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背番号19の第5回目です
小林さんのインパクトは凄かったんだね 江川事件もさることながら移籍1年目の大活躍がタイガースファンを熱狂させたこともあって「背番号19」が一気にメジャーな番号になったし 「投手の番号」のイメージにもなりました
小林さんのあとに「19」を引き継ぐには相当な覚悟がいるだろなっておもうけど ドラフト1位ルーキーが着けます そしてそのあとの2人ももちろん投手ですよ
中西清起 投手
中西は高知県宿毛市出身で高知商業高校時代に4季連続で甲子園に出場し、1980(昭和55)年の選抜大会ではエース兼4番打者として優勝している。
中西の活躍から水島真司が「球道くん」のヒントにしたと思っていたが、漫画の「球道くん」は1977(昭和52)年から連載されており、実際はこの主人公「中西球道」にちなんで、甲子園で優勝した高知商の中西が「球道くん」の愛称で呼ばれるようになったようだ。
高校からすぐにプロ入りすることなく社会人のリッカーに進む。1981(昭和56)年の都市対抗ではベスト8に進み「若獅子賞」を受賞。
1982(昭和57)年は明治生命の補強選手、1983(昭和58)年は熊谷組の補強選手として3年連続で本大会に出場している。
1983年のドラフト会議でタイガースが1巡目で指名し入団が決まり、引退した小林繁から「19」を受け継ぐことになった。
もともと中西は「剛腕」と呼ばれるようなストレートは持っていない。カーブ、スライダー、パーム、ナックルなどの変化球を駆使したコンビネーションとコントロールで抑えていく投手だ。
ルーキーの1984(昭和59)年、6月に一軍に上がると安藤監督は先発として起用するが結果が出ないところからリリーフへ配置転換する。このシーズンは33試合(先発9)で1勝6敗、67回1 / 3を投げて自責点50、防御率5 . 35と期待を裏切った。
1985(昭和60)年、監督に復帰した吉田義男は、山本和行をストッパーに固定し、中西をセットアッパーとするダブルストッパーでシーズンをスタートさせた。
強力打線にけん引されたタイガースは優勝争いを展開するが、9月4日の中日戦で山本がアキレス腱を断裂して戦列を離れてしまう。以降、吉田監督は中西をストッパーに指名、10月16日のヤクルト戦では引分ながら優勝が決まり、中西が「胴上げ投手」になっている。この年19セーブを挙げ最優秀救援投手のタイトルも手にした。
吉田監督は引きつづき1986(昭和61)年と1987(昭和62)も中西をリリーバーとして固定しており、第2期吉田監督時代の3年間では一度も先発していない。
1988(昭和63)年には村山実が監督に就任し、この年は中西をストッパーに起用しており、46試合で15セーブを挙げている。
1989(平成元)年になると、先発陣の駒不足から中西もシーズン途中から先発に回る。34試合登板のうち18試合に先発しており10勝10敗5セーブと、初めて二けた勝利を記録している。
1990(平成2)年に初めて大きな故障を経験し、オフには右ひじのトミー・ジョン手術を受けている。
その後もチーム事情によって先発に回ったりリリーフに戻ったりの年が続いたが、1995(平成7)年になると急速に力が落ち、リリーフ専門でありながら防御率が6 . 63と極端に悪くなってしまった。
1996(平成8)年には登板数がわずか3試合、防御率9 . 82と完全に衰えてしまった。こうした状況から球団は引退してコーチに就任することを薦めたが、中西はあくまで現役にこだわり、横浜ベイスターズや福岡ダイエーホークスの入団テストを受けたが不合格となり、引退に追い込まれた。
入団から13年間の現役時代に一軍で投げなかった年はない。この間「19」を背負い続け、通算477試合に登板、63勝74敗75セーブ633奪三振、986回2 /
3を投げて自責点461、防御率4 .
21の成績を残した。
引 退後は評論家・解説者の仕事を経て、2004(平成16)年に監督に就任した岡田彰布に招かれ、一軍投手コーチとしてタイガースに復帰する。ブルペン担当でJKFを使いこなすなど2005(平成17)年のリーグ優勝にも貢献。2015(平成27)年まで一軍・二軍で投手を指導した。
川尻哲郎 投手
背番号「19」は、中西が引退した翌年の1997(平成9)には空き番となっている。そして1998(平成10)年からこの番号を受け継いだのが川尻である。
東京都中野区出身で日大二高に進むが甲子園経験はなく、亜細亜大学へ進学する。大学時代は小池秀郎や高津臣吾の陰に隠れた第三の投手で、東都大学リーグでは通算4勝しかできなかった。
社会人日産自動車に入社して1993(平成5)年にサイドスローに変えてから頭角を現し始める。この年の日本選手権では準優勝ながら「敢闘賞」を受賞、1994(平成6)年も準優勝に貢献してワールドカップ代表にも選ばれた。
1994年のドラフト会議でタイガースが川尻を4巡目に指名して入団が決まるが、最初の背番号は「41」だった。
ルーキーイヤーとなった1995(平成7)年、二軍スタートだったがいきなり4月のウェスタン月間MVPを獲得すると即昇格。4月28日のヤクルト戦で中継ぎながらプロ初登板初勝利を挙げた。
そのまま一軍に定着すると29試合(先発20)で8勝11敗、148回と規定投球回数にも到達して自責点51、防御率3 . 10という期待以上の結果を残した。
2年目の1996(平成8)年は、シーズン当初はブルペンに配置されるものの、中継ぎではいい結果が出ない状態が続いたため先発に回る。すると19試合の先発で13勝(9敗・1セーブ)を挙げ、防御率も3 . 26という活躍で、一躍エース級投手に駆け上がった。
このころはサイドハンドながらストレートが140キロを超えており、球威で押していける投手だったが、3年目くらいからスピードが落ち、変化球主体に変わっていく。
1997(平成9)年には開幕投手に抜擢されたが、脱税事件のペナルティで3週間の出場停止処分を受けるなどの影響で調子が上がらず、5勝14敗と大きく負け越し、防御率も3 . 92と低迷している。
1998(平成10)年、川尻は心機一転、背番号を「19」に変えて臨み、25試合すべてに先発で起用されて10勝5敗、防御率2 .
84と復活している。また5月26日の中日戦ではノーヒット・ノーランを達成している。
シーズンオフには日米野球でも9回一死まで0封する快投を見せ、当時、螺旋状に旋回する成分を持ったいわゆる「ジャイロボール」を投げていると大きな話題にもなっている。
ところが1999(平成11)年に野村克也監督が就任すると18試合で3勝5敗、2000(平成12)年が10勝7敗、2001(平成13)年が1勝6敗と、1年おきにしか好い成績が残せない特徴が顕著になってきた。
1勝しかできなかった2001年のオフ、川尻は突然ポスティングシステムでのメジャー行きを希望して球団と揉める。日米野球でのあわや完封で自信を持ったのだろうか?年が代わっても契約更改せず粘っていたが、星野監督が水面下で説得し1月24日に無事更改した。
しかし星野監督時代は2002年(平成14)年が5勝4敗。2003(平成15)年はリーグ優勝した年だが、川尻は登板わずか2試合で1勝1敗、日本シリーズでの出番もなく、オフには前川勝彦との交換トレードで近鉄バファローズに移籍することになった。
2004(平成16)年、近鉄に移った年は球界再編問題で翻弄され、20試合に先発したが4勝9敗と結果を残せず、シーズンが終わると近鉄球団消滅に伴う分配ドラフトにより、東北楽天ゴールデンイーグルスへ行くことになる。
2005(平成17)年はもはやお荷物扱いだったのか2試合登板に終わり0勝1敗。わずか1年で戦力外となって引退している。
通算成績は11年で227試合60勝72敗3セーブ744奪三振、1083回1 / 3で自責点439、防御率3 . 65だった。
筒井和也 投手
愛媛県伊予市出身、松山北高校から愛知学院大学へ進む。大学時代には2年時の大学選手権での8連続三振を記録。大学通算29勝4敗で防御率1 . 04の成績を残すとともに、リーグ戦で24連勝を記録するなど、三振が取れる速球派の大型サウスポーとして注目を浴びる存在となった。
2003(平成15)年のドラフト会議では自由獲得枠(逆指名1位)でタイガースに入団、川尻が着けていた「19」を引き継いでいる。
鳴り物入りで入団した筒井だったが大きく期待を裏切り、プロ入り後5年間は芽が出ていない。
2004年 1試合 1勝0敗 5回1 / 3 自責点1 防御率1 . 69
2005年 1試合 0勝0敗 3回 自責点2 防御率6 .0 0
2006年 一軍登板なし
2007年 4試合 0勝0敗 5回 自責点6 防御率10 . 80
2008年 3試合 0勝0敗 4回 自責点1 防御率2 . 25
筒井はこの間に事件も起こした。2005(平成17)年1月、兵庫県内の中国自動車道で自家用車を運転中に、100キロ制限のところを83キロオーバーの速度違反で検挙される不祥事を起こし、球団から50万円の罰金と当面の対外試合出場禁止、自動車運転の禁止という重い処分を受けている。
前年には上坂太一郎が同様の違反で神戸地裁から懲役6月、執行猶予2年の判決を受けており、度重なる不祥事に沼沢正二管理部長もけん責処分となる始末だった。
芽が出ない筒井は2009(平成21)年、背番号を「20」に変える。一応一軍のブルペンにいたものの当初は敗戦処理だった。7月にプロ初ホールドを記録したあたりからようやくエンジンがかかり、結果的にこの年45試合に登板する。
本当の意味でブレイクしたのは2012(平成24)年のことで、すでにプロ入り9年目。キャリアハイの58試合に登板して2勝1敗2セーブ18ホールド、50回46奪三振、自責点18防御率3 .
24という成績だった。
その後の2年間も39試合、28試合とそこそこ働いたが、2015(平成27)年が6試合、2016(平成28)年には1試合となって引退。
通算成績は221試合8勝6敗3セーブ29ホールド215奪三振、242回を投げて自責点104、防御率3.87である。
引退後はそのまま球団フロントに入りスカウトとして現在に至る。筒井自身が担当した選手で初めてドラフト指名されたのが2018年6位入団の湯浅京己だった。
まとめ
中西さんは好いときに入ったよね 社会人から入って1年経験したあと2年目にあの日本一に貢献できたっていうのはツイてる その年にタイトルも取ったし
先代は「甲子園で人気者にもなったけど大した投手じゃなかった」と言ってるけど運は好かったかな
以下 先代のイメージを聞いて書いてるよ
川尻さんは「19」のイメージが強いんだって というか「41」のイメージが無いみたい 活躍したころは「19」に変わってたんだろうね ノーヒットノーランやった時も「19」だしなあ
同じく筒井さんも背番号変えてるけど、この人は「19」のイメージじゃないみたいなのよ 芽が出たのは「20」に変えてからなんだって
それにしても筒井さんは湯浅君の担当スカウトだったのねえ 筒井さんにしてみたら湯浅君には「19」か「20」を継いでほしいんじゃない? でも「20」は森木君が着けてるし、藤浪さんのあと空き番になってた「19」は今シーズンからルーキーの下村投手が着けちゃったね こうなったらしばらく「65」のままでいくしかないのかな?
背番号19―6に続く
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