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背番号28(その4)
背番号28の第4回目です
ここまで「28」10名の選手が着けてるよね でも選手として活躍したのは金田正泰さんと田宮謙治郎さんぐらいかな
ただし二人とも新人の時の背番号で 金田さんが2年 田宮さんは1年しか着けてないわ そのほかの人も最長で3年と寂しい限りだった
そこで登場するのが今回登場の江夏豊さんなのよ 江夏さんは新人からトレードされるまでの9年間を「28」で通しました
大投手江夏さんはタイガースから南海ホークスそして広島東洋カープさらに日本ハムファイターズ 西武ライオンズと移籍を繰り返してるんだけど 今回は他チームに移ってからのことは省略してタイガース時代を詳しく紹介するよ
かなり長くなるけど最後までお付き合いくださいね
江夏 豊 投手
兵庫県尼崎市出身(出生地は奈良県柳生村)。本人が語るところでは、子供のころ生来右利きだったのを兄たちと野球をする中で半ば強制的に左利きにされたという。ここが「サウスポー・江夏」の原点。
中学生時代「周りの友人が皆野球部に入ったからつられるように入部した」という野球部だった。しかし入部しても一向に野球をさせてもらえずグラウンド整備と球拾いの日々にウンザリして先輩に掛け合うと、これが乱闘騒ぎに発展し退部に追い込まれる。
顧問の杉山先生も不祥事の責任を取って配置換えされ陸上部顧問になったため江夏も陸上部に移った。
杉山先生は江夏に対し「砲丸投げ」を薦めて熱心に指導すると瞬く間に記録を伸ばし、県大会優勝、近畿大会2位の成績を挙げる。本人も「オリンピックを目指す」と思っていたと回顧している。
中学卒業後はすぐに就職しようと考えていた江夏に対し、高校進学しかも「野球をやれ」と言って強く薦めたのは杉山先生。江夏も考え直して大阪学院高校へ進学して野球部に入部することになる。ここが「投手・江夏」への第一歩になった。江夏の素質を的確に見抜いた杉山先生の大ファインプレーと言えるだろう。
野球部に入ると江夏の伸びのある球をまともに捕れるキャッチャーがおらず、すぐに「1年にすごい投手がいる」と評判になる。素質にほれ込んだ塩釜監督は毎日300球の投げ込みのあと延々とランニングという過酷な練習を課して江夏を徹底的に鍛え上げた。
それでも高校2年までは全くの「ノーコン」で、3連続フォアボールで無死満塁になってから3連続三振で終わらせるというようなことがしばしばだったという。しかしポテンシャルを知っているチームメイトは「豊がいれば必ず甲子園に行ける」と考えており、3年夏は地区予選準決勝に勝ち進む。
桜塚高校の奥田敏輝との投手戦となったが3回にバント処理からのエラーで失った1点に泣き、0-1で甲子園出場を逃した。(奥田は江夏と同時にドラフト5位でタイガースに入団しており背番号13-2で紹介済み タイガース背番号史 13の2 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ )
結局江夏は高校で甲子園の土を踏むことはできなかった。しかしその能力へのプロの評価は高く1966(昭和41)年のドラフト会議で甲子園を本拠地とするタイガースの1位指名を受け入団することになる。
ドラフトでは1巡目で阪神、読売、東映、阪急の4球団が競合し、タイガースが抽選に勝っている。背番号は「1」「13」「28」を提示され「28」を選んだ。
1年目の1967(昭和42)年4月29日、甲子園での広島戦、1失点で完投勝利を挙げ、ここから6連勝を飾る。年俸は180万円だったが1勝につき20万円の出来高ボーナスが出るという契約になっており、まだ10代だったにもかかわらず勝ってはその夜に繁華街という悪い習慣がついたという。
前半戦の活躍が認められ監督推薦でオールスターにも出場したが、夏場になると勝てなくなってしまう。秋に4連勝したが12勝13敗と惜しくも負け越しに終わり、新人王は武上四郎(サンケイ)にさらわれた。
しかし42試合(先発29)に登板して230回1 / 3を投げ、両リーグ最多の225奪三振は高卒新人として驚異的な数字だろう。防御率も2 . 74(セリーグ10位)と好かった。一方でフォアボール88個はセリーグで最多だった。
高校時代に育英の鈴木啓示(のち近鉄)と対戦し、延長戦で27三振を奪われたときから「鈴木のようなカーブを身につけたい」と考えていたが、プロ入りしてからも一向に曲がらず、1年目はほぼストレートだけでこの成績を挙げている。
江夏は2年目の1968(昭和43)年が大きな転機になる。この年投手として招かれた林義一(大映や阪急で活躍した技巧派投手でノーヒットノーランも達成している)から 「ボールを綺麗に回転させる」
という基本を伝授された。意識して練習するうちに自分でもコントロールが日増しに良くなるのが分かったという。
さらに林は 「江夏君考えてみなさい。例えば人間が糸と針を持って穴を通す時、遠くではなく近くで合わせる。人間の視覚は近くに合わせている。遠くは見づらいんだ。じゃあ配球も近めより外に基本、持っていく。インコースは反対に遊び球。徹底的に外(アウトコース) …
」
と説いた。
林コーチの教え方は江夏にとって非常にわかりやすく、素直に聞き入れてひたすら右打者外角への正確なコントロールを磨きに磨く。
右打者の外角低めへのコントロールが良くなると、これが投球の軸になって面白いように勝ち星が伸び、オールスターまでの前半戦で14勝を挙げる。
同時に三振も増え、9月17日の巨人戦を前に345個となり、稲尾和久の持つシーズン353個にあと8個と迫る。この試合で4回までに毎回2個づつ三振を奪い、タイ記録となる8個目の三振は王貞治から奪った。
ところが王から奪った三振で新記録を達成したと思い込んでいた江夏は、捕手の辻から「まだタイ記録やで」と言われ絶句する。
「新記録は絶対に王さんから取りたい。取るなら王さんからしかない。」と決めていたため、次に王が打席に回るまでほかの打者から三振を奪ってはならないという「逆境」に立たされてしまったのだ。
江夏は頭の中で「打たせて取ればいい」とひらめいたが、7番の森昌彦や8番投手の高橋一三などからは三振を取ってしまいそうだ。高橋に対しては「頼むからバットに当ててくれ」と祈る思いで投げ、セカンドゴロに仕留めている。
そして8人に対し被安打1でなんとか三振を取らず、7回に王の3打席目を迎えた。両軍ベンチもスタンドのファンも「江夏は王から新記録の三振を取りにきている」ということ気が付いており、球場は静まり返って異様な雰囲気になった。
異常な雰囲気の中でも江夏は淡々と王を追い込み、最後は渾身のストレート勝負。王のバットが見事に空を切って奇跡的な新記録達成だった。これが弱冠20歳と4か月のプロ2年目、まったく恐ろしい投手だ。
この時の対戦について王は、
「変化球でかわされて三振するのは全く苦にならない。ところが真っすぐでバットをへし折られるとか、高めで空振りさせられちゃうのは一番屈辱。そういう投球を彼はしてきた。最善は尽くしたが、力負けした」 と完敗だったことを認めている。
村山は「俺は長嶋をライバルとしている、お前は王や!」と江夏をたきつけているが、江夏もお祭り男の長嶋よりストイックな王のほうを意識しており、「江夏対王」は「村山対長嶋」に匹敵する名勝負として伝統の一戦の中で繰り広げられていくことになる。
この年の江夏はさらに奪三振を積み上げ、二けた奪三振が20試合、シーズン401個という大記録を打ち立てた。こんな数字は2度と生まれないだろう。
49試合(先発37)で329回を投げ、25勝12敗で最多勝に輝き、防御率2 . 13(セリーグ3位)、しかも完投がリーグ最多の26試合、完封勝利もリーグ最多で8試合、無四球が3試合と文句のつけようがない成績を挙げて「沢村賞」を獲得、村山を押しのけてエースと呼ばれるようなった。
3年目の1969(昭和44)年は、「黄金バッテリー」の相棒である田淵幸一が入団してきたことで関西は大いに盛り上がったが、前年の疲れが残っていたことに加えて勝ち運にも恵まれず、江夏は258回1/3を投げながら15勝10敗と不本意な数字に終わっている。
しかし、防御率は1 .
81と優秀で最優秀防御率のタイトルを取った。15勝のうち7勝が完封勝利というのもすごい。

4年目の1970(昭和45)年は21勝17敗、防御率2 .
13の数字を残しているが、実は江夏にとって好い年ではなかった。
野球賭博に絡む八百長事件「黒い霧」によって球界に大騒動が起こった年であり、江夏も「暴力団関係者から高額な腕時計を受け取った」と報道されて渦中の人となってしまったからだ。
結局捜査の結果、酒の席でファンを名乗る人物から「ヤクザとは知らずにプレゼントとして受け取ったもの」と証明されて事なきを得る。
ところがなぜか球団からは10日間の謹慎を言い渡されたことで、江夏は「無実とわかったのになぜ謹慎なのか」と納得できず球団へ不信感を持つようになる。
しかも世間の噂なども収まらず、精神と身体にかなりの影響が出てしまう。進学していたとしたらまだ大学4年生の若さなのだ。
「いろんなことが重なって、もともと抱えていた心臓の病気が悪化した。謹慎明け後の7月、マウンドに立っていられないほどの動悸(どうき)に見舞われた。診断は『心室性期外収縮頻発』。百メートルを全力で走ったあとの心臓バクバクの状態が、ずっと続く。普通なら1分間に70回程度の鼓動が200回を超えた。シーズンが深まるにつれてひどくなり、動悸を抑えるニトログリセリンをいつも首からぶらさげていた。」
と本人が語っているように命に係わるような状態だった。これほどひどい状況での21勝17敗は恐ろしいくらいの数字だ。実際にオールスターでも1試合8奪三振の新記録を作っている。
そして翌1971(昭和46)年が伝説的な年になる。
7月17日のオールルター第1戦で1番から9番まですべて連続で三振に取る唯一無二の快挙をやってのけるわけだが、この年も好調だったわけではなく
防御率は2 .
39とまとめたものの
15勝14敗に終わっており勝ち星が伸びていない。
そういう中でのオールスターだった。特にファウルフライを追う田淵に「捕るな!」と言ったというのが伝説を際立たせているが実際は違うらしい。
球場全体が固唾をのんで迎えた最後の打者9番・加藤秀司(阪急)の カウント1-1からの3球目。 バックネット方向へファウルフライを打ち上げたところがクライマックス。江夏は次のように振り返っている。
「 『捕るな』ではなく『追うな』と言ったのだ。瞬間的に捕れない飛球だとわかったし、追うだけ時間の無駄。それより自分は1秒でも早く終わって、この異常なムードから逃れたい、という気持ちだった。 」
それほど球場は静まり変えって異様な雰囲気で、江夏自身も息がつまりそうで早く終わってベンチに帰りたかったからとっさに言葉が出たようだ。
続く4球目で9者連続奪三振の大記録達成。さらに振り返って前年の第2戦の5連続から始まり、この年の第3戦の1個まで、年をまたいでいるが好打者が並ぶオールスターでの15連続奪三振。もはや誰も追いつけない大記録だろう。まさに伝説だ。
1972(昭和47)年は田淵が34発を記録するなど援護もあり、江夏は23勝8敗と復活を遂げている。
しかし、この年のオフ村山監督が退任し現役も引退したことで金田正泰が正式に監督に就任すると、チーム内の不穏な空気が充満し始める。
1973(昭和48)年、チーム内の村山シンパの選手たちと金田監督はもはや修復不能な関係になる。そんな中ではあったが、長嶋らの衰えにより巨人も弱体化してきたためセリーグは大混戦状態となったが
江夏自身は好調だった。
8月30日の甲子園での中日戦では延長11回までノーヒット・ノーランを続けたが11回表を終わってもスコアは0-0のまま。その裏に打席に立つとライトへサヨナラホームランを放って大記録を達成する。延長戦での達成は50年以上を経た2024年現在でも江夏が唯一である。この試合で首位に返り咲いたタイガースはそのまま優勝に突き進むかに見えた。
10月20日、タイガースは2試合を残してマジックナンバーが1。中日戦か巨人戦のどちらかに勝てば優勝という局面を迎える。
江夏自身が語るところでは、試合前日に球団幹部に呼び出され、「これは金田監督も了解していることだが、名古屋で勝ってくれるな」という趣旨を伝えられたという。
入団7年目にして迎えた初の優勝のチャンス。それなのに・・・。江夏はテーブルをひっくり返して席を立ち「こうなったら絶対勝ってやる」と翌日のマウンドに向かった。
しかし怒りは好い影響をもたらすことはなく、江夏は木俣の9号を浴びるなど6回3失点、星野仙一に2失点完投を許してタイガースが2-4で敗れてしまう。
シーズン最終戦となった10月22日はご存じの通り、先発の上田次郎が2回途中4失点でKO。コチコチになったタイガース打線は高橋一三に完封され0-9の大敗に終わる。

怒り狂ったタイガースファンがグラウンドになだれ込んで巨人ベンチに襲いかかり胴上げを阻止するなど、収拾がつかない大騒乱による幕切れは最悪。
最終的に首位巨人から最下位広島までわずかに6 .
5ゲーム差という世紀の大混戦だった1973年のペナントレースはこうして幕を閉じたが、タイガース内部ではシーズンオフに異常な緊張が起きる。
もはや金田監督と一部選手たちとの確執は爆発寸前になっており、11月23日のファン感謝デーにおいて、同じ村山シンパの権藤正利が金田を殴打し引退表明する事件が起きたのが大きな引き金になったかもしれない。江夏は戸沢社長との面談の席上、「あの監督の下ではやれない」と直訴するに至った。
問題視した野田オーナーが「他の選手の話を聞いて判断・対処する」と意味深なコメントを述べたことから、球団納会当日の朝刊で新聞各紙が「江夏放出か?」の見出しで記事にしてしまう。
納会の席上で江夏は戸沢社長に詰め寄り、「金田監督の下で野球はできない」と繰り返すとともに「もしトレードされるなら引退する」と言い放った。
慌てた球団は「トレードの意思はない」と公にコメントして鎮静化を図るが、今度はこれを聞いた金田監督が「江夏がいると自分の目指す野球にならない」と言って辞意を表明する事態になった。
最後は周囲から説得された江夏が渋々金田に謝罪、金田も辞意を撤回する。球団は「金田も江夏も阪神に必要」と正式コメントを発表してようやく片付き、両者が残留する形となったがわだかまりはどうしようもなかった。
こうして迎えた1974(昭和49)年、金田監督と口も利かないような状態では江夏の成績も下がり、41試合で12勝14敗8セーブと低迷。ルーキー年以来2度目の負け越しで勝ち星は前年の半分だった。肩や肘の状態もよくなく、投げた試合後は箸も持てない、顔も洗えないほどだったという。
シーズンが終わって金田監督が辞任し、代わって吉田義男が新監督に就任する。この時点で球団も吉田も江夏を問題視してはいたが大きな波風は起きなかった。
1975(昭和50)年のシーズンを迎えたが江夏の状態は悪く、49試合12勝12敗6セーブ、防御率3 . 07という成績に終わる。現代であれば上出来で若手であれば昇給すらありうる数字でも、当時のエースは20勝が当たり前。メディアからは「江夏はもうだめだ」とコキ下ろされている。
シーズンが終わり11月後半から順次契約更改が始まったが江夏のところにはなかなか日程の連絡がこない。球団から全く音信不通のまま年が明けて1976(昭和51)年になってしまったがまだ連絡は無い。
1月19日になってようやく球団に呼ばれて事務所に行くと なんといきなりトレードを通告されてしまった。

もちろん江夏は自分が「問題児」という自覚はあった。けれどもトレードの要因は「吉田監督が自分の力の衰えを見抜いていた」ととらえ、いわゆる「戦力外」と判断したのだろうと述べている。
それでも「まさか阪神が自分を出す気は無いだろう」との思いもあったため相当なショックを受け、「考えさせてほしい」と退席したが、もう南海とも話がついた決定事項で、球団は淡々とトレードを正式発表してしまう。
落ち込んで悩んでいるところへ知り合いのスポーツ紙の記者から「野村克也監督が会いたがっている」との連絡が入り会食することになった。
江夏によれば、そこで野村からトレードの話や「うちに来い」という言葉もなく、野球の話に推移し、シーズン中の江夏の配球を例に、その意図をズバリ読み解くような技術談議に終始している。それがかえって野村と一緒にやってみたいという気持ちに傾くきっかけになったようだ。
こうして江夏は南海へのトレードに応じる旨を球団に伝え、パリーグという新天地へ向かって歩み出した。
大変申し訳ありませんが、この先の他球団での伝記は簡単に書ききれないため他に譲ります。ご了承くださいませ。
江夏の通算成績は829試合206勝158敗193セーブ、936四球、2987奪三振、自責点884、防御率2 . 49。
まとめ
ハイ 江夏さんはここで終了します もっと知りたい? 疲れました・・・
あの「怪物・江川卓」さんが「史上最高の投手」と言って絶賛していることでもそのすごさがわかるというものですね!
この先 南海、広島、日ハム、西武時代のことやメジャー挑戦まで書いてると何倍の内容になっていくかわかんないよ ネット上にはいろんな資料があるからこの先のことはそっちで確認してね
この先リリーフ専門に転身して「優勝請負人」と言われるまでになっていくわけだけど、」一番輝いていたのはタイガース時代! キレのある剛速球で三振に斬って取るエースの姿そのものだったんだよね
ご本人も聞かれると「タイガースの江夏です」とお答えになるそうです 自分の青春そのもなんだって
タイガースでは江夏さんが背番号「28」を投手が着ける番号に定着させたとおもって間違いないね なにしろ通算206勝のうちタイガースにいた9年間で4分の3以上に当たる159勝を挙げてます
黒い霧事件でとばっちりを受けたと言っても 日頃から飲み歩いて変な連中とも一緒に飲んだりしてたツケだよ こればっかりは「身から出た錆」
「梨下に冠を正さず」って言うけど ヤクザの飲んでるようなとこに頻繁に行ってれば「関係や付き合いがあるんじゃないか」と疑われたり誤解されても仕方ない これは今の選手たちも気を付けないといけないね
さて江夏さんのあと 背番号「28」はどう引き継がれていくのかな?もらう人はプレッシャー大変だったとおもうよ・・・今朝丸君は大丈夫かな?
背番号28―4につづく
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