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列伝3 ジーン・バッキー②
①を見てない人はまずこちらから
猛虎異人伝3 ジーン・バッキー① | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ
(4)リーグ優勝へ終盤はバッキー頼み
入団3年目、1964 ( 昭和39 ) 年は、バッキーが最高に輝いた年だ。最多勝(29勝9敗)、最優秀防御率(1.89)、沢村賞などの投手タイトルを独占し、「世紀のトレード」で抜けた小山の穴を補って余りある活躍だった。
特にリーグ優勝に果たした働きは、まさに「大黒柱」と呼ぶにふさわしい。バッキーがいなければ、絶対に優勝は有り得なかっただろう。次の月別成績を見れば一目瞭然だ。
開幕からの9連勝は球団記録。その後も1年を通じて安定したすばらしい内容である。なかでも大洋と激しいデッドヒートとなった8月~9月の防御率はすごい。この2ヶ月のバッキーは、先発・リリーフ併用で連投は当たり前という酷使に耐え、大車輪の活躍だった。特にシーズン終盤の彼は信じられないような働きをしている。
9月18日時点で首位の大洋は残り試合が6、3.5ゲーム差で2位の阪神は残り試合が7。両チームの直接対決は4試合残っていたが、9月20日の対大洋ダブルヘッダーを迎えた時、阪神は1敗すらできない状態に追い詰められていた。
(5)バッキー1人で大洋を叩き潰しリーグ優勝
9月20日の甲子園球場、まずダブルヘッダー第1試合はバッキーが先発し、期待に応えて大洋打線を1点に抑えて完投勝利を収める。
続く第2試合は、緊迫した展開となったが、1対1で迎えた8回裏、藤井の犠牲フライで阪神に勝ち越し点が入った。リードを奪った阪神は、すかさずリリーフにバッキーを投入し、そのまま逃げきって連勝、1.5ゲーム差に詰め寄った。(勝利投手=バッキー)
ところが、この年の大洋はしぶとかった。9月24日、試合のない阪神を尻目に、巨人とのダブルヘッダーに連勝。ゲーム差は2.5に開く。この時点で大洋の残り試合は、阪神との直接対決2試合のみ。一方2位の阪神は、大洋戦2試合のほかに国鉄と1試合、中日と2試合の計5試合が残っていた。
そして迎えた9月26日の甲子園。阪神は大洋との最後の直接対決であるダブルヘッダーに臨むが連勝以外に優勝の望みはない。
阪神はこの2試合で絶対に負けられない。この崖っぷちの第1試合に先発を託されたバッキーは、味方の援護もあって5対0と大洋打線を完封する。
第2試合は本間勝が先発し、2点を先行されたが村山へつないで必死の防戦。大洋の守りのミスで3対2と逆転し、9回のピンチにはまたもバッキーがリリーフして2 / 3をピシャリと抑え、阪神に勝利をもたらした。この奇跡的な連勝によって、3試合を残した阪神にマジックナンバー「2」が灯る。
これで勢いに乗った阪神は、9月29日の国鉄戦にもバッキーを先発させ、彼が期待に応えて完投勝利を飾ってマジックナンバーは「1」、ついに王手をかける。
そして翌9月30日の中日とのダブルヘッダー第1試合で、もはや戦意をなくしていた中日を大差で破ってリーグ優勝が決まったのである。グラウンドになだれ込んだ甲子園の阪神ファンは、バッキーや村山らを次々に胴上げ、興奮はいつまでも冷めなかった。
バッキーは、天王山となった大洋との2度にわたるダブルヘッダー、さらには中2日での国鉄戦と5連投し、4勝1セーブ (
当時セーブポイントはなかったが )
を挙げた。文字通りリーグ優勝は彼がもぎ取ったようなものである。
46試合(先発38)に登板して29勝9敗で最多勝、防御率1 . 89で最優秀防御率と2タイトルを獲得。投球イニング353回1 / 3もリーグ最多で奪三振200はリーグ2位、外国人として初めて「沢村賞」に選ばれたのも当然だろう。
タイガースファンとして不本意なのは、シーズンのMVPには日本新記録の55本塁打を記録した王が選ばれたことだろう。リーグ優勝などチームへの貢献度を考えればバッキーが圧倒している。真のMVPは文句なしにバッキーでなければおかしいという声が多かった。
バッキーは、南海との日本シリーズでも第2戦に先発して完投勝利。第3戦と第5戦はリリーフに回り、いずれも勝利に貢献し王手をかける。この試合に勝てば優勝という第6戦は再び先発して好投したが、南海の先発ジョー・スタンカがそれを上回るすばらしい出来で、打線がわずか2安打に完封され敗戦投手になった。
3勝3敗で迎えた第7戦、先発した村山が4回3点を取られてKOされたところでもリリーフし、無失点で石川につないでいる。しかし、阪神打線は第6戦に続いて先発してきたスタンカに散発5安打に押え込まれ、2試合連続の完封を許して、惜しくも日本選手権優勝を逃している。
(6)宿敵巨人を相手にノーヒットノーラン達成 阪神のエースに
1965 ( 昭和40 ) 年、前年のリーグ優勝の立役者となったバッキーは、開幕投手に抜擢されるなど、すっかり阪神のエースと呼ばれるまでになった。そして、この年6月には快挙をやってのける。
6月28日、甲子園での対巨人11回戦。この試合に先発したバッキーは、4回まで1四球を与えてはいたが、外野にすら打球を飛ばさせない完璧な立ち上がりを見せた。
6回に二ゴロ失策、8回には2個目の四球でランナーを出したがまったく慌てない。そして、最後まで二塁ベースを踏ませることなく抑え切って、ノーヒット・ノーランを達成したのである。
その瞬間、バッキーはマウンドで飛び跳ねて大喜び。ヒーローインタビューでは、開口一番日本語で「アリガトウゴザイマ~ス。」と答えて、トレードマークのバッキー・スマイルを振りまいた。
本人は「王、長島をナックルでタイミングを外し、うまく押さえることができた。」と自己分析しているが、来日した頃のバッキーは、直球のほかには縦のカーブ、スライダー、シュートしか投げていなかった。
おそらく1963年のフロリダ・タイガータウンでの春季キャンプのときにナックルを覚え、1年かけて決め球として磨きをかけ、1964年の29勝、そしてこの日のノーヒット・ノーランに結びつけたのだろう。この快挙で10勝目を挙げたバッキーは、その後も安定した投球内容で18勝14敗、防御率2.28の好成績でシーズンを終えている。

1966 (
昭和41 )
年も、村山との二枚看板でローテーションを守って14勝16敗。勝ち星が減ったうえに負け越しているが、当時の阪神打線の貧打による不運な敗戦が多かったことも影響しており、防御率は2 .
78と踏ん張っている。決して内容自体は悪くなかった。
1967 (
昭和42 )
年、新入団の江夏豊が加わったことでローテーションが楽になったた
め、 再び18
勝を挙げてチームの勝ち頭になっている。
上の写真は 家族と日本家屋で暮らしていたバッキーファミリー。この当時のバッキーらしさを伝えるエピソードを本間勝 氏
のコラムから拾っておく。

「私生活では実に目出たいことをやってのけた。子作り。ここでも実力?を発揮した。この件に関しては、奥さんの頑張りをたたえるべきだが、ある年の1年に子供を二人出産する離れ業にはびっくりした。この年の1月。生まれたばかりの可愛らしい赤ちゃんを連れて来日したかと思ったら、同じ年の12月にも子供が生まれたという一報が入ってきた。再び来日した時には、仲間からかなり冷やかされていたが『これは、神様からの授かりものよ』陽気な男も、この時ばかりは大いに照れまくっていたが、やることはさすがデッカイ。」 (月間タイガース2010年2月号)

ジーン・バッキー③へつづく

猛虎異人伝32 セシル・フィルダー 2025年11月07日
猛虎異人伝31 ルパート・ジョーンズ 2025年11月04日
猛虎異人伝30 マット・キーオ② 2025年11月02日