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生徒たちの中間テスト勉強期間が、本日すべて終わりました♪気がつくともう5月も終わりですね来月は、移動教室やなんだで、生徒がいない日が多いで、それが終わるとすぐ期末夏まであっという間だなあと言うわけで、本日 しゅうりょ~
2008.05.30
大阪の某高級料亭が廃業しましたなんだかんだと言っても、経営はお客様次第お客様からの信頼がなくなったら、どんなに老舗でもあっという間(百歩譲って、産地偽装とか、賞味期限の改ざんは許せることかもしれないが、使い回しは洒落になりません。社用族が激減したことは容易に想像できます)まあ、私にはおそらくまず縁がない店の出来事ではありますが、経営者の末端の末端としても、大いに勉強になる出来事です。ところで、お客様の信頼を失ってとも思いましたが、実は産地偽装の時は納入業者に、賞味期限の時は従業員に責任転嫁しようとしたんですよね。良い仕入れ先も、良い従業員も失ったことも、廃業の遠因かも。いずれにせよ、苦労知らずのぼんぼんは、いかに守勢に回ると弱いかも知りましたねえ。
2008.05.29
教育再生懇談会が第一次答申で提案したこと(そもそも、この手の組織の提案が本質を突いたことはほとんどないと思うが、まあそれはおいとく)小中学生には携帯を持たせない(私は高校生でもいらないと思うが、そこまでは言うまい)私も基本的には賛成子供との連絡手段が必要という意見もあるだろうが、行動をある程度把握していれば、持っていなくても大丈夫。と言うか、緊急の連絡に使ったことがあるのだろうか?おそらく年に数回もなかろう。携帯持っているから家族がつながっていると思うのはCMだけの世界で、携帯に依存すればするほど、家族がばらばらなのが現実ではないか?大体子供が持つには高級品過ぎる。携帯会社は割引制度を設けて顧客の囲い込みに必死だが、裏返せばそれだけ割引しても元が十分取れると言うこと。ただしもはやインフラだから、持たせないという提案は少々現実味がないで、どうしても持たせたいなら、私が感じたルールがあるそれは、価値がよくわからない小学校低学年のうちに持たせてしまうか、高校生くらいになって、料金は小遣いから天引きとか、金額の上限を超えたら自腹とか、しっかりルールを決めて持たせるかのどちらか。ほしくてたまらなくなる時期から持たせるのがもっとも危険だと思う。ただこれは私の直感だが、ある特定の層においては、確実に携帯離れが起き始めているような。メールのやりとりがめんどくさい、操作がめんどくさいという層が確実にいると思う。うちの生徒でも、確かに携帯を持っているはずなのだが、実質不携帯というのもいるので・・・まあ本音としては、あんな小さな機械に振り回されるのだけは、つまらないからやめなさいと言うこと若いうちは、いろいろなものを見て、いろいろな人とつきあって、いろいろなことを体験した方が良いと思う。携帯は手段であって、決して目的ではないのだ。
2008.05.27
昨日は、うちの生徒が通学する中学校の運動会を見に行くもう毎年のことだ。天気が心配されたが、無事に最後まで終わった。こう言うのってなにが楽しいかというと、普段塾では見られない生徒たちの表情が見られると言うこと。学校と塾とでパーソナリティが違う子は結構いる。人間関係も環境も全部違うから、当然と言えばそうだが。競技に臨む前の緊張に満ちた顔一生懸命走る姿終わったあとの、安堵感普段見られないだけに、実に貴重である意外な一面も見られて楽しい。子供の性格も成長も、すべて一様でないんだなあ
2008.05.25
商売上、はがきを書く機会が多い。官製はがきを使うことが多いのだが、時々絵はがきとか、私製はがきを使うこともある。となると必要なのは切手だ。通常切手でも良いのだが、ここはできるだけ記念切手を使いたい大概郵便局では、記念切手というと、何種類か出してくれる。いつもこの手で買っている。で、実際に貼って出すときは、できるだけ季節感を出せるように工夫しているつもり。まあ、なかなかうまくいかないことも多いが。最近、自分も切手を貼ってある郵便物を受け取ることが少なくなった郵便の取り扱い自体も減っているだろう。でも、やはり郵便局にはがんばって記念切手を出し続けてほしい。やはり切手が貼ってある手紙はうれしいものだと思うから。
2008.05.22
四川大地震で、日本の災害救助隊ががれきの下から救い出した母子の遺体に黙祷をする写真が、中国人の賞賛を得ているらしい。読売新聞が報じている。同胞に哀悼の意を表している日本人に対する感謝だそうだ。これをサヨク的視点で見ると、単なるセレモニーととる人もあるらしいが、日本人の感覚として、もしこういう現場に遭遇すれば、間違いなく手を合わせる、もしくはお線香の一本でもあげるというのが普通な気がする。私もたぶんそうするだろう。私は、中国のいわゆる「反日」は、過去の歴史認識を正しく反映したものではなく、天安門事件以降、半ば意図的に仕組まれたものだと思っている。ある意味で不幸なことである。まあ、別にこれを持って、日本人はすごいとことさらに言うつもりはないが、当たり前に持っているこういう気持ちを、もっと堂々と大事にしていけば良いんだろうなって思う。
2008.05.21
台風が近づいているようで、明日の東京は荒れ模様の予想。場合によっては授業を休みにするかもしれません午後2時の段階で警報が出ているばあいは、お休みにするルールとしているので、そのルールにのっとるまでだが。やはり来てもらう立場としては、行き帰りの足はとても心配
2008.05.19
ここ数日、東京もようやく天気が良くなり、5月本来の陽気に。すっかりこども達の服装も夏モードに。半袖全開である。私なんかまだまだ長袖に、朝晩はジャケットでちょうど良いくらいなのだが。こども達は教室に来るなり、必ず「暑い」を連呼する。体温が高いんだな。まだクーラーを入れるには至っていないが、まもなく入れることになるだろう。春は短い(笑)
2008.05.17
昨日の続きいろいろ方法はあるだろうけど、私の方法を一つそれは、底切りの頭上げ。得意なこと、好きなこと、やっていて抵抗を感じないことを中心にする。勉強だったら、得意科目にまず力を入れさせる。苦手科目は当面捨てる勢いでも良いくらい。ついつい欠点を底上げして標準化を図ろうとするが、これをやると大概、全体が地盤沈下する。だからまず欠点には目を向けない。不思議なもので子供はやらなくて良いものがはっきりすると、すごく安心するものだ。基本的に学校教育は、苦手なものを克服することに主眼をおいているのだが、肝心な方法を教えていないので、結局コンプレックスを増やすだけになっているのだ。不思議なもので、得意を伸ばすと、全体的に他も上がってくるのだ。不得意をいったん捨てるという、一見遠回りな事が、案外近道になってきたりするのだ。ポイントは、すぐに結果を求めないと言うこと。特に男の子の教育には、必須な事かもしれない最近の教育は、すぐに結果を求めようとする近道を行こうとする。しかしこれが結果的に、どれだけ遠回りを強いているか?わからない人にはわからないことかもしれない。でも、こども達は本能的にかぎ取るんだな。言葉には出来ないけど、何が正しいのか、本能的にわかるのかもしれない大人の曇った目よりも、ずっと本質を突くことがあるのかもしれない子供のそういう確かな力を信じて、あまり小細工しない方が良いんだと思う。その力を感じたとき、本やネットなどにあるあまたの教育情報が、実に陳腐に感じる。本当の知恵は、やはり実際に子供に向き合ったときにしか出てこないのかもしれない。ところで、子供達のそういう直感力をかぎ取って対応するときって、本当におもしろいブログなんかで書けるものでは到底ないレベルだ。まあ、そんな丁々発止を狭い教室でやっているんだろうなあ、毎日。
2008.05.16
前にも書いたけど、男の子の成長は遅い小学校高学年位が顕著だけど、体格的にも精神的にも男の子は女の子に負ける。体格で追いつくのが中学生くらい精神面で追いつくのが高校生になったくらいそんな印象かもしれない男の子は、「サル」という自分を見つめる時間が必要なため、どうしても遅くなるしかしこれが、お母さんにはなかなか理解が難しい。でも、お母さんに理解しろと言っても無理な話。本来ならここで父親が出てきて、男の子の気持ちを代弁してあげるべきなのだが、今の教育にはお父さんの影が薄い。お母さんの孤軍奮闘ばかりが目立つ。お母さんはどうしても現実に対応してしまうため、(それが悪いわけではない、子育ては現実でなければできっこないから)他人と比較して、うちの子が遅れているのではないかと必要以上に心配してしまう。だから、いろいろ情報をあさって、先回りして頑張らせようとする。うまくいけばそれで良いが、大概お母さんの意識と、本人の意識にずれが生じる。それがお母さんのイライラの元になる。とにかく男の子は成長が遅いのだ。お母さんが期待するとおりになるのは、高校生くらいではないだろうか?男の子の成長は、片目で見守るくらいがちょうど良い。忍耐強くいろいろ仕掛けながら、まあ半分くらいできればちょうど良いくらいに思っていた方が良い。当の本人だって、絶対にいい加減にしようとは思っていない。でもまだまだ未熟な子供だ。どうしても出来ないこともある。それをあきらめずに子供と向き合う。時間かかるが、そうやって育てられた子は、絶対に大きな果実が実る。語弊があるかもしれないが、大きな仕事は、ほとんどが男が成し遂げるのだ。大きな実がなるには、大きな幹と根っこがいる。じっくりと育てないとならないのだ。それを目先の情報や周囲との比較で振り回されてしまうと、根っこが弱くなってしまう。目先の満足で、大きなものを失ってしまう。とにかく男の子は、じっくりと見守ってあげることそのあとに必ず大きな実りを与えてくれるから。では、具体的にどう向き合っていったら良いんでしょう?それは次で
2008.05.15
大きなニュースが立て続けに起きるので、もう忘れてしまっている感がある、船場吉兆の残り物使い回し事件女将が釈明会見で、今後も続ける、死ぬまでやると言っていたと思います。まあ確かに続けるのは自由です。しかし、そのお店に行くか行かないかは、お客様に100%決定権があるのです。お店の決定権は0%です。いくら女将が豪語しようとも、その事実は全く変わりません結局気の毒なのは現場で働いていた人たち。つくづく、中小企業は経営者で決まる事を実感しております。
2008.05.14
今日、鉄道に関するあることが採用された日だそうです時は1987年。JRが発足した年です。さてさて、なにが採用されたかというと・・・「E電」 です!覚えてますか?「E電」!かつて国鉄時代、国電という言葉がありました~Wikipediaより~国電(こくでん)とは「国鉄電車」の略称と言われ、日本国有鉄道(国鉄)時代に次のような意味で使われた。 1. 東京(首都圏)や大阪(京阪神)周辺といった大都市近郊の通勤電車が走る区間の総称。例・山手線、中央線など。 2. 戦時買収私鉄路線で首都圏と変わらない運行体系をとっていた場合の通勤電車が走る区間の総称。例・仙石線。私のイメージとしては、1かな。まあ、それに変わる呼称として、21年前の今日「E電」が発表されたのです。しかし、何となく語呂が悪いのと、JR線という総称や、山手線や中央線という線区毎の呼称の方が使われるようになったのに伴い、私の記憶では、たぶん1,2年くらいでほとんど使われなくなった感じがします。今や完全に死語の仲間入りですね。しかしそもそもこんな話、うちの生徒に話しても誰も知りやしません。国鉄だって知らないんですから(苦笑)。昭和は遠くなったなあと思いますね。
2008.05.13
2ヶ月ほど前にうちに来た、住宅地図広告の営業マン。つくづく頼まなくて良かったと今朝思った。確かこれ、3月中に折り込まれるとのことだったが、なんと折り込まれたのは今日!ずいぶん時間かかったものだ。予定の広告が埋まらなかったのだろうか?しかしそう思った理由は、折り込みの遅さからではない。肝心な地図が間違いだらけなのだ。ザッと見ただけでも数ヶ所発見。特にひどいのは、広告主のお店の位置すら間違えていること。これ、問題になるんではないの?ちなみに去年のとも見比べてみたら、やはり同じミスをしていたので、結局ほとんど校正らしきものをせず、そのまま出しているだけなんだろうか。まあ、営業マンが営業マンなので、仕事内容は推して知るべしだけど。以前、商店街で地図を作ると言うんで、このときは間違って出してしまったけど、今回はその経験が生きたと言うことで(笑)追伸ちなみにその商店街の地図、銀行とか商店の店先に置くことになっているのだが、あまり配られることなく、死蔵されることが多いらしい。現に私はおいてあるのをほとんど見たことがない。近隣のお店が広告入れているので入れたのだが、だまされた気分。何のために作っているんだろう?この手の広告は、結構いい加減なのが多いようだ。
2008.05.13
小学校高学年くらいから、高校生くらいの生徒を毎日のように見ている。どの子にも個性があり、成長度合いが皆違う。総じて男の子は、女の子よりも成長が遅い傾向がある。小学校高学年あたりでは、体格差でも男の子は負ける。体格は、中学生くらいで追いついてくるが、精神的に追いつくのは高校生くらいになってから。まあ、もちろん個人差はあるが。男の子は、いわゆる「サル」の期間が存在するから遅いんだと思う。でも、何度も書くが、この「サル」の期間はとっても大事。大人、特に女親から見ると、なにが楽しいんだかさっぱりわからないことに夢中になる。でも、この時代をどのように過ごすかで、器の大きさが決まってくる。今は、男の子にとっては生きにくい時代な気がする。教育に短期的な成果を求めすぎているからだ。現実に対応できる子なら良いが、「サル」の時代を過ごしている男の子には、ちょっとキツイ。さらに、今の教育には父親の影が薄い。母親が中心。このキツさは、母親にはわかりにくい。ついつい、他人と比較して劣っているのではないかとあせる・・・情報にも振り回される。とにかく、男の子の成長は遅い孔子が、学に志すのは15歳だと言った。昔の日本では元服は15歳だった。この年齢くらいで、ようやく男の子は自分が見えてくるのだと思う。自分が何者か、どんな能力があるのか?がわかってくるのだと思う。少しくらいの差異に一喜一憂せず、男の子はじっくりと育てたい。ちゃんと大人になれば、立派になっているのだから。
2008.05.12
他人がとやかく忠告、アドバイスしても、考え方は早々変えられない。これは、相手が子供でも全く同じ。子供の場合、小さいうちならば、周囲の大人が強制力を働かせることは可能だが、そのさじ加減が非常に難しい根底に愛情と覚悟がないと、必ず反動がくる。結局のところ、自分の考え方は自分が変えるしかない。しかし考え方を変えたとしても、行動に結びつけるのは相当に難しいわかっちゃいるけどやめられない なのだ。ならばどうするか?適度な強制を自分にかけて、できるところからやり抜くしかなかろう。やるのは自分でしかないのだ。他人に責任は転嫁できないその覚悟をもてたとき、人は変わっていくのかもしれない。親がどうだ、先生がどうだ、社会がどうだ、政治がどうだ・・・とか言っているうちはまだまだ恵まれているのかもしれない。
2008.05.10
考え方が変われば行動が変わる行動が変われば習慣が変わる習慣が変われば性格が変わる性格が変われば人生が変わる自己啓発の本などで見かけるフレーズである確かに当たっている。間違いない。私も信じていた。でも・・・私は初手から挫折する。まず考え方を変えても行動が伴わない。「わかっちゃいるけどやめられない♪」植木等が歌った有名な歌のフレーズがある。これは人生におけるけだし名言だと思う。わかっちゃいるけど、お酒やめられないわかっちゃいるけど、たばこやめられないわかっちゃいるけど、朝すっきり起きられない・・・わかっちゃいるけど、なかなか行動できないのが人間だと思う。人間というのはかくも弱いのだ。考え方を変えて、即行動できるのは、これは人間の強者だと思う。たぶん100人中数人と言うところだろう。もちろん私は入っていない。やはり慣性の法則と一緒で、適度な強制を加えてやり続けるしかないと思う。たとえば早起きしようと思ったら、決めた時間になにがなんでも起きるまず起きたら、起きたことだけを認めてあとは自由。いきなり約束事をたくさんもうけてもできっこない。約束事はまず一つ。それだけを習慣化するまでやり続ける。何の苦もなくできるようになったら、次の目標に入る。たとえばウオーキングとか。早めに会社に行くとか。これを最初からセットにしてはいけない今日は疲れているからウオーキングはやめようとか、別な言い訳を考えるに決まっている。言い訳すると早起きもしなくなる。まずはできるところから習慣化するまでじっくり。勉強だってそうだ。決められた時間に机の前に座る。まずはここから始めるべき。最初は座りさえすればいいことにする。それを座って、さあ数学をやろうとか考えると、今日は数学やらなくても大丈夫とか、気分が乗らないからいいやとか思うに決まっている。そうなると、座ることさえしなくなるまずは、小さな事を習慣化するまで積み重ねる。習慣化すれば、必然と質も高まる質が高まれば、考え方も変わるし行動も変わってくるあとは定石通りだ。何事も走り出しが一番大変。ならば無理してハードルをあげない。できるところから「したたかに」やり抜けばいいのだ。
2008.05.07
昨日は菖蒲湯いつも行っているのだけど、もちろんこういう日は当然行く(笑)。なんでこんなに行くんだろう?我ながら思う。週に数回は行っているし、たまに旅行すれば、旅先の銭湯にもわざわざ探していく。特に私の場合、スーパー銭湯ではなく、一般的な銭湯が好みである。銭湯料金は都道府県毎に決まっていて、東京の場合430円。お世辞にも安いとは言えない。でも、「そこに銭湯があるから」行くまあ、それはともかくとして、私の場合は実利的な意味も兼ねている一人暮らしなので、掃除の手間が省けるのは大きい。でもなにより、あの広い空間が好きなのである大きい湯船で手足を伸ばしてはいる。高い天井を見ながらリラックス。あの瞬間が気持ちの切り替えにもなる。体の暖まり方も全く違ううどんはお店で食べた方がおいしいことが多いが、あれはやはり大きな鍋で一気にゆでるからだと思う。それと同じで、大きい湯船の方が、体がまんべんなく温まる気がするのだ。さらに冬場だと特に、家風呂は入った瞬間にお湯の温度が下がるが、銭湯だとまずない。新陳代謝にも良いと思う。風呂通いを続けてから、冬場に風邪を引くことが少なくなった気がする。ひと月の銭湯代はたぶん平均5000円前後。趣味と実益を兼ねられるので、私にとっては決して高いものではない。
2008.05.06
昨日は、所用があり浅草まで出かけた。連休中ということもあり、観光客だらけ。せっかく来たので、観音様にお参りしようと思ったが、大行列を見て早々に退散。さらに、帰りがけには六区を通ったので、久々スマートボールに挑戦。ここもまた大誤算。スマートボール自体は良いのだが、問題は店員の態度。このお店、200円と300円とあり、値段によって球数が違う。200円でまずは、と思って金を出したら、300円しかないと来た。。。どうせ観光客しか来ないから、少しでも単価高くとってやれとのことだろうが、足元見られているようで気分が悪い。ならば最初から300円と表示しとけ!そう言えば、浅草で食事しなくなってどれくらい経つだろう?客あしらいばかり妙にうまくて、値段の割には大したことないことに何度か失望して以来。父が浅草生まれだったので、浅草の町はなじみがあり、時折訪ねていたのだが、最近はあまり足が向かない。マーケティングがうまいのか知らないが、観音様周辺は確実に客が増えたと思う。しかしどこも妙にテイストが似てきており、全体的に薄っぺらくなったなあというのが、直感的な印象。人力車を引っ張るお兄ちゃんの明るさも、どこか嘘くさく感じる。あくまでも直感であって、がんばっている人を揶揄するものではない。しかし両親とも祖父母の代から江戸っ子(と自負)としては、今後積極的に行こうとは思わなくなったのも事実。最近のマーケティングは、人集めはうまいのかもしれない。しかし突き詰めればどこも同じで、妙に明るさ、快活さだけが目立つ。そりゃあ明るくて威勢の良い方が良いが、どうも手段としての明るさで、方法論としてだけの明るさ。そこに薄っぺらさを感じてしまう。浅草って、歴史と伝統があり、良い町だと思うのだが、その良さがなくなっているのではないか?マーケティング手法にどこか限界を生じているのではないか?そんなことをふと思った一日だった。追伸そういえば、同じようなテイストを月島のもんじゃ横町でも感じたなあ・・・
2008.05.05
銭湯が好きで、東京だけにとどまらず、関西などの銭湯を巡ったりもする。銭湯は斜陽産業ではあるが、流行っているところはそれなりに流行っているもんだ。これは地域性があまり関係ない。逆に、自分が入っている間、客がパラパラ・・・ 余計なお世話だが、一日何人お客さんが・・・と考えてしまうところも多い。二極化している印象だ。何軒も回っているとそれを痛感する。で、流行っているところとそうでないところの違いは、やはり端的に言えば努力の差。古い良さを残しながら、ちゃんと時代に合わせて、サウナをつけたり、浴槽の数を増やしたり、内装をよくしたりと、お金をかけて対処している。もしくは、基本的に長時間営業。休みも少ないし、深夜過ぎまでやっていたりする。流行っていないところはその逆。私個人的な好みとしては、お湯の質と清潔かどうかにはこだわるが、設備が豪華かどうかはあまり気にしない。むしろ、深い湯船と浅い湯船があるだけのシンプルな方が好きだったりする。けれども、一般的にはある程度設備が整っている方が受けが良いのは確か。さらには長時間営業してくれた方が利用者としてはありがたい。何でもお金をかければいいってモンではないが、できる部分で努力しているかどうかは見ていてよくわかる。経営者の高齢化とか、燃料費の値上げとか、気の毒な部分はあるが、お客にとってはあまり関係のないこと。こういう不満が漏れ聞こえてくるところに、ああ今までどこかで甘えていたんだろうなあ・・・と思ってしまう結局は、お客に使われてなんぼ。銭湯巡りは、経営の基本を肌で感じる機会でもあるのだ。
2008.05.03
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