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弥生峠からは新緑の山道だ。伸び伸びしながら歩いた。 新樹光拾ひ集めて山歩く途中、三つ峠が見える。又、九鬼山の向いの山は高川山(ビッキーという犬のいる)だ。どの山が高川山か確認できなかったので写真は撮らなかった。シロヤシオ(?)の花が満開だ。緑もきれいだ。 木洩れ日のあまたこぼるるみどりかな緑と木洩れ日のコントラストが何ともいえない。写真を撮るのを忘れてしまうほどだった。そして20分ほどで富士見平に着いた。電車の中では 雲の間に片鱗見せし初夏の富士だったが富士山の方向だが!ふ~!どっと疲れが!ここから5分ほどで山頂について食事を摂った。看板に向って「本当にご苦労さんでした」と。他の山よりは人が少なかったが結構な人だった。下山は、ひとつ手前の駅まで歩くコースでちょっと急な坂と片側に谷を見ながら歩いた。 谷底を覆ひ尽くして深緑谷底に滑りそうな道があったが緑に覆われ危険を感じない。 ひるがえる朴の葉からの新樹光朴の木があったが花は見当たらなかった。上をむいて歩くと危険なので立ち止まっては上を見たが。山頂方面を写したもので緑が深いのが良く分かると思う。途中から気持ちの良い尾根道にでた。 山吹の色も混じりて風そよぐ少し降りて林道に出たら「この辺りで良く熊を見ますので注意」と書いてあった。登るときに書いてあった熊は、この辺に出没するらしい。心もち早足で下った。やはり何となく一人だと心配だった。
2006年05月31日
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休日は、雨が多く天気予報とにらめっこしながら晴れの予報があると突然支度をして山へ行く日が多くなった。5月14日(日)もそうだった。前日の雨から一転して晴れ。それ~!山だ。ということで低山だが富士山が美しく余り人もいないという山梨県の九鬼山へ出かけた。位置的には、大月から河口湖行きの電車で三つ目の禾生(かせい)の駅から歩く。河口湖号に乗り10時位に着いた。電車から微かに富士山が見える。 雲の間に片鱗見せし初夏の富士山頂の片側だけが微かに。国道沿いを歩いて 新緑の水流れ来て煉瓦橋煉瓦橋の下(写真の左側)をくぐって山道になる。十二単か?(違ったらどなたかお教えください) 煉瓦橋十二単を蔭にして橋を潜ってすぐ「熊がでました注意」の看板が。一人で来ていたお年寄りが立ち止まっていた。「熊がでるんなら行けない!」と言ってしばらく考えていたが気にしないで登っていったらどうも帰っていったようだった。暗い九十九折が続く。誰も来ないので不安になったが登っていったら人がいたので安心して登った。途中の花すみれ?(調べたけど似た花はすみれだけでした。) 花著莪や夜来の雨のひとしずくかたばみ?(カタバミと思って) かたばみや熊出でしてふ道に咲く駅から1時間半ほどで峠に出た。ここからはあまり登りがない道が続く。写真は、縦に走っているのが「リニアモーター」の実験線。かの有名な金○信が誘致したものだ。横に走っているのが河口湖までの高速道だ。ここからは新緑が美しい道を伸び伸び歩いた。 新樹光拾ひ集めて山歩くつづく
2006年05月29日
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ひとり静探し歩いて二人静いつも咲いているところにひとり静を探したが、今年は、ひとり静は咲き終わったようだ。 こならの木空覆ひたるみどりかな 鎌倉へ続く古道や百千鳥この道は、鎌倉古道と言って足利尊氏、新田義貞等が鎌倉へ出向くとき通った道だ。森林公園内にある。 もののふの通りし古道都草これ何の花?知っている人がおりましたらお教えください。 今年竹空を見たくて伸び競ふこれ何の花?知っている人がおりましたらお教えください。 清貧の言葉漏れ来る矢車草矢車菊であるが俳句の世界では矢車草と言っているようなのでその名前を使った。矢車草という花が矢車菊と別に存在する。(toshikoさんのブログを見てください。) 吾寄れば花閉じらんと虞美人草あやめ?かな。俳句出来ませんでした。
2006年05月26日
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雨の合い間を縫い森林公園に季節の花を訪ねた。 大池へ傾く丘に紫蘭咲く 仙人の面立ち浮ぶ翁草 九輪草首長くして人を待つ 山中の闇を揺らして白糸草 白糸草は、調べてみたが俳句の季語集にもないし日本の野草・雑草にもなかった。珍しい花でゆらゆら揺れていた。つづく
2006年05月25日
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二条城からJRに乗り嵯峨嵐山駅に向った。嵯峨野と呼ばれる地域である。地図を見て道を確かめている間にほとんどの人は先に行ってしまい通常の道ではなく駅の反対側の一般道へでた。(本来は、天龍寺方面の竹林の道を行くのが順路であるらしい。)コンビニでカツどんを買って向った。天龍寺、常寂光寺、二尊院、祇王寺、化野念仏寺などがあるが、その一角に芭蕉の弟子向井去来の庵である落柿舎がある。一般道が終りようやく嵯峨野らしくなってきた。 薫風に深呼吸して嵯峨野ゆく人力車が通ってゆく。最近の古い街並みなどでは人力車を見かけることが多くなった。自分が住んでいる川越にも人力車がある。 薫風や嵯峨野を走る人力車写真は撮らなかったが藤の花が咲いていた。そんな道を歩いた。 藤の花嵯峨野の風に揺れやまずしばらくあるくと畑の向こうに落柿舎が見えた。同時に正午の鐘が鳴り響いた。 嵯峨野路に正午の鐘や風五月畑には、豆の花や麦が穂をつけていた。又、耕運機で畑を耕す人がいた。 豆の花咲きて落柿舎はなやげるこの道を廻って落柿舎に入った。 落柿舎に続く畑道麦は穂に有名な蓑と傘がある。 柿主や梢はちかきあらし山 ・・・ 向井去来 五月雨や色紙へぎたる壁の跡 ・・・ 芭蕉 凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣りけり ・・・ 高浜虚子などの句がある。投句箱があったので触発され2句投句してきた。落柿舎をでて常寂光寺の門を見て(もうなかに入る気がしなかった。お寺はもう食傷気味だ。)横の行き止まりの道でカツどんを食べた。 さえずりや嵯峨路に広ぐ昼食にすぐ近くでうぐいすが盛んに鳴く。ようやくうぐいすも上手に鳴くようになった。昼食後、去来の墓に向った。 黒日傘通り過ぎ行く去来塚と思ったら 竹秋やみな素通りの去来塚だれも寄っていかない。どうも小さい墓なので探した。 白日傘佇みてをり去来塚手を合わせていた女性がいた。本当に小さい墓だ。 手を合はす去来の墓に若楓お墓の横の楓の若葉が美しい。 百の句碑去来の墓にさへずりぬ周りにおよそ百くらいの句碑がお墓を守るように立っていた。この後、二尊院、祇王寺、化野念仏寺まであるいたがほとんど印象に残っていない。化野念仏寺の今年竹。こんな写真しか撮っていなかった。帰りは、同じ道を戻ったが途中から天龍寺の竹林の涼しい道を通った。天龍寺の有名な苔の庭だ。(名前を忘れてしまった。メモも残っていない。)嵯峨嵐山駅から京都駅に戻り京都タワーに上って、今まで歩いたところをタワーから確認した。ほぼ京都の地理は頭の中に入った。京都駅も大混雑だが無事東京へ戻った。ふ~!疲れた~!kikiさんと同様「山より疲れる」。
2006年05月24日
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庭になる我が家のさくらんぼ。 青い実の日ごと紅ますさくらんぼ 紅さして雨の雫にさくらんぼ今年は豊作だ。といってもたかだか20個ほどだが。
2006年05月23日
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地下鉄東西線の二条城前でおり二条城へ向った。当日は、立夏で暑い一と日であった。二条城は、徳川家康の京都での宿舎で家康が秀頼に会見したので有名であるが、第15代将軍徳川慶喜の大政奉還が行われた場所として記憶にある。幕末のさまざまな歴史を思い巡らしながら二条城の中を歩いた。 大政の奉還偲ぶ立夏かな門から入って二条城を見た瞬間、なんと華麗な建物と目に写った。屋根の下の三角のところがなんともいえなく美しい。(大きく写っている女性は偶然写ってしまいました。肖像権を主張されたら困りますが。)中に入るとひんやりした感が何ともいえない。 夏告げるうぐいす張りの音色かな入城してすぐの廊下がうぐいす張りの廊下だ。みんな鳴らしながら歩いていた。広い部屋がいくつかあり「大政奉還」を行った間や決断した間など。又、将軍の寝所などなど。夏は、ひんやりして良いのだが冬はどうしていたのだろう。相当寒い気がする。火鉢を囲んでひそひそ話しをしていたのだろうか。ただ隣の部屋とは襖一枚での仕切りだからひそひそ話も耳の良い人にはみんな聞こえたことだろう。歴史小説を読むとよく内緒話がどこからともなく聞こえてくることがあるがこういう建物の構造からくるのが良く分かる。まして民家などで話したらすぐ聞こえそうなのが当時の建物なのかも知れない。老中の控えの間があったが薄暗く寒そうな感じを受け、「へえ~!老中は暗いところにいたんだなぁ~」と感嘆の声をあげたらガイドさん(所々に立って説明している人)がクスクス笑っていた。二条城を出て建物の外を一回りしてJRで嵯峨野に向った。
2006年05月22日
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銀閣寺からバスで清水寺へ向った。哲学の道を歩いてもいけると思ったが時間を考えた。乗ったバスが超満員で最後に押し込んで乗ったが京都駅方面が渋滞で一時間ほどかかってしまった。歩いても同じだったかもしれない。清水寺の参道の坂道だ。 仕事終え禰宜新緑の坂下る仕事を終えたのか禰宜(ねぎ)さんたちが伸び伸びした顔をして坂道を下ってきていた。拝観の券を買う人の行列だ。清水の舞台で有名な本堂である。 清水の舞台新緑の上に建つ新緑の真っ只中に建っている。舞台から見た音羽の滝で延命水と言われている。 うぐいすや延命水に人群れて写真は撮らなかったが本堂の裏に恋結びの神様があり若い人でごった返していた。 恋守り買ふ行列や鳥交(さか)る春になると小鳥達が盛んになるがそんな感じを受けた。本堂の向かいにある奥社だ。奥社から撮った京都市内だ。京都タワーが一際高く見える。そこから子安塔へ。本堂から撮った子安塔で江戸時代の建物で安産の祈願の塔のようだ。 うぐいすや清水寺の子安塔ここから本堂の下を通った。本堂(清水の舞台)を支えている柱の太さに驚き、かつ釘を使っていない作りのようである。本堂の下は、新緑と鳥のさえずりが心地よい。 清水の舞台の下に鳥交る解説とマッチしない句だが。ここから饅頭坂(?たしかそう思った)から三年坂へ向った。 新緑や舞妓の鳴らす鈴の音舞妓さんかと思ったが三年坂を下っていったら レンタルの舞妓セットや夏暑しそういうお店があった。ここから高台寺(秀吉のねね様のお寺?)、八坂神社を通って地下鉄東西線にでた。二条城へ向った。
2006年05月19日
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京都西北の仁和寺からバスで北東の銀閣寺へ向った。銀閣寺へは、金閣寺前を通るが、案の定渋滞で迂回路を通った。銀閣寺前に下りたら、銀閣寺への通りは人、人だ。それに暑い。横の哲学の道を歩いた。 哲学の道葉桜の道となり哲学の道は、延長1.8kmの桜並木の道と書かれている。 哲学の道に射し込む新樹光 哲学の道に思案の立夏かな とにかく暑くて近くの店で帽子を買った。 夏帽子哲学の道に買ひ求むバス停から10分ほどで銀閣寺についた。 銀閣の白壁汚れ薄暑光かなり傷んでいる。近くにガイドさんがいたので「銀閣寺は、銀が使われていますか?」と訪ねてみた。なんか木造建築のような気がする。ガイドさん曰く「こんどそれを調査することになっています」と。NHKで放送していたらしい。銀閣寺前のお山のようなものが「富士山」をイメージしているらしい。その前の、小石(コンクリート?)の模様が、なんとなく近代的で不自然だ。「なんとなくわざとらしいなぁ!」とひとり言をいったら廻りの人が笑っていた。 葉桜や傷みはげしき銀閣寺銀閣寺を出て哲学の道に戻り、バス停に向った。 国宝に疲れてしまふ子供の日大分疲れてきた。やはり暑いからだろう。 親子連れ来る哲学の道薄暑 人力車日陰で休む子供の日人力車の人たちも葉桜の日陰に休んでいた。清水寺に向うためバスを待つところも人が並んでいる。バスを待つ間が長いひと時だった。銀閣寺から清水寺にバスで向った。渋滞、渋滞だった。
2006年05月17日
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竜安寺から西へ歩いて10分ほどのところに仁和寺がある。仁和寺は、宇多天皇が院政を敷いたことで有名だが、遅咲きの御室桜でも有名だ。俳句によく仁和寺の句が出てくるので一度は見ておきたい気持ちで拝観した。最初に、入口の仁王門の大きさにびっくり! 仁王門見上げてをりぬ白日傘 中に入ってからの仁王門 仁王門から中門をくぐり左手に御室桜があったが葉桜であった。その他、五重塔、観音堂、金堂をみて銀閣寺に向った。 寺めぐりに疲れてきたのか感慨が沸いてこない寺だった。
2006年05月16日
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金閣寺の西方面に石庭で有名な竜安寺がある。バスで5分くらいのところである。 石庭の五つの石や子供の日ここも大勢の人だった。見た瞬間、なんか小さいなと感じた。(修学旅行のときはもっと大きく感じたが。) 石庭の縁に佇む夏帽子縁に座って眺める人が大勢いた。 石庭のうずの流れに残花散る石庭に枝垂桜の残り花が咲いていた。一通り眺め、5分くらいのところにある仁和寺に向った。
2006年05月15日
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京都駅からバスに乗り金閣寺に向った。金閣寺の入口だ。ここで拝観券を買う。拝観券がお札になっている。入口を入るとすぐ金閣寺が見える。更に近くで見ると 黄金の光りのなかに若楓 若葉風波のごとくに金閣寺急ぎ足でここまで来たが、この写真を撮ったとき一方通行だとわかった。戻りたいけど戻れないのに気がついて 新緑の戻れぬ道を振り返る戻ってもう一度見たかったが進むしかなかった。この日も暑く人出が多い。疲れ気味の体に冷たい抹茶がおいしい。 新樹光浴びて抹茶を飲み干しぬ金閣寺名物の抹茶を飲んでいると、金髪の若い女性と若い男性2人計3人が和服姿でこの庭園に来た。結構似合うものだと感心した。今着たばかりのようで、きっとレンタルの和服だと思う。 和服着て異人床几で新茶飲む日本人よりも何か情緒を感じながら次のお寺「竜安寺」へ向った。
2006年05月12日
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宇治平等院からJR奈良線、関西線を乗り継いで法隆寺駅に着いた。斑鳩(いかるが)の里だ。聖徳太子の里になる。地理的に言うと、京都と吉野山の中間くらいにある。斑鳩の里から吉野山に向う方向に明日香の里がる。法隆寺は、聖徳太子の建立で有名なので説明は不要であろう。駅から満員のバスに乗って法隆寺についた。(歩けば25分かかるようだ。)門前からの写真だ。大勢の人がいる。人を見ただけで疲れがでてくる。どの国宝を見るのにも行列だ。下の写真は、金堂だ。聖徳太子の両親の仏像がある。その仏像の拝観も20分ほど並んだ。 金堂も五重塔も薄暑かな五重塔の中に塑像があるがそれも行列だ。金堂と五重塔がある敷地は格子の塀に囲まれている。 斑鳩の寺の格子に新樹光3回行列に並び百済観音を拝観した。仏像は写真が撮れないので一句。 惜春や百済観音の微笑みに百済観音は見ていて飽きない。何か惹き付けられる魅力を持っている。百済観音から夢殿に向った。葉桜の道をあるいて。 葉桜の道を踏みしめ拝観すこの行列が長かった。 行列のとぐろの中に子供の日行列が真直ぐかと思い、それならそんなにかからないと思ったがとぐろを巻いていた。みなゆっくり拝観するのでなかなか進まない。ようやく見た夢殿でなかに何が祀られているかすっかり忘れてしまった。たしか聖徳太子像が祭られていたと思う。 人込みの斑鳩の里に夏来るすっかり疲れてしまったが斑鳩の里から京都へ向った。
2006年05月11日
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吉野山へ行ったことは前に書いた。吉野山に行ったことによって、南北朝時代の楠木、後醍醐天皇を知りたくなり吉川英治の「私本太平記」を連休に読み始めた。読み始めたら、どうしても奈良・京都に行きたくなり大急ぎの旅をしてきた。今回は、最初に行った「宇治平等院」を書く。まずは新幹線からの句。 竹の子の弁当の紐ほどき食ふ腹ごしらえして京都駅に着いた。 夏めくや京都タワーの白光り連休は3、4、5、6ととにかく暑かった。京都・奈良もそうだった。京都・奈良は、高校の修学旅行以来だ。もう遠い昔だ。京都駅からJRで宇治駅まで行き平等院まで歩いた。 新緑や平等院への石畳 拝観に行列続く薄暑かな 平等院の門だ。人が少ないように見えるが切符売り場に人が並んでいた。まずは、十円玉をおもむろに取り出して比較してみた。似ている。 十円玉手に新緑の平等院 名刹の刻をきざみて藤垂るる平等院を見て参道を引き返し宇治川の見物に向った。参道では、新茶の売り出しが始まっていた。八十八夜も過ぎて初摘みのお茶に人だかりが出来ていた。 初摘みの新茶の香る宇治路かな連休の奈良・京都はとにかく人・人・人で、どこも行列が続いていた。人込みを掻き分け宇治川へ。 新緑に染まる大河に神の橋神の橋かどうか分からないがそう思えた。新緑とお茶の香りに思いを残し、次は法隆寺に急いだ。
2006年05月10日
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もう大分経ってしまったが、連休の一日を秩父の芝桜と琴平丘陵のハイキングに出かけた。西武秩父駅に降り立ち羊山公園に向う。途中、若山牧水碑を通り芝桜方面に向った。公園の八重桜を見ながら。 太鼓の音聞こえる方に芝桜お祭の太鼓の音が聞こえる。人込みを掻き分けて歩いた。大変な人だ。進むのが容易でない。 芝桜人を集めて群れ咲きぬ人込みの中、なるべく人を写さないようにして撮った。芝桜を見たあとは、琴平丘陵を歩いて27番札所大渕寺へ。このコースはもう4度目にあたるので歩きなれている。新緑がきれいだ。 新緑の山道に聞くピアノ音新緑の道にピアノの音色が聞こえてくる。芝桜の人込みを離れ、静かな気分に浸れながら歩いた。蜂蜜を採取しているところがあった。途中立ち入り禁止だったので出来るだけ近づいて撮った。ここから上りに入る。いくつかの峰を越え岩井堂(26番札所)に着いた。懸崖に立っている札所の奥社(?)である。1時間半ほどで27番札所大渕寺の観音像についた。この日は何となく体調が悪く歩くのが億劫になるほどだった。大きい観音だ。下から見ると鼻の穴が極端に大きく見える。 新緑を眼下に眺む観音像ここを下って大渕寺に着く。2度の大火に見舞われ再建した寺だ。 大火二度ありし古刹やつつじ燃ゆこの寺には飲むと3年延命できる延名水がある。疲れた体に冷たい水が心地よい。2杯飲むと6年延命できるではないかなどと考えながら。 三年の延命てふ水藤垂るる 何となく体調が優れずこの寺で休憩した。 新緑の寺の床几に刻過ごす10分ほど休んで駅に向った。途中で撮った武甲山だ。削られて惨めだ。 削られし山新緑の上に立つ 秩父に来るといつもこの武甲山が迎えてくれる。だがいつも無残と感じる。この山を削った人が琴平丘陵の一角に祀られている。
2006年05月09日
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如意輪寺を後にし、ささやきの小径にでた。ちょうど谷にあたるところで川の流れを聞きながら歩いた。小鳥のさえずりを聞きながら。だれもいない道だ。途中、吉野駅まで20分の道標を少し進んだところに温泉があった。その先に左を登れば吉水神社と書かれていた。ちょうど如意輪寺と谷を挟んで両極に位置する。ということは如意輪寺に行くときに下った分登らなければならないということだ。簡略化された地図ではなかなか分からない。温泉の脇のコンクリートの道を登った。けっこう急な坂だ。 囀りやささやきと言ふ九十九折15分と書かれていたが休まず必死に登って10分で着いた。ここも又、歴史の神社だった。 義経の隠れの社花は葉に義経一行の隠れ神社でもあり、後醍醐天皇・楠木正成公の合祀の神社だ。楠木正成(吉水神社)・正行(如意輪寺)親子が谷を挟んで両極に祀られている。 花の山悲哀の歴史秘め散れり南朝の皇居にあたるようだ。そういう悲哀の歴史と裏腹に太閤の花見の本陣でもあったようだ。 太閤の花見の席に囀れりしきりに小鳥のさえずりが聞こえた。門のところの写真を撮って来た。歌書よりも軍書に悲しと書かれている。門を出て左側が吉野の桜を一望できる場所と言うことに気が付いた。今日ずーと通ってきた上千本だ。圧巻だ。そして中千本だ。 観桜やひと目千本の展望地看板には、上千本・中千本ひとめ千本と書かれていた。これを最後に吉野の駅に向った。そしたらすぐ傍に蔵王堂があった。この神社は、朝寄れば坂を登らなくても済んだことに気がついた。朝来た道を逆に戻った。途中、おおきな法螺貝を吹いて売っていた店があった。総門をくぐり、ケーブルに乗らないで吉野の駅まで歩いた。 登る人去り行く人も花の山駅には14時につき、すぐ名古屋までの切符を買った。特急を4回乗り継ぎ名古屋に着いた。名古屋からは、新幹線で1時間半で東京に着いた。帰りは早かった。さまざまな歴史、そして桜。吉野は、疲れた人を癒す力をもった山かもしれない。そう思いながら一日を振り返りながらぐいーっとビールを飲んで眠った。
2006年05月02日
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上千本から道に迷いながら如意輪寺に向った。途中、如意輪寺が山の中腹に見えた。谷の向こうの山にあるようだ。一旦下って、また登るようだ。坂を下る途中、正午の寺の鐘が山に響いた。 梵鐘に花千本の吹雪かなだいぶお腹が空いて来て力が出なくなってきた。又、時間的にどうか迷ったが何か惹かれるものがあって如意輪寺に向った。下って、また登った。途中の廃茶屋で昼食を摂っている人がいたが山門まで登った。山門までの道に著峩の花が咲いていた。山門を見上げて軽い驚きを持った。これがこの寺に惹かれた理由だったと。左の方に’楠木正行(まさつら)’と書かれている。楠木は河内の豪族で後醍醐天皇を助け南朝を興した一族で楠木正成、その子正行(まさつら)が歴史に残る。戦前は英雄扱いを受け戦前派は、誰でも知っている名前だ。ところが戦後、教科書から消えほとんどの人が知らない武将の名前だ。楠木正行(まさつら)は、正成亡き後、足利尊氏との戦いに負けると解りながら戦いに挑み若くして(23歳)没した人だ。その楠木正行(まさつら)が祀られている寺だ。登山靴の名前は、’正行(まさゆき)’で父(戦前派)によると、楠木正行公からいただいた名前と聞いている。小学校の頃は、父の同僚が担任の先生だったりでよく’まさつら’と呼ばれていた。(当時は何のことか分からなかった。分かったのはだいぶ後になってからだ。)この吉野の山に祀られているのを、この寺にきて初めて知った。足利尊氏と戦って負けたと言うのも何か感じるものがある。登山靴の家紋は、丸に二本の線があるいわゆる釜蓋(かまぶた)だ。足利尊氏の家紋と同じだ。家紋に名前が負けた!妙な気分だ。楠木正行公の植えた木槲(もっかい)の木だ。楠木正行公だ。戦いに先立ち辞世の句を書き残している。 かゑらずとかねておもへば梓弓(あずさゆみ) なき数に入る名をぞとどむる看板の梓弓の字が見えなく説明を見ていた年配の人に聞いて書きとめた。 若武者の辞世句に濡る著峩の花又、もとどりを埋めた墳があった。 若武者の埋髻の墳や花は葉にいろんな思いを込め、時間を忘れ過ごした。自分と同じように俳句手帳を持った女性の一団(5から6人)がいた。吟行句会のようだ。なぜかこの寺を去りがたくかなりの時間を費やした。又、一人の悲劇の武将に出会った。吉野山は、なぜか人を癒す力を持った山かもしれない。如意輪寺を下って吉野の駅方面にある吉水神社に向った。吉水神社は、如意輪寺と谷をはさんで向かいがわにある神社だ。
2006年05月01日
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