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おことわり:当時の記述について年月日は すべて旧暦で記載していますのでご注意ください。
西軍への参加を決意
大谷吉継は、長浜時代に豊臣秀吉に召し抱えられその側小姓から身を起こしています。秀吉をして「百万の軍勢を預けて采配を振らせてみたい男」と言わしめたほどの武将です。
徳川家康にも可愛がられており、吉継も家康を「天下人の器」と評価して、秀吉の死後は良好な関係にありました。家康が上杉討伐の軍を起こすと、これに合流すべく吉継も兵3000を率いて自領である若狭を発っています。
7月2日、通り道にある石田三成の佐和山城に寄り、蟄居していた三成と面談します。そこで「家康との関係改善のため、お主の嫡男の重家を自分の軍に加えて連れていってやるがどうか」と持ち掛けました。
ところが、三成は応じず、逆に反家康の軍を挙げたいと打ち明けたといいます。吉継は再三にわたって「内府とやっても勝てない」「お主に人はついてこない」などと、思いとどまるよう説得しましたが、どうしても三成は聞き入れません。数日間、美濃の垂井の宿で思案した結果、吉継は三成につくことを決意します。
吉継は上杉討伐軍への合流をやめ、7月14日に若狭城に戻ると、諸大名への工作を開始。7月26日に前田利長が2万5千の大軍で南下を開始すると、抱き込みに成功した丹羽長重にこれを攻撃させて加賀へ追い返しました。このため、関ケ原の合戦には前田は出てきていません。
吉継は戦う前から、水面下で多大な功績をあげていたのですね。指揮官というより、大局を見た戦略や外交交渉に長けた非常に頭の良い武将だったことが想像されます。
人気ナンバーワン
大谷吉継は今日でいうハンセン氏病に感染していたといわれています。天正年間の後半には、かなり進行していたようで、次のような逸話が伝えられています。
天正15(1587)年に大阪で開かれたある茶会の席、武将たちが濃茶を回し飲んでいました。そのうち吉継の順番になり、飲んだときに茶碗の中へ顔から膿(うみ)が落ちます。そのあとの順番にいた武将たちは気持ち悪がって飲むふりをして茶碗をまわしました。吉継としてはいたたまれない気持ちだったでしょう。
三成のところに茶碗がまわってきました。三成は膿もろともお茶をすべて飲み干します。そして、「あまり美味いので全部飲んでしまった。あとの人たちのためにもう一杯所望したい」と言って、吉継だけでなくあとの順番の武将たちの両方を救ったというものです。
実話か創作か、はっきり裏付けはないのですが、この振る舞いに感激したことが、吉継が関ケ原で勝ち目の薄い三成についた大きな理由であるという説もあるほどです。
さて、関ケ原合戦のころには吉継の病は深刻になって、視力はほとんど失われ、立ち上がることも困難になっていました。しかし、戦の勝ち負けより友情を重んじ、病に侵された身体で最後まで奮戦します。こうした特異な状況から、合戦に参加した武将の中でも人気度ではナンバーワンとされていますよね。
大谷吉継陣跡「山中村宮上」
まずは駐車場へ
関ヶ原合戦で、大谷吉継は三成の本陣の笹尾山周辺ではなく、松尾山を下ったあたりの藤川台に布陣しました。ここへは南からと北から登ることができますが、南側の若宮神社から登ってみます。まず無料駐車場へ。6台程度しか置けないので注意が必要です。
解説のプレートは、この駐車場に設置されています。
登り口は若宮神社の参道です。途中を東海道線が横切っていて、人が通れるだけの小さな踏切があります。
神社の右手の山道を200メートルくらい登っていきます。写真のように、登山道はきちんと整備されていますから、迷うことはありません。
T 字になったところがありますから、ここで右に折れて50メートルほど進むと「松尾山眺望地」という場所につきます。
松尾山眺望地
吉継は最後まで小早川秀秋に寝返りの危険を感じており、三成本陣の笹尾山周辺ではなく、あえて直線にして1.5キロ南西、笹尾山と松尾山の中間地点に当たる藤川台に陣を敷きました。ここからは松尾山の秀秋の陣地を監視できるからです。実際の眺望です。
黄色い丸の中の頂上で乳首みたいに見えるあたりが小早川秀秋の陣地です。その部分を次のズームした写真で見てみます。乳首状に見えた樹木の左下に、秀秋陣地ののぼりが見えますよね。
吉継本人はほとんど視力を失っていましたが、ここから配下の者に見張らせたのでしょうね。秀秋が東軍につく動きを見せれば対応しようという布陣です。
ここには、最近では珍しくなった記念写真用の顔出しパネルがあります。関ヶ原の中でも、こうしたパネルがあるのは吉継だけです。人気の高さでしょうか。
今度は先ほどのT字を左に進んでみます。
大谷吉継陣跡
しばらく行くと、吉継の陣地跡につきました。解説の立て札もあります。
小早川秀秋が寝返って松尾山を下ってくると、吉継は陣地から輿(こし)に乗って前線へと進出し陣頭指揮を執り、3度にわたって小早川軍を松尾山まで押し返すなど見事な奮闘を見せました。
しかし、吉継とともに小早川に備えていたはずの脇坂安治、朽木元網、小川祐忠、赤座直保が突如裏切って、大谷隊の横から攻撃してきました。 さらにここへ藤堂高虎、京極高知の軍勢まで加わったので、さしもの大谷隊も壊滅します。もはやこれまで。吉継は藤川台の奥へとって返して自刃しました。お墓に行ってみましょう。
大谷吉継墓所
陣地から北の方へ300メートルくらい入ったところに墓所があります。
2つお墓がありますが、向かって右の五輪塔が吉継、左の墓石は吉継自刃の介錯をした湯浅五助の墓です。五助については次回書きます。
墓所には「大谷吉隆」と刻まれていますが吉継のことです。一恵斎芳幾の武者絵にもこの名が使われていますが、実際にこの名前が書かれた古文書類は発見されていないらしく、なぜこの「隆」が使われているのかはわかりません。
最後に地図で大谷吉継陣地の位置を確認しておきましょう。 左端下の方の赤字で現在地となっているのが駐車場です。
なお、今回登ったのとは反対に当たる北側の登り口には藤川台の説明書きが立っていますよ。
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