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1959年6月30日、沖縄県うるま市にある宮森小学校に米軍ジェット機が墜落して炎上。死者17名(うち児童11名)、負傷者210名(うち児童156名)、住家17棟、公民館1棟、小学校の3教室を全焼、住家8棟、2教室を半焼する大惨事となった。この事故に対して米軍は「嘉手納基地所属のジェット機が訓練飛行中に突然爆発、パイロットは無事脱出したが、機体は目標をそれ、市内に落ちた」「不可抗力の事故」であるとした。奪われた幼い命ー宮森小米軍ジェット機墜落事故ーこの事故から62年たった今も沖縄の空は米軍の思うがままだ。民家の上を深夜に至るまで飛行し、ときには保育園や小学校に落下物が…小学校への落下物、米軍ヘリの窓 授業中の男児1人けが沖縄の空はいつになったら平和になるのだろうか。宮森小学校の事故を描いた映画ひまわり〜沖縄は忘れない あの日の空を〜
June 30, 2021
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今年も慰霊の日がやってきた。戦後76年目の6月23日。この日は朝から雨だった。日の出前に平和祈念公園へ行くと『平和の火』が静かに燃えていた。沖縄戦で米軍が最初に占領した慶良間諸島の阿嘉島(あかじま)、原爆が投下された広島と長崎、この3ヶ所から持ってきた火を併せてここに灯している。丸い池の中には地図が描かれている。中央の三角錐のモニュメントが沖縄の位置。そこから水が湧き出し、その波が四方へと広がっていく。『沖縄から平和の波が世界中に広がりますように』そういう願いを込めたデザインなのだ。空には雲が重く垂れ込め、雨も降っていたので、今年も久高島から登る朝日は見えなかった。76年前、この海はアメリカの軍艦で海面が見えないほど埋め尽くされていたという。そしてこの島には『鉄の暴風』と言われるほどの激しい爆弾の雨が降り注いだ。平和の広場には平和式典(沖縄戦全戦没者追悼式)の会場が設営されていた。今年はコロナのために参加者は30人ほどだった。会場の正面に見えているのが摩文仁の丘。陸軍第32軍司令部が最後に置かれた場所。向かって一番右端の中腹あたりにガマと呼ばれる自然洞窟があり、そこを司令部として使った。1945年6月23日未明、その司令部壕で牛島満司令官が自決。組織的戦闘としての沖縄戦は終わるが、『捕虜にならず最後の一人になるまで戦え』という司令官の最後の命令は軍としての戦闘をゲリラ戦へと変容させ、沖縄戦は終わりが見えなくなった。6月23日以降も戦闘は続き、玉音放送後もまだ沖縄戦は終わらなかった。沖縄戦が公式に終結したのは9月7日。嘉手納で降伏文書調印式の行われた日である。沖縄本島南部は沖縄戦終焉の地。南部には十数万人の県民が避難していた。そこへ日本軍が撤退、米軍が追ってきた。逃げる場所はもう海しかないこの場所で、軍人のみならず多くの住民が犠牲になった。彼らの遺骨は今もまだこの大地に残っている。そんな場所の土を、国はこともあろうか、軍事基地を作るために海へ投げ入れるという。辺野古の美しい海を埋め立てるために使うという。ガマフヤー(遺骨発掘人)の具志堅隆松さんが抗議のハンストを行っていた。多くの人が署名に訪れていた。各地では慰霊祭も行われていた。ひめゆりの塔でも。私もご焼香させてもらった。ひめゆりの塔が建っているのは伊原第三外科壕というガマの上。ここが攻撃されたのは1945年6月19日早朝、ひめゆり学徒たちに解散命令が出された翌日だった。解散命令というのは、壕を出て自分の身は自分で守れという命令。壕の外は爆弾の降り注ぐ戦場。学徒たちの絶望はいかばかりであったか。しかし彼女たちが壕を出るより前に米軍のガス弾攻撃を受けてしまった。当時このガマにいた100余名のうち、80名以上が犠牲になった。ひめゆり学徒は50名いたが生き延びたのは8名だけだった。そのうちの3名も壕を出た後に亡くなってしまった。南風原の陸軍病院から南部に撤退してきたあと、周辺の6つのガマに分かれて身を隠していた学徒たちだったが、それぞれのガマでも解散命令が出され、その後の数日で100名以上の学徒が亡くなった。解散命令前の犠牲者は19名だった。魂魄之塔(こんぱくのとう)にも多くの人が訪れていた。ここは沖縄戦後、最初に建てられた慰霊塔。当時の真和志(まわし)村(今の那覇市)の人々がこの地域に収容され、農作業をするように言われるが、あたりには遺骨が散乱している状態だった。そのため村長の金城和信(きんじょうわしん)氏が米軍に掛け合って遺骨を収集する許可をもらい、住民と協力して一帯からここに遺骨を運んだ。この塔に収められた遺骨は約35000柱。家族がどこで亡くなったのかわからない遺族はもしかしたらここに遺骨があるかもしれないとの思いで今も多くの人が慰霊に訪れる場所である。夕方になって少し青空が見えた。もういちど平和祈念公園に行ってみると多くの家族連れが『平和の礎』を訪れていた。『平和の礎(へいわのいしじ)』には国籍、軍人、民間人、敵・味方の区別なく、沖縄戦で亡くなったすべての人の名前が刻銘されている。亡くなった人はみんな戦争の犠牲者、命に違いはないのだ、と、そう考えるのが沖縄の平和の心なのだ。今年も41名の方が沖縄戦で亡くなったことが確認され、刻銘板に名前が追加された。現在の全刻銘者数は241623名である。礎の前にはたくさんの花が手向けられていた。そして故人が好きだったお菓子やお酒なども。241623…これだけの数の人生が戦争によって奪われた。そして生き残っても身体や心に傷が残っている。大地には不発弾、そしてまだ発掘されない遺骨も。戦争の傷は決して癒えることがない。戦争はいちど起こしてしまったら、未来永劫二度とそれ以前には戻れないのだ。だから二度と戦争を起こさないために私たちは沖縄戦を学ぶ。なぜ戦争へと進んでいってしまったのか、同じ道を再び行くことがないように日本の歴史を学ぶ。『慰霊の日』は戦争で亡くなった人を追悼し、戦争と平和を考える大切な一日。沖縄には毎年この日があるから、繰り返し繰り返し戦争を思い出し、体験が語り伝えられ、私たちはそれを受け取って考える。そうやって平和への道をみんなで作っていくのだと思う。
June 29, 2021
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