ザビ神父の証言

ザビ神父の証言

2007.01.05
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クロニクル 水師営の会見(日露戦争から)

1905(明治38)年1月5日
この日、午前11時40分から、日本の第3軍(旅順攻略軍)
司令官乃木希典とロシア軍司令官ステッセルの会見が、
旅順港に近い水師営で行われました。
前年2月に始まった日露戦争は、両軍共に予想を大幅に
上回る多大な死傷者を出す激戦となるのですが、この
旅順港を巡る攻防戦が最大の激戦となったのでした。
乃木の第3軍による旅順綜攻撃は、8月19日にはじまりますが、

頑強に抵抗、この攻撃は1万6千人の死傷者を出す大失敗に
終りました。10月末に行われた第2次総攻撃も、いたずらに
突撃を繰り返す無策振りが仇となって、悲惨な失敗に終りました。
ここに満州軍総司令官大山巌は、満州軍総参謀長児玉源太郎を
第3軍に派遣します。現状を視察した児玉は、一時的に乃木に替わって
攻撃を指揮することを決意、旅順を望む203高地に攻撃を集中、
6万4千人の兵力を投入して、12月5日に占領に成功するのです。
児玉はこの地に新兵器の28cm榴弾砲を運び上げて、旅順港を砲撃
するという荒業を敢行、港に停泊するロシア第1艦隊を全滅に
追い込んだのでした。こうして12月末までに、抵抗するロシア側の
全堡塁を占領、1月1日ロシア軍は降伏を決意、旅順の要塞は

この日5日の両将軍の会見となったのでした。
攻防155日を要したこの戦いの死傷者は5万9千人を数え、
この戦いのみで、日清戦争全期間の犠牲者を大幅に上回る
犠牲者を出したのでした。
しかし、大国ロシアと対等以上に戦う日本軍に、欧米への

戦死者、戦傷者家族の悲しみは、置き去りにされ、忘れられて
行くのです。その後ろめたさを覆い隠す装置として機能したのが
靖国神社だったのです。

----- Original Message -----
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To: ??????@za.wakwak.com>
Sent: Friday, January 05, 2007 9:35 AM
Subject: 5日の日記









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最終更新日  2007.01.05 13:20:19
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