タイガース非公式サイト2代目

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ヒロくん2010 @ Re:タイガース背番号史 22-5(06/11) おはようございます😃 薄曇りの空ですが、…
タイガース非公式サイト2代目 @ Re[1]:貯金あと一つ 風前の灯ね(06/06) パピー殿さんへ コメントありがとう! 将…
パピー殿 @ Re:貯金あと一つ 風前の灯ね(06/06) ついに、なのか?、こうなる事は分かって…
marie@ Re:タイガース背番号史 22-4 田淵幸一物語(06/03) 背番号史はいつも楽しく拝読してますが、…
ヒロくん2010 @ Re:タイガース背番号史 22-4 田淵幸一物語(06/03) おはようございます😃 雲の多い空ですが、…

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2017年06月12日
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おことわり:関ヶ原合戦は慶長5年9月15日の出来事ですが、西暦では1600年10月21日になります。今回のカテゴリーでは、当時の記述については すべて旧暦で記載していきますのでご注意ください。
松尾山 小早川秀秋陣地
慶長5年8月10日、石田三成は城主伊藤盛正を説得して開城させ大垣城に入城しました。そして盛正に依頼したのが松尾山の整備です。もともとここには松尾山城という砦がありました。次のように山上の立て札にもその解説があります。
012松尾山城解説.JPG
立札の解説によれば、織田信長が浅井長政を攻め亡ぼしたのち、城としての役目を終えたとして天正7年に廃城になっています。
 三成は松尾山城跡を整備しなおして、西軍総大将の毛利輝元を迎え入れようとしましたが、輝元は大阪城を動かず、嫡子秀元も南宮山に布陣して動かないため、やむなく整備を担当した伊藤盛正がそのまま陣を敷きます。
 そして、 決戦の前日に当たる9月14日に、小 早川秀秋が1万5千の軍を率い、なぜか強引に 盛正隊を押しのける形で松尾山に陣を敷きました。
 秀秋に対し離反の疑いを持っていた三成は、松尾山に入った秀秋の軍勢が脅威に感じられ、警戒のため大垣城を出ざるを得なかったとも言われています。この説に従えば、小早川隊の着陣こそが、「戦いの舞台が大垣ではなく関ヶ原に変わった瞬間」ということになりますね。
駐車場に到着
 では松尾山に行きます。ふもとには駐車場があります。ただし、道路から死角になっているうえに、5~6台程度しか止められませんので注意が必要です。
駐車場600.JPG
駐車場脇にはとても 立派な解説プレートが立っています。以前来た時にはなかったですから、この1~2年で作られたものでしょうね。
 解説もかなり詳しいし、英語に翻訳した文まで入っています。傍らには木の杖が用意されているなど、地元関ヶ原町の人たちの心遣いが感じられますね。
004小早川英明陣地プレート.JPG
頂上へ向かう
山道に入っていきます。道はきちんと整備されていて、道案内表示もあるので迷う心配もなく、手ごろなハイキングコースです。環境庁が整備する東海自然歩道の一部にもなっています。
006松尾山山道1分かれ道.JPG
 勾配の険しいところには丸太を利用した階段も作られていますから、とても歩きやすい登山道になっています。子供連れでも十分登れます。
009松尾山山道階段.JPG
 中腹まで登って小早川の紋「違い鎌」が入ったのぼりが立った分岐点に着くと、方向を示す矢印の案内表示があります。これも真新しくなっていました。最近更新されたようです。ここから山頂までおよそ900メートル、所要時間が30分とあります。
007松尾山山道2あと30分.JPG
 非公式サイトの足で約20分ほど登ると、山上に陣地が見えてきました。ここから最後のキツイ傾斜の部分を登れば到着です。ここまで登ってかなり疲れているのでしんどいですがあと少し。
010松尾山山道小早川陣地までもうすぐ.JPG
陣地に到着
山上に到着しました。確かに砦の跡らしく土塁で囲まれて平らな地形になっています。かなり広いスペースに思えますが、これが当時の姿のままなのかどうかはわかりません。木陰が多く、東屋やテーブルなどもありますから、ゆっくり休憩できます。
011松尾山山頂広場.JPG
早速、テーブルを使わせてもらって昼食を。この日(2017年6月4日)はとても天気が良く、風も爽快で気持ちのいい日でした。
 ただし、登っているとき~山上にいる間~降りてくる時、この間2時間半くらいですが、誰一人として会うことはありませんでした。好天の日曜日に誰も来ないなんてもったいないです。
013松尾山山上から決戦場を観る.JPG
 改めて、眼下の決戦地を見てみると、確かに戦闘の状況がよく見えただろうと思えるロケーションです。当時は邪魔になる木を 切り倒してもっとよく見えるようにしてあったはずですし。
016小早川秀秋陣地松尾山から関ケ原を眺望.JPG
よく見ると、笹尾山の石田三成陣地がちゃんと見えます。次のズームした写真の中央にのぼりが立っています。当然向こうからも松尾山陣地が見えるはずです。当時、三成と秀秋はお互いどういう気持ちで眺めあっていたんでしょうね。
014松尾山山上から見た石田三成陣地.JPG
こちら側の小早川陣地にも大きなのぼりが立っています。
015小早川秀秋のぼり.JPG
秀秋は、三成が総攻撃を知らせる狼煙を上げても動きませんでした。家康との密約というよりも判断にあぐねて一時的に日和見を決めたのではないかと言われています。
 東軍につくと約束してしまったが、目の前の序盤の戦況を観れば西軍が押している。いま東軍側について戦っても勝てるのだろうか?・・・19歳の秀秋は相当迷ったのでしょうね。苛立った三成からの再三の催促も無視して動きません。
shozo_kobayakawa1.jpg
 気が気でなかったのは家康も同じでした。秀秋が一向に動く気配がなく、もし秀秋が西軍として参戦すれば、家康軍は鶴翼の陣に頭を突っ込んだ最悪の陣形になり、両翼からの挟撃を受けて殲滅の危機におちいります。
 焦った家康は、桃配山(ももくばりやま)にあった本陣を前方に移動し、松尾山に向けて鉄砲を撃たせ、秀秋の参戦を促しました。という説が小説やドラマなどでも一般的になっていますが、実際はどうだったのか。 歴史の逸話としてはこのほうが面白いですね。
 その続きですが、家康の威嚇射撃に仰天した秀秋はようやく東軍として参戦を決断し、山を下って大谷吉継の部隊に襲い掛かりました。兵数に劣っていても大谷隊は善戦し、秀秋の軍を何度も松尾山へ押し返すほど好く食い止めました。
 ところが、吉継とともに 小早川 の動きに備えていたはずの朽木元網をはじめとする4武将(下の図にある 赤座 小川 朽木 脇坂 )が突如東軍に寝返って横から攻撃を加えたため、大谷隊は壊滅し吉継は自刃しました。ここから一気に西軍は敗勢となっていきます。
005関ケ原合戦展開図.JPG
小早川秀秋が心の中の葛藤と戦いながら、固唾をのんで戦況を見つめていたであろう松尾山陣地。今は静寂に包まれています。標高は293メートル。ぜひ登ってみてください。JR関ケ原駅からは南西方向で少し距離がありますが、行ってみる価値はありますよ。
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Last updated  2017年06月27日 16時29分33秒
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