2代目タイガース非公式サイト

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2023.07.18
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背番号12(その5)

「背番号12」の5回目です 

ここまでくると先代にとってはなじみのある選手が出てくるのね 3人を紹介するけどトレードが絡んだ人たちばかりね

特に福間さんは先代が「脇役物語」で紹介してるのでそちらから再掲しますよ

深沢恵雄(よしお) 投手

深沢は山梨県巨摩郡中富町出身。山梨県立峡南高校時代にアンダースローに変えてプロ引退まで通している。

高校から社会人の日本楽器へ入社。1975(昭和50)年の都市対抗野球へ河合楽器の補強として出場し1回戦で完封勝利を挙げて注目される。その年秋のドラフト会議でタイガースの5位指名を受けたが、翌年の都市対抗が終わるまで日本楽器に在籍したため、入団契約は1976(昭和51)年。実際に登録されたのは1977(昭和52)年からだった。背番号は12。

タイガースでは4年間で69試合に登板して1勝3敗1セーブの記録が残っているが、そのうち先発は4試合。もっぱらリリーフ専門の使われ方で、能力を開花させることができないまま1981(昭和56)年のシーズン途中に、福間納との交換でロッテ・オリオンズへトレードされてしまう。

右手が地面すれすれを通過する本格的なアンダースローは美しく、打者目線では浮き上がってくるように感じるボールに勢いがあったのでトレードを惜しむ声はあった。

ロッテに移ると2年目の1982(昭和57)年から先発に起用されるようになり、この年9勝を挙げる。1983(昭和58)年には12勝、そして1984(昭和59)年はローテーションの柱として212イニングを投げて15勝8敗、防御率3 . 74のキャリアハイを記録しオールスターに出場するまでになった。

​ロッテでは8年間プレーし、50勝50敗1セーブの成績を残している。高校時代からの親友だった袴田捕手とバッテリーが組めたのも飛躍の一因だった。タイガース時代に開花してほしかった選手の一人だ。

​​福間 納 投手​​ ​

福間は1969(昭和44)年、大田高校3年時にエースとして選抜大会に出場したが初戦敗退、あまりプロからの評価もなく松下電器に入社。

都市対抗で目にとまり1970(昭和45)年のドラフト会議で阪急ブレーブス(現オリックス)から7位指名されたが拒否。松下電器に残留する。

それからも毎年のように指名拒否を続けていたが、1978(昭和53)年秋のドラフト会議でロッテ・オリオンズに1位指名されてプロ入りを決断している。ちなみに同年のロッテのドラフト3位は落合博満。二人が同期入団で、しかも福間の方が順位が上だったことはあまり知られていない。

 福間は175センチで69キロ、剛腕投手ではなく、コントロール主体の地味な感じの投手という印象だった。プロ生活12年間で、通算451試合に登板しているが、先発はわずか14試合なので、ほぼリリーフ専門といえる。

 オリオンズ時代は故障もあって1勝もできず、100メートル11秒台の俊足とバッティングセンスを生かして野手転向も検討されたが結局投手のまま泣かず飛ばずが続いた。

1981(昭和56)年のシーズン途中に、深沢恵雄との交換トレードで阪神に移籍することが転機となった。この年の監督は中西太さん、投手コーチが高橋重行さん。福間は先発が一度もなく、もっぱらショートリリーフとして使われている。背番号は深沢の着けていた「12」を継承した。
 実力を発揮したのが移籍3年目の1983(昭和58)年だ。69試合に登板したが、先発は2度だけ。残りはすべてリリーフなのに130回 2/3 を投げて規定投球回数に到達し、なんと防御率2.62でタイトルを獲得している。

前年までと違い、2イニング以上のロングリリーフを任されたことが要因だが、コントロールが良く安定していてスタミナもあった。この年はルーキー木戸克彦や助っ人ランディ・バースが加わって、優勝への足場が固まってきた年であり、福間の役割が定まった年でもある。

この年を皮切りに翌1984(昭和59)年が77試合119回 1/3 、優勝した1985(昭和60)年が58試合104回 1/3 と、3年連続で100イニングを超えている。

84年の77試合登板は、当時のセリーグ新記録で、稲尾和久のもっていた日本新記録にもあと1と迫るものだった。

 福間はその特徴として球威がある投手ではなかったため手痛い一発を浴びることがあった。最たるものは1985年、西武との日本シリーズ第4戦だろう。第3戦まで阪神の2勝1敗。王手をかけるか追いつかれるかの大事な一戦だった。

 阪神は先発の伊藤(文隆)が6回表スティーブに先制2ランを許したが、その裏、真弓のソロで1点差に。さらに8回裏には弘田の犠牲フライで同点に追いついた。

ところが、9回表二死二塁の場面で、8回からリリーフしていた福間が、途中出場の西岡に手痛い勝ち越しの2ランを浴びてしまう。9回裏を3人で抑えられた阪神は敗れ、2勝2敗に追いつかれてしまった。敗戦投手は福間である。

 ただし、根がひょうきんな性格で、物事に動じないタイプの福間は、次の第5戦ですぐさま借りを返す。この試合、阪神は初回に掛布のシリーズ1号3ランなどで4点を先行した。ところが先発の池田が3回までに2点を失うなど不安定で、4回表にはヒット2本で無死一二塁のピンチを招いてしまった。

 吉田監督はここで福間をリリーフに送り込む。辻が送って一死二三塁になると、続く石毛を敬遠して満塁策をとり、左打者の金森との勝負を選んだ。しかし、短期決戦を知り尽くした広岡監督も黙ってはいない。前日福間から2ランを打ってヒーローになった西岡を代打に送りだしてきた。
 見ているファンも「こりゃきついで」と動揺したが、そんな空気をよそに、落ち着き払った福間は西岡をショートゴロ併殺に仕留めて何事もなかったようにピンチをしのぐと、7回まで4イニングをゼロに抑える見事なロングリリーフで勝利投手になる。

 この勝利で対戦成績は阪神の3勝2敗となり、タイガースが王手をかけた。試合後、広岡監督は「捨て試合」とうそぶいたが、もう流れは阪神。この大事な一戦の大ピンチで、福間に賭けた吉田監督の采配が良い結果につながったわけだが、この年の福間にはそれだけの信頼感があったことの証明でもある。

 福間の良いところは、度胸の良さ・・・というかピンチでも飄々としているところだ。ピンチをピンチと思わせないところに魅力があり、福間が投げていると、バックのチームメートもリラックスでき、守りのリズムも好かった。

タイガースには10年在籍したが、1990(平成2)年を最後に現役を引退。プロ通算成績は451試合22勝21敗9セーブ、防御率3 . 67。実働12年で先発は14試合しかなかった。

1998(平成10)から2001(平成13)年まで4年間は阪神で、2011(平成23)年はオリックスでコーチを務めた。

古屋英夫 内野手

 古屋は1971(昭和46)年に千葉県の木更津中央高校へ入学している。 当時の千葉県の高校球界は歴史に残る全盛時代の黎明期で、1974(昭和49)年に土屋正勝(中日)がエースの銚子商、1975(昭和50)年には小川淳司(ヤクルト)がエースの習志野と2年連続で夏の大会を制覇している。
 有望選手も豊富で、1学年上には成東高校の鈴木孝政(中日)や科学技術高の森繁和(西武)、同期には習志野の掛布雅之(阪神)、1学年下には銚子商の土屋など名選手が目白押しだった。

 抜群の野球センスを持っていた古屋は1年からエースで4番。それでも甲子園に出場することはかなわなかった。

 駒澤大学に進学し3年次にサードへ転向すると、直後の春季リーグで4番を務め首位打者になっている。4年時には日米大学野球の代表に入り、ここでも4番を任されるほどの打者になっていた。

 1977(昭和52)年のドラフト会議では日本ハムから2位指名を受ける。しかし複数球団から1位を約束されていた中でのこの結果に駒大の矢野監督は納得できず、交渉は難航したが古屋はプロ入りできることで満足しており入団が決まった。

 1年目から108試合に出場し、翌年は規定打席をクリア。4年目の1981(昭和56)年には全130試合に出場すると、この年を皮切りに4年連続で全試合出場を果たし、主力選手として活躍し続けた。

 1985(昭和60)年には打率 . 300、ホームラン33本、打点96をマークして絶頂期となった。

 しかし、173センチの小柄な体でかなり無理もしてきており、1987(昭和62)年から規定打席を割るようになる。衰えが顕著になった1990(平成2)年には中島輝士がサードにコンバートされてきたためポジションを失い67試合の出場に留まった。

 球団からは引退してフロント入りを勧められたが、古屋は現役続行を希望したため自由契約選手となる。ここで手を差し伸べたのがタイガースだった。この年最下位に終わり2年目の1991(平成3)年に向けて打撃の強化を図りたい中村勝広監督の同郷ということものあったかもしれない。
 1991年は代打の切り札として働き、45打数14安打2打点、打率は . 311という数字を残している。しかし1992(平成4)年はわずか13試合の出場に留まり、17打数1安打。これでは引退せざるを得なかっただろう。

 2014年にはタイガースの二軍チーフ兼打撃コーチに就任。この時のGMがやはり中村勝広。また同郷・同学年の掛布雅之が DC に就任した年でもあった。

​​​ 2015年には二軍監督に就任し、2016年に掛布が二軍監督になるとチーフコーチとして留まり、2017年のシーズン終了後に掛布とともに退任している。

まとめ
深沢さんはタイガース時代には目が出なかったのね でも期待感のある投手だったので一部にコアなファンがいて ロッテに移ってからも川崎球場へ応援に行ってたらしいわよ
 福間さんは85年の日本一になくてはならないパーツ! ほかの投手ではなかなかマネのできないロングリリーフが可能で 試合を立て直したり 膠着状態を我慢したりするときに3~4イニング投げてくれる頼もしい存在だったようね ほぼリリーフのみで最優秀防御率のタイトルも獲ってるし見かけによらずタフだったのね
 古屋さんは日本ハムでは堂々の中心選手 珍しい「全打順本塁打」も記録してるんだよ 1番から9番まですべての打順を経験することすらほとんどないのによくホームランを打ったなあって感心しちゃう!
その6へ続く
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Last updated  2023.07.19 11:39:53
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