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おことわり:当時の記述について年月日は すべて旧暦で記載していますのでご注意ください。
前回Vol.8では 大谷吉継について書きました。今回は関ケ原での吉継をめぐる人たちについて記述します。小早川秀秋についてはVol.2で紹介してありますので、そちらを参照ください。
脇坂安治陣地(松尾山麓)
脇坂安治は、元々は浅井長政に仕えていました。浅井家が織田信長に滅ぼされると織田家に召し抱えられ明智光秀の与力となりますが、のちに木下藤吉郎の直参の家来になりました。
賤ヶ岳の戦いでは福島正則や加藤清正らとともに武功を上げ、七本槍の一人になり3000石を与えられます。その後も手柄を重ね、朝鮮の役ののちには3万3千石の大名になっていました。
豊臣秀吉の死後は徳川家康に接近しており、 関ヶ原の戦いでは、大谷吉継とともに小早川秀秋に備える布陣の一翼を担い ますが、すでに 藤堂高虎の工作によって、最初から東軍への参加を決めていたようです。
松尾山麓の陣地跡へ
脇 坂安治の陣地は松尾山を下ったすぐのあたり、西軍の中で最も小早川陣地に近い位置にあります。現在は名神高速道路の側道から南に入った林の中です、次の写真の左上が名神高速道路。
陣地跡はひっそりとしており、他の武将のような大きいプレートはなく、小さい解説の立て札が立っていました。知名度が低いからでしょうか。
立札の写真も載せておきます。
解説にもあるように、安治は、戦前から家康側に対し、東軍につく意思表示をしていたため、戦後も所領は安堵されています。
正治とともに小早川に備えていた朽木元網、小川祐忠、赤座直保は、安治が大谷隊へ向かって攻めた時に寝返りを決断したようで、のちに減封や改易の憂き目を見たと書かれていますね。
平塚為広陣地(藤川台北)
脇坂陣地を後にし、名神高速道路の下をくぐって北側に出て前方に見える小高い台地が、大谷吉継の陣地のあった藤川台です。(奥の高い山ではなく手前の山です)その手前に見える高架は東海道新幹線です。
藤川台には南側と北側の2つの登り口があり、前回は南口から大谷吉継陣跡に登りました。平塚為広の陣地跡は北口の近くになります。
為広は、豊臣秀吉の護衛役として長年仕え、秀吉氏後には秀頼から1万2千石を与えられて美濃垂井城主となりました。
大谷吉継とも親交が深く、ともに挙兵を断念するよう三成を説得したとされます。三成が聞き入れないとみると西軍につき、吉継同様最後まで戦って討ち死にしました。
湯浅五助
大谷吉継の配下であった湯浅五助については、一家来に過ぎないことから陣地もなく、解説板もありませんが、忠義の人として名を残しています。
戦闘開始前から、吉継は五助に対し「万一負け戦となった時には、敵にわが首級を渡すな」と命じていました。吉継自刃の際には五助が介錯を務め、切り落とした首を隠すべく藤川台の奥へ入っていき穴を掘って埋めようとします。
ところが、その現場を藤堂高虎の甥藤堂高刑(たかのり)に見つかってしまいました。五助は「自分の首を差し上げるので、吉継の首のありかは黙っていてほしい」と懇願します。
高刑も武士の情けと聞き入れ、五助の首を打ち取りましたが吉継の首については、家康に詰問されても決して洩らしませんでした。この高刑の姿勢に感心した家康が褒美として槍と刀を与えたという逸話が残っています。
現在、知名度は低いのですが、江戸時代には武者絵にも残るように忠義の武人としてたたえられていた人物です。
Vol.8で紹介したように、藤川台の大谷吉継の墓の隣には五助の墓が建てられています。上記の逸話について解説の立て札にも書かれていますので再掲しておきます。
また、吉継の墓の近くに顕彰碑が建てられていますが、その碑の銘文を書いているのが藤堂家の子孫の方というのも感慨深いですね。
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