瀧詠一らしい夏の午後のひとときを切り取った 避暑感あふれるイージーリスニングの傑作として 時代を超えて支持される楽曲となりました△▼ △▼ △▼南 佳孝 - スローなブギにしてくれ (1981)収録アルバム『SILKSCREEN』J-POPムーブメント以前の歌謡界でジャズ、ボサノバ、ラテンの要素を曲作りに取り入れいわゆる 『アーバンポップ』 の先駆けとなった楽曲をリリースして来たシンガー・ソングライター南佳孝の代表曲大ヒット曲ナンバーです本曲は 浅野温子主演 映画 『スローなブギにしてくれ』の主題歌として制作され後藤次利 編曲によるソウルバラード風アレンジが南佳孝の 日本の歌謡を感じないエキゾチックさがマッチした海を感じるアーバンポップな作風が当時のAORブームに後押しされる形でリリース当時一斉を風靡しました一度聴いたら耳に残る特徴的なレイドバックしたサウンドが癖になる夏定番の楽曲となっています△▼ △▼ △▼杉山清貴&オメガトライブ - ふたりの夏物語(1985)収録アルバム『ANOTHER SUMMER』作曲家林哲司のプロジェクトバンドで歴代3人のボーカルが所属したオメガトライブの初代ボーカル 杉山清貴 時代の大ヒット曲ナンバーです夏、湘南、がコンセプトの本曲は湘南にこだわった杉山清貴の音楽性が最も強く出た作品でアイテムとして出てくる夏を思わせるワードが硬質な演奏とマッチしてスタイリッシュで躍動感ある映像としてイメージされるドライブの定番曲としても知られるナンバーでもありますオメガトライブ最大のヒット曲となった本曲でしたが日本航空のタイアップが決まり 林哲司と 作詞の康珍化 が曲を1日で仕上げ全国ツアー中のオメガトライブを呼び戻してレコーディングを決行し述べ3日の突貫作業で 仕上げた曲という意外な経緯がありましたフィル・コリンズがフィリップ・ベイリーのソロアルバム制作中曲が足りなくなって その場で急遽仕立て演奏し、次の日書いてきた歌詞を唄わせて全米1位になった『イージーラヴァー』 はわずか2日で完成していると聞きますので曲をヒットさせるには如何に時間をかけて仕上げるのかよりもタイミングと巡りあわせが重要な「要素」だと言う事なのでしょう△▼ △▼ △▼寺尾聰 - SHADOW CITY (1980)収録アルバム『Reflections』日本を代表する俳優にしてアーティスとの寺尾聡が 当時満を持して発表した日本歌謡史を塗り替える大ヒットアルバムからの 大ヒットシングルですスキャットが要となった 独特のボイスが奏でる スリルに満ちたナンバーでAORブームの最中 それまでのムード歌謡とは全く違ったアダルトコンテンポラリーなサウンドが一斉を風靡しましたグループサウンズグループ「サベージ」の一員としてデビューした寺尾聡はその後俳優に転身大病を患い病気療養で東南アジアへ渡った時に 暇を持て余し夏休みの宿題をこなす感覚で曲を書いては溜め当時所属していた石原プロ社長だった石原裕次郎の『いいんじゃないの』の鶴の一声で発表したのが始まりで初シングルが本曲でした発表当初大ヒットに至りませんでしたが 横浜タイヤ のCMで火が付きその時期出したシングル 『ルビーの指輪』 の大ヒットを機に先行発売していた本曲を含む2枚のシングルも大ヒットとなりましたTV出演ではサングラスに袖を捲ったジャケット着崩した様なシャツにジーンズ胸にペンダントなどの ファッション、アイテムが日本の若者の間で 大ブームになるなど80年代を代表する 歌謡界の歴史に残るアーティストだったと言えます△▼ △▼ △▼矢沢永吉 - 時間よ止まれ (1978)収録アルバム『ゴールドラッシュ』今更説明するまでもない日本を代表する不世出のシンガーで、ソングライター矢沢永吉の大ヒットバラードで緩やかなビート乗せて 溜息のようなボーカルが絶妙な夏の定番ソングです『ボス』と呼ばれる程 ファンが熱狂的な事で知られるラウドでロックなナンバーをリリースして来たアーティストですが音楽姿勢は極めてストイックで生真面目な事でも知られており本曲の海の様な巨大なスケール感と長い時間を感じさせる独特の「余裕」感は真摯な姿勢で目的を持って行動を続けた末に訪れる「達成感ある景色」を見た者だけが語れる境地の様でもあり無軌道に荒れ狂う激情をサウンドにぶつけるタイプの多くのロックアーティストとは一線を画する所でもあります矢沢永吉が皆が良く知る形で神格化したのはかつてメンバーとして活動したキャロル解散コンサートでのラストで放った爆竹がステージに燃え広がりステージが陥落する大火災となった事件がきっかけで「伝説のラストコンサート」として後世まで語られる様になりこれによって矢沢のビッグなイメージが定着しましたこの事件は矢沢が持つカリスマ性もあってかキャロルのラストライブに相応しい「演出」と誰もが思った事でこの事件以降 矢沢永吉のビッグで派手なイメージは社会に浸透しやがて音楽性も認められる様になりその言動が社会現象を生み出す日本屈指のアーティストへと成長して行きます一方でこの火災は、実は単なるアクシデントで起こったばかりか楽器機材が燃えてしまった事で借金を抱えた中の散々な解散となり大きな痛手を抱えたままでの再出発を余儀なくされたというので実像が現実とは異なるのは 矢沢永吉の場合も同様だったのでしたキャロル解散後の日比谷野音でのソロデビューではトレードマークの 『スター』を 胸に大きくあつらえられたシャツを身に纏いながらもリーゼントを止め髪を下ろし音楽にストイックな姿勢を全面に出した新たなイメージで登場しましたそれは等身大の自分を出すかどうかの迷いが見られる「神格化した矢沢」を矢沢永吉自身が持て余した葛藤が見え隠れした「ビッグスター矢沢永吉」誕生前夜となる揺れ動く若き矢沢のソロデビューステージでもあったのでした△▼ △▼ △▼井上陽水 - 帰れない二人 (1973)収録アルバム『氷の世界』本作は井上陽水と親友であった 故 忌野清志郎氏との共作のバラード生前、この曲について清志郎氏が語っており陽水が三鷹のアパートに住んでいた頃 良く部屋を訪ね暇つぶしで 二人で曲を作った時の事お腹が空いたと言うと 陽水が台所に立ち コメを炊き始め材料を煮始め カレーライス を作ってくれた事があり自分は人に食事を作って振る舞うなど全くしない人間なのでその時の事を とても 印象深く残っている と語っていましたその語り口が まるで 玉置浩二 そっくりで井上陽水という人は 清志郎 に似た不器用で自然体な人物を見ると世話を焼き友人にするのかもと後に『井上陽水・安全地帯LIVE at 神宮スタジアム』で玉置浩二と唄う井上陽水から今は亡き清志郎を重ねて偲ぶのでした井上陽水 - 帰れない二人 (1973)収録アルバム『井上陽水・安全地帯LIVE at 神宮スタジアム』△▼ △▼ △▼という所で今回は終了ですそれでは本日も 素敵な一日をお過ごし下さい。■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■【アナログ盤レコード】【アナログ盤】FOR YOU (完全生産限定盤) [ 山下達郎 ]価格:3,666円(税込、送料無料) (2024/11/15時点)【アナログ盤】A LONG VACATION 40th Anniversary Edition [ 大滝詠一 ]価格:3,850円(税込、送料無料) (2024/11/15時点)..........................................................................................................【CD】【CD】フォー・ユー [ 山下達郎 ]価格:1,940円(税込、送料無料) (2024/11/15時点)【CD】A LONG VACATION 20th Anniversary Edition [ 大滝詠一 ]価格:2,027円(税込、送料無料) (2024/11/15時点)【CD】SILKSCREEN [ 南佳孝 ]価格:1,783円(税込、送料無料) (2024/11/15時点)【CD】ANOTHER SUMMER REMIX [ 杉山清貴&オメガトライブ ]価格:2,497円(税込、送料無料) (2024/11/15時点)【CD】リフレクションズ+4 [ 寺尾聰 ]価格:2,211円(税込、送料無料) (2024/11/15時点)【CD】ゴールドラッシュ/矢沢永吉[CD]【返品種別A】価格:1,392円(税込、送料別) (2024/11/15時点)【CD】氷の世界 [ 井上陽水 ]価格:1,811円(税込、送料無料) (2024/11/15時点)【CD】スターダスト・ランデヴー 井上陽水・安全地帯 [ 井上陽水・安全地帯 ] LIVE at 神宮スタジアム価格:1,818円(税込、送料無料) (2024/11/15時点)【DVD】安全地帯/STARDUST RENDEZ-VOUS〜井上陽水・安全地帯 LIVE at 神宮球場価格:3,302円(税込、送料別) (2024/11/15時点)
2012年07月19日
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