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背番号15の第3回目です
背番号「15」は権藤さんの引退した翌年の1974(昭和49)年は空き番でした そして1975(昭和50)年には社会人からドラフト1位で入団して5年目を迎えた谷村智啓投手が着けることになります
2023(令和5)年現在まで 背番号「15」は谷村さんを含め6人のドラフト1位が着けてるのよ しかも6人とも投手! パッと全員言える人は相当なタイガース通ね
この先順次出てくるからお楽しみに!現在の西純矢君もその一人っていうのはご存じよね?
谷村智啓 投手
谷村は兵庫県西宮市出身で高校は報徳高校。3年生だった夏の選手権では2試合連続完封勝利を記録してベスト8に進んだ好投手だった。関西学院大に進むと、リーグ戦60試合に登板し20勝25敗179奪三振、防御率1 . 67と言う成績を残す。
1970(昭和45)年は社会人鐘淵化学でプレーし都市対抗で優秀選手賞を受賞、社会人ベストナインに選ばれた。
同年のドラフト会議でタイガースが1位指名して入団、最初の背番号はエースナンバーと言われる「18」で4年間着け、1975(昭和50)年から「15」に替えて5年間着けることになる。
タイプは軟投型で踊るような投げ方が特徴。配球だけでなく投球フォームの中にも変化をつけてタイミングを外す変幻自在の投法で、打者からボールが見えにくく球威の無さをカバーしていた。
1年目は24試合に登板し、先発が5試合、リリーフが19試合。1勝2敗で防御率3 .
43と平凡だった。
2年目の1972(昭和47)年に22試合に先発して11勝11敗、防御率もセ・リーグ2位の2 . 26とブレイクし、以後1977(昭和52)年まで毎年20試合以上に先発するローテーション投手となり、1975(昭和50)年に11勝、1976(昭和51)年に12勝と活躍している。
しかし先発をしつつも毎年10~20試合程度のリリーフ登板もこなしており、その割に球団の評価は今一つだったようだ。
1978(昭和53)年~1979(昭和54)年は2年続けて1勝どまりで、1979年オフに鈴木弘規との交換で阪急ブレーブスへ移籍した。
阪急では1年目に7勝を挙げて貢献したが、2年目からの5年間で9勝しかできず、1985(昭和60)年を最後に現役を退いた。
プロ通算成績は393試合72勝82敗5セーブ、奪三振512、1489回で自責点681、防御率は4 . 12だった。
赤松一朗 投手
福井県出身で、丸岡高校から福井工業大学に進み、卒業後は電電北陸へ入社。1979(昭和54)年には13年振りに電電北陸が都市対抗本戦へ進む原動力として活躍している。
同年のドラフト会議でタイガースから2位指名を受けて入団。谷村が着けていた背番号「15」を引き継ぐ。
右サイドハンドで鋭いシュートが持ち味で、即戦力と期待されたが簡単には芽が出ず、入団から3年目まで一軍での登板は無い。この間の1982(昭和57)年のシーズン途中に、南海からタイガースにもどってきた上田次朗に「15」を譲り、「49」に変更している。
4年目の1983(昭和58)年、大洋戦でのプロ初登板のときはすでに肘に異変が起きており、初球を投げた瞬間に肘の腱が切れ、打者に向かって投げたはずのボールは三塁側タイガースベンチに直接飛び込み これで投手生命は終わった。同年で引退、プロ通算2試合0勝0敗、防御率18 .
00。
上田二郎(二郎・次朗) 投手
上田の場合、本来は次の背番号「16」で紹介したいところだが、ここまで登場番号順で進めてきているので、わずか数か月しか着けなかった「15」で紹介することになる。
和歌山県田辺市出身で南部高校から東海大学へ進む。首都大学リーグ通算では39勝5敗、奪三振393。39勝は現在もリーグ最多記録、393奪三振は当時リーグ最多だったが、のちにタイガース1位指名の益山性旭(帝京大)が450個を記録し破られる。
1969(昭和44)年のドラフト会議でタイガースが1位指名し入団。背番号は「16」。
同年は夏の甲子園で青森県の三沢高校・太田幸司投手が大フィーバーを巻き起こした年で、ドラフトの目玉もやはり太田だった。
この年のドラフト会議の1位指名順は予備抽選を行って決まる方式で競合抽選はなく、中日が1番を引き谷沢健一(早大)を指名、阪神は2番目で上田を指名している。甲子園のアイドルとなった太田も選べる状況だったが、のちの成績を見れば上田を選んだのは正解といえる。(ただし太田は最晩年にタイガースに移籍し、タイガースを最後に引退している)
見た目には力感の無いサイドハンドだが、抜群の伸びのあるストレートを投げるのが特徴で、外角カーブ・スライダーとのコンビネーションによって三振を奪う能力も高かった。
プロ1年目の1970(昭和45)年は村山実が監督に就任した年で、ルーキーながら27試合に登板している。そのうち先発が19試合で7完投2完封、9勝8敗、敗防御率2 . 99の成績だった。
1971(昭和46)年は2年目のジンクスなのか1勝6敗と低迷したものの、1972(昭和47)年はまた9勝7敗と成績を持ち直している。
1973(昭和48)年、この年は最後までリーグ優勝を争って、マジック1で迎えた中日戦に敗れ、最終戦も巨人に負けて2位に甘んじたあの年だった。上田は金田監督の信頼のもとに、なんと35試合に先発!22勝14敗で防御率2 . 22という突然変異のような活躍を演じた。
金田監督は最終戦に上田を先発させたが、勝つか引分で優勝というこの試合で3イニング持たずに33球4失点でノックアウトされてしまい試合をぶち壊した。
1974(昭和49)年からの5年間も先発ローテーションを守ったが、7勝、9勝、12勝、8勝、3勝と平凡な投手になってしまう。
ブレイザー監督が就任した1979(昭和54)年は15試合に登板するも1度も先発はなく、このオフに戦力構想から外れて、金銭トレードで南海ホークスに移籍している。
南海でも6勝6敗、5勝9敗と大きな貢献ができず、1982(昭和57)年は出番がないまま過ごしていたところにタイガースが手を差し伸べ、シーズン途中にタイガースに戻った。背番号は赤松の着けていた「15」を引きついている。
しかしタイガースに戻っても1回の先発を含む8試合の登板で1勝1敗、防御率11 .
32と言う成績で引退することになった。
通算成績は361試合92勝101敗947奪三振、1646回2/3を投げて自責点が722、防御率3.95だった。
1983(昭和58)年からはコーチとして残り、日本一となった1985(昭和60)年は二軍投手コーチとしてチームを支えていた。
1995(平成7)年からはフロント入りし、2012(平成24)年に球団本部付部長を最後に退団している。
まとめ
先代の話だと谷村さんは球威は無いけどコントロールが好くて ローテ守ってたころは毎年10勝前後が計算できる投手で重宝されたそうよ チームが低迷した1979(昭和54)年のオフにチーム再編成のために戦力外となってトレードに出されたの 写真で見るとホントに面白い投げ方してるね!
この年には谷村さんだけじゃなく 上田次朗さん 安仁屋宗八さんなど 功労者が一掃されてるわね 小津社長が就任した当時よね そして1980(昭和55)年に岡田彰布現監督が加わって日本一への土台作りが始まっていくのね
赤松さんは上位指名だったけど力不足 最後は壊れてしまっての引退で 1勝もできずに終わったのは残念ね 公式戦は2試合しか投げてないからサインの写真しかなかったわ
上田さんは有名ね 古いファンは好く知ってるとおもう 選手としてだけじゃなくコーチや球団経営面でも有能で 通算すると40年以上タイガースに在籍していたんだよ 背番号15は最後の数か月しか着けてないから「16」の写真しか残ってないようね
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